人生必ず良くなる生長の家
何でブラジルに資金を送っているんですか?
創価学会も統一教会もブラジルに銀行口座もってんだよね、
不思議。
3 :
名無しさん@1周年:02/05/18 16:47
age
age
5 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:32
「新潮45」1993年5月 「生長の家」御利益盛衰記
生長の家の創始者である谷口雅春が、ダスキンの鈴木清市が強く影響を受けた西田天香
の一燈園を訪れたのは大正十年の八月頃のことであった。当時の一燈園はまだ鹿ヵ谷
にあったが、『懺悔の生活』の出版により来訪者が増えた時期であった。一燈園の機関
誌である『光』九月号の「一燈園だより」には、「宗教家としては大本教にあつて色々
深い研究と体験を重ねてゐられる谷口正治さんがきて呉て矢張托鉢をまでして五日間
共祷された」と記されている。谷口の本名は正治で、当時はまだ本名の方を使っていた
谷口は、大本教の中にあって、清貧、篤信の生活を貫いたキリスト教の聖人フランシ
スに自らをなぞらえ、「大本教のフランシス」と称していた。一枚の着物しか持たず、
その上を縄一本結ぶだけの姿をして、水行や断食などの修行に専心し、菜食主義を実践
していた。そういった谷口にとって、「他を凌いでならば生きまい、許されてならば
生きよう」として、無我の奉仕の生活をモットーとする一燈園の生活や西田の思想には
強く魅かれるところがあった。しかし、谷口を一燈園に向かわせたのは、大本教の信仰
への疑問であった。
当時は、第一次大戦後の社会矛盾と不安を背景として、天理教、金光教、そして大本
教が急速に勢力を伸ばしていた時代だった。大本教は、「鎮魂帰神」と呼ばれる神がか
りの方法によって霊界との交流をはかり、そこから神のお告げを引き出してくることを
特徴としていた。そして、これまで鬼門とされる艮(東北)の方角に崇神として押し込
められてきた金神が、大本教の本部のある綾部に現れて最後の審判を行い、理想の世界
である「ミロクの世」が始まるという終末論的な予言を広めていた。しかも、その日を
大正十一年五月五日と明言していた。
6 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:33
この予言には、キリストの再臨と、仏教における弥勒菩薩下生の考え方とが反映され
ていたが、谷口も大本教の道場で「基督再臨論」を毎日講義し、多数の信者を集めてい
た。しかし、谷口にとっては、自己の過去の罪業が最後の審判の時までに浄まっている
かどうかに自信が持てなかった。そこから、谷口の信仰は揺らぎ始めたのである。
谷口は、大本教でその文才が認められ、機関誌の編集や聖典である『大本神論』の編
纂作業に当たり、大本教の霊学の体系化にも力を注ぐ。そして、大正九年には、『皇道
霊学講話』という、彼としては最初の書物を東京の新光社から出版している。それでも、
個人の罪の問題に強く関心を持っていた谷口には、神による最後の審判を強調する大本
教の路線には違和感があった。彼が一燈園に出向いたのも、大本教で得られないものを
西田のもとで学ぼうとしたからだが、その行動は、大本教のリーダーであった出口王仁
三郎の気にさわる。それからまもなく出版された出口の著作『霊界物語』には「鰐口蛇
冬(わにぐちまがふゆ)が一等厭へ行つて云々」という記事が霊界の出来事として記さ
れていた。
「お前は実相そのものだ」
時の政府は、世の終わりを説き、急成長をとげていた大本教に警戒心を強め、教団の
調査を行っていたが、大正十年の二月十二日早朝、不敬罪ならびに新聞紙法違反の容疑
で大本教の本部などを家宅捜索した。いわゆる「第一次大本事件」である。谷口は逮捕
を免れたが、出口王仁三郎は中心人物として獄につながれた。
出口が勾留の執行停止で出獄中、『霊界物語』の口述を始め、谷口はその筆記に当た
るが、大本教への信仰に疑問を持つようになっていた彼には、その仕事は苦痛以外のな
にものでもなかった。さらに、大阪の控訴院から大本教の開祖である出口なおが神がか
りで記した「お筆先」と、それを出口王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較
対照し、不敬罪に該当する箇所がないかを調査する作業を依頼され、谷口はお筆先をす
べて読むこととなった。
7 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:34
彼はその作業を通して、教団の発表した予言にくいちがいがあり、前年の予言のうち
で当たったものだけが機関誌に掲載されていることを知った。さらには、お筆先の中に、
「天は天照皇大神宮、地は出口の血すじで治めるぞよ」といったことばを発見し、出口
の家を天皇に代わる地上の権力者にしようとする神からの啓示に決定的な疑問を感じる。
こうして、谷口は、大本教の中で結ばれた夫人の輝子とともに脱退の決意を固める。す
でに最後の審判が起こると予言された大正十一年五月五日は、何事もなく過ぎてしまっ
ていた。
谷口夫妻が大本を去ったのは、大正十一年十月のことだった。その前日の夜には、教
団の血気にはやる青年たち数名が谷口を襲撃しようとして、まちがって別の人間に重傷
を負わすという事件もあった。
谷口は、いったんは神戸に戻るが、著述家になることをめざして上京し、浅草の職人
の家の二階に間借りして、『聖道へ』と題された二冊目の本を書き上げる。これも新光
社から出版されたが、こわれて西田天香が序文を寄せていた。西田は谷口について、
「著者は、私の見るところでは、最も大きく疑つて、最も鋭く且正しく考へをおひよせ
てゆく人のやうである」と評していた。このことばは西田自身の生き方にも通じるもの
があり、彼は大本教という一宗教の枠にはまりきらなかった谷口に共感するところが少
なくなかったように思われる。
しかし、『聖道へ』における谷口には、まだ迷いがあった。彼は、西田だけではなく、
倉田や武者小路、あるいは大正九年に『死線を超えて』というベストセラーを出して労
働運動に入っていった賀川豊彦や、百姓愛生活を提唱した江渡狄嶺などの思想を取り上
げ、その検討と批判を行なってはいたが、彼独自の思想を切り開いていたとはいえなか
った。谷口は、本来の理想的な「無想不二なる世界」と、現実に存在する「差別の世界」
とを区別するまでにはいたっていたが、二つの世界の間には決定的な断絶があり、理想
と現実とのギャップを克服する手だてを見いだしてはいなかった。したがって、彼の信
仰は消極的なものにとどまり、毎日が「憂鬱で身体は常に不健康」であったという。
8 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:35
谷口は、自らの思想を確立するために、続けて『神を審判く』という長編小説を執筆
し、大正十二年の八月末には本ができあがった。ところが、書店に配布されるちょうど
その日に関東大震災が起こり、本は灰燼に帰してしまった。他に、二編の長編小説の原
稿を出版社に預けていたが、それもまた焼失してしまったのだった。
輝子はそのとき子供を身ごもっていたが、十月に郷里の高岡で女児を出産し、十二月
に夫婦で神戸に戻って、養父母の家に同居している。しかし、育児をめぐって養父母と
対立し、谷口は神戸の三宮にあったヴァキューム・オイル会社に翻訳係として雇われ、
経済的な自立を実現し、養父母と別れて阪神沿線の住吉村に居を構える。そこで、彼の
根本的な思想である「実相論」を確立するにいたる宗教的な悟りを経験したのだ。
谷口は、出勤前に近くにあった本住吉神社に参拝するのを日課にしていた。ある日彼
は、仏典の中の「色即是空」ということばを思い浮かべながら静座して合掌瞑目してい
た。すると、どこからともなく大波のような低く、威圧するような声が聞こえ、その声
は「物質はない!」というのだった。つづけて谷口が「空即是色」のことばを思い浮か
べると、また声が、「無より一切を生ず」といった答えを返してきた。こうして、谷口
の疑問は次々に解消されていった。
彼は、この問答を通して、彼自身がそのコントロールに苦労してきた心が実在せず、
心の代わりに実相があり、その実相が神であることを悟る。谷口がそこに真理を見いだ
したと感じると、「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分を讃える声が聞こえ
てきたという。
谷口は、自らの悟りを広く伝えるために雑誌の刊行を考える。そして、会社に勤務す
るかたわら旺盛な執筆活動を開始し、一燈園の『光』、倉田百三の『生活者』、それに
『新時代』といった雑誌に文章を発表する。昭和三年には、宗教について話し合うため
の「求道者の会」の結成を呼びかけ、自宅でも京阪神方面の賛同者を集めて会を開いた。
正治から雅春へと改名したのも、この頃であった。
9 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:36
谷口は新しい雑誌を創刊し、運動を進めていくには、資金も時間的余裕も欠けている
と考えていたが、例の声は彼に「今起て!」と呼びかけてきた。決して彼は無力ではな
く、力も与えてあるというのだ。そして、彼が「実相はそうでも、現象の自分は……」
と、戸惑いを見せると、彼の頭の中で、「現象は無い!無いものに引っかかるな。無い
ものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前は実相だ、釈迦だ、基督だ、無限だ、
無尽蔵だ!」という声が鳴り響いてきたという。
谷口は、こうした自らの内なる声に促され、雑誌『生長の家』創刊号を刊行する。昭
和四年の大晦日に一千部の雑誌が刷り上がった。彼は、正月早々、「求道者の会」に賛
同した仲間を中心に、『生長の家』を無料で進呈していく。生長の家の運動の目的は、
「心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際
運動を行ふ」こととされ、ここに生長の家という新しい宗教運動が誕生したのだった。
これぞ「バブル宗教」のルーツ
生長の家の宗教運動としての特徴は、雑誌の出版を主体としているところにあった。
それは、谷口が中退したとはいえ、早稲田大学に学び、英語の思想書を読む力を身に
つけ、文才に恵まれていたからこそ可能な方法だった。それ以前の天理教や大本教の
