594 :
名無しさん@1周年:02/07/11 23:12
>589
真宗の基準でゾクチェンを見るのはやめて。
>>590 傲慢な話じゃないです。小乗って言ってるのは,自分だけ悟るって意味で。
自分だけじゃなく衆生に広めたい,みんなを後から押したいっていう大乗僧の衝動なもんで。
>>591 現世利益は否定してます。少なくとも私の派では。
>594
どッから見たって,ゾクチェンはゾクチェンでしょうが。本物なら。
596 :
「ヴィパッサナー」って?:02/07/12 22:17
597 :
「ヴィパッサナー」って?:02/07/12 22:21
スイマセン2重カキコになってしまいました↑
nnさん。
一言でいうと、あなたの論には帰依の心と出離の心が足りないんだな。
ゾクチェンがブッダの境地を可能にするなら、それを自己流にアレンジしたら、別なものに至ってしまう(笑)。それに恐れを抱かないのを、傲慢と言ってるんだ。
そんなものを無責任に勧めることを、大乗とは言わない。それが大乗なら、地下鉄に毒ガス撒いて救済と称した連中も、大乗になる。
空性の悟りなくして、真に利他はできないというのが、仏教の教え。
自己流の道を他人に勧めるのは、最低限、それで自分が悟ってからにしなさい。それが社会的責任というものだ。
仏教僧を名のるなら、ちゃんと仏教を学んでからにしなさい。
仏教を信じない学者が「親鸞は自力を否定して、万人の救いを説いた」と主張するのは勝手だが、自力を否定するとお釈迦様を否定することになるのだよ?親鸞上人の教えのどこにそんな言葉があるのか、「真宗聖典」を隅から隅までよく読んでから発言しなさい。
他力の教えもゾクチェンも、仏教の知識を必ずしも必要とはしないが、他人に教えを説く場合は別。
>>595 本物なら、真宗に結びつけないと思うけど。
自力と他力は完全な二元論ではないですか?
ゾクチェンに最も近い日本仏教は本覚だと思う、
それもマハームドラー的で、ゾクチェンには至ってないかも?
そして真宗は最も遠い方ではないか?
なにより、真宗という自分のエゴによく知らないゾクチェンをあてはめるあり方が、
サマヤを犯していると思うのですが?
まあ、私は単なる知識でしかなく、リクパにあるわけではないので逆にサマヤ違犯かもしれませんが?
護法尊が、あなたも私もその他の方々も許してくださることを願います。
スレ治外にもかかわらず,異常な真宗理解をしつこく説く方がこのスレにおられて困惑しています。
>>599さんのほうが少しは的をえています。しかし,ゾクチェンは境地でしょう。
ゾクチェンも真宗も,エゴを構築するのではなく,解消ができなければ話にならないはずですよね。
ありもしないエゴを,あると思い込んでいてもいいのでしょうか?
601 :
名無しさん@1周年 :02/07/13 15:05
そもそもチベット仏教(特にゾクチェンとかマハームドラー)に惹かれる奴って
神秘体験コンプレックスが強い。頭が悪いってこと。
クンダリーニヨガの達人を何人も知ってるけど、肝心なところは全然わかってねーよ
死者の書だって、ウソも多いしね。
602 :
名無しさん@1周年:02/07/13 18:16
エゴの有無は自分自身で気づくしかないでしょう。
もっと情報交換の場として割り切ったほうが
いいのでは?(^_^;)
エゴがなければ、覚者ではないですか?
604 :
名無しさん@1周年:02/07/13 22:16
>>601 はて、パーニニやダルシャナ、プラマーナに通じてることが頭いいってことですか?
頭よくても菩提心がないと何の意味もないと思うのですが?
カルマ・リンパのバルド・トゥードルの嘘って何でしょうか?
605 :
名無しさん@1周年:02/07/13 22:28
>カルマ・リンパのバルド・トゥードルの嘘って何でしょうか?
