◆■●▲○▼カトリック教徒の多くは救われていない

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193名無しさん@1周年:02/11/02 15:54

     皆さん!メジュゴリエは聖母マリア様の真実の出現地です。
          教皇様のお言葉をききましょう。

「メジュゴリエの聖母は米国を救います」(1994年米国人巡礼団へ)
「今の世界は超自然を失っています。多くの人がそれを求めて、祈り、
断食、告解を通して、メジュゴリエでそれを見出しています」(1989年
8月1日、ニリッツァ司教へ)
「私が教皇でなかったなら、巡礼者とともに働きを助けるために、メジュ
ゴリエに行っていたでしょう」(トマセク枢機卿へ)
「メジュゴリエはファチマの実現であり、継続です」(1984年3月)
「メジュゴリエに巡礼して告解するのはよいことです」(1989年3月14日、
アメリカのシルベスター・トレイニン司教へ)
「メジュゴリエで何も起きていないというのは、祈りに満ちた無数の生き
証人を否定すること」(マイケル・D・プファイファー司教へ)
「メジュゴリエは霊性の一大センターです!」(教皇ヨハネ・パウロ二世、
1990年2月24日)
「私がともにいると、メジュゴリエの人々にいいなさい。メジュゴリエを
守ってください!」(1992年6月17日、ゾブコ神父へ)
「メジュゴリエに関するすべてを認めます」(1995年2月、ボリビアのラパ
ス、アスンシオン大司教へ)

http://www.aracnet.com/~cfpw/what_does_the_church_say_about_medjugorje_.html
194名無しさん@1周年:02/11/03 00:04

195名無しさん@1周年:02/11/03 00:04
196名無しさん@1周年:02/11/06 15:03
カトリックは自力救済だから、だめだめ。
197名無しさん@1周年:02/11/06 15:11
カトリックはまったくの他力本願です。神によってしか救われませんから。
198名無しさん@1周年:02/11/06 15:15
彼らさぁ、マリアが無原罪なんていってるよ。
人間はみな罪を犯したって聖書に書いてあるのにさ。
マリアだけは違うんだって。
彼ら努力すれば自分たち人間の側から神に近づけると思ってるんだよ。
だから聖人崇拝なんかでてくるんだろうね。
カトリック教だよ。
199名無しさん@1周年:02/11/06 17:45
聖書より迷信が好きなんだカトは
200GG(Get Gocc):02/11/06 17:48
200!!ヽ(`Д´)ノ
201名無しさん@1周年:02/11/09 19:22
      これもいけるな。
202名無しさん@1周年:02/11/10 10:43

>>1ほんとに救われない過渡
203名無しさん@1周年:02/11/10 11:13
いいえ。聖母マリア様が救いへと導かれます。それが奇跡です。カトリックだけではありません。すべての民に向けて、聖ぼマリア様は心を向けられています。
204名無しさん@1周年:02/11/10 11:39
マリア様は無原罪でしょうね。そうでなければ、出現して奇跡を起こすことなどできないでしょうね。
205名無しさん@1周年:02/11/10 12:03
 マリア様が、イエス・キリストのご意向なくして勝手に出現するのだろうか?
と常々思うのであるが?
 そして、なぜ教導職を任されている時の教皇や司教クラスの者にではなく、
カトリックの分裂を予想されるような特定の末端信徒の上にお告げを下されるのか?
 カトリックの将来について、お告げの聖母なるものはどのような考えをお持ちなのか?
まったく持って不可解極まりない。まず、神の霊の恵みと力に満たされるべきは
全世界のカトリック信徒の代表であるとも言える、ペトロの後継者、教皇なのでは?
 さらに、出現のマリアがマリアなら、なぜイエス・キリストの名において事の実行
や命令をなさらないのだ?出現のマリアの主は誰なのだ?聖書によれば悪霊は
「神の名によって」という言葉を軽々と言いのける輩のようだゾ!出現のマリアは
主イエスに一致して判断や命令をなさっているのか?
参考:マルコ5章7節(フランシスコ会訳注新約聖書参照)
《「いと高き神の子イエズス、わたしをどうしようというのですか。神の御名によって
お願いします。どうかわたしを苦しめないでください。」と大声で叫んだ。》
206名無しさん@1周年:02/11/10 12:06
>>205
バチカンはメジュゴリエ巡礼を認めています。バチカンは異端ですか?
1996年8月21日、バチカン報道官、ナヴァロ・ヴァルスの声明

