洗礼に関するカトリックの教義について。
「洗礼の秘跡は誰によっても、教会が定めた形式で授けられたものであれば、
幼児も大人も救いに至らせるものである。」
(第四ラテラン公会議)
「この秘跡の授与者は司祭である。司祭は職責上洗礼を授ける権限を持っている。
必要な場合には司祭や助祭だけでなく、男子信徒も婦人も、未信者や異端者も、洗礼を授けることができる。
ただし、教会の定式を守り、教会が行うことを行うという意向がなければならない。」
(アルメニア人合同の大勅書。Dz1315)
現行教会法上の通常授与者の規定は530条、平信徒が洗礼を合法的に授けられるケースについては230条。
なお、洗礼の違法性は洗礼の有効性とは独立です。
動物に洗礼を授けることは、いうまでもなくできません。
単に水をかけただけで、まったく無効です。
310 :
名無しさん@1周年:02/03/08 21:56
シルさん、お呼びだてしてすみませんでした。
洗礼のご説明ありがとうございました。
>>302の方え 神学的には方法が正しければ悪魔や異端者が授けても洗礼は有効になるそうです。
ですからもちろん未信徒やキリスト教類似宗教の信徒が授けても有効です。
<私がこの文面より受けた感じは、間違っていると言う事です。
悪魔はあくまでも悪魔ですから洗礼を授けても無効です。異端者も同じです。
私は結論は聖書がどう語っているかと言うところに目を耳を置くべきですし、それ以外の
語りには人間的思いが挿入されておりますので、危険です。
312 :
名無しさん@1周年:02/03/08 22:09
>>309 >なお、洗礼の違法性は洗礼の有効性とは独立です。
これは、つまりプロテスタントの牧師の授ける洗礼は、違法ではあるが
有効であると認識しておられるということで宜しいのでしょうか?
ひとはimago Deiであることも洗礼の対象になることの理由でしょう。
ひとは動物を治めるべき位置にあり、動物愛護の責任はあるにせよ
洗礼の対象になるのはどういう理屈なのかわからない。
たしかにオリゲネスのアポカタスタシスは被造物すべての回復を
意味していたとは思うが。
>>306 洗礼を授けるのは、聖職者です。
私もそう信じます。
按手もサクラメントです。カトリックもプロテスタントも大変重要視しています。
今ペンテコステの人々は容易に按手しすぎだと思います。でも現実問題として信者が
簡単に洗礼をさづけるのはいま一度聖書に戻って考えるべきです。
大事なのはバランスだと思います。
聖書の拡大解釈は危険です。聖書は神の言葉です。
聖書には権威が付与されています。
私たちは同じ信仰者として、教団はカトリックとプロテスト違う事を認めるし更に
同じプロテストでも教派により更に強調点が違う事も認めましょう。
教団・教派が違っても信仰の原点ある聖書が私たちにどう表しているかを考えなければ
ならないのです。カトリックでは歴史上の声明文からではこう言っている。と言われているものに
聖書の教えよりそれらの教えが上に立ち聖書の真理がゆがめられるならカトリックは
間違いを信じているのです。
315 :
名無しさん@1周年:02/03/08 23:22
>>313 >imago Dei
Deiが、神の小羊を指す語であることは存じていますが、
imagoの意を存じませんので、教えていただけませんでしょうか。
Deiは「神の」
imagoは「像」
317 :
名無しさん@1周年:02/03/08 23:27
神は「我々に似たもの」を造り、それを<人>と名付けた。
創世記1章
先を越されましたな(藁)
神の子羊はAgnus Dei。