仏  典  捏  造

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152名無しさん@1周年
釈尊のあとにもおそらく仏陀は出現したのでしょう。
ただし釈尊が極度に神格化されていたために世間には認められなかったと思われる。
在家から仏陀が出現しても不思議ではない。
維摩経などはその類かもね。
かつては大乗にも小乗にも多数のセクトが存在していたのでしょう。
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」とか、
「弥勒菩薩が56億7千万年語に成道する」
の類は高度に釈尊を崇拝し神格化させた、ある大乗の一派の説に過ぎない。
また末法思想も元来は一部の大乗の一派の説に過ぎない。
だからこの理屈からいけば釈尊滅後に出現した仏陀が経を説いても問題ない。
日蓮さんなどもたてまえはともかく、本音は自分を仏陀とおもっていたかもね。
道元さんは仏陀まで達していないようだ。
法然、親鸞さんは「等覚」で仏陀の一歩だけ手前、という建前だけど、
本当は仏陀なのかもね。
「さとり」と才覚は異なる。仏陀なら同時に兼ね備えているはず、というのは誤解。
釈尊は両方とも兼ね備えていた人格者だったから高度に神格化されていったのでしょう。
ただし、現代で自分は仏覚を成就した、と宣言している人々のなかで
釈尊に並列、または超えていると認めうるものはいないね。
麻原などは典型例だが山口修○なども違う。