【 崇敬についての考察 青銅の蛇の件 】
新改訳「その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」の「見る」の件だが、崇敬でいう「注視」とは別だな。
原語は「見る、目を留める。」の意味がある。
というのは、他の参照箇所に、
創世記19:26ロトと妻の塩柱の件で、振り返って「見る」。で使われており、
急いで走っているのに振り返って見る。のを、崇敬で言う「注視」って言わないじゃん。
見つめる。の「注視」の意味でないな。
あと、出エジプト3:6モーセが主に向かって目を合わせないように、
顔を伏せた時に「見る」を使っている。
面と向かって見ないようにするの「見る」も、
ヤクザにでも喧嘩売るような、視線を合わせないような、崇敬での「注視」とマタ違うな。
ところがその真反対で、創世記15:5なんか、星空の星を数えるように「見る」の使い方をしよる。
そーゆー「見る」を「崇敬で見る」って言うか?否定的な「見る」のように思うが?
君はメンタン切るのや振り返ってチラッと見るのや野探しで見るのを、「敬い見る」のかね?
君は神様に喧嘩売ったりノゾキのように目を皿にして見るのかね?敬ってないじゃん。
他に「見る」は、創世記19:28の壊滅したソドムとゴモラを
[email protected]「見下ろす」場合や、
エゼキエル44:5「目を注ぎ」の、「目で」har「見る、分かる、理解する」がある。
【 崇敬についての考察 ケルビムの件 】
ケルビムは、敬ったり拝む為に造られていません。
1対のケルビムの間から、主が言われる。のであって、
箱の上でケルビム同士が顔を会わせて睨めっこしても、人間のほう向いて挨拶する訳でありません。
君は、そっぽ向いている奴に挨拶すると、敬った事になるのか?おもしろい奴だ。
他に言いようがない。
出エジプト25:22 口語訳「箱の上にある二つのケルビムの間から」
出エジプト37:9 口語訳「その翼で贖罪所をおおい、顔は互に向かい合った。」
Tサムエル4:4 口語訳「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を」