え お さ ん に つ い て 。

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117brown:02/05/29 00:38
では,何を対象とするのでしょうか。「心から求めること」を対象にします。
なぜなら,探求を進めていくと,心から求めているのでないような
表層的な興味の対象は重要性を失ってしまうからです。本人の経験からすると,
「中途半端だな」ということになってしまいます。それ故に,心から求めて,
心から常にはなれず,それが解決しなければ自分の人生,意味ないじゃん,
というようなことを対象に探求は進められます。なぜなら,そのような対象は,
いくら探求が進んだとしても,重要性を失わないからです。それによって,
探求は成就するまで続いていきます。そして,「それが解決しなければ自分の人生,
意味ないじゃん」が解決したとき,自分の人生は本当に意味あるものになります。
そのような半端でない疑問,これを菩提心というのです。
もしそのような疑問,心の渇望,探求がなければ,菩提心がありません。
そのとき,彼には,「悟り」が必要ないのです。
しかし,そのような疑問があれば,菩提心があります。彼には悟りが必要です。
彼には悟りがあれば他に何も要らず,悟りがなければ他に何も要らないのです。
要するに,悟りしか要らないのです。
118brown:02/05/29 00:47
その疑問の中に全てが含まれています。これを苦諦というのです(菩提心=苦諦)。
覚者は,衆生の中に,そのような探求が「場合によって切実であるかもしれない」
という可能性を認識することによって,衆生を救おうとします。この場合,
救済は,世俗的手立ての救済では全くないのです。そのような問題には全く
役に立たないことを手立てとします。つまり,疑問の解決です。
それが解決したからといって必ずしも敬われず,権力を物にせず,所有は増えず,
頭はよくならず,超能力は身につかず,身体能力は上がらず,死すべき身にあり,
病に罹る身にあり,老いるべき身にあります。しかし,疑問が解決します。
それが切実である人もいるかも知れないので,自分が見出した解決(福音)を
述べ伝えるのです。
        人生には完全な価値があります。
と。
119名無しさん@1周年:02/05/29 04:10
過去に培った「正しい」と思い込んでいる価値観を捨てる。
感情的にまったく判断していない状態→これ「悟り」

精神的・心理的には、あらゆる価値観は意味をなさない。
一般大衆に広まっている価値観など意味をなさない。

それでは、一体、何に従って生きるのか?
120名無しさん@1周年:02/05/29 04:57
>5さん 
パクリって何のパクリですか?EOイズムには論理的破綻はあるとおもいますか?

121髑髏仮面:02/05/29 06:02
>>119
横レス。スマソ
>それでは、一体、何に従って生きるのか?

そういうふうに思考する自体「人間特有」かと思います。
森羅万象。生きるべきか?生かざるべきか?全くあらざる事と思います。
「どちらでもない」事を「知る」。かと思います。
122名無しさん@1周年:02/05/29 07:37
やっぱ髑髏仮面はさすがだと思うよ。いや、失敬。
123名無しさん@1周年:02/05/29 20:02
うーむ。

