生長の家について語り合いましょう(5)

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664雅宣:02/07/30 16:48
大本教なんてレベルの低い宗教<?>を、ここれ論議して欲しくないよ。
オカルトのトビでやって下さい。
大本教なんて、バラバラなのに他の宗教を批判する間は、無いんじゃないか?
665波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆tfDpfKU. :02/07/30 16:50
大本はやるべきだと思うが。

国家神道という幻影を21世紀に引きずらないためにも。神社神道の
馬鹿神主の戯言に信者が騙されないためにも。
666名無しさん@1周年:02/07/30 17:27
>>664
どうかな(笑)?
667雅宣:02/07/30 18:22
大本教て 神道なの?
668名無しさん@1周年:02/07/30 18:32
大本は元来宗教じゃない。本当は神道もそうだが。
ただ、「神の道」を示してはいる。
詳しくは、神諭など。
669名無しさん@1周年:02/07/30 18:53
新宗教教団・人物事典  発行所 弘文堂
谷口雅春(生長の家)旧名・正治。明治二六年(一八九三)一一月二十二日〜昭和六〇年(一九八五)
六月十七日
【出生】谷口音吉・つまの次男。兵庫県八部郡烏原村(現、神戸市)生。
【教団での呼称】尊師
【略歴】兄一人妹四人の次男に生まれるが、四歳のとき叔母にもらわれ、石津又一郎、谷口きぬ夫婦
の養嗣子となる。市岡中学時代より文学者を志し、早稲田大学英文科に進学。入学当初は厭世哲学に
浸るが、やがて耽美主義的な恋愛感情へのあこがれから故郷の近所の娘房江にラブレターを出し、同
棲する。この同棲によって養父母からの仕送りが途断え、生活に行き詰まって大学を中退。その後房
江と別れた谷口は大阪の摂津紡績に勤めるが、工場労働に嫌気がさし辞職。そのころから心霊治法や
催眠術に関心を持っていたが、『彗星』という雑誌で読んだ皇道大本(現、大本)の世界建て替え説
に興味を引かれ、綾部を訪れる。大本で文才を認められ、機関誌の編集を任されるようになり、そこ
で知り合った江守輝子と大正九年(一九二〇)に結婚。綾部では「大本のフランシス」と称し、一着
の衣服に一本の縄を締め、求道者的生活を送る。その間一燈園の西田天香とも接するが、満たされ
ず、大本への不信も芽ばえ、大正一一年著述に専念すべく上京。そこで『聖道へ』『神を審判く』を
著し、生活が軌道に乗りかけた矢先、大正一二年、関東大震災に遭う。
670名無しさん@1周年:02/07/30 18:55
妻の実家の高岡に避難し、そこで娘の恵美子が誕生。翌年神戸の養父母宅に身を寄せて、浅野和三郎
の心霊科学研究会を手伝う。しかし無報酬で清貧に甘んじる奉仕生活は養父母から歓迎されず、さら
に娘の病気を医者にみせる金もない無力感にさいなまれ、ある夜夢で神と対話する。「物質はない」
と聞かされた谷口は、それまでの清貧生活が逆に物質に捉われた生活であったと反省する。このこ
ろホルムスの「神は人間が思考するとおりのものをわれらに与える」という哲学に触れた谷口は、
奉仕生活と家庭生活の板ばさみを脱する手だてをそこに見出す。そして職業がすでに与えられてい
ることを念じたところ、バキュームオイル会社に翻訳係として就職が決まり、妻子とともに阪神沿
線の住吉村に移転する。ここがのちに生長の家の発生の地となる。ホルムスの哲学以後心をいかに
コントロールするかに思いをはせていたあるとき、静座合掌瞑目していると、突然威圧するような
声で「物質はない。実相がある。実相とは神である」と聞え、目の前に日の出のような光が燦爛と
満ちあふれたとされる。ついに神を見出し、不滅の生命としての自分を見出したと感じた谷口は、
この悟りの喜びを人類に伝えたい思いにつき動かされる。昭和四年(一九二九)「今起て」との声
に執筆を開始し、翌年三月一日『生長の家』誌を創刊する。これを機に現在生長の家の聖経とよば
れる「甘露の法雨」を初めとする詩がつぎつぎと霊感によって書きとめられていったとされる。
七年に『生長の家』の合本『生命の実相』を出版し、昭和九年には教勢発展のために上京し、株式
会社光明思想普及会を設立する。
671名無しさん@1周年:02/07/30 18:55
一〇年には新聞広告を掲載したことや、『主婦之友』が生長の家の紹介記事を載せたこともあり、
機関誌の発行部数は急速に増加する。こうして『光の泉』『白鳩』『いのち』らの機関誌がつぎ
つぎと創刊され、文書伝道と講習会による布教という生長の家の基本姿勢が確立される。大二次
世界大戦が始まるや谷口は「価値実現のための戦争」と称し、皇軍必勝をスローガンにするが敗
戦となる。昭和二三年にはGHQより公職追放の指定を受ける。この間二一年に宗教法人生長の家
が設立され、同年娘の恵美子がのちの二代目総裁荒地清超と結婚する。二七年以降谷口の関心は
個人の救済から国家の救済に向かったとされ、日の丸掲揚運動や明治憲法復元改正運動にみられ
るような右傾化を強める。昭和三五年の日米安保改定問題の際には『日の丸か赤旗か?』という
パンフレットを出版し、配布活動を行う。三八年谷口夫婦は初めてハワイ、北米、中南米、ヨー
ロッパと七ヶ月にわたる海外布教を行い、以後四七年、四八年にも北米、南米での講演を行う。
この間昭和三九年には政治活動の足がかりとして生長の家政治連合を発足させ、四二年には優生
保護法改廃期成同盟を結成する。昭和三〇年代から四〇年代にかけての学生運動に対して谷口は
戦後教育の歪みが日本国憲法に起因するものと考え、つぎつぎに憲法、国家に関する著作を著す。
五〇年谷口は住居を長崎に移し、龍宮住吉本宮の建立をめざす。谷口によれば、住吉本宮は世界
浄化・鎮護国家を目的として住吉大神を勧請・顕斎するものとされ、昭和五三年には長崎を生長
の家総本山としている。谷口の遺稿は死の約二ヶ月前に書かれた『碧巖録終講の辞』とされてい
るが、その中で谷口は「それでは“左様なら!!”とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しませう」
と述べている。一〇日間程度食事を摂らなくなった後、昭和六〇年六月十七日九一歳で死去。
672名無しさん@1周年:02/07/30 19:02
>静座合掌瞑目していると、突然威圧するような
声で「物質はない。実相がある。実相とは神である」と聞え、目の前に日の出のような光が燦爛と
満ちあふれたとされる。ついに神を見出し、不滅の生命としての自分を見出したと感じた谷口は、
この悟りの喜びを人類に伝えたい思いにつき動かされる。昭和四年(一九二九)「今起て」との声
に執筆を開始し、翌年三月一日『生長の家』誌を創刊する。これを機に現在生長の家の聖経とよば
れる「甘露の法雨」を初めとする詩がつぎつぎと霊感によって書きとめられていったとされる。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
        絶対に嘘

甘露の法雨は読むな。仏壇の前では各宗教に伝わる伝統的なお経をあげるように。

673名無しさん@1周年:02/07/30 19:14
神示が神啓によって書かれていないということは甘露の法雨も神啓によって
書かれていないということだよねー
674yy:02/07/31 00:16
>654
水晶の世って、グラビトン絡み?

間違っていたら申し訳ないが、詳しい内容を。
675名無しさん@1周年:02/07/31 00:20
671.672へ
何むきになってるのかな、すごく不自然だな。
君の信じるその伝統的なお経と教えを教えておくれよ。
676アクエリアン:02/07/31 02:29
647さんの書き込まれた、
>予言されていたのは、現界的に言えば第一次大本弾圧事件。
>しかし、浅野和三郎、谷口正春などが宣伝に利用する為、
>間違った予言解釈を立てて、大宣伝した。
>聖師は最初から反対していたが、既に聖師の言を用いず暴走し続けた。
>まだ、開祖派の勢いの強い頃のこと、聖師を過小評価(ほとんど無視)し、
>我田引水的に教団の運営を実行するようになっていた。
>予言を勝手に曲解し、我田引水的に誤った解釈をでっちあげ、
>これを大宣伝し、外れて立場を失い、教団の信用を失墜させ、
>巨額の大々借金を教団に押し付けて脱走した。

という内容は、だいぶ私の認識とは異なります。
谷口雅春先生は、大本教出身であるだけに、大本教時代のことには関心があるのですが、
自伝編上(生命の実相19巻)や「聖道へ」などで、当時のことを回想されていたのを、非常に興味深く
読みました。「聖道へ」には次のように書かれていますが、