バルドーを実際に体験したのなら、嘘、本当も語ってよろしい。
そうでないのなら…
>600
「真宗とゾクチェンの結合が必要」とか、前行は善人になることで真宗とは違うとか、わけのわからないことを言い出したのは、僕ではなかったように思うが。
まあ、エゴがない境地の方(第二の最終解脱者?)に何を申し上げても無駄なので、これ以上nnさんを相手にすることはやめます。
解脱者かなどと! 投影が強いなと思ったので,かわしただけですよ。
エゴ゙の境界を超えるには,仏教に限らずトランスパーソナル心理学などが使えます。私は
ヤントラヨーガなどを切望してもありつけなかったもので,図書館で読めるもので代用して
きました。A・ローウェン読んで,個別の問題の解決を図るといいです。ミンデルとかも,
もっと読みたい。バーバラ・ブレナンでトゥンモなどが少し経験できました。副次的です
が,知恵のある人には是非読んでほしいです。そっちへ行ってしまって,ゾクチェン軽蔑
する人がいてもいいと思います。私は気が多くて,両方好きです。エニアグラムなどで,
自分が行くべき方向を知るのも解脱の助力になりますよ。606さんなどは,エニアグラム
でいうタイプ5かと思います。知の偏重が悟りの妨げになるタイプですね。
成道前の釈尊と同じです。
608 :
名無しさん@1周年:02/07/14 12:24
>601
批判はもっと具体的に、明確な文章でお願いします。
>肝心なところは全然わかってねーよ
>死者の書だって、ウソも多いしね。
この部分、より正確な説明希望。長くなってもよろし。
>>607 そゆう本からいろいろ取ってきて自分の城を構築するのは無駄かと?
自分の本当の障害は大抵、自分では気がつかないもので、
それを本来の境地から適切に指摘してくださるのが先生じゃないでしょうか。
そうゆう先生なしにゾクチェンを学ぶのは無理だとノルブ・リンポチェも、
おっしゃっていると思います。また、そのようないわゆるニューエイジ的な
ありかたも単なる文化の衣装のようなこと言ってませんでしたか?
せっかく教えに興味をもたれても、ニューエイジ的なありかたでは残念だと
思い発言してみましたが、それが好きなのでしたら、どうぞご自由に。
>>609 ノルブ・リンポチェとはイーシン・ノルブリンポチェだろうか?
ナムカイ・ノルブリンポチェの本には,直接の関係を持つのが
理想だけれど,何より必要なのは本人のこころがまえだとある。
ゾクチェンは世界のすべての土台。愛玩動物がもぐり込む為の
ケージではない。映る映像が気に入らないからと,スクリーン
を切りつめていないか。自分の快,不快が,対象の持つ属性と
見えてしまうようでは帰依に程遠い。どのような現象の中でも,
育てられるのがゾクチェンの境地だ。ゾクチェンを怖れや執着
の種にしてはいけない。
>>610 帰依の心がまえの重要性も含めて他の部分は、たしかにノルブ・リンポチェの言葉だと思います。
ですが、nn さんの上の記述は、伝授を受けるのが理想だが、
心がまえがあれば伝授は必要ないとノルブ・リンポチェの教えを
理解しているようですが、どこに書かれているのでしょうか?
もしそうであれば「伝授は必要ない」というのは勝手な読込で全くの誤読だと断言できます。
「伝授は必要ない」と全く逆の以下のようにナムカイ・ノルブ・リンポチェその人によって書かれています。
伝授は必要ないというような記述や発言はまったく聞いたことがありません。
「伝授こそが、ゾクチェンにおいて、心の本性への扉を開く、導き入れの生命である」
『虹と水晶』p.35
この本自体がチャンチュプ・ドルジェ、アユ・カンドロ等の先生からの伝授がどれほど重要か、
数々のエピソードを交えて具体的に書かれていいます。伝授は必然的なのです。
『ゾクチェンの教え』でも、伝授の重要性について一章が割かれています。
また、編集にあたったジョン・シェーンは、はっきりとこのように。
>本による知識は、けっして真の精神の導師から伝授を受けることにとってかわることはできない。
>このことを、読者ははっきり覚えておいて欲しい。[『虹と水晶』p.7]
最後にゾクチェンの根本的教えであるガラップ・ドルジェの三つの遺言の
第一が、ほかならぬ師からの伝授を意味することを付け加えておきます。
>>611は,ありもしない否定で自分を縛っている。それでは,伝授を受けられないから知識から先へは進めないという口実を作るだけだ。
縮れ,凝り固まり,凍結した心を,ゾクチェンへの憧れで解体しなければならない。
ゾクチェンの原則は,修行者の認識をたよりにすることだ。[『虹と水晶』p.122]
なにもかも,師に指摘されなければと思っていてはいけない。
師にそそぎこまれたとしても,受けきれない自分の貧しさを自覚し,補うのだ。
過去ログになっているかと思ったら、この盛況ぶり。感激!!
