【 キリストの福音の理解 】には、
「ディダケー(十二使徒の教訓:遺訓)」「ヒッポリュトスの典礼」「エウセビオスの教会史」
とか古代教父の書き残し(使徒教父文書)や、
第1コンスタンチノープル公会議381年「ニカイア信条」「三位一体」
カルケドン公会議451年「二性一人格」エフェソスの公会議431年「神の母」
ニカイア公会議787年「聖像の尊敬」西方と東方が別の地方会議「聖書66巻」
を決定した、古代の主教(監督)達の会議(七つの公会議(全地公会)や地方会議)とか、
黄泉下りを「ニコデモ福音書(ピラト行伝)」「ペテロ福音書」聖母マリヤを「ヤコブ原福音書」
Tテサロニケ5:23のプニューマ(霊・息・風)プシュケー(魂・霊魂・心)ソーマ(体・肉身)
ヨハネ伝1:1−6のロゴス(言葉)ゾーエー(命)フォース(光)エイコーン(イコン:影像)
クリストス(塗油された者)ソフィア(知恵)オグドアス(八つのもの)ウーラノス(天空・大気)
デミウルゴス(製作者・創造主)ヘブドマス(七つのもの)などのグノーシス思想の用語を、
「トマス福音書」「フィリポ福音書」「使徒ユダ・トマスの行伝」「マリヤ福音書」
「プトレマイオスの教説」「ヨハネのアポクリュフォン」など外典や偽典などの注釈から理解や、
「罪(的はずれ):ハマルティオン」「王(都市国家アテネの祭司・裁判者):バシレウス」
「(ユダヤ王に即位の)油注がれし者:キリスト(ヘブル語メシア)」
「福音(戦勝報告で生き延びて安心する”よき知らせ”:エウアンゲリオン」
「司教(主教・監督):エピスコポス」「公同教会(カトリック教会):エクレーシア・カトリケー」
などの語源をギリシア語辞典からや、
歴史的流れで、ユダヤ戦争でエルサレム破壊後に初代キリスト教に合流した、
ヘレニズムのギリシア語を話すユダヤ教改宗者・エッセネ派・洗礼者ヨハネの集団・
クムラン教団の宗教規則「死海文書」の知識が必要だろう。
また、神の知恵・信仰を「ピスティス」として、「ソフィア」という普通の知恵と区別している。
【 初期教会小史 】
30 イエス十字架刑・復活・昇天・聖霊降臨
31 ステパノ殉教(エルサレムにて)
64 主の兄弟ヤコブ殉教(エルサレムにて)
61-65 パウロ殉教(ローマにて)
67-68 マルコによる福音書、ペテロの殉教後に書かれる
100年代に「司教職」「信条告白(クレド)」「経典(聖書)」を拠り所とする教会的基準が確立。
200年代は迫害や、異端との闘争が続く。
A)203年ごろ 三位一体を言い出したテルトゥリアヌスの生きた時代には、
黙示録の類は否定されており、ヘブライ書・バルナバの手紙・ヘルマスの牧者を、
新約聖書の正典として読む教会があった。
B)313年 ミラノ勅令 (コンスタンティヌス帝によりローマ帝国が)キリスト教を公認。
C)325年 ニケーア公会議で「カイサリア信条」の「父と子は同質である」同質論を決めた。
D)381年 三位一体を「ニケア・コンスタンティノープル信経」と共に決めた。
ローマ帝国東部の4総大司教座のうちコンスタンティノープルが第1の地位と決める。
E)397年 (西方教会)カルタゴ(地方)会議で27書を(新約聖書の)正典と確認。
F)431年 エフェソス宗教会議でマリアに「神の母」の称号を決めた。
F)451年 カルケドン宗教会議でキリスト論に於ける「神人二性一位格」を決めた。
G)692年 コンスタンチノープルのトゥルルス会議でヨハネ黙示録を新約聖書に入れた。
H)787年 ニカイア公会議「聖像の尊敬」を決定。
I)790年ごろ 南フランスで使徒信条のテキストが書かれた。
555 :
ろんぎぬす ◆/UlxLqTUjM :02/11/08 20:43
キリスト教史T 山川出版社 第五章 キリスト教ローマ帝国
1 東方における教会と国家
325年 ニケーア公会議(同質論)
カイサリアのエウセビオスが提出した「カイサリア信条」に、
「父と子は同質である」という言葉を挿入したものが、・・・採択されたので、