場合、教祖は無学な女性であり、彼女たちは神がかりの状態の中で神のことばを書き
記した。谷口の入信した大本教の場合には、霊学を学んだ開祖の女婿である出口王仁
三郎が、なおのお筆先を漢字に改め、教義の体系化を進めることによって、教養のある
人間を信者にしていったが、限界があることは明らかだった。
谷口は、その教養を生かして、仏教やキリスト教の思想を自らの教えの中に取り込み、
彼が世界の本来のあり方としてとらえた実相の世界を説いていった。実相の世界は、す
べてが調和した完全円満の神の世界とされ、現象の世界に生きる人間の「念のレンズ」
が歪み、その結果、神の世界と人間の世界とに不一致が生じているのだと解説された。
谷口は、「汝ら天地一切のものと和解せよ」と説き、迷いという念のレンズの曇りがな
くなれば、地上にも神の世界が現れるとしたのだった。
10 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:36
念のレンズの曇りをとるための方法として開発されたのが、「神想観」であった。そ
れは、神との一体感を深めるために、合掌正座して行う生長の家独特の祈りであったが、
その方法自体は決して難しいものではなかった。そして、雑誌の『生長の家』は、「雑
誌の形をした聖書」であるとされ、雑誌を講読する誌友の間では「神誌」と呼ばれるよ
うになるが、その神誌を読んで、谷口の説く実相の世界について学ぶための組織として
各地に支部が作られていった。
ただし、神誌と呼ばれたのは、その内容面によるだけではなかった。『生長の家』の
雑誌を読んだだけで病気が直ったという手紙が多数谷口のもとへ寄せられたのである。
谷口は、こうした反響に対して、すべての病いは心の影、つまりは想念の曇りによるも
ので、病気は本来実在するものではないと説いた。『生長の家』を読み、病いは本来な
いものという実相を知ったなら病気は消しとんでしまう。本を読めば必ず病気が直ると
まで言われるようになり、雑誌の誌上にも、本を読んで病気が直ったという誌友からの
手紙が載せられるようになっていく。
こうして、生長の家は半面では現世利益的な側面を強調するようになっていくが、そ
れはあくまで実相という本質に気づいたことの証しとしてとらえられていた。他の宗教
とはちがって、特殊な祈祷などを行うことがなかったために、この時代の生長の家は哲
学的でインテリ向きの宗教という印象が強かった。
昭和八年には、生長の家の芸術運動を推進するために、『生長の家』の姉妹誌として、
『生命の藝術』誌が創刊された。この雑誌には、山根八春、伊東種、片岡環、そして松
本竣介といった画家や彫刻家が加わっていた。
一九三〇年代から四〇年代に活躍して、四八年に三十六歳の若さで亡くなった知性派
の画家・松本竣介については、最近宇佐美承による評伝(『求道の画家 松本竣介』中
公新書)が刊行されたが、松本は父や兄の勧めもあって、熱心な生長の家の信者になり、
兄とともに『生命の藝術』の編集に携わった。モダンな都会の絵が得意だった松本と、
従来の土着的な宗教を脱したインテリ向きの生長の家とはたしかに相性はよかった。松
本は、『生長の家』の表紙の絵も描いている。
11 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:37
しかし、三年ほど信者を続けた松本は、生長の家を離れる。彼は、生長の家を通して
結ばれた妻の禎子に対して、「谷口先生は神様になって遠くへいってしまわれた」と語
っていた。彼の父も、谷口の言行不一致に怒りをあらわにしていたが、松本は谷口に別
離の手紙を書く。松本親子が反発を感じたのは、生長の家が哲学を説く思想団体から次
第に現世利益を強調する宗教団体へ変質していこうとしていたからである。
昭和九年の夏、谷口夫妻は神戸から東京に移り、自分たちの運動を「人類光明化運動」
と名付け、その主体となる組織として「株式会社光明思想普及会」を結成していた。そ
して、最初の事業として、昭和十年一月から『生長の家』の合本である聖典『生命の実
相』全集普及版全十巻の刊行を開始する。
『生命の実相』は、光明思想普及会の支部を通して希望者に配布するシステムがとら
れたが、その宣伝広告が全国の主要新聞に全三段あるいは全五段ぬきで、毎月数回にわ
たって掲載された。書籍の紹介だけではなく、谷口の教えや病気治癒の事例までが載せ
られていた。この奇抜で大胆な宣伝活動には、十七万二千円という巨費が投じられたが、
そのかいあって『生命の実相』の第一巻だけで五万三千部も頒布されたという。
当然、これだけの宣伝を行えば、社会から注目を集めるだけではなく、批判も覚悟し
なければならない。ジャーナリストの大宅壮一は、その年の十月に「『生長の家』を解
剖する」という批判記事を『日本評論』に寄稿している。大宅は、『生命の実相』を読
みさえすれば、万病が直り、すべての危険が避けられ、就職は絶対確実で、貧乏が向こ
うから逃げていくというほど素晴らしい誇大広告がかつて新聞紙上に現れたことがあっ
ただろうかと皮肉り、生長の家の出版物に載せられた「面白そうな話」や「愉快な例」
をあげている。
12 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:37
太田某は、顔を剃ると必ずカミソリで一箇所は傷を作っていたが、生長の家に入って
からちっとも顔を切らなくなった。
五十嵐某は、隣の工場から出火し、折悪しく風下だったが、「自分は生長の家だから
火事に焼けるなどということはない」といって悠々としていると、途端に風向きが変わ
って風上になった。
家ダニに困っている家で、神想観をして立ち去るように命じたが、去らない。そこで、
「家タニだって住む所が必要なのだ」と反省して、家中の畳をはいで六畳一室に積み重
ね、「この室をあなた方のすみ家に提供しますから、これからどうぞこの部屋から出な
いで下さい」と言って、また神想観をすると、それ以来家ダニは絶対に人間を刺さなく
なり六畳の部屋に列を作って生活している。
松本父子が、谷口に愛想をつかした気持ちもわかる。大宅は、生長の家の根本思想は、
素朴で原子的な唯心論にあり、「病いは気から」という俗説を盲滅法に普遍化し、それ
を神秘化して宗教に仕立てあげ、徹底した商品化をめざしていると分析する。そして、
宗教の専門家が谷口の教えは出鱈目だと批評しても、生長の家の「お得意先」は宗教の
アマチュアであり、正確な知識はかえって商売の邪魔になると鋭い指摘を行っていたの
だった。
新聞を使っての大宣伝や大宅の批評に接した読者は、かの幸福の科学を連想するであ
ろうが、その主宰者である大川隆法の父親はかつて生長の家の信者であった。実際、幸
福の科学では、谷口の霊が降って語ったとされる霊言集を何冊か刊行している。「バブ
ル宗教」のルーツは、生長の家にあったのである。
13 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:38
ヤオハンあっての「生長の家」
谷口が、大本教に入信し、西田天香に教えをこい、そして神の声に押されるようにし
て『生長の家』の雑誌を発刊するようになるまでは、彼自身が悩みを抱え、そこから抜
け出る道を模索していた。彼は仏典や聖書をひもとき、さらにはアメリカに生まれた新
しい宗教運動であるクリスチャン・サイエンスやニュー・ソートの流れをくむ思想を学
ぶこともあった。その時代の谷口は、哲学的に自己の人間としてのあり方を深く極めよ
うとしており、その苦闘が文章にも現れていた。
しかし、雑誌『生長の家』が刊行され、大宣伝の効果もあって、多くの読者を獲得し
ていくと、谷口の姿勢も変化していく。彼は、各地の誌友たちの間をまわって、誌友会
や講演会を開いていったが、そういった場に集まってきた人間が望んでいたのは、難解
な哲学ではなく、現実の社会でよりよく生きるための具体的な方法であり、彼もそうい
った読者の期待に答えなければならなかったからである。
たとえば谷口は、経済の問題についても、マルクスの唯物史観に対抗する思想として
唯心史観を強調した。神は、富を無尽蔵に生み出す「無限供給者」としてとらえられ、
近代の経済組織は万一の時を恐れて節約にはげむ人間の恐怖心にもとづくもので、その
ために富が一部の人間に蓄積され、十分に流通しなくなったのだと説いた。その恐怖心
さえなくせば、神によって十分な財が与えられるというのである。
今日でさえ、消費の動向に、消費者の側の心理的要因が働いているという分析がなさ
れている以上、谷口の唯心史観にも見るべきものはある。確かに、十分な財が保証され
ているのであれば、富に執着し、それをためこんでおく必要もない。しかし、神が富を
無尽蔵に生み出していくという保証はない。無限供給者としての神の存在を科学的に証
明することはできず、それはあくまで信仰の次元にとどまっている。谷口の提唱する唯
心史観は、信じることによってしか成立しない思想だったのである。
14 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:39
しかし、神の世界を、すべてが満ち足りた理想世界としてとらえ、そこに到達するた
めには心の持ち方さえ変えればいいという教えは、その前提や有効性を証明できないに
しても、広く大衆の心をとらえる可能性を持っていた。だからこそ、「万病が直り、す
べての危険が避けられ、就職は絶対確実で、貧乏が向こうから逃げていく」という宣伝
文句に魅かれて、『生長の家』の読者は急増したのである。こうして、松本父子の思い
に反して、生長の家は、「大衆宗教」としての道を歩み始める。講演会につめかけてき
た大衆を前にして自らの思想を語った谷口は、一人の求道者から宗教団体の教祖へと変
貌していたのだ。
生長の家では、『生長の家』の創刊号の発行日として奥付に記された三月一日を「立
教の記念日」としているが、その創立五十周年を期して『生長の家五十年史』という八
百頁を越える教団史を刊行している。その前半の部分では、谷口の心の揺れが詳しく語
られ、その点で教団の外の人間の興味を魅くのだが、光明思想普及会が結成されてから
は、松本が評したように、「谷口先生は神様になって遠くへいってしまわれた」ようで、
彼の内面的な苦悩は語られなくなり、その分退屈なものになっていく。
谷口は、自らの思想を「唯心実相論」と呼び、そこに高邁な哲学が表現されていると
考えていたが、大衆が受け入れたのは、大宅壮一が言うように、素朴で原始的な唯心論
