臨済正宗

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138改
教学的な内容から、禅文化一般に渡るまで、トラディショナルな立場でお話ししましょう。
2名無しさん@1周年:01/12/15 16:33
>三宝帰依の重要性とその理由を理解しないと、
>仏教に関するあらゆることを誤解してしまいやすくなる。

他スレで話題になってる「三宝帰依」から入って欲しいっす。
3変人:01/12/15 20:12
☆祝い☆臨済正宗スレッド
38改さん。
ところで、「臨済宗」と「臨済正宗」は違うのですか?
白隠禅師の流れをくんでいるのですか?
祝い age
438改:01/12/16 19:30
>>変人さん
臨済宗も臨済正宗も全く同じです。
古来より釈尊の正法を伝える宗派として、正宗と言う言葉を墨蹟の印などに用いてきたようです。
ここでは、伝統的臨済宗の宗旨を唱える立場から、敢えて正宗と付けさせていただきました。
むろん応燈関の一流ですから、白隠禅師の流れです。

>>2
わかりました。ただし他スレは読んでいませんが、私の管見を述べます。
538改:01/12/16 19:31
三宝に帰依すると言う事は。
これは妙心寺派の『宗門安心章』を参考に、簡潔に述べますと…。

ご承知の通り、三宝とは仏、法、僧の三つの総称ですが、
三宝には現前三宝と住持三宝と一体三宝とがあります。

現前三宝とは、目の前に現前している三宝ですから、
仏は釈尊であり、法が釈尊の説く教え、僧が共に教えを学ぶ者達です。
仏教では、釈尊が悟りを開いてから、鹿野苑で曾て一緒に苦行した五人のバラモンに
法を説いたとされますが(初転法輪)、この時に初めて三宝が現れたとします。

住持三宝とは、釈尊入滅後に釈尊の法を絶やさぬようにしっかりと住持していく
三宝の事で、仏は木像や画像など、法は経律論の三蔵、僧は教団(僧伽)であります。

で、上記の二つはそのままの事であり、ある意味象徴的な三宝ですが、
重要なのは、最後の一体三宝です。
色々な説明が出来ますが、先の『宗門安心章』からそのまま引用します。

「しかも三宝の実体は、元来人々自性の中に本具したれば、自ら自の覚性に帰依して、
 念々痴闇の心なき、これを帰依仏無常尊といい、自ら自の心法に帰依して煩悩邪見の
 心なき、これを帰依法離欲尊という。自ら自の柔軟心に帰依して、自なく他なく
 一切衆生と和敬随順するを帰依僧和合尊という。もとより一体にして自性の霊妙を
 離れず、故にこれを一体三宝と名づく。」

この『宗門安心章』は、静岡臨済寺の倉内松堂老師と神戸祥福寺の山田無文老師、
それに伊藤古艦師のお三方によって作られましたので、判る人はこれを読めば
そのまま判ると思いますが、多少解説を付け加えますと。
638改:01/12/16 19:31
花園大学学長、故盛永宗興老師が、ある講演で次のように仰っています。
「今日はいのちについてということでお話をするようにという依頼でありましたが、
 最初にその骨子を一言で申し上げておきます。私がいのちについて話をするとすれば、
 それは一言で言えばいのちとは三宝の別名である。これが今日の話の全てであります。
 三つの宝の三宝ですね。「いのちとは三宝の別名である」世間一般でいのちという事を
 どのように考えていようとも、出家である私にとっていのちとは三宝以外のものでは
 ありません。ですから物を覚えるのが不得手な人はこのことだけを覚えて帰って貰ったら
 いい。あとは説明です。これの。」

で、盛永老師は一体三宝を
「大いなる不変のいのちが 限りある相となって
 個性的に変化しつつも そこには微妙な秩序と調和がある」
と表現されています。

さらにその公演中に
「私が先ほど冒頭に『いのちとは三宝の別名だ』と申しましたけれども、その三宝とは
 一体三宝のことであります。」
 〜中略〜
「そこで、この一体三宝の事を禅宗では一体三宝という言葉を使わないで「仏心」という
 言葉で伝え始めました。」

これで三宝に帰依するという事が、どういうことか多少なりとも判ったでしょうか?
これを読んでもさっぱりピンと来ないという方は、仮に百万の言葉を用いても、
このスレで私の申し上げる話は判っていただけないと思います。
738改:01/12/16 20:16
なぜなら人は、例えば大いなる仏の生命を生きている事を実感した時、
始めて三宝に帰依できるから。
8変人:01/12/16 21:06
う〜む。なかなか難しい事がカキコしてあるね。
ところで・・・
盤珪禅師の「無修業の修業」は、どのように考えていますか?
9名無しさん@1周年:01/12/16 21:27
>>8

へ、変人さん。。。
ここでまで無修行ですか。。。
カキコみて大笑いしてしまいました(爆笑)。
10変人:01/12/16 22:26
>>9
貴方も「禅」に興味がありますか?
禅宗が「三宝」を、どう解釈するのか興味がありましたが・・・
「仏・法・僧」→「仏心」。なるほどなーと関心しました。
貴方も関心したでしょうか?