677アクエリアン:02/07/31 02:32
「当時の大本教の幹部も信者も、「じしんかみなり、ひのあめふらしてたいらげるぞよ」というひらがな書きの御筆先を
「地震、雷、火の雨ふらして(罪人たちを)平らげるぞよ」という意味に解して、それを神による世界の建替えであり、
別の御筆先にある「めいじ五十五ねん五がついつかはけつこうな日であるぞよ」という神示を、明治五十五年は
大正11年にあたるから、大正11年五月五日に、この天変地変による地上悪人の一掃という「世界の建替え」が
始まるのだと信じていたのであった。ところが、その日に天変地変は起こらなかった。(中略)
最近、わたしは大本教の本部のある綾部市に於いて生長の家の講習会を地許の幹部の要請で催すことになって、
その公会堂の演壇に立って話している最中に、突然インスピレーションが来て、『大本教のお筆先は間違っていな
かったのであって、当時の幹部が、お筆先が仮名ばかりで書いてあるから、その読み方をまちがえ、解釈を間違って
いたのであった。神示というものは、読む人の心に従って、読者自身の心を反映して、自分の心が高まって来るに
従って、解釈の仕方が変わってくるものである。「じしんかみなりひのあめふらしてたいらげるぞよ」という大本教祖の
お筆先は、実は「自身神なり、真理の炬火を雨ふらして人類の罪と病と死を平らげるぞよ」という意味だったのだ』
と私は霊感的に思わず言ってしまったのであった。」
678アクエリアン:02/07/31 02:33
この雅春先生の、「神示というものは、読む人の心に従って、読者自身の心を反映して、自分の心が高まって来るに
従って、解釈の仕方が変わってくるものである。」という神示に対する考え方は、なるほどと思います。
雅春先生の神示に疑問を感ずるならば、一度、この考え方に基づいて、雅春先生の神示を読んでみられたら
いかがでしょうか。まあ、心が変わらないと話にならんので、むずかしいところなんですが。
そして、人間神の子の真理こそが、この大本教祖のお筆先に真意だったのだ、という解釈、さすがだと思います。
679アクエリアン:02/07/31 02:56
647さんの、

>『霊界物語』を一度お読みになってから、
>谷口氏の本を評価してみてはどうでしょうか。

というアドバイスには、感謝します。
最近、「出口王仁三郎の霊界からの警告」武田崇元著(光文社)をブックオフで購入したので、
読んでいます。なかなか面白ですね。できたら、霊界物語も読んでみたいのですが、いろいろ読みたい本が
あるので、この人生では無理かも(笑)。武田崇元さんの本で、十分という気もするのです。
雅宣さんの、オカルト的という評価は、私も同感する部分があるのですね(笑)。ですから、いまいち、食指が動かない
んです。
680アクエリアン:02/07/31 03:14
海舟さんの、

>近視眼的な小善主義である左翼思想がはびこる中で、日本の歴史と文化を守り抜きたいと必死に願い行動した
>谷口雅春氏は評価できる。人類史と文明の変遷、人間の本能を理解できない人には、生長の家の深遠なる価値
>は所詮理解できない。「大東亜戦争は日本の侵略戦争だった」と、アメリカの洗脳計画にはまり、思い込まされて
>いる人たちは哀れである。

という、ご意見に、同感です。
副総裁は、サンデー毎日のインタビュー(1992年8月16,23日号)で、
理想世界誌上での大東亜戦争論の反響について、次のように語っています。
--------
湾岸戦争を契機にわき上がった左右の言論の中に、かつての大東亜戦争を「有色民族解放戦争」として正当化
するような考え方が見え隠れしているのが気になった。それで、多くの日本人が大東亜戦争の教訓というものに
ついて、まだ未消化の状態にあるのではないか、そういう疑問を投げかけた。すると反応がたくさん来て、これは
片手間ではいけないと、本腰でまじめに対応してきたつもりです。

歴史観となると、マルクス主義的な歴史学も学んだが、さまざまな歴史観が存在する。そうではなく、終始、
一宗教家としての発言なのは文中に書いているとおりです。ただ歴史教育の話なら、どうして現代史から始めないで
学校の勉強は遠い古代史から始まるのか。現実の今の社会につながる現代史をなぜもっと大事にしないのか。
失敗もあったはず。なぜ失敗したのか。すると歴史の勉強が、生きた自分の問題になってくる。私たち日本人は
現代史を知らなさすぎる。
------------
後半部分は同感です。
681雅宣:02/07/31 09:34
アメリカの洗脳と言うのは、嘘だな。
現在 東京裁判を検証したら分かるよ。
東京裁判は、むしろ時代の先取りと考えていい。
平和に対する罪なんか、先取りもいいところだ。
違和感がないと思うよ。
そんなに、戦前が良いと言う人も気がしれんよ。
戦後民主主義で、日本は、イヤ 日本人は幸せになれたと思う。
渡部昇一のいいとこは、ただの体制はではなく、悪いことも指摘してる。
とくに、大半の日本人は、天皇を意識して生活していない。
これは右翼でない証拠の発言だし、真実と思うよ。
歴史を知らないのはアクエリアン氏ではないか?
知識は多いけど、判断は、間違いだよ。
682雅宣:02/07/31 09:51
渡部氏は、非常時には天皇が役に立つと言いたいんでしょう。
わたしはそれは良くない。国民の責任で非常時にあたるべきです。
そんなことに天皇を利用すべきでない。
ここが渡部氏と私の違うところ。
みなさん、解説抜きで東京裁判を見て下さい。日本の責任者は、もっと
死刑にならないと、だめです。
吉村昭は、全ての日本人が戦争したんだと言っています。
この人の誤りは、情報を封鎖された日本国民の判断は、国民の責任と思っている
事です。情報開示のない国で、国民に責任があるとは、責任のすり替え
であります。 戦争指導者の責任を明らかにして、教科書に載せるべき
でありましょう。
元右翼としては、東京裁判が偏向しているのは、原爆投下 そんなもんでしょう。
683海舟:02/07/31 10:05
東京裁判が時代の先取りとは大笑いだ。
平和に対する罪が適用できるなら、真っ先に裁かれるべきはアメリカだ。
広島、長崎を忘れたか、東京大空襲や各都市における無差別爆撃をどう理解する。
特に東京はひどかった。市民が逃げられないように、まず四方を爆撃し、その後に民間人虐殺のためのだけの爆撃をおこなった。
アメリカの爆撃で日本に平和がやってきた、幸せになったと思い込んでいることが洗脳されている証拠だ。

684雅宣:02/07/31 14:17
683よ。真実を見ろ。
中国大陸で日本は何をしたのか?
虐殺の限りを尽くしているよ。
中国に、阿片を売りつけるのも当然。
平和に対する罪は、昭和4年の満州国から、適応されて当然だ。
頭の悪い、勝海舟でも、江戸無血開城したのに、683の海舟は、愚か者だよ。
事実に、目をつぶっては、いけないよ。
其れが裁かれて、やっとアメリカの問題になるんだよ。
でも、講和条約を結んだ馬鹿政府のもとでは、何もいえないんだよ。
それが、愚かなる日本国の実相だよ。
8年占領されていたことを、忘れちゃいけない。
日本は、なかったんだよ独立国としてはね。8年も発言権がなければ、どうしようも
ないでしょ。
無条件降伏という愚かな負け方をしたのも、大日本帝国なんだ。
武力はあっても、当時から 外交力は無かったんだね。
劣等国と言われても、仕方ないよ。それを無視して広島、長崎 よく言うねえ。
海舟君。
685海舟:02/07/31 16:56
雅宣ちゃんは、純粋まっすぐ君だね。良い子だね。
でもね、そういう性格は洗脳にはまりやすい典型だ。
雅宣ちゃんは完全に中国の政治宣伝にハマッテイルね。
南京虐殺記念館やピ−ス大阪にある写真はね、大半はアメリカのヤラセ写真と、中国内戦写真というのがわかっているんですよ。
中国が日本は虐殺をやったと言えば、検証もせず認め、日本は侵略国家だと言われれば、すぐ謝る。
いいお客さんだよ。
もう中国に、6兆円も払っていること知ってますか。
20万人しかいなかった南京で、なんで40万人も殺せるわけ。
中国は年々虐殺人数を吊り上げているんですよ。
なんでもかんでも信じればいいと言うものではない。
裁判の仕組みや、刑法の基礎も知らないんでしょう。それから国際法も。
戦争時のプパガンダをよく研究してから、人を馬鹿呼ばわりしたまえ。
洗脳されっぱなしの雅宣ちゃんへ。
686雅宣:02/07/31 17:07
ナンキン虐殺の嘘写真 そのとうりだよ。
ODA 一文もやることはない。全体主義国家に、奉仕することはない。
何故か?
日本の60年前と同じだからよ。
あなたはそのことと、日本軍国主義者が、戦争反対の日本国民を虐殺し、中国人
を、スパイと言う嘘の嫌疑で殺し、天皇を無視して戦争を、始めた人間を
認め正当かしていることを、混同しているんだよ。
馬鹿呼ばわりはしていない。 立派な馬鹿です。そんな奴らを、アジア解放のため
という嘘で、誤魔化してもらっては、困るんだな。
右翼にかんしては、特別法をつくり、取り締まらないとね。
一水の鈴木さん テレビで左翼鋸とが良くわかると言っていました。
やはり、危ない人でしたね。
右翼も左翼も、マルクスか天皇かの違いで、全体主義者なんですね。
687海舟:02/07/31 18:11
歴史は見る角度によって如何様にも変化する。
百人の戦争経験者があれば、百通りの戦争観、歴史観が生まれる。
感情に流されても、理論に頼りすぎても解釈は正確さを失う。
要はバランスが大切だ。
もう一つ、今、何故現在自分があるのかも斟酌すべき。
個人も国も間違いは起こす。しかし、みんな必死で生きてきたのだよ。
子孫のために、がんばってきたのだよ。
先人の歴史をやさしく見つめる心の余裕がなくてはいけない。
その心が無く、ただ批判するだけの学問では、人を救うことも出来ず、
感動も与えられない。