でしかなかった。本気で家ダニに神想観を試みるには、理性はむしろ邪魔だった。しか
し、素朴で原始的な唯心論は、他の宗教団体においても説かれており、生長の家が独自
性を打ち出すためには、別種の主張を展開する必要があった。特に、その教えの根本に
ある「実相」に具体性を与え、それを信仰の対象へと考えていかなければならなかった。
谷口の悟りの中で、「実相は神である」とされたが、その神を目に見えるものとして、
大衆に示さなければならなかったのである。
15 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:40
昭和十五年、宗教団体法が施行され、生長の家が宗教結社として認められると、谷口
は天皇信仰を強く打ち出す。「すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦
牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発す
る如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太
陽を知らざる徒なり」と、すべての宗教を天皇への信仰によって統合しようとした。哲
学的な概念としての実相は、天皇という実体を与えられたのである。
谷口は、早くから万教帰一を説いてきたが、戦争への道を進んでいた当時の日本の社
会において、神道をすべての宗教を超越した国家の祭祀とする国家神道の体制が確立さ
れていく中で、すべての宗教が帰一する先を天皇へと求めることは、時代の流れにそう
ものであった。谷口は、天皇信仰を核にすえることによって、生長の家の存在意義を社
会に向けて強くアピールしようと試みたのである。
大東亜戦争が勃発すると、谷口はそれが「聖戦」であることを主張し、中国軍を撃滅
するために「念波」を送ることを呼びかけた。さらには、米英との和解を断固退け、
「国体の本義」の内容が手ぬるいとして、文部大臣を誌上で叱ったりもした。しかし、
あまりに過激な天皇信仰の主張は、体制側に好まれなかった。しかも、戦時体制のもと
で、印刷用紙が不足したことが、雑誌を核にして運動を展開してきた生長の家にとって
は決定的な痛手となった。昭和十九年には、雑誌も単行本もいっさい発行できなくなっ
てしまったのである。
その意味では、終戦は、雑誌の復刊を可能にし、雑誌を通しての活動を再開させるこ
とができたという点で、生長の家にとっては好ましいことだった。谷口は、「日本は決
して負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」といい、国体が滅びたので
はないことを強調する一方で、生長の家の教えの中に「本来戦い無し」のことばがある
ことを根拠に、生長の家が平和主義を説いていたことを主張した。しかし、昭和二十年
十一月に日本の復興をめざして社会事業団を設立し、天皇制の護持を唱えて全国精神主
義連盟を結成したものの、谷口が戦時中の言論活動が超国家主義であったとして公職追
放されたため、事業や運動は思うようには進まなかった。
16 :
「生長の家」御利益盛衰記:02/05/21 20:40
しかし、国際情勢の変化は、生長の家に新たな活躍の機会を与える。東西の冷戦によ
って、日本の国内でも、六〇年安保などをめぐって、保守と革新、右翼と左翼の対立が
激化すると、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張は、社
会的に影響力を持つようになった。生長の家は、明治憲法復元、紀元節復活、日の丸擁
護、優生保護法改正などの主張を展開し、保守的な階層に食い込んでいった。戦前に教
育を受け、戦後の民主主義の社会に違和感を持つ人間にとって、生長の家の主張は自分
たちの考えを代弁するものとして受け入れられた。戦後の生長の家は、百万人を超える
大教団へと成長していく。だが、時代はさらに変転する。谷口は、昭和六十年に亡くな
り、彼が崇拝の対象とした昭和天皇も亡くなった。また、ベルリンの壁やソ連の崩壊に
よって、谷口が戦後において戦い続けた共産主義の脅威も過去のものとなっていった。
そういった事態の変化は、生長の家に大きな打撃を与えた。天皇信仰や反左翼の政治運
動が衰退すれば、生長の家の存在意義も薄れていかざるをえない。昨年、二代目の総裁・
谷口清超の長男である雅宣が、一般青年向けの雑誌『理想世界』で、大東亜戦争を侵略
と認め、聖戦論を否定する見解を発表して、教団の中で議論が巻き起こった。生長の家
の教団自体が、天皇主義の右翼的な教団という旧来のイメージから脱皮しようとしてい
るのだ。
ヤオハンが話題にならなければ、最近、生長の家が注目されることはほとんどない。
ヤオハンにしても、物事を前向きに考える光明思想を個人の生きる支えや社員の勤労意
欲を高めるために利用しているだけで、ヤオハンが拡大しても、生長の家の信仰の拡大
に結びつくわけではない。
生長の家の本部は、原宿の駅のすぐ近くにある。本部の建物の入口の上には、生前の
谷口をほうふつとさせる聖者の像が飾られている。しかし、原宿を訪れる若者たちに、
生長の家の教えは時代遅れのものとしか感じられない。むしろ、その超楽観主義の教え
は、ヤオハンがマーケットの拡大をめざしている中国を中心とした、アジアの人々にと
って必要なのかもしれない。彼らはまだ無限供給者としての神を求めているからである。
17 :
名無しさん@1周年:02/05/23 17:06
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200203/01/20020302k0000m020068000c.html 2002年03月01日
ヤオハン:
更生手続き終結 計画認可から2年のスピード再建
--------------------------------------------------------------------------------
イオン(旧ジャスコ)の支援で会社更生手続き中だった中堅スーパーのヤオハンは1日、静岡
地裁から更生手続き終結の決定を受け、更生債権約132億円の弁済を終えたと発表した。計画
認可から2年のスピード再建で、ヤオハンは同日、イオン系列の食品スーパーの名前を取って、
社名を「マックスバリュ東海」に変更した。今後はイオングループの食品スーパー拡大の一翼を
担う。
管財人でヤオハン会長の岡田卓也・イオン名誉会長は退任。イオン出身の西岡明賜社長も非常
勤取締役になり、イオンが支援企業となったマイカルの管財人代理に就く。新社長には旧ヤオハ
ン生え抜きの内山一美取締役(53)が昇格した。
旧ヤオハンは旧経営陣の乱脈経営が原因で97年9月に会社更生法の適用を申請、同年10月
にジャスコ(当時)が支援を表明して再建に着手した。衣料品や日用品を切り捨て、食品スーパ
ーに特化する戦略が成功し、01年度で4年連続の経常黒字を達成する見通し。
18 :
名無しさん@1周年:02/05/23 17:09
http://www.shopbiz.jp/contents/SB20020307/137_010.phtml ヤオハン、債務弁済完了――3年内再上場目指す、新社名「マックスバリュ東海」。
2002/03/05 日経流通新聞MJ
食品スーパーのヤオハン(旧ヤオハンジャパン、静岡県長泉町)が総額二百三十八億七
千百万円の債務の弁済を完了した。一九九七年九月の会社更生法適用申請から四年五カ月と
いうスピード再建となった。三月一日付で社名を「マックスバリュ(MV)東海」に変更す
るとともに、生え抜きの内山一美取締役(53)が社長に就任。三年以内の再上場を目指す。
管財人を務めた岡田卓也会長(イオン名誉会長相談役、76)と管財人代理の西岡明賜社
長(57)は退任。経営の自主性を重視し、生え抜きの取締役を新たに四人選任した。会見
で内山新社長は「真の顧客満足を追求したい」と述べた。
更生手続き終結による出店依頼の増加や金融機関の融資条件緩和を見込み、二〇〇七年二
月期までに静岡、神奈川、山梨三県に大型の食品スーパー「マックスバリュ」を三十五店開
設する。静岡県内にあるイオン直営六店も移管を受ける。年間売上高を二千億円に高めて営
業利益率も五%に乗せる計画だ。
現在の店舗数は三十六で、従業員数は正社員五百九人、パート千百八十二人。二〇〇二年
二月期の売上高は五百八十一億四千二百万円、経常利益は二十八億千九百万円の見通し。
【表】ヤオハン再建の動き
〈1997年〉
9月18日 旧ヤオハンジャパンが会社更生法の適用を申請
10月6日 ジャスコ(現イオン)が支援表明
12月18日 更生手続き開始決定。岡田卓也ジャスコ会長(当時)が事業管財人就任
〈1999年〉
12月16日 3カ年の更生計画案を静岡地裁に提出
〈2000年〉
3月2日 更生計画認可。ヤオハンに社名変更。会長に岡田管財人、社長に西岡明賜管
財人代理が就任
〈2002年〉
2月22日 一年前倒しで更生手続き終結決定
2月28日 債務弁済を完了
3月1日 マックスバリュ東海に社名変更。生え抜きの内山一美氏が社長就任
【図・写真】会見する内山一美マックスバリュ東海社長(1日、東京・千代田)
19 :
名無しさん@1周年:02/05/23 18:36
ジャスコの経営者がここまでやるとは思わなかったよ。
ヤオハン再建には15年かかるといわれてたのにねぇ。
前の経営者は何やってたんだか。
ちょっと読んでみても生長の家について語り合っているようには見えませんが
教義に詳しい方に質問があります。
雅春先生の御文章で
「たとえ日本軍自身は滅んでも東亜の解放の為に戦う使命があった。
それは実際に日本人が立ち上がって白人と戦わねば達成できない事だった。
罪なくして磔刑に処されたキリストのように・・・」
こんな内容だったような記憶があって
初めて読んだ時は「そんなおおげさな!」と思ったんですが
最近、先生は正しいのではないかと思うようになりました。
もう一度、読んでみたいのですが
何と言う書物だったでしょうか、ご存知の方教えて下さい。
21 :
名無しさん@1周年:02/05/25 22:22
質問させてください。
万教帰一は大本教以来の流れだと
思いますが、第一次世界大戦後、
道院・世界紅卍字会など国際的にも
万教帰一的宗教が同時に台頭してきた
理由は何なのでしょうか
21の方
万教帰一的な宗教って第一次のあとなんですか?
国際的な流れなの?