アタナシウス派の勝利、アリウス派・・・異端とされ・・・追放
327年 第2二ケーア公会議 アリウス派的な信条を決定・・・
335年 テュロス教会会議で、アタナシウスを破門、336年追放・・・
・・・アリウスは腸が裂けて頓死した・・・
355年 ローマ司教・・・に、アリウス派の・・・就任・・・
双方の間に乱闘が起こり3000人が殺傷された・・・拷問を用いてまで・・・再洗礼を強要・・・
381年 第1コンスタンチノープル公会議(三位一体論)「ニカイア・コンスタンチィノポリス信条」
父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)の中に示す一つの神と宣言された。
431年 エフェソスの公会議(神の母論?)・・・
ラオディケイアの司教アポリナリオス・・・アンティオキア学派の猛烈な反対、
マリアを「神の母」と呼ばず「キリストの母」・・・ネストリウスの主張・・・
これに対するアレクサンドリアの司教のキュリロスの再反論・・・「強盗会議」と呼ばれる醜態を呈した。
411年 カルタゴ教会会議(恩寵論?) ドナティズム紛争
アウグスティヌスの事効主義「教会と聖職職階制には聖霊が宿っている。
司教の行う聖典礼の効果は、司教の人格によるのではなく、聖霊によるのである。」
451年 カルケドン公会議(両性論)「聖書の決定?」「カルケドン信条」
「両性は一つの人格、一つの本質の中に並存する」が「両性説」
「単性説」はコプト教会、シリアのヤコブ派教会、アルメニア教会。
2 西方の情勢
p208 ペテロの座 ローマ教会は「使徒相伝」は、
ローマ司教リベリウス(在位352〜366)の354年の「リベリウス表」が根拠であった。
ペテロはイエスの死後10年(AD40)でローマ司教に成っていたとする史料であった。
パウロのローマへの布教は、それからズット後であった。
【 マタイ・ルカ伝の「聖霊と火の洗礼」について 】
キーワードは「舌と油」と「古いものから新しいものへ」。
@日本基督教団の解釈では、火は古いもの(古い秩序)を焼き払うとし、
Aカトリック教会の解釈では、火は聖霊のカタドリとし、
解釈とは別に、水の洗礼の後に、聖霊のカタドリとして「堅信の秘蹟」で塗油を行っている。
B正教会は洗礼の際に、聖書でも塩は清めるとあるので、舌に塩を放り込み清める。
聖書では「聖霊は舌のような火」が人を清め、塩により舌を清める。
カトリックと同じように水の洗礼の後に「堅信の秘蹟」に相当する「フ膏の機密」で塗油を行う。
オリーブ油は癒しであり火を生ずるものであり、
クリストス(塗油による聖別者)にする役割の物だからである。
キリスト教徒の名の由来は、ここにある。
また新約聖書の@ヤコブ(AヤコボBイアコフ)書には「舌は火である」という記述があり、
ほかにエルサレム神殿の破壊(兵火にかけられて焼失する)を予見、
またはユダヤ反乱で神殿破壊による「古いものを焼き払う」という新教の解釈に相当する記事がある。
@使徒パウロ(A聖パウロB聖パウエル)はキリスト教徒になることは、
「古いものを捨て新しいものを着る」ことと表現している。
聖ルカによる使徒行伝(使徒言行録)では「聖霊降臨」により、
聖霊の賜物として異言という「外国語で祈る」記事が書かれている。
聖書が原語で読めたなら
−−−聖書語学の証しと勧め 大久保史彦 聖書語学同好会
14 メシアとキリスト p44−45
メシアということばはふつう「救い主」と訳されていますが、
ヘブル語では「油注がれた者」という意味です。
旧約時代には、王や祭司として神に代わって民を治めるべく任命されるときに、
頭に油を注がれて、その特別の使命を受けた印としたことに由来しています。
ヘブライ語 マーシャハ(動詞)「油を注ぐ」
ヘブライ語 マーシーアハ(名詞)「油注がれた者」(メシア)
ギリシア語 クリーストス(名詞)「油注がれた者」(キリスト)
ギリシア語 クリーオー(動詞)「油を塗る」
私註※ カトリックのサクラメント(秘蹟)での@堅信やA病者の「塗油」の由来か?
