★★★生長の家と白光真宏会★★★

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1田楽マン
生長の家と白光真宏会の方で楽しくお話をしましょう。

それではまず私から・・・
生長の家は悪は無いと言います。悪は実在では無い。現れとしてはある。
現れとしてあるのなら、普通にあるのと同じじゃないかー!!と
激しくツッコミたくなります。
これは病気無し、罪無しも同じです。

白光真宏会では物質は『空性』であると言います。
物質は本来、空の性質だと思う方が自然だと思います。

生長の家では『人間神の子』と教えます。
でも、人間の本心と業想念をちゃんと分けて教えてくれないので、
業想念の人間も神の子と思い違いをして、人に騙されたりします。
『人間本来神の子』か『人間の生命は神の子』と教えて欲しいです。
2田楽マン:02/06/24 12:18
生長の家と白光真宏会を勉強した私の結論は
「生長の家の教えは忠実にやろうとしても一日たりとも実行出来ーん!」
です。
人の悪いところが一日でも見えなかった日なんて無いです。

偽善者ぶらずに自然と実行できる白光真宏会の五井先生の教えの方が
優れていると思いました。
谷口先生自身、自分の教えが実行できないのではないかと晩年考えておられたそうです。
3:02/06/24 12:56
『宗教悪をくじく』 昭和十二年三月二日発行  野依秀市
「生長の家」の人間観批判
  
我が「浄土眞宗」において「罪悪深の重凡夫」とか、「小慈小悲もなき身」とかい
うのがいけないというのである。
 『「生命の実相」の解説』の中には
 『「生長の家」は人類を讃嘆し讃美するために生れたのです。今の世界にはあまりに
人類を侮辱する言葉が多すぎる。新聞を見ると人殺しや、夫婦喧嘩や泥棒の記事は大袈
裟に出ていて、親孝行をしたというようなことは小さく出ている。夫婦仲が好いなどと
いうことは少しも出ていない。善い事は言葉に現わさないで、悪いことばかり大袈裟に
書いてある。――これは言葉の力で人類を暗黒化しようという働きも同然であります。
この人類暗黒化運動に反抗して決然起ったのが『生長の家』の人類光明化運動なのです』
 と言っている。
 これは一応もっともなことであって、新聞が兎角善いことよりも悪いことの方を余計
に掲げる傾向のあるのは事実である。
 人間には、善いことをするのは当然である、悪いことをするのは好ましくない、とい
う心理があるので、それがやがて新聞の上にも現われるのであって、一面からいえば、
それはそういう悪い真似をしたくない、こういう悪いこともあるということを知って、
注意するようになると考えられる。したがって、それは人間のありのままの姿を書いた
のであって、何も人類を侮辱するものではない。
 しかるにこれを「言葉の力で人類を暗黒化しようという働きも同然であります」とい
っているのは、実に思わざるの甚だしきものである。
 こうした社会の実相を知らせなければ、それに対する対策も考えられないか
ら、夫婦喧嘩や人殺しや泥棒などという好ましからぬ記事が出るのも無意義なことでは
ない。
4:02/06/24 12:57
 衛生思想が発達して社会から病気を少くし、人類の寿命を長くするというのも、ここ
に黴菌がいる、こういうものを食ってはならぬ、ということを知らせればこそ衛生思想
が普及し、人類の保健が保たれるのではないか。
 こういう意味からいって、人間の悪い方面は言わずに、善い方面ばかりをいうことは
不具であって、それでは人間の真実の姿を知らせることは出来ないことになる。人間を
改善することも不可能になってくる。
「生長の家」がこういう方面のことを非難して「人類暗黒化運動に反抗して決然起った
のが『生長の家』の人類光明化運動なのです」といっているのは全く見当違いであって、それは単に独りよがりに過ぎないものである。
この「罪悪深重の凡夫」ということは偽らざる人間の事実である。もとより一面においては人間如何にも麗しい心持になる時もあるけれども、その反面においては実に見苦し
く親にも兄弟にも妻女にも言われないような恥ずかしい心持の起る時もありはしない
か。私にはしばしばそうした心持が起って来る。勿論親鸞聖人にもあったのである。
 道徳心の低い時にはそうした自己の醜い姿、罪悪というものに気がつかないが、
道徳心がだんだん向上して来るにしたがって、道徳の標準が違って来るから、自己の
浅ましい心、醜い姿というものが自然に分って来るわけである。そうすると、なるほ
ど自分は「罪悪深重の凡夫」であったということに思わず知らず気づくのである。
 たとえていうならば、百万円の財産を目標として働いている者が、千円や二千円
儲けたのでは殆ど問題にならぬ。それも二十代から百万円を志望して、その時既に
千円、二千円という儲けた金があるのならば、まだ先も長いし、これからだという
気持にもなろうが、その百万円の志望者が五十歳、六十歳、七十歳になって一万か
二万の金を儲けたのではいうに足らないから、金持ちになったような気持はしない。
5:02/06/24 12:58
 それと同じように、道徳心の低いものは自分の罪悪に気がつかない。浅ましい姿が
分らない。そういうものに向って「罪悪深重の凡夫」などというと、一体自分の何処
が悪いのか、親鸞聖人はやたらに火宅無常の世界だとか、凡夫の迷心だとか、小慈小
悲もなき身とか余計なことをいったものだ、という気が起って来るものである。
 私もかつて信仰に入る前にはそういう気持が起ったことがある。いやに悲観たらし
く「火宅無常の世界」などということが癪に触ってならなかった時代もあったが、信仰
に入って後に反省して見ると、なるほど罪悪深重の凡夫であるということがつくづく
感じられた。
 そして又、地獄行の凡夫であるなぞ言われたりすると、地獄なんかあってたまるも
んかと思った時代もあったが、真に自己の罪悪がわかるようになると、地獄があると
かないとかそんな馬鹿なことが言えるものか、それよりも、自分自身が地獄へ行かねば
ならぬ人間ではないかということが分って来るのである。そこには、もう地獄の有無
なんか問題にならぬのである。
 我々の罪悪感、我々の信仰ぶりを「生長の家」の谷口氏はどう思われるであろうか。
もう一度考え直してもらいたいものだと思う。
6名無しさん@1周年:02/06/24 16:36
7田楽マン:02/06/24 23:16
生長の家の方で一日でも生長の家の教えが実行できた人いますか?
天地一切のものに感謝せよって神示にありますが、
天地一切のものに感謝出来ないうちは病気や悪霊に侵されるって話ですが、
これではいつまで立っても病気にならない日は来そうにないなぁって感じです。
8名無しさん@1周年:02/06/29 23:21
あげ
9田楽マン:02/07/02 12:42
生長の家の教えは日々、実行不可能でありながらなぜそのことに気づかないのか?

