ヒルティを見直そう!

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3013:02/01/18 09:05
>28-29

ここはヒルティのスレなので、脱線はこの辺にしないといけませんが、せっかく丁寧なRESを
いただきましたので、一言二言だけ。

キルケゴールもまた、われわれと同じく、自分の経験を通じて「真理」を垣間見て、その感動を
著書に記したのでしょう。われわれがキルケゴールの著書から得られるものは、彼が「真理」に
至った過程のみで、「真理」そのものではありません。キルケゴールは「真理」そのものを追究
していない。自分が一生を賭けるに足るような信条を見つけることだ、と書いています(それは、
一方的に「真理」を万人に押し付けていたキリスト教会に対する反抗の狼煙でもありました)。
たとえ、それが「神」の目から虚偽であったとしても、自分は自分の経験で得た結論を「真理」と
して受け入れ、それに殉じようということです。われわれがキルケゴールの著書から「真理」を得た
と確信する時、実はキルケゴールの言葉を自分の経験に当てはめて、そこから「自分が殉ずることが
できる信条」との共通点を見出すにすぎないのです。人は、自分の経験を超えた部分については読書
から「学ぶ」ことはできません。読書とは、自分自身との対面に他ならない。

私は、東洋哲学を支持する者ですので、万人にとっての真理はすべて「生まれながら」にして心の
中に備わっていると信じています(いわゆる仏性)。個々の人は、いろいろな体験(読書も含みます)
を通じて、その「絶対真理」から漏れ来るほのかな光を頼りにして、道なき道を進むのです。その
道は個人ごとに異なり、誰一人同じ道を歩むことはない。生まれながら真理を持っているのだから、
生まれながらにキルケゴールやヒルティも心の中に住んでいるのです。その人がヒルティを読む機会
があれば、その人の心の中のヒルティが「これが真理(へ至る道)だ」と叫び声を上げて、われわれ
はそれを感動と感じるのです。それは必ずしもヒルティでなくても構わない。どんな思想にも、真理
のかけらのひとつやふたつは潜んでいるものだからです。

一方的に自論を書き立てましたが、おそらく誤解を生じている点は「生まれつきの心に真理を持っている」
という部分の解釈だと判断し、誤解を解くためにあえて自分の立場を明らかにしました。
31名無しさん@1周年:02/01/18 09:24
若かりし時、苦悩していた日々、マルクスアウレリュウス、
セネカ、ヒルティ・・・にどんなに勇気ずけられたことか。
中でも、私の場合は、マルクスアウレリュウスに感銘を受けたよう
に記憶している。
32かっぺ:02/01/18 14:52
久しぶりに来て見たら…
自分は仏教も、キリスト教も無縁だけど…
「共感」について、一言…「私の中にヒルティー」は、いない…ということです。
自分の中に無いものは理解できないか…この点だけど、
私は可能だと考えます。
心の持ち方の学習、違った文化や、知識を吸収(学習)することで、共感できるように
なると…
それが、精神の「成長」であり、「進化」なのだと…

もしも、既に「全てもとよりありてあるもの」とするならば、
何故、キリスト教世界に、神と悪魔があるのか。
肉体亡き後も、霊たちは何故、奇が遠くなるほどの「時」を
苦しみの中にすごさなければならないのか…

視点はズレますが、既に完成した「宇宙」ならば、何故、無限に広がり続けなければならないのか…

どなたか、納得させてください。

33つぶやき:02/01/18 14:57
(早くヒルティに戻りたや・・・)
34名無しさん@1周年:02/01/18 16:11
>30
「了解は諸可能性を投企する」
解釈学の基本じゃん。
3516:02/01/18 23:16
私もこれで脱線は最後にします。

>>30
> 一方的に自論を書き立てましたが、おそらく誤解を生じている点は「生まれつきの心に真理を持っている」
> という部分の解釈だと判断し、誤解を解くためにあえて自分の立場を明らかにしました。

わかりやすい解説ありがとうございます。

しかし、やはり私は「生まれつきの心に真理を持っている」との考えにはなじむことができないようです。
そもそも私は「絶対的な真理」や「万人にとっての真理」など、どこにも存在していないし、
潜在的にも、仮想的にも、そのようなものがあるとは想定すべきでないと考えています。