正教のミステリオン(機密)では「膏」の字を当てている。@傅膏とA聖膏。
15 アブラハム p46
アブは「父」、ラハムは「多くの者」という意味です。
ほかに、サムエル記U3:3に出てくるアブシャロムは「父は平和」という意味、
サムエル記T14:50に出てくるアブネルは「わが父は光」という意味だそうです。
私註※ 新約に「アッバ、父よ」と呼ぶ霊が、我々の御霊であり。という、
「アブ=アバ」がアラム・ヘブライ語の「父」の語彙だと言う事。
シャロム(平和)は、イスラエル関係で、よく聞かれる言葉ですよね。
シャローム(こんにちは)は、平和がありますように。だし、
サレムの王は、平和の王であり、頭にエルが付いて、エルサレムと街の名になる。
【 イエスがメシアである判断箇所 】
よって「聖霊と火の洗礼」とは、舌によるもの・兵火により、
「古い言葉(ロゴス)や霊を払い、キリストの言葉(ロゴス)や霊を着る」事を意味する。
新約聖書 ルカによる福音書 3章4節以下。
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、・・・人は皆、神の救い(エヴァンゲリオン)を仰ぎ見る。』
そこで(洗礼者)ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・
(洗礼者)ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。
自分の給料で満足せよ」と言った。
3章15節 (ユダヤの)民衆はメシアを待ち望んでいて、
(洗礼者)ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしは あなたたちに水で洗礼を授けるが、・・・優れた方(メシア)が来られる。
その方(メシア)は、聖霊(主の霊)と火(の焼き払い)で あなたたちに洗礼をお授けになる。
・・・火で焼き払われる。」・・・(洗礼者)ヨハネを牢に閉じ込めた。
(狂気のガリラヤ王)ヘロデは・・・悪事を加えた。
3章21節 イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
聖霊(主の霊)が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたは わたしの愛する子(神の子)、わたしの心に適う者(メシア)」という声が、
天から聞こえた。
4章3節 そこで、悪魔(堕天使)はイエス(神の子)に言った。
「神の子(メシア)なら、・・・
4章8節 イエスはお答えになった
『あなたの神である主(アブラハムの神)を拝み
ただ主(アブラハムの神)に仕えよ』と書いてある。」
4章17節 預言者イザヤの巻物が・・・書いて・・・
4章18節「主の霊(聖霊)が わたしの上におられる。
貧しい人に福音(エヴァンゲリオン)を告げ知らせるために、
主(アブラハムの神)が わたしに 油を注がれた(メシアした)からである。・・・
ルカ7章18節以下=マタイ11章1節以下。
・・・預言者以上の者(メシア)である。・・・
マタイ25章31節以下 章題「すべての民族を裁く」
人の子(メシア)は、・・・栄光の座に着く。
王(メシア)は右側にいる人たちに言う。
『さあ、・・・国を受け継ぎなさい(天国に入りなさい)。・・・
ルカ9章20節=マタイ16章16節
・・・ペトロが答えた「(アブラハムの)神からのメシアです。」
聖書が原語で読めたなら
−−−聖書語学の証しと勧め 大久保史彦 聖書語学同好会
57 いつも喜んでいなさい p136
テサロニケ人への手紙第Tの5:17の
17 αδιαλειπτωσ προσευχεσθε.(註:語尾のσは別文字)
アディアレイプトース プロシューケッセ「絶えず」「祈れ」
45 的をはずれると「罪」 p107
神に背を向けた状態
「罪」というのはギリシア語でハマルティアーといいます。
これはもともと「失敗」という意味があり、
槍を的に向かって投げるとき的をはずすという意味からきているのだそうです。
新約聖書においては、
このハマルティアーは明白な罪の行為を指しているのではなく、
罪の行為が起こってくるもとの罪の状態を意味し、
神という「的」からはずれ、神との正常な関係からはずれた人間の状態、
神に背を向けた状態をいうのです。
αμαρτια(単数形)ハマルティアー
正教要理 p39 四、罪
人間が神に与えられた中で最も大切なものは自由です。
他人の意志によらず、束縛を受けず・・・喜びを持つ、・・・
しかし、人間は自由をはき違え悪魔の誘惑に負け、
自分の生命を神のみ手にゆだねることを拒み、神の前に罪を犯しました。
・・・。悪は神から来るものではなく罪から生まれるものです。
無限に尊い神にそむいた罪ですから人間は自分の力で罪のつぐないを
することはできません。・・・人間が悪にうち勝つために
救い主ハリストスを遣わすことを・・・されました。
私註※ [新教]神に背を向けた状態・・・。[正教]神にそむいた罪・・・。
【 聖書での善と罪の概念(共立女子聖書学院院長など歴任の著者による) 】
善 実践上の価値概念で悪の反対語。
聖書では神の伝達的属性(知識、知恵、善、愛、聖、義、真、主権)
の一つとしてとらえている。
イエスは絶対的な意味で神のみが善であると断言している(マタ19:17
「良い方」、マコ10:18「尊い方」、共に[G]アガソスが用いられている)。
「神が造られた物はみな良い物」である(Tテモ4:4)が、
その善は造られた神によるものだからである。
罪 1.旧約における罪。
(1)用語。おもな語は次の4種。
a。[H]ハーターは「失敗する」(士20:16)、
「失っている」(ヨブ5:24)、「つまずく」(箴19:2)など、
もともとは「的(目標)、または道をはずす」の意の一般的な語。
神との関係においては「罪」と訳され(創4:7、出10:17)、
神が人に定められた道を踏みはずすという意味を表す。
2.新約における罪。
(1)用語。a。[G]ハマルティアの動詞、
ハマルタノーはもともと「的をはずす」、
あるいは「迷う」「誤る」を意味する一般的な語であったが、
70人訳において[H]ハーターのギリシヤ語訳として用いられ、
専ら「罪を犯す」という聖書特有の意味を表す語となった。
・・・具体的な罪の行為や律法違反を意味する(・・・)。
また、行為だけでなく人間の持っている神に敵対する性質をも
意味して用いられる(・・・)。
罪人 善でも悪でもない中立的立場の人はいない。
すべての人間が罪人であり(ロマ3:23)、
例外はない(5:12−21、Tコリ15:22)、
・・・罪人であるがゆえに罪を犯すのであり、ことばや思いや、
行為において絶えず罪を犯し続けているのである(ヤコ4:17)
【 ロシア的「罪」の理解 】
→ ドストエフスキー 罪と罰(下)江川卓訳 赤613−7岩波文庫 定価(本体760円+税)
宗教的「罪」は、грех:グリェーフ(グレーフ)と呼ぶ。
使い方として、
@しかたない損も(責任も)半々に(半分こに)грех пополам
Aグリェーフを使う、若気の過ち грехй молодости
失敗・間違いの語を使う、若気の過ち ощйбки молодости
B彼を虐めるのは可哀想
грех его(彼を)обежить:アビジャ−チ(怒らせる:侮辱する)
とあり、このことから、法律ではなく生活上の罪、
ロシア的な宗教的「罪」の使い方は、
「神様を怒らせるような事をしでかした」「どっちの人間にもある過失」
「人生一度は誰もがする失敗」と理解できる。法律を破ったの意味ではない。
慣用句というか、決まった言い方に、
人間は皆、罪人です все Люди грещнь?
