●ろんぎぬすの専用スレッド7■

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>410
× 国際ギデオン協会の英語に平行訳文日本語聖書は、
○ 国際ギデオン協会の英語に並行訳文日本語聖書は、

>413
> キリスト教徒にとって、
>聖餐停止は懲罰だし、礼拝堂へ入場禁止も懲罰なんだが。実質的破門だよね。
>414
> その他は、水滴付け入会式とパンとワインの飲食付の
>讃美歌・聖書研究会・会員だと思っている。

 聖書66巻の文字面だけ信じて、理屈を捏ね繰り回せばイイってもんじゃないさ。
宗教には、入会や礼拝の儀式や作法や手順とか、
建物に装飾品に衣服から道具の作り方まで、後世に教え継ぐ事が一杯ある。
 宗教を同じくする共同体には通過儀礼だってある。
誕生の祝福、成人の祝福、聖職者の祝福、結婚の祝福、葬礼の冥福などがあり、
使徒たちがユダヤ人だったとき以来の伝統的作法の引継ぎもあり、
オリーブ・オイルの塗油の儀式などはその一例だ。
正教が言うにはオイルはハーブの調合まで口伝という。
調合が儀式により違うとも言う。
 洗礼の仕方、聖餐の仕方、按手や塗油などの祝福の与え方など作法は様々だ。
それを聖書から見出す事は、まず出来ない。
外典や使徒文書には載っているが、断片的であり、
いつも、その宗教の共同体と共に生きていかないと分からない事が多い。
 どこでもソウだが、
その宗教の共同体の祝祭日の行事の参加など生活のリズムから外れたら、
その宗教の構成員から除名され棄教したに等しい。
>456 教理は、「イエスは神です」 と、聖書的に教えて・・・

 今までの もとぴサンって、
「三位一体」の教理を「辞書的」に教えてくれましたよね。
 「聖書」で使われている「単語」から、
教理の説明に必要な「用語」が生み出されるものですが、
 その「用語」を使うのは「聖書的」に可笑しいし、
使ってはイケナイわけでしょうか?
私が「便宜的」に「エホバ神」という用語を認めないように、
と言う意見への趣意返しですかね。
 キリストを信じる・信仰。→ 父と子と聖霊は信仰対象。→ イエスを信じる。
と言った風に 
もとぴサンの主張が「信仰」「信じる」とニュアンスを変えてコロコロかわる。

>362 【三位一体】  神は、「父と子と聖霊」。 
>363 私は、「三位一体」を、信仰しているわけではありません。
>364 エホバ神は、「父、子、聖霊」 (三位一体)
>379 。。。 聖書には「三位一体」という語はないのだから、「解釈」の しようがないと。。。
>394 けれども、この内容からは、あなたが何を言っているのかわからない。
>409 「三位一体の解釈、、」と、あなたが言ったのは、やっぱりヘンよ。
>423 父と子と聖霊は、神です。
>424 キリストという人格には「神性」と「人性」がある、ということなのかな?
>435 聖書に記された「キリスト」を信じる、これが私にとっての「信仰」です。
>441 それでも、「子(キリスト)」を信じるのが「信仰」であって、
>441 それは「聖霊」の助けによって、「子(キリスト)」を信仰し、「父なる神」に義と認められる、
>450 「父と子と聖霊」は、信仰の対象です。
>451 「イエスを信じる」ということは、同時に、「父なる神と聖霊を信じる」ということだと思う。 

 素朴な疑問ですけど、主の祈り(天主経)ってドウ唱えるの。
キリストへではなくて、父に呼びかけていますよね。
★ 天に居ます我等の「父」よ。願わくは「み名」の尊まれん事を。
★・・・父と子と聖霊・・・アーメン。
でしたよね。
キリスト教徒なら普段、食事や礼拝で唱えますよね。
父も子も聖霊も(三位一体の)神だという、
神へ祈りを唱えるのは信仰ではないんですかね。 
 あんまり叩きたくないんだけど。
誤魔化しでもいいから、あっ違ってた御免くらい一言ほしい。

>451 「イエスを信じる」ということは、「父なる神の愛を信じる」ことでもある。(Tヨハネ4:10)
 引用の翻訳が違いますよね。「信」という言葉が文章に入っていないんですけど、
たぶん慌ててカキコだとは思うけど。。。

【新共同訳】1ヨハ 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

【新改訳】1john- 4:10 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

【口語訳】1ヨハネ 4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、
御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
 聖書はテキストであって、教理はテキストの要約に一種の注釈を付けたようなもの。
注釈には研究に取り上げたテキストを、取り巻く周辺知識が必要なのは当然です。
古事記や日本書紀のテキストは、奈良・平安時代の日本語の古語や、
民間伝承や大和朝廷の執筆者や編集団体に関する、周辺知識が必要なのと同じです。

 2chもとぴサンの身分が仮に創価・学会員で、
福音諸派教会やエホバの証人に潜入していたにせよ、用語の使用の混乱はイケマセンよ。
日蓮聖人(にちれん・ショウにん)の聖教(ショウぎょう)や、
釈迦や聖人に反する「狂学」の「本仏」主張という使用例など見ると、
彼らは嫌がらせに忙しく、真面目に仏教を信仰していないのが分かります。

>440 「組織神学」(ヘンリー・シーセン著、聖書図書刊行会)で調べ、簡潔にまとめました。
>443 私は、21才のときプロテスタントの教会に行くまでは、(>>4の23才は、私の書き間違いです)
>宗教的には、ほぼ白紙だった。
>33才でプロの教会を離れて、それから約10年間くらいは、聖書はほとんど読まなかった。
>452 私の行っていた教会は、「クリスチャン生活辞典」によると、「福音的諸教派」に分類されていると、

 私は聖書研究の下手の横好きでモノを言っているのであって、
カトリックや正教の代表で言ってはいません。
 ネタといえば、日本イエス・キリスト教団の森山牧師の本や
聖公会の解説本やカトリック・正教の要理本に、
日本基督教団の聖書略解・いのちのことば社の聖書注解に、
新教出版社と、いのちのことば社の聖書辞典がベースですよ。
 そんなに難しい本を使ってないもん。
 聖書で使われている単語は、
ギリシア語やヘブライ・アラマイ(アラム)語の用法が解釈の基準であって、
日本語・英語・スペイン語・ラテン語など他の言語の聖書の単語は、
翻訳時の意訳と見ないとイケナイ。
 意訳には当然に、書かれた当時の背景として、
その時代のユダヤ人やギリシャ人社会の伝承や儀礼など風習や、
流行の哲学・思想を理解していないと説明できないハズである。
 長老の按手(2chのあずみさんの按手礼の単語が出たレスや
福音同盟教会らしき人物からの電子メールが発端で調べた)や
オリーブ・オイルの塗油(正教会の勉強会)や
聖餐(死海文書の宗規要覧)や洗礼(カトリックの小冊子や正教要理)や、
人間の三分性・三元論(ナグ・ハマディ文書や古代ギリシアの思想)などが、
その例だが。

 私の場合のレスでの説明や結論は、
前レスでリンクに出したグノーシスのHPや本の解説や、
ギリシャ哲学の本の本文や注釈から導き出されたものだ。
聖書辞典は理解には、あまり頼りにならなかった。