浄土真宗 お念仏について

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278渡海 難  ◆0AE5SZ4.
 268のカキコなら、あれはあれで2茶で文意は通じそうだ。もともと言葉は生き物だ。人為的な操作などは誰にもできない。単語の意味は時代時代で変遷する。それにも係わらず700年前、800年前と意味を変えるなと言うのは横暴だ。
 他人の言葉に文句をつけるのがお寺様なら、お寺様は横暴だ。
 この言葉はこういう意味で使って欲しいという思いがあるなら、適用して欲しい概念はきちんと説明すべきだろう。
 700年前、800年前の言葉でなく、説明は現代の言葉できちんとしなさいよ。それをしないで文句をいうのは、笑止の限りだ。説明できない人には文句をいう資格はないだろう。
 「他力の意味を理解してから言葉は使ってくださいね」などという言葉は、他力の意味を説明できる人が言う言葉だ。分かってない人が妄りに発する言葉じゃない。
 説明を受けたからと言って、受けた側がその説明に納得してその概念通りに言葉を使うかどうか、これは別の問題だ。録に説明もしないで、自分たちの概念に一致させろというのは、大きなお世話だ。愚かな話だ。
 言葉は生き物だ。私物ではない。このことを忘れれば、真宗人はいつまでもいつまでも吠え面をかいていることになる。五百年も千年も笑い者になる。2茶では典型的ないい笑い者になる。
 「適当に言葉を並べてごまかすのも程々に」。これは、真宗人が社会から言われる言葉だろう。オマンコ・キンタマ・首吊りポンチ絵の例もある。キンタマの絞り汁をインターネットで教行信証に向けて吹き付ける人もいる。こんなことするのは現代では坊さんしかいないだろう。
 自分は親鸞聖人を尊敬していると心にもない破廉恥な嘘を言うなら、その前に坊さん達は、恥ずかしいという心も世の中にはあるということを少しは学んで欲しいと僕は思う。