罪の赦しを神に祈る замолить грех
とあり、似た語幹に、
греция:ギリシア(国名・民族名)や、
@原罪A背信という意味に、грех−опадение の単語がある。
ギリシャな奴、とは、罪創りな奴って事か?これは言葉のあやです。
ロシア文学「罪と罰」で使われる「罪」は、
Пре−ступление:プレ−ストゥプレーニエ
越える−歩む(踏み越えてしまう)という法律上の罪を意味する。
p428 ロシア語を知らないと気がつきようもないが、
この長編の題名の一要素である「罪」の原語「プレストゥプレーニエ」
は「越える」を意味する「プレ」という接頭辞(せっとうじ)と、
「歩む」を意味する「ストゥパーチ」という動詞の合成語から派生した名詞で、
原義は「ふみ越えること」の意味なのである。
ロシア語で「罪」をあらわす言葉には、このほかに、
主として神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」という名詞があるが、
「プレストゥプレーニエ」のほうは、人間の定めた掟を「ふみ越えた」罪、
つまり、犯罪なのである。
p429 ・・・ソーニャは自分のことを「罪の女」と呼んでいる。
この「罪の女」の原語は、神の掟を破った罪を意味する「グレーフ」
から派生した「グレーシニツァ」である。
ということは、神を信ずるソーニャが抱いていた罪意識を、
「ふみ越えた」という言葉によって、
ラスコーリニコフが強引に自分の罪意識に引き寄せ、
彼女を自分の「同類」にしようとしていることを意味するのだろう。
ちなみにキリスト教徒で「罪の女」と聞けば、
売春婦とか、マグダラのマリア(マグダレーナ)を思い浮かべるだろう。
帝政ロシア時代の売春婦は、黄色い免許証を持っていた。つまり公娼制だったのである。
キリスト教教理史入門 諸信条の成立
アラン・リチャードソン著 シリル・H・パウルス訳
日本聖公会出版部 1968年7月5日250円
p79 アポリナリオスは人間を
身体(ソーマ)、霊魂(プスケー)、霊(プネウマ)に分ける
聖パウロの周知の分割法を採用した(Tテサロニケ五・二三)。
彼の心理学〔霊魂論〕によると、
霊は(動物にない)人間の理性的、道徳的、霊的〔宗教的〕機能、
すなわち人間の持つ特に人間的な要素(人格)であり、
霊魂は肉体的生命、人間と動物とが共有している機能である。
そこからアポリナリオスは更に一歩進めて、
キリストの人格には人間の霊はない、なぜならキリストにおいて
霊の占めるべき場所にロゴスがはいっているからである。
・・・人間の霊または精神(mind)がない。
従ってキリストには完全に罪がない。
p80・・・人間を動物から区別するはずのものが
キリストの人格に全然存在しない・・・神性と人性が一つでない・・・
p84・・・キリストの人格における二つの本性(natureすなわち、
神性と人性)・・・
p89・・・四五一年のカルケドン総会議の信仰定式・・・
p89−90・・・主は神性において全く、人性においても全く、
まことの神にしてまことの人、理性的な霊魂と(アポリナリオスに反対)
身体を持ち、・・・二つの性において混じることなく、
変わることなく(エウテゥケスに反対)、分けられることもできず、
離すこともできぬおかたとして(ネストリオスに反対)・・・
合一によって両性の区別が取り除かれるのではなく・・・
一つの人格、一つの本質にともに入り、
二つの人格に分かたれ裂かれることなく(ネストリオスに反対)
・・・ロゴス、イエス・キリストである。
★テルトゥリアヌス(155年ごろ生まれ、190〜195年に改宗し、220年以降に没している)
百卒長の息子でカルタゴ生まれ。
法律と修辞学を学び、生活語のラテン語のみならずギリシア語に精通していた。
司祭になったが、三位一体を言い出した初めの提唱者であり、
204年ごろからモンタノス派になり、213年に完全に正統教会から離れている。
彼の慣用句に、
「キリスト教徒は生まれながらにしてキリスト教徒であるのではなく、キリスト教徒になったのである。」
「アテネとエルサレムとに何の関わりがあろうか」
「哲学者はギリシアの弟子だが、キリスト教徒は天国の弟子だ」(以上 護教論)
父・子・聖霊
実体[substantia]の統一性[unitas]は三一性[trnitas]へと
秩序づけている経綸[オイコノミア]の秘義は守られている。・・・
