952 :
名無しさん@3周年:03/04/25 21:53
953 :
名無しさん@3周年:03/04/25 23:09
青野?はいーずーこ
شسیبشسیب
شسیبعصثخض
شسیبتضصخثقعهخشنظطیب
ضصثقهتشخسهبتص
شقهخصضثعثقخشنیتبضص
قهضصعحخقصثضقصقبصثضخحهقعض
قهخضصعقثح
شسيبش
ضصعثقغضهبشنسيتب
ضصشسيباشتلش
قثصضحقعهضص
ثقضحصقهفاشيلتنشكءئؤةرىشنتسيبض
قخضهصثعقهخضصثقعض3شيسنبتشنتيلاضش
خفهعض3خحهتبش
قض3خهفعتبيخشلتضثخقهف
Genesis 1
1 فِي الْبَدْءِ خَلَقَ اللهُ
السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضَ،
2 وَإِذْ كَانَتِ
الأَرْضُ مُشَوَّشَةً
وَمُقْفِرَةً وَتَكْتَنِفُ
الظُّلْمَةُ وَجْهَ
الْمِيَاهِ، وَإِذْ كَانَ رُوحُ
اللهِ يُرَفْرِفُ عَلَى
سَطْحِ الْمِيَاهِ،
3 أَمَرَ اللهُ :
«لِيَكُنْ نُورٌ»
. فَصَارَ نُورٌ،
958 :
名無しさん@3周年:03/04/25 23:39
???何なん?これ?
959 :
名無しさん@3周年:03/04/26 01:06
ソーセージのいちばん端っこ
961 :
名無しさん@3周年:03/04/26 21:04
なんでアラビヤ語聖書なん?原典ちゃうし
962 :
日本同盟基督教団信仰告白:03/04/26 21:17
(1) 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、
救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。
(2) 神は霊であって、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、
その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。
父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。
(3) はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、
神の意志に反逆して罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は、罪と悲惨のもとに生まれ、その思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては、神に帰ることも、また、そのみ旨に適う善行を行うこともできず、永遠の滅びに至る。
(4) 主イエスキリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊により宿り、処女マリヤより生まれた。
真の神にして真の人である。主は我らの罪を贖うために十字架にかかって死に、葬られ、三日目に甦り、永遠の生命の保証を与えられた。
主は大祭司として父なる神の右に座し、我らのために執り成したもう。
(5) 聖霊は、恵みによって、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子となしたもう。
人が義とされるのは、自分の行為によるのではない。主イエス・キリストが身代りに死んでくださったゆえに、彼を信じるただその信仰によるのである。
さらに、聖霊は、信じる我らの中に住み、我らを聖化し、我らにみ旨を行わしめ、助け主、慰め主として世の終わりまでともにあり、
我らをキリストの共同の相続人となしたもう。
(6) 教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。贖われたものはみなその肢体である。
地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、
すべての造られた者に福音を宣べ伝える。
(7) 終わりの時に、主イエス・キリストは、みからだをもって再臨し、生ける者、死せる者を審判したもう。
主は、すべてのものを新たにし、み国を父なる神に渡したもう。
964 :
名無しさん@3周年:03/05/07 12:15
旧スレはまだ利用可能
基礎鉄筋入り
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福音自由に
聖書と「教会法」の両方が規範だという
クソ教会があるらしい
「教会法」って何だ?
福音自由は聖書が唯一の規範と唱えるらしいが、「教会法」なんて
ものの存在は、あり得ないと思うが…
教会法を必要性を唱えるプロテスタント・自由教会なぞ、お笑い種だ
聖書では、教会のいろいろな問題やもめ事が出てくるが、
決め事(教会法)によってスムーズな運営を促す記事は
皆無。
むしろ教会や人間と、キリストとの関係を中心に解決を
図るように導いている箇所が多い。
京都ふ自由きょうかいでは、会員信徒は「聖書と教会法」の権威の下にある。
会員信徒は「聖書と教会法」の権威の下にある
とする「教会」はあかんな。
聖書と並列するものなぞ、あってはならない。
200年前
カトリック教会も
プロテスタントの国教会も
聖書にない規定を設けて
そぐわないものを
排除してきた。
そこで
仕方なく、聖書一本で
真の教会を目指して生まれたグループの一つに
福音自由があった。
それから200年後
京都●音自由教会は
聖書にない規定を設けて
そぐわないものを
排除してきた。
「教会法」クソ食らえ
よそのスレに載ってました。
>礼拝の始まりに、司会者が「静まって礼拝に備えましょう」
>と言っても、ガヤガヤ、ペチャクチャ。
>扉の外の受付では歓談のご様子。
>たまりかねたと見える男が一喝。やっと私語おさまり、奏楽開始。
>祈りと賛美数曲。するとガラガラ扉が開き、役員さんの「重役出勤」。
>信徒の範たる役員さん、なんとか遅れぬように来なさい。
時代の問題ではないでしょう
形式化、形骸化、ルーティーン化した礼拝や教会との
訣別から生まれたのが自由教会運動だったはずだが
歴史から学ぼうとしないのは、旧約聖書の示すイスラエル民族と重なる
「神さまへの畏れ」
というのがない
教会法など、必要ないばかりか、
あってはならない代物。
便利な決め事に頼らず、
あくまで聖書の原則はどうなのか
探る過程で、
信仰的な判断や
聖霊に導かれることや
教会内の人間関係の回復や深まりを
経験できるというものだ。
こんなことは教会法を拠り所にするグループでは
体験できないだろう。
京都
教会役員の任命式
教会学校の任命式
の場合 聖書=教会法
総会の場合 聖書<教会法
教会の信仰告白
常に聖書という俎(まないた)の上に載せるべし!