そういう意味で、私は、キルケゴールの立場に最も親近感を覚えます。

西田哲学には殆ど触れたことがなかったので今度「善の研究」あたりを読んでみます。
そうすれば気持ちも少し変わるかもしれないので。
3613:02/01/21 09:08
>35

>西田哲学には殆ど触れたことがなかったので今度「善の研究」あたりを読んでみます。
>そうすれば気持ちも少し変わるかもしれないので。

西田幾多郎は、若い頃に禅に親しみ、西洋哲学が「自」と「他」を分離した後の「分別智」
でできあがっている限り真理には近づけないと看破し、従来の哲学を超えた新哲学を打ち立て
ようとした人なので、きっと貴兄の知の糧になると確信します。「AはAでないが故にAだ」
(鈴木大拙)というような、一見ちんぷんかんぷんな表現にはさすがに困惑しますが(^^)。

ここはヒルティのスレですが、私がヒルティにご縁を得たのは、東洋哲学の重鎮であった安岡
正篤氏の著書を通じてなのです。思うに、ヒルティは東洋哲学の立場から見ても注目に価する
ものが含まれているので、西洋哲学と東洋哲学の表裏二面から読んで初めて真価が発揮される
性質の「名著」ではないかと思います。ヤコブ・ベーメやエックハルトなども同じく、
「古今東西を越えた」名著だと思います。単なるキリスト教をベースにした西洋哲学の書として
読むのではもったいない。
371:02/01/21 18:58
スイス綜合年報→スイス連邦政治年鑑
38名無しさん@1周年:02/01/21 21:51
エックハルトは素晴らしい!ただ、
エックハルトはカテキズムを踏まえた応用編、という感じがする。
39名無しさん@1周年:02/01/21 21:56
そいでもってカール・バルトか?お約束だな
401:02/01/22 17:41
ヒルティは、エックハルトやヤコブ・ベーメやシレジウスなど一連の神秘思想家を、「病的」なものとして
敬遠している感じです。(ヒルティ著作集「悩みと光」収録の「読書について」より 白水社)
4113:02/01/23 09:42
>40

私見ですが、それはヒルティがキリスト教という思想の枠の中で自説を説こうとして
いるからでしょう。これもまた自説ですが、正統キリスト教が神秘主義思想を毛嫌い
するのは、もし真理が個々の魂に生まれながらに備わっていて、個人個人が神と直接
対話することができるならば、キリスト教会という名の「仲介屋」が失業することに
なるからです。パウロの思想は、そもそも民族単位での神との契約、神による救済を
扱ったもので、個人個人の信仰の内容は無視されている。ところが、真摯に信仰の道を
突き詰めるならば、個人の経験の「唯一性」は絶対に無視することはできなくなる。
それを敢えて表に出せば、神秘主義者として異端の烙印を押されるか、キルケゴールの
ように社会から抹殺される。ヒルティはそこまで足を踏み出さず、そこにとどまった。

私が『幸福論』や『眠れぬ夜のために』などを読む時、ヒルティのキリスト教至上主義
に鼻がつくことがしばしばです。そこにヒルティの思想の限界がある。ヒルティの本懐
は、キリスト教臭を取り去った後にこそあるのだと私は考えています。
42名無しさん@1周年:02/01/23 09:54
>41
キリスト教が「仲介屋」として機能するのは、ローマ・カトリックやオーソドックスの教会なのでは?
プロテスタントの中でも、特に敬虔主義に至っては、個人と神との結びつきが、特に強調される。
特にドイツは、そのような敬虔派の本拠地。
ヒルティが神秘主義思想と距離を置いているのは、むしろ別の理由ではないでしょうか。
例えば、正統派のプロテスタント信仰を継承した者として、神秘主義とは距離を置いたのか。
あるいは、同じルター派の流れを汲む者として、距離を置いたのか。
要するに、単なる謹慎憎悪。

ちゃうやろか?
4341:02/01/23 11:47
>42

>キリスト教が「仲介屋」として機能するのは、ローマ・カトリックやオーソドックスの教会なのでは?