・・・本質[status]についてではなく、相対的な位置[gradus]についてであり、
実体についてではなく、形相[forma]についてであり、
力[potestas]ではなく、〔それをになう〕具体的存在[species]についてであって、
この三つは一つの実体、一つの本質、一つの力に属している。
なぜなら、神は一つであるが、この神から、父と子と聖霊という名で、
このような相対的な位置、あるいは形相、あるいは具体的な存在が生じると考えられるからである。
(『プラクセアス反論』ニ・4〔土岐正策 訳〕)
★オリゲネス(176〜194年に生まれ、激しい拷問の後に釈放された250年以降に没する)
著作に『ルカ福音書講話』『殉教の勧め』など。
(『教会史』六・39・5参照)
キリスト教教理史入門 諸信条の成立 アラン・リチャードソン著 日本聖公会出版部
p42 第2章 二世紀および三世紀
クレメンスのすぐれた弟子オリゲネスは三世紀のはじめに・・・
彼(オリゲネス)は青年時代にアレキサンドリアにおいて
(異教の)プラトン主義哲学者アンモニオス・サッカスの講義に出席したことがある。
そういうわけで、古代最期の非キリスト教思想家で、
新プラトン主義の創始者プロティノスとも、
この教師(サッカス)のもとで、しばらく学友であったことになる。
イラスト 西洋哲学史 小阪修平著 JICC出版局
p122−125 グノーシス主義と新プラトン主義 Hプロティノスと新プラトン主義
【 キリスト教的グノーシス 】
グノーシスとはギリシア語で知識を意味することばだ。
だが、ギリシア哲学における知識が最初は神秘的なものから出発しながら、
だんだんとことばによって真理を伝えるという知識、
語られうるロゴスになっていったのにたいし、
グノーシス主義のめざしたものは神との合一をめざす神秘的な知識であった。
ヨーロッパの合理主義はその祖先である、
オリエントの霊と肉体の直接的な一致をめざす思想に、
つねにゆり動かされる運命をもっているのだ。
しかし、ここでも、ディオニュソス教が哲学のなかにとりこまれていったように、
グノーシス主義の影響をうけた、より合理的な哲学が成立する。
プロティノスを代表者とする新プラトン主義の哲学であった。
●プロティノス、エジプト生まれ(204〜269)新プラトン主義の哲学者。
プロティノスが使った主な概念は、
一者(ト・ヘン)、叡智(ヌース)、質料(ヒューレー)、自然(フユシス)という
ギリシア哲学伝来のものであった。
プロティノスはこの世界に根拠をあたえている神を「一者(ト・ヘン)」とよんだ。
このことばで私たちが思いだすのは、
パルメニデスの「あるもの(存在するもの)」である。
「あるもの」とは、部分をもたない「一つであるもの」であった。
つまり、「一者」とは完全無欠なものに哲学があたえた呼び名なのだ。
プロティノスはまたこの「一者」のことを「根元的な美」だと考えた。
ここでも、プロティノスの哲学はプラトンに近く、
新プラトン主義とはプラトンのうちの神秘的な要求を拡大した哲学であったともいえる。
万物は一者から生まれ、一者へ帰ろうとする。
だが、プラトンの善のイデアが私たちが到達することができないものだったように、
私たちも一者を理解することはできない。ただ近づきうるのみである。
新プラトン主義でも、強烈な現実否定の情熱と神秘主義が結婚している。
かれらの哲学の目的もまた、自己を脱して(エクスタシス)、
この一者と合一することであった。
人が思惟するのも、花が咲くのも、ただ一者に近づくためだとプロティノスは言った。
だが、このように彼方にある「一者」と、
この現実の世界はどのように関係しているのだろうか。
プロティノスは太陽や泉の比喩でこの両者の関係を説明した。
太陽はたえず万物に光をあたえるが、自分はいつも変わらぬ明るさで輝いている。
あるいは、泉はこんこんとわき出るが、涸れてしまうことがない。
プロティノスはこの関係を「流出」と名づけた。
これはたしかにうまい説明であり、
キリスト教の発想や近代の哲学の発想にまでヒントをあたえるものであった。
●流出
A 一者は絶えず私たちの存在に根拠をあたえている。
B しかし、いくら私たちの世界に根拠をあたえつづけても減ることがない。
もうひとつのプロティノスの思想の特徴は、
「一者」とこの世界をつなぐヌースという存在を考えたということであった。
ヌースは知性とか叡智とか訳され、
