■     「空(くう)その2」      ■

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952名無しさん@1周年:02/08/09 10:16
それ、誰にいってんの?
菩薩概念そのものが曖昧だから、いまさらのように「悟り」とか「覚醒」について改めて明確にしたいってわけでしょ。
日本には、ブラスバンドで行進したり、投票を強制したりする「自称菩薩」が多すぎるから、
個の悟りである「阿羅漢」とは何かをハッキリさせなきゃならないわけ。
どっかの教団のマニュアルや、仏教入門の能書きをここでくりかえしてもしょうがないの。

953名無しさん@1周年:02/08/09 11:42
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
954髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/08/09 16:11
>>952
>菩薩概念そのものが曖昧だから

「こうあるべき」とか「こうあってはならない」とか・・・
そうゆう事では無いとおもいますよ。
入てん垂手。そのものが菩薩なんじゃないでしょうか?
「何をするから」→菩薩とか・・・
「何をしないから」→菩薩でないとか・・・
ソーユー事では無いかとおもいますよ。
いわゆる、この概念から外れちまってんでしょうからね。
955brown:02/08/10 01:04
>954
>「こうあるべき」とか「こうあってはならない」とか・・・
>そうゆう事では無いとおもいますよ。
そうですね。なければならないことがないことが解脱です。
>950
>決して完成途上にあるののではありません。涅槃に至るライセンスを
>お持ちなのです。本当は。
そういうのを完成途上と言うんですよ。
ライセンスがあるとかないとか。つまり未だ,形の魅力に縛られている。
ニルバーナにライセンスなどなく,固定した特典も何もない。
何もないけど不断に顕れ続ける,求めないけど得られている,
というのがニルバーナです。
前にも言いましたが,「950」にいうような大乗的概念というものは,
お子様ランチのようなものです。
依存心や虚栄心が高い大衆向け,子供向けに合わせて創られた理論です。
956brown:02/08/10 01:08
>948
>そのあと、どうなるんだい?
自由になるんだよ。
957名無しさん@1周年:02/08/10 08:18
金が絶望に近い,と言うのは理解できます。
666の約束手形や300の使えない約束の米債が
人類を絶望に追いやりやがて目を覚ます。
でも愛欲にもそんな力があるのかいな?
絶望に追いやり,目を覚まさせてくれるんだろか?
本読んでいくら考えても解からんわなの罠。
958名無しさん@1周年:02/08/10 08:20
自由に成りたい。

959名無しさん@1周年:02/08/10 08:22
貪愛
960ケムール人:02/08/10 08:49
>944 955 brown

酢薔薇水レスを、ありがとう!

>それは第二の意識であり,それは作為です。それは常に「私の」という自己編成
であり,それは自己が意図した通りに環境を解釈しようとする企みです。
>それは心の可塑性です。心には可塑性があって,一度ある形にするとしばらく
その形を保ちます。形とは,パターンであり,条件付け,習慣,意識の流れの固定,執着です。
ある特定の外環境にある特定のパターンの反応を保持することです。それは,好きなものに対しては何が何でも受け入れ,嫌いなものに対して
は何が何でも排除するというような,自己中心性です。

この辺、仏教の専門用語よりもわかりやすいかもね。
結局、「我と我がもの」、
   「無明→行→識」、
このあたりの心のパターン化が、実在に触れることを阻んでいるということなのかな。

brownちゃんはさ、ときどき「仏教」を否定しているようなことをいうけど、つまりは仏教そのものなんだよな。
ときおり更新しないと、「仏教」はいつのまにか型を持ってしまう、ということなんだろうけどね。w




961:02/08/10 11:59
怖がられる人→全身の震えが苫蘭。
962:02/08/10 12:27
大日教によると、心は六十種類あるらしい。
963brown:02/08/10 16:48
>957
>金が絶望に近い,と言うのは理解できます。
>でも愛欲にもそんな力があるのかいな?
>絶望に追いやり,目を覚まさせてくれるんだろか?
うん。私は愛欲にもそんな力があるんとちゃうかと思う。

