481 :
名無しさん@1周年:
>>480 まず、あなたの側からクリスチャンを愛してみるのが良いでしょう。
【キリストの受肉】の解釈は コレでヨイでがしょうか?
ドケティズム__霊は神で肉体は悪魔。天使が人となって仮に現れ、十字架後に人を捨てて天に戻った。
サベリウス___神は、父なる神から子のイエスに変身し地上に現れ、復活・昇天後は聖霊に変化した。
アポリナリオス_霊は神で、魂と肉体は動物と同じ人間となって現れた神。
正統教理____霊も人性と神性(神のロゴス)を持って、原罪の贖罪や神の啓示の役割を果たす。
____受肉は、神のロゴスが霊(理性)・魂(心・精神作用)・肉体の3つの人格にともに宿り、
____3つの人格に人性・神性が、分かたれず混ざらずに存在する。
____主なる神の父・子・聖霊の3つの側面を神格と呼んだ。
動物には、人間特有の「道徳を知覚し理性」が存在する霊はなく、魂と肉体だけの生き物である。
マリヤは、霊(神)魂(人)肉体(人)を生んだ(アポリナリオス異端説)のではなく、
マリヤは、霊(神のロゴス・人)魂(神のロゴス・人)肉体(神のロゴス・人)を生んだ。
肉体には復活ゆえに人にはない神性があり、霊には神にはない原罪の贖罪ゆえに人性が存在した。
マリヤは、子の側面の神格を生んだので、神を・生みし者(テオ・トコス)と称した。
【 初期教会小史 】
30 イエス十字架刑・復活・昇天・聖霊降臨
31 ステパノ殉教(エルサレムにて)
64 主の兄弟ヤコブ殉教(エルサレムにて)
61-65 パウロ殉教(ローマにて)
67-68 マルコによる福音書、ペテロの殉教後に書かれる
100年代に「司教職(監督職・長老=神父・執事)」「信条告白(洗礼に読まれるクレド)」
「経典(使徒書簡・福音書・黙示録)」を拠り所とする教会的基準が確立。
200年代は迫害や、[グノーシスなどの]異端との闘争が続く。
A)203年ごろ 三位一体を言い出したテルトゥリアヌスの生きた時代には、
黙示録の類は否定されており、ヘブライ書・バルナバの手紙・ヘルマスの牧者を、
新約聖書の正典として読む教会があった。
B)313年 ミラノ勅令 (コンスタンティヌス帝によりローマ帝国が)キリスト教を公認。
C)325年 ニケーア公会議で「カイサリア信条」の「父と子は同質である」同質論を決めた。
D)381年 三位一体を「ニケア・コンスタンティノープル信経」と共に決めた。
ローマ帝国東部の4総大司教座のうちコンスタンティノープルが第1の地位と決める。
E)397年 (西方教会)カルタゴ(地方)会議で27書を(新約聖書の)正典と確認。
F)431年 エフェソス宗教会議でマリアに「神の母」の称号を決めた。
F)451年 カルケドン宗教会議でキリスト論に於ける「神人二性一位格」を決めた。
G)692年 コンスタンチノープルのトゥルルス会議でヨハネ黙示録を新約聖書に入れた。
H)787年 ニカイア公会議「聖像の尊敬」を決定。
I)790年ごろ 南フランスで使徒信条のテキストが書かれた。
ウルガタ・ラテン語翻訳の「礼拝」「敬う」の元のギリシア語を聞いてみるとイイ。
個人的には、ラテン語の「崇拝」と「崇敬」の区別は、言葉のアヤで小細工だと思う。
ギリシア語で見ると、偶像に「仕える」、天使の「宗教」と、
「礼拝」とは別の語彙を当てている。
日本語訳は意味を掴む上で鵜呑みにすると危ない。
異教から見て、「マリヤ像」や「イエス像」に対して、
@「偶像」に「仕える」A「偶像」の「宗教」と見られても仕方ない。
日本語訳の「礼拝」のギリシア語原文の意味は多様だ。
「仕える」「宗教」「拝む」など。
ヨハネ4:40の「礼拝」
προσεκυνησαν(プロセクネサン:拝む)
Tコリント6:9の「偶像を礼拝する者」
ειδωλολατραι(エイドロ ラトゥライ:偶像+仕える)
コロサイ2:23の「独り善がりの礼拝」
εθελοθρησκια(エセロ セレスキア:独り+宗教)
コロサイ2:18の「天使礼拝」