23 :
名無しさん@1周年:02/05/26 19:14
>>22 そうでございます。
世界戦争のあと、
宗教対立が戦争の理由になってはならないと
考えた人々が世界的に増えたのかなと思ったの
ですが
《求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年》(中公新書)
宇佐美承著 中央公論社一九九二年発行
恋に破れ、靉光のもとへ通うようになって三年たった一九三六年(昭和十一年)、竣介
は二十三歳で新たな恋を実らせた。相手は東京山の手の大学教授の娘で松本禎子といい、
半年年下だった。仲をとりもったのは「生長の家」で、それは竣介を思う身内の心情と関
係あってのことだった。
父佐藤勝身はもともと、霊と肉のはざまで自分を苛む人だった。少年のころ、教会に出
入りしてまもなく洗礼を受けたのに、おこりくる肉欲のために聖書のことばが守りきれず、
受洗者名簿から名前を消してもらった。その後は信仰を捨てたことで以前にもまして苦し
みつづけ、結婚してふたりの男の子に恵まれてからやっと救われた。
勝身にとって子は宝だったから、長男の彬が大病をわずらったときも心配でいたたまれ
ず、聖書を読みかえしてみた。それでもキリスト教の信仰にもどれずにいたところへ、竣
介が生死のはざまをさ迷いはじめたのだから、藁にもすがる思いで日蓮宗の行者に救いを
求め、わが子が命をとりとめたときは奇跡をみたと思った。
それからというものは竣介の聴力の回復と幸福だけをねがい、団扇太鼓を叩きつづけて
とうとう破ってしまうほどの熱心な信者になったばかりか、奥義を極めようとして経典に
読みふけり、高僧を訪ねて教えを請うた。しかし、法華経の教義はむずかしくて歯がたた
ず、またも悩んでいたとき生長の家の信者の癌が治ったときき、雑誌『生長の家』を読ん
でみたところ、たちどころに法華経と聖書が同時に理解できた思いがした。生長の家はあ
らゆる宗教を超越すると宣言し、神を生命だとしていた。勝身はさっそくその団体の支部
を盛岡につくり、創始者谷口雅春を神戸の郊外から招いた。
それは竣介が故郷を出てからしばらくしてのことで、この団体はまだ揺籃期にあったが、
その後みるみるうちに発展していき、竣介上京五年後の一九三四年には本拠を東京に移し
て正式に教団を名のり、普及のための出版会社「光明思想普及会」をつくった。勝身は経
営する銀行が別の銀行に吸収されたのを機にその会社の常務取締役に就任して故郷をあと
にし、谷口との共著『法華経解譯』を出版したりもした。すべてはわが子の幸せを願って
のことで、心の彷徨の末にここにたどりついたのだった。
弟思いの彬も、勝身に勧められて熱心な信者になった。彬にはハツカダイコンのあだ名
があって、上京してしばらくは少し左翼だったけれど、唯物論がいまひとつしっくりこず、
これを越えた何かを求めていたところ雑誌『生長の家』を読んでたちまち共鳴した。やが
て谷口にあって講師団の一員になり、谷口から芸術雑誌『生命の藝術』を発刊する話をも
ちだされると、これは弟にもってこいの仕事だと思ってひきうけ、竣介を誘った。
竣介は理を通す青年だったから、なかなかうんといわなかった。以前に父の勧めで『日
蓮上人傳』を読んだときも「日蓮は釈迦一仏に還れといって法華経を説いたのに、一派を
おこしたのはおかしい」といっていた。こんど勧められるままに谷口の著書を読んだとき
も「ぼくは宮澤賢治がすきだ。宗教はきらいだ」といっていた。それなのに、三年かかり
はしたが結局はそこの雑誌の編集を担当することになったのだから、内に何かの変化がお
こったのだ。
あのころマルクス主義は先端の思想だったから、それに従わなかった以上、つぎに別の
ものを求めねばならぬとさぞかし思ったことだろう。そんなときに谷口の「事物の本質は、
目に見えぬ生命の流れ」という、マルクス主義と正反対のことばを突きつけられ、三年間
拒否しつづけたあげく、やっとそこに心の拠りどころをみつけた。自分は理の勝った男だ
と知っていたうえで、その理を通すマルクス主義に失望し、改めて自分をみつめなおした
のだった。
こうして兄とともに『生命の藝術』を編集しはじめたのだが、一九三三年の初秋、その
雑誌の第二号に信仰告白の文章を書いた。「谷口先生、父、兄及び、過ぎし日にさゝぐ」
と前置きして……若者は辞書のなかに真実がかくされていると思っているが知識は決して
自由を与えてくれない……叡智をともなわない知識は動力のない機関と同じだ……知識と
真理がちがうことがいまわかった……これまで愚かだったために大きな代償を払わなけれ
ばならなかった……と書きつづけたあと「私は肉体の自由と、青春を剥奪される事によつ
て、かすかに神の息吹きに接する事を知つた」と告白し、谷口の文章をひきながら、「あ
らゆるものゝ姿が無限に生長してゐる生命の顕れである事を知る時、小さな知識を固執す
る事をしない」と書いて生長の家の思想に共鳴していることを鮮明にした。
このように共鳴したうえで、そこの芸術雑誌を編集し、筆を執ることは歓びであった。
『線』のときもそうだったが竣介は、絵を描くことにおとらず文章を書くことや編集する
ことに情熱を感じていた。日々模索する自分を表現するには文章は絵と同じくらい有効だ
し、二つは一つにならねばならぬとさえ思っていたからだ。そしてその仕事の場で松本禎
子に出あった。
しばらくしてふたりは生長の家をはなれた。そのころ竣介は禎子に「谷口先生は神様に
なって遠くへいってしまわれた」といっていた。それは生長の家が思想・教養の団体から
宗教団体へと様がわりしていく過程におこっていたことだろう。竣介のことだからこんな
控えめな物言いをしたのだが、宮澤賢治の「雨ニモマメズ」の詩の横に「賢治が好きだ。
宗教は嫌ひだ」と書いていた。このあとにも、自分たちで出しはじめた雑誌『雑記帳』に
「実際教団といふものや、出版界の表裏を見てゐると我慢ならないものがあるんだ」と書
いたのだから、もっと激しい批判をもっていたろう。
生長の家は佐藤、松本両家の人びとがぞっこん惚れて近づいたころからしばらくして、
教団と、普及のための出版会社をわけ、聖典『生命の実相』の販売に力を入れるなどして
急速に発展していったのだが、その間に谷口はカリスマ性をもってきて現世利益を説くこ
とが多くなっていったし、幹部のなかに内紛もおきていたのだ。
竣介と恒は相談した。恒もすでに嫌気がさしていて、結局竣介が谷口に別離の手紙を書
くことになった。竣介は画業に専念するために去るのだと書いたが、いっぽうで、これま
で育ての親のつもりで接しておりましたのに、と前置きしたうえで教団と谷口を批判する
ことも忘れなかった。谷口からきびしい叱責の返事がきたが、決意は変らず最後の仕事と
して『生命の藝術』(昭和十一年十月号最終号)に「狐になつたアルカム」という寓話を
書いた。宮澤賢治の語り口を借りながら教団と谷口を批判したもので、つぎのような話だ
った。
舞台となったイートラム国は、そのころの共産主義者が夢みていたユートピアを思わせ
た。文化と科学がとことん進歩して病気も貧乏も絶えたが、人民の精神はしだいに衰えて
いく。そこで指導者が道士アルカムを招く。アルカムの導きでイートラム国の人民が理想
の人類になろうとしたその矢先、アルカムは全国民との問答の最中にとんでもないことを
口走ってしまって面目を失い、野ぎつねの正体をあらわす……。
竣介と前後して勝身も彬も恒も生長の家を去った。勝身は思い入れの激しい人だったか
ら「先生は驚くべき言行不一致だ。乱離骨灰、それでいてなんら恥じるところがない」と
怒り狂っていた。
でも生長の家での三年間は、竣介にはむだではなかった。プロレタリア美術家同盟の唯
物論に満足できずにいたときこの思想に触れ、頼った。そこの芸術雑誌を編集しながら本
を読み、文章を書き、絵を描いていくうちに自分を深め、つぎなるステップにそなえた。
つまりこの三年間は、合理追求という竣介の一生から外れた道ではあったけれど、その道
にも一里塚があったことはたしかだ。 竣介たちが去ったあと生長の家は『生命の藝術』
を廃刊して新雑誌『いのち』に切り替えたが、それは「時局に即応した」方針をとるため
だった。いっぽう竣介は『雑記帳』でその“時局”を激しく批判することになる。
28 :
名無しさん@1周年:02/05/30 19:51
age
29 :
名無しさん@1周年:02/06/03 19:01
「法華経解釈」を書いた佐藤勝身氏は怒り狂ってやめたのに彼が亡くなった
後で信じていた時に書いたものを改めて出版した谷口雅春。これではこ
ういう事情を知らない人は佐藤氏が死ぬまで生長の家の信者であったと誤解
すると思いますね。「法華経解釈」は佐藤氏が大部分を書きました。
これほど熱心な信仰を持っていた佐藤氏が後に谷口雅春をニセモノと判断した
のだからやはり生長の家はインチキ教だということです。
30 :
名無しさん@1周年:02/06/06 03:04
31 :
名無しさん@1周年:02/06/07 17:53
>「先生は驚くべき言行不一致だ。乱離骨灰、それでいてなんら恥じるところがない」
これは谷口雅春生長の家の本質をよく言い現わしている。
生長の家の本は美辞麗句の言葉で満ち溢れているが中味のないはりぼてみたいなものだ。
32 :
名無しさん@1周年:02/06/11 23:14
33 :
名無しさん@1周年:02/06/18 00:52
>野ぎつねの正体をあらわす……。
やはり谷口雅春は野狐禅だったか
34 :
名無しさん@1周年:02/06/24 12:13
「著者と出版社」山崎安雄著 学風書院 昭和29年6月5日発行
谷口雅春という教祖
丹波綾部の皇道大本(俗称大本教)に走った。夫人(江守輝子女史)とはここで
相知り結婚した。文筆の才能が認められて、本山で発行される「綾部新聞」や
「神霊会」の編集をやり「皇道霊学講話」という本を書いて、大本教の霊学に体系を
あたえた。その頃自ら「大本教のフランシスだ」と称して一枚の着物だけしかもたず、
一本の縄の帯をしめて生活していた。不敬事件で数百名の警官隊に襲われたのもその
頃で、漸く未決監から保釈で帰った教主出口王仁三郎が「霊界物語」の口述をすると
いうので祥雲閣に招かれた。
「出口氏の口述は、名文ではなかつたが、何の原稿もなしに、幻想でも見ながらそ
れを伝えるように、スラスラと淀みなく出てくるのであつた」と谷口氏は回想して
いる。
しかし谷口氏は、出口氏の「霊界物語」に出て来る人物は現実にモデルがあるので
あって、それが何某命という作中人物になって、霊界でこんな行為をしたという風に
脚色してあるので霊感によらないという事を発見して信仰を失った。その頃が谷口氏
の思想的彷徨時代である。その間、西田天香の「懺悔の生活」に心ひかれ、一燈園に
はいって托鉢をしたこともある。谷口氏があき足りなくなって大本教を脱退したとき、
大本教弾劾の運動をされては困ると思ったのか、王仁三郎氏は「霊界物語」の中で、
谷口氏のことを鰐口邪冬という名で表現し、氏が一燈園を訪問したことを「一等厭」
を訪問したといい、鰐口邪冬が地獄へ落されて地獄の鬼と哲学的問答をしていると
いったことを書いている。
35 :
名無しさん@1周年:02/06/26 18:29
佐藤氏が生長の家をやめたことについて「法華経解譯」(日本教文社刊)の文中に
一言も書かれていない。死人に口無しか知らんがこれは「生長の家≠法華経」と判断し
た佐藤氏を愚弄する行為でありひいては法華経を冒涜する行為だ。
36 :
名無しさん@1周年:02/06/26 18:53
パクリ宗教生長の家
37 :
名無しさん@1周年:02/06/26 19:09
コピペ宗教生長の家
38 :
名無しさん@1周年:02/06/27 17:03
教団を守るために真理をねじ曲げるなら、
それが悟りの妨げになるのであるなら、
教団などなくなってしまったほうがよい
39 :
名無しさん@1周年:02/06/28 20:22
松本竣介さんは三年で教義のおかしいことを見ぬいたのだから賢い。
何十年やってもインチキを見ぬけない人は沢山いますから。
40 :
名無しさん@1周年:02/07/01 16:20
age
41 :
名無しさん@1周年:02/07/04 20:49
自分も職員だったらさっさと退職金もらって再就職して第二あるいは第三の人生歩むけどね。
「生長の家」をいくら批判し、非難したところで、「生長の家」に救われを求め、「生長の家」
にすがり、依存する多くの人達の存在があり、またこれからもそのような人達が生まれる
限り、「生長の家」は存続し、その他の宗教もそれぞれに栄枯盛衰はあるだろうが存続して
ゆくだろう。
「生長の家」でなくてはならない、という人はむしろ少なくて、「生長の家」だろうが何だろうが
自分がそれによって救われて幸せになれればそれでよい、という人の方が多いのではないだろうか。
『私は生長の家によって救われた。他の人にとってはどうかわからないが、私にとっては、
生長の家はかけがえの無い宗教であり、信仰である。』という『信念』を持つ人、それに
至った人にとっては、『生長の家の批判』は意味の無いものだろう。
しかし、「生長の家」に救いを感じられず、「何か他に自分にとって良い宗教があるのではないか。」
という思いを持つ人達にとっては、「生長の家批判」は参考になると思われる。そのような方々は
無理をせずに、もっと多くの宗教や教えに触れてみられたら良いのではないだろうか。
谷口雅春は聖書にキリストの名をかたって多くの人を惑わすと預言されている偽預言
者の一人にすぎない。生長の家に従うものは地獄に落ちる。
44 :
名無しさん@1周年:02/07/07 15:53
>>43 私もあなたも既に生きながらにして地獄に落ちているじゃありませんか。
人に対して「地獄に落ちるぞ」などと、神でもないあなたがどうして断言
出来るんでしょうか?生長の家の方々の平和を祈ることだけがあなたに
出来る唯一の事なのではありませんか?