それから生長の家に関するぺ−ジで、雅宣と名乗るのはマナ−に反する。
やめたまえ。もちろん本人なら良いが。
688名無しさん@1周年:02/07/31 18:18
「新潮45」1993年5月 「生長の家」御利益盛衰記
生長の家の創始者である谷口雅春が、ダスキンの鈴木清市が強く影響を受けた西田天香
の一燈園を訪れたのは大正十年の八月頃のことであった。当時の一燈園はまだ鹿ヵ谷
にあったが、『懺悔の生活』の出版により来訪者が増えた時期であった。一燈園の機関
誌である『光』九月号の「一燈園だより」には、「宗教家としては大本教にあつて色々
深い研究と体験を重ねてゐられる谷口正治さんがきて呉て矢張托鉢をまでして五日間
共祷された」と記されている。谷口の本名は正治で、当時はまだ本名の方を使っていた
 谷口は、大本教の中にあって、清貧、篤信の生活を貫いたキリスト教の聖人フランシ
スに自らをなぞらえ、「大本教のフランシス」と称していた。一枚の着物しか持たず、
その上を縄一本結ぶだけの姿をして、水行や断食などの修行に専心し、菜食主義を実践
していた。そういった谷口にとって、「他を凌いでならば生きまい、許されてならば
生きよう」として、無我の奉仕の生活をモットーとする一燈園の生活や西田の思想には
強く魅かれるところがあった。しかし、谷口を一燈園に向かわせたのは、大本教の信仰
への疑問であった。
 当時は、第一次大戦後の社会矛盾と不安を背景として、天理教、金光教、そして大本
教が急速に勢力を伸ばしていた時代だった。大本教は、「鎮魂帰神」と呼ばれる神がか
りの方法によって霊界との交流をはかり、そこから神のお告げを引き出してくることを
特徴としていた。そして、これまで鬼門とされる艮(東北)の方角に崇神として押し込
められてきた金神が、大本教の本部のある綾部に現れて最後の審判を行い、理想の世界
である「ミロクの世」が始まるという終末論的な予言を広めていた。しかも、その日を
大正十一年五月五日と明言していた。
689名無しさん@1周年:02/07/31 18:19
 この予言には、キリストの再臨と、仏教における弥勒菩薩下生の考え方とが反映され
ていたが、谷口も大本教の道場で「基督再臨論」を毎日講義し、多数の信者を集めてい
た。しかし、谷口にとっては、自己の過去の罪業が最後の審判の時までに浄まっている
かどうかに自信が持てなかった。そこから、谷口の信仰は揺らぎ始めたのである。
 谷口は、大本教でその文才が認められ、機関誌の編集や聖典である『大本神論』の編
纂作業に当たり、大本教の霊学の体系化にも力を注ぐ。そして、大正九年には、『皇道
霊学講話』という、彼としては最初の書物を東京の新光社から出版している。それでも、
個人の罪の問題に強く関心を持っていた谷口には、神による最後の審判を強調する大本
教の路線には違和感があった。彼が一燈園に出向いたのも、大本教で得られないものを
西田のもとで学ぼうとしたからだが、その行動は、大本教のリーダーであった出口王仁
三郎の気にさわる。それからまもなく出版された出口の著作『霊界物語』には「鰐口蛇
冬(わにぐちまがふゆ)が一等厭へ行つて云々」という記事が霊界の出来事として記さ
れていた。
 「お前は実相そのものだ」
 時の政府は、世の終わりを説き、急成長をとげていた大本教に警戒心を強め、教団の
調査を行っていたが、大正十年の二月十二日早朝、不敬罪ならびに新聞紙法違反の容疑
で大本教の本部などを家宅捜索した。いわゆる「第一次大本事件」である。谷口は逮捕
を免れたが、出口王仁三郎は中心人物として獄につながれた。
 出口が勾留の執行停止で出獄中、『霊界物語』の口述を始め、谷口はその筆記に当た
るが、大本教への信仰に疑問を持つようになっていた彼には、その仕事は苦痛以外のな
にものでもなかった。さらに、大阪の控訴院から大本教の開祖である出口なおが神がか
りで記した「お筆先」と、それを出口王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較
対照し、不敬罪に該当する箇所がないかを調査する作業を依頼され、谷口はお筆先をす
べて読むこととなった。
690名無しさん@1周年:02/07/31 18:20
 彼はその作業を通して、教団の発表した予言にくいちがいがあり、前年の予言のうち
で当たったものだけが機関誌に掲載されていることを知った。さらには、お筆先の中に、
「天は天照皇大神宮、地は出口の血すじで治めるぞよ」といったことばを発見し、出口
の家を天皇に代わる地上の権力者にしようとする神からの啓示に決定的な疑問を感じる。
こうして、谷口は、大本教の中で結ばれた夫人の輝子とともに脱退の決意を固める。す
でに最後の審判が起こると予言された大正十一年五月五日は、何事もなく過ぎてしまっ
ていた。
 谷口夫妻が大本を去ったのは、大正十一年十月のことだった。その前日の夜には、教
団の血気にはやる青年たち数名が谷口を襲撃しようとして、まちがって別の人間に重傷
を負わすという事件もあった。
 谷口は、いったんは神戸に戻るが、著述家になることをめざして上京し、浅草の職人
の家の二階に間借りして、『聖道へ』と題された二冊目の本を書き上げる。これも新光
社から出版されたが、こわれて西田天香が序文を寄せていた。西田は谷口について、
「著者は、私の見るところでは、最も大きく疑つて、最も鋭く且正しく考へをおひよせ
てゆく人のやうである」と評していた。このことばは西田自身の生き方にも通じるもの
があり、彼は大本教という一宗教の枠にはまりきらなかった谷口に共感するところが少
なくなかったように思われる。
 しかし、『聖道へ』における谷口には、まだ迷いがあった。彼は、西田だけではなく、
倉田や武者小路、あるいは大正九年に『死線を超えて』というベストセラーを出して労
働運動に入っていった賀川豊彦や、百姓愛生活を提唱した江渡狄嶺などの思想を取り上
げ、その検討と批判を行なってはいたが、彼独自の思想を切り開いていたとはいえなか
った。谷口は、本来の理想的な「無想不二なる世界」と、現実に存在する「差別の世界」
とを区別するまでにはいたっていたが、二つの世界の間には決定的な断絶があり、理想
と現実とのギャップを克服する手だてを見いだしてはいなかった。したがって、彼の信
仰は消極的なものにとどまり、毎日が「憂鬱で身体は常に不健康」であったという。
691名無しさん@1周年:02/07/31 18:21
 谷口は、自らの思想を確立するために、続けて『神を審判く』という長編小説を執筆
し、大正十二年の八月末には本ができあがった。ところが、書店に配布されるちょうど
その日に関東大震災が起こり、本は灰燼に帰してしまった。他に、二編の長編小説の原
稿を出版社に預けていたが、それもまた焼失してしまったのだった。
 輝子はそのとき子供を身ごもっていたが、十月に郷里の高岡で女児を出産し、十二月
に夫婦で神戸に戻って、養父母の家に同居している。しかし、育児をめぐって養父母と
対立し、谷口は神戸の三宮にあったヴァキューム・オイル会社に翻訳係として雇われ、
経済的な自立を実現し、養父母と別れて阪神沿線の住吉村に居を構える。そこで、彼の
根本的な思想である「実相論」を確立するにいたる宗教的な悟りを経験したのだ。
 谷口は、出勤前に近くにあった本住吉神社に参拝するのを日課にしていた。ある日彼
は、仏典の中の「色即是空」ということばを思い浮かべながら静座して合掌瞑目してい
た。すると、どこからともなく大波のような低く、威圧するような声が聞こえ、その声
は「物質はない!」というのだった。つづけて谷口が「空即是色」のことばを思い浮か
べると、また声が、「無より一切を生ず」といった答えを返してきた。こうして、谷口
の疑問は次々に解消されていった。
 彼は、この問答を通して、彼自身がそのコントロールに苦労してきた心が実在せず、