私の経験では『いつかその心境に辿り着けるのじゃないか』とそんな希望を持ち
ながら、自分を誤魔化していた気がします。

天地一切のものに感謝せよ 
っていわれても感謝って感謝の気持ちが自然と湧いてくるから感謝するのであっ
て『感謝せよ』っていわれてするものじゃない気がします。
五井先生は「身近な事から少しずつ感謝していきましょう」ってそれなら出来ます。
10田楽マン:02/07/02 12:49
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命がまっとうされますように

http://www.yuiitsukai.net/

ここに五井先生の教えが分かりやすく説かれておりますので、
参考までにご覧になって下さい。
11田楽マン:02/07/02 12:56
私は知る権利と選ぶ権利を与えるだけです。
生長の家もすごくいいです。
上層部の方々は見るなと言うでしょう。
でもいくら高名な料理評論家が「ここのラーメンはマズイ」と言っても
本当なのかどうなのかは自分で確かめてみないと分かりません。
たとえみんなが口をそろえて「マズイ」と言ったとしても
ウマイと思ったら「ウマー!」と大声で叫びましょう。
まぁ食べてみそ
12田楽マン:02/07/02 18:48
私の立場は中立です。
谷口先生や五井先生は非常に尊敬していますが、宗教は法の下に集まるのです
から、ただ単純に法として知ることは良いことだと思います。
お二人の誕生日が同じだというのも、とても興味深いです。
雁屋哲著 [日本人と天皇]より

昭和天皇の「伝説」は果たして真実だったのか
「戦争の全責任を負う」とした美談。「平和主義者」の評判……だが天皇自身が語った
「独白録」にその反証が記されている。

発見された二つの「独白録」

『文藝春秋』一九九〇年十二月号に「昭和天皇独白録」が発表された。戦後天皇の御用
係を務めた寺崎英成の遺品の中から遺族が発見したものである(寺崎英成とマリコ・
テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』として文藝春秋よ
り刊行)。
 寺崎英成は一九〇〇年に生まれ、外交官として一九二七年から一九三二年までアメリカ
に勤務した。その間にアメリカ人、グエンドレン・ハロルドと結婚している。一九四一年
に再びアメリカ勤務になり、日米開戦後の一九四二年に日本に帰ったが、一九四六年二月
から宮内省御用掛に任命された。この御用掛とは形の上では天皇の通訳であったが、寺崎
の日記を読むと、寺崎は単なる通訳というより、天皇とマッカーサー司令部の間を取り持
つ役目も果たしていたようである。
 この「独白録」は、一九四六年三月一八日までの間に、四人の側近と寺崎によって計五
回にわたって行われた昭和天皇に対する聞き取り作業の記録であって、日中戦争から、太
平洋戦争の終結にいたるまで、天皇の考えていたこと、行なったことが本人の口から語ら
れているのである。
 問題はこの「独白録」が一体何のために作られたか、ということだ。単なる回顧録とい
う説と、東京裁判対策のための弁明であるという説が対立していたが、決定的な証拠がな
かった。ところが、一九九六年高松宮についての番組を作るために、マッカーサーの側近
を務めていたボナー・フェラーズの遺族に協力を求めに行ったNHKの取材班が、フェラ
ーズの娘の保管していた文書の中から思いもよらず、英語板の「独白録」を発見した(東
野真著『昭和天皇二つの「独白録」』としてNHK出版より刊行)。
 この英語版の存在が、「独白録」は東京裁判に向けた弁明の書であることを裏付けた。
 寺崎が御用掛を務めるようになってから妻グエンドレンとフェラーズは遠い親戚である
ことがわかって、寺崎とフェラーズは家族ぐるみのつきあいになり、二人は天皇とマッカ
ーサーの間の連絡役として緊密に働いた。フェラーズはマッカーサー第一の側近であり、
マッカーサーは占領政策においても天皇擁護派のフェラーズの意見を多く取り入れたと
いう。寺崎は勤王家であった。その二人の連繋がこの「独白録」を生み出すのに力があっ
たのではないか。