あなたがそのような発言をしたところで、生長の家の人が生長の家をやめて
イエス=キリストを信仰するとはとても思えません。むしろあなたを軽蔑
されることでしょう。本当に人々にイエス=キリストの福音をお述べになり
たければ、もっと違う言い方があってもよろしいのではないでしょうか?
43さんが神と共にありますように
45 :
名無しさん@1周年:02/07/07 16:51
46 :
名無しさん@1周年:02/07/07 17:05
>>45 uzeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee!!!!
47 :
名無しさん@1周年:02/07/07 17:24
『大宅壮一全集 第四巻』(蒼洋社)
また彼の片腕として、総編集長として、「生長の家」の宣伝広告を一手でやってのけ
ている佐藤彬も文学青年で、プロ文化運動華やかなりしころ『戦旗』にも関係のあった
男である。彼の父佐藤勝身は、先年疑獄を起こして破産した盛岡の金田一財閥にいた人
で、現に「生長の家」の常務取締役である。(昭和十年)
それから「生長の家」自体の内部でも、しばしば紛争を繰り返し、近くは、佐藤彬と
いって、ここの芸術、宣伝のほうを一手に引きうけていた有力幹部が、谷口に反旗をひ
るがえして独立、伊藤証信の「無我の愛」一派と提携して、別に一派を開くことになっ
たという。
いくら「神想観」によっても「われの置き換え」によっても、この種の内紛はどうに
もならぬらしい。(昭和十二年九月)
48 :
名無しさん@1周年:02/07/11 14:30
北朝鮮はスローガンの洪水だが生長の家の日めくりカレンダーを見ていると
同じスローガンの洪水という感じがする。中身の伴わない。
49 :
名無しさん@1周年:02/07/11 14:47
50 :
名無しさん@1周年:02/07/16 17:07
成長するぞ
51 :
名無しさん@1周年:02/07/16 21:29
生長の家信者が教義の誤りを理解するまで時間がかかる。
52 :
名無しさん@1周年:02/07/16 21:34
生長の家には是非左翼に転校してもらって神道系で初の世界宗教を目指して欲しい。
天皇なんかどうでもいいよ。
コスモポリタンな世界宗教を目指すなら左翼的な思想でなければならない。
さあ、みんなも左翼になった生長の家を応援しよう。
53 :
名無しさん@1周年:02/07/16 21:45
>>52 俺は左翼も右翼もどっちも嫌い。
俺が求めているのは宗教であって天皇ではない。
天皇なんかどうだっていい。ここだけ同意。
54 :
名無しさん@1周年:02/07/19 00:01
哲学的な概念としての実相を天皇に求めて、短絡的に宗教に結びつけて
信仰の対象に持ってきたところに誤謬がある。
>>1 パラノイア誇大妄想狂患者の書いたものなどに影響をうけたとか生きる原動力になっている
とかいってる段階でDQS
アクエリアン地獄行き
57 :
名無しさん@1周年:02/07/19 05:38
58 :
ma-tan:02/07/21 19:19
生長の家を論じるとき、信者ではなく本部側の人材がどういう人物が
集まっているのかを見れば、その組織の本質が見えて来る。
その意味で現在の生長の家の教団の幹部がどういう人物がいて、どういう
生き方をしているかを列記すると結論は述べなくても自明となる気がします。
この意味で、現教団の幹部の人物について色々聞かせてくださいませんか?
例えば、「生長の家の教えに触れると家族が幸せになる」という
有名な言葉があるけど、それじゃー、現在の総裁の家族がみんな幸せか?
といえば、実に悲惨な状況です。こういう事実そのものを見れば
「・・・みんな幸せになる」なんてのが実にいいかげんで本家そのものが
見せ掛けだけで偽者ということが露呈していると思うんですが。
例をあげれば・・・・
教祖の雅春の妻である輝子さんが離婚経験者、そして雅春負債の一人娘の
恵美子さんもまた離婚経験者、さらには現総裁の清超夫婦の長女もまた
離婚経験者。どうして3代にわたって皆さん離婚をするのでしょう?
このこと一つとっても「幸福に。。。」にはほど遠い。
それだけではない、現総裁の末っ子なんかは青年会の会長をやってるけど
若い頃、暴走運転をして大事故を起こし、同乗していた女性を死亡
させていたりする。その事故を現総裁が金を積んで示談にしもみ消したなんて
のは有名な話だし、その後刑務所に入ったのだが、こんなことも
「生長の家の教えに触れると家族がみんな幸せに・・・」とどう考えても
乖離してるしなー。現総裁の法的な意味での子供に2人も刑務所務めを
した人物が居るけど、まったくこういったことも屁理屈をそのまま信じて
疑うことさえしない信者のバカさ加減は半端じゃ無いきがしますが
いかがでしょう??
59 :
名無しさん@1周年:02/07/22 23:46
谷口雅春は広大な私邸に十人位の乙女たちをはべらせ
かしずかれて生活してました。
終戦直後、幹部の石川貞子さん(生命の実相に出てくる)が谷口の
私行を糾弾したり引退を要求したりしていたそうです。
60 :
名無しさん@1周年:02/07/23 01:04
61 :
名無しさん@1周年:02/07/23 20:28
>>58 >教祖の雅春の妻である輝子さんが離婚経験者、そして雅春負債の一人娘の
>恵美子さんもまた離婚経験者、さらには現総裁の清超夫婦の長女もまた
>離婚経験者。どうして3代にわたって皆さん離婚をするのでしょう?
>このこと一つとっても「幸福に。。。」にはほど遠い。
自他一体の神示
「離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。」
「一人の男子が縁あつて一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
それを円く結んでやるのが道である。」(昭和七年二月四日神示)
62 :
ma-tan:02/07/28 23:08
>自他一体の神示
>「離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。」
>「一人の男子が縁あつて一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
>それを円く結んでやるのが道である。」(昭和七年二月四日神示)
そうです。そう述べてます。ところが谷口家に関わりのある人物が離婚という
ことになると、「特例」とばかりに屁理屈で言い繕う。
言い繕うことをしなければ良いものをその場しのぎを繰り返すから
「本物ではない」ということがバレてしまう。
まぁ、離婚や刑務所努めをしたことはひとまず置くとして・・・
今年の春まで講師部長をしていた総裁の養子になった人物なんかは特に面白い。
なぜかといえば、信者に家庭不和の話をするとき、「縁あって一人の女性と結ばれたのならば
再び離れるのは道ではない・・・」などと受け売り専門家らしく、同じ事をさも
得意そうに言うのであるが、自分自身が妻に逃げられていたりする。
そして周りには「妻が勝手に出て行った」などと自己防衛に必死なのには
笑ってしまう。
しかし、何よりも不思議なのは、逃げられた相手というのが「総裁の長女」
だったりすることだし、さらに不思議なのは、生長の家の教えと実際の生き方が
こんなに差があることがバレてしまっているのに、相変わらず「理事」で居られる
という不思議さ。
さらにさらに不思議なのは、そういった問題人物を数年前に総裁自身が
「立派な人物なので次期理事長に推薦する」と実際に推薦されて理事長に
なりかけたということだわな。
つまり・・・・生長の家を論じるとき、今までの書籍、演説などの内容を吟味
することよりも、「谷口家」そのものの構成員がどういう生き方、どういう
事件を起こしているか、行動しているか??を列記した上で
その内容と生長の家の教えとが合致しているか、あるいは乖離しているか?を
見てゆけば、生長の家がいかに本物とはかけ離れた「ぱくり宗教」であると
分かると思うんだけど??