>>612 永沢哲訳のノルブ・リンポチェの著作をよく読んでいるのは、よく分かります。
言葉をあちこちから拾ってきてつなぎ、そこに自分の誤解をちょっと挿入しているからです。
>ありもしない否定で自分を縛っている。
>それでは,伝授を受けられないから知識から先へは進めないという口実を作るだけだ。
>縮れ,凝り固まり,凍結した心を,ゾクチェンへの憧れで解体しなければならない。
だから伝授を受ければいいではないですか、と私は言っているのです。
ノルブ・リンポチェは世界中で伝授を行ってますよ。
それを受けないで、変な見解を構築するのは、単なるあなたの障害ではないですか?
>ゾクチェンの原則は,修行者の認識をたよりにすることだ。[『虹と水晶』p.122]
その数行先に、「彼(ガラップ・ドルジェ)によれば、最初になすべきことは、
ラマが直接的な導き入れをおこなうことなのである」これは既に書いたように伝授を意味しています。
師なしに煩悩に汚れた認識のまま変な見解を構築すると言う意味ではまったくありません。
>>612 >なにもかも,師に指摘されなければと思っていてはいけない。
これは世俗的な行動の全てを師に指摘されなければならないのではないという意味で、
師に指摘されるべきは、本質的障害、自分で気がつかない煩悩などを意味でしょう。
例えば「仕事は何をすべきか?」とか「家を建てるべきか?」とかを師に聞くなということです。
>師にそそぎこまれたとしても,受けきれない自分の貧しさを自覚し,補うのだ。
これは伝授を受けても、何も結果がでないのを師のせいにするなという意味でしょう。
補うとは、加行等の諸障害を取り除く修行をしなさいという意味です。
これがp.122に繋がります。p.122では加行等は必ずしも必要ないと書かれています。
まず、伝授を受け、そこでリクパの境地を体験できなければ、師のせいにせず、
加行等の準備的な修行をしなさいという意味です。たいていの人は加行が必要なのです。
高名なトゥルクなども大抵、三四回なさっているそうです。
これ以上、無駄だと思うのでこれにて終わりとさせていただきます。
残念なことだけれど,594は『虹と水晶』をよく読めていないのがわかる。
私のナマの言葉を,本の引用と誤解しているから。
本質的な問題から,理解してもらえていない。言いたくもないことを言えば,
世界中で伝授が行われているとしても,私の住む島に師が来ていただけるとは
思えず,そして今私に島から出て行く力はない。
617 :
594ではないよ:02/07/18 00:32
ノルブ・リンポチェは日本の地方でも数回教えられていて、伝授を受けた日本人は何百人もいるのだが・・・
話題を変えると、(我が道を行く堅い信念の方以外の)チベット仏教の実践に関心のある方にお勧めするのは、
・「ダライ・ラマ 智慧と慈悲」(春秋社。仏教の基本である四聖諦)
・ソギャル・リンポチェ「チベットの生と死の書」(講談社。仏教の死生観と現代社会への応用)
・「チベット仏教の神髄」(日中出版。四大宗派の高僧による、帰依から悟りまで)
などです。
「10階建てのビルを建てる時に、10階だけ作ることは不可能。1階ずつ積み重ねていくほかない」というのが、チベット仏教の師が口を揃えておっしゃることです。
基礎がしっかりしていれば、実際に教えを受ける機会を得た時、進み方が早いですし、変な誤解(高度な実践の場合、危険も)を避けることもできます。
しつこくって嫌ですが,もう一回書いときますね。
>>611 >本による知識は、けっして真の精神の導師から伝授を受けることにとってかわることはできない。{594}
自覚に至らなければ,どのような伝授も仏道になりえません。知的理解だけでは,宗教の経験はできていないのです。
そして,チベット仏教の真髄に位置するゾクチェンは,段階を積む必要がありません。
それぞれの能力に応じた最短コースを選び,足りない能力のみ補います。
だから,完成の境地にほど遠い自分の嫌味,逃避性や過剰防衛傾向など諸々を,よく自覚しておくことは何よりも優先すべき準備です。
階層制によりかかる安定志向が,チベットの独立を奪ったと私は見ます。
ゾクチェンの重視がチベットトの尊厳を回復し,世界情勢の調和をもたらすでしょう。
619 :
名無しさん@1周年:02/07/18 20:05
>>618 >ゾクチェンは,段階を積む必要がありません。
>それぞれの能力に応じた最短コースを選び,足りない能力のみ補います。
ちなみに、あなたのこの認識は
真の精神の導師から伝授を受けた結果としてのものですか?
