http://homepage2.nifty.com/gloria/howard.htm フィリピンの平和大使 ハワード・ディ(Howard Dee)氏による講話から
「一人の信者の証言」1998年 第2回アムステルダム世界祈祷大会にて
それでは、1981年からはじめる事にしましょう。私はファティマについての本を執筆中でした。その年の5月13日、ファティマで最初の御出現があったちょうどその日に、教皇様が射撃されるという事件が起こりました。
この事件が偶然の出来事ではないこと、ファティマのメッセージが今後教皇ヨハネ・パウロ二世の人生に大いに関わり始め、中心的役割を果たすであろうことを、私は心のうちに理解しました。
あの時、私はどれほど教皇様にお目にかかりたいと強く望んだ事でしょう。
5年後の1986年、フィリピンでは聖母マリアの大いなる勝利によって終結した劇的な出来事の最中に、マリア・コラゾン・アキノ氏がフィリピン共和国の大統領として告示されました。
5月13日、アキノ氏は、私をバチカン聖座のフィリピン大使に任命なさいました。私は聖母からある使命を受けた事をはっきりと自覚しました。ただ、それがいったいどんな使命なのかを正確に把握する事はできなかったのです。
聖母の誕生日(9月8日)の前日、私は私の受けた辞令を教皇様にお届け致しました。
こうして教皇様にお会いしたいという私の望みを、聖母は聖母にしかお出来にならない 素晴らしい方法でかなえてくださったのです。
私はフィリピンでの出来事を教皇様に説明しました。それは、司教方の呼びかけによって「フィリピンにおけるマリア年」を定めた最中に、聖母の執り成しによって我が国の民主主義が再び修復されたということでした。
教皇様は大変注意深く耳を傾けられ、そして肯かれると「マリア年…」と繰り返されました。
ご自分のほうからは、ファティマの聖母が1981年にどのようにして教皇様の命を救われたかについて物語られました。
1988年、新年の教皇執式ミサにおいて、教皇様が全世界の教会に対してマリア年を呼びかけられた時の私の驚きを、皆さんは想像することが出来るでしょうか?
教皇様は、フィリピンにおけるマリア年中に起こった出来事にインスピレーションを得てマリア年を定められたと、オッサヴァトーレ・ロマーノは伝えています。
こうして聖母は、隠されていた私の使命を遂行なさいました。
教皇様の使徒的著作である「Tertio Millennio Adveniente」(期待の三千年期)において、教皇様は東ヨーロッパのマリア年に起きた素晴らしい出来事を聖母に帰しておいでです。
教皇さまは、この出来事が「広大な範囲に及び、目を見張る迅速さで起こったことは、常に驚きを覚える」とおっしゃいました。
しかし、これは単に「大聖年の2000年におこるであろう」偉大な勝利の序幕にすぎないとも言われておいでです。
教皇様は、私達が「すべての民への福音宣教の幕開けとなった聖霊の降臨を待ち望みながら、イエズスの御母、マリアと共に祈りに深く潜心した」最初の聖霊降臨の使徒たちの模範に倣うようにと薦められます。
「すべての民の御母」が約束された第二の聖霊降臨を、教皇様は待ち望まれているのでしょうか?
私は日本の秋田を通して「すべての民の婦人(御母)」を知りました。秋田では木彫りの「すべての民の御母」が人間の涙を流しました。また、人間の汗、人間の血液も流したのです。
聖母はいくつかのメッセージをお与えになりました。
三番目のメッセージは1973年10月13日、ファティマで太陽の奇跡が起こった記念すべき日に与えられました。「すべての民の御母」がすでにアムステルダムにおいてなさったように、聖母は秋田においても人類の火による懲罰について警告なさいました。
また、教会内部の分裂についても預言なさいました。
ファティマ、アムルテルダム、そして秋田の三つのメッセージは互いに深く結びついており、三千年期に入ろうとする人類に対する運命を導かなければならないものです。
ファティマでの御出現は1917年に起こりました。28年後の1945年に「すべての民の御母」はアムステルダムにおいでになりました。
そしてまた28年後の1973年に秋田で御出現なさいました。さらに28年を加えると、三千年期の始まりの年、2001年になります。
今はすでに天国においでの秋田のヨハネ伊藤前司教は、生前、書簡によって、教皇様に秋田での出来事を報告し、伊藤司教が司祭職上取るべき措置をヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の判断に委ねた旨、私に知らせてくださいました。
伊藤司教ご自身にとって、秋田がファティマの続きであることは明白でした。また、ラッツィンガー枢機卿は、この二つのメッセージは本質的に同じものであると、私に個人的に確証なさいました。
伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実である事を証明するものだと考えておいででした。
そして彼は「共贖者、仲介者、執りなし手」という称号を確固と擁護なさいました。仮に、アムステルダムのメッセージが本物でないならば、天は秋田で奇跡を起こさなかったでしょう。
なぜなら、秋田の聖母のご像は「すべての民の御母」を模したものだからです。
アムステルダムのメッセージが真実ならば、「すべての民の御母」が「共贖者、仲介者、執りなし手」のドグマを告知するようにとの要求もまた真実であります。
なぜ、この真実の告知を抑圧するのでしょうか?
私は、平和推進の仕事において、「すべての民の御母」から個人的にたくさんの恩寵を頂いています。
聖母の執り成しによって、我が政府はオランダ在住のフィリピン共産党の指導者らと、四つの協定のうちの、ひとつ目を結びました。
「すべての民の御母」のドグマが告知されたならば、決定的な平和が訪れるであろうことを、私はつゆとも疑いません。
二度目の聖霊降臨を通して、私達のうちで燃える聖霊の火とともに、私たちは世に蔓延する暗闇を追い払い、世界の面(おもて)を新しくすることができるのです。
聖霊、来てください! 聖母の勝利のうちに来てください。アーメン
http://homepage2.nifty.com/gloria/howard.htm
590 :伊藤司教とアムステルダム :04/03/19 01:35
≪秋田―アムステルダム 内容に関する関連性≫
当時の新潟教区長の伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実のものであることを証明するものであると確信されていました。
そのため、1988年6月24日、伊藤司教はアムステルダムの小さな「ご出現のチャペル」を訪問され、そこでラテン語と日本語によるミサ(写真32)を捧げられたのです。
そのミサには幻視者のイーダ・ペアデマンも与り(写真33)ました。
続いて、伊藤司教は、公認された秋田の超自然的な出来事を通して、天はアムステルダムのご出現の真実性を保証することをお望みであるという、ご自身の深い確信を言葉にされました。
そのことを、伊藤司教の親友であり、バチカンのフィリピン前平和大使ハワード・ディー氏は、1998年に行なわれた「第2回アムステルダム国際祈りの日」で次のように証言しています。
「伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実である事を証明するものだと確信しておられました。
そして司教さまは、聖母の『共贖者・仲介者・執りなし手』という称号を確固と擁護なさいました。
もしアムステルダムのメッセージが本物でなかったとしたならば、天は秋田での奇跡を容認しなかったでしょう。
なぜなら、涙を流し、血を流した秋田の聖母のご像は『すべての民の御母』を模したものだからです。」
秋田において、聖母は心をうつメッセージをも世界中の人々にお与えになりました。
今皆さんがお聞きになったように、秋田のご像はアムステルダムのご絵を忠実に模したものであるのですから、世界平和にとって非常に重要な「秋田の聖母」の言葉を、聖母を称えての祈りの日である今日、皆さんにお聞かせしないわけには参りません。
http://homepage2.nifty.com/gloria/2002koeln.htm