自分のアンティテーゼは大事にしたいと思っています。
そうでないと、自分が観えてこないでしょう。
えてして人間は、この過ちを犯してしまうものです。
こういった事も、すこぶる勉強になる他スレでした。
1138改:01/12/17 14:15
>>8
盤珪さんについては不勉強なので、「無修行の修行」というものがどういうものか
知りませんが、「不生の禅」について申し上げれば…。
「一切の事は不生で調う」『法語』という事は、
『信心銘』に「至道無難、唯嫌揀擇」とありますが、それと同じだと思います。
要は「はかりごとを捨てて、今、この、自分」を全部引き受ければそれで良い、
という事でしょう。

しかしながら、それを実践するのは非常に難しい事ですが、
盤珪さんは「この不生の仏心を合点さしやるれば、修行もいりませぬ。」『説法』
といった点が、新しいといえば新しかった訳ですね。

ただ、盤珪さんも弟子には勿論、自分自身に対して大変厳しかったわけです。
それは勿論、仏になる為に修行するということではないですが、日々の生活は質素で
規則正しいものでした。けして一休さんのような、破天荒なものではありません。
ですから盤珪さんのいう「修行もいらぬ」が、無軌道な生活で良い、と言うことで
ない事は明白です。
1238改:01/12/17 14:16
つまり「一切の事は不生で調う」とは、「親に産みつけられた不生の仏心、仏性が、
自分にもある」と合点すれば、或いはそう信じていけば、自ずからどう生きていくかは
導かれるということでしょう。
自分自身に嘘をつかない、自分を欺かない、そういう生き方を続けていく事によって、
次第、次第に悟境が深まっていく事は、盤珪さんも否定していません。
これは盤珪さん、晩年の言葉ですが『法語』に次のようにあります。

「身ども廿六歳の時、播州赤穂野中村にて庵居の時、発明せし道理、又道者に相見し
 証明を得し時と今日と、其の道理に於いては、初中後、一毫ばかりもたがう事なし。
 然れども法眼円明にして、大法に通達し、大自在を得たることは、道者に逢いし時と
 今日とは、天地懸隔也。汝等如是事のある事を信用して、法眼成就の日を期すべし」

26歳の頃と、今と、「不生で調う」という事に寸分の違いもないが、その悟境や力量は
天地ほども異なる。皆、今の自分に満足せずに精進しなさい、と言っているのです。

ですから盤珪の「不生で調う」「修行もいらぬ」とは、悟りを得るために修行するのでは
無いという事でしょう。
我々は、本来仏であるから、その事に合点さえすれば、不平不満を離れて、喜びに満ちた
生き方をする事が出来る。そして、仏であるからこそ自ずと正しい生活が出来る訳で、
「うたた悟れば、うたた深くなる」と言う事だと思います。

「覚りの為に修行するのではない」と言う点では、道元とも似ていますね。
1338改:01/12/17 14:36
以前「少林寺と北禅」スレで、神秀と六祖の偈頌は、一つ事の両面だと申しましたが、
盤珪さんについても同様です。
「不生で調う」「(仏になるのに)修行はいらぬ」それは確かにそうでしょうが、
それは相手によりけりだと思います。

仏教は、釈尊以来対機説法なので、相手によって同じ事でも180度答えが違ってきます。
それを「文字通り」受け取るから、誤解を産むのだと思います。

「親に生みつけられた不生の仏心がある」と合点する事とは、三宝に帰依する事であり、
自分自身を信じて(信にはまかせる、と言う意味があります)生きる事に他なりません。
この事を合点できない事を、「病不自信にあり」と臨済禅師は言ったのです。
14変人:01/12/17 15:24
>ですから盤珪の「不生で調う」「修行もいらぬ」とは、悟りを得るため
>に修行するのでは無いという事でしょう。

清貧にして規則正しく、廃すべきものは廃す。
その真剣に生きた姿が、いわゆる修行というものなのでしょう。
究極的には乞食と同居しましたからね、真剣に生きて「気付いた」んでしょうね。
「不生」には、限りない深さがあると思いますね。

ところで、ベトナムのナットハーンはどうよ?
日本の禅師にはみられない、良いところがありますか?
38改さんは、随分傾倒しているみたいですけど、どげなとこが良いですか?
1538改:01/12/17 16:37
>>変人さん

>究極的には乞食と同居しましたからね、真剣に生きて「気付いた」んでしょうね。

乞食と共に暮らしたのは、何も盤珪さんに限らないです。
大燈国師もそうですし、多分他にも大勢いらしたでしょう。
ただ「質素な暮らしだからそれで良い」となるとそれも又、盤珪さんも否定する所では
ないでしょうか。

栄西禅師は、禅宗を認めさせる為、宮中に出かける際には立派な車と衣装を仕立てた
と言いますが、普段はやはり貧しいにも関わらず、喜捨で貰った反物を、困っている人に
あげてしまい。雲水に「なぜあげたのですか、我々も食べるものに困っているのに」
と言うと、「我々は食べる為に集まっているのではない」と叱ったと言います。
「君子もまた財を愛す、是を取るに道あり」でしょう。
16変人:01/12/17 18:14
まあ、「無分別の分別」ですね。
清貧生活に執着しましても、これまたいけないですね。
富貴に非ず。清貧に非ず。その概念さえも既にそこに非ず。

清貧の思想は、不断は接ぎした着物を着ていても、
何のためらいもなく、立派な反物を簡単に人にあげちゃう事もありますからね、
我執の超越的感覚というのでしょうか?
なんぞトルストイなども、晩年清貧生活にハマッタらしいですから、
日本だけの思想ではなかったんですね。
1738改:01/12/17 19:12
ティク・ナット・ハン師に関しては、私もそれほどよく知らないですが、
たまたまナット・ハン師のセミナーに通っている英国人哲学者と縁があり、
それで興味をもったのです。
で、今年翻訳がでた『禅への鍵』を読んで、目からうろこが落ちました。