それとも本による知識(本を読む事によって得た知識)ですか?
620 :
名無しさん@1周年:02/07/18 20:16
ゾクチェンなんかやるとウソツキ中沢みたいになっちゃうよ!
>620
本物のゾクチェンパって、一緒にいるだけでこちらも和やかな感じになり、しかもおっしゃることはごくごくまっとうな方なんですよ。
そういう方にであうと、ゾクチェンっていいものだなぁと思います(思ったからといって自分がすぐそうなれる、というものではないが)。
まぁ、完成にはほど遠い僕などは、すぐれた方々から教えを受け、学び、一歩一歩進んでいくほかないのですが。でもそのような境地の方が現にこの世に存在するのを目にすることができただけでも、大きな幸せでした。
中沢さんのことはよく知りません。
>>621 まったくそうおもいます。ノルブ・リンポチェもそのような方です。
しかも、そのような方々が結構たくさんいらっしゃるのは喜ばしい限りです。
ゾクチェンの諸師の蓮華の御足が、末永くこの地を歩まれますように!
>622
これはあくまでも個人的な考えですが、「10階だけ作ることはできない」ことと、ノルブ・リンポチェの指導法は矛盾していないと思うのですが?
教えを受けにきた人のカルマ(含、前世)は皆違い、「足りない分を補」えば、さら地の人は1階から、6階までできているなら7階から建築を再開することになるのですから。
もし、先に挙げた3冊の本の内容を理解していたら、麻原があのような事件をおこすことはなかったと確信していますし、あれらの内容を軽視する人は偽物で、信用すべきではないと思うのですが。
いかがでしょう?
わかりにくい文章ですみません。
補足すると、
もし仮に、ナムカイ・ノルブ・リンポチェから伝授を受けて、即座に心の本質を悟る人がいたとしたら、
その人は9階までできあがっていたのであり、ノルブ・リンポチェも含め、9階までの作業を無価値だとおっしゃることはないだろう、
と、僕は思っている、ということです。
>>619 はじめは本の重みだけを味わっていました。モノの重みでなく思想の充実感です。
ずっと枕もとに置いて(旅行にも持って行ったりして)読むうちに瞑想状態での,
ナムカイ・ノルブがカタカナでなく,空を充たす宝石のような密度の雲のような
実感になることがありました。でも,またもとの粗雑さの中にずり落ちてしまう。
こんな私のふがいなさは,構築する知識体系で何とかできるとも思えないのです。
人それぞれに足りないものは違う。じっくりと顕教を学んだり,密教を究める
人などそれはそれでいいですが,2次元の段階を上っていくイメージよりも,
被った霧をはらう力を足元から得なければという感じを私は持っています。
よほど力を得ねば,師に直接お目にかかる縁など持てはしないでしょう。
626 :
名無しさん@1周年:02/07/19 21:54
重さを感じるのは、軽さと比較するから。つまり、「すごーく軽くない」感じ。
軽いと感じるのは、重さと比較するから。つまり、「すごーく重くない」という感じ。
すべて実体・実態というモノはない。
〜じゃない、〜でもない、〜以外の何か、というものに名前を付けて実存を幻想している。
人間の知覚の原理はそれだ。
627 :
名無しさん@1周年:02/07/19 23:18
アポーハですね。
628 :
名無しさん@1周年:02/07/19 23:39
>中沢さんのことは良く知りません・・・っていっても
中沢氏の師匠との共著「虹の階梯」はゾクチェンの初歩の加行の
テキストだそうじゃないか、オウムが勝手に解釈して
おかしな修行をしていたらしいけれど、
ゾクチェンを志すものは目ぐらいとうしているだろうに・・・。
629 :
名無しさん@1周年:02/07/20 01:04
630 :
きちがい帽子屋 :02/07/20 01:45
>629
死んじまえ!
