1 :
名無しさん@1周年:
房お断り
2 :
名無しさん@1周年:02/05/13 17:15
スレたてすぎです。
3 :
名無しさん@1周年:02/05/14 00:18
どや。
まだスレ田テレ辺のかいな。
さあ、みなはん、「生き長らえる家」と1000まで唱えようでは、ありませぬかー。
5 :
ベスト10入りを狙う某教団:02/05/14 14:57
生き長らえるヒエーーーーーーッ
6 :
名無しさん@1周年:02/05/14 16:44
なにがなんでも、生き長らえてやるど〜・・・。
「教祖」佐々木秋夫著
青木書店刊 1955年発行
『聖道へ』という仏教的な題をつけたこの宗教的人生評論は、時の波に乗って、じ
きに出版された(新光社)。その印税が、月一五円の乏しい生活をしばらくささえて
くれた。
この論文は、彼の重要転機をしめす記念碑として、『生命の実相』に全文再録され
ている。たしかに「谷口哲学」すなわち「生長の家神学」の土台は、すでにあらかた
すわっている。だが、主題は「罪とさばき」――「神が悪を創造したのか、罪からの
救いはどこに求められるか」ということだった。この点に関して、当時さまざまな宗
教論への語気するどい批判が見られる。
神が、自分で悪を創造しておきながら、人間をさばく――そんな不合理な話はない
と、大本教やキリスト教をきびしく責める。かれが大本教で罪悪感に苦しんでいたと
きには『歎異抄』が救いになった。罪とさばきとのおどかしの宗教でなしに、和解的
な救いの宗教でなければいけない、と思われた。一方では、賀川のキリスト教社会主
義の限界性をも突いている。これらの批判に関連して、神の名において生命を傷つけ
ることを口をきわめて非難している点は、特に注目に値する。
中国への侵略と太平洋戦争のあいだ、生長の家の戦争協力はいちじるしく、そのた
めに谷口は戦後追放を受ける。彼は『古事記』講義などで日本の国体こそ「実相の世
界の顕現」で最高完全の組織であり、この国家が拡がることは実相の顕現がひろがる
ことにほかならず、「軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」と論じて、「念波」の一斉
祈願で敵軍を圧迫するための光明念波連盟を結成したりした。どの教団でも戦争協力
がはげしかったが、なかでも谷口は最もファッショ的な『国体の本義』の天皇絶対化
がてぬるいといって文部大臣に公開状を送ったり、「戦費無限循環法」と称して軍事
紙幣の発行を建策したりした。インフレと共に生長していく生長の家では、いつもこ
の積極的インフレ支持論を唱えている。
女性の髪型にまで干渉を加えながら、その「大和撫子」を家庭から引き出して職場
動員しなければならない――そういう時に「花嫁学校」がはやったが、彼もいち早く
「家庭光明寮」を設けた。
大陸進出も顕著で、満州光明思想普及会というものができてきた。満鉄社員などの
あいだにかなりひろがっていた一燈園は、なかなか熱っぽいがいささか消極的だとい
って、生長の家を歓迎する面もあり、大連あたりで、一〇〇〇人もの聴講者を集めた
という。谷口自身、大陸に二回の講演旅行をやっている(一九四二、四四)。
工場への積極的な進出ぶりは特に注目しなければならない。中小経営のばあいが多
いが「ふしぎに能率があがり、病気欠勤が減り、消耗品やオシャカが減り、工員が移
動しない」などの効能があげられる。東京の日清紡では各室に『生長の家』誌を備え
て効果をあげたという。その効果とは何を意味するか。「非常時に労働争議を停止せ
しめ、反戦思想を抑圧」するのに「最も効果のあるのは光明思想である」(『生長の
家』一九三七・一〇、巻頭)。
戦後の“民主化”から
――逆コースをさらに通って「社会主義へ?」――
戦争の末期には、あれほど協力した生長の家も、用紙がとまり労働者をとられて、
一時は会社を日本興農社と変えて開拓などをやらなければならなかった。
敗戦後、会社は日本教文社として再出発(一九四六)、生長の家もはじめて法的に
既成宗教と平等の宗教団体(宗教法人「生長の家教団」)となった。谷口は追放に
なったが、ひとり娘の恵美子の二度目の婿に心理学科出身の荒地清超を迎えて教主と
し、形を整えた。雅春は教祖で、表面上は教団や会社の運営の外にあるが、「ワン・