と言うのは、近代の日本臨済宗は「理屈を言うな、黙って坐れ」的な態度が
多少なりとも在った為か、修行とは作務と坐禅で、あまり布教もしないし、
勉強もしなくても良かった感があります。
(勿論、けしてそういう人ばかりではないのですが)

勿論、自分自身の宗教体験が最も大切である事は自明の理です。
そして、西洋的な文献学的仏教学が、時として言句に固執し、
帰って修行者を迷妄させる事も事実でありましょう。
宗門の根本は僧堂修行にこそあるという事は間違いありません。

しかしそんな中、例えば10年前に駒澤大学の松本史郎氏から始まった、
如来蔵思想批判や袴谷氏の本覚思想批判は、教団が異なるとはいえども、
同じ禅宗内部から起こったにもかかわらず、宗門サイドからの明快な反論が
なかった事が、不思議でなりませんでした。
何であんな自己否定のような主張を黙認するのか?と。
1838改:01/12/17 19:13
むろん、学問的に反論するには難しいから、とは容易に想像できるのですが、
これは私の想像ですが、曹洞宗の師家と言われる方々が、その境涯に於いて、
「仏心、仏性を説く禅宗は仏教ではない」という学者先生を、一蹴するだけの
力量に欠けている、と言う事であろうと思うのです。
かつて鈴木大拙や西田幾多郎と言った人々が、老師方に実際に参禅して、
そうして自己と言うものを深めていったのとは、全く対照的であります。

臨済宗系からも特に反論もないし、教団は、無視することで沈静化しているような
印象です。いや、そういう意識すらないかも。社会と乖離しているのです。
でも禅宗坊主の一人として、「お前らの教えは釈尊の教えじゃない」
なんて、考えたら沽券に関わる話なんで、何年もずーっと気になっていたわけですよ。
1938改:01/12/17 19:13
そんな時に『禅への鍵』を読みました。そこには、例えば無常、無我は方便だとする
次のような記述があります。
 「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」21P〜22P
或いは、
「禅思想は大乗仏教の全ての宗派の思想が結晶化したものです。禅における「如来禅」
 という考えは『楞伽経』に由来しています。思議を超えた明るくかがやく真心という
 考えは『首楞伽経』によります。「禅定」の功徳についての考えは『大方向円覚経』
 からです。宇宙が相互に調和した全体であるという考えは『華厳経』からです。
 空についての考えは『般若波羅蜜経』から来ています。」68P
等とあります。

現在の日本禅宗のお坊さんで『中論」と『成唯識論』と『起信論』を把握し、
整合させながら、「禅宗では、ここはこう、そこはそう」と説ける人って、
多分殆ど居ないですよ。
仏教学的には、対立した考え方とされるのに、なんで禅宗では『般若心経』読みながら、
『首楞厳神呪』や『法華経普門品』も読むのか、誰も疑問にすら思っていないのです。
別に学僧が偉いと思っているわけではないのですが、自分達がやっている事を十分自覚
せず、ただ漫然と行じているとしたらこれは問題です。

実際『槐安国語』などを読むと、大燈国師にせよ、白隠禅師にせよ、無茶苦茶昔の中国の
古典の引用や、経典からの引用が夥しくあるわけです。勉強していないどころか、博学
そのものです。やはり行と学は車の両輪なのだと思います。
一方、今日の我が国の宗門は、残念ながらどちらも寂しい状況です。
私が言うのも大変不遜ですが、師家といえども玉石混合です。
だからこそ、先のように学者の説得も出来ないわけです。
そんな中、ヴェトナム臨済宗には、可能性があるような気がする、それだけです。
つまらない話が長くなりました。
2038改:01/12/17 19:39
結局、ティク・ナット・ハン師に限らずですが、戒の問題ってありますね。実際。
言い換えれば、人生の目的が彼らは明快で、そこが魅力なんです。
逆に我々は、何のためにお坊さんやっているのか、判らなくなっているのかも。
21変人:01/12/17 19:53
>近代の日本臨済宗は「理屈を言うな、黙って坐れ」的な態度が

「黙って座れ」は、曹洞宗のイメージが強かったのですが・・・
白隠禅となれば、なんと言っても公案重視かと思いましたよ。
公案と言いましても、対人間同士でしょうから、これを宗統として受け継いでいくのは
これは大変な事だと思いますね。
諸行無常。全く、寸分違わぬ継承というのは当然無理でしょうし、
この流れにおいて・・・
>宗門サイドからの明快な反論が
>なかった事が、不思議でなりませんでした。
こういったことですから、宗門も段階的にドンドン発展していくという事でしょうか?
22変人:01/12/17 20:19
>>18
「学問派」と「実践派」ほ、当然見解、解釈は違ってきますからね。
「禅」を、学問的立場から観たってど〜にもなりゃせん。
頭で考えても、どーしょもないのは素人的に考えてもわかりますからねー。

それはそれとして、19レスは大変重要な事がカキコしてありますね。
まあ、じっくり見てみたいと思います。
「目からうろこ」。たしかに然り。
後ほどレス付けます。
23名無しさん@1周年:01/12/17 20:49
>「学問派」と「実践派」ほ、当然見解、解釈は違ってきますからね。
>「禅」を、学問的立場から観たってど〜にもなりゃせん。

変人さん、知識を学ぶことも立派な実践なんです。
いいところまで来ていると思うので、

ではその知識をどう実践的に学ぶか?