現代の私たちは如何に行動するかが問われている。
お釈迦様は悟りに至る段階で、判断せず観察し続けて、
煩悩とは何かを知り、苦の滅尽に至った。
お釈迦様は衆生を助けてくれた。
衆生のケイゲを取り除いた。
124brown:02/05/30 22:34
>119
>精神的・心理的には、あらゆる価値観は意味をなさない。
>一般大衆に広まっている価値観など意味をなさない。
>それでは、一体、何に従って生きるのか?
そうそう,そのような「うずく疑問」こそが苦諦であり,それにはちゃんと解答が
あります。そのような疑問,疑問には答えがあると信じること,それを菩提心と
言うからです。このような疑問を捨て去るとき,彼は,自己や人間を単に迷妄
に生きるものとしてさげすんでいます。また,本当は疑問があるのに「ない」と
考えるとき,傲慢に陥っています。これら両方の極端(断見と常見)に共通して
いる特徴は,自分なしには世界はありえないとするような思い上がりです。
しかし,疑問を徹底的に考察していくと,疑問の生じる身でありながら,疑問を
実際に解決できるのです。それ故に,大切なことは,疑問を解決しようと努力
することなのです。また,その努力が必ず報われると信じることなのです。
本当です。
125brown:02/05/30 22:52
その解答とは,完全な解答であり,完全な価値であり,大歓喜,大自由,驚き,
貴重,新鮮,清浄,全て,命,意味,救い,癒しです。ありとあらゆる世俗の価値
にも満足できない大罪人をも「もう要らない」と言わしめるほど吉祥なるもの,
そのような解答があるのです。たとえ貨幣の雨を降らすとも,欲望の満足される
ことはない。しかし,たとえ一瞬でも解脱の功徳に恵まれたなら,三アソウギ
大劫もの間の絶え間ないこの輪廻という地獄の恨みをも晴らすことができます。
それほどこの人間と言う解脱の可能性を持った命は,価値があるのです。
あらゆる知り得る疑問に対する答えが,確信とともに立ち起こるとき,このように
相対性のニヒリズムは完全に乗り越えられ,あらゆる存在の中で私は最も幸せな,
とその瞬間に断言できるのです。
しかもその至福は,私の注意力や判断,認識と無関係に,いつまでも顕れ続けるの
です。
126名無しさん@1周年:02/05/31 02:50
捨てることにより、得ることが出来る。
真理とは「妙」ですね
127名無しさん@1周年:02/05/31 23:20
age
128brown:02/06/01 00:13
最終的に菩提心が自我に打ち勝ったとき,解脱が得られる。菩提心も自我から
発しているかのようだが,そのように勘違いすれば,解脱を求めることも執着だ
などという愚かな考えに取り込まれてしまう。菩提心は自我と本性とその両方
から生じている。自我から生じている部分はやがて消え失せていくが,確かに
心の本性から生じている部分がある。そのとき,それがわずかでも自我より
上回っていれば,解脱することができる。なぜなら,いくら探求したとしても,
最終的に心の本性以外に見出せるものなど何もないから。
129brown:02/06/01 00:19
自我を捨てるとは,存在の基盤を全面的に捨ててしまうことなので,全てを含む。
全て捨てる以外にない。しかし,そうだとしても,それを上回る菩提心がなくては
ならぬ。言っていること,全く矛盾しています。でも,この矛盾を乗り越えていか
ないかぎり,解脱することはない。自己を完全に捨て去る自己。それは誰?
それは知られていないだけで,初めから,そこにいるのです。自我など,実は
初めから「なかった」のだから。でもどうしてそこにいるのでしょうね?
むしろそちらの方が本当は不思議なのです。何で苦しみが生じているのだ?
何で自我なんてそこに我が物顔で存在の中心に居座っているのだ?これらの
虚構は,不思議だろうがなんだろうが,どうしたって,現存しているのだから,
不思議がっても仕方ない。とにかく,乗り越えていくしかない。だって,虚構
なのだから。
130brown:02/06/01 00:25
三昧は,一体感です。何と一体か?一体となるべき対象などしかし,ないのです。
むしろ,全てと一体です。つまり、変化と一体です。常に動いている。動いて
いる動態そのものと一体なのです。この驚くべき集中力は,心が煩悩から自由に
なった汚れのない清浄さのなかに自然に顕れてきます。「集中すること」によって
は得られない自然な集中が,みごとなくらい,勝手に顕れてきます。ただ,自己を
制した清らかさのなかに自己を置くことにより,それは本来の姿として,確信と
ともに立ち上ってくるのです。何も志すことのないところに,向こう側から,
それは顔を出すのです。
131brown:02/06/01 00:33
