幸福の科学現役会員スレッドPART13

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70名無しさん@1周年
「心の発見・現証編」のあやまち1

「心の発見・現証編」(高橋信次著・三宝出版)より

 昭和43年7月より、信次には「ワンツスリー
(以下123とする)」(実は十戒で有名なモーゼ)
という指導霊と、「フワイ・シン・フワイ・シン
フォー(以下フワイとする)」(実はイエス・
キリスト)という指導霊が、霊媒にした弟の体に
かかって現れ、悟達をせまるという事件が起こる。
 そして9月、信次の霊視の中で123のことを、
フワイはこう紹介する。(P90〜91)

「こちらの方は、BC百三十年ごろ、エジプトで
活躍されたモーゼという方です」(発言A)

 そしてフワイの方も「紀元前三ニ年にイスラエル
に生まれたイエス・キリスト」だという。(記述B)

 フワイは「おまえにイエスだのモーゼだのといえ
ば、聖書やユダヤ経や十戒を読みあさり、塵と埃
にまみれた現代版をそのまま暗記してしまうこと
を恐れたからだ」(発言C)と語る。

 それに対して、信次は「なるほど、私の性格なら
おそらく聖書や十戒をよみあさったことであろう」
(記述D)
71名無しさん@1周年 :02/03/12 21:57
「心の発見・現証編」のあやまち2

 さて、この信次の人生の大転換を決定づけた「123」
「フワイ」の両名の「事実性」を、発言・記述にした
がって確認しよう。

 まず発言A「BC百三十年ごろ」はあきらかにまち
がいである。現在の定説では「紀元前1250年ごろ」
である。「BC130年ごろ」は「ハスモン王朝時代」
であって、どう考えてもモーゼの時代ではない。
 ダビデ王・ソロモン王の時代から見ても、千年も新
しい時代にあたるのだ。「出エジプト」が起こるわけ
がない。
 ユダヤ人だったイエスともあろうものが、こんな基
本的なまちがいをするわけがない。ゆえに「フワイ」
はイエスを名乗る「ニセモノ」である。

 記述B「紀元前32年」もまちがい。現在は「紀元前
4年」ごろとされている。もっとも生まれの早い想定
でも「BC7年ごろ」であって「BC32年」ではあり
えない。前32年は、まだヘロデが王になってから5
年後ぐらいである。乳児のイエスが父母に抱かれてエジ
プトに逃れて、ヘロデがまもなく死んだという新約の
記述を正しいとすれば、明白な矛盾をきたす。ヘロデ
大王の死はBC4年と「ユダヤ戦記」などの記録に残
っている。
 このフワイの説明もまちがいだ。イエスならば、こ
んなミスをいおうはずがない。
72名無しさん@1周年 :02/03/12 21:58
「心の発見・現証編」のあやまち3

 発言C「聖書やユダヤ経や十戒」とはおかしな表現
である。なぜなら、「ユダヤ経」典とは「聖書」の事
であり、「十戒」とは「聖書」の中の「出エジプト記」
の中の記述をいうものであって文書の名ではない。
 つまり「聖書=ユダヤ経>出エジプト(十戒)」で
あって、これらはすべて「聖書」もしくは「旧約聖書」
という一語で説明できるものであって、あたかも別々
の文書のごとく表現されるものではない。
 フワイがイエスなら、本当はこういうべきだ。
「聖書、とくに出エジプト記など」と。このフワイが
イエスの霊であるなどとは、信じられない。
「ユダヤ経」を「タルムード」ではないかといわれる
向きもあろう。「タルムード」自体は日本では昭和
43年時点で、信次が読んで参考にできるような出版物
は皆無であったはずだから、それはありえない。

 記述Dでも「聖書」と「十戒」を別々のものと認識
している、信次自身の勘違いがある。この信次の勘違
いと、発言Cのフワイの勘違いの同一性はなんとした
ことだろう。フワイは、信次の指導霊のひとりであり、
信次とは別人格のはずなのに、なぜ信次の勘違いを訂正
せず、同じまちがいをくりかえすのか。それでも「指導
霊」であろうか?
73名無しさん@1周年 :02/03/12 21:58
「心の発見・現証編」のあやまち4