谷口家というのは雅春氏がパクリ専門家であったことから、健康法などについても
いろんな情報を収集しまたそれを実際に実践していた。一人娘の恵美子は、
自分の両親が真っ当と信じて疑わなかったという単細胞人間なので、そういった
生活の知恵も受け売りをそのまま実行していた。谷口家では食事も玄米食とか
肉食を避けるなんてことをしていたので、清超、恵美子夫妻の子供たちの
幼少の頃はみんなガリガリ。中でも一番ガリガリで貧弱だったのが現在の
総裁代行の雅宣くんなんですね。人間関係を築くのも下手くそなものだから
雅宣くんなどはほとんど毎日姉の「寿美ちゃん」とママゴト遊びをしていた
んですね。そのせいかどうも人格が大きく歪んでいる。だけど、裸の王様の
ようにあほな取り巻きに囲まれて育ち生活をしているせいか、自分の
人格が大きく歪んでいることすら気が付いていないのは哀れでなりません。
「あんたは裸なんだよ!」・・と誰か教えてあげてよ。
ところで、誰かがどこかで「清超氏はすばらしい」などと褒めちぎっているけれど
「何がどのように素晴らしい」のか教えていただけないでしょうか?
こき下ろすのが趣味というわけではないですが、どこをどう眺めたら
「清超氏がすばらしい」となるのかまったく合点が行きません。
「どんなにあほか!」ということなら合点はすぐにでもするんだけど。
65 :
名無しさん@1周年:02/07/31 17:41
しかしここはひねくれ者の巣窟だな。
>教祖の雅春の妻である輝子さんが離婚経験者、そして雅春負債の一人娘の
>恵美子さんもまた離婚経験者、さらには現総裁の清超夫婦の長女もまた
>離婚経験者。どうして3代にわたって皆さん離婚をするのでしょう?
>このこと一つとっても「幸福に。。。」にはほど遠い。
輝子さんの離婚は酒乱の夫が家に帰らなくなったのが原因、傷心を癒す
ために大本に入信。そこでも癒されず雅春氏と出会い幸せになった。
恵美子さんも清超氏と出会い幸せになり現在に至る。
佳世子さんの場合は、離婚をしたが6人の子供たちはみんな幸せだ。
それから貴康さんは事故で苦労したが見事に立ち直ったからこそ
今の仕事をしているわけだ。それから同乗の女性は死んでいるどころ
か北海道で4人の子供に囲まれて幸せに暮らしているそうだ。
誰にでも失敗はある。立ち直って成長していくことに目を向けるべき。
人の家庭の事情を勝手気ままに詮索・想像して批判するのは
「おまえのかぁーちゃんでべそー」と言っているガキと同じだ。
おまえの家庭は完璧なのかよ。
66 :
名無しさん@1周年:02/07/31 17:44
それからついでに
雅春氏の家には女中さんが2人いるだけだ。
だれだ、デタラメを言っているやつは。
>>66 職業左翼か創価学会の連中じゃないの?
漏れは生長の家とは無関係の人間だけど、
WC板で職業左翼や創価学会の連中が
生長の家は宗教右翼で嫌韓を煽って日本を
混乱させようとしているって言って生長の家を
叩いてるのを見てこの板に来たけど、なんか
左翼や創価学会の連中ってキショイと思った。
68 :
名無しさん@1周年:02/07/31 22:22
67さん。
了解なるほど。そんな気はしていましたよ。人様の家庭の事情を
ネタにして、攻撃してくるやつはまともな信仰の持ち主でもないし
目的のためなら手段を選ばない共産党の奴らかと思っていましたよ。
ただ一瞬ですが、統一協会の奴らかとも思いましたが・・・
69 :
名無しさん@1周年:02/08/02 00:17
雅春が芸者と同棲して性病感染されたって本当ですか?
70 :
名無しさん@1周年:02/08/02 01:01
以前、戦争犯罪人雅春の本を読んだよ。
数ページ読んだだけでこいつはただの電波だとわかったよ。
「東南アジアでは仏像を極彩色に塗りたくってありがたやありがたやとするだけと聴きます、それに引き換え日本こそが真の釈迦の教えを伝えているのであります。」
確かこんな主旨のことほざいてた。
そもそも東南アジアの信仰について自分の目で確かめもせずにどうしてそう言い切れるんだ?
真の釈迦の教えってあんたわかってる?まさか誰かが日本語訳した教典と研究書読んだだけじゃないだろうな?最低でも原典を原語で読解したんじゃなきゃ「真の釈迦の教え」てのを知ったとは言えないはずだ。
実践のない谷口の言葉なぞクソほどの価値もナシ!
正直、こんなに生長が荒んでいるとは思わなかった。
信者のレベルも低い。教義はツギハギだらけで借用品ばかりの人工的作品
それを「神示」と自称しているとは・・・。
しかも、実践されない空理空論に成り下がっている。看板だけになっている。
生長の家 神の国寮における児童虐待。
もう完全に普通ではない、カルト化している。
一般信者の釈明を待つ。
73 :
名無しさん@1周年:02/08/04 14:08
生長カルトの目には自分を叩くものは左翼か創価に見えるらしいw
そういえばマス痛では創価攻撃も盛んだな・・・w
まったく笑える人達だねぇ・・・・・
生長の家の教えに触れると、その家族までもが皆幸せになる・・・
なんてことを言って布教しているが、その本家の家庭がそんな
状況とはかけ離れていて、火の粉を消すのに奔走している。。。
という、またくお笑いの状況をどう考えるのか??という意味で
本家の家庭の中のことを例にして出しただけなのに・・・
こういうのを全部「誹謗、中傷、攻撃」と受け取るんだから
もう救いようがない人達だねーーー。
キンマンコ教に改宗しなさい!!!
なんか貴康君が刑務所に入ったことを勘違いしてるようだけど
実際は2度大きな事故を起こしていて、そのうちの一回が
「過失致死」だから同乗の女性を死亡させている。その人がどうして
「北海道で4人の子供に囲まれて・・・」ってなるんだい?
北海道は黄泉の国かね?
そもそも、なぜ貴康君が事故を起こした当時、暴走族に加わって
いたなど、生活が荒れていたかご存知ないのかい?
愛情溢れる幸せな家庭に育っていれば、暴走なんてことを繰り返して
親に反発なんかしないでしょ?その反発されたのが現総裁夫婦の
清超、恵美子でしょ?子育てもまともにできない親のサンプルが。
だから「言ってることと中身が違う!」って言うんだよ。
離婚のことも「その後幸せならいいじゃないか!」だって?
あんたよっぽどおめでたい人だねー
そもそも、「一つの魂が半身となってこの世に生まれてくる、それが
元の一つになろうとして出会い結婚する」というようなことが
結婚の意味なんでしょ? だったら離婚してもその後幸せなら・・・
なんてあほなことを口にするご都合主義をおかしいと思わないのかね?
その後幸せ・・なんて関係ないの。
勿論、私のように、成長の家のようなアホな洗脳を受けていない人間は
離婚もまたよし、再婚もまたよし・・とは思っているけどね。
突っ込まれるのは「そもそも結婚とは・・・こうである!」なんて
借り物の言葉で言い切るから、あとで困るんでしょ!
でも、おかしいのは「その後幸せならいいんじゃないの!」なんてことを
言っても羞恥心で顔が赤くならないというその神経だよなー
誹謗中傷・・・と受け取る成長の家の信者達には呆れてものが言えないが、
それもカルトだからし方がないだろうな。私は成長の家を攻撃しようなんて
気持ちは全く無い。ただ呆れてはいるけどね。私が生長の家に触れたのは、
私の大事な人が洗脳されていてそこから救う必要があったからなんだけど。
こんなに程度の低い「教え」にも人間は騙されちゃうんだと思い知りました。
まぁ、騙される人はそういう要因の持ち主だから付け込まれて仕方が無いと
いう一面はある。だけど、「自分たちは善人」と錯覚をして信者を洗脳し
つづけるという「教団関係者」は許すわけには行きません。どこまでも糾弾を
続けなければと思っています。
それにしても、こういう「教団関係者」はあの世で業火に焼かれるのだと
知らないのはなんともお気の毒というかお目出度いというか・・・
78 :
名無しさん@1周年:02/08/04 23:20
この世で業火に焼かなきゃ気が済まん。
一被害者より。
「神霊界」復刻版1986年発行 出版者大日本修斎会
「神霊界」1919年(大正八年)二月一五日号
入信の経路参綾の動機 谷口正治
私はメエテルリンクの静穏閑雅な愛に充ちたような思索が好きであったと同時に
オスカーワイルドのような華爛な美装に充ちた生活も厭わしいものとは思いません
でした。唯厭わしいのは善でも美でもない平板単調劣悪な生活でした。『俺は美し
ゅう生きている』という感じか、あるいは『俺は聖者のように生きている』という
高い満足かどちらかがなければ生きたとは思われないのでもがいていましたしかし
ながら、どうかすると貴族的な芸術的な美的生活というものは善なる生活と背反す
るものであります。『色彩の感覚すら善悪を超越する』とワイルドはいっています
通りです。他人は筆で物語を紙に描くであろうが、私は私の肉と血とで人生に戯曲
を描こうと思った時、私はある前科ある女と物語を作っていました。初犯は朋輩と
協力して姉芸者の情夫を殺そうとした未遂で、第二犯は『お七吉三』が見たいため
の窃盗犯でした。全く理性のないような、情熱ばかりのような、その点がひどく私
を魅惑しました。私は心に既に脚色をもっていて人生の上に戯曲を描く快感を貪り
ながら、ある暑中休暇の数日を故郷で暮したまま、急いでその女と再び東京へ旅立
ちました。私の人生の戯曲は第五幕が脚色通りに来て愁嘆な別離の場は悲しげに幕
がとじました。しかし戯曲は終っても人生は続いていました。彼女は私に別れとも
ながっていたし、私はすべての善の感情の源泉である憐憫の感情の纒縛の中にいて
いましたもが真とに美しい生活とは想像的同情に充ちた生活ではないか。憐れな者を
虐げてその者の苦しさを『よう酌みとらぬような』似而非芸術的生活が何になる?