しかし,「自然」だからといって,求めずに得られることは絶対にない。「ただ
坐れ」という。しかし,そのような方法で解脱することは絶対にない。なぜなら,
虚構は実在しているから。虚構が虚構として厳然とあるから,乗り越えるべきものが
実在している。しかし,実在していたとしてもそれは虚構に過ぎないので,明確
にしていけば消え失せてしまう。そして本来の姿が現れる。それが,「現実」なの
です。頭で考えてもわからない現実,これを妙(矛盾の直接体験)というのである。
132名無しさん@1周年:02/06/01 02:37
sage
133brown:02/06/02 21:14
だんだん一人ごとになってきましたが,
空スレの続きを続けていきたいと思います。
多少,話は戻りますが,どこにも出口のない苦しみの極限の中にあった日々,
私は実は自殺を決意していたのです。「真理」の見出せないこの暗闇の中で
生きていく意味なんてないって。仏教だのキリスト教だのという知ったかぶりの
教えはあるが,単にああしろこうしろと,ああするなこうするなと道徳をいって
いるだけで,あるいは何か分析的に,こうなっているああなっているといっている
だけで,このうずく疑問に答えてくれるものは何もない。まあ,とんだわがまま
ですけどね。子供が駄々をこねてるんですね。教えてくれないなら死んでやる!
って。本人は真剣ですが,客観的には単に誇大妄想的なわがままです。
でもね,単にそうともいえないんですよ。というのは,それは一時的な感情論
でも,とっかえひっかえ出てくる交換可能な欲求でもない。代替の効かない,
唯一真なるものを求めている。この真っ暗闇の世の中に,私が,灯火を照らすんだ。
末法の世で苦しむ全ての衆生の光となるために,もし,この世界に真実というもの
があるのなら,それを明らかにするんだ,という気持ちもあったんですね。
両方あったんです。それは。
134brown:02/06/02 21:26
幾晩も幾晩も幾週間もそうやって苦しみ,転げまわり,この世を恨み,
自分を恨み,親を恨み,仏や神を恨み,存在を恨み,宇宙を成り立たせている物理を
恨み,よくもまあ,こんなくだらないゲームを創ってくれたな,と全てを恨み
ました。このゲームの作者はどうせアホだから,自殺しても単にリセットになる
だけでまたこの「私」を登場させるんだろうな。その日の私は一味違った。
かなり毒舌調,皮肉調,辛辣,自嘲ならぬ宇宙嘲。もちろんそれで精神的カタルシス
を得て平安に戻るなどという甘い疑問でないので,そのような辛辣さからまた
すぐに鬱に戻って苦しむ。しかしまた,躁的に存在を笑い飛ばす。こんな風に
行き来していたと言えます。心の深層というのはすごいところで,こんな風に
ある意味で他人事の世界なんですね。確かに無茶苦茶苦しいけど,苦しみって
何?誰が苦しんでいるの?というようなところもある。何かわけがわからんの
ですよ。いわゆる無分別の状態。原初の状態。生まれたばかりの状態。
135brown:02/06/02 21:32
私は「自殺」をしようとしていたが,むしろ,自然死すべきじゃないか?という
アイデアも浮かんできましてね。つまり狂い死にしようと。自然に。
このまま行けばそうなるだろう。その方が面白いんじゃないか,なんて考えまして,
やめたんですよ。自ら命を絶つのを。でね,「ああ,いいアイデアだ」と一人
悦に入って寝ましたね。
136brown:02/06/02 21:40
目覚めたらね,だんだんと意識が覚醒してきますね。それが,いつもの意識と
違うんですよ。特に,昨日まであれほど極限的に苦しんでいたのとは全く違う。
五感がくっきりと明確になっている。意識が透明になっている。五感と意識が
分離している。五感がこちら側にあって,心の諸作用が向こう側にある。
非常に心地よい。こんな感覚初めてだった。生きてきて始めて,心地よいと
思った。そこに何の「別異の意識」もなかった。それを反省している心がない。
(「反省」とか「別異の意識」については「空すれ」参照)
それがね,初体験ですよ。「満足」の。そのとき,何か欲求が満たされたのでは
ない。ただただ満足していた。要するに,非常に簡単なことで,欲求が生じて
こないことに満足していたんですよ。分母がゼロですからね,ただ自然に生じる
喜びに無限大の満足を得ているんですね。え?でもおかしいって?何で分子が
有限か?それが「妙」なんだよ。
137brown:02/06/02 21:45
一番初めに私の口を突いて出てきた言葉,それは,「あれ?」だったかな?
「んんっ?」と続いて,「妙だな」となった。
これは,いろんな意味で妙なんですが,妙という言葉,実に妙にこの境地に
ぴったりきている。
138brown:02/06/02 21:54
話の流れと全く違いますが,↓