心の代わりに実相があり、その実相が神であることを悟る。谷口がそこに真理を見いだ
したと感じると、「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分を讃える声が聞こえ
てきたという。
 谷口は、自らの悟りを広く伝えるために雑誌の刊行を考える。そして、会社に勤務す
るかたわら旺盛な執筆活動を開始し、一燈園の『光』、倉田百三の『生活者』、それに
『新時代』といった雑誌に文章を発表する。昭和三年には、宗教について話し合うため
の「求道者の会」の結成を呼びかけ、自宅でも京阪神方面の賛同者を集めて会を開いた。
正治から雅春へと改名したのも、この頃であった。
692名無しさん@1周年:02/07/31 18:22
 谷口は新しい雑誌を創刊し、運動を進めていくには、資金も時間的余裕も欠けている
と考えていたが、例の声は彼に「今起て!」と呼びかけてきた。決して彼は無力ではな
く、力も与えてあるというのだ。そして、彼が「実相はそうでも、現象の自分は……」
と、戸惑いを見せると、彼の頭の中で、「現象は無い!無いものに引っかかるな。無い
ものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前は実相だ、釈迦だ、基督だ、無限だ、
無尽蔵だ!」という声が鳴り響いてきたという。
 谷口は、こうした自らの内なる声に促され、雑誌『生長の家』創刊号を刊行する。昭
和四年の大晦日に一千部の雑誌が刷り上がった。彼は、正月早々、「求道者の会」に賛
同した仲間を中心に、『生長の家』を無料で進呈していく。生長の家の運動の目的は、
「心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際
運動を行ふ」こととされ、ここに生長の家という新しい宗教運動が誕生したのだった。
 これぞ「バブル宗教」のルーツ
 生長の家の宗教運動としての特徴は、雑誌の出版を主体としているところにあった。
それは、谷口が中退したとはいえ、早稲田大学に学び、英語の思想書を読む力を身に
つけ、文才に恵まれていたからこそ可能な方法だった。それ以前の天理教や大本教の
場合、教祖は無学な女性であり、彼女たちは神がかりの状態の中で神のことばを書き
記した。谷口の入信した大本教の場合には、霊学を学んだ開祖の女婿である出口王仁
三郎が、なおのお筆先を漢字に改め、教義の体系化を進めることによって、教養のある
人間を信者にしていったが、限界があることは明らかだった。
 谷口は、その教養を生かして、仏教やキリスト教の思想を自らの教えの中に取り込み、
彼が世界の本来のあり方としてとらえた実相の世界を説いていった。実相の世界は、す
べてが調和した完全円満の神の世界とされ、現象の世界に生きる人間の「念のレンズ」
が歪み、その結果、神の世界と人間の世界とに不一致が生じているのだと解説された。
谷口は、「汝ら天地一切のものと和解せよ」と説き、迷いという念のレンズの曇りがな
くなれば、地上にも神の世界が現れるとしたのだった。
693名無しさん@1周年:02/07/31 18:22
 念のレンズの曇りをとるための方法として開発されたのが、「神想観」であった。そ
れは、神との一体感を深めるために、合掌正座して行う生長の家独特の祈りであったが、
その方法自体は決して難しいものではなかった。そして、雑誌の『生長の家』は、「雑
誌の形をした聖書」であるとされ、雑誌を講読する誌友の間では「神誌」と呼ばれるよ
うになるが、その神誌を読んで、谷口の説く実相の世界について学ぶための組織として
各地に支部が作られていった。
 ただし、神誌と呼ばれたのは、その内容面によるだけではなかった。『生長の家』の
雑誌を読んだだけで病気が直ったという手紙が多数谷口のもとへ寄せられたのである。
谷口は、こうした反響に対して、すべての病いは心の影、つまりは想念の曇りによるも
ので、病気は本来実在するものではないと説いた。『生長の家』を読み、病いは本来な
いものという実相を知ったなら病気は消しとんでしまう。本を読めば必ず病気が直ると
まで言われるようになり、雑誌の誌上にも、本を読んで病気が直ったという誌友からの
手紙が載せられるようになっていく。
 こうして、生長の家は半面では現世利益的な側面を強調するようになっていくが、そ
れはあくまで実相という本質に気づいたことの証しとしてとらえられていた。他の宗教
とはちがって、特殊な祈祷などを行うことがなかったために、この時代の生長の家は哲
学的でインテリ向きの宗教という印象が強かった。
 昭和八年には、生長の家の芸術運動を推進するために、『生長の家』の姉妹誌として、
『生命の藝術』誌が創刊された。この雑誌には、山根八春、伊東種、片岡環、そして松
本竣介といった画家や彫刻家が加わっていた。
 一九三〇年代から四〇年代に活躍して、四八年に三十六歳の若さで亡くなった知性派
の画家・松本竣介については、最近宇佐美承による評伝(『求道の画家 松本竣介』中
公新書)が刊行されたが、松本は父や兄の勧めもあって、熱心な生長の家の信者になり、
兄とともに『生命の藝術』の編集に携わった。モダンな都会の絵が得意だった松本と、
従来の土着的な宗教を脱したインテリ向きの生長の家とはたしかに相性はよかった。松
本は、『生長の家』の表紙の絵も描いている。
694名無しさん@1周年:02/07/31 18:23
 しかし、三年ほど信者を続けた松本は、生長の家を離れる。彼は、生長の家を通して
結ばれた妻の禎子に対して、「谷口先生は神様になって遠くへいってしまわれた」と語
っていた。彼の父も、谷口の言行不一致に怒りをあらわにしていたが、松本は谷口に別
離の手紙を書く。松本親子が反発を感じたのは、生長の家が哲学を説く思想団体から次
第に現世利益を強調する宗教団体へ変質していこうとしていたからである。
 昭和九年の夏、谷口夫妻は神戸から東京に移り、自分たちの運動を「人類光明化運動」
と名付け、その主体となる組織として「株式会社光明思想普及会」を結成していた。そ
して、最初の事業として、昭和十年一月から『生長の家』の合本である聖典『生命の実
相』全集普及版全十巻の刊行を開始する。
 『生命の実相』は、光明思想普及会の支部を通して希望者に配布するシステムがとら
れたが、その宣伝広告が全国の主要新聞に全三段あるいは全五段ぬきで、毎月数回にわ
たって掲載された。書籍の紹介だけではなく、谷口の教えや病気治癒の事例までが載せ
られていた。この奇抜で大胆な宣伝活動には、十七万二千円という巨費が投じられたが、
そのかいあって『生命の実相』の第一巻だけで五万三千部も頒布されたという。
 当然、これだけの宣伝を行えば、社会から注目を集めるだけではなく、批判も覚悟し
なければならない。ジャーナリストの大宅壮一は、その年の十月に「『生長の家』を解
剖する」という批判記事を『日本評論』に寄稿している。大宅は、『生命の実相』を読
みさえすれば、万病が直り、すべての危険が避けられ、就職は絶対確実で、貧乏が向こ
うから逃げていくというほど素晴らしい誇大広告がかつて新聞紙上に現れたことがあっ
ただろうかと皮肉り、生長の家の出版物に載せられた「面白そうな話」や「愉快な例」
をあげている。
695名無しさん@1周年:02/07/31 18:23
 太田某は、顔を剃ると必ずカミソリで一箇所は傷を作っていたが、生長の家に入って
からちっとも顔を切らなくなった。
 五十嵐某は、隣の工場から出火し、折悪しく風下だったが、「自分は生長の家だから
火事に焼けるなどということはない」といって悠々としていると、途端に風向きが変わ
って風上になった。
 家ダニに困っている家で、神想観をして立ち去るように命じたが、去らない。そこで、