ところで,そう思うわけは次の通りです。
仏陀曰く,感情とは到着点のないドライブです。全てを消耗して走り続ける
ドライブです。
愛欲でも金欲でも権力欲でも,どこにも完成のしどころのない,決して解決可能
な満足を得ることができない猛進です。それは常に我々を駆り立てますが,
結局どこにもたどり着きません。
いかなるきらめく恋愛の結末も,待っているのはいらだちと倦怠,そして憎悪
です。それは途中には「馬の頭の先ににんじんをぶらさげたような」「満たされない
満足」を得ることができますが,それは次の探求を生み出します。そして走り
続けます。
一体なぜなんでしょう?この監獄は?誰が人々をこのような監獄に閉じ込めたので
しょうか?
それは,「満足を生み出すことを目的として作られた心と言う機械の,故障した
状態」なのです。満足を生み出す仕組みが汚染されているために,満足を結局
生み出さないからです。人間は,喜びや愛,芸術,尊敬,幸せ,快感,理解,調和を
楽しむために生まれてきますが,これを感じ取る装置(心)にどういうわけか故障を
抱えています。それを治療しなければ,それらの善性はことごとく,駆り立て,
失う恐怖,所有,奪い合い,闘争の目的,根拠になってしまいます。
それは何か人間性が悪いとか,しなければならないことをしていないとか,そういう
ことなのではなく,単に不幸なのです。仏陀は人々に「このようにあれ」と命令
することはなく,「このようにあると幸せだ」と方角を知らせているだけなのです。
964brown:02/08/10 16:53
>960
>brownちゃんはさ、ときどき「仏教」を否定しているようなことをいうけど、
>つまりは仏教そのものなんだよな。
>ときおり更新しないと、「仏教」はいつのまにか型を持ってしまう、
>ということなんだろうけどね
ばちあたりな仏子の「意図」はまあそういうことです。
今やこの時代,どうやら仏教を否定することを通してしか仏教をうまく伝えられ
ないのではないでしょうか?
965名無しさん@1周年:02/08/10 17:01
>955
>>954へは、そうですね。なければならないことがないことが解脱です。
と回答しながら、
>>950には、どういう訳かお子様ランチの大乗概念は駄目!!と比較の分別智
剥き出し。どうせなら、そんなお子様ランチといったランク付けにも拘るべ
きではないのにね。二元性や相対性の罠に嵌っていますね。そういう支離滅
裂な状態を完成途上といったりして。
せっかく、【ニルバーナにライセンスなどなく,固定した特典も何もない。
何もないけど不断に顕れ続ける,求めないけど得られている,というのが
ニルバーナです。】と、無念、無想、無為、無作為の立場を言明しながら、
残念至極です。
966名無しさん@1周年:02/08/10 17:20
自由になれる。

子供の頃の時のようにかい?
子供も子供なりに人間関係や自分の将来や、
それなりのご時世的な物欲や
感情があるけれど
それでも何か時々、この世界を感じ
自由な心になる、そんなかんじかな?
大人になれば、もうこんな歳だから
〜しなければならない、とか しなければならないんじゃあ?
と言う気持ちが頭をもたげる。

しかしこれも、周りの人間や そういう風潮、からの
プレッシャーであり、また時間と言う物が限られているがゆえの
プレッシャーでもある。
もしも自分が千年の寿命なら、誰もが今の時点では
自由な心を持ち合わせてるような
気もする。
967brown:02/08/10 17:29
>965
まあね,大乗や空見には,それに対する解毒剤があるってことよ。
大乗の迷妄から救い出すことを仏陀が意図した場合,「未完成な」様式の行動を
仏陀はとります。小乗の迷妄から救い出すことを仏陀が意図した場合,「未完成な」
様式の行動を仏陀はとります。衆生を不幸せな状態から救い出そうと仏陀が意図
した場合,「未完成な」様式の行動を仏陀はとります。
なぜなら,「未完成な様式の行動をとってはならない」という形への執着が仏陀には
欠けている(空)からです。
このようにして,仏陀は未完成な様式を採用するのです。
よく,「950」と「955」と「965」を並べて読み返してご覧?
菩薩の方便智というものがどういうものなのか具体的にわかるでしょう。
解き放たれた色・受・想・行・識の五蘊をうまく用いる柔軟性,これを菩薩行と
いうのです。大乗の教えの本来とはそういうものです。
ちょうど愛欲そのものに問題があるのではなく,心という機械の故障に問題が
あるように,大乗という対象そのものに問題があるのではなく,その理解に問題
があるのです。大乗に対する理解は,清浄に対する理解によりもより多くの
問題が潜むので,むしろ「仏教」や「大乗」は否定されなければなりません。
968名無しさん@1周年:02/08/10 17:35
私は愛欲そのものに、惑わす力があるのかどうかは
疑問視してる、愛欲に惑わす力があるのではなく
何かに既に惑わされた心、足を捕られた心が、愛欲に逃げてるか
それで誤魔化そうとしてるのではないかと思うからだ。
答えの見つからない、苦痛を愛あるいは愛欲で薄め
緩和しようとしているのではあるまいか?
まるでカンフル剤のように。しかしその原因が解決されなければ
愛欲の中に見を投じたとしても、どうしても拭いけれない
忘れきれない何かが存在する、
しかしまるで痛み止めのように、愛欲を求めたのだから
愛欲を手放せば、また答えの見えないものと対峙しなければならない、
それを避けるためにも、手放せなくなる悪循環
なのではないかとも考える。