確かにそうなのですが、キルケゴールは実際にプロテスタント教会から迫害を受けたのですし、
私の経験から言っても、2chなどで現代聖書学による聖書テキスト批判などをやると、額に青筋
立てて噛み付いてくるのはカトよりもプロに多いです。プロでは「仲介屋」として機能している
のがパウロ神学という気がします。そもそも、「原罪」、「神との古い契約(律法)」、「イエスの
贖罪による新しい契約」などの概念が「団体」の意識から離れていないので、個人を「団体」の一員
として十把ひとからげに扱い、団体に帰属させようとするかぎり、やはりその教えは「仲介屋」になって
いるのです。目に見えるPopeという「仲介者」に帰属していなくても、Paper Popeに帰属している。

パウロと親鸞の類似性はよく論じられていますが(たとえば八木誠一)、親鸞の南無阿弥陀仏は
純粋に個人体験に結びつくもので、一切の「仲介屋」を拒む性格のものです。ルター派とエックハルト
を比較すれば、親鸞との距離の差は歴然としていると私は思います。
441:02/01/23 15:04
ヒルティが神秘思想家を敬遠するのは、それが倫理的な実行力を衰退させてしまうからではないでしょうか。
ヒルティの思想の根幹は、いうまでもなく「神とともにあることと仕事」です。神秘思想家
には、「仕事」の側面がややもすると欠落してしまうのではないか、と考えていたのではないでしょうか。

>41 ヒルティの「キリスト教至上主義」は、ある意味当然です。「わたしは道であり真理であり命である。
わたしを通してでなければだれも神の国に行くことはできない(ヨハネによる福音書)」
「この方以外に救いはない。救われるべき名は、この方の他は与えられていないからです(使徒言行録)」
というのが聖書の思想です。
「カトリックモデルニスト(近代主義)に警戒せよ(眠られぬ世のために2部)
」と彼自身書いています。
45名無しさん@1周年:02/01/23 15:14
>43
イスラエルにおける集団と個の関係については、そう簡単に断定できるものではありませんよ。
でも、ここは釈義を論じるスレではないので、この話はやめておきます。
ヒルティに関して言うなら、私は>>44の1さんの意見に賛成です。
やはり、ヒルティの思想の根底にあるのは、プロテスタントの信仰でしょう。
それがいやだと言うのなら、これはもう仕方ないですね。
46名無しさん@1周年:02/01/23 15:15
論点先取は学問でも思想でもない。
4743:02/01/23 16:52
>44,45

もちろん、ヒルティは経験なプロテスタント、善良な市民だったし、少なくともそうで
あったからこそ彼の著作がキリスト教会で抵抗なく広がっていたのです。しかし、所
どころ彼の本音が出ているところは必ずしもプロテスタントではない。例えば、

「良心や正直や、気高いこころを傷つけることなしに財産家になることができるなら、
どうぞその道を教えてくれ。わたしも財産家になりたいと思う。しかし、まことの財宝
でないものを得るために、わたしにとってまことの財産を捨てよ、と言うのなら、きみら
はどんなに不条理であり、無配慮であるか、自分でも分かるであろう。金銭と、誠実な
友人と、きみらはどちらを選ぶか」(『幸福論』第一部、二十四)

「子供に必要なのは多くの愛とお手本とであって、宗教的教理はすこしも必要でない。
ところが、後者(この方がずっと安上がりだ)が多く与えられれば与えられるほど、前の
二つのものの与えられる分量はますます少なくなるのが普通である。そして、子供が自ら
宗教を要求する時期が来ると、この薬はそれまでに散々濫用されていて、もはや効き目が
ない」(同、「どうしたら策略なしに常に悪とたたかいながら世を渡ることができるか」)

いずれもルター派にしては、行いに重視を置いているし(ロマ書よりヤコブ書的)、後半
の文章は読みようによると、生誕直後の受洗に対する批判のようにも読める。
4816:02/01/23 17:20
>生誕直後の受洗に対する批判のようにも読める。

