「大罪」と「聖霊を汚す罪」に関するTLIG の新教理
―TLIG に反対するものは永遠の裁きに合う―
http://mypage.bluewin.ch/cafarus/tligmortalsin.htm(全訳)
TLIG にみるかなり否定的な要素の中で、もっとも支配的なのが、大罪と聖霊を汚す罪に関する教えです。これを説明するために二つの抜粋を引用します。はじめに、「父なる神」が言ったとされるヴァッスーラへの最近のお告げから。
「私の声を打ち消すのは大罪である」「彼らの行為は私を喜ばせない。彼らは全人類の敵になっているからである。私の選んだ者たちが私のみ心を民に伝え私の家を立て直すのを邪魔するからである」(9/28/2000 www.tlig.org/msg/vasb1060.html)
TLIG の用語では「私の声」とはTLIG のことで、「私の選んだ者たち」とはヴァッスーラとその追随者を意味します。
TLIG を批判しその正当性を信じない人たちに言及した書簡の中で、ヴァッスーラは書いています。「神の慈しみの呼びかけを堂々と迫害しそれを悪とさえ呼び、泥を投げつける者は、そうすることによって聖霊を汚す罪を犯し、許されざる罪を犯しているのです」
TLIG の用語では「神の慈しみの呼びかけ」とはお告げをさします。
ヴァッスーラはキリストが言ったという言葉を引用します。「神の義が彼らを地獄に突き落とすであろう」(1/10/2002の書簡。www.tlig.org/forum/forum452.html)
この問題について私たちに宛てた公開書簡の中で、ヴァッスーラは、次のように説明しています。
「神の慈しみから出てくるよい働きを悪と呼ぶならそれは大罪です」
「神の働きを悪と裁きそれを迫害し、呪い、非難し、惑わしの霊の仕業にすることを義務と考えるなら、聖霊に対する冒涜になります。ですからこのような人は冒涜を犯しているのです。聖霊に発する聖なる働きであるものを悪呼ばわりするからです」
「私的啓示、予言啓示を信じずに放置しているというなら話は別です。彼らは裁いていないので大罪は犯していませんが、聖なるものを故意に悪と呼び、神の慈しみの働きを迫害すれば大罪になります」(www.tlig.org/forum/forum498.html)
ヴァッスーラは自分の意見を支えるために、聖シメオン、大聖ヴェルギリウスなどの聖人の著作を、マリア・ワルトルタのような疑わしい著作からの抜粋と並べて引用しています。(1)
「神の慈しみの働き」がTLIG のお告げを意味していなければヴァッスーラの言葉に部分的には同意できます。また、十字架の聖ヨハネの見解を思い出す人もいるでしょう。
十字架の聖ヨハネは超常体験はその反対が証明できなければ神からのものではないと考えよと進言しています。これは教会博士の言葉です。
メッセージの教えを要約するとこうなります。TLIG の真実性を信じないのはかまわないが、TLIG に反対意見を述べたり、その真実性に対立する議論をし、その宣伝を邪魔すれば、聖霊に逆らう罪を犯すというのです。
さらに、「お告げに反対するどんなことも悪魔の仕業であり、それを批判する、あるいはどんな出現でも批判する者は、たとえ、教会権威者であっても聖なるものとは言えない」と言っています。
聖霊を汚す罪と大罪に関する教会の定義
公教要理(CCC)は、福音書がイエス・キリストにおける罪人への神の慈しみの啓示であることを前提に、罪についての条文を開始しています。1857の条文では罪が大罪になる必要条件を3つ明記しています。
それはイエスの金持ちの青年に対する答えにより、十戒のひとつにそむく罪でなければなりません(マテオ十19)。知りつつ犯すならば罪であることを自覚すべきです。真面目な改悛がなければ、大罪は永遠の死をもたらします。
聖霊を汚す罪に関しては、神の慈しみを故意に拒否し、罪を悔いることを拒み、救いを拒むことと定義されています(CCC1864)。この罪は許されず永遠の呪いを招くので特に深刻です(マテオ12:31)。
ところが、これらの罪に対するTLIG の定義は、お告げに堂々と反対する者すべてを含むように変えられているのです。
それは、お告げが神からのものであると最初から宣言している(信仰教理聖省の判断ともギリシャ正教会の判断とも矛盾します)からです。それで、お告げに反対する者は、自動的に神と救いに反対していることにされるのです。
ここで福音書にある偽預言者と偽キリストについての警告を思い出しましょう。「そのとき、誰かが『見よ、ここにキリストがいる』、『あそこにいる』と言っても信じるな。
偽キリストや、偽預言者が起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする」(マテオ24:23-24)、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わす」(24:5)とイエス様はおっしゃっています。
教会はこの警告を真剣に受け止めています。事実、私的啓示と出現は信仰箇条ではなく、カトリック信徒は信じない権利をもっています(CCC67)。
さらに、教会はすでに私的啓示についての否定的声明文を出している(TLIG のこと)のですから、信徒はそれを読まず、本物に見せかけて宣伝してはならない倫理的責任を有するのです。
TLIG の宣伝者はみな、この事実を見過ごして否定さえしています。それはTLIG の「イエス」が、このお告げを全世界に広めて知らしめるよう執拗に求めているからです。それがキリスト教会に従わないことを意味してもです。
聖マルガリータ・マリア・アラコクに告げられた、天主のみ言葉からどんなに離れていることでしょう。
「長上の命じることをすしなければならないだけではなく、長上の同意なくして私が命じるどんなこともしないように願います。私は従順を愛します。それなくして誰も私を喜ばせることはできません」と主はマルガリータにおっしゃいました。
大罪と聖霊を汚す罪に関するTLIG の教えの誤りは、福音書と教会に従順でありたいと願う人々をまさしく咎めるために新しい教理を作り上げていることにあるのです。
TLIG の小細工
TLIG が福音書と罪に関する教えを変更することには二つの利点があります。
1、メッセージに反対するのは受け容れられないし、疑うのは悪霊の誘惑の犠牲者になっているしるしだと信者に思わせる。これは離反を防止する強力な道具になります。それで、救いに至る最善の道はTLIG だと信者は確信するようになります。
2、TLIG に反対する多くの人は善良なクリスチャンであり、司祭であり、司教であり、TILGに深入りしている肉親や友人を心配しているにすぎません。
彼らを極悪人のように責めることによって、TLIG 信者は自動的にTLIG の読者の前で、すべての信頼を失い、同情されるだけの存在になっているのです。
時には家族や教区、同じ信仰を分かち合い、同じ教会に属する信徒を分裂させます。お告げの論理的な教えが悪い実を結んでいる証拠がここにあります。
一番心配になるのは、統一教会やエホバの証人のようなカルトでこのような小細工が行われているということです。多くの人が声を上げてお告げに潜む危険に警鐘を鳴らすよう危機感を感じている理由がここにあります。それは教会の警告に基づくものです。
ヴァッスーラは自分もお告げも裁かれることを許さないのに、「大罪人、聖霊を汚す罪人」と他を裁くことは悪いとは思わないのです。自分をシエナの聖カテリナや聖パードレ・ピオになぞらえますが、教会に従順だった彼らの徳に倣おうとしません。
それどころか、お告げに関する教会の勧告に背くよう信者を奨励することをまったく悪いこととは考えていないのです。このようなことはすべて拒否すべきことがらです。
マリア