イエズス・キリストの預言的メッセージ
秘書メリー・ジェーン・イーブン博士への口述
2001年5月号第1巻
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2001年4月1日
甘美なる子らよ、わが御母の生涯を黙想するのに最も適した教課を教
えよう。それは、愛徳、従順、童貞性についての教課である。わが母は
お前たちの模範であり、天主がお前たちに望む聖性を人生の内に打ち立
てるために、お前たちは彼女の聖なる生涯を更に注意深く精査していく
必要があるのだ。
結婚していようが独身であろうが、独身の誓いを立てていようがそう
でなかろうが、人生は貞潔に生きることができる。それはふるまい、慎
みの度合い、個人的認知を通して現れる。それは視線、思考、欲求の置
き所に示される。それは態度と関係がある。それは聖人のようになろう
とする関心と関係がある。それは聖性に生きることで天主に喜んでもら
おうとする思いと関係がある。
私の母は罪なくして生れ、罪を犯さず、罪を犯すことは可能ではなか
った。彼女は天主の清純さの内に生き、天主に喜ばしい諸徳の内に日々
自身を洗練していた。彼女は生れたときからすべての徳を完全に備えて
いたが、徳に成長したのであった。どうだろうか。そう、天主を喜ばせ
たいという彼女の望みは益々ふくらんでいった。そして、日々天主を喜
ばせるために彼女が知っているすべてのことを実践していく能力を高め
ていったのであった。
彼女の生きる源泉と力は、天主への愛であった。彼女の天主へ向かう
信仰、希望、愛徳は、天主をますます喜ばせたいという思いを刺激した。
彼女にとってそうでないものは何であれ不合理なことに思われただろう。
このように、聖性を成長させ諸徳に発達するには、天主への愛と、天主
に喜んでもらいたいという思いを反映しなければならない。そうするの
はお前達一人一人の内においてである。お前たちには能力がある。御母
がなさったように、お前たちがもし望むなら、お前たちはその器(能力)
を持っている。
そうするのは難しいことではないが、それには愛と思いを要する。そ
れは聖にして聖化された聖人になるよう成長したいという熱い思いを要
する。それには天主への愛からそれるこの世の物事、態度、方向性を脇
にのけ、より大きな天主への愛へ向かう道をこしらえる事を要するのだ。
私たちは天主の道についてしばしば語ってきた。ここでは、考慮すべ
きもう一つの模範である私の母について示唆しよう。
貞潔である事とは、一つの神殿として服装、身体のことを考え、自身
を慎しく装うことを意味している。とはいえ、身体を慎しく覆うことは
一段階に過ぎない。他の段階は慎みを持ち、自分自身に注意を引きつけ
ないで体を動かすことである。座る、立つ、足を組む、歩く仕方である。
どんなふうにしているだろうか。こういう行動は貞潔を反映しているだ
ろうか。それから、どのように話すかについてもそれは言えることであ
る。限られた数の動きやジェスチュアー(仕草)を用いつつ、慎み深く、
穏やかに、率直に話しているだろうか。
こういう貞潔の事柄について私は語りたい。今日、それが性的禁欲を
保つ以上の意味を持つものであると思っている者はとても少ないからだ。
それ以上のものがそこにはある。結婚している人々でさえも貞潔を保つ
ことができるからである。私の祖父母の貞潔について読んでみなさい。
彼らは聖にして貞潔な人々だった。ヨアキムとアンナは恋人だったが、
互いに相手へのふるまいにおいてとても貞潔であった。彼らは貞潔ゆえ
に偉大なる賜を授かった。それは私の母となる娘である。天主の彼らへ
の賜は偉大である。
それは彼らの貞潔だけでなく、天主の掟への従順でもあった。祝され
た御母の従順は完壁であった。彼女は両親から天主の掟を学び始め、そ
の後、3歳からは神殿で学んだ。彼女は賢く忠実な僕で、天主の掟を知
り、それを守り、天主の掟を守るために人の行いを調整しようとしてい
た。聖母マリアが行動する前に天主の掟をいつも考えるのは、それは真
剣なものだった。真実、彼女は他のことはできなかっただろうし、そう
するように教えられていたし、そうしたのであった。
従順、まことの従順は心から来る。それは天主の御旨への自然な一致
である。従順であることとは、私たちに助言する人々に天主は御旨を与
えてくださると信じることである。私の母は従順の内に天主の道に沿っ
ていった。天主は自分の世話を焼いてくださると彼女は信じていた。だ
から、彼女は天主に従っていると感じていた。
>>761 言っています。
神父様に自分の思想信条を隠して、指導をお願いすることは、二枚舌を弄して神父様の指導を拒否するのと同じ意味ですからカトリック求道者としては不適格です。
以前は、迫害をおそれていましたが、神の御旨を歩もうとする者は新約聖書中のイエズス様の姿に倣うべき、そう考えて自分の立場は正直に表明しています。
神父様は、リトル・ペブルはカトリックとは違う運動と否定はしておりますが、あまり強く激しくは仰っておりません。
少なくとも神父様の方からLPの話題を持ち出してくることはありません。