θρησκεια των αγγελων,
(セレスケイア トン アッゲロン:その天使+宗教)
ヘブル6:1と6:9の「礼拝」
λατρειαζ(ラトリア:(神への)奉仕)
ヘブル11:21の「礼拝」
προσεκυνησεν(プロセクネセン:拝む)
使徒5:15 影を投げかける επισκιαση(エピ スキア セ)
コロサイ2:17、ヘブル8:5 影(暗黒) σκια(スキア)
ヘブル10:1 影(肖像、形) εικων(エイコーン)
ヤコブ1:17 影(移りゆく影) αποσκιασμα(アポ スキア スマ)
ειδωλα(エイドラ:偶像)と、
εικων(エイコーン=イコン:影・肖像・形)は、語彙としては明らかに違う。
ただ、まかり間違うと「影かたち」と言えど「偶像」の誹りを免れない。
マルコ12:16
彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、
「これは、だれの肖像(εικων)、
だれの記号(銘=罪状書:επιγραφη)か」。
彼らは「カイザルのです」と答えた。
マルコ15:26
イエスの罪状書き(記号=銘:επιγραφη)には、
「ユダヤ人の王」(Ο βασιλευζ των Ιουδαιων
ホ バシレイウス トン イウダイオン)と、
しるしてあった。
Tコリント15:49
すなわち、わたしたちは、土に属している形(εικονα)をとっているのと同様に、
また天に属している形(εικονα)をとるであろう。
コロサイ1:15
御子は、見えない(神のかたち:εικων του θεου)であって、
すべての造られたものに先だって生れたかたである。
と、あるように「天に属する形」「神のかたち」を見て敬うので、
「イコンを天国の窓」と称しているモノと思われる。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第二章 初期の異端
1.エビオン派
「ユダヤ教的律法主義的異端」
パリサイ的キリスト教
「ヤコブやペテロは律法を守っているから、まことの使徒である。
しかし、パウロは律法を否定するから、にせ使徒であり、異端である」
キーワード:「異なる福音」(ガラテヤ1・7−9)
「罪の意識」(ローマ3・20)「律法を終わらせられた」(ローマ10・4)
「キリストから離れ」(ガラテヤ5・4)
「批評させてはなりません」(コロサイ2・16)
@肉食を禁じ(レビ記11・1−23、申命記14・3−21)
A土曜安息日を守ることは、
エビオン派の再来。
B血を食うことを禁じる(レビ記17・10−14、使徒15・20など)
として、輸血を禁じるエホバの証人教団は助かるものを、みすみす殺している、
現代のエビオン派。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
2.ドケティズム
ギリシャのグノーシス哲学は「霊肉二元論」を唱えました。
「肉体は悪魔に属し、霊魂は神に属す」
ドケティズムの否定は、
肉でも神に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記1・28)
悪魔は霊体のままに罪を犯す(ヨハネ8・44)
人の三分性「霊、たましい、からだ」(Tテサロニケ5・23)
「聖霊の宮」(Tコリント6・19)
「父のみもとから来られた」(ヨハネ1・1−14)
「信じるものになりなさい」(ヨハネ20・27)
「いのちがあらわれ・・・御父とともにあって」(Tヨハネ1・1−2)
元始的五重の栄光(コロサイ1・15−17)
贖罪的五重の栄光(コロサイ1・18−20)
別名は、仮現説アンテオケの改宗者「ニコライ派」。
3.ケレンタシズム
人間の合理性と超人的カリスマとを混交させた。
イエスの処女降誕と復活(と再臨と悔い改め)を否定し、
聖霊によるイエスの奇跡を強調した。
「だれでも、聖霊が臨むと、イエスのように奇跡が行われる」とした。