教会法
あってはならぬ!!!
願わくは、こんなイエス様の愛の教えに立ち返った教会になってほしい!!!
便利な決め事に頼らず、
あくまで聖書の原則はどうなのか
探る過程で、
信仰的な判断や
聖霊に導かれることや
教会内の人間関係の回復や深まりを
経験できるというものだ。
>こんなことは教会法を拠り所にするグループでは
>体験できないだろう。
聖書自身ではないもの(二次的なもの)を「拠り所」にすること自体、危険
一般社会での理解では
教会法という「術語」は、中世カトリック社会、国教会制度下の法律用語。
日本のプロテスタント教会、とりわけ自由教会の中で使うのは不適切。
言葉の定義を曖昧にしてきたのが、今日の神学にツケを廻している。
便利な決め事に頼らず、
あくまで聖書の原則はどうなのか
探る過程で、
信仰的な判断や
聖霊に導かれることや
教会内の人間関係の回復や深まりを
経験できるというものだ。
福音自由では、その教派形成の当初から「聖書のみ」のアイデンティティがある。
だから、最小限の信仰箇条に留めて、より闊達な信仰を認めようとしてきた流れ
(歴史)があった。
しかし、一部の教会では教会での約束事をどんどん文章化して、聖書から直接
原則的な答えを見いだそうとすることから、離れていこうとしている。
枝葉に拘泥して、聖書的な判断を放棄してしまう安易で無責任な態度が、
「教会法」に棲み付いている。愛のかけらもない、抜け殻の組織が横たわるのみ。
請う御加祷!
枝葉に拘泥して、聖書的な判断を放棄してしまう安易で無責任な態度が、
「教会法」に棲み付いている。
高橋先生追い出しの頃からきつくなってきたぞ。
礼拝に執事数名「重役出勤」そして説教、聖餐式、献金の間もお隣さんと談笑
なさってた。
ルーティーンのようだな。
執事が
みことばに対する餓え渇きも
悔い改めや新たな信仰の決意も
な〜〜んにもない
こんなのを見てると、
「バカらしくってやってられない。教会って何なの?」
と白けてしまう
今お従いしているかどうかを見抜く、子どもたちの目はごまかせない。
次の世代に対して、どう責任を取るんだ?
本来、執事たるもの、
霊的なふさわしい礼拝ができるように、
まず自分を整えて、
新来者や弱い人たちに心配りをして
礼拝を準備しなくては
いけない
のに
(以下略)
福音自由は、地域に根ざした伝道を指向しているところが少ない。残念だが。
「〜コミュニティチャペル」という教会の命名は、人を遠ざける。
そこら辺に、牧師・役員が世の中の人々の視点に立てていない、という証し。残念だ。
福音自由が、アメリカの直輸入でOKという、「文化と宣教」について不勉強。
「JLC」「YLC]という命名もその典型。残念ながら。
宣教師経験豊富な小川先生、何とか言ってくださいよ!
形骸化した礼拝
形骸化した聖餐
形骸化した宣誓
形骸化した奉仕
形骸化した賛美
それから脱しようとしたのが、福音自由のアイデンティティ
それが今や…
形骸化した礼拝(遅刻、おしゃべり、悔い改め・決意・決断なし)
形骸化した聖餐(献身のつもりもないのに陪餐)
形骸化した誓約(執事・教会学校教師・結婚)
形骸化した奉仕(いやいやながらの見栄のトラクト配布)
形骸化した賛美(歌詞も解らず口パク)
形骸化した祈祷(実質のないメモ読み上げの美辞麗句)
それから脱しようとしたのが、福音自由のアイデンティティ
「ふさわしくないままで」陪餐する、という罪が、現状を生んでいる。
本当にいい加減なんだ。
だいたい、説教できちんと「悔い改めてキリストを信じる」ことも述べず、
「ふさわしくないまま」がどんな状態なのかを、会衆に説明もせずに
ただ単に「聖餐の意味」を式文を読み上げるだけで
「今、キリストを信じる、と告白するなら、聖餐にあずかることが出来ます」
として、お茶を濁した「聖餐」は、
それこそ「キリストの血と肉とに対して、罪を犯す」ことに他ならない。
だいたい、説教できちんと「悔い改めてキリストを信じる」ことも述べず、
「ふさわしくないまま」がどんな状態なのかを、会衆に説明もせずに
ただ単に「聖餐の意味」を式文を読み上げるだけで
「今、キリストを信じる、と告白するなら、聖餐にあずかることが出来ます」
として、お茶を濁した「聖餐」は、
それこそ「キリストの血と肉とに対して、罪を犯す」ことに他ならない。
あの「礼拝遅刻おしゃべり常習」の会計担当の執事
この前も、しゃあしゃあと陪餐してた。
これを見過ごす他の執事、牧師、何を考えてるんだ!
「本当に神を畏れているのか」という
今村先生の説教も、
「カエルの面に水」か。
「礼拝遅刻おしゃべり常習」の会計担当の執事
もうおしまいだ
あとわずか
うん
あああ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。