http://life.2ch.net/psy/kako/1015/10155/1015500604.html

http://www.moon.sphere.ne.jp/brown/

の方もご覧下さい。
一つ目は,実践瞑想スレッドというやつで,見苦しい部分も多くあるかとは
存じますが,キチガイbrownが瞑想の境地を説明しているものです。
前半と後半に分離して,途中brownは出現しません。
二つ目は,brownのサイトで,EOさんのサイトのように面白くないんですが,
一生懸命創っているものです。最近書いていますように,「体験」的に書くと
面白いと思うんですがね。徐々に追加していくところであります。
139brown:02/06/06 01:22
その日,私は,友人と遊ぶ約束をしていた。その朝,友人がやってきたが,
私は,無論,普通に彼と会話した。彼は,そのとき,「いつもと違うよ」
「何か目の動きが変だよ」という「感想」を告げた。というのは,私は,
その境地が与える,あまりにも新鮮で,貴重で美しい視覚の世界に,ある意味,
浮ついていたから。その五感世界は,今まで一度も感じたことが無いくらい
強烈で,鮮烈で,はっきりとし,透明で,光り輝き,幸いで,美しかった。
それが,四方八方輝いて全ての瞬間の全ての経験がそのようであったので,
きょろきょろとあたりを見回していたのであろう。
140brown:02/06/06 01:30
それから私とその友人は外に遊びに出かけた。そのころ渋谷の近くに住んでいた
ので,渋谷に出かけた。代々木公園に行った。その全ての経験は,解脱の中に
あった。とはいえ,無論,座禅をして瞑想を保持しようと努力していたなどと
いうことは全く無く,なんの努力もなしに,私は解脱していた。すべての迷いは,
迷い自ら現れた瞬間に自然に消え去った。それは,心に生じるさざなみのような
もので,そのさざなみよりはるか「上」にある「私」にまで届きようがなかった。
「私」は全く安全であった。しかも,あらゆる経験をしていた。
友人とたわいも無い会話をし,ショッピングをし,公園をうろつき,喫茶店に
入ってコーヒーを飲み,渋谷のあの混雑した交差点を,人とぶつからないように
注意深く歩き,食事をし,酒を飲んだ。全ての日常経験は解脱と伴にあった。
しかし,解脱は,その間中,全ての日常経験と伴にあった。何の注意力もなしに
日常の世俗的行動をしていたが,その間中,勝手にその清らかな顕現は現れ
続けた。
141brown:02/06/06 01:37
私は彼に,その経験について何も告げなかった。彼は,朝に述べて感想以外に
何も気付かなかった(だろう)。全ては普通だった。しかし,全く異なっていた。
全て世俗の行動そのものだったが,経験は全く異なっていた。そのとき,輪廻と
解脱は完全に一体となっていた。心に私は無かった。私は,心と離れてあった。
もし,そのとき私があった,というのなら,それは,五感のことだった。
その直接的感覚とは完全に離れて心があった。心には,感情や思考が渦巻いていた
かのようであるが,「私」に全く影響を及ぼすことなく,自然に顕れては消えて
いった。心はそのように単なる,水に描いた絵,写し鏡,二重視でしかなかった。
畢竟,心は「なかった」。心からすれば,「私」は無かった。
142brown:02/06/06 01:42
これが,涅槃寂静の完全な直接経験である。

そのような完全な経験は,それを獲得するのにかかった直接的な期間である
二ヶ月とちょうど同じだけ,二ヶ月間ほど続いた。その間中,私は,「解脱
の楽しみ」を完全な形でただただ享受し続けた。
143名無しさん@1周年:02/06/07 21:50
age
144brown:02/06/07 22:09
私は,周りと比べてそうだとはいえないが,自分自身思う。
私は,実に許されないくらい,罪深く,強欲で,心が軟弱で,愚かで,神に
見放され,世間に見放され,自分自身にすら見放され,驚くべきエゴイスト
である。それ故に,いったいこの世の中が全て許せなかった。苦しみは許せなかった。
しかし,むしろ許せなかったのは,楽しみだった。何か,「楽しい」と呼ばれる
こと,いや,実際に「楽しいなあ」と全面的に感じていること,これが許せなかった。
なぜか?それが苦しみだったから。それに満足できなかったから。より欲しくなる。
より上があると思う。まだ完全でないと思う。いつまでも欲しいと思う。
それよりも何よりも,その「楽しみ」を観察している自分がある。いつも「反省」
している。誰だ?おまえは?そう問うてみても,疑ってみても,今は,楽しみに
集中すればよいと念じてみても,それでも居るのだ,そいつが。
145brown:02/06/07 22:10
世間のことはなんでもそのようにあほらしいことだとしか思わなかった。
要するに,わがままだった。何もかも満足いかない。それで地団太踏んでいた。
146brown:02/06/07 22:19
それが今はどうだ?何もかも完璧に美しく,全て善く,身は快感に満たされ,
心は大歓喜に包まれ,心身は壊れそうになるくらいだ。
しかし,それが「よかった」というのではない。そのような相対的な大きさ,
「より気持ちよかった」のではなく,それは絶対的に気持ちよかったのだ。
なぜなら,そこには,問い掛ける「アイツ」がいなかったから。
反省がなく,比較がなく,疑問がなく,疑いがなく,不安がなく,不満がなく,
下界に陥る傾向が全くなく,そのような原因が全くなく,計らいがなく,
汚れがなく,理想と現実の間の差異がなく,覆われることがなく,
苦しみがなく,ないものがなく,全てが得られている,
その究極の存在は,仏陀の境地と呼ばれている。
147かえる:02/06/07 22:49