パウロは警戒して言う、
「ユダヤ人はしるし・・・ギリシャ人は知恵・・・
しかし、・・・(神性と贖罪と大祭司の)キリストを述べ伝える」
(Tコリント1・22−23)
「受け入れてはいけません」(Uヨハネ10)と、
ケレンタシズムを否定。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
4.モンタノス
「初めの愛」(黙示録2・4)から「神の啓示」と予言を始めました。
170年に世界は終わる。と言うのに対してリバイバルが起こった。
第1に、新しい聖霊は、自分を通してのみ語ると思いこむ。
第2、主イエスの再臨日を設定した。
が、正統な教えは「父だけが知っています」(マタイ24・)
第3、天のエルサレムの降下地点を聖書以外から決めた。
一種の誇大妄想患者の症状を呈していたが、神のお告げと信じた。
予言がはずれ失望したねじれで、律法主義的な禁欲主義に陥ってしまった。
現代で言う統一協会やエホバの証人のようである。
アジア会議(200年以前)で公式に非難されたが、
この手の熱狂主義者は、いつの世もいる。
5.アリウス説
アレクサンドリアの主教アレクサンドロスが、「三位一体論」を解明し、
それに対して、アリウス(250−336年ごろの人、リビア生まれか)は、
「異教の多神教とまぎらわしい」と反論し、一神論「一位論」を展開。
「神は父だけ」(箴言8章22節〜31節を引用)
「御子は神に類似してはいるが、神と同質ではない」と主張した。
325年のニカイア会議は、
アレクサンドロスの助手のアタナシオス(295ごろ−373年)は、
類似説に対して、メシア観と贖罪観の結合で、同質論を主張した。
アリウスの「類似」のラテン語「HOMO i OUSIOS」と、
アタナシオスの「同質」のラテン語「HOMO OUSIOS」とで、
「i」違いの大問題となった。
「イエスが神でなければ、罪のあがない主にはなり得ない」と、
同質論の三位一体論に、ニカイア会議では軍配が上がった。
エホバの証人は、アリウス説を採用している異端である。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
6.ペラギウス主義
ペラギウス(360ごろ−420年ごろ)は英国?アイルランド?の修道士。
パレスチナのヒエロニムスと、
アフリカ(カルタゴ?)アウグスティヌスの恩寵主義に対して、
個人的道義の責任を主張し、原罪を否定して自由意志を高調した。
1.アダムは罪に陥らなくても死ぬべきであった。
2.アダムの罪が全人類に及ぶはずがない。
3.人間は、堕落以前のアダムと同じ状態で生まれてくる。
4.全人類は、アダムの罪によって死ぬのでもなく、
キリストの復活によって生きるのでもない。
5.人間は律法を行うことによって、福音によると同じく、天国に入ることができる。
6.人間は主の再臨前にも、完全にきよめられた者となり得る。
「アウグスティヌスは、善悪に対して人間の責任能力を否定するもの」と解して、
「個人的良心の責任」を確立しようと図った。
ケレスティウスをはじめ、共鳴者が出たが、カルタゴ会議(412,16,18年)
エルサレム会議(415年)ディオポリス会議(415年)などで、
「原罪の否定」として退けられ、異端宣告を受けた。
7.ネストリオス派
コンスタンチィノポリスの総主教ネストリオス(428−431年)は、
第2戒のカットと第十戒の2分割の異教の偶像に変わるキリスト教の偶像崇拝容認と、
「マリヤの永生処女説」「マリヤの無原罪説」「被昇天説」
イエスの名に替えてマリヤの名で祈る、ローマ教会の罪を告発した。
431年のエペソ総会議では、正統説が「神の子と呼ばれます」(ルカ1・35)で、
「彼女は人としてのイエスを生んだ。」というネストリオスの説は、
神性を薄くしたとして異端宣告を受けた。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第三章 正統キリスト教の規準
