>>132-136 バウさん、質問の意味を分かってくれてなかったみたいね。
質問のしたかも下手なので、しょうがないと思っているのだけど。
私の生天(天に生まれる)のと、解脱(輪廻から抜けて生死(しょうじ)を解くの)は意味が違う。
というのを理解してくれなかったみたいですね。
関係ないけど、正法はショウ”ボう”と読む。
アゴンシューではショウ”ほう”と間違い読みですよね。
さて話は戻りますが、
@布施の功徳は「天に生まれる」7来(三結薄れ)1来(三結断ち)不還(5結断ち)で、
A10結断ちの修行は「解脱」して阿羅漢になるのだと、私は理解しているんです。
阿羅漢には生きている今現在(現世)の私たちも「修行」すれば出来る事なわけで、
「布施」は直接には解脱ではないんですよ。境涯が落ちない結果を得るだけだと。
三悪道に落ちない事と、輪廻から解脱する事は、意味が違う。
ダライ・ラマが万年人間界に転生するように、
輪廻が万年有頂天での転生であっても、
天で執着を断つ修行しなければ、輪廻からは「解脱」できない。
人間界に戻ってこないのと、輪廻から抜け出る事は違う。と私はいっている。
解脱を、有頂天の上に仏界という特別の天国に行く事と、バウさんは勘違いしていないか?
解脱には利益とか清まるのとは別の、
物を得られる・願い事が叶う(ご利益)とか、心が清まる事(執着を離れる)とも、
別な次元の瞑想(シャマタ・ビバシャナ)とか、
悟りの智慧(漏尽通力・滅尽定)が必要な問題だ。といっているのです。
布「施」で「生天」の結「果」を得るのは私も知っています。
しかし、天に行った所で、解脱ではない。と私はいっている。
「戒」律・智「慧」・禅「定」を「修」しないと「解脱」の結「果」は得られない。と、
論蔵の一経典でも解説している。