【カルト】聖シャーベル会/リトル・ペブル【コピペ魔】

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417名無しさん@3周年
>>416

>何の為に
いうまでもなく、反キリストを受け入れやすいような精神状態にするためです。

>その心配は無いのでしょうか?
メッセージそれ自体をお読みください。
警告されているのは、デジタル・リスト・ウオッチの使用だけです。

なお、ペブルは、「デジタル時計には「それ自体として」特定の教義を人間精神に吹き込むような機能を持つマイクロチップが埋め込まれている」と主張しているのではありません。

悪魔が、デジタル時計の機能(表示やアラーム)を利用する、といっているにすぎません。

悪魔がそのように物理的手段を操作しうることについては、過去の各種の悪魔払いの記録をご覧になるとよいでしょう。
418名無しさん@3周年:03/06/18 00:29
>>417
> メッセージそれ自体をお読みください。

では、メッセージを読んであげます。
どこにしろ宗教の真贋を図るにあたり、もっとも手っ取り早い方法は、
教義の隅々を神学書を紐解いて逐一詮索するより、まず「実」を見ること
つまり不合理なことをやったり言ったりしていないか、その凡例から判断することです。

以下を見て、リトル・ペブルをカルトと思わない方は少数だと思います。
そういう方は、それぞれ個人差はあるのでしょうが、何らかの事情によってまともな判断力の麻痺している方だと思う。

(凡例)信頼の聖母:
 愛する大切な子にしてクイーンであるマリー・ダニエルよ、あなたの聖なる守護の天使に
よって啓示されたことに関してより深く理解することを望んでいます。あなたはもはや、デジ
タル腕時計をしてはなりません。機械式かあるいは電池式の文字盤のある腕時計だけを着
用しなさい。

 私がこのように言うのは、すべてのデジタル腕時計はマイトレーヤのために設計されてい
るからです。各々のデジタル腕時計は特別な衛星から特別の信号と光線を受信し、精神を
操作しサブリミナルな(潜在意識に訴える)音を出すので、どこにいてもマイトレーヤの声が
伝えられるのです。

 また、今年の6月中に、マイトレーヤの数字が見られるでしょう。その装置はマイクロ波を
通して、テレビ、ラジオを通して様々な用途に使われるでしょう。これは重要なことなのです
が、あなたがこのことを知るだけではなく、すべての子供たちも知らせなければなりません。
419名無しさん@3周年:03/06/18 00:31
(続き) デジタル腕時計は時を知る以上の目的のために発明されました。デジタル腕時計には多
くのボタンと多くの様々な機能があり、気を散らす元となります。そしてまた、すべてがそこ
にあるので、小さな子供たちは受身的にもなります。人間がしなければならないことは、ボ
タンを押すことだけであり、そうすればすべては見えるようになっているのです。ほとんどの
デジタル腕時計にはアラームと、特定の時に鳴る特別のチャイムが備わっています。

 反キリストはこれらすべての制御、音、仕掛けを用いて、脳の一部を麻痺させる信号を送
り、マイトレーヤが多用する催眠術にとてもかかりやすく、無抵抗状態にしてしまうでしょう。

 ですから甘美なる小さな大切な子供たちはもはや、デジタル腕時計を着用してはなりま
せん。デジタル腕時計はもはや安全でも信頼できるものでもないからです。どのデジタル
腕時計も、反キリストがメシアとして公に知られる時に先立って反応するようにプログラム
されているのです。

 いとしきソーンブッシュ、あなたを愛しています。あなたの霊魂の聖なる指導者として、善
き勧めの母として、あなたとともにいます。私の清らかで、母なる貞節な汚れなき御心をも
ってあなたを祝福します。†。
420名無しさん@3周年:03/06/18 11:49
>>418

あなたが引用したメッセージの中に、カトリック教会の教義と矛盾したり、あるいは悪魔に関する神学者の教説上、明白に不可能な事項が、一つでもふくまれているでしょうか。

ふくまれていないのならば、当該メッセージを根拠として、リトル・ペブルを「カトリックではない」と主張することは、できません。

当該メッセージがかりに誤謬だったとしても、せいぜい事実問題についての判断上の誤りにすぎず、教会法上の異端を構成することは、ありません。

あなたに考えていただきたいことがあります。

カトリック教会の教義、たとえば、

イエスが死んでから復活し、昇天したとか、
ミサにおいてパンが真にキリストの体となり、信徒はそれを食べるのだとかいうことは、
科学主義的・実証主義的な観点からは、「証拠」などなにもない教義です。

また、主が「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」とおっしゃったとき、
「これはひどい言葉だ。だれがこのような言葉を聞いていられようか」と言って、多くの人々が去っていきました。
主がこれらのことを教えられた当時において、このような教義が「非常識」「非合理」なものと多くの人々に受け取られたことは、明白です。
しかしそのことは、当該命題が誤謬であることを論理的に帰結しません。

同様に、デジタル時計に関する当該メッセージが多くの人々に「非常識」「非合理」に見えるとしても、そのことは当該命題が誤謬である、あるいは、反カトリック的である、ということを論理的に帰結しません。