聖母マリアについて語りましょう。

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209或無教会派信徒
福音派は内村鑑三の爪のアカでも煎じて飲みなさい。
「私は今、無教会の信者である。しかしながら、もし教会に入るとするならば、私はローマ・カトリック教会に入ろうと思う。
これは最も古い、最も固い、最も世界的にして、最も完備せる教会である。これは新教諸教会のような成り上がりの教会ではない。二千年間の歴史に深き根拠をすえたる、もっとも歴史的の教会である。
もし信仰を維持するために制度の必要があり、教職の必要がありというならば、私はかかる強固なる、かかる完備せる教会に入るべきである。
新教の牧師は言う。ローマ・カトリック教会は腐敗していると。しかし、もし腐敗のことであるならば、新教の諸教会とても、カトリック教会に譲らない。
ことに、米国の新教諸教会のごときに至っては、その腐敗たるや、実に言語に絶えたるものがある。
もし教会を陥りし腐敗によって裁くならば、世に取るにたるべき教会は一つもなくなる。私はカトリック教会が腐敗しておればとて、その荘厳と堅牢を疑わない。
またいう、カトリック教会に信仰の自由がないと。しかし、私はそうは信じない。
勿論教会として立つ以上は、多少の束縛なるものは、やむを得ない。そうして、カトリック教会の束縛なるものは、その世界的であるだけ、それだけ緩やかである。
私は自由を標榜する小なる新教諸教会の中に、もっとも厳酷なる束縛の行われていることを知る。
210名無しさん@3周年:03/08/25 22:17
だから、イエスのあがないは直接人類になされたわけ。
なぜイエスは地上に受肉した?何のためだと?
よく考えろ。そこまでマリアに仲介の働きを与える意味はまっっったくない!
211或無教会派信徒:03/08/25 22:17
20世紀の今日のカトリック教会は、ルーテル在世当時のそれではない。カトリック教会の偉大なる理由の一つは、その世と共に変遷進歩するの一事である。
殊に、私がカトリック教会について感歎してやまないことはその伝道法の常に静寂にして、終始一貫していることである。
新教の諸教会が、騒ぎ、踊り、叫び、吹き立てるときにあたって、古きカトリック教会は、その静かなること太古のごとしである。
カトリック教会は、名士を招聘して大演説会を開かない。カトリック教会は、万国学生大会を開いて示威運動を試みない。カトリック教会は、自己を信ずるにあまりに篤きがゆえに、この世の権者にすがり、その威力を借りて教勢を拡張しようとしない。
ローマ・カトリック教会は、貴婦人的教会である。その聖マリア崇敬は、よくその理想を表している。カトリック教会に新教諸教会にいるような鉄面皮の婦人はおらない。婦人らしき婦人を、
私は最も多くカトリック教会の中に見る。
新教諸教会に最も欠けているものは、婦人のモテスチー(謙卑)である。マリア崇敬をあざける新教諸教会は、その不徳に於いては、はるかにローマ・カトリック教会の下にある。
聖オーガスチンの母教会にして、聖フランシスコを出し、トマス・アクイナスを生み、ニューマン大僧正をひきつけしローマ・カトリック教会は、今日なお、尊敬すべき教会である。
私もまた、もし、今教会に入るの必要を感ずるに至るならば、けんけんごうごうとして、この世の勢力を得るに日もまた足らざる新教諸教会に入らずして、古き、固き、広き、ローマ・カトリック教会に入らんと欲する」
(明治45年5月『聖書の研究』第87号、内村鑑三全集第9巻18ページ)