ということで話をすすめてみてはいかがでしょう。
24変人:01/12/17 21:12
>>19
般若心経→法華経。
ここのところも、なかなか理解しづらいですよね。
白隠禅師が、最終的に法華経の紐を解くことに由来するのでしょうけど、
一切、白隠さんの思想が脈々と継承されているという事ですね。
さすれば、修行過程というのも禅師の通りにマニュアル化されているのは察しが付きます。
すべて、そのレールに乗っ取って修行せねばならぬのですから、疑問を持つ余地すらないでしょう。
まあ、おしてしかるべし。
> 「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
> ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な

こういう部分と言うのが有りますからね。一概に、学問的に定義付けるのは、一種の先入観をもってしまいます。
ですから私は、行・学両輪と言いましても、そこのところは微妙に受け取っています。

「仏心・仏性」「非心非仏」「五蘊」「無常無我」。これらの関連付けは今後の課題としたい。
25変人:01/12/17 21:21
>>23
>ではその知識をどう実践的に学ぶか?

確かに、貴方の仰る事は大切かもしれませんね。
26うつけもの:01/12/18 05:54
初めまして、あの〜私は小難しいことわかんないのですが、
以前どこかで聴いた『白隠禅師和讃』なるもの?
なんか素直に聞けたんですけれど〜どなたか内容UPしていただけませんか?
2738改:01/12/19 11:13
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
誓えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩詞街の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懐悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を證すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無碍の空たかく 四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当初即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
28変人:01/12/19 13:11
>>27
>衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
>水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

ここのところは、私見ながら解釈したいのですが・・・
「悟り」ということで修行をしていて、ある時期、「悟り」という概念が一変するのではないでしょうか?
そこのところが、盤珪禅師に通じるところがあるんじゃないかと読んでしまうのですが・・
この境地において、フト「法華経」を思い出したのではないか?
どうも、そう読めてしまうのです。
まあ、これは勝手な憶測ですが・・。
2938改:01/12/19 15:09
>>28
>「悟り」ということで修行をしていて、ある時期、「悟り」という概念が一変するのではないでしょうか?
それは当然そうでしょう。何事に於いても、未経験である時の想像イメージと実際とは異なるものです。
「悟る」以前と「悟った」以降が、全く認識が同じであるはずはなく、
むしろ既存の価値の大転換こそが覚り、気づきであるのでしょうから。

ところで私はこのスレで、「悟り」について云々するつもりはありません。
それは私自身が悟ってもいないですし、また、「悟り」というイメージに対して、
あれこれ議論する事は全くの無駄であるばかりか、時として他人や自分自身をも
惑わす悪弊以外の何ものでもないと思うからです。
30変人:01/12/19 15:56
>>29
28レスで私が言いたかったことは、先入観の事ですね。
つまり、えてして人間というものは、先入観がありますから、ある概念で固定してしまう。
そういうことが、なんかの拍子にパット「気づく」んじゃないかと思いましてね。
ほら、ナット・ハンさんの時の「目からうろこ」ですよ。
ああいう一変の仕方ですよね。「悟り」ではありません。
禅における「四文字熟語」。あれなんかの意味も、最初のころの概念と全く違っていると思いますよ。
まあ、それだけ人間というものは二元世界の価値観に順応して生きている訳ですね。
そういうことが思い知らされますね。
3138改:01/12/19 16:32
>>30
なるほど、よく判りました。
で、「求めてきたけど、なんだはじめから仏だったんだ」と、パッと気づいた。
という事ですね。

白隠は幼い頃、法華宗のお寺で地獄の話を聞かされて怖くて怖くてたまらない。
なんとか地獄から逃れる方法はないものかと出家するわけですが、
青年になって法華経を読み返してみると「なんだ喩え話ばかりじゃないか、
何でこれが経中の王なんだ」と思う。
ところが中年になって読み返して、法華経が本当に判ったって言いますよね。

これは私の私見ですが、例えば賊に襲われても観音様の名を呼べば、
刀が段々に壊れてしまう、というような比喩がある。
最初は、これは人々に観音様を拝ませようとする、方便だと思う。
ところが、実は本当にそういうような事がある、そういう力に生かされている、
と気づく事は我々にもあるのだと思います。
文字通り、表象としては全く同じ出来事ではないけれども、よくよく
自分や自分の過去を見直してみると、あたかもそれと同様と思えるような
仏の慈悲によって今日があると、実感できる

>禅における「四文字熟語」。あれなんかの意味も、最初のころの概念と全く違っていると思いますよ。
>まあ、それだけ人間というものは二元世界の価値観に順応して生きている訳ですね。

変人さんの表現って、インテリすぎて私には判り難いのですが、結局言葉から
意味を知るのではなくて、意味を知っているものだけが、言葉を用いて味わう
ことが出来るのではないかと思います。

山本玄峰老師が「聞いたり読んだりした上で意味を知るのではない、
意味を先につかんでから言句を理解し使用するのが不立文字だ」と
言っておられますが、まさにその通りでしょうね。
3238改:01/12/19 16:43
ところで、某研究所が一昨年前に白隠さんの全集を木版で復刻したのですが、
その現代語訳を殆ど手がけられている方が、「坐禅和讃はどうやら白隠の
書いたものではない」と言っていました。
白隠さんの執筆は、仮名のもの、漢文のもの、どちらも殆ど訳した結果、
この本でこう言っている白隠が、こんな表現をする筈がない、と思う個所が
幾つもあるらしいのです。