 brownさん 煩悩 はないんですか?

 仮に、天国が在ったとして、門番がbrownさんにたずねます。

 『あなたは、あなたの人生を生ききりましたか?
   あなたに与えられた体、
    あなたに与えられた仕事、

       、、、、、あなたに与えられた 煩悩。』
148brown:02/06/07 23:11
>かえるさん
frog? return? go home?
昔も,今も「私」に「煩悩」はあります。そのあり方が「多少」違うだけです。
そのくせ何が悟りだ?→なぜなら,煩悩は大した問題ではない,と悟った
からです。だからこそ,このスレの100番以降の主題である,「勇気付け」
になるのです。人間のままでよいのだ,と。
ところで,
全くあなたのおっしゃる通りです。「あなたに与えられた身体,あなたに与えられた
仕事,あなたに与えられた煩悩,これを生ききりましたか?」心いたします。
私も未だ若く(だんだん年を取ってきましたが),「世俗」の人生を,確信を
持って「生き切った」とは全然思っていません。ただ,この瞬間に死すとも,
何の悔いもありません。なぜなら,心から生じる核心的な探求が既に満たされたから
です。たとえこれからの私の人生が,本当に貧弱な,何の「仕事」も成し遂げられ
なかいものとなったとしても,「私は世界で最も幸いな」と感じます。生まれたこと
を本当に感謝しています。
149かえる:02/06/08 21:13
ごめんなさい。
brownさん147はネタです。

軽い気持ちで行きましょう。
自立して仕事を持っている市民が

「自分が体験した物を、社会に問う事」

は、礼儀を守って行う分には悪い事ではない筈です。
とにかく、発言しないことには始まりません。
2CH での書込みは、お金を貰っての作業ではありません。

すべて 自分の持ち出し です。

 場 に対する責任以外は brownさんに義務はありません。
(brownさんが裁判沙汰になるようなネタを出すとは思えませんから。)
子供たちは、答えてもらって当然 と思っています。
責任を感じて 消耗しても 先の無いことです。
(髑髏さんは徹底されてますね。質問箱の回答お見事でした>髑髏さん)

軽い気持ちで行きましょう。
150brown:02/06/09 00:41
>かえるさん
うん。ネタで結構。というか,すばらしい「ネタ」だと思いますよ。

ところで「お金をもらっての作業」。こちらは大変ですね。
いや,もらう前ですが。でもね,お金だけじゃないと思うんですよ。
青いですが。報酬を得られない仕事では話になりませんが,私も一生懸命
やっているんです。で,その結果,金がすべてだと言われますとね,
嫌な気になる。そんな,働いた以上の金額なんて請求できませんよ。
と言う愚痴。

