◆マリヤ崇敬(敬拝)を認めた反証 1◆
@マリヤ崇敬は神としてではなく、御子イエズスの母への敬い行為です。
_________●ニケア第七全地公会議 聖像について●
A悪霊と交わるのではなく、神へは聖霊の中で礼拝します。
_________●『聖霊論』一八・44−47 聖バシレイオス●
B信仰義認と崇敬(敬拝)の違いは、
救い(罪の赦しには洗礼を受け告解をし聖餐にあずかる)と隣人愛(霊的母への尊敬)の違いです。
C父なる神への新しい契約の仲介者・中保者(十字架による旧約の破棄と原罪の赦し)と、
御子イエズスへの聖人の執り成しの中保(御旨を行ったかの最後の審判に関わる罪の赦し)は別です。
D主イエズスが、霊は神、肉は人と見るのは、ドケティズム異端解釈です。
霊肉と二分するならば、主イエズスの「たましい」は、神性か人性のドレに属しますか?
肉でも神に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記1・28)
「聖霊の宮」(Tコリント6・19)
悪魔は霊体のままに罪を犯す(ヨハネ8・44)
人の三分性「霊、たましい、からだ」(Tテサロニケ5・23)
_________●現代日本におけるキリスト教の異端(ニューライフ出版社)
__________森山諭 著 2.ドケティズム●
神性によって御父とホモウシオスであり、 人間性によって我々とホモウシオスである。
実に、二つのフユシスの合一(ヘノーシス)が実現されたのである。
この混合なしの合一という理解に即して、
我々は聖なる処女を「神の母:テオトコス」と宣言〔信仰告白〕する。
神の(言=ロゴス)が肉となり、人間となったのであり、
受胎の瞬間から、彼女〔処女〕から取った神殿をご自分と合一されたからである。
_________●エフェソス公会議からカルケドン公会議(433−435)合同信条●
◆マリヤ崇敬(敬拝)を認めた反証 2◆
E崇敬対象としてマリヤの霊的母としての根拠。
これはあなたの母です。(ヨハネ19:27)
子との一致を十字架に至るまで保たれ。(ヨハネ19:25)
御子の昇天後は聖霊降臨の時まで使徒達と共に祈っていた。(使徒行伝1:14)
_________●カトリック要理p100 51の質疑応答●
また、天に大きなしるしが現われた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、
頭には十二の星の冠をかぶっていた。(黙示録12・1)
_________●rosario 聖書で祈るロザリオ 栄えの奥義●
F聖書と聖伝とが神の啓示であることは前述のとおりですが、
教会はこの二つを「真理の柱、真理の基礎」(テモフェイ前書3・15)と呼ぶ。
聖伝の本質が、前に述べたように、宗教的な言い伝えや生きた記憶である以上、
聖教父の著述や全地公会の規定や奉神礼(機密サクラメント:ミステリオン)は
聖書に属するものとして扱われています。
このようなことから、教会は最も重要なものとして聖書に第一の権威を与えています。
そして次に全地公会の諸規定と聖教父の著書、奉神礼となっています。
_________●正教要理p8、p19●
>俺氏は聖書のみが信仰基準と言いましたが、聖書を他の偽典から区別したのは教会の伝承です。
教会の伝承とは、
ヒッポ会議,393。カルタゴ会議,397。コンスタンティノープル会議,692。の討議内容でしょう。
αマリヤ崇敬は確実に間違っているω
236 名前:ろんぎぬす 投稿日:2001/12/27(木) 22:20
ニケア第七全地公会議決定 (七百八十三年乃至七百八十七年)より、聖像について
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いわば王道を進み、
神の霊感に導かれた教父たちの教えと公なる教会の伝承に従って
(われわれは、 この伝承が教会に内在する聖霊による者であることを知っている)、
細心の注意と綿密さをもって、次のことを決定する。
すなわち、 生命を与える尊敬すべき十字架の像と全く同じように、
尊敬すべき聖画像を飾らなければならない。
彩色画やモザイクおよび、その他の適当な材料によって作られた聖画像を、
神の聖なる教会内、聖なる器物や衣服、 壁または額、
家の中や道路脇にも飾らなければならない。
すなわち、 われわれの主であり神である救い主イエス・キリスト、
聖にしてけがれなき神の母(テオトコス・生神女)、
聖なる天使たち、すべての聖人たちの聖画像を飾るのである。
これらの聖画像を見れば見るほど、
それだけ画像によって表現されている人物を思い出し、
彼らの模範に従おうと努め、
彼らに栄誉と崇敬とをささげるようになる。
これは神だけにささげる真の礼拝ではなく、
生命を与える十字架の像、聖福音書、
聖遺物に対する場合と同じように、
昔からの習慣に従って、 これらの聖像に香や灯明をささげて尊敬するのである。
なぜなら聖画像に対する尊敬によって、
その原型になっている対象に至るからである。
聖画像を尊敬する者は、それを通して、 それによって表現されている人物を尊敬しているからである。
αマリヤ崇敬は確実に間違っているω
280 名前:ろんぎぬす 投稿日:2002/01/08(火) 00:46
参考:
20エフェソス公会議からカルケドン公会議(433−435)
【 合同信条 】
(神の母=テオトコス)なる(処女=童貞)に関して、
また独り子なる神の御子の(受肉=籍身)の方法に関して、
我々は次のように考え、かつ主張する。・・・・・・
この方は、その神性によって、
代々に先立ちって御父から生まれたが、・・・・・・
その人間性によって、処女マリアから〔生まれた〕のである。
この方は、神性によって御父と(同一本体の者=ホモウシオス)であり、
人間性によって我々と(同一本体の者=ホモウシオス)である。
実に、二つの(本性=フユシス)の
(合一=ヘノーシス)が実現されたのである。
それ故、唯一の(キリスト=メシア)、唯一の御子、唯一の主を
我々は宣言〔信仰告白〕する。
この混合なしの合一という理解に即して、
我々は聖なる処女を「神の母:テオトコス」と宣言〔信仰告白〕する。
