【法然、親鸞、蓮如】

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162NB ◆Zut9KezY
>>157

なんまんだぶです。なんまんだ。

>>158-159

苦悩の旧里(娑婆)は捨てがたく、いまだ生れざる安養(極楽)浄土は恋しからず
候うこと、まことによくよく煩悩の興盛に候うにこそ。(娑婆を)名残惜しく思え
ども、娑婆の縁尽きて、力無くして終わるときに、彼の土(浄土)へは参るべき
なり。
急ぎ(浄土へ)参りたき心なき者を、(阿弥陀仏は)殊に哀れみたまうなり。
@『歎異抄』

他力の浄土門のモットーが「厭離穢土」だなんて思ってるんだったら大間違いだね。

「引越し先」が決まった者こそが、今住む我が家をいとしく、いたわしく振り返る
ことができる。「たつ鳥跡を濁さず」の喩えもあるよ。

仏法の道理から逃げる者をすら、追っかけて捨てない弥陀仏他力の大慈大悲の
ゆえなればこそ、凡夫の引越し先が正しく決定する。
娑婆に生まれたからといって、娑婆が帰り去るべき処じゃないでしょうに。
たとえば牛が屠場に引かれるように、一人、また一人と、誰も逃れることは
できない。

弥陀仏の本願を仰ぎ見る心に起こるものこそ、現世にありながらの、現世への
惜別の情でしょうね。惜別の情は我が力で起きるもんじゃない。起こせるもん
じゃない。

現世に別れを告げねばならないことの悲しみと、今まで出あっていた物の今更
ながらの愛しさに気づく働きこそ「他力」。それは善悪・男女・老若・賢愚等
の一切を問わぬ出会い。現世にあってこの他力のご本願に出会えばこそ、
「たとえ念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」
とはまさしく親鸞聖人のご指南。

つまり、本願念仏の世界には、右翼も左翼もないってこと。