「家タニだって住む所が必要なのだ」と反省して、家中の畳をはいで六畳一室に積み重
ね、「この室をあなた方のすみ家に提供しますから、これからどうぞこの部屋から出な
いで下さい」と言って、また神想観をすると、それ以来家ダニは絶対に人間を刺さなく
なり六畳の部屋に列を作って生活している。
 松本父子が、谷口に愛想をつかした気持ちもわかる。大宅は、生長の家の根本思想は、
素朴で原子的な唯心論にあり、「病いは気から」という俗説を盲滅法に普遍化し、それ
を神秘化して宗教に仕立てあげ、徹底した商品化をめざしていると分析する。そして、
宗教の専門家が谷口の教えは出鱈目だと批評しても、生長の家の「お得意先」は宗教の
アマチュアであり、正確な知識はかえって商売の邪魔になると鋭い指摘を行っていたの
だった。
 新聞を使っての大宣伝や大宅の批評に接した読者は、かの幸福の科学を連想するであ
ろうが、その主宰者である大川隆法の父親はかつて生長の家の信者であった。実際、幸
福の科学では、谷口の霊が降って語ったとされる霊言集を何冊か刊行している。「バブ
ル宗教」のルーツは、生長の家にあったのである。
696名無しさん@1周年:02/07/31 18:24
 ヤオハンあっての「生長の家」
 谷口が、大本教に入信し、西田天香に教えをこい、そして神の声に押されるようにし
て『生長の家』の雑誌を発刊するようになるまでは、彼自身が悩みを抱え、そこから抜
け出る道を模索していた。彼は仏典や聖書をひもとき、さらにはアメリカに生まれた新
しい宗教運動であるクリスチャン・サイエンスやニュー・ソートの流れをくむ思想を学
ぶこともあった。その時代の谷口は、哲学的に自己の人間としてのあり方を深く極めよ
うとしており、その苦闘が文章にも現れていた。
 しかし、雑誌『生長の家』が刊行され、大宣伝の効果もあって、多くの読者を獲得し
ていくと、谷口の姿勢も変化していく。彼は、各地の誌友たちの間をまわって、誌友会
や講演会を開いていったが、そういった場に集まってきた人間が望んでいたのは、難解
な哲学ではなく、現実の社会でよりよく生きるための具体的な方法であり、彼もそうい
った読者の期待に答えなければならなかったからである。
 たとえば谷口は、経済の問題についても、マルクスの唯物史観に対抗する思想として
唯心史観を強調した。神は、富を無尽蔵に生み出す「無限供給者」としてとらえられ、
近代の経済組織は万一の時を恐れて節約にはげむ人間の恐怖心にもとづくもので、その
ために富が一部の人間に蓄積され、十分に流通しなくなったのだと説いた。その恐怖心
さえなくせば、神によって十分な財が与えられるというのである。
 今日でさえ、消費の動向に、消費者の側の心理的要因が働いているという分析がなさ
れている以上、谷口の唯心史観にも見るべきものはある。確かに、十分な財が保証され
ているのであれば、富に執着し、それをためこんでおく必要もない。しかし、神が富を
無尽蔵に生み出していくという保証はない。無限供給者としての神の存在を科学的に証
明することはできず、それはあくまで信仰の次元にとどまっている。谷口の提唱する唯
心史観は、信じることによってしか成立しない思想だったのである。
697名無しさん@1周年:02/07/31 18:25
 しかし、神の世界を、すべてが満ち足りた理想世界としてとらえ、そこに到達するた
めには心の持ち方さえ変えればいいという教えは、その前提や有効性を証明できないに
しても、広く大衆の心をとらえる可能性を持っていた。だからこそ、「万病が直り、す
べての危険が避けられ、就職は絶対確実で、貧乏が向こうから逃げていく」という宣伝
文句に魅かれて、『生長の家』の読者は急増したのである。こうして、松本父子の思い
に反して、生長の家は、「大衆宗教」としての道を歩み始める。講演会につめかけてき
た大衆を前にして自らの思想を語った谷口は、一人の求道者から宗教団体の教祖へと変
貌していたのだ。
 生長の家では、『生長の家』の創刊号の発行日として奥付に記された三月一日を「立
教の記念日」としているが、その創立五十周年を期して『生長の家五十年史』という八
百頁を越える教団史を刊行している。その前半の部分では、谷口の心の揺れが詳しく語
られ、その点で教団の外の人間の興味を魅くのだが、光明思想普及会が結成されてから
は、松本が評したように、「谷口先生は神様になって遠くへいってしまわれた」ようで、
彼の内面的な苦悩は語られなくなり、その分退屈なものになっていく。
 谷口は、自らの思想を「唯心実相論」と呼び、そこに高邁な哲学が表現されていると
考えていたが、大衆が受け入れたのは、大宅壮一が言うように、素朴で原始的な唯心論
でしかなかった。本気で家ダニに神想観を試みるには、理性はむしろ邪魔だった。しか
し、素朴で原始的な唯心論は、他の宗教団体においても説かれており、生長の家が独自
性を打ち出すためには、別種の主張を展開する必要があった。特に、その教えの根本に
ある「実相」に具体性を与え、それを信仰の対象へと考えていかなければならなかった。
谷口の悟りの中で、「実相は神である」とされたが、その神を目に見えるものとして、
大衆に示さなければならなかったのである。
698名無しさん@1周年:02/07/31 18:27
 昭和十五年、宗教団体法が施行され、生長の家が宗教結社として認められると、谷口
は天皇信仰を強く打ち出す。「すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦
牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発す
る如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太
陽を知らざる徒なり」と、すべての宗教を天皇への信仰によって統合しようとした。哲
学的な概念としての実相は、天皇という実体を与えられたのである。
 谷口は、早くから万教帰一を説いてきたが、戦争への道を進んでいた当時の日本の社
会において、神道をすべての宗教を超越した国家の祭祀とする国家神道の体制が確立さ
れていく中で、すべての宗教が帰一する先を天皇へと求めることは、時代の流れにそう
ものであった。谷口は、天皇信仰を核にすえることによって、生長の家の存在意義を社
会に向けて強くアピールしようと試みたのである。
 大東亜戦争が勃発すると、谷口はそれが「聖戦」であることを主張し、中国軍を撃滅
するために「念波」を送ることを呼びかけた。さらには、米英との和解を断固退け、
「国体の本義」の内容が手ぬるいとして、文部大臣を誌上で叱ったりもした。しかし、
あまりに過激な天皇信仰の主張は、体制側に好まれなかった。しかも、戦時体制のもと
で、印刷用紙が不足したことが、雑誌を核にして運動を展開してきた生長の家にとって
は決定的な痛手となった。昭和十九年には、雑誌も単行本もいっさい発行できなくなっ
てしまったのである。
699名無しさん@1周年:02/07/31 18:28
その意味では、終戦は、雑誌の復刊を可能にし、雑誌を通しての活動を再開させるこ
とができたという点で、生長の家にとっては好ましいことだった。谷口は、「日本は決
して負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」といい、国体が滅びたので
はないことを強調する一方で、生長の家の教えの中に「本来戦い無し」のことばがある
ことを根拠に、生長の家が平和主義を説いていたことを主張した。しかし、昭和二十年
十一月に日本の復興をめざして社会事業団を設立し、天皇制の護持を唱えて全国精神主
義連盟を結成したものの、谷口が戦時中の言論活動が超国家主義であったとして公職追
放されたため、事業や運動は思うようには進まなかった。