"The problem is if you systematically organize pilgrimages, organize
them with the bishop and the church, you are giving a canonical
sanction to the facts of Medjugorje," which the church is still in the
process of studying.
問題なのは、巡礼を組織的に編成すれば、司教と教会をもって編成すれ
ば、教会さえ調査段階のメジュゴリエの諸事実に、教会法上の認可を与
えてしまうということです。

"This is different from people going in a group who bring a priest with
them in order to go to confession," the spokesman said.
「人々が告解のために司祭を連れて団体でゆくのは別です」と報道担当官は
語った。
207名無しさん@1周年:02/11/12 18:50
>>206
うそです。バチカンは認めていません。
208名無しさん@1周年:02/11/13 19:05
うちの教会では、文句が多い人を教会役員にしてます。
たいてい、おとなしくなります。
209名無しさん@1周年:02/11/15 17:06

なるほど。。。。。
210名無しさん@1周年:02/11/16 21:10
age .
211名無しさん@1周年:02/11/19 17:10
oe
212名無しさん@1周年:02/11/22 15:13
 マリア様が、イエス・キリストのご意向なくして勝手に出現するのだろうか?
と常々思うのであるが?
 そして、なぜ教導職を任されている時の教皇や司教クラスの者にではなく、
カトリックの分裂を予想されるような特定の末端信徒の上にお告げを下されるのか?
 カトリックの将来について、お告げの聖母なるものはどのような考えをお持ちなのか?
まったく持って不可解極まりない。まず、神の霊の恵みと力に満たされるべきは
全世界のカトリック信徒の代表であるとも言える、ペトロの後継者、教皇なのでは?
 さらに、出現のマリアがマリアなら、なぜイエス・キリストの名において事の実行
や命令をなさらないのだ?出現のマリアの主は誰なのだ?聖書によれば悪霊は
「神の名によって」という言葉を軽々と言いのける輩のようだゾ!出現のマリアは
主イエスに一致して判断や命令をなさっているのか?
参考:マルコ5章7節(フランシスコ会訳注新約聖書参照)
《「いと高き神の子イエズス、わたしをどうしようというのですか。神の御名によって
お願いします。どうかわたしを苦しめないでください。」と大声で叫んだ。》
213アーメン:02/11/22 18:52
異端者の処刑は4世紀に始まり、1022年にオレアンで、大々的に行われたが、1231年の教皇勅令により、異端者は火刑に処せられることになった。
異端審問で、なによりも残酷だったのは、自白を引き出す方法だった。
いわゆる拷問部屋である。1252年に教皇インノケンティウス4世が、拷問を認めて以来、教会は必要とあらば拷問を行うことを許され、1917年に「現行教会法典」(Codex Juris Canonici)が施行されるまで続いた。
インノケンティウス4世は、自白を引き出すためなら、審問官は被告人を好きなだけ拷問してもよいとした。
214アーメン:02/11/22 18:53
審問官は、教皇のお墨付きをもらい、拷問の醍醐味をたっぷりと味わった。
審問官はまるで死神のようり、頭巾のついた黒いマントにすっぽりと身を包み、ほとんどすべての被告人から自白を引き出した。
手足を少しずつ切断したり、体の関節を外したりして苦痛を与えるさまざまな刑具が考案された。
こうした刑具には、「栄光は神だけのもの」という銘文がたいてい彫りこまれていた。
ラードやグリースを身体に塗りたくり、じわじわと火であぶることもあった。
蛇がうじゃうじゃいる穴に被告人を突き落とし、生き埋めにするというのもあった。
特にひどいのは、ネズミを使った拷問だった。
被告人のむきだしの腹の上で、ネズミを山盛りにした大皿をひっくり返し、皿に火をつける。
すると、ネズミはパニック状態となり、被告人の腹の中に逃げ込もうと、穴を掘るのである。
それでも、この苦痛に耐え、自白をしなかった者は、生きたまま火あぶりにされた。
集団で火刑に処されることも多く、それを「アウト・ダフェ」(auto-dafe)と呼んだ。
215名無しさん@1周年:02/11/22 19:46
age
216名無しさん@1周年:02/11/22 20:17
カトリックだけでなく、キリスト教徒はみんな救われちゃいないさ。
精神病者だからな。
精神病の治療は、まずは自分を病人だと認識することさ。
キリスト教も罪人であることを認識することから始まるのさ。
同じことに過ぎないよ。それ程度で救われてるだなんて、まだまださ。
神道や仏教のほうがよっぽどましだよ。
217:02/11/23 11:44
218名無しさん@1周年:02/11/23 17:15
sage
219名無しさん@1周年:02/11/23 18:17
誤謬どころか、凶悪な犯罪を無限(なほど)に行なわせておいて、
それを誤魔化すために「あれは“使徒座宣言”ではなかった」などと詭弁する。言葉をどこまで恣意的に使い、言葉をどれほど侮れば気が済むのか?
幼児性愛者をまともに処罰しないほど身内には甘く、信徒や神父が“交霊所”のようなところに通ったり、あまつさえ経営していてもいまや咎められもしない。
これらが聖書的にはどれほどひどい行為か、そんな事はどうでも良いらしい。

