>>931 >>原像の実在しないテラフィム
>>一方、ケルビムやマリアの聖像に関しては原像が実在しますので、
>現像の有無でしょうか?
もう少し厳密に言うべきだったですね。
>ローマ皇帝は原像が実在します。が、
>ネロ帝からコンスタンチヌス帝以前までのキリスト教徒は、
>ローマ皇帝の像に向かって香を焚き、ひれ伏すのを拒んで、
>コロシアム(闘技場)などで、タイマツ代わりに焼き殺され、飢えた猛獣に食われ、
>戦車に轢かれ、剣闘士に殺されたのではないのでしょうか?
>外典に「闘技者トマスの書」の題名の著作があるくらいです。
>パウロの女弟子テクラも闘技場で殉教しています(パウロ行伝)。
私たちは、他の神々を敬ってはならないという戒めを知っています。
皇帝を神として敬うためにその像を記念として造ったとしても十分律法に反します。
また、皇帝の像に香を焚くというのも問題です。
私たちがもし、見えないところである者が自分の彫像に向かって香を焚かれたとき、
その香を焚かれたことを感知できるでしょうか。経験上「できない」ですね。これも迷信的行為です。
>ケルビムは実在した人間ではなく、テラフィムと似た翼のついた天使の一種なわけで、
>「原像があるので偶像ではない」というのは解釈が変です。
たしかに、それだけの理由では不十分です。
>モーセの青銅の蛇の杖は、ユダヤ人の王国時代に「ネフシュタン」と呼ばれますが、
>ヘブライ語で「ネフシュタン」の語源の「ネフシュ」は、
>「イノチ(心とか生きている時の魂)」という意味です。
>「エバ」も「イノチ(生命)」は「イノチ」なのですが。。。
>蛇の杖を仰ぎ見ると蛇に噛まれた毒から身を守れイノチを得たのですから、
>言葉のママですよね。以下略
青銅の蛇の原像は何でしょうか?蛇ですね。青銅の蛇に向かって香を焚いたとき、
その原像である蛇のために香を焚いたことになります。蛇たちは喜ぶでしょうか?
それもNOですね。これも迷信行為です。
私たちが香を焚くのは何のためか。それは、神様のため、もしくは死者のような霊的に実在するもののために焚くものです。
エレミヤ 34:5