700名無しさん@1周年:02/07/31 18:29
 しかし、国際情勢の変化は、生長の家に新たな活躍の機会を与える。東西の冷戦によ
って、日本の国内でも、六〇年安保などをめぐって、保守と革新、右翼と左翼の対立が
激化すると、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張は、社
会的に影響力を持つようになった。生長の家は、明治憲法復元、紀元節復活、日の丸擁
護、優生保護法改正などの主張を展開し、保守的な階層に食い込んでいった。戦前に教
育を受け、戦後の民主主義の社会に違和感を持つ人間にとって、生長の家の主張は自分
たちの考えを代弁するものとして受け入れられた。戦後の生長の家は、百万人を超える
大教団へと成長していく。だが、時代はさらに変転する。谷口は、昭和六十年に亡くな
り、彼が崇拝の対象とした昭和天皇も亡くなった。また、ベルリンの壁やソ連の崩壊に
よって、谷口が戦後において戦い続けた共産主義の脅威も過去のものとなっていった。
そういった事態の変化は、生長の家に大きな打撃を与えた。天皇信仰や反左翼の政治運
動が衰退すれば、生長の家の存在意義も薄れていかざるをえない。昨年、二代目の総裁・
谷口清超の長男である雅宣が、一般青年向けの雑誌『理想世界』で、大東亜戦争を侵略
と認め、聖戦論を否定する見解を発表して、教団の中で議論が巻き起こった。生長の家
の教団自体が、天皇主義の右翼的な教団という旧来のイメージから脱皮しようとしてい
るのだ。
 ヤオハンが話題にならなければ、最近、生長の家が注目されることはほとんどない。
ヤオハンにしても、物事を前向きに考える光明思想を個人の生きる支えや社員の勤労意
欲を高めるために利用しているだけで、ヤオハンが拡大しても、生長の家の信仰の拡大
に結びつくわけではない。
 生長の家の本部は、原宿の駅のすぐ近くにある。本部の建物の入口の上には、生前の
谷口をほうふつとさせる聖者の像が飾られている。しかし、原宿を訪れる若者たちに、
生長の家の教えは時代遅れのものとしか感じられない。むしろ、その超楽観主義の教え
は、ヤオハンがマーケットの拡大をめざしている中国を中心とした、アジアの人々にと
って必要なのかもしれない。彼らはまだ無限供給者としての神を求めているからである。
701名無しさん@1周年:02/07/31 18:31
 「著者と出版社」山崎安雄著 学風書院 昭和29年6月5日発行
  谷口雅春という教祖
 丹波綾部の皇道大本(俗称大本教)に走った。夫人(江守輝子女史)とはここで
相知り結婚した。文筆の才能が認められて、本山で発行される「綾部新聞」や
「神霊会」の編集をやり「皇道霊学講話」という本を書いて、大本教の霊学に体系を
あたえた。その頃自ら「大本教のフランシスだ」と称して一枚の着物だけしかもたず、
一本の縄の帯をしめて生活していた。不敬事件で数百名の警官隊に襲われたのもその
頃で、漸く未決監から保釈で帰った教主出口王仁三郎が「霊界物語」の口述をすると
いうので祥雲閣に招かれた。
 「出口氏の口述は、名文ではなかつたが、何の原稿もなしに、幻想でも見ながらそ
れを伝えるように、スラスラと淀みなく出てくるのであつた」と谷口氏は回想して
いる。
 しかし谷口氏は、出口氏の「霊界物語」に出て来る人物は現実にモデルがあるので
あって、それが何某命という作中人物になって、霊界でこんな行為をしたという風に
脚色してあるので霊感によらないという事を発見して信仰を失った。その頃が谷口氏
の思想的彷徨時代である。その間、西田天香の「懺悔の生活」に心ひかれ、一燈園に
はいって托鉢をしたこともある。谷口氏があき足りなくなって大本教を脱退したとき、
大本教弾劾の運動をされては困ると思ったのか、王仁三郎氏は「霊界物語」の中で、
谷口氏のことを鰐口邪冬という名で表現し、氏が一燈園を訪問したことを「一等厭」
を訪問したといい、鰐口邪冬が地獄へ落されて地獄の鬼と哲学的問答をしていると
いったことを書いている。
702名無しさん@1周年:02/07/31 18:33
日本評論(昭和十二年一月)
「生長の家」盛衰記 笠木耕二
  一、
 無数にちかい新興類似宗教の中で、もっとも頭角をあらわして世の注目を惹いた
「皇道大本教」が不逞不遜のかどで哀れ壊滅の悲運に遭い、つづいて「教育勅語」や
人倫道徳を売り物にした「ひとのみち」教祖が皮肉にも自らの桃色事件で検挙されて
も、今様穏田の生神様谷口雅春だけは未だに無難でいるばかりか、このごろは鳥なき
里の蝙蝠のようにいよいよ図に乗ってノホホンをきめ込んでいるかに見える。加うる
に家付の大番頭を以って自任する前陸軍主計総監辻村楠造は「生長の家の出現は釈迦
キリストの再来だ、否寧ろそれ以上の出現であると思う。釈迦キリスト老子乃至孔子
は世界の大聖人と称せられてその発見されたところも真理であるけれども、爾来二千
余年乃至二千五百年余を経て実続のみるべきものなく、却って堕降に堕降を続けて今
日のごとき大勢を馴致している。その際谷口先生の現われたるは真に救済の主たるを
思う。」
 と熱狂的賛辞を並べ、無我愛運動の伊藤証信(後に谷口とケンカ別れした)また、
「爾来私は『生命の実相』及び『生長の家』を読みつづけて居りますが、読めば読む
ほど共鳴共感を強くし、且教えられ、啓発されるところ頗る多く(中略)筆者谷口氏
の魂は現に神仏の霊を以って満たされているかのごとく感ぜざるを得ない」
 と生神様谷口のために大変な提灯の持ちようである。だが果して「生長の家」及び
谷口雅春は彼等のいう如き内容を具えたものであろうか。
703名無しさん@1周年:02/07/31 18:34
  二、
 生神様谷口雅春が早大英文科をやめて出口王仁三郎の皇道大本に入教した頃―とい
えば例の心霊科学でお馴染の浅野和三郎や、這般の大本事件で注目された津野田清彦、
深松霊洋等が同教の中堅として大いに羽振りをきかしていたときだが、ここで谷口は
先ず現在の愛妻輝子と意気投合、(その月下氷人が前記浅野にも劣らぬ関西心霊界の
大物今井楳軒だ)次いで出口式山師気質、鎮魂帰神、浅野式心霊科学等を余すところ
なく習得して持ち前の大天狗を大いに磨くところあったが、間もなく西田天香の一燈
園へ、更に全然畑違いのバキューム、オイル、カンパニーの一翻訳係へと三転。ここ
で彼は「生長の家」の基礎工事に密かに取りかかる事とはなったのである。今日生長
の家の「神典」として会員仲間に随喜愛読されるところの月刊雑誌「生長の家」はこ
の時初めて創刊されたものだが、この一石は見事的中して第一号発行早々にこの雑誌
のために身の危険を免れた、不治の大患が全快した等と称する狂信者が続々と現われ、
彼は頗る得意であった。第一巻発行早々このほほえましい反響である。この調子なら
ば予ねて用意の神想観(大本の鎮魂帰神と浅野の心霊等をごっちゃにしたようなイン
チキ極るもの)を売出す時期いよいよ到れりとその詳細を発表して見るとこれ又意外
な反響。これですっかり自信を得た彼は決然バキューム、オイル、カンパニーを退社
し、神戸住吉の寓居に陣取って公然治療神想観の店を張ることになったのである。時
に昭和八年。
 だがもともと方外な野望に燃える彼谷口である。彼にして見れば、この旗挙げは単
にその一大野望達成への一段階でしかない。大芝居は東京で―そう密かに考えている
矢先、東京のファンから上京せよの手紙だ。公然と店を開いて僅か一年後の昭和九年
夏のことである。斯くて大急ぎに荷仕度を整えた彼はその夏も末の蒸し暑い或日前記
の辻村楠造はじめ後に光明思想普及会設立と同時にその幹部に納った立仙淳之、松本
恒子(元松本慶大教授未亡人)佐藤勝身、服部仁郎等々のファンに迎えられて堂々帝
都に乗り込んで来たのである。
704名無しさん@1周年:02/07/31 18:35
  三、
 これからいよいよ大芝居が始まる。即ち生神様谷口雅春を迎えられた東京のファン
達は、自分等の俗欲と、生神様谷口の野望に依って翌昭和十年の七月一日徹頭徹尾営
利を目的とする光明思想普及会なる十五万円の出版株式会社を赤坂檜町五番地に創立
した。このことが一度び東西の新聞紙上に広告せられ、その第一着手として「生命の
実相」全十二巻(谷口が神戸の会社員時代から「生長の家」誌上に発表したものを集
めたもの)の刊行開始せられると、その反響は非常なもので、殊にこの方面に無関心
で居れない既成宗教の諸君の神経は異常にとがらざるを得なかった。恰も宗教復興直
後のことではあり、それは実に当然であったと思われる。
 そうこうするうち、光明思想普及会は単に書物を売るのが目的でなく、実は一つの
新らしい宗教を樹立するのが目的だと喧しく噂されるに至った。これには流石の谷口
も弱った。それは元々この世評のごとく、彼谷口の魂胆がそこに在ったからで、その
ことは株式会社光明思想普及会定款第一章第二条に「当会社は左の商行為を為すを目
的とす、谷口雅春先生著述の『生長の家』光明思想普及書類を具体化せる諸物品の製
作販売、光明思想普及道場の経営並びに之に附帯する事業」
 と明記しているのに依っても明らかである。つまり谷口及び会社関係者の考えでは
当分の間純然たる営利専門の一商事会社としてデビューしその間に本来の目的たる宗
教団体としての目鼻をつけてゆこうという到底普通の人間の考え及ばない大山的計略
をたててかかったのだが、デビュー数ヶ月にして早くもその裏を見すかされ、ハタと