理性あるいは精神にあたえられた神秘的な名であった。
ヌースとは神の思惟によって産みだされたイデアの世界と考えるとわかりやすい。
私たちはまたヌースをロゴスであるとも聖霊であるとも考えることができる。
新プラトン主義が古代と中世をつなぐ架け橋となったのは、
ギリシア哲学の成果を宗教的なかたちでまとめあげ、
キリスト教に引きわたしたからであった。
そのなかでも、一者 − ヌース − 私たちの魂という世界の三分法は、
キリスト教の三位一体論の成立に大きな影響をあたえたとされている。
●ヨーロッパ哲学史において光は真理のメタファーである。
私たちが太陽を直接見ることはできないように、
私たちは直接一者を理解することができない。
太陽の光が散乱して地上を包む光となるように、
この世界はヌースによって包まれている。
そして私たちが光を見ることができる器官である眼をもっているように、
私たちの魂の純粋な部分はヌースと通じている。
★一者と私たちの世界をつなぐものはヌースである。
魂のうちで純粋な部分は、
この神のヌース(叡智)の世界とつながった、いわば下級のヌースなのである。
この経路を逆にたどって、私たちはエクスタシスし(自分を脱げだし)神と合一する。
【 グノーシスの薀蓄 】
デミウルゴス(製作者とも造物神とも訳す)は、
もともとは古代ギリシアの「公共職人」を示して使われる言葉。
それをプラトンが、公共職人(デミウルゴス)と言う単語を著書に用いた。
グノーシス思想では、造物神は最高神ではない。
→ 新キリスト教辞典 いのちのことば社
ナグ・ハマディ文書 救済神話 プトレマイオスの教説 第五章に登場する。
ヤルダバオート(「ヤハウェを貶める」の意味の造語)・
サクラス(馬鹿者)・サマエール(盲目の神)とも呼ぶ。
アイオーン(世界・流出)からプレーローマ(充満)があり。
美のプレーローマ、プレーローマの星こそが、救世主イエスと言う。
アイオーンは、ビュスト(深遠)・シゲー(沈黙)をアルケー(根源)とし、
そこからエンノイア(思考)が、ヌース(叡智)とアレーテイア(真理)を生み、
さらにロゴス(言葉)とゾーエ(生命:ヘブル語のエバ)を生んだ。
ロゴスとゾーエは、アントローポス(人間)とエクレーシア(教会)を生んだ。
またプレーローマ(充満)から、30のアイオーン(世界・流出)より、
アカモート(ヘブル語ホクモート由来の借用語:不妊のソフィア(知恵))が、
第八天を創造し、母となり。
その母から天使の一種のデミウルゴス(旧約の神)が、
第七天以下の七つの天を創造した。
デミウルゴスは自分が作った七つの天を、全ての世界と思い上がって、
サクラス(馬鹿)であった。
*ヨハネのアポクリュフォーン?から、
ヤルダバオート(デミウルゴス)は、妬む神であった、
自分が作った天使たち以外に世界があるのはおかしい、
他に神がいるから妬むのであり、ヤルダバオートは思い上がりであり、
妬む神の妬みは、自作では不自然である。
ヘルメス文書 荒井献+柴田有=訳 朝日出版社
ヘルメース・トリスメギストスからタトとの対話
CH]U−ヘルメース・トリスメギストスからタトへ−
普遍的叡知(ヌース)について p314
13「父よ、他の生き物は言葉(ロゴス)を用いないのですか」。
「子よ、言葉(ロゴス)ではなく、音声を用いるのだ。
しかし、言葉(ロゴス)は音声とはまったく異なる。
言葉(ロゴス)はあらゆる人間にとって共通であるのに、
生き物はそれぞれの種族が自分だけの音声を持っている」。
「しかし父よ、人間の場合にもそれぞれの民族によって
言葉(ロゴス)が異なるのではないですか」。
「子よ、それは異なるが、人間は一つである。
このように言葉(ロゴス)も一つであって、
翻訳されればエジプトもペルシアもギリシアでも同一の言葉が見出される。
子よ、お前はロゴスの効果と偉大さについて無知であるようだ。
至福の神、『善きダイモーン』は、
『霊魂は身体のうちにあり、叡知(ヌース)は霊魂のうちにあり、
ロゴスは叡知(ヌース)のうちにあり、神はこれらの父である』と言った。
14 従って、ロゴスは神の像、神の叡知(ヌース)である。
身体は形(イデア)の像であり、形(イデア)は霊魂の像である。
CH]V−ヘルメース・トリスメギストスが山上で子タトに語った秘められた教え−
再生と沈黙の誓いについて p350
7 ・・・
「子よ、無知が第一の懲罰である。第二は悲嘆、第三は無節制、