もはや信仰の廃墟と化している。信仰の廃墟には“汚れた霊”が住み着くものだ。
220名無しさん@1周年:02/11/23 18:21
220
221名無しさん@1周年:02/11/23 18:21
221
222名無しさん@1周年:02/11/23 18:21
222
223名無しさん@1周年:02/11/23 18:35
>>219聖書的というより新約的には君達の考え方も
間違っていることは明らかだな。お気の毒。
224:02/11/24 01:10
異端者と戦うために、1188年、法王クレメンス3世は、ヴェロナ公会議を招集し、人類最悪の犯罪組織、異端審問所を創設した。
異端審問所の審問官を務めるドミニコ会修道士は、たいてい性的不能の老人で、犯してもいない異端の罪を告白させるために、無実の若い男女を拷問して、性器を損壊することにサディスティックな喜びを見出していた。
男は、睾丸を縛られて吊るされ、しまいに睾丸を切り落とされたし、女は真っ赤に焼けた鉄の棒を膣と肛門に突っ込まれた。
被疑者は、両手首を後ろ手に縛り上げた紐で宙吊りにされ、腕と肩の関節を外された。
手足を巻き上げ機で、それぞれ反対方向に引っ張られて、関節を外されることもあった。
落馬責めは、犠牲者を高々と吊り上げておいて、石床に落とし、腕や足を骨折させるというものだった。
また水責めというのもあって、犠牲者に膨大な量の水を飲ませ、しまいに窒息させる拷問だった。
被疑者の鼻や耳をそいだり、真っ赤に焼けた鉄の棒で、目を焼くことなど日常茶飯事だった。
225名無しさん@1周年:02/11/25 18:39
あげ〜
■■■■■■カトリックをやめよう!◆◆◆◆◆◆
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1031490388/l50

============ このスレッドは終了しました。 ===============

227名無しさん@1周年:02/11/26 17:55
カトリック教徒の多くは救われていない、ことを証することと、
やめるよう、すすめることは違うからね。
重複しないんだよ。
228名無しさん@1周年:02/11/26 18:22
いいわけがましいヤシだな。常識的にいって重複だよ。
229ふぁんだ君 ◆FArWqKQ/1. :02/11/26 18:23
>>228

取り敢えず、削除依頼だしてくれば?

230名無しさん@1周年:02/11/26 18:27
>>229
その必要はないよ。

カトリック教徒の多くは救われていない、ことを証することと、
やめるよう、すすめることは違うからね。
重複しないんだよ。
231名無しさん@1周年:02/11/29 16:11
>>229
nisemononofuanndakun?

232名無しさん@1周年:02/12/03 15:42
>>226
カトリック教徒の多くは救われていない、ことを証することと、
やめるよう、すすめることは違うからね。
重複しないんだよ。
233名無しさん@1周年:02/12/06 21:54
>>232
まぁね。
234名無しさん@1周年:02/12/10 16:23
「救われた」という自覚がないカトリック教徒と、
「救われるべき」罪などないのたまうトンデモリベラルは
互いに対極に位置するように見えながら実は。。。。略)
235名無しさん@1周年:02/12/17 13:48
どうるい
236名無しさん@1周年:02/12/20 15:20
カトリック教徒の方々に申し上げたいこと。
それは。。。「祈り」とは聖像をつうじて主の御姿のイメージを、
脳裏に焼き付けそれにすがるような感情に浸ることではないということ。
御言葉によって。。。「言葉」により主と交わることが「祈り」なのです。
237名無しさん@1周年:02/12/23 17:05
>>236言葉によりのみと考え方法は実は正統とは言えません。
言葉だけではなく、主はいろいろな表現を認められているのです。
新約聖書をもう一度見直してください。主が心を留められた方たちを・・・。
彼らは様々な方法で主に向かいました。
祈りの表現は言葉だけではありません。口先であってはなりません。