>628
そりゃ、聞いたことも見たこともないとはいわんが。
でも、中沢さんに弟子入りしたいなら別ですが、620さん(628さんとは別人?)がいうように、ゾクチェンを彼の人格とことさらむすびつけて考える必要はないと思います。
彼の人格へのゾクチェンの影響について論じるほど僕は彼のことを知ってはいませんし、中沢さんだって、自分がゾクチェンの最高の到達点にあると言ってるわけじゃないでしょう。
オウムの事件の時、彼は、
「修行の本をその環境が整わないまま出してしまったため、読者がオウムにはいってしまった」
というようなことを語っていましたが、
その点については、僕もたしかに彼に責任の一端があると思ってます。
もっとも、「虹の階梯」の内容をちゃんと読んでいれば、オウムに入ろうという気にはならないはずだとも思ってますが。
「勝手に解釈しておかしな修行」をしたことに問題があるのです。
>631
おかしくない修行なんてないだろ、じゃあ、正しい修行の定義を
言ってみろよ。能書きたれ。
633 :
名無しさん@1周年:02/07/20 04:59
>631
中沢氏については、教授でゾクチェンについてもそれなりに
修行した実践派であり、ニューアカデミズムの旗手といわれ
人気者だったのに、オウムについては「総括としてキチンと文章に
して出す」といったのに、その場かぎりのマスコミへのいいのがれ
で、あって出しておらず。
「地下鉄で、一万人の死者が出たら、オウムの評価も違っていたのにね」とかオウムの元信者にオウムを肯定するような発言を
したり、おかしなところがある。
主催するゾクチェン研究所もなくなったみたい、というより本気で
活動する気もなかったんでしょう。
ほんといいかげん
修行の価値があるのかどうか・・・。
634 :
名無しさん@1周年:02/07/20 05:09
こういう修行を志す人って、あんがいエゴが強く
自分のことしか考えないのが多い
慈悲の実践とか、大層な理屈をならべるけど口ばっつかで
一人で瞑想に没頭している
それでいて、顕教を馬鹿にしていて、地味なボランティアなども、それなりに評価するそぶりはみせるけど、悟りには
あまりやくにたたない(本とかには重要とか書いてあるが)
と思い、やはり、一人で修行してんだろ。
>>623-624 難しいですね。できのわるい私には分からないことばかりです。
そうですね。ただ言えるのは、何階までいってるのか分かりませんが、
伝授で跳躍する人は結構いますね。もちろん過去に資糧を積んできた方でしょう。
そうゆう方には随喜するばかりです。
>>634 たしかにそうゆう傾向はありますね。でも先生に直されていきますよ。
利他心、菩提心のない智慧は危険だと思います。
ですが、ボランティアが重要と書いてる本って知りませんが?
ボランティアって布施ハラミツとかのことですか?
>635
レスどうも。きっとそのような方は、師とのご縁が深かったのでしょうね。
>632・634
すぐ近所にサリンの被害にあった方がいます。
電車が混んでいて、子供をコートでくるむようにしていたため、お子さんは無事だったのですが、お母さんの方がサリンを吸ってしまい・・・。報復が怖く、賠償請求には名をつらねなかったそうです。
自分や家族が被害にあっていた可能性もあり、報道だけでなく元信者の手記にもずいぶん目を通しました。
強く感じたのは、オウム信者が634さんがいうような気持ちになっている、ということでした。
改めて読み直した「虹の階梯」の中でも、そういった修行は間違いであると指摘されていましたし、僕が教えを受けた師も、厳しく注意されました。
僕自身は未熟者ですが、修行をすればするほど634さんのいうような傾向が進むのが間違った修行、反対になるのが正しい修行で、間違いに陥らないためには師の導きが欠かせないと思っています。
どの修行が合っているかは、人によって違うでしょう。
瞑想だけで生きていられる人は少ないでしょう。現実の生活での選択が,もっとも重要な修行なのだと思います。人は,人との関わりによって真の境地へと向かう。自分より優れた存在によってしか上昇できないとの思いは,理不尽な暴力を招くかもしれません。
自分より苦しい存在,力のない相手に関わることによっても,成長の刺激は得られるものです。弱いものが必要とする力を共に求めることで,自分の偏りから自由になれる。閉じた境界を開く契機になります。
気付かぬうちに持ってしまうおごりや蔑みを打ち砕く力を,優れた存在に求めるよりも,他の存在への施しによってバランスをとるほうが全体の効率がいいでしょう。
崇拝感覚だけではかえって自分の成長を停滞させるかもしれません。覚醒の妨げは,暴力の被害者が更なる傷を恐れて頑なになることと,現状で得ているものを失いたくないという執着の2方向があります。
尊いものを尊ぶことで何かを育てられればいいのですが,権威への依存になってしまうと破壊を招くこころの停滞となります。
私は多くの苦に寄り添うことが自分を育てる力になると思い,微力な粗忽者ながらカウンセリングの窓口を開いております。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1462/ekoroji..html
639 :
名無しさん@1周年:02/07/23 18:56
ここでうだうだいってる連中は本当に『虹の階梯』を読んだことがあるのか?