それだけでなく、それをひっくるめた諸々でしょうね。
いわゆる「日曜学校」的なものとか。いや、こっちの方がメインかな?
極端な話、幼児洗礼を受けさせたけど後は完全にほったらかし、というケースもありうるし。
49名無しさん@1周年:02/01/28 09:16
良スレだな。
50名無しさん@1周年:02/01/30 09:28
うん、良スレだ。
51名無しさん@1周年:02/02/04 00:28
いくら何でも下がりすぎだ。
52名無しさん@1周年:02/02/07 01:51
本当だ。
53名無しさん@1周年:02/02/11 03:27
上げます。上げときます。
541:02/02/13 15:43
ヒルティの思想に、贖罪意識が薄いとは良く言われることである。彼は、「十字架上の生け贄」
とか、「血による赦し」にあまり肯定的ではなかったようである。矢内原忠雄は、ヒルティとシュバイツアーを
挙げ、この二人に贖罪の意識さえあったら、とこぼしている。
しかし、彼は幸福論第二部「罪と憂い」の中で、罪悪感に苦しむ人が贖罪観念に頼ることは
まったく正当であるとし、ほかの箇所でも決して頭から否定はしていない。彼の贖罪観念は、「観念」として
捉えられたのではなく、「十字架上で死んだ歴史的事実」として捉えられていたのだと思われる。
彼は、「復活」という思想には、かなりの分量を費やして援護している。彼は「復活」は歴史的、客観的事実として
一歩も譲らない。そして、「ユニテリアリズム(唯一神教)」や「カトリックモデルニスト(近代主義)」を
激しく批判しており、これらをキリスト教でさえないと言い切っている。キリスト教徒を測る物差しとして、
復活を如何に捉えるかで判断するとさえ言っている。そもそも復活と贖罪は対応する概念であり、彼のうちには
無意識に贖罪は理解されていただろうと思われる。そもそも彼の思想はシンセティック(体系的)でないのが特徴であり、
彼の思想を体系的に理解することはできない。だから、彼は、きわめて正統的なキリスト教徒であったといえる。
5543:02/02/13 16:42
>54

どうでしょうね。ヒルティの残した著書から「復活」ないしは「贖罪」を全部取り
除いたら、果たして価値が下がるでしょうか。ルター派の教義を100%信じたら、
どんな人間も無能でいいかげんな、去勢されたような人間ばかりになるでしょう。
贖罪さえ信じたら、ベッドで寝て暮らす半分植物人間でも救われるのだからね。
ヒルティの思想に価値があるのは、人間がこの世に生きていることには意義のある
ことなんだ、人間として最も生きがいのある生き方とは、職業を通じて社会に貢献
することなんだ、と看破した点でしょう。ひたすら贖罪だけを当てにして、ベッド
でぐうたらをしてたらあかんで、という主張。確かにルター派の教義とは何の関わりも
ない思想かもしれない。しかし、それが一体何だというのだろう。

ヒルティがキリスト教の既成概念という縛りを持たなかったら、たとえばもし東洋に
生を受けていたとしたら、彼は王陽明並みの哲人になっていたことだろう。
56名無しさん@1周年:02/02/13 16:47
> 彼は王陽明並みの哲人になっていたことだろう
ここ、笑うとこですか。
571:02/02/13 17:25
>55たしかに、現実から乖離しているクリスチャンの信仰は、あまり意味がありませんね。
「眠られぬ夜のために」2部でも、「はっきり言い添えておくが、たいそう立派な信仰箇条を
信じていても、それはなんの役にも立たない」と言っています。信仰のヤコブ書的な側面は
もっと重要視されるべきですね。(ちなみに「はっきり言い添えて置くが」とか「わたしをこれ以上煩わせないでおいてもらいたい」とかっていうヒルティの語調は面白いです。)
5843:02/02/13 17:51
>>57

宗教を日常生活の実践に持ち込んだのは、東洋の方が先なのです。古くは日本曹洞宗の
開祖道元。日常の起き臥し、飯を炊いたり茶碗を洗ったりする、何気ない一挙一動が仏道
修行だと言う。禅門では多かれ少なかれ、この日常の実践を重んじています。主だった人
としては、盤珪、鈴木道三、など。きわめつけは、禅のエッセンスを日常生活に盛り込んだ
石田梅岩、中沢道二。元を正せば、始まりは何と千年も昔のことです。