愚劣な実に醜い生活である!オスカーワイルドのような美のために美を求めた快楽
主義者も獄中にあって始めて『他のために苦しむのがどんなに楽しいか』を知った
のである。彼は基督の『敵を愛せよ』という聖訓を『愛は憎みよりも美しいから』
と注釈している。然り善であると同時に美しい生活は愛の生活より他にはない。
私は彼女の愛護者となろうではないか。愛がどんなに美しいかということを人生に
示そうではないか。愛は他を聖化するに相違ない。たとえ相手が前科者であろうと
も。誰も相手にしない憐れな罪人を愛するのは甚麼に楽しいか。改心したい罪人
でありながら、社会が偏強で許しのないために罪を重ねる人々がこの世に甚麼に多
いだろう。私が彼女を愛し続けるのは彼女一人の救済のためではなくその様な不合理
な社会に対する第一戦を挑むのである。『万人を許し得る事によってのみ人は神に
近付き得る』私はそう考えていました。
私は早稲田の文科でその頃特待生でしたから、授業料免除なのを幸い一人の学資で
二人で暮していました。その中に故郷にその事が知れたので、一人分の学資さえも
来なくなりました。私は故郷へ書を送りました。
『私は人を愛すな許すなという事には断じて従う事は出来ません彼女は罪人である
から私は彼女を憐まずにはいられません。私だけが彼女を愛し得る唯一人です。
もし私が彼女を愛し許さなかったら彼女は再び堕落するでしょう』
舞妓上りの前科者に関係した堕落した一個の青年=が私でしたしかし私は考えて
自ら慰めていました。小間使に関係した華族の若様から一口にいってしまえば何の
価値もないけれどもトルストイの『復活』の主人公を誰れが敬意を払わずにいられ
ようと。大本の霊統の問題が正しく理解されていたなら他に正しい善美な生活が見
出せていたでしょうに、ともかくもその時は真面目にそう考えて社会の偏強な道徳
観に戦を挑んでいました。
生活は日に日に窮迫して来ます。社会から非常な迫害を受けて、飲まず食わずで
震えながら路宿した事も数日ありました。カタストロフィーはいよいよ来ました。
彼女は彼女の親の財産を持出して私に貢いだしたために、その親は彼女を私に秘密
で台湾へ売ってしまいました。
私はその後ある紡績工場の工場管理者の一員となった側ら、小さい文芸雑誌を大阪
で発行してこう書いていました。『天上の火は終に地上に移すべからざるものである
か。真の憐愍は遂に現実し能わざる空想的の産物か。自分は官能と技巧との生活より
憐愍の生活に移り行った。しかしてその生活は遂に破れた。そうだ霊魂の享楽に疲れ
たものには官能の享楽の他はない。肉は霊を癒す…………』と。如何に私がその頃
霊肉の間に、美と善との間に迷っていたか。そして現代の地上の生活を白眼視してい
たかはこの抜粋を見ても解るでしょう。
憐愍の現実化に失敗して現代社会に呪詛の第一声を上げた私は、人生を戯曲化する
事ばかり考える耽美主義者になろうとしていました。この新らしい人生の戯曲に恋愛
の三角システムをなしたのは、私と、私の仮宿する上役の妹とそうして殊更に私がそ
う考えることを望んでいた所のあたかも鳩を救うと同時に秀鷹をも禿せんがために全
身を犠牲の秤にかけた仏陀にも等しく、他の幸福のために自分の幸福を売った娼婦と
でした。
初心な少女が恋人に捨てられて自殺する戯曲がホフマンスタールだかシユニツツラー
だかのものにあってその頃読みましたが、少女を象徴として表わされたる人間に内在
する美が悲劇のプロツトを通して濃厚に蒸留されているように感じました。美酒のよ
うな人間内在の美は平俗な場合においてよりも悲劇の場面において高調して表われま
す。人は美的鑑賞の生活が過度に増長して来る場合には、実人生に悲劇を作為して
残虐から滲み出る人間の内部的美味をさえ貪ろうと致します。しかし翻って自己の内
なるものの教にひざまずく時、私は私の恋愛の欺瞞的脚色が贖罪の道も絶れたる陋劣
な事だと思われる日がありました。
娼婦は私に病気を感染していたし、私はその病気が上役の妹に感染しなかった僥倖を
望んでいました。私は彼女の様子や言葉の端々まで観察しました。私は彼女が病気を
はずかしがって隠しているんだろうと想像しました。私は彼女に尋ねて見ました。
彼女は答えませんでした。生ながら腐れ行く肉体の潰爛の恐ろしさ。それは実に言葉
で頒つことも慰められることも出来ない、純粋な孤独をもって忍ばねばならぬ恐怖だ
と考えました。相手が治療されている事を知らずに治る神術もがなと考えていました。
催眠術を研究したり医学書を漁ったりしました。
よい明案もないので私は黴菌の伝染という思想を否定し出しました。伝染病といえ
ども各自に特発するのであって決して伝染するのではない。その病気の発生するに適
する状態即ち適度の温度と湿気と場所とそしてその人の道徳的状態に従って発生した
り発生しなかったりするのである。医学も最初の病原菌発生は何に依るかを答えられ
ない。こう私は一種の哲学の蔭に隠れて自己の内なる霊の呵責を出来るだけ軽減しよ
うとしていました。
到底私は道徳家でした。耽美生活で少し行くと直ぐに行き詰って内なる霊の呵責に
後もどりばかりさせられるのです。しかしいわばそうさせられていたので、耽美生活
も人生の戯曲化もなかったら病気もなかったし、従って神変不可思議な神術を求める
必要もなかったし大本に近付くことが出来なかったかもしれません。
その後その上役の妹は家事の都合でその家にいなくなりましたが、私の病気が重く
なって困っていると、以前の娼婦が自花を付けて見舞に来てくれたりなどしましたの
で仮構的な愛が真実の情愛に変化して、私はその女を本当に恋いるようになりました。
前科ある女を愛していた時の、貧しきもの憫れなものに対する熱愛が私の心に再び
戻って来ました。私はこの社会的地位からいえば気の毒な軽蔑されている者の上に、
敬虔な愛情を心から捧げる事を喜びとしていました。が私は病気の快復すると同時に
明石へ転任を命ぜられました。
私は明石から時々彼女に会いに行ったし、給料の大部分は彼女のために使って彼女
が一日も早く苦界から釈放されることを望んでいました。
彼女は約束の年期よりも早く借金を払ってしまいました。しかし彼女はもう私に叛
いていました。私は苦しかった。しかし私はこう彼女に書いていました。
『愛が叛いた心で受けられたという事は、それが一層敬虔な愛情で報いられたに
較べれば悲しい事に違いありません。しかし私が冷たく愛したために当然貴女に冷た
く報いられたと考えるよりは幸福です。何故なら私は自責せられないからです』
何者かを常に愛せずにはいられないような私は、女の愛から労働者に対する愛に遷
って往きました。定められた忍従の時間を、それがあたかも替え難い運命であるべき
かのように、懶惰な監督者や資本主の頤使の下に、謙遜に立働いている彼等を見ると
暴君に対する反抗と弱者に対する哀憐の感情に驅られずにはいられませんでした。
彼等は彼等の労働が貧しき人を裕にすることのない代りに、益々富の分配を不公平に
するのを知らないもののように働いていました。理は最低賃金を以って最良品を最も
多く生産する事のために職工を管督する役目なのです。私は彼等を監督するよりも労働
の負担を軽減したい欲望にかられて、時々油と垢に混れながら労働します。しかし
それは彼等の労働の負担を減じなかった代りに彼等に煙たい思いをさせました。私は
自分の役目から幾度も逃出したくなりました。富豪の手先となって労働者を虐め、
富の分配を一層不公平ならしめつつ給料を貰う生活―、ああ何という醜い生活でしょう。
私はある織物新聞に資本家と監督者に対する辛辣な風刺に充ちた創作を載せました。
工場の実際が暴露されると会社の人達は周章てたり私を罵ったり憎んだりしました。
私は私が会社にいる事が誰の幸福でもないのに、その役目に噛り付いているのは、
唯私がその日その日の食事を得るためであるのは卑怯な虚偽であると考えて会社を止め
ました。もうどんな資本家に使われる事も嫌でした。私は汚れた社会組織から全然自由
になりました。しかし如何に汚れた社会組織であるにせよ、生きている以上は何か職
を求めて食べねばなりませんでした。
私は前に研究した催眠術を思出しました。何か霊的に人と社会とを救済するような
職業―、太霊道、健全哲学や、渡辺式心霊療法やそして木原氏の耳根円通法や、いろ
いろの精神霊法を研究していると、ある日松江から『彗星』という雑誌を送ってくれ
ました。それによって永い間不満足に思っていた社会組織が根底から立替えられる皇道
大本なるものを初めて知ったのです。私はその雑誌の御礼に彗星社へ『心霊療法の
骨子』と題する原稿を送りました。それは私がほとんどすべての心霊療法を研究して
見た粽結でした。神という観念も宇宙の大霊という所まで進んでいたし、従来神界が
未完成であったという大本の思想にも少く接近して『人間は不幸があるのは神に不幸
があるのである』とそれには書いていました。所が彗星社の岡田射雁氏からの返事に
『時節到来の節には早速掲載致すべく候えどもその時節なるものの何日到来するかは
明言致し難く』と大本式の面白い文句でした。ところがその原稿は直ぐ翌月即ち九月
号の『彗星』誌に皇道大本の記事と相対する頁に載せられていました。それが動機で
参綾の時節が来たのでした。そして私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥
じない生活を見出しましたそれは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でし
た。過去を振返って見ますとすべてが大本へ入る前の予備試練のように考えられます。
「神霊界」1919年(大正八年)三月一五日号
○智慧と運命 谷口正治
皇道大本の信仰は私を運命の前に勇敢にしてくれた。笑って苦痛を耐え忍ぶことが
出来るのはこの信仰のおかげである。苦痛は恐ろしくない。それは身魂の借銭済し
であるからである。苦痛を受ける度毎に借銭を支払った後の愉快を私は感ずる。
どんなに多くの借銭があるにしても、少しづつでも負債が減りつつあると考える
度毎に勇気が加わる。何者も私を苦しめる事が出来ない程私は運命に対して不死身
