351 :
ろんぎぬす:
352 :
ヘロデ・デムパダス:02/05/06 22:51
353 :
パクノビッチ:02/05/06 22:53
α〓〓〓マリヤ像を捨てなさい!〓〓〓ω
>522 :マリア :02/05/03 10:16
>
>>518初代教会には、使徒たちはみんなそうだけど
>今で言うところの霊能者が多くてね、そこから発生した理論なのよ。
イエスの名による祈祷は、大能シモンのような異教の言う「霊能」とは違うが?
>キリスト・イエズスの仲介というのとは、全く違うものね。
イエスの名による祈祷は、イエスの仲介を意味するが?むろん聖霊が致すのだが。
>初代教会の中では、信徒間の交わりが死後も永遠に続くと考えていたの。
>まぁ、確かに聖書にはそんな文面は全く無いと思うけど、
正典・テサロニケTの携挙からすれば、
私審判で死んだ「信徒は眠る」り再臨後に公審判だが?
信徒間の交わりは公審判後しかあり得らないはずだが?
ウェストミンスター信仰告白でも正教要理でも死後「眠る」と同じ答えだが。
ただ正教は聖人や義人は死後(私審判後)に祈りを取り次ぐとある。
カトリック要理は聖人は天国、信者は私審判後に煉獄、世の終わりに甦り公審判。
>そこには、霊的に使徒伝承をしておけば、
>枯れるはずが無いという前提があったのね。
世に聖霊がいるのだから、枯れようハズがないが?
>福音記者マルコの後継者のコプト教会なんて、
>今でもそんな感じらしいわ・・・。
それは可笑しい。
『教会史』では「マルコがエヴァンゲリオン(福音)を伝えるのに、
エジプト(コプト)に遣わされた最初の者であり、・・・アレキサンドリアに・・・
信者になった者は・・・哲学的で厳格そのものだったので、・・・
フィロンは、振る舞いや集会、共同の食事・・・など書いておいた方がよいと考えた。」
ほど、霊的ではなかった。
354 :
パクノビッチ:02/05/06 22:54
α〓〓〓マリヤ像を捨てなさい!〓〓〓ω
>544 : ◆rs2OUULQ :02/05/05 09:45
>
>>522 >という事は、ふと思ったのですが、トマス福音書に於けるマリハム(マグダラの)
>の伝承に何かヒントがあるでしょうか?
ヒントなどない。「霊能」と無関係だ。霊に成るのと、霊を遣って致すのは違う。
トマス福音書
114 シモン・ペテロが彼らに言った。”マリハムはわたしたちのもとから去った方
がよい。女たちは命に値しないからである”。イエスは言われた。”見よ、私
は彼女を天国へ導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あ
なたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女
らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから”
61 イエスは言われた。”ふたりがひとつの寝台で休むであろう。ひとりが死に、
他のひとりは生きるであろう。”サロメが言った。”あなたさまはどなたです
か、そして、あなたはどなたの子ですか。あなたはわたしの寝台でお休みにな
り、わたしの食卓からお食べになりました”。イエスは彼女に言われた。”わ
たしは同じである者から出た者である。わたしにはわたしの父のものから与え
られている”。”わたしはあなたの弟子です”。”それゆえに、わたしはあな
たに言うのである。人は結び合わされるとき、光で満ちるであろう。分かたれ
るとき、闇で満ちるであろう”。
355 :
パクノビッチ:02/05/06 22:56
α〓〓〓マリヤ像を捨てなさい!〓〓〓ω
>662 :マリア :02/05/05 23:45
>
>>544うーん、その件についてはコメントが難しいわね。
>正統論にも、そのようなものがあったからね・・・。
ない。
サロメの光と闇の「結び合わせ」説話など正統教義でない。これこそグノーシス二元論だ。
>分岐前のものと思っておいたほうが良いかも・・・。
ヨハネの光と闇の解釈と考える軸が違っている。
光は人との「結び合わせ」でなく、光はロゴスであって世は「理解しなかった」と言う軸がある。
光との結合でなく、真の命が人間の中(うち)にある。聖霊の中で礼拝する。と、
既に分化されていた。
>その話しを、グノーシスが自己正当化に用いたということでしょう。
ソウとは言えない。ヘレニズム・グノーシス思想は、
キリスト教とは別個に存在していた学派もあった(エジプト・ヘルメス文書)。
>聖書の話しは、正典にも、正当化のための
>そういう要素もあると考えた方がいいのよね。
グノーシス概念でキリスト教の三位一体の神を説明する論理を与えたのは、
プロティノスの父なる神に見立てる一者(ト・ヘン)や各人にそなわる霊知(ヌース)。
356 :
パクノビッチ:02/05/06 22:59
α〓〓〓マリヤ像を捨てなさい!〓〓〓ω
>662 :マリア :02/05/05 23:45
>当然、初代教会には、グノーシス的要素も
>要素もかなり含んでいたといったほうが良いでしょうね。
なかった。
ユダヤ人キリスト教徒(ペテロ・ヤコブ)は、
ギリシア人キリスト教徒のヨハネの、光やロゴスや水より、
(ヤコブ)律法や審判や(ユダ)火の滅び、(ペテロ)癒しの奇跡、
(ギリシア人だがルカは)聖霊は火。と言う、
ユダヤ人はシルシを求める方に求心力があった。
>グノーシスの後の主張に見られるように、
>イエズスの父なる神とユダヤの主なる神を、
>別のものと認識する事態までに発展していったのは、周知のことだもの。
300年代の三位一体論の発展前に、
既に100年代にマルキオンによって別のものになっていた。
父なる神は愛がある善神、ユダヤの神は呪いを下す悪神。という善悪二元論になった。
そのマルキオンは、パウロとルカだけの聖書を教会に先駆けて作った。
ギリシア人キリスト教徒の異端化した一派は、ユダヤ排除の思想に凝り固まっていたのだ。