「質問箱」って「仏教質問箱」ってやつ?さっき行ってきたよ。五蘊が何とかって。
誰もまともに答えてあげないみたいなんで,答えておきました。
151brown:02/06/09 01:02
>かえるさん
で,そういう「何でも答え」を止めろとおっしゃってるんだろうか?
こういう場であっても私は「責任」を感じています。煩悩と同じで,責任自体
重苦しくなく「行う」という感じです。私の方はそんな感じです。
無責任に聞こえるかもしれませんし,重苦しく感じるかもしれません。
正直言いまして,私には自分が外からどう見えるかなど,計り知れません。
ただ,どうも,よくあることですが,brownにご自分を投影していらっしゃる方が
多いようですね。文体とbrownに対する評価が妙に一致している。
理知的な人は理知的に,感情的(悪い意味ではありません)な人は感情的に,
軽い人は軽く,無関係な人は無関係に,狂団の人はその狂ったことをそのままに,
私は常に,その裏側を見ています。なかなか嫌なやつですね,これ。
でも,何度かそれはうまくいきましてね,相手によい影響を与えられることも
あるんですよ。そのときは本当にうれしい。
152brown:02/06/09 01:13
私はあちこちで「完成している」と断言して憚りませんが,色々な意味で未熟な
人間です。社会的にも,宗教的にも。わかりきったことですが。本人もよく
自覚しています。
宗教的に未熟というのは,結局は社会的に未熟というのと私の未来ではつながって
いましてね。そういう社会的な修行を通じて何事かを成し遂げようとしているん
ですよ。私は。それが私の「裏側」です。つまりbrownでなく,その作者の。
153brown:02/06/09 01:23
人を理解する。社会を理解する。心理を理解する。宗教を理解する。文化を理解
する。現実を理解する。今起こっていることを理解する。和を理解する。
そのような調和,これが私の修行である。これがわたしの宗教であり,人生であり,
哲学であり,仏陀であり,キリストである。

そして,brownの舞台裏なのです。
まあ,独り言ですから。そんなことも言ってみる。そういう勇気付け,通じたかな。
154非在:02/06/09 10:31
理解を捨て、
宗教を捨て、
人生を捨て、
調和を捨て、
修行を捨て、
哲学を捨て、
仏陀を捨て、
キリストを捨て、
また全部拾う。
そういふものに私はなりたい。

ところで、EOの話はしないの?
155非在:02/06/09 10:47
>>136>>141
の体験は少なくともEO師のいう「解脱」とは違う気がする。
「意識の結晶化」とでもいうべき体験でしょう。
でも、禅でいう「見性者」ではあるのかもしれませんね。
どちらにしてもうらやましい境涯ですが。。。
156かえる:02/06/09 11:03
>150−151 brownさんへ
質問箱で 五蘊 について質問していた人は、
 自分の切実な問題として聞いたのではない 感じがしました。
1)回答の礼を言わない。
2)コピペを繰り返し貼り付ける。
3)自分はここまで**したけど、どうしても++の部分がわからない
  等の本人の努力を示さない。

 質問ー回答 では終わらず 質問ー論争 の気配を感じました。
また 自分(かえる)の回答では 同上質問箱スレッドの>5
>5 :名無しさん@1周年 :02/05/18 21:53
>議論・荒らしについて
>このスレッドは質問者の仏教関連の質問に対して、世間で広まっている「一般的な答え」を返すものです。
>独自の見解などを開陳したい方は、別スレで行うか、専門のスレッドを立てて行ってください。
>議論・荒らし行為なども同様。別のスレッドで行ってください。
>ここが初心者向けの質問のためにある半ば公的なスレッドであることを忘れないようにしてください。
>なお、当スレッドにて荒らし行為などを見ても、いっさい放置でお願いします。
>「荒らしに反応したあなたも荒らしです」
これに抵触すると思われます。

自分も、昨日見つけたばかりなのですが 御参考にどうぞ。

心と宗教板の自治を……考えてみるテスト (1)
h ttp://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1019561457/

順番、効率は大事だと思います。世界は大きい 私は蛙。世界は吹曝しでもあるんですけど。
157かえる:02/06/09 11:09

>154 非在さん
 どうぞ やってください。

>152−153 brownさん
内容的には、
「完成している」人がいて「何事かを成し遂げようとしつつ理解する」人がいる
で、よろしいでしょうか?

傍目からみた印象ですが、
brownさんが、体験したこと、知見したことより、
体験した主体へのスタンスのとり方の方が、重要であり、
それがまたbrownさんの書込みの特徴だと思います。

仏教ヲタ的に言えば、、、止めます。
なんにせよbrownさんが居ることにより場が安定しますし、
それだけで充分にありがたいことです。
158brown:02/06/10 22:45
>157
あなたは「背景」をよく理解しています。
私が「スタンス」にこだわるのは,それが私の為し得る「貢献」であり,
私がこの生を生きる意味であるからです。そのように私は,無為ならぬ
行を設定したのであるから。
159名無しさん@1周年:02/06/10 23:10
質問!!どうしてEO=ほうざん氏 らしいですが、彼のページに行かないのですか?
160かえる:02/06/11 01:55
>158 brownさん 
ありがとうございます。
自分も多くを brown さんから得ていますし、
レスは打たずとも、同様に思っている人は多いと思います。
伝統の方達が無口なのは 既に重荷を背負っている為でもあります。

 brownさんが さらに 良縁を得ますように!!

