キリスト教会から十字架を取り去ろう!

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278名無しさん@1周年
>>275
日蓮宗系統の法華経の筆文字を飾る掛け軸のようなタグイの偶像ではないよ。

(人を)文字は殺し(キリストの聖)霊は生かす。と新約聖書にあって、
バビロンやユダヤの人間を縛った規則を書いた板とか、
中国発明の位牌のような人名が刻まれた札が礼拝対象ではない。

キリスト教は「聖霊のうち」に「霊的な祈りや詩篇などの讃美」を元に、
イノチやヒカリの象徴である日の出る東を聖堂の正面に向かって、
天の創造主やキリストに祈るのさ。その中心の祈りが「主の祈り」と「信条」。
自分の心に神やキリストの存在は居ない。自分の心は神ではない。
神の霊が「外から人間の心に入ってきて」真のイノチが満ちるのだ。

「自分の心の中に仏」という人間崇拝とか自分崇拝という種類の偶像崇拝でもなく、
文字を書いた「掛け軸や木像や銅像」などの想像上の造形を拝む偶像崇拝でもない。
279名無しさん@1周年:02/08/09 23:00
>>275
第一、本来のお釈迦様の仏教は、滅尽定の瞑想と第二禅による入滅による輪廻の解脱。
解脱の状態を涅槃に入ると言う。
滅尽定は梵我一如(ブラフマンとアートマンの合一)を悟る事。

マカ止観の数息観や不浄観や仏の想念など、煩悩の壊滅が目的であるが、
お釈迦様の本来的の解脱の瞑想ではない。

だから、理性とか感性とか自分の心を拝む思想など、
古代インド発生の本来の仏教ではない。
中世インドの俗人の信者の妄想が産んだ迷信の産物だろう。

弥勒信仰(白蓮教)や阿弥陀信仰(浄土教)や、
経典や塔婆や多宝塔の安置堂を建てて願いを祈願し拝むのは、
座禅より発生した釈迦の仏教と言うより、
神仏を騙る多神教のヒンドゥー教の信仰の一種だ。
280名無しさん@1周年:02/08/09 23:06
>279 つづき。

× 中世インドの俗人の信者の妄想が産んだ迷信の産物だろう。

○ 中世インドの「ユガまたはヨガ行者」の「瞑想」が産んだ「論書が唯識論」だろう。
ユガ師論とかユガの経典や三昧(ざんまい)経典がある。三昧は瞑想のこと。

唯識は、心を拝むのでななく、心を種類分けして、
心にある「煩悩の種を消す方法」など論じた。