それと「黙って坐れ」は曹洞宗かと思った、と言う事ですが。
勿論、参禅は重要で毎日行いますよ。公案は重要だし、語録の提唱もあります。
でもその室内の事をしゃべる事は勿論ないですが、この経典の此処は、
どういう意味だろう、というような議論や研究は雲水には必要ない、
ひたすら坐って「無事」の底が抜ければそれで判る事だ、或いは
ゴチャゴチャ言わないで作務や坐禅を一生懸命やれば、そこに具現するのだ、
実践する事こそが尊いのだ、という傾向の事を言ったまでです。

上記の重要性は全くもってその通りなんですが、反面として、
勉強しなくても良い、という事の担保となっていた感もぬぐえないという事でした。
33変人:01/12/19 17:29
>自分や自分の過去を見直してみると、あたかもそれと同様と思えるような
>仏の慈悲によって今日があると、実感できる

般若心経の世界観から、こういった法華経の世界観?に転換できるのは、やはり驚嘆してしまいます。
「禅」は「非心非仏」と捉えていましたので、この概念さえも包含してしまうと言うのでしょうか?
「仏心・仏性」これを顕現がするところが、実にスゴイ。
高度な精神世界に敬服するばかり。
私などは、どうもそこのところは難儀ですが・・。
3438改:01/12/19 20:52
>>33
>「禅」は「非心非仏」と捉えていましたので、

「非心非仏」は『無門関』の三十三則に出てくる、馬祖道一禅師の有名な言葉ですが、
これはけっして固定化された真理ではありません。
同じく『無門関』の三十則に「即心即仏」という公案がありますが、
最初馬祖は「如何なるか是れ仏?」という弟子達の問いに、「即心即仏」と答えていました。
この「即心即仏」が禅では重要な所ですが、しかし、次第に弟子達が「即心即仏」にとらわれて、
「即心即仏」という馬祖の生きた禅的境涯を、概念化してしまったのだと思います。
そこで馬祖はそうした弟子達に「非心非仏」といった訳で、弟子達を一切の分別概念から
解き放ち、生き生きとした一真実の世界に導こうとする、馬祖大師の対機説法なのです。
ですから「即心即仏」も「非心非仏」も一つ事の両面です。
ナット・ハーン師の「諸行無常も諸法無我も、涅槃に導くための方法である」と同様で、
釈尊は諸法無我と諸行無常を使って、人々を真実の世界に導いたのだと思います。
35変人:01/12/19 21:23
>>34
>ですから「即心即仏」も「非心非仏」も一つ事の両面です。

ああ、そうでしたか。私が解釈を間違えていました。
実は「即心即仏」がいわゆる方便で、「非心非仏」がその先の教えかと思っておりました。
こういったことを鑑みますと、なるほど法華経への線が繋がりますね。納得しました。

また、ナット・ハーンの「無常」「無我」の方便というのも、はたしてその先はどういった真理があるのか?
殆ど想像がつきませんね。
バラモン教的「梵天一如」(宇宙即我)なのか?またまた、その概念に非ずなのか?
釈尊は、「梵天一如」を切り離して、明確に「無我」を打ち立てていますからね、
それが方便ですと、意外な展開が推測されます。
3638改:01/12/20 12:20
>>35
年末から年始にかけて、とっても忙しくなってきたので、レスが滞りそうですがご容赦を。(^_^;

>また、ナット・ハーンの「無常」「無我」の方便というのも、はたしてその先はどういった真理があるのか?

けして無常、無我と違うものがあるわけではないです、無常、無我を顕現する所が涅槃なのです。
調和の取れた涅槃という境地そのもの、真理という言葉を使うなら、宇宙は本来涅槃である事が
釈尊の説かれた真理な訳です。それが「衆生本来仏」であります。
その涅槃に到る為には無常、無我をしっかりと自家薬篭中のものとしなければならないだけで、
ところが我々は無我という事にとらわれて、結果、無我に成れていないわけです。

例えば、私達は「空」を理解するという事を、往々にして「諸行無常で、諸法無我な事、
常住不変な存在は一切ない事」と考えがちですが、これは「空」を理解した事にはなりません。
ただ「空」を定義し、概念化しただけのことに過ぎません。

「親ごころ」を「自らを犠牲にしても子供の幸福を願う心」と定義してみても、
それだけで「親ごころ」を理解する事が出来ないのと同様です。
余談ながら、現代は我が身可愛さのあまり「子の為には自らをも省みない」という人が少なく、
親でありながら「親ごころ」が解らない、「親ごころ」に目覚めない親も多いのですが…。
3738改:01/12/20 12:21
仏教はよく「恩」を説きますが、それは何故かと言うと「恩」とは「因を知る心」だからです。
つまりいま自分が此処にこうしている存在している、その様々な原因、自分が何に因って
生かされているかを知る、という事が恩を知るという事ですが、「我」を捨てなければ
「恩」を知る事は出来ないのです。

あるところにあまり仲の良くない親子の和尚さんがいました。
考え方の違いからか「昔からこう決まっとる!」「今の時代に合わせないとダメだ!」と、
良く意見が衝突していて、その日も気まずい雰囲気の中、家族で食事をしていました。
ふと、孫の女の子が言いました。「この中で一番先に生まれたのは誰?」
「おじいさんだよ」次は?「おばあちゃんさ」その次は?「お父さん」、そして「お母さん」
「ふ〜ん、そして私が一番後から生まれてきたのね。みんな出会えてよかったね!」
その言葉を聞いて、一同なんとも和やかな気持ちになりました。
この幼い女の子の方が、よほど「空」ということが解っているのです。