昭和天皇を無罪にする弁明の書

 ボナー・フェラーズは一九四六年三月六日、米内大将と会って大略次のようなことを言
っている。「連合国軍の占領政策について、天皇の協力が必要だが、ソ連、英米において
天皇を戦犯として裁くべきだという主張が強い。それに対する策としては、日本人の方か
ら天皇は罪がないことを立証してくれることが好都合だ。そのためには近く開かれる裁判
で東条に全責任を負わせることだ。すなわち東条に、『開戦前の御前会議においてたとえ
天皇が対米戦争に反対であっても自分は強引に戦争まで持っていくつもりであった』と言
わせてもらいたい」
 それに対して米内大将は、「東条と嶋田元海相に全責任を負わせることが天皇を無罪に
する最善の方法」であると賛成した。
 ボナー・フェラーズは天皇を免責にすることは、占領政策を円滑にするために是非とも
必要なことだと考えていた。天皇を東京裁判の被告にしたり、証人として喚問したりしな
いように、最初から免責となるための弁明を天皇自身にさせるために天皇に「独白録」を
作らせたのだ。そのフェラーズの意を天皇に伝えたのが寺崎だったのだろう。それで、天
皇が「独白録」を作る際に、重臣たちの他に寺崎も同席していたことの理由がわかる。も
し、単なる回顧録を作るためだったら、通訳が主な仕事である御用掛の寺崎がそこにいる
理由がない。
 重要なのは、英語版の冒頭に、「一九四五年八月十五日に、すなわち日本本土が侵攻を
受ける前に、戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開
始の許可を下したのか、という疑問が生じる。この疑問を解明するには、一九二七年にさ
かのぼり、軍国主義者たちと天皇がどのような関係にあったのか、天皇自身に回想しても
らうことが必要である」と書かれていることだ(『昭和天皇二つの「独白録」』
197頁)
 その要求通り、天皇は、「自分は専制君主ではなく、立憲君主なのだから、開戦の際東
条内閣の決定を裁可したのはやむを得ないことであるし、もし、拒否していたら、内乱が
起って、自分自身も殺されるか誘拐されるかしたかもしれない。その結果日本は滅びてい
ただろう」という弁明をした。
 これが、フェラーズとマッカーサーの欲しかったものだった。天皇を免責し、裁判の被
告人にしないですむ弁明を本人の口から手に入れたし、その後、東京裁判の席で、
東条は、「天皇は、私の進言によってしぶしぶ(開戦に)ご同意になったというのが事実
でしょう」と証言して天皇の戦争責任をかぶり、マッカーサーとフェラーズの、天皇を戦
犯として訴追しないという希望は通ったのである。
天皇美談をくつがえす側近の日記