1.聖書観 ラテン語:定規「キャノン」(正典)旧新約聖書66巻
マルティン・ルター「信仰のみ」聖書と伝承の併用でなく「聖書のみ」
善行の功徳ではなく「恩寵のみ」
ルター派は、ニカイア信条、アタナシオス信条、
アウグスブルグ信仰告白に準拠、
プレスビテリアン(長老派)や、リフォームド(改革派)は、
ウエストミンスター信仰告白を信奉。
日本聖書協会のものを用いる。
2.神観
カルケドン総会議(451年)において、神の三位一体論は定着。
「神は愛」(第一ヨハネ4・8)「聖なる方」(第一ペテロ1・16)
「義なる方」(ローマ3・5、26)
「怒りの神」(ローマ1・18、2・5、エペソ2・3、ヨハネ3・36)
「悔い改めを待ち望んでいる」(第二ペテロ3・9)「さばき主」(ユダ15)
「万物をご自分に帰一」(Tコリント15・28)
3.メシヤ観
御子は御父と同質。創造者。預言者。十字架で贖罪を全う。昇天して大祭司。
聖霊を注いで執り成し。再臨してサタンを滅ぼす。罪人を裁く。王として君臨。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第三章 正統キリスト教の規準
4.聖霊観
使徒信条では「我は聖霊を信ず」とあるとおり。
御子は父より生まれ、聖霊は父より『送り出された方』(詩編104・30)
第一、エホバの証人の言う、単なる「神の力」ではない。
第二、モルモン経典の言う、「エーテルの一種」ではない。
第三、聖霊は主イエスのように自らを現さない。
理性と愛情を持つ、悲しみ(エペソ4・30)痛み(イザヤ63・10)
うめかれる(ローマ8・26)助け主(ヨハネ14・16)
真理の御霊(ヨハネ14・17、16・13)で、あらわれる。
栄光を現す方(ヨハネ16・14)潔め主(マタイ3・12)
イエスの言葉を思い出させる力(使徒1・8)語らせる(マタイ10・20)
不法を阻止(Uテサロニケ2・7)
よみがえらせ栄化させる(ローマ8・11、Uコリント3・18)働きをする。
5.贖罪観
創世記3章15節「敵意」が預表、「皮の衣」が血の犠牲(創世記3・21)
アベルの羊の初子(創世記4・4)
新約ではイエスご自身が十字架の死を預言。人類の罪のあがないであると。
使徒パウロは、
十字架の死と復活が、罪人が義とされる唯一の道、神との和解の道とした。
イレナエウス(130ごろ−200年ごろ)は、「罪と死と悪魔から救い出すため」
オリゲネス(185ごろ−254ごろ)は、賠償説「悪魔に支払った代償」
アンセルムス(1033−1109年)満足説、神はキリストの支払いで満足。
アベラルドゥス(1072ごろ−1142年)道徳感化説「愛の最高の表現」
トマス・アクィナス(1224−74年)ローマ教会の贖罪論「罪深さと慈悲の偉大さ」。
ルターもカルヴァンも、道徳感化論を非難。パウロ説に戻す。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第三章 正統キリスト教の規準
6.再臨観
テサロニケ第二の手紙2章1節〜13節
ヨハネ黙示録11章〜13章1節〜10節
ダニエル書7章、9・27、11・40−45、12・1
ゼカリヤ12・1−5
第二テサロニケ2・8『だまされないように』(Tテサロニケ2・1−3)
【 再臨の具合 】
1)よみがえる。Tテサ4:16
2)携挙、Tテサ4:17
3)大艱難を通り救われる、ダニ12:1,ロマ11:26
4)反キリスト偽予言者滅ぶ、黙示19:20
5)悪魔閉じこめ、黙示20:3
6)ハルマゲドン、黙示16:16、 3/2死ぬ、ゼカリヤ13:8
7)羊と山羊に分ける、マタイ25:31−46
8)神殿再建、エゼキエル40
9)全世界から神礼拝、イザヤ2:2、ミカ4:2
10)恒久平和、イザヤ2:4、ミカ4:3
11)正しい政治、イザヤ11:1−5
12)百歳死には呪われと言うほど長生き、イザヤ65:20
【 再臨のキリスト 】
