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『大白蓮華』2002年6月号 p.72,聖教新聞社
「新宗教の現状1 − 真如苑」

※記事本文には、多数のルビがふられているが、難読のものだけを括弧書きした。

・歴史(1/2)

 教主の伊藤真乗(1906年〜1989年)は、家伝の易学を学び、
人生相談に応じていたが、やがて真言密教に接近していった。

 一方、1932年に、神がかりをする家系の出である内田友司(1912年〜1967年)と結婚。
真乗は、1935年に不動明王を祀り、翌年、妻・友司が霊能を得たとして宗教結社「立照閣」を設立した。

 1936年、真乗は僧侶として教師の資格を取るために、真言宗醍醐寺で得度受戒して出家している。

 教師の資格を得た信条は、1938年に東京・立川市に真澄寺(しんちょうじ)を建立。
真言宗醍醐派「立川不動尊教会」を名乗り、本尊として不動明王を祀った。
9:02/05/23 10:26
・歴史(2/2)

 戦後、「宗教法人令」が公布されると、真言宗から離脱し、
大般涅槃経(だいはつねはんきょう)を所依の経典とする「立川不動尊教会」として独立。
「まこと基礎行」といわれる坐禅を基礎とする修行をおこない、
この修行が後述する「接心(せっしん)」修行の始まりといえる。

 1948年に「立川不動尊教会」を解散して「まこと教団」を設立したが、
1950年に真乗が、詐欺・脱税・リンチ・贈賄などの容疑で逮捕された事件、通称「まこと教団」事件が起き、
1956年に懲役7カ月、執行猶予3年の有罪判決が下された。

 この事件の渦中、1951年に「真如苑」と改称し、
伊藤真乗が教主に、妻・友司が苑主(えんしゅ)に就任。
1989年に伊藤真乗死去すると、三女伊藤真聰(しんそう)が苑主として最高指導者となり、
四女・伊藤真玲(しんれい)が雍主(ようしゅ)として補佐する体制をとっている。
長女・次女とは、家庭内のトラブルなどから義絶した。

教義へつづく…
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・教義(1/3)

 教団史から分かるように真言密教系の新宗教だが、所依の経典は真言系の経典ではなく大般涅槃経であり、
真如苑の名称は金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)に基づいている。
また真如苑の本尊は、以前の不動明王に替えて、
真乗が1957年に彫刻した「久遠常住釈迦牟尼如来」と称する釈迦の涅槃像を本尊としている。

 理解し難いのは、この本尊の涅槃像を総本部の発祥精舎に祀る一方で、
真澄寺には不動明王、発祥第二精舎には観世音菩薩が祀られていることだ。
教団では三輪身満足したと説明しているが、この考えは密教のものである。

 通常、密教では大日如来を自性輪身、仏が衆生を救う姿を正法輪身、通常では衆生に対して忿怒輪身とし、
この三種の姿で衆生教化をすると説かれている。

 なお総本部内には、地蔵菩薩・大黒天・弁財天・稲荷などもあるが、
大般涅槃経との関係は不明で、本尊雑乱という以外にない。
11:02/05/23 10:27
・教義(2/3)

 真如苑の教義の核となっているのが霊能であり、この霊能は1936年に現れたという。
そして両童子(早世して霊界にいるという長男と二男)の導きにより、霊界と現実世界が結ばれるが、
それを実現するのが接心修行(真如苑における坐禅の修行)だとされる。

 接心は、霊界と現実世界を往来できる霊能者と信徒が相対する形で行われ、
霊能者は人間の意思が霊界の趣旨に適うかどうかを判断する神通力を持っているとされる。

 霊能者は易学も学び、接心でも易占(えきせん)が用いられるが、釈尊は占いなどは禁止しており、
霊界とか、霊能者、霊言(れいげん)というようなことも説いていない。
12:02/05/23 10:28
・教義(3/3)

 また、両童子は信徒の業苦などを代わって受けるとされ、これを「抜苦代受」というが、
キリスト教の贖罪思想にも似たこのような教義も、大般涅槃経とは無縁であり、
諸宗派の各教義の寄せ集めである。

 信徒の修行には、「お救け(おたすけ)」「歓喜」「ご奉仕」の三つで、
簡単に説明すると「お救け」は教えを広めること、
「歓喜」は教団への布施、「ご奉仕」はボランティアである。
これは六波羅蜜の修行を現代化したものと称しているが、
三つとも布施行であり、信徒を欺瞞する教義である。

 公称信徒数は、約83万人。