そういう物を愛と呼ぶのなら愛というのにも
あまりにも落差が有るのだと思う。
そういうもの愛というならね。
969brown:02/08/10 17:46
>966
あなたの言っていることには説得力があります。

しかし,私は別の意見を持っています。
なぜなら,大人には理解力があるからです。
自由とはある意味で我々大人によるよりも,子供にある面もありますが,
仏陀の自由はむしろ大人の自由です。つまり理解です。
何も考えなかったり,考える必然性が周囲の環境にないから自由なのではなく,
それらがたとえあったとしても,それらにがんじがらめになっていたとしても,
そこから自由な,大いなる発見です。
女を知らないから愛欲から自由なのではなく,女に対する歓びが私に負担をかけない
自由です。社会を知らない厨房が自由・気ままに生きているのではなく,悩み多く,
もだえ苦しむ大人どもが,悩みを手放した自由です。悩みはそこにありますが,
そこからの自由です。
それはむしろ,子供時代の,ややこしい社会的悩みのない時代に対するあこがれ
からの自由です。子供時代のようにしがらみがない状態を求めなくても,
しがらみの多い中で生ける自由です。
それはむしろ,輪廻の煩いがないことに対するあこがれからの自由です。
本当に自由なことには,輪廻の中にあっても自由が見出されるからです。
解脱(自由)とは,全ての実在が調和して,それ本来のあり方をしていながら
しかももたらされるものです。
970968:02/08/10 19:58
>>968

とも思ったが、そこに支えあいと言う物があり、その関係の中でも
自らの疑問空逃げるのではなく、その答えのでリ時を待つている
あるいは考えているというのなら
それは何かの一つの形なのかもしれない。

そうできるか、溺れ逃げ込むかは、やはりその個人の心のありよう
姿勢に掛かってきてしまうのかもしれない。
やはりこれも、あくまでも個人の心の中の葛藤というものと
自分が、どう向き合うかと言う事に行き着くのかもしれない。
971         :02/08/10 22:37
心が止まらないよーーーウワーーーーーーン
972968:02/08/11 08:33
失礼。こりゃあひどかった・・・

>とも思ったが、そこに支えあいと言う物があり、その関係の中でも
>自らの疑問空逃げるのではなく、その答えのでリ時を待つている
自らの疑問から逃げるのではなく、その答えの出る時をまっている・・・

のまちがいね、
973名無しさん@1周年:02/08/12 09:56
971
やりたい、でも怖いじゃ心も止まらんだろう?
974名無しさん@1周年:02/08/13 08:13
自由自在に成りたい.生,死,金,性,自分,他人
社会,家族、言葉,行動,知識,空.無明,識,悟り
こころはいつも、なぜにこれらを追い求める?
般若心経に答えが書いてあっても、なんべん読んでも
こころは,なぜに追い求める?


975名無しさん@1周年:02/08/13 08:23
ダーカーラー969擦れを100回読みなさい
976名無しさん@1周年:02/08/13 10:42
心はじゃんけんピョンナのか?勝つことはできる
しかし満足は得られない.実体はないのに存在する。
心はグーチョキパーを創り,じゃんけんをし続ける。
0=1とし1をグーチョキパーに分け,大は球,穴ひとつ
穴二つ以上の紐理論から、小は素粒子,時間,波エネルギー
これらはグーチョキパーそのもので三つ巴フラクタルじゃんけんぴょん
ナのか?自我も女も金も言葉も神も宇宙もグーチョキパーなのか?
俺はパーで0=1だったのだ。バカボンのパーパーなのか?
そこまで理解してもまだHをしたい俺は、本物のパーらしい
グーチョキパーの心を手放したら、過去仏,未来仏が現れるんだろか?