 さて、ここで、問題になってくるのは、漫画にも取り上げたが、マッカーサーがその
『回顧録』に、一九四五年九月二七日に天皇がマッカーサーに会いにきて「私は、戦争中
に決定されたすべての政治的、軍事的決定と我が国民がおかした行為について全責任を負
う者として、貴下が代表する連合国の判断に私自身をゆだねるために、ここに参りまし
た。」と言い、それに対してマッカーサーが感動した、と記していること。また、その後
皇太子の教育にあたったバイニング夫人はその日記に、マッカーサーから聞いたこととし
て天皇が「私をどのようにしてもかまわない。私はそれを受け入れる。絞首刑にされても
構わない(You may hang me)」と言った、と記していることだ(『中日新聞』一九八七年
一〇月三日より)。
 この話は最高の天皇の美談となり、多くの天皇崇拝主義者は、マッカーサーに対してそ
こまで言った天皇は日本人全体にとって慈父のような存在であり、天皇の戦争責任など
全く問題ではない、と言う。
 しかし、天皇は、本当にマッカーサーにそんなことを言ったのだろうか。この件に関し
てはいろいろな人が調べているが、会見の時に通訳をした奥村勝蔵の書いた「マッカーサ
ー元帥トノ会見録」という文書を、作家の児島襄が『文藝春秋』一九七五年一一月号に発
表している。その「会見録」には、天皇がマッカーサーにそんなことを言ったとは記録さ
れていないのである。
 さらに、戦前戦後を通じて天皇の側近を務めた木戸幸一の残した日記を見ると、天皇が
マッカーサーを訪問した翌々日、九月二九日に、次のような記述がある。
「(天皇は〉天皇に対する米国側の論調につき頗(すこぶ)る遺憾に思召され、之に対し
頬被りで行くと云ふも一つの行方なるが、又更に自分の真意を新聞記者を通して明にする
か或はマ元帥に話すと云ふことも考へらるヽが如何、との御下問あり」(『木戸幸一日記
下巻』東京大学出版会1238頁)
(ここで言われている「米国側の論調」というのは、たとえば、
武田清子『天皇観の相剋』<岩波書店>21頁に、一九四五年六月二九日『ワシントン・
ポスト』紙が報じたギャラップ世論調査の結果として「天皇を死刑にしろというもの三三
%、裁判で決定というものが一七%、終身刑にしろというものが一一%」などと紹介され
ているが、そのような天皇に対しての厳しい論調のことを言っているのだろう。)
 木戸はそれに対して、「弁明すればする程当方に希望に反し邪道に入るの虞(おそ)れ
あり」、したがって、「御憤懣は充分御察し申上るところなるが」ここのところは隠忍し
て沈黙していた方が良い、と答えるのだが、その後も、天皇は木戸に対して「自分はファ
シズムを信奉していない」とか、「こんなことになったのも自分があまりに立憲君主的に
振る舞ったからだ」とか延々と言い訳と愚痴をこぼし続けるのである。「頗る遺憾に思召
され」や、「御憤懣」などの言葉に、天皇がかなり気持ちを高ぶらせていることがわか
る。
 問題は、ここで天皇は「マッカーサー元帥に話す」と言っているが、一体マッカーサー
に何を話したかったのかということだ。それは、木戸の言葉通り「米国側の論調」に対す
る「弁明」でしかあるまい。
 であれば、これほど、激しくマッカーサーに対して弁明したがっている人間が、二日前
には同じマッカーサーに「すべての責任を取る」とか「絞首刑にされても構わない」など
と言った、といわれても信じるのは無理というものだ。「You may hang me」と本当に
言った人間であれば、アメリカの論調がどんなに厳しくても、「頗る遺憾に思召され」た
り「御憤懣」を表したりせず、従容としてそれを受けるはずである。
 しかも、漫画にも書いてあるが、一九七五年の「戦争責任などというのは言葉のアヤ」
発言があった。(七五年一〇月訪米後の記者会見で天皇の戦争責任についてどう思うかと
いう質問に対して昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては私はそういう文学方面はあ
まり研究もしてないのでよくわかりませんからそういう問題についてはお答えできかねま
す」と答えたこと)
いくら三〇年も後とはいえ、マッカーサーにそれだけのことを言った
同じ人間が、そのような重大な質問に対して人をはぐらかすような答弁をするだろうか。
 さらに、この「独白録」によって、そうした天皇美談はもはや成り立つ余地がなくなっ
た。「独白録」には、自らの弁明だけでなく、部下に対する個人的な好き嫌いも交えた厳
しい人間批評も含まれている。天皇自身三国同盟に反対だったことを強調するためなのか、
三国同盟を結んだ松岡洋右外相について「恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのでは
ないかと思はれる」(『昭和天皇独白録』56頁)などと、これが一国の君主の言うこと
かと唖然とせざるを得ない極端なことを言っているのだ。そのような弁明書を作る人間が
同じ時期にどうして「You may hang me」などと言うはずがあるだろうか。
 ではまぜマッカーサーはそのようなことを『回顧録』に記したのか。それについては、
大統領選出馬を考えるほど野心家であり、自己顕示欲が強かったマッカーサーが、連合国
軍最高司令官としての自分の業績を劇的に見せるためだったのではないか、という説が有
力である。占領政策のために天皇を訴追しなかったことに対する批判をかわす目的で、天
皇に同情を引く浪花節的な話を作ったのだろう。
昭和天皇は「平和主義者」だった?