 イエスは聖書(旧約)に通じて、その全文を暗記して
いた「ラビ」であったし、当時のパリサイ人たちも同じ
く旧約聖書を全部暗記していた律法学者だったから、
彼らと激しくやりあって舌戦をくりひろげた彼が、いく
ら二千年後の日本語をあやつるからといって、この
ようなまちがいをするはずがない。

 上記のAからDまでの「あやまり」は、すべて基本的
な「信次のかんちがい」に依拠していて、「フワイ=
イエス・キリスト」と証明する根拠とはなりえない。
 この「フワイ」はにせものであり、本当のイエスでは
ないし、それを信じてしまった信次は大きなミスを犯した。
 もっっと悪くいうなら「すべてがでっちあげ」「過剰
脚色」「やらせ」の可能性すらある。
74名無しさん@1周年 :02/03/12 21:58
「心の発見・現証編」のあやまち5

P194「(霊媒や自分にかかったりした霊は)威張りくさることは絶対にない
ということを知るべきだ。優しい安らぎのある言葉で、絶対に如来だ菩薩だ、
いわんや○○の神だなどとはいわないものである」(記述E)
P196「宗教指導者が、神だの仏だのとみずから名乗ったときは、すでに正道
をはずれているのである。(記述F)

 上記2件とも、それ自体は正しいことをいっている。
 ところが、この基準にしたがうと、次のような矛盾が生じる。

1:まず、信次自身が「釈迦つまり仏の生まれ変わり=仏」と主張した点。また
ユダヤ教徒やキリスト教徒にとっては、仏教での「仏・菩薩」に匹敵する人物
の「モーゼ」「キリスト」が「自分の指導霊」として出現したと述べたこと。

2:上述の「123」(自称モーゼ)が、初めて信次の前に弟の体を借りて現れた時、

「私は上上の上の上の上の上に立つ神だ。おまえたちは、この男にひれふして私
のいうことを聞くがよい」そんな意味のことをいい、私(信次)に対してはもっ
とも厳しく叱るのだった・・・(P57〜58)。

 発音だけきくと「神神の神の神の神の神に立つ神」といったともとれる。この
ような高飛車さは、記述Eにあきらかに反する。また、この高飛車さは娘・佳子が
77年当時ミカエルを名乗ったとき「5年後に全人類がミカエルの前にひれふす」
と宣言した傲慢さとも通じるものがある。
75名無しさん@1周年 :02/03/12 21:59
「心の発見・現証編」のあやまち6

3:P79(信次の妹にかかった彼女の守護霊・前世がこう発言)
「私は観世音菩薩と呼ばれているものでございます。しばらくでございます」

4:P85(信次の妻=GLA会長高橋一栄にかかった彼女の守護霊・前世がこう発言)
「私はマイトレーヤと呼ばれたインドの時代、ゴーダマ様のお弟子でございました」

「観世音菩薩」とは俗に言う「観音さま」であって、個人名ではない。それなのに
なぜ前世が観音だったと名乗れるのか。マイトレーヤもいわゆる「ミロク」であって
高橋一栄がそうならば、とっくに「ミロク下生」で、この世は仏国土になっていなけ
ばならない。
 自分と自分の妻や妹は「仏」「観音」「ミロク菩薩」と名乗ってもいいのだろうか。
それは記述Eに明確に反することではないか。「自分や自分と関係ある人間は別だ」
という「条件つき」の「基準」だったのだろうか。そうとしか思えない。自分のこと
を棚上げにして、会員に説教をたれる佳子の姿勢を見ていても、そのあやまりは糺さ
れることなく、信次から佳子に受け継がれている。

 それから信次がよくいった「アボロキティー・シュバラ(観自在菩薩)」と「観音」
が同じものであることを思えば、信次の宗教知識の不正確に、さまざまな惑わしの霊
どもがとりついて、だまくらかし続けたといえよう。
 したがって記述Fによるなら、信次は最初から「正道をはずれていた」ことになる。