●ろんぎぬすの専用スレッド7■

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☆もとぴさんと一緒に聖書を解釈しよう☆
>462−463サン、ソウですね。勉強不足でした。
ひょっとして参考まで(^^; サンは神学校の教師ではないんでしょうか?
私は適当な答えだったので、おためごかしに補足をします。

新約聖書略解(日本基督教団出版局)概説p15では、
日本の口語訳のテキストとして用いられたものは、
ネストレ編集の「ギリシャ語新約聖書」で、
19世紀後半に原文から校訂したテキストです。

新共同訳の聖書の序文の最後に、
(2)新約聖書「ギリシア語新約聖書(修正第三版)」
(聖書協会世界連盟)とあります。

聖書辞典(新教出版社)の せいしょ聖書の欄には、
[原典と写本]・・・羊皮紙あるいはパピルス・・・紙に書かれていた。
・・・現在残されている有名な写本には、次のようなものがある。
@アレキサンドリヤ写本〈記号A〉
1628年・・・発見された。5世紀のもの。
Aヴァチカン写本〈B〉
写本の中で重要視されている・・・4世紀の作。
Bシナイ写本〈アレフ〉4世紀のもの。
Cエフライム写本〈C〉5世紀に属する。
D死海写本 1947年・・・クムラン洞穴で発見・・・。
☆もとぴさんと一緒に聖書を解釈しよう☆

新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか(大修館書店)
のp83には、新約聖書はコデックス「綴じ本」で、
「ヴァチカヌス」(ヘブライ書の後半部分、テモテ書の一と二、
テトス書、フィレモン書、黙示録が欠如している。)と、
「シナイティキュス」(新約聖書全巻、バルナバの手紙、
ヘルマスの牧者が収まっている。)であった。
ほかに、p104「ビザンチン写本」と呼ばれるグループの写本で、
エラスムスがギリシア語テキストを確定する。
黙示録22:16−21が欠如していたが、
ラテン語版をギリシア語訳にして作った。
1516年のギリシア語テキストは、
こうして出来上がって印刷屋に渡された。
またp108−110には、
300年ごろの標準テキストの大改訂があって、
三グループあったという。
(1)「アンティオキア写本」・・・「シリア写本」
(2)「アレキサンドリア写本」・・・「エジプト写本」
(3)「西方写本」・・・「コデックス・ベザエ」
以上、438−439サンのカキコの理解の助けになれば幸いだが。
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新約聖書略解(日本基督教団出版局)p86で、
マタイ21:28−32については、
異読とかテキスト違いの説明は記載されていません。

実用聖書注解(いのちのことば社)p1041で、
マタイ21:28−32については、
(兄と弟の返事が逆になる有力な異読があるが、
たとえ話のポイントは変わらない)とあります。
先にガッカリさせたが、後で思い直して喜ばせた方が、
先に天国に入るといった内容である。とあります。

新約聖書(フランシスコ会訳・中央出版社)p81で、
(7)29〜30節の読み方は写本によってまちまちである。
本訳の読み方とは反対に、・・・ている写本も多い。
また・・・と答えさせている写本も若干ある。
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新約聖書略解(日本基督教団出版局)p469で、
1コリント7:21には、
奴隷の状態から解放される機会があるなら、
これを辞退する必要はない。むしろこれを利用せよ、
と言っており、別の解釈の説明がありません。

実用聖書注解(いのちのことば社)p1247で、
1コリント7:21の後半の直訳は、
「もし、自由の身になれるのなら、むしろ用いよ」である。
新改訳は自由の身分になれ、
新共同訳は奴隷の身分のままで。とあります。
「用いよ」は「召し」にかかる。とあります。

新約聖書(フランシスコ会訳・中央出版社)p597で、
(5)多くの学者は本節の後半を本訳と正反対の意味に解し、
次のように訳出する。
すなわち、「自由に・・・むしろ奴隷の身分にとどまりなさい」
・・・(イザヤ53章参照)として主に倣うように・・・と理解する。