マン独走」を自認している。著述や講演にきわめて多忙で、酒・煙草もとらず、活動
的な毎日を送っている。
敗戦の秋に、彼は「今や自由をえたり」と宣言し(『生長の家』四五・一一)、
「生長の家の教ほど平和愛好の教はない」のに、政府や軍の「用いるところとならず
して」敗戦を迎えてしまった。国民として戦争への「協力は当然」だが、行きすぎの
あったのは「仮面愛国者の恫喝を防ぐため、やむなく」やったことだ、と弁明した
(同一二)。追放になると(一九四八)、アメリカからハードマン博士というのをま
ねいて全国各地で講演をやらせた(一九四九)。この博士は二世などの追放解除請求
署名を多数あつめてもってきた。『甘露の法雨』の英訳をお守りにして助かった二世
などがいたのだという。しかし、解除工作は成功しなかった。
逆コースがはじまると、再軍備には「戸締り論」で賛成し、天皇の護持を強調し、
水爆問題では、反対の社会活動も結構だが、長崎では信者が奇跡的に助かった、など
といって、その政治的認識は、保守的傾向の中・小経営者にありがちのタイプを示し
てきた。それが最近は、社会主義や共産主義について理解を示すかのようなコトバも
しきりになってきた。しかし、それは理解というよりも、ごく初歩的な無理解あるい
は曲解というに近い。
本部建物は完成し、支部三一(外地が四)、布教所一六一四(外地が九六)、教師
は二四〇八人をかぞえて(一九五三年末)、年ごとに増加を示してきた。
しかし、本部の建設の献金は、「誌代だけの負担」という当初の合理的な方針にひ
びを入れ、年三〇〇〇万以上の経費もさらに増加して、誌代のほかに会費を必要とし
つつある。そこで、新たに聖使命会をつくり、六〜七万の会員をつのって月一〇〇円
の会費をとりはじめた。初期には「先生」と呼ばれるのも遠慮していた谷口が教祖に
され、言いにくそうに報恩を説き、献金の軽重が「おかげ」の大小に影響する(『生
長の家』一九五四・九)とまで言って、かつてあれほど非難した既成教団の弱点に、
みずから接近しなければならなくなってきた。さらに、世襲制を定めて養子の教主を
神秘化するなど、教団の性格はしだいに変化をうながされている。生長の家本部には、
ともかく、封建的なものからはいちばん遠ざかった明るいふんいきを感じさせられる
のだが、その特質がこのようにおびやかされていることは、谷口としてもたえがたい
ものがあろう。
教団の将来を決定するものは、結局、彼の若い教え子の青年たちである。彼がばら
まいた『日本再建の道を拓くもの』というパンフレットは、忠孝や無我献身や家族制
度の復活を主張して逆コースの先頭を切ったが、これに対して一部の青年たちは激し
い批判をあびせた。またはっきり抗議しない人の間にも、不満はひろがっている。愛
国心では教祖にいささかも劣らないが、いまこの段階であおられる「忠孝」が徴兵―
―亡国の道であることを教祖よりもよく知っている青年部員は多い。彼らの平和運動
も、通り一ぺんの平和祈念などにとどまらず、各地でさまざまな形で動きを見せよう
としている。
かつて谷口は、すでに大本教時代に、大本教こそ「絶好なる過激思想対策」だと説
いた(『神霊界』一九一九・六・一)。じっさい、生長の家は幾人もの「転向者」を
作り出すことに成功し、今また東京郊外の飛田給の練成道場では、中ソからの帰還者
の「再教育」までおこなっている。彼のこの側面は、その本心がつねに和解を求めて
いるにもかかわらず、「敵軍」は「本来あるべからざる迷妄の具象化」だから「本来
の道に返れ!」と撃滅すべきだと、まさに、神の名において不法な殺りくを積極的に
かりたてるまでになって(『生長の家』一九三七・一〇)、トルストイ的あるいは仏
教的ヒューマニズムの最後の一片をも放棄してしまった。新興宗教のうちでインテリ
的要素のもっとも強いこの教団は、ふたたびこのような傾向を強めていくことのなか
に「生命の法則」を見い出そうとこころみるのだろうか。
よく読んだ???
13 :
名無しさん@1周年:02/05/17 01:29
古本の貼り付け長文大歓迎!!すきなように、荒らして下さい(w
14 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 02:17
ガンバ!!!
15 :
名無しさん@1周年 :
なにがあっても、イキナガラエテやるーーーーーーー