>159
>彼のページに行かないのですか?
軽い気持ち、娯楽 で ほ−ざんさんに触ると 人生 狂いますよ。
35〜40才過ぎか、結婚してないなら止めときなさい。>158

brownさんは、あえて行く必要はないと思われます。
161かえる:02/06/11 14:19
>159
たぶん、会話にならないと思う。
重なってる部分もあるけど、違う所もある。

誰の信仰、修行でも、自分そのもの なので置き換えがきかないのよ。
指の長さや、育った環境、師匠の個性、流派。

共通する部分があるにしても、
 そうですか。
としか言えない部分がある。

それで、いいじゃない?
ほーざんさんやEOさんは 素晴しい でも、
オイラや 159さんには直接は関係ないことでしょ?
いやいや オイラは熱心な EOさんとほーざんさんのファンだけどさ。
(CD、MD、限定本 一部を除いて全て所持 忍者セラピは除く)
162名無しさん@1周年:02/06/11 14:31
>ほーざんさんやEOさんは 素晴しい

EO=ほーざんと言う話はどうなの?
EOとほーざんが別人だと明確にしないと、ネタがほーざんのページと出版だけでは、同一人物とデマ流されても仕方が無いんじゃない?

それとも?わざと知っててそういうネタしてるの?それならそれでいいんだけど。 
163brown:02/06/11 21:35
>誰の信仰、修行でも、自分そのもの なので置き換えがきかないのよ。
>指の長さや、育った環境、師匠の個性、流派。
そうそう。到達するところはいっしょ。
でもどこから到達するかによって出てくる理解は異なる。
まさにそういうことですよ。「指の長さ,育った環境,師匠の個性,流派」
いわゆる「文化」と私は呼ぶ。
そこはどんな問題でも解決してしまうところ。
「問題」という入力があって,「解決」という出力がある。
だから「問題」が問題になる。大問題ですね。「正覚」の意味であります。
これは,私の見解では,ジーザスも老子,孔子諸先生方も同じですよ。
実存主義哲学やニーチェでも。
でも言っている話法が皆違う。
で喧嘩する。実際に喧嘩しているのは「信者」ですけどね。
それを現実に知っている人は知っている。全て同じ事を言っているんだと。
知らない人はそこに妄分別を当てはめる。すなわち,「これが上だ」,「これが
下だ」,「これが中だ」と。また,「これがより大きい」,「これがより先に
行っている」と。
164名無しさん@1周年:02/06/11 23:07
結局ほーざん=EOみたいですね。
どうやら、最近変なCD出したりするのも、その性みたいですね。
165かえる:02/06/12 02:57
そーだなぁ 正直言って限りなく黒に近い灰色なんだよね。
でもね、残されている書物、特に限定本の内容は素晴しい。

どう素晴しいかというと、
普通、高い境地まで上った人は、正直に自分の体験した内容を残さない。
必ず 足を切った 不完全な状態で記録を残す。
お釈迦様、クリシュナムルティ、肥田春充 等。
後継者が出ないんだよね。
足を切る理由は、いくつか挙げられるんだけど。
(俺は未熟だけどもやっぱり書かない事あるよ、当然。)

その点 EOさんの記録は、
理解するのも、実行するのも困難だけど、
隠している部分が少ない。他流の俺が共通する体験を挙げられるくらいに。

あれだけの記録を残したら、死ぬより他にない。
と 思うよ。つーか 死んでもいいと思ったろうな おそらく。
手持ちの記録全部が理解できているとは言えない、今の俺の感想だけどさ。

でも、平凡に生きるのは下らない と思う人は止めとけ。
一生 デクノボウ で過ごす覚悟の無い奴は 止めとけ。
上で「高い境地」と書いたけど、 
金とも権力とも自由とも縁の無い「高い境地」だ。

言いたい事を言ったし、ネット中毒気味なので4ヶ月ほど 2ch断ちする。

 さよなら 元気で!!
166名無しさん@1周年
ちゃんと「落ちついて」、2ちゃん何ぞに帰ってこないでね。
生存病から、早く脱出してね。
間違っても、ニューエイジに逝ったら、ほうざん氏は腹を抱えて笑うだろう。
せめて読むなら老子・荘子にしておこう。