になった。苦痛すら私を苦しめる事が出来ないから私はもう恐れる者は一つもない。
「神霊界」1919年(大正八年)一月一五日号
対話 光なき国 谷口正治
佛霊の三。
大日如来様が佛界(このよ)を主宰された昔がどんなに恋しいだろう大日如来様は
毎朝あの夫婦岩の間から御神体をお顕し下さった。そして恵深い光を私達の身体の
上に降そそぐ雨のように甘露のように注いで下さった。そうして私達は生気を得た
のだ。もう私達には生気の源はない。私達には太陽はない。私達には光はない。
教祖 佐木秋夫 青木書店 1955年12月25日発行
美しい生活か、聖者のような生活か、どちらにしても「自分の血と肉で人生に戯曲
を書く」のでなければたえられない(谷口正治「入信の経路」大本発行『神霊界』
一九一九・二・一五号所収)。だがそれはどこまでも「戯曲」なので、自分の基本的
な生活まで棒にふる決心をしたわけではない。そんな気分で夏休に帰省したとき、
近所に住む房江という一七歳の貧しい女につけ文をした――「美しい恋愛感情」を
わき立たせて、人生に美の一片を寄与するために(「自伝」)。そしてその結果を
待たずに――自分の自尊心を拒絶されるという危険をさらすことなしに――東京に
たつつもりだった。ところが意外にも、房江は彼の汽車に乗りこみ、東京の下宿まで
ついてきてしまった。「やむをえず」、一週間だけ同棲して別れる話にしたが、運命
は、というよりも現実は、そんな「自由」を許さなかった。房江は沖仲仕の娘で、
「おしゃく」にやられている間に、ちょっとしたことで「前科者」になって、家に
帰っていたのだった。たわむれの恋の夢だけ見てそのまま身を引くような女ではなか
った。
「人生の上に戯曲を書く快感を貪る」(「入信の経路」)彼の心には、あわれな少女
を「社会の偏強な道徳感」から守ってやるという満足と、その底には、傷つきやすい
自尊心をおびやかされることなく何の負担も感ぜずに自分の理想を実演できるという
喜びがあった。トルストイの『復活』を思い出しながら、自分は房江を「許す」こと
で神に近づいていると信じた。房江への感情が恋愛でなくて憐憫であることを確かめ
るために、近所の一〇歳の少女を「ほんとうの恋人」にしたてて登場させた。しかし
一方ではこのひめごとが養家に知れることを恐れて、いつもびくびくしているのだった。
養母は、やがてこのことを知ると、はたして、家名を汚すと激怒して、仕送りを止
めてしまった。それまでは学校の特待生で学費が浮くので、それで二人が暮らしてい
た。いまや房江だけが頼りだった。学校は中退の形になり(一九一四)、しばらく神戸
の房江の家に厄介になったりしながら、むなしく職探しに歩き、ついに何度か死を思う
までに追いつめられた。
房江は全身で生活にとりくみ、両親の前をつくろって、何とか才覚を働かせていた。
しかし、ついに手がつまって、彼にみつぐために親のものを盗んだりしはじめた。
両親も怒って、房江を台湾に売るといいだした。
房江としては、もはやかけおちを迫るほかはなかった。だがこのときすでに、生活
の現実にうちのめされた正治のほうでは、手を切ることを望んでいた。ただ、自分から
それを言い出すことをしないだけだった。いまかけおちを迫る房江に対して、彼の答え
は「人生は実力だからもういちど学校に帰りたい」ということだった。そのコトバを聞
くや、房江は「では出世なさいませ、さようなら」と痛烈なコトバを残して(「自伝」)
地獄の方へ走りさった。
「自伝」の筆者は、こうしてうまく厄介ばらいをした自分が卑怯だったことは認める
が、ふしぎにも、反省はそこで止まり、「憐憫愛というようなものは地上の人間を生か
すものではない」という人生訓の発見で、問題を打ち切っている。
房江と切れたことをみやげに、養母からまた学費をもらって大学に帰ろうと望んだが、
やはり拒絶されてしまった。やむをえず、友人の紹介で大阪の紡績会社の労働者になっ
た。日給五〇銭で一〇時間勤務。つらい生活だったが、ここで堅実な生活を築こうと
努力をはじめた。自分も今ではほとんどプロレタリアなのだが、努力の方向は労働者
の立場からでなく、個人的な昇進に向けられた。せっせと商工学校の夜学に通い、翻訳
の内職をみつけたので、その金で大阪高工に入ろうと試みた。だが、これは成功しなか
った。
ふたたび彼は「官能の世界」に落ちこんでいった。内職で得る金で高尾と呼ぶ遊女の
もとに通い、そのかたわら、お紋(仮名)という上役の姪と関係した。社会を呪いな
がら(「入信の経路」)、こういう不健康な三角関係にこそ特別の「美」がある、と
いうのだった。この場合にも、自分は高尾を憐んでいるのだと思いこむことを忘れな
かった。
ところが、こんな生活のなかから、まことに彼らしいやり方で、神秘的な病気なおし
への道が開けることになり、これが彼の将来を決定してしまった。
「娼婦は私に病気を感染していたし」、それが上役の姪にうつりはしなかったかと、
心配でたまらなくなった(「入信の経路」)。これは道義上の問題であるとともに、
クビの問題でもあった。医学書をあさったが、かえって病気への恐怖がつのるばかり
で、とうとうひどい神経衰弱になり、眠られぬ夜がつづいた。まぶしくて太陽を見る
こともできなくなった――「これは心の眼を閉じて実相の光を見ないでいる自分の心
の象徴であるということには気がつかなかった」と、彼は「自伝」で注釈している。
大阪の名高い催眠術家の三好霊峰の治療を受けたが、催眠術にはかからなかった。
ついにびっこを引くまでになって、けっきょく、医者に「手術」をしてもらった。
自分の病気はなおったようだが、お紋のほうはどうしようもない。そこで、相手に
気づかれないうちに癒してしまうような「神術もがな」というので、心霊療法などを
熱心にあさりはじめた。もちろん、いくら心霊療法を試みても、安心は得られない。
ついに、またもや彼一流の気やすめがはじまる――「よい妙案もないので、私はばい
菌の伝染という思想を否定しだしました」。「こうして一種の哲学の陰にかくれて、
自己の内なる霊の呵責をできるだけ軽減しようとしました」(「入信の経路」)。
不安がこうじて、いよいよたえがたくなったとき、その不安を打ち消す適当な口実
を見つけ出して、自分自身をなっとくさせる。そのためには、伝染の明白な事実を
無視して、伝染というのは思想(考えかた)にすぎないと断定する。自分でそう思い
こむ。ここまで行ければ、奇蹟の宗教をつくることもできるだろう。彼はいま、追い
つめられて神経衰弱になり、これまで何回か見てきたような自己防衛のはたらきがさ
らに一歩を進めて、そういう段階にまで近づいてきたらしい。
だが、そこへ行くまでに、彼はもういちど労働者の立場に近づく。彼は「女の愛か
ら労働者に対する愛に還って」いった。
例の病気が一段落したとき、急に明石の工場に転勤になったことが、生活を建てな
おす機会を与えた。高尾は彼の病気のときまごころを見せてくれたので、「憐憫」は
心からの愛に変ったが、そのうちにだんだん離れがちになっていった。そういうとき
に、彼の職場は機械の保全係から現場監督にかわって、一二時間、一週間交代の徹夜
業という殺人的な労働の中に身をおいていた。第一次大戦の初期のことで(一九一
五)、こういう労働強化の上に紡績資本は莫大な利潤をあげていた。中堅幹部たちも、
生産は二の次で個人の利益と保身とに専念していた。ところが、過重労働にあえぐ
少女たちを見かねて、彼が手伝おうとすると、かえって烟たがられた。
監督という自分の地位を彼はつくづく反省させられるのだった。「富豪の手先になっ
て労働者を虐め、富の分配をいっそう不公平ならしめつつ、給料をもらう生活!ああ、
何という醜い生活でしょう」(「入信の経路」)。彼は仕事を意識的にサボリ
(「自伝」)、現場の暴露小説を書いて業界紙に投書した。そしてついに、些細なこ
とから工場長と激論して、工場をやめてしまった。
「搾取する監視役」のほかに仕事がないのなら「もう生活しないでもいいのだ」
(「自伝」)。いまや彼は「汚れた社会組織から自由になった」。だが、労働者の
苦しみは彼の行動によって少しでも減りはしない。たたかいは工場のなかでつづいて
いる。
このとき、つごうよく、高尾は彼から去っていった。お紋は、親にあてて正式に
結婚を申しこんでくれと頼んできた。そのとおりにすると、はたして断られた。
三角関係の相手は、こうして、二人とも自発的に――彼の責任でなく――去っていっ
てくれた。
房江の場合といい、今度のことといい、「美を味わって」その後始末になると、い
つもこうして自己を保全した。婦人に対する彼のこのような根本的な態度には、表面
上の近代的な飾りつけにもかかわらず、封建的な考えかたが強く現われている。
91 :
名無しさん@1周年:02/08/08 01:38
生長の家=中曽根教上げ
92 :
名無しさん@1周年:
生命の実相19巻自叙伝編より
その胎児は、その夜から三日目にとうとう、手当の甲斐もなく完全に流産してしまった。
私(谷口雅春)が学校から帰って来ると、胎児はもう小さな茶色の素焼の土器の中に
はいっていた。『これが貴方(谷口雅春)の子供です。可哀相にもうこんな姿になりましたの。』
と房江は疲れた顔に淋しい表情を湛えながら言った。
三
朝の太陽と共に、私の描いた美しい夢は覚めた。妓楼の部屋の中には何も美しいものはなかったし、
生気のない頽廃した現実の女部屋には興味索然たるものがあった。私は逃げ出すように妓楼を出て、
素知らぬ顔で工場へ出勤した。しかし夕方になると私の心はまたしても夢の世界へ憧れ出した。
火を見ると飛び込みたくなる夏の蟲のように私はまたフラフラと昨日の妓楼へ引き付けられた。
現実世界の無興味を逃避するために夢の世界へ逃れて行くのであった。翌朝、気がついて見ると
私の身体に意外にも変な感じがするのであった。私は彼女に病気を感染されたのだと思った。私は
一寸幻滅を感じた。彼女は処女であるといったが、やっぱり処女ではなかったのだ。
四
一方、私の感染されたと思う病気は治らないで益々悪くなっていくようであった。初めは姑息な治療法
を行っていたが、仕舞いには専門医にかかった。もう治ったと思っては治療をやめると、一週間もすると
また悪性の症状が復活してきた。