京大総長だった平田興先生は「医者が病気や怪我を治すのではない。
医者はお命様が働きやすいように、そのお手伝いをするだけだ。
お命様は何時、如何なる時でも、生かそう生かそうとして下さっている。」と仰いました。

般若経の「色不異空、空即是色」という事が判るからこそ、
法華経普門品の「慈眼視衆生、福聚海無量」が解るのだと思います。
38名無しさん@1周年:01/12/20 14:38
>>36、37
方便のネタばらしするのは単なる正当化。
そのネタばらしまでして自己正当化するような方便はやらないこと。
39変人:01/12/20 18:40
>>37
ナット・ハンの「無我」の顕現というのは、それは「空」の顕現と同一ですよね。
これは一如に思えるのではないですか?
ですから「無我」といいましても、それが即ち「空」であると思うのですよ。
こういう解釈ではどうでしょうか?

>仏教はよく「恩」を説きますが、それは何故かと言うと「恩」とは「因を知る心」だからです
これについては、私は勉強不足ですね。
「恩」とは、儒教かと思ってましたよ。
こういう事を「目からうろこ」というのでしょうか?まあ、考えさせられますね。

>般若経の「色不異空、空即是色」という事が判るからこそ、
>法華経普門品の「慈眼視衆生、福聚海無量」が解るのだと思います。

ここのところは「色即是空」では解るのは無理でしょうか?見解は如何に?
40名無しさん@1周年:01/12/21 00:33
age
41通りがかり:01/12/21 09:16
>>38
>般若経の「色不異空、空即是色」という事が判るからこそ、
>法華経普門品の「慈眼視衆生、福聚海無量」が解るのだと思います。

ハゲ同です。

澤木興道師の『観音経講話』を初めて読んだ時(まだ20代でしたが)、仏教修行者は観音様を
拝むのじゃなくて、観音様にならなければならない、とあったのに深い感銘を受けました。
これは、巷に流布している、観音様に願をかけるというだけの「贋物の他力信仰」の否定だと
思います。ここまでは十分に理解できましたが、自分の場合にはそこでずっと立ち止まったまま
でした。さらに観音様=「お命様」と見てみると、単なるがむしゃらな、外道的な自力でも
ダメだ、という新しい視点が開けてきますね。自分はひとりでも、実体のない幻でもなく、実は
海のように広大無限な「お命様」に包まれ、その一部として森羅万象一切とともに生かされて
いるんだ、という視点が「空即是色」につながるように思います。「色即是空」だけでは、臍の
ない美女のおなかのように物足りない(^^)。白隠さんが法華経に活路を見出した時、そういう視点
があったのかもしれない、とつくづく考えました。

私は今まで、こういう観点から観音経を読んだことがありませんでした。大変に参考になり
ました m(_ _)m
4238改:01/12/21 09:42
>>38
正当化という言葉が、不当な何を、どう正当化しているのか、残念ながらご指摘が
十分理解できません。私に対する批判はドンドン承りますが、何をどう批判して
いるのかが理解できないと、応答しようがないので、よろしくお願いします。
ただ「方便をネタばらししない」という態度について、私なりに考えてみたのは、
確かに一神教や真宗、日蓮系などの原理主義者にとって見れば、方便はそのまま
受け取らないと信仰にならないのかもしれませんが、「疑う」事を重んじる禅に
とって「ファンダメンタルな禅というのはありえないのだ」というのが私の立場です。

>>39
>ナット・ハンの「無我」の顕現というのは、それは「空」の顕現と同一ですよね。
>ですから「無我」といいましても、それが即ち「空」であると思うのですよ。

全くその通りだと思います。勿論「無我」であるという事は「空」に他なりません。
ところが「無我という言葉(定義)」に振り回されて、
「山川草木悉有仏性と言うのは仏教ではない」とか言ってしまう訳です。

実は「無我」(空)に成れば、自ずから「山川草木悉有仏性」と言うことが判って
来るのですが、「無我」(空)を実践し体感するのではなくて、「無我」(空)を分析的に、
知的に理解しようとするから誤解するのだと思います。

再掲しますが、それを指摘したのが、ナットハーン師の先の言葉です。
「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」『禅への鍵』春秋社21P〜22P

>「恩」とは、儒教かと思ってましたよ。
確かに起源的には儒教的道徳だったのでしょうが、仏教がそれを取り込んだとき、
そのまま受け入れたのではなくて、そこに仏教的な変質が在ったのではないかと思います。
これは私の意見ですが。

>ここのところは「色即是空」では解るのは無理でしょうか?
いえいえ、失礼しました。ここのところは言葉を吟味せずに、使っていました。
言いたかった事は、般若経の「空」という事が判るからこそ、
法華経の「慈眼視衆生、福聚海無量」が解るのだと思う、という事です。
43通りがかり:01/12/21 10:14
うっかりして、引用先を間違ってしまいました。
41のは38でなくて37に対するレスでした。お詫びしますm(_ _)m
44変人:01/12/21 12:24
>>42
>無我」(空)を実践し体感するのではなくて、「無我」(空)を分析的に、
>知的に理解しようとするから誤解するのだと思います。