当惑せざるを得なくなったのである。谷口が今日なお不認可のためにいたく焦心し、
苦慮を重ねている「財団法人生長の家教化団」の設立は実はこの疑惑を契機として着
手されるに至ったものだが、このことは谷口が神戸時代から願ってやまなかっただけ
に実に真剣で、爾来彼の心はこの教化団の方へ、換言すれば「生長の家教祖谷口雅春
大神」という野望実現への表情が漸く露骨化するに至ったのである。
705名無しさん@1周年:02/07/31 18:35
 その間、「生長の家」の誌友は自動車に轢かれたが微傷だもしなかった、「生命の
実相」一冊読んだためにこれこれの難病が直ちに治った等の新聞公告を大胆にも次か
ら次へ発表したために遂にその筋に誇大公告並に医療術行為妨害のかどでお目玉を食
い、その犠牲として当時の社長佐藤勝身は前後数日に亙って原宿署に拘留せられたが、
何ぞ知らんそのインチキ極まる新聞広告文の殆んど全部が彼谷口の考案に成るものだ
ったのである。犠牲者佐藤勝身こそいいツラの皮だ。
  四、
 話は前に戻る。前記のごとく二十五万円の会社が創立され、着々既定の出版企業が
進められるには至ったものの、その設立趣意書に於て「第一円の四分の一払込以外に
は絶対に払込ませない」と明示した関係上、公称は二十五万円でも、実際はその四分
の六万円しか動かせないのである。忽ちこの金は例の誇大公告費に使い果して数月を
出でずして増資を図らねばならない破目に陥って仕舞った。尤も右の趣意書さえ何と
かすれば十五万円の残金約十万円を払込ましめて事業を継続することはさして困難で
はなかったのだが、そこが山気百パの彼等のことだ。今度は右十五万円の外に更に大
枚百万円を加えて、合計百十五万円という膨大な公称株式に再編成して図々しくもま
すます世人瞞着の奥の手に拍車をかけるにいたったのである。かくてその払込全額三
十一万円(前の六万余円もこの中に含む)のうち約十五万円が昭和十年の七月から同
年暮にかけて全国の新聞公告面に躍ったわけで、この間こそ実に「生長の家」の全盛
であったと同時に生神様谷口雅春にとりて最も得意だった時代である。けだし、その
間の新聞広告費がざっと十五万円、その売上書籍部数約十六万外に約三万の「生長の
家」誌友が出来たというから当時の盛況推して知るべしである。
 その間に、現在「生長の家」「光明思想普及会」の本部となっている旧山脇女学校
舎を十四万円で買収した。現金十万円を即座に渡し、四万円を抵当としたのである。
即ち合計三十一万円の払込金のうち十五万円を新聞広告費に、十万円を前記校舎買収
費に(四万円は抵当としたので現金支出は十万円)残りの六万余円を営業資金その他
にあてたことになる。
706名無しさん@1周年:02/07/31 18:36
 さて、家族の割に方外な大家屋を買込んだ生長の家主人谷口雅春は、これをそのま
ま遊ばせて置くのは勿体ないことだというので、昭和十年の暮頃から、ここで一般の
女学校に擬した生長の家学園をはじめ生長の家花嫁学校(別名を生長の家家庭寮と称
す)生長の家看護婦会等の設立をもくろんだ。結局女学校と看護婦会は不認可の為モ
ノにならず、わずかに家庭寮だけが普通の寮として無認可のまま辛ろうじて開かれる
こととなったのだが、これが後日「生長の家」御家騒動の端緒になろうとは、生神様
谷口雅春大神にも予測できなかったと見える。
 昭和十年暮に、まがりなりにも家庭寮をモノにした谷口はその最初の寮長に、会社
創立前後を通じて最も功労の多かった立仙淳三(当時常務取締役)を以ってしたがこ
れは立仙も大乗気であった。所がその安堵もつかの間、出しゃばりで親爺雅春を尻に
敷き通しの恋女房輝子の介在で谷口と立仙の間にあるべからざる見苦しい確執が早く
も醸し出され、就任日ならずして立仙は決然谷口及び生長の家と決別を余儀なく?さ
れて仕舞ったのである。恰も誇大な新聞広告と巧妙なからくりとが深まりつつあった
頃―つまり彼谷口が世の疑惑にあわてて「財団法人生長の家教化団」の設立に躍気と
なっていた頃だ。
   五、
 谷口、立仙の確執事件は立仙の退去に依って一段落を告げた。之で内部は谷口の所
謂大調和無限供給、無限創造、百事如意の教え通り順調に運ぶどころか、事実は之と
全く相違し、この立仙事件以後の「生長の家」には社員相互の反目、社員と重役の確
執、青年社員の改革運動等々、忌むべき事件が絶えず繰り返されて調和を欠くこと甚
しく、又経済的には無限供給どころか前記の払込金も程なく費い果して社員の給料す
ら満足に払えないという始末。加うるに肝腎の谷口は創造味を失い、殆んど魅力なく、
茲に百事全く不如意という憂うべき事態が現出するに至ったのである。外部に在って
あの大胆不敵な新聞公告のみを見ている人々には到底想像だも及ばぬことだったのだ。
707名無しさん@1周年:02/07/31 18:38
 このことが最も露骨に見え出したのは昭和十一年の春からで、この事態を憂慮した
会社の某重役はかつて谷口は二柱の守護神がついていると途方もない鑑定を下した神
戸の今井楳軒の下に急使を派して再び守護神の有無を鑑定せしめたものである。これ
に対し楳軒大人徐ろに鑑定して曰く。
「谷口には一時二柱の守護神の外に六柱、都合八柱の神々が守護し給うていたが、今
日では既に一柱の守護神も見受けられない。今や神人は彼谷口の邪心と浅間しい野望
に愛想をつかしたのだ」
 かかる鑑定など凡そ馬鹿々々しくて一笑にすら値しないことはいうまでもないが、
兎に角件の使者が神戸から帰京したころには本部員支部員等の大部分は全く谷口を信
頼せず恰もこの鑑定を裏書きするかの如き実情に立ち至っていたのである。ただその
中に在って依然彼谷口に絶対的信頼を寄せ、飽迄超人的な存在として崇敬惜く能わな
かったのは前記陸軍主計総監辻村楠造閣下だが、彼がこのように谷口を妄信する迄に
は次のごとき物語りが織込まれている。谷口の最も得意時代といえば昭和十年の夏か
ら秋にかけてであるが、その頃谷口は大阪の某講習会に臨みその折り一枚の写真を撮
った。この写真を見たのが辻村閣下の抑もゝゝの病みつきで、即ちこの写真では谷口
の背後にぼんやりと守護神らしい何物かの影が残っている、これは心霊患者のトリッ
クを多少でも理解するならば、これが如何なるものであるか、即ち彼の念写と称する
トリック以外の何物でもない事を容易に看破できるのだが、悲しい哉、彼にはその眼
がない。その辻村にして見れば、谷口は正しく守護神に守られた超人的偉大なる実在
に相違ないのであって、彼が或日生長の家の集いに於いて「キリスト教の内村鑑三先
生が昇天される一年前に近く関西から必ずキリストが再臨せられる、といわれたが、
そのキリストこそ誰あろう我が谷口先生であります」
 と真顔でやってのけた如き、実に当然である。しかし如何に辻村閣下が躍気となっ
て谷口雅春を生神様に祭りあげようとしても、結局メッキはメッキでしかないのであ
る。
708名無しさん@1周年:02/07/31 18:38
   六、
 話は変るが本誌読者の中には、赤坂檜町生長の家本部の告知板に時折り「生長の家
指導講習会」「生長の家誌友講習会」と太々に書かれているのを見受けた人があると
思う。この講習会というが頗る野心的なもので、表面の理由は経費捻出の為というの
だが(無限供給とは全く反対の窮状ではむろんそれも大きい理由の一つに相違ない)
もう一つの理由は「財団法人生長の家教化団」の設立認可の夢が実現した暁を夢想し
ての準備工作の外にないのである。即ち谷口は若しそのときが到来したら、この予ね
て用意の一夜漬の教師を直ちに動員して堂々教線の拡張を図ろうという腹なのである。
尤も単に経費捻出の為にのみ行う事業として見ても、之位ボロイ商売は無いのであっ
て、一回の講習期間平均一週間、会費一人十円と見積って毎回百人から二百人はある
というから、その都度千円乃至二千余円の大金が難なく転げ込んでくるわけである。
さてここで何を教えるかというに僅か一週間の間に生長の家聖典、古事記、書記、バ
イブル、仏典の抜粋、それに例の神想観の指導等を盛沢山に教授するのである。以っ
てそれが如何にインチキ極るものであるか容易に想像せられると思う。
 右講習会と同じく経費捻出の目的で案出せられたものに「生長の家」発明品販売部
というのがある。これは例の神想観によって啓示された種々の発明品をドンドン製作
してここで大々的に売り出そうという企てだが、これが又我々常人には到底考えられ
ない奇想天外の事で、大妄想もここまで徹すれば寧ろ愛嬌である。程なく光明髪洗液、
光明石鹸、光明ネクタイ、光明塵取りといった生神様の息のかかった発明品としては
僅か不似合な二、三の品が売り出されたが、その悉くが外部からの持ち込みで、神想
観に依って得た発明品は一つもなかったのである。しかもそれを神想観が得た発明品
だと偽称して堂々発売したのだから、大した心臓だ。これではいっそ光明雑巾、光明
ハタキ、光明酒、実相米、如意腰巻、創造サルマタ等々凡そ人事日常の必需品一切を
生長の家本部で引受けたらどうだと心ある社員諸君からひやかされるに至ったのも当
然である。
709名無しさん@1周年:02/07/31 18:38
 その間内部の醜争はつのる一方、その醜争の原因は要するに百事不如意であり、大
不調和であり、出せば必ず流れ入る筈の黄白が徒らに出るのみで無限創造、無限成長
もクソも無かったからで、その経済の一端は昭和十一年五月三十日附けで発表した