こういった思想は、士農工商という体制維持に利用されたのは確かです。士は士らしく、商
は商らしく全力を尽くすことが成仏につながるという教えですから。しかし、説かれている
内容は実に斬新で、現代のわれわれにも訴えかけてくるものがありますし、「在家」の
われわれが歩むべき道を示していると思います。もちろん、キリスト教徒の人にも参考に
なるはずです。
5943:02/02/13 18:04
盤珪さんを引用して説教している牧師さんのHPを見つけました。どういう宗派
なのかは知りませんが、納得できるところが多かったです。
http://www.d-b.ne.jp/wahaha/kyokai/kokuhaku/koku-4.htm

心なしか、ヒルティの主張とも重なっているように見えます。
60名無しさん@1周年:02/02/14 01:52
ふむふむ。
61名無しさん@1周年:02/02/22 09:58
ageます。
62ねこ:02/03/10 19:44
この人は最も良心的なクリスチャンのひとりです。
牧師とか神父とか宗教でめし食ってるひと、はみな転職しなさい。
63スイス:02/03/10 19:48
スイスの改革派教会の人ですが、この人は本物の宗教者ですね。
牧師や神父なんかは、真っ先に地獄に落ちると思われる。

64名無しさん@1周年:02/03/14 16:06
ヒルティって工事現場でよく見かけますね
65名無しさん@1周年:02/03/14 17:25
>64
カール(プラグ)モナー
66名無しさん@1周年:02/03/14 17:53
>65 ワラタ
コンクリ打ち込み用のあれね
67名無しさん@1周年:02/03/14 20:40
マキタの広範な品揃えと強固なシェアも
民生品に安価な中国製がなだれ込んで来て生彩を欠いている。
それに比べてヒルティは
振動系では比肩するブランドが無い独占だからな。
68名無しさん@1周年:02/03/28 00:15
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sita
69名無しさん@1周年:02/04/07 20:53
祐介の上品な指にしか触られたことのない身体に、いま、汚れてゴツゴツした男の指が這いまわっている。
 しかし、これは貴子自身が望んだことなのだ。
 男の指が、貴子の左の胸のふくらみをゆっくりとなぞっている。乳首を中心に円を描くようにして、乳房の周辺に指
を這わせていた。
「ええ乳や」
 男がふたたび、下卑た口調で言った。
「こないええ女を抱かせてもらえるなんて、なんやうそみたいやなァ」
 何歳だろうか。五十まではいっていないだろうが、四十代後半には違いない。
 男はもう一方の手もあげた。
 両方の乳房のまわりを、節くれだった指が這いまわりはじめた。
 貴子はまたゾクッとなった。
「なんや、さぶいんか?」
「いえ……」
 寒いわけではない。
 男に対する嫌悪感のせいだろうか。そうではないような気がする。
 貴子は自分のことがよくわからなかった。なにしろこういう経験ははじめてのことなのだ。いったいどうなることや
ら、見当もつかなかった。
70名無しさん@1周年:02/04/12 15:13
ageageageageageageageageageageageageageageageageageage
71嘆きの壁:02/04/13 13:28
ヒルティさん、はっきり言い添えて置くが、わたしをこれ以上煩わせないで
おいてもらいたい
72嘆きの壁:02/04/13 14:32
71は偽者。

しかし、妙な偽者だな。
そんじょそこらの偽者とは格が違う。
73西壁:02/04/13 19:00
72はホンモノ。

しかし、妙なホンモノだな。
そんじょそこらの偽者と変わらない。
74名無しさん@1周年:02/04/13 20:01
善の研究はそれほど面白くなかったなあ。
西田を読むならむしろフィードラー受容以降の中期以降のほうがおすすめ。
とこれは個人的意見だけど。
75名無しさん@1周年:02/04/17 17:08
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76名無しさん@1周年:02/04/19 17:20
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77名無しさん@1周年:02/04/27 16:11
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78名無しさん@1周年:02/05/01 22:57
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ヒルティのノイローゼ論は、今でも通用すると思いますか?
彼は、官能に耽溺し過ぎる事も、狂気の原因の一つだ、と言っていますが、その点は
いかがでしょうか。彼の論文「病める魂」や「神経衰弱」はいかがでしょうか。精神科医の
神谷美恵子氏は、そのエッセイ「ヒルティの恩」の中で、「あちこち多少の意見もあるが、なにより病者への
暖かい心遣いに打たれた。現代流に言うと、作業療法に相通じるものを見いだした」と
書いています。