この部分は、私のアンティテーゼにも抵触する重要なところですね。
「空」で、今までのあらゆる先入観が払拭されてしまいますから、
ここのところを、理論で云々しましても全く意味が無い。こういう事だと思いますね。

儒教について
仏教は、もともとは寛容な宗教なのではないか?というのが私の印象です。
道徳的概念から、はたまた絶対仏信仰(一部急進派)までありますからね・・。
本流は何ぞや?というのが非常に重要になってきますね。

「色即是空」
「空」の仏性を「法華経」にまで昇華させるには、ある程度の修行は必要かと思いますが
まあ、そこのところは線で繋がりそうです。
4538改:01/12/21 15:16
>>41
こんにちは、こちらこそ有り難うございます。
「宿無し興道」と異名をとった澤木老師が、近代の優れた禅者であったことは
承知いたしておりますが、いかんせんその著作等を読む機会はありませんでした。
「観音様にならなければならない」というのは深い教えですね。
思いつくまま書いてみました。

「色即是空」と言うのは「法身」ですね。自我を滅して平等一枚になれば、
拝まれている観音様も、拝んでいる自分も無い。
全てが空である「南無帰依仏」という世界。

「空即是色」は「報身」ですね。差別の相です。その仏の生命を縁に因って
頂いているのは自分です。観音さんを拝んでいるのは紛れも無く自分自身で
あること。もっと言えば森羅万象が仏の生命を頂いているということ。
「南無帰依法」という世界。

で、その「観音様にならないかん」というのは、その頂いた生命をどう使って
行けば良いのか、ということでは無いでしょうか?
観音様は相手に応じて自由自在に変化して、応病与薬で救って下さるわけですが、
仏の三身で言えば「応身」、自分自身の仏の生命が本来持っている所の柔軟性で、
自分自身が観音様となって、世の為、人の為に働いていかなければならない。
その事が「南無帰依僧」ということ。

拝んでおる自分と、拝まれている観音様がピターっと一つになった世界、
これが菩薩の生きる道だと、澤木老師は説かれたのだと思います
4638改:01/12/21 16:01
>>45
>この部分は、私のアンティテーゼにも抵触する重要なところですね。
変人さんの「アンチテーゼ」って「無修行の修行」とかですか?
常にテーゼに対して疑ってみるということなのですかね?

>ここのところを、理論で云々しましても全く意味が無い。こういう事だと思いますね。
そうですね、私も同感です。

>仏教は、もともとは寛容な宗教なのではないか?というのが私の印象です。

私もそう思います。で、寛容な仏教の中でも特に禅宗は寛容ですね。
下手すると、なんでもOKかとも思われちゃいます。(藁)
一人一人の表現が自由ですからね。「即心即仏」「非心非仏」もそうですし、
丹霞天然禅師は木像を焼きましたが、その弟子の翠微無学は
「焼くもよし、拝むもよし」と言ったそうです。

>本流は何ぞや?というのが非常に重要になってきますね。
だからこそ、釈尊の教えの肝心な所を押さえる事が不可欠ですね。
ですから我々は教宗に対する禅宗、仏語宗に対する仏心宗なのです。

>「空」の仏性を「法華経」にまで昇華させるには、ある程度の修行は必要かと思いますが
>まあ、そこのところは線で繋がりそうです。

私は同様に、「空」であるからこそ「唯識」も理解できると考えています。
47名無しさん@1周年:01/12/21 17:09
>>46
>変人さんの「アンチテーゼ」って「無修行の修行」とかですか?

例えば「空」「無我」を不立文字にて説明しようといえど、その時点でもはや誤解が生ずるかと思うのですよ。
もはや、「人間の認識の範疇を逸脱したもの」。という以外言いようがないのではないか?かように思う。
それ故、38改さんのレスには随分納得しているのです。
学問的解釈というのが、どうも私には一種のアレルギーを起こしてしまう所以です。
「無修行の修行」は、選択肢の一つということで、そんなに拘っておりません。

>私は同様に、「空」であるからこそ「唯識」も理解できると考えています。

そうなんですよね。観念的にはトンデモ話になってしまう唯識でも、「空」からしますと
充分納得できるんですよね。
「虫の知らせ」「胸騒ぎ」「シンクロニシティー」。まあ、オカルト的なものでも
そこにはやはり接点はあると思いますね。
48変人:01/12/21 18:53
47レスはHN「変人」です。
49ROMの人:01/12/22 00:16
ageます。
50変人:01/12/22 02:52
>>45
三宝が、いわゆる・・
色即是空(仏)→空即是色(法)→菩薩道(僧)。
三宝に帰依するとは、こういうことだったんですね。非常に解りやすい。

私は、白隠さんが最終章に法華経を紐解いたのは、少年期のトラウマが素因かと思ってました。
そういう訳で、どうも法華経には馴染めなかったのですが、少しずつ解ってきました。
盤珪さんとは、また違った視点なもんですから非常に興味があります。
白隠さんと盤珪さん。こういったバラエティーにとんだものを全て受け入れる「禅」の自由性。
そういったところが、やはり好きですね。
51変人:01/12/22 08:19
私見
余計なものを少しずつ削ぎ落としていく。これがいわゆる修行なのではないか?
削ぎ落とす事により、蓄積されて、それが広大無辺の広がりを有する。
人智で計り知れない、そこに在る時、初めて自由が何たるやを知るのではないか?