「光明青年同志会解散声明書」に於て露骨に示されている。「先に我々決意を同じゆ
うせる者十八名相寄って結成した光明青年同志会は、遂に茲に解散を断行しこの声明
書を発表しなければならぬ破目に立至った。(中略)即ち我々が先の公開状に於て又
趣意書に於て宣明した所の意図及び次で発表した実行草案としての「株式会社光明思
想普及会改革草案」に於て示した行動が今や完全に水泡に帰したことを確認しないわ
けにはゆかなかったからである。この確認については諸種の条件を挙げ得るが今はそ
れを公表する場合でない。只誤解を解くために一言いって置くが我々の意図や改革案
が所謂重役達に依って黙殺され、そのために泣き寝入りして引込むのではないことだ。
(中略)改革については我々は只一人になっても為し得る壓力と政策とを持っていた。
この壓力と政策の前には重役等の我執的偽瞞的なる活動など問題とするに足らぬが、
併しもはや客観的事態はカタストロフィに向かって邁進している改革自体が完全に無
用になったのだ(下略)」
 彼等がこの改革運動に失敗した最大の理由は清都(谷口の義兄)はじめ各重役らに
依って放たれている幾多のスパイのためにかき乱された結果で、これあるがために、
この前後に幾度か起された改革的団体行動は一つとして成功したためしがないのであ
る。が、団体行動失敗の裏面に今一つ理由がある。それは元々この社員及び重役の大
部分は世の落伍者つまり表向きは治病、神想観等に随喜して参集せる者の如くである
がその実は大抵被失業救済者で、そのため彼等は今一歩という、きわどいところに到
ると何れも身の危険におびえて主義も信念も節操も捨てて仕舞う腰抜けばかりだから
である。いい換えれば自己の身を守るためには団体への義理立てなんかどうだってよ
いといった連中の寄合だからである。これを要するにこの頃すでにそれ程全面的に腐
敗し醜化していたのだ。
710名無しさん@1周年:02/07/31 18:39
 すでに事態斯くの如き有様であってみれば、百十五万円の会社を手形として新聞公
告だけは相変らず威勢よく続けているとしてもかかる状態がいつまでもつづいてよい
筈がない。おまけに会社の重役としてこの間まで名を連ねていた湖松茂は例の鹿島組
の鉄道疑獄で、同小塚公平は理財協会の背任横領で共に市ヶ谷の別荘住いだ。如何に
神様でもこれでは焦心し、狼狽せないでは居れない。思い余った彼谷口は「生長の家」
十二号(昭和十一年十二月一日発行)に於て遂に悲鳴をあげ、その打開策について次
のごとく述ぶるに至った。「(前略)合計不足金六万円を本部の土地建物を抵当とし
て某土地建物会社より年八分で借金している。月当りこの利息に私は四百円を支払っ
ている。(中略)前述したような事情であの土地建物は不足金六万円のために抵当に
置かれてあるので、この借金を脱いで了はなければ公共財団の基本資産として届出る
訳に行かないのである。そこで私は決心したのです。何んと決心したかというと働こ
うと決心したのである。無論私は原稿に講演に今迄も働いている。併し更に私は筆耕
してその六万円を稼ぎ出して抵当を脱ぎ(中略)筆耕というのは誌友諸君に私をして
掛軸又は横額用の文字を揮毫させて頂くことである。蘇峰会で徳富蘇峰氏は一枚百円
で氏の揮毫百枚を忽ち売り尽したという。徳富蘇峰の書が一枚百円ならば私の書は後
世もっともっと価値ある物となろうと思う。誌代断続の臨時誌友は別として現在の誌
代完納継続の三万有余(現在はその半分程度に減じている筈―筆者注)の熱心なる誌
友のうち十人毎に一人、即ち三千人が私の揮毫を買って下さるとすれば、この六万円
の借金を支払うには私の揮毫を一枚二十円で買って下されば丁度足りると思う。この
値段は揮毫そのものの値段ではなく、六万円の抵当をぬくために必要な金額を仮に付
けたのであるから人数がもっと不足する場合もあるだろうからもっと多額で買って下
さる人はそうお願いしたい。(下略)」
711名無しさん@1周年:02/07/31 18:39
 読者諸君はこの一文に依って、表面あのように華かに見せている生長の家が、実は
如何に窮迫し、呻吟しているかを知るだろう。この今様穏田の生神様谷口雅春なる人
物が、彼の出口王仁三郎や御木徳市にも劣らぬ途方もない御仁であるということをも。
 更にこの一文が発表される以前、即ち昭和十一年十一月十二日の「生長の家」記念
日(谷口の誕生日)には、「自分の生れたのは月が没せんとし、太陽が正に登らんと
する瞬間であった云々」と自分自ら乃公の神人説を高調しているが、これと同様のこ
とはそのかみ発表した「智慧の言葉」に於いても「自分のいうことに従わぬ者は滅び
る」臆面もなく大言壮語している。共に誇大妄想狂か、パラノイア患者か、不敬不遜
の徒かでなければ吐けない言だ。
   七、
 「生長の家」内状、谷口雅春の思想及び人物は大要以上述べたごときものである。
最近彼は「生命の実相」七十四頁に於て述べた。
「生長の家は病気を治す目的を以て出現した」
との前言を翻えして
「生長の家は病気を治すが主でなく、心を治すのが主だ、しかも心が治ると病気は自
然に治る」
 と彼一流の巧みなカムフラージュをきめ込んでいるが、この三段論法、結局結果に
於て何等変るところがないのである。けだしこの頃の新聞はこのようなインチキ極る
「生長の家」の公告を営業本位の立場からか殆んど絶え間なく掲げるのである。ここ
まで来れば新聞の功罪もも早や問う必要がない。(完)
712名無しさん@1周年:02/07/31 18:41
《求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年》(中公新書) 
宇佐美承著 中央公論社一九九二年発行
 恋に破れ、靉光のもとへ通うようになって三年たった一九三六年(昭和十一年)、竣介
は二十三歳で新たな恋を実らせた。相手は東京山の手の大学教授の娘で松本禎子といい、
半年年下だった。仲をとりもったのは「生長の家」で、それは竣介を思う身内の心情と関
係あってのことだった。
 父佐藤勝身はもともと、霊と肉のはざまで自分を苛む人だった。少年のころ、教会に出
入りしてまもなく洗礼を受けたのに、おこりくる肉欲のために聖書のことばが守りきれず、
受洗者名簿から名前を消してもらった。その後は信仰を捨てたことで以前にもまして苦し
みつづけ、結婚してふたりの男の子に恵まれてからやっと救われた。
 勝身にとって子は宝だったから、長男の彬が大病をわずらったときも心配でいたたまれ
ず、聖書を読みかえしてみた。それでもキリスト教の信仰にもどれずにいたところへ、竣
介が生死のはざまをさ迷いはじめたのだから、藁にもすがる思いで日蓮宗の行者に救いを
求め、わが子が命をとりとめたときは奇跡をみたと思った。
 それからというものは竣介の聴力の回復と幸福だけをねがい、団扇太鼓を叩きつづけて
とうとう破ってしまうほどの熱心な信者になったばかりか、奥義を極めようとして経典に
読みふけり、高僧を訪ねて教えを請うた。しかし、法華経の教義はむずかしくて歯がたた
ず、またも悩んでいたとき生長の家の信者の癌が治ったときき、雑誌『生長の家』を読ん
でみたところ、たちどころに法華経と聖書が同時に理解できた思いがした。生長の家はあ
らゆる宗教を超越すると宣言し、神を生命だとしていた。勝身はさっそくその団体の支部
を盛岡につくり、創始者谷口雅春を神戸の郊外から招いた。
713名無しさん@1周年
 それは竣介が故郷を出てからしばらくしてのことで、この団体はまだ揺籃期にあったが、
その後みるみるうちに発展していき、竣介上京五年後の一九三四年には本拠を東京に移し
て正式に教団を名のり、普及のための出版会社「光明思想普及会」をつくった。勝身は経
営する銀行が別の銀行に吸収されたのを機にその会社の常務取締役に就任して故郷をあと
にし、谷口との共著『法華経解譯』を出版したりもした。すべてはわが子の幸せを願って
のことで、心の彷徨の末にここにたどりついたのだった。
 弟思いの彬も、勝身に勧められて熱心な信者になった。彬にはハツカダイコンのあだ名
があって、上京してしばらくは少し左翼だったけれど、唯物論がいまひとつしっくりこず、
これを越えた何かを求めていたところ雑誌『生長の家』を読んでたちまち共鳴した。やが
て谷口にあって講師団の一員になり、谷口から芸術雑誌『生命の藝術』を発刊する話をも
ちだされると、これは弟にもってこいの仕事だと思ってひきうけ、竣介を誘った。
 竣介は理を通す青年だったから、なかなかうんといわなかった。以前に父の勧めで『日
蓮上人傳』を読んだときも「日蓮は釈迦一仏に還れといって法華経を説いたのに、一派を
おこしたのはおかしい」といっていた。こんど勧められるままに谷口の著書を読んだとき
も「ぼくは宮澤賢治がすきだ。宗教はきらいだ」といっていた。それなのに、三年かかり
はしたが結局はそこの雑誌の編集を担当することになったのだから、内に何かの変化がお
こったのだ。
 あのころマルクス主義は先端の思想だったから、それに従わなかった以上、つぎに別の
ものを求めねばならぬとさぞかし思ったことだろう。そんなときに谷口の「事物の本質は、
目に見えぬ生命の流れ」という、マルクス主義と正反対のことばを突きつけられ、三年間
拒否しつづけたあげく、やっとそこに心の拠りどころをみつけた。自分は理の勝った男だ
と知っていたうえで、その理を通すマルクス主義に失望し、改めて自分をみつめなおした
のだった。