神の(言=ロゴス)が肉となり、人間となったのであり、
受胎の瞬間から、彼女〔処女〕から取った神殿を
ご自分と合一されたからである。・・・・・・
神にふさわしい〔諸発言〕をキリストの神性に帰し、
低次元の〔諸発言〕をその人間性に帰しているのを我々は知っている。
→原典古代キリスト教思想史2ギリシア教父
(小高毅編:教文館)p403−404
αマリヤ崇敬は確実に間違っているω
281 名前:ろんぎぬす 投稿日:2002/01/08(火) 00:48
参考:
8バシレイオス=聖ワシリー(330年頃)
【 父と子と聖霊 】
御霊は、真理を観ようとする人に、霊自身の中で、観る力を与える。
外から示すのではなくご自身の中で、知に導いて。
「父を知る者は子のほかにはない」(マタ一一・27)ように、
「聖霊の中でなければ、だれもイエスは主であると言うことができない」
(Tコリ一二・3)からである。
聖霊”によって”でなく、聖霊”の中で”と言われている。
「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまことの中で礼拝すべきである」
(ヨハ四・24)と、またこう書かれている、
「われらはあなたの光の中で光を見る」(詩三六・9)、すなわち
「世にきて、すべての人を照らすまことの光」(ヨハ一・9)
であるところの御霊の照明の中でと。
このように、ご自身の中で独り子の栄光をお示しになり、
またご自身の中で、まことの礼拝者に神の知をお与えになる。
そこで、神認識の道は、
一なる御霊から、一なる子を通して、一なる父へである。
また逆に、本性的善性と本性としての成聖および王たるの価は、
父から、独り子を通して、御霊に至る。
こうして〔三つの〕位格(実在[ヒュポスタシス])を告白し、
しかも一つのはじめ[モナルキア=神理解]
の敬虔の説教を歪めることはないのである。・・・・・・
(『聖霊論』一八・44−47〔山村敬訳〕)
→原典古代キリスト教思想史2ギリシア教父
(小高毅編:教文館)p132
>>76 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ救われるのであり、
>>77 救い(罪の赦しには洗礼を受け告解をし聖餐にあずかる)と隣人愛(霊的母への尊敬)の違いです。
>>21 >>26
ヨハネ6:53 イエスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、
あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、
わたしも彼のうちにとどまります。
ルカ22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
コリントT10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
10:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。
それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。
供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
コリントT11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、
主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、
その飲み食いが自分をさばくことになります。
テモテT 3: 5
――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
3: 6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。
高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
3: 7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。
そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
3: 8 執事もまたこういう人でなければなりません。
謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、
3: 9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。
3:10 まず審査を受けさせなさい。
そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。
3:11 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
3:12 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。
3:13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、
また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。
3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。
3:15 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、
神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。
神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、
諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
執事=輔祭(正教会)・助祭(公教会)。