カトリックの方々はそのような世俗的には弱く小さな人たちを、
キリスト信者の見本とし、様々な形で記念・記憶しているのです。
カトリック信者の先人には、主流のユダヤ人からさげすまれていた
ユダヤ人たちや異教出身者たちが多くいたのです。

それは主の言葉によってでありましたが、
人が信仰を表すのは言葉だけではないのです。
プロテスタントは言葉だけを述べ、
言葉だけを守る人たちの集まりにしてはなりません。
そのような人にイエスは常に警告を与えておられました。
238名無しさん@1周年:02/12/23 17:16
>>236 の意見に賛成です。
239名無しさん@1周年:02/12/23 20:14
言葉ばかりに頼ると、言葉が通じないところに宣教出来ない罠。

神のことばは叡知。単なる「言語」ではない。
ラテン語の聖書に訳されたときの言葉により、言語的要素が強く受け止められているが
ギリシャ語のLOGOSはそのようなものに限っていない。

伝達手段には言語だけではない手段がある。
言語のみに頼れば、言語を共有出来ないものを阻害することに繋がる。
世界宗教として発達した理由は言語のみの手段だけではない手段を用いたからである。

カトリックや正教会は「賛美」を「言語」のみに限定しない。
祈りを「言語」のみに限定しない。
神によって生きることそのものもまた賛美の言語である。
240匿名:02/12/24 04:23
私はカトリックですが、プロテスタントの方々の批判には耳を傾ける価値があると思います。
人間の集まりである教会は、いつも間違いを起こす可能性があり、過去に間違いを犯した歴史もあります。

一般的に言って、プロテスタントの方々は、批判をすることや、裁くことが、カトリックの人々よりも、上手で得意なのだと
思います。だから、プロテスタント内部でも、お互いに批判しあい、裁きあってきた歴史的事実によって、ほとんど無数の
教団が存在し、いまも、どんどん、小さい教団が生まれつつあるのだと思います。批判や裁きは、分裂の結果になって
しまうのです。これは、自己絶対思想が陥りやすい問題点です。ナザレのイエスは「裁くな」と教えました。

カトリックも、充分すぎるぐらい、裁いてきた歴史があります。プロテスタントだけが裁いてきたわけではありません。
プロテスタントの教団にとっては、カトリックは「先輩」にあたりますが、「裁く」ことにかけてもカトリックはプロテスタントの
「先輩」だったのは歴史的事実です。そのカトリックが、その長〜い「裁き」の歴史がありながら、今も、キリスト教の
世界で最大の教団として(比較的)一つにまとまっているのは、カトリックは「赦し」の宗教でもあるからです。
罪人も、その罪を悪かったと反省し、赦しを請うことによって、神の限りない愛によってどんな罪科も赦されるのです。

そういう意味で、カトリックは、度量の大きい、懐の深い、教団で、そのことが、カトリック教会の信徒にとっては、
非常に安心できるのです。カトリックの一員になって、その実情を知れば知るほど、カトリックは一枚岩ではないと
思います。それだけ自由の範囲が広いような印象を受けます。

過去の間違いを、認めるだけの勇気もあるのです。裁くのが好きな方々はプロテスタントでいらして下さい。
裁くのが好きではなく、裁かれるのも好きではなければ、カトリックが良いと思いますよ。
241名無しさん@1周年:02/12/24 04:51
>>236
プロテスタントって考え方が原始的ですね。まるで原始仏教みたい。
釈迦を法輪や仏足で表せば偶像にならないという気休めに似てるね。
実際に聖像を造ってそれを通さなくても、頭に形を思い浮かべるでしょ。
造ることが偶像なら、思い浮かべるだけでも偶像だよ。
実際に像を造らなくても、誤った定義の神を思い浮かべれば本質的な偶像になる。
例えば三位一体を否定するとかね。
聖像を通すのも信条の物理的依存には代わりないが、
その聖像をことさら否定するというのも信条の物理的依存と言えるね。
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