 いずれにせよ、この天皇の弁明は通って、戦犯として訴追されることもなかった。そし
て、「天皇自身は平和を求めたのだが、軍部が天皇の意志を無視して戦争に導いた」とい
う説が広く行きわたった。天皇自身、その説を補強した。一九八五年四月に日本の記者た
ちとの会見の場で、記者の一人が、一九四五年九月六日の御前会議の席上で昭和天皇が、
明治天皇の作った「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ」という
和歌を引用したことについて質問したのに対して、天皇は「その時の御前会議であります
が会議の議題第一義に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力とい
うことになっていましたが、私は、平和努力というものが第一義になることを望んでいた
ので、その明治天皇の御歌を引用したのです」と答えている(高橋紘『陛下、お尋ね申し
上げます』文春文庫より)。これによって、天皇は、自分では戦争を望まなかった「平和
主義者」であるという印象が強まった。
 だが、この、九月六日の御前会議は日本の運命を決めた重要な会議であって、その会議
では、簡単にまとめると「日本は対米(英蘭)との戦争準備を一〇月下旬をめどに完整す
る」「戦争準備と平行して、米・英に対して外交手段をもって日本の要求貫徹に努める」
「外交交渉が一〇月上旬までにうまくいかない場合には直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
る」という「帝国国策遂行要領」を決めたのである。ところが、ここで言うところの、
「日本の要求」というのは、「日本が中国でしていることに対して、米英が余計な口出し
をしたり妨害しないこと」というのだから、米英が呑むはずはなく、ここで「帝国国策遂
行要領」を決めたことは英米との開戦を決定したことと同じ意味を持つ。
 そのような重大な御前会議で、昭和天皇がもし本当に戦争に反対であったなら、どうし
てそんな明治天皇の歌をよむような曖昧なことをせずに一言、「朕は戦争はのぞまぬ」と
言わなかったのだろう。はっきりそう言ってこそ、「平和主義者」だったと認めることが
できるのだ。
 第一、それまでの天皇の一連の言動を見れば、その時に明治天皇の歌をよんでも、天皇
が平和主義者で本心から戦争を望んでいなかったと思うのは難しい。
 この御前会議以前の一九三一年、関東軍が中央に無断で柳条湖で南満州鉄道の線路を爆
破し、それを中国軍の仕掛けたこととして攻撃を始めた満州事変については、関東軍幹部
が天皇の意志によらず勝手に兵を動かした明らかな統帥権の干犯だったので、天皇は最初
喜ばなかった。が、うまくいったとなると、天皇は関東軍に「勇戦力闘」を称える勅語を
与えた。その内容は「(前略)勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ
朕深ク其忠烈ヲ嘉(ヨミ)ス(後略)」というものだ。(満州事変後の勅語 まず「満州
ニ於テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上」と述べ、満州事変は「自衛の必要上」と明言して
いる。続けて「各地ニ蜂起セル匪賊(ヒゾク)ヲ掃蕩(ソウトウ)シ克(ヨ)ク警備ノ任
ヲ完(マット)ウシ」と述べ、さらに「皇軍ノ威武を中外に宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉
ス」と、関東軍将兵の行動を称える、いわばおほめの勅語を出している。)
そもそも、この満州事変が泥沼の日中十五年戦争の始まりであり、満州占領、満州国建国
という、一連の中国侵略政策に米英が反対したことから、太平洋戦争へとなだれ込んでい
ったのだ。その破滅への大きな一歩であった満州事変を、それも謀略をもって他国を侵略
するという一番汚い手を使ったのに、このように称える人間をどうして平和主義者だと言
えるだろうか。
 しかも、軍が天皇には無断で勝手にしたことでもうまくいけばほめられる、という前例
がこれによってできてしまった。これでは、天皇がはっきり戦争はやめると言わない限
り、それまでの慣例から、戦争がうまくいけばまたほめてもらえると軍の指導者たちが考
えるのは当然だ。だから、重臣たちは明治天皇の歌を聞いても恐れ入るだけで、戦争をや
めようとはせず、どんどん事を進めていったのだ。
 さらに、天皇がいやいや開戦の決定を裁可したとはとても思えぬ証拠がある。一九四二
年二月十五日、日本軍はシンガポールを陥落させたが、その翌日二月十六日の『木戸幸一
日記』には、
 「シンガポールの陥落につき祝辞を言上す。陛下にはシンガポールの陥落を聴し召され
天機殊の外麗しく、次々に赫々たる戦果の挙がるについても、木戸には度々云ふ様だけれ
ど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふとの仰せり。真に感泣す」
 とある。
 いやいや開戦の決定を裁可した人間が機嫌よく「全く最初に充分研究したからだ」など
と言うだろうか。「独白録」の結論、「開戦の決定を裁可したのは立憲君主としてやむを
得ぬことである」というのは、弁明のための弁明でしかないことがこれ一つをとってもわ
かる。
 
天皇は「囚人同然」だった?
 