1)オリーブ山に立つ、ゼカリア14:3−4
2)東の門から、エゼキエル43:4
3)シオンの山に立つ、黙示録14:1
【 千年王国 】
1)前再臨説 プレ 聖霊降臨を再臨、教会制度を千年と見る。
2)後再臨説 ポスト 福音が広まったら再臨。
3)無千年説 アンチ 神の審判は最後の一遍で終わる。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第三章 正統キリスト教の規準
7.教会観
ギリシャ語の原語エクレシヤは、ギリシャ市民が議会に招集されるの意味。
会見の幕屋の組織「カハール」
申命記23:3「主の集会」ネヘミヤ記13:1「神の集会」
「あなたは、生ける神の御子キリストです」と信仰告白した者たちが、
共に集まって、主イエスに仕える組織体が教会です。
ウエストミンスター信仰告白の上では、
「見えない教会」天に移された聖徒と地上のあらゆる信仰者集団。
「見える教会」地上の各教会そのもの。
ぶどうの木に対する枝(ヨハネ15:1−2)神の家(Tペテロ4:17)
愛情においてはキリストの花嫁(黙示録19:7)
奉仕においてはキリストのからだ(エペソ1・23)
宣教においてはキリストの軍団(第一コリント15:23)
携挙(Tテサロニケ4:16−17)の集まりが教会。
(主を)完全に知ることになります(Tコリント13:12)。
エホバの証人やモルモンの自分たちのみ教会は思想が脱線。
8.啓示の充足性
66巻の聖書によって神の啓示が充足しました。黙示録22:18−19
創世記と黙示録でも対応があり、創世記に始まった神の救いの経綸は、
ヨハネの黙示録で大団円を告げるので、神の啓示は充足されました。
それ以降の聖書はあるべきはずでないのです。
ブルトマン一派のように「聖書の非神話化」で常識や不合理で削除したり、
末日聖徒イエス・キリスト教会のモルモン経典や、
統一協会の原理議論を成約聖書とするがごときは許されません。
自ら異端性を暴露したものです。
●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)森山諭 著
第三章 正統キリスト教の規準
9.福音の独一性(または排他性)
キリスト教は愛と包容性を説きます。
敵に対してさえ「寛容であれ」と教えるのです。
その同じキリスト教が、福音の純粋性を守るためには、
偏狭排他的でさえあります。
狭き門(マタイ7:13−14)からは入り、
救われるべき名(使徒4:10−12)はキリストのみ。
シンクレティズム(混合宗教)は、
聖書の規準に合わない「失格者」(Tコリント9:27、Tテモテ3:8)です。
10.最後の決め手、倫理性の問題
「山上の垂訓」「天国の憲法」(マタイ7:15−20)
キリスト教の中には、三種類の道徳廃棄論がある。
第一、ドケティズム「肉の支配で罪を犯さざるを得ない」犯罪是認。
「悪魔から出た者です。」(Tヨハネ3:5−8)
パウロは三種類の人間に分けた。
@「生まれながらの人間」つまり未信者(Tコリント2:14)
A「肉に属する人」「キリストにある幼な子」(Tコリント3:1)
異端でない幼稚クリスチャン。「円熟を目ざして進むべき」(へブル6:1)
B「御霊を受けている人」(Tコリント2:15)
第二、「人間の罪を処罰する・・・あり得ない」には、
「離れて行け」(マタイ7:23)「刑罰に入り」(マタイ25:46)
「黄泉に落とされ」(ルカ16:14−24)がある。
第三、「何をしても処罰されることはない」には、
「原始福音」の手島郁郎や「風」の村国大三郎などいます。
「神の国を相続することはありません」(ガラテヤ5:19−21)
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(ヘブル10:26−31)
「新しく造られた者です。」(Uコリント5:17)
クリスチャンの倫理性の問題が、その教義の真偽を判断する基準になるのです。