言語の概念の世界で生きていて、人間の思考はその範疇で安住しているのではないか?
こういう事が、ハット目覚めた時に、本当の「意味」を知るのではないか?
ここに、正誤の判断基準が、またまた登場してしまうのである。
しかし、それとて基準があいまいなのである。なんでか?
例えば、「美味しい」「不味い」の範疇なのである。基準の基準がまた違うのである。
ここに、寛容、自由を垣間見てしまいます。
5238改:01/12/22 14:28
>>51
>ここに、正誤の判断基準が、またまた登場してしまうのである。
>しかし、それとて基準があいまいなのである。なんでか?
>例えば、「美味しい」「不味い」の範疇なのである。基準の基準がまた違うのである。
>ここに、寛容、自由を垣間見てしまいます。

う〜ん、私は「美味しい」「不味い」という二元的比較を超えた所の、
絶対的な「正」というものがあり、それを説くのが禅であり、仏教である、
と考えています。

曹洞宗の開祖の一人、洞山良价禅師は、「正の外、対を絶す」と二元的対立に落ちない
「正」を説いておられますが、例えば八正道の「正」。
この「正」の意味が解らないと、いくら正見、正思惟、正語、正業、正命、正行、
正精進、正念、正定と言ってもはじまらない。

禅的に言えば「先ず正の一字に参ぜよ」ということでありますが、その「答え」は
自分の外には無いのです。
釈尊は「求むるは皆苦なり」(この典拠ご存知の方いらしたらご教示ください)
と言われたそうですが、この「正」は自分自身に問わなければ、他人様や経典語録を
読んだ所でよそで見つける事は出来ないのだと思います。
そうして自分自身で冷暖自知する所の「正」に向かって、日々努力するのが人間の
生きる道だと思います。

論理哲学者のヴィトゲンシュタインは、「我々は言葉にて語り得るものを語り尽くした時、
言葉にて語りえぬものを知る事があるだろう」と言ったそうですが、言葉に置き換える
と言う事は概念化すると言う事ですから、この「語りえぬもの」「概念化できないもの」
があるという科学者の意見は、非常に興味深いです。

そこが私は「仏心」であり、「生命」であり、「正」であるのだと思います。

>>47
「唯識」についても、私は十分そしゃく出来ているとは言い難いのですが、
一昨年、広隆寺の弥勒菩薩にお参りした時、少なからず思う所がありました。
いずれまた、そのお話をしたいと思います。
5338改:01/12/22 14:32
言葉足らずだったので…。
そういう意味では「正」の基準ははっきりとしているのですが、
比べる事の出来ない「正」なのだと言う事です。
54名無しさん@1周年:01/12/22 18:45
52、38改さん
>釈尊は「求めるものは皆苦なり」といわれた・・・・・
あなたの引用した部分と厳密に言うと違うのかも知れませんが、南伝、相応部経典、23、
15、苦。この当りを少し前後してご覧になれば該当している部分があると思われますよ。
(正確でなくてスマン)
あと、三法印の一切皆苦。この「一切皆」は、万象万物という意味での一切皆というわけで
はなく、釈尊の仰った「一切皆」の意味は、人間存在としての「五蘊」。又は「目、耳、鼻、
舌、身、意」の六根と、「色、声、香、味、触、法」の六境。これらを指して、一切という
言葉を引用しておられたようです。
つまり、それら無常なるものに現実依らざるを得ない人間の求めるものは、みな苦である。
というような事を、こと細かく説法しているのが、件の経典部分になっています。

八正道の「正」は正見の眼差しから始める事なのですが、基本的な見方の拠り所として、
諸行無常、諸法無我、一切皆苦の見解をします。(実はこれが重要なので三法印がある)
これを基にした考えが、正思、そして順次、正語(言葉)、正業(行い)、正命(生活)
という具合に進めていかなければ、成り立たないようです。このプロセスを通リ越した
正念や正定は、やはり瞬間的で不安定なものだと覗っています。

あと、レスを読んで、あるギリシャ人の言葉を思い出しました。曰く「問われない時には
私は知っていた。問われた時には、私は知らない」です。「ここ」に来たなら二見に囚わ
れる頭脳は知識があるほど、ある意味では、邪魔になってしまうのかもしれませんね。
難しいものです。                   以上、飛び込み失礼しました。
55変人:01/12/22 18:50
>>52
>>例えば、「美味しい」「不味い」の範疇なのである。基準の基準がまた違うのである。

この文面は、二元的基準を否定しておるのです。
「基準の基準がまた違うのである」。と、最後に否定。
まあ、いずれにせよ貴方のレスを、よくよく拝見しますと非常に勉強になります。
56変人:01/12/22 19:15
>>54
>諸行無常、諸法無我、一切皆苦の見解をします。(実はこれが重要なので三法印がある)

三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静というのもありますが、
上記「一切皆苦」というのは、何故に違うのですか?
ここのところ詳細キボンヌ
5738改:01/12/22 22:13
>>54
>南伝、相応部経典、23、15、苦。この当りを少し前後してご覧になれば該当している部分があると思われますよ。
早速に有り難うございます。今度あたってみます。

>この「一切皆」は、万象万物という意味での一切皆というわけではなく、
>釈尊の仰った「一切皆」の意味は、人間存在としての「五蘊」。
>又は「目、耳、鼻、舌、身、意」の六根と、「色、声、香、味、触、法」の六境。
>これらを指して、一切という言葉を引用しておられたようです。
なるほど。

>このプロセスを通リ越した