 英語版の「独白録」の中では、「御前会議とはおかしなものである。(中略)天皇はと
いえば、そこに座って全員一致の議決を聞き、出席者たちと写真に収まる。見かけはまこ
とに厳粛だが、すべては民衆の目をごまかすための単なる茶番に過ぎない」とか、「私が
天皇として〔開戦の議決に対し〕拒否権を行使していたら、恐ろしい混乱が生じたかもし
れない。私の信頼する周囲の者は殺されたであろうし、私自身も殺されるか誘拐されるか
したかもしれない。実際、私は囚人同然で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮
城外の人々に知られることは決してなかっただろう。ついには凶暴な戦争が展開され、私
が何をしようと、その戦いを止めさせることは全くできないという始末になったであろ
う」(『二つの「独白録」』205〜206)などと言っている。
 「囚人同然」とはよくも言ったりで、これではまるで天皇は部下の言うなりのロボット
みたいに聞こえるが、実はそうではない。
 たとえば、二・二六事件の時、陸軍大臣川島義之や侍従武官長本庄繁は、「叛乱将校た
ちは天皇と国を思って行動を起こしたものであり、必ずしもとがめるべきでない」などと
叛乱将校の行動を容認し、天皇にも、叛乱将校たちを「暴徒」と言わないでもらいたいと
言った。すると天皇は「朕の命令に出ざるに勝手に朕の軍隊を動かしたということは、そ
の名目がどうであろうとも、朕の軍隊ではない」と言い、さらに、陸軍上層部が叛乱部隊
を鎮圧しようとしないのを見て怒り、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」
とまで言った。この天皇の断固として厳しい態度を見て、陸軍首脳は叛乱を鎮圧した。
叛乱将校たちに肩入れをしている陸軍首脳の抵抗を押し切って、天皇は鎮圧を断行させた
のである。
 また、一九三九年に阿部信行内閣が成立したときには、天皇は「板垣系の有末〔精三〕
軍務課長を追払ふ必要があつたので、私は梅津〔美治郎〕又は侍従武官長の畑〔俊六〕を
陸軍(大臣――引用者注)に据ゑる事を阿部に命じた」(『昭和天皇独白録』45頁)と
言っている。天皇は、一軍務課長のことまで目を光らせていて、その人間を追い払うため
に、陸軍大臣の人選まで命令している。
 さまざまな記録に残っている天皇の言動を見ると、「囚人同然」どころか、自分で納得
しない限り裁可を与えない厳しさを持っていたことがわかる。

熟慮した末の開戦決定

 昭和天皇の言い方だと、天皇は内閣や輔弼(ほひつ)する者たちの言うことをそのまま
裁可したようになっているが、どんなことでも機械的に裁可したのではない。裁可の前
に、「内奏」といって、政府の方から非公式に天皇に対して伺いをたてる。それに対して
天皇が「ご内意」といって、やはり非公式に自分の意見を伝える。「内奏」の結果、天皇
が賛成の「ご内意」を与えれば、政府は正式に「裁可」を願い出て、天皇は裁可する。逆
に、天皇の意見「ご内意」に政府側が従えないときは、大臣でも首相でも、辞職するしか
ない。
 戦争末期、一九四五年三月、小磯内閣の時に、蒋介石政権の国防長・何応欽(かおうき
ん)とつながっている繆斌(みょうひん)という男が東京に来て日本と中国の和平工作を
申し出たのを、小磯国昭首相はまともに相手にしようとしたが、天皇は「一国の首相とも
ある者が、素状(ママ)の判らぬ繆斌と云ふ男に、日支和平問題に付て、かゝり合はうとし
た」と言って反対し、「この件に付ては(中略)小磯を呼んでかゝる男と交渉する事は困
ると云つてやつた。(中略)小磯も繆斌との交渉を打切る決心をした」(『昭和天皇独白
録』106〜107頁)と言っている。こうなると「ご内意」などというものではない。
強硬な命令だ。「囚人」にこんなことができるというのか。
 さらに、一九四一年一一月五日、東条内閣は一二月初頭に米英に対して武力発動を決め
た「帝国国策遂行要領」を翌日天皇に上奏して裁可されたが、その後、天皇は不安になっ
たらしく、『木戸幸一日記』一九四一年一一月二六日の項には、「(対米英開戦につい
て)愈々最後の決意をなすに就ては尚一度広く重臣を会して意見を徴しては如何かと思
ふ、就ては右の気持を東條に話て見たいと思ふが、どうであらうかと御下問あり」という
記述がある。
 それに対する木戸のすすめによって、一一月二九日、天皇は、若槻、岡田、平沼、
近衛、米内、広田、林など重臣たちを呼んで、対米英開戦についての意見を聞きとった。
いったん上奏を裁可した後になってまで、もう一度確かめるために重臣を呼ぶのである。
それで、裁可を取り消さないのだから、天皇は自分でも納得して戦争を決めたことにな
る。
 また、『木戸幸一日記』一一月三〇日には、高松宮がやってきて、高松宮が海軍側の説
明をして帰った後、「海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたい様な気持だ
が、一体どうなのだらうかね、との御尋ねあり」との記述がある。再び木戸のすすめで、
東条首相、海軍大臣、軍令部総長を呼んで、天皇は話を聞く。その結果天皇は「海軍
大臣、軍令部総長を呼んで、天皇は話を聞く。その結果天皇は「海軍大臣、総長に、先程
の件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様首相に伝へ
よ」と言っている。
 ここまで重臣たちを呼びつけて意見を聞いて熟慮を重ねて、なにが「囚人」だろう。
 こうして、一二月八日開戦のぎりぎりまで、天皇は「囚人」としてではなく、立憲君主
の枠を越えて主体的に行動し、自ら熟慮の挙げ句、開戦を決意したのである。
 昭和天皇は「立憲君主だから、内閣の決めたことは裁可せざるを得ない」と言っている
が、自分の意志に反して開戦の決定を裁可したのではない。天皇は、重臣や軍部の意見を
いろいろ聞いて(研究して)、十分納得してから裁可しているのだ。
アジアへの罪悪感は欠如

 もう一つ、「独白録」を読んで気がつくことは、米英に対しては弁明をするが、中国・
朝鮮を始めアジア各国に対しては全く弁明がないことだ。たとえば、『昭和天皇独白録』
35頁には「日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして、蒋介石と妥協
しよーと思ひ、杉山〔元〕陸軍大臣と閑院宮参謀総長とを呼んだ。(中略)若し陸軍の意
見が私と同じであるならば、近衛〔文麿〕に話して、蒋介石と妥協させる考であつた。こ
れは満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米
の干渉が非道くなり彼我衝突の虞があると思つたからである」と言っている。
 この天皇の本心は恐ろしい。天皇は謀略で満州を手に入れたことを全く悪いことをした
とは思っていず、「満州は田舎だから事件が起こっても大したことはない」と言ってい
る。中国を侵略することも悪いこととは思っていない。蒋介石と妥協しようと思ったのも
「英米の干渉が非道くな」るからである。英米の干渉がなかったら、蒋介石と妥協する気
も起こさなかっただろう。
 要するに、昭和天皇には倫理観念が全く欠如している。アジア各国に対して全く罪悪感
を欠いているのだ。満州事変、支那事変以来、日本軍が侵略を広げていっても、戦争に勝
ってさえいれば文句を言うこともなかった。中国を侵略し、多くの中国人を殺すことが倫
理に反しているとは感じなかった。
 対英米開戦を決定した「帝国国策遂行要領」では、その当時独立国であったタイと同盟
して、マレー・シンガポールを奇襲攻撃するための基地を作ることにしていたが、天皇は
「タイに対する外交交渉は大義名分から言えば早くするを可とし、また軍の奇襲からは遅
い方がよいと思うがどうかね」と杉山参謀総長に尋ねているのだ。要するに、タイとの交
渉を早く始めると、こちらが奇襲しようとしていることがマレー・シンガポールに気づか
れてしまうから、あまり早く交渉を始めてはまずいだろうと言っているのだ。
 第二次大戦開始の時点で他国の植民地になっていなかったアジアの国は日本とタイだけ
だった。そのタイにマレー・シンガポール攻略の基地を作ってしまおうというのである。
そして、実際に日本軍のしたことはタイ国の同意なしに、タイの領地に軍隊を進駐させ、
タイの南部を占領し、そこを基地にしてマレー半島に奇襲攻撃をかけていったのである。
天皇がこのような細かな作戦にまで口を出していることにも驚くが、天皇がタイ国の人間
を犠牲にすることに全く痛痒(つうよう)を感じなかったことには驚きを通り越して恐怖
を覚える。昭和天皇は、満州事変から一貫してアジアの人々を虐げることに対して一切の
罪悪感を抱いていないのである。
 そして、天皇は、この倫理観の欠如の結果なのか、「日和見主義」「ご都合主義」に身
を任せていた。「満州事変」の際、最初は関東軍が勝手に軍を動かしたと怒っておきなが
ら、それがうまくいくと、関東軍をほめる「勅語」を与える。御前会議の席で明治天皇の
歌をよんで平和を求めるような態度を示しておきながら、緒戦にインドネシア、ビルマと
と勝ち進むと、『木戸幸一日記』の一九四二年三月九日の項に記されているように、「余
り戦果が早く挙り過ぎるよ」と喜んでみせたりする。

天皇個人を責めても意味はない

 私が今まで挙げたのは、昭和天皇のしてきたことのほんの一部である。天皇が自ら関わ
ったことはここにはとうてい書ききれない。
 そもそも、明治憲法下では、日本を統治するのは天皇であり、天皇は神聖にして侵すべ
からざる権威を持ち、軍隊の統帥権は天皇だけが持つ、とされていた。しかも、「教育
勅語」などで国民は天皇に忠誠を尽くすことを要求され、天皇に心まで支配されていた。
軍隊も、国民も、この国の一切がっさいは天皇が支配するところのものだったのだ。天皇
は最高の権力者であり、同時に最高の精神的な権威をも持っていた。天皇の命令なくして
戦争はできなかった。
 そのような形式的なことに加えて、これまで見てきたように、天皇自身、天皇が弁明す
るところとは全く反対に、戦争の計画と実行に具体的に深く関わっていた。
 であれば、いかに論を曲げても天皇の戦争責任は否定できない。昭和天皇は個人的に戦
争責任があることは明らかである。天皇が東京裁判で訴追されなかったのは、アメリカが
日本における占領政策を効率的に行うための政治的な配慮によるものであることは、先に
示した通りであって、天皇に戦争責任がない証明にはならない。
 ではあるが、この、天皇の戦争責任を昭和天皇裕仁個人に帰してしまっては、物事の本
質がつかめなくなる。天皇が裕仁でなく別の人間だったらよかったのか、ということにな
ってしまうからである。事の本質は、「近代天皇制」という構造にあるのだ。確かに、
昭和天皇は他国を侵略することに対する倫理観念がなかったし、「日和見主義」「ご都合
主義」という人間的弱点を持っていた。だが、あの「近代天皇制」の下で天皇と生まれ、
天皇として育てられたら、どんな人間でも、昭和天皇のような人間にならざるを得なかっ
ただろう。「近代天皇制」の枠組みの中では誰が天皇になろうとも、昭和天皇と同じ道を
歩むしかなかったのだ。
 「近代天皇制」を自分たちで作った伊藤博文らは、明治天皇に対しても心底恐れ入って
いたわけではないから、天皇を天皇としての努力が足りないと叱ったり、天皇の前で泥酔
して寝込んだり、勝手なことができたが、昭和天皇の時代になると、日本中すでに「近代
天皇制」教育がしみわたっていて、将軍でも政府高官でも天皇の前に出るとやたらと恐縮
し、ありがたがる。そのような環境で教育されれば、「教育勅語」と「軍人勅諭」で示さ
れた天皇像を体現するように行動するのは当然だろう。昭和天皇には他の生き方が選択で
きるはずはなかった。
 したがって、昭和天皇に個人的な戦争責任があることは前述の通りだが、であれば、
本当に責任があるのは「近代天皇制」である。
過去の戦争責任から自由になるには

 私が、本当に言いたいことはここからだ。
 では、現在の「象徴天皇制」は「近代天皇制」から完全に切れたものなのだろうか。
ドイツではヒトラーが消えると、ナチスは消滅した。しかし、日本の場合、戦争に負けた
後も、昭和天皇はその地位にとどまり続け、その息子が天皇の地位を受け継いでいる。
形の上では切れてはいない。
 一九九三年八月一〇日、細川首相が首相就任後の記者会見で、「先の戦争は侵略戦争で
あった」と発言すると、自民党の議員たちが昭和天皇が対米英に対して出した「宣戦の
詔書」を持ち出して、細川首相の言葉は「畏くも昭和天皇の御言葉を虚偽の内容として
真っ向から否定して皇室の尊厳を傷つける……」として攻撃した。すると、細川首相はそ
の圧力に屈して、「侵略行為や植民地支配などが多くの人々に対して耐えがたい苦しみと
悲しみをもたらした」と言いかえた。戦争自体は侵略戦争ではなく、その戦争中に侵略的
行為もあったというのでは、意味がまるで違ってくる。
 このように多くの日本人が、「大東亜戦争は自存自衛の戦い、アジア解放の戦い」と
公言してはばからないのは、いまだに「近代天皇制」が日本人の心を支配しているからで
ある。「象徴天皇制」と衣替えをしても、「近代天皇制」は一切の断絶がなく存在し続け
ていると多くの人々は感じているのだ。昭和天皇が退位でもして新しい天皇によって始め
られたのならともかく、昭和天皇が始めた「象徴天皇制」であるから、「近代天皇制」と
は全く別のものと考えがたいのは当然だろう。
 形の上で切れていない上に、日本人の心に与える影響が変わっていないとなれば、
「象徴天皇制」は「近代天皇制」の核心を受け継いでいることになる。昭和天皇をあのよ
うに行動させた「近代天皇制」に戦争責任があるならば、それと断絶していない現在の
「象徴天皇制」の存在を安易に考えることはできない。天皇個人は誰であろうと、「天皇
制」という枠組みがある限りは、日本人は過去の戦争責任から自由になれないし、また、
同じ方向に進むかもしれない。天皇の戦争責任を追及しても、「天皇制」の枠組みをその
ままにしておいたのではなんの意味もないのである。
29名無しさん@1周年:02/07/05 18:10
age
30名無しさん@1周年:02/07/06 02:15
あのお経みたいな「人類が〜」ってやつ、
小さい音でかかってると
「いーやいや、なむなむなむなー」
って聞こえませんか?
31田楽某という人へ:02/07/13 17:48
生長の家をあれこれ言う前に、五井先生が著書の中で、私達「世界平和の祈り」を
祈る者達に対して、「生長の家を積極的に批判しなさい。」と説いておられたのか、
それとも、「全ての事を『消えてゆく姿』と観じて『世界平和の祈り』を祈り、
守護の神霊に感謝致しましょう。あとは神様が必ずや私達を良き方向へ導いて
下さいます。」とおっしゃっていたのか、もう一度五井先生の御著書をご覧下さい。

世界人類が平和でありますように
32田楽マン
批判っていうか指摘なんですけど
指摘に十分な説明も出来ないなんておかしいでしょう。
まぁあなたとは別の人間って事です。