チベット密教なんかにボランティアなんて発想があるわけねーだろ。
チベットの素晴らしい昔話を引用してやるからちゃんと読みやがれ。
三兄弟と呼ばれたラマとラマ・カムルンのお話。
三気容態の内の一人は、説法をし、いま一人は仏塔を建立し、
最後の一人は瞑想をしていた。
それを聞いたゲシェ・トンバはそれぞれを誉めた上で、
最後にラマ・カムルンが何をしているかを尋ねた。
(以上は前フリ部分の要約。以下は直接引用)。
「うん、それもまたよい。ところで、ラマ・カムルンはどうしているね」
「はい、先生は一人籠って、頭を抱えて、泣いてばかりいらっしゃいます」
これを聞いたトンバははっとして、胸に手をあわせ、大粒の涙を流しはじめた。
「それこ、そまことにすばらしいものだ。彼が修行しているものこそ、ダルマ
名に値するものだ。(中略)」
このときラマ・カムルンのおこなっていたのは、
輪廻にあって苦しむ生き物のありさまと、
それにたいする慈悲の瞑想にほかならない。
そのために、彼は頭をかかえて、泣いてばかりいるのだった。
『改稿 虹の階梯』pp.307-308
チベット密教だのゾクチェンだのやりたいんだったら、
ボランティアなんかやる必要ねーんだよ。
一人でシコシコ瞑想するなり、
ヒッキーになっておいおい泣いてりゃいーんだよ。
639さん,ご苦労様。
それは誰にでもできる修行ではないね。
誰にもその瞑想が必要なわけでもない。
ただ,639さんには必要な修行だと,こころの深い所で感じたからわざわざ書いたんだろう。
今生で出来るといいね。みっともない,バカバカしいと思ううちは猿とほとんど変わらない
エゴイストだから。
本気でゾクチェンを習おうと思っても、日本にいては無理なのか。
>641
日本にも10人くらいチベット人のお坊さん(若い方から高僧まで)がいらっしゃるので、まず、それらの方にお会いして、相談されてはいかがでしょう?
インターネットで、何人かの方の連絡先はわかると思います。
こうすれば、ゾクチェンができる、という決まった道は、日本にも外国にもないと思います。
ゾクチェンは知識でも瞑想のテクニックでもないので、理想的なのは、
市民プールに通っていて気が合ったおじさんと色々話すようになり、後で名前を聞いたらナムカイ・ノルブという人で、知らず知らずのうちにゾクチェンの見解が身についていた、
といった出会い方なのでしょうが、それはむつかしいだろうし。
参考までに僕が聞いたことを挙げておくと、
1 仏教を体系的に学ぶ本(617みてね)と修行者の伝記(日本ででてるものだと「遙かな知恵の頂」角川とか?)を読む。
2 語学の勉強(ゾクチェンの修行では1対1の問答がある)
3 機会があれば、宗派を問わず、高僧から教えを受けるといい
4 前行の修行をする
でした。いずれも日本でも可能と思います。そこから先はご縁でしょう・・・
日本ではノルブ・リンポチェの本=ゾクチェンというイメージがあるようなので、付け加えておくと、
・日本語訳がでてないだけで、ノルブリンポチェにも体系的な仏教の本があり、教えを受けた人には学ぶことすすめている
・世界各地にあるノルブリンポチェの団体でも、様々な高僧をお招きしている
・足りないものを補いなさいと言っているだけで、前行をする必要がないと言っているわけではない。ノルブリンポチェの団体の前行のテキストもある
です。
>>641 とても無理なのか,と思っていてはよくない。
1.ゾクチェンには,仏教の体系的知識は必要でない。知的理解のための近道ではあるとしても。
2.識字力も必要ではない。(殴られた瞬間にわかったりするらしい,素質によるのだろうけど)
3.真贋に,地位は関係ない。(そういう余計なものは捨てたくなるようなすごい充実感がある)
4.「ガラップ・ドルジェは最初に加行を教えろなどとは言っていない」(虹と水晶p121)
ゾクチェンの加行は,実行する本人の意図が不完全で誤った優越感を持つようなら無駄。伝授の準備にはならない。
何かやらなければ,という強迫感でたどり着ける世界ではなさそうです。
むしろ,衝動をほどききって静止できることが求められるのでは。
論理的にはパラドックスの認識。つまり,あらゆる狂気を超越する正気。難しいな,やっぱり。