977620:ロゴスと真理と暗黒面:02/08/13 11:09
>>969
良い文章だな。うなずける。
978名無しさん@1周年:02/08/13 11:17
無明だからです。
縁起の始まりを無明としているからです。
最初から無明なのに、どうして悟れましょう。
979名無しさん@1周年:02/08/13 11:48

無明という素材があるから、悟れるんだよ(笑)
980名無しさん@1周年:02/08/13 16:40
最初から無明で迷う者には悟りはありません。
最初に悟っていた者にこそ悟りもあるのです。
迷いの因縁は途中から生じ、悟った者が色の生活に慣れるに従い、
これに執着するにつれてカルマを生み、カルマの深淵に身を落とし、
物事が不明になったというのであれば別ですがね。
981名無しさん@1周年:02/08/14 08:32
シバさんこの方向でいいのかな?
意見を聞きたし。
982名無しさん@1周年:02/08/14 08:36
AUM
983名無しさん@1周年:02/08/14 09:45
>最初から無明で迷う者には悟りはありません。
 最初に悟っていた者にこそ悟りもあるのです。

誰が何の権威でこんなこといえるんだね?
984名無しさん@1周年:02/08/14 09:47



               空






 
985名無しさん@1周年:02/08/14 11:57
万物が迷いという無明の因縁より生じたとするところに
問題があるのでは。
迷い迷い迷い迷って、恒河の沙に等しき迷いを重ねても、
迷いは迷いしか創らず

追伸:う〜ん、我ながらなかなか詩人ではあるの〜

986brown:02/08/14 21:44
無明という原因によって迷いが生じたのではない。
無明があるときに迷いがある。
明という原因によって悟りが生じるのではない。
明があるときに悟りが生じている。
無始の過去からの迷いという表現は,時間的に無限の過去から迷いがあるという
意味ではなく,迷いとはなれて無明はなく,無明とはなれて迷いはないということ
をいっておる。つまり,「初まりに無明という原因があった。その原因から
迷いが生じた。」とか「初まりに悟りがあって,無明が覆ったので迷いが生じた」
などの「初まり論」が成立しないことをいっています。
なぜなら,無明とともに迷いがあり,明とともに悟りがあるから。
987名無しさん@1周年:02/08/14 21:57
>無明とともに迷いがあり,明とともに悟りがあるから。

つーことは、無明=迷い
       明=悟り、ではないが
無明は迷いと 明は悟りと くっついてるということか

988名無しさん@1周年:02/08/14 22:19

>無明は迷いと 明は悟りと くっついてるということか

コインの裏表のように・・・

などという、brownの陳腐な答えが来そうな予感(藁



989brown:02/08/15 00:16
>988
砂場でお山を作るだろう?
そのとき上半分は下半分に支えられてある。
同様に迷い・苦しみは無明に支えられてある。
山の上半分は下半分があるときにあるし,山の下半分は上半分があるときに,
山の下半分としてのあり方がある。
このように,無明や執着,対象化過程があるときに迷いはあり,迷いは無明や
執着があるときに迷いとしてのあり方をする。
このように,無明と執着と迷いが共にあることを集諦という。
これが仏陀が悟りの体験より論理的に帰結した内容の半分です。
990988:02/08/15 00:50
>>989

broさんの個人的思索にケチつける肝ないけど、

>このように,無明と執着と迷いが共にあることを集諦という。

集諦をこのように解釈する経典があるわけ?。





991糸切峡谷:02/08/15 01:11
アメマスは渓流をさかのぼり、自分 たちの世界を獲得したのち
海へと向かいます。
円というのは無限に開いているがゆえに
一転の切れ目があります。それを螺旋とよぶかは我々の
世界観にかかっているような気がします。
知ってる権威をもちだす必要はかならずしもないわけです。

992名無しさん@1周年:02/08/15 08:11

さぱーり、わからん
993名無しさん@1周年:02/08/15 08:51
じゃんけんピョン,明,無明、じゃんけんピョン自,他
じゃんけんピョン0,存在じゃんけんピョン悟り,迷い
じゃんけんピョン空,色じゃんけんピョン想,非非非非想
最後の勝負は頭の理解じゃなくて,実践離欲だったのねのね。
ころころこころの、無始無明じゃんけんピョン大会でした。
994名無しさん@1周年:02/08/15 08:54
アイコもあるでよーーー
995名無しさん@1周年:02/08/15 09:04
じゃんけんピョンてあるのないの?
996名無しさん@1周年:02/08/15 09:06
<<995
拈華微笑
997名無しさん@1周年:02/08/15 09:07

      さ、子供は帰った帰った。
998名無しさん@1周年:02/08/15 09:15
<<996
ブッダは無明やめちゃったんだ。
999名無しさん@1周年:02/08/15 09:17
空ってあるのないの?
1000名無しさん@1周年:02/08/15 09:18
馬鹿がまた無明はじめたよ
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