第四は欲情、第五は不義、第六は貪欲、第七は虚偽、第八は嫉妬、
第九は計略、第十は怒気、第十一は軽率、第十二は悪意であって、
これらは数で十二になる。
子よ、これらの配下にさらに多くの者どもが居り、
内なる人間(アントローポス)を強いて、
身体という牢獄によって感覚的に苦しませている。
しかし以上の懲罰は、神によって憐れまれた人からは、
一挙にではないにせよ離れ去る。
再生の有様と教えとはこのように構成されている。
8 子よ、これ以後は口を閉じ、沈黙しなさい。
そうすれば、神から私たちに及ぶ憐れみは絶えることがないであろう。
子よ、これ以後は喜びなさい。
神の諸力によって清め尽くされ、ロゴスへと結集しなさい。
神の認識(グノーシス)が私たちに訪れた。
子よ、この訪れによって無知は追い払われたのだ。
喜びの認識(グノーシス)が私たちを訪れた。
子よ、この出現のゆえに悲嘆は、
それを包容する人々のもとへと逃れるであろう。
【 乳香 】 かんらん科の植物の樹脂。
幹を傷つけると乳白色の樹脂がにじみ出る。
その形が乳頭に似ているところから、乳香の名がつけられた。
代表的なものは次の3種である。
(1)聖乳香。紅海沿岸。ヨルダン地方に産する。
(2)返魂樹。アラビヤ、インド、西ヒマラヤに産する。
(3)紙乳香。紅海沿岸に産する。
古代エジプトにおいては神にささげる薫香として使われ、
王しか使うことを許されなかった聖なるものであった。
このエジプトの習慣が出エジプトと共にユダヤ人に伝わり、
神にささげる薫香として用いられた(出30:34.35)。
乳香がその当時いかに貴重なものであったかは、
ヨセフが売られたイシュマエル人の隊商は乳香と没薬を
エジプトに売りに行く途中であったこと(創37:25)、
ヨセフがエジプトで宰相の時、
食糧を買いにいくためにヤコブが持たせた名産品に
乳香が入っていたこと(創43:11)、
また雅歌の記述(雅4:6.14)を見ても分かる。
乳香の煙は神を拝する人々と神を結ぶもので、
神のもの、神に通じるものと考えられ、
古代から薫香として用いられてきた。
イエス・キリストが誕生した時、
東方の博士たちが乳香と没薬と黄金をささげた(マタ2:11)。
これは王となるべき方へのささげ物であった。
乳香の煙には強い殺菌力があり、
中世ヨーロッパでペストが大流行した時、
乳香を薫じて死を免れたと言われる。
現在でも高級香料として香水やオーデコロンに広く使われる。
→エッセンシャル聖書辞典いのちのことば社3200円+税。p444−445
【 聖書の構成変化の流れ 】
55年ごろからパウロ書簡、64年以降にマルコ伝、
110年ごろまでにヨハネ伝・ヨハネ書簡・ヨハネ黙示録。
@マルキオン(140年ごろ)の聖書、ルカ伝+8書簡。
Aイレナエウス(180年ごろ)の聖書、4福音書+使徒行伝+13パウロ書簡
(フィレモン・ヘブライ・Tペテロ・TUヨハネ除く、黙示録は外典)
Bテルトゥリアヌス(203年ごろ)の聖書、
4福音書+使徒行伝+13パウロ書簡+ユダ書+ヘブライ+バルナバ+ヘルマスの牧者
Cオリゲネス(200年代前半)の評価、27書は疑わしい。
●ヒエロニムス(300前後)がラテン語聖書の編纂の際に旧約をヘブライ語から翻訳。
Dエウセビオス(325年ごろ)ニカイア会議前から「教会史」書き始める。
E小アジアのラオディキア会議(363年)、ヨハネの黙示録を除く26巻を正典に。
Fアタナシオス(367)第39復活祭書簡、26書を増やしても減らしてもいけない。
Gヒッポ会議(393)カルタゴ会議(397)27書を正典と確認。
Hコンスタンチノープルのトゥルルス会議(692)
東方教会がヨハネの黙示録を、外典から正典に承認し27書を決定。
Iルター(1522)ヘブライ・ヤコブ・ユダ・黙示録を正典から外す。
>>547-574 キリスト教の基礎的な事で。
明らかにインドや中国の性愛や陰陽男女などの東洋思想と異なる。
十字架の否定は、ギリシア・ローマ相手のパウロ系統の否定。
パウロ(ギリシア・書簡)とペテロ(ローマ・書簡)を否定すると、
ルカ(福音書・使徒行伝)・ヨハネ(福音書・書簡・黙示録)まで否定する事になる。
新約聖書はマタイ・マルコ・ヤコブ・ユダのユダヤ教律法系の2福音書2書簡しかなくなる。
すると2福音書だけではイスラム教でも通じ、
キリスト教の固有の物(十字架や愛やロゴスや光や永遠の命)は、なくなる。
ところで 宗教のテーマといえば、
仏教は「@悟り」と「A解脱(げだつ)」で、
難しい専門用語だと「@梵我一如(ぼんがいちにょ)を悟る事」と
「A輪廻(サンサーラ)の彼岸(ひがん)に達した寂静涅槃(じゃくじょうねはん)」でしょう。
キリスト教は「@愛」と「A天国」で、
教会の神父・牧師や神の言葉(ロゴス)で聖書(ビブリオまたはハギア・グラフェ)の言うところは、
@−1 天と地を創造した唯一の神を讃美する愛と
@−2 同じ国の人や隣り人を善行や戒め励まし施しにより愛する事や
Aイエス・キリストの聖餐と十字架による新しい契約を信じて洗礼を受け
油塗られた者(クリスチャン)になる事でしょう。
教会の聖堂での礼拝は その昔エジプト王(ファラオ・パロ)しか焚かなかった乳香で敬愛を表し
また乳香の煙で聖堂内を殺菌し 聖霊の象りの舌のような炎を灯し
人の舌で神への讃美のイケニエを聖書の言葉(ロゴス)を使って行い
この世の天国を 復活のあったとされる日曜に 毎週に再現しているという。
お寺の本堂で仏像に線香立てて声明(しょうみょう)や御詠歌(ごえいか)歌うのと、
(阿含シューでは声明も御詠歌もしてなかったはずですが)
物や行いが外見が同じようでも 意味(悟りと愛)も目的(輪廻解脱と天国行き)も違う。
キリスト教徒の集まりは 王国会館(キング−ドムの館)ではなく、
新約聖書にもあるように「教会」エクレシアであって「バシレウスの館」の語彙ではないです。
旧約聖書のヘブル語は「主の集会(カハール)」であって「メシアの館」という語彙ではない。
現代ギリシア語でも「集会」はεκκλησιασ-μαエックレーシアス・マです。
クリスチャンとして、メシア(へブル語:油注がれし者)キリスト(ギリシア語:油注がれし者)
ソーテル?またはソーテーリアン?(ギリシア語:救世主・救い主)を「王」と意訳しますか?
ソノ支配を「王国」としますか? 主は「神の子」であって「この世のユダヤ王」ではない。
ユダヤの地は、マケドニア王国のアレキサンダー大王や、
ソノ部下で後継者のシリアのセレウコス・ニカノルや、エジプトのプトレマイオス王朝のわけで、
ソノ合間にマカバイの独立とヘロデ大王と来て、
ローマ帝国で皇帝(カエサル)を頂く統治で支配地になったとしたら、
その訳はどうなるでしょうか?
現代ギリシア語 政府κυβερνηση→支配者κυβερνητησ(政府の者)
大統領制の国の時代。
古代ギリシア語 支配するβασιλευω→王(支配する者)βασιλευσ
都市国家ポリスやマケドニア王国時代。
現代日本語 政府→政治家・公務員・首相・天皇 立憲君主国の時代。
古代日本語 統(す)べる→すめら尊(みこと) 大君(おほきみ)の時代。
どちらも「王国」に結びつかない。日本史の授業で倭国というが日本王国と聞いた事ない。
日本国王の足利義満ぐらいだろう。
キリスト教ですら共通の「聖書66巻」と「要理」があり 求道者や信者の読むべき一歩です。
カトリック教会だと「カトリック要理」「公教要理」正教会だと「正教要理」
プロテスタントは日本キリスト教団なら「ウエストミンスター信仰基準」があります。
「祈祷書」は カトリックに ドミニコ会の「ロザリオの祈り」
フランシスコ会の「十字架の道行き」 イエズス会の「霊操」などがあります。
正教会は「徹夜祷・三時課・聖体礼儀」と「小祈祷集」です。
聖書は巷に @新共同約(カトリック・プロテスタント共通 + カトリックの旧約聖書・第二正典つき)
A新改訳(プロテスタント・福音派推薦) B口語訳(プロテスタント)
C文語訳(プロテスタント・日本初ヘボン博士の翻訳事業訳の大正時代改定版)
Dフランシスコ会訳(カトリック) Eバルバロ神父訳(カトリック) F正教会訳(正教会) とあります。
BIBLIA SACRA 原典テキスト 新約聖書
使徒行伝
ΠΡΑΞΕΙΣ ΑΠΟΣΤΟΛΩΝ(働き 使徒の)
プラクテイス アポストローン
現代ギリシア語常用6000語 大学書林
πραξη[女]行動,行為 αποστολοσ[男]使徒 αποστολευσ[男]発信人
プラクテー________アポストロス________アポストレウス
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アナフェロー____________アナグラフォ
∴(ゆえに) 使徒「言行録」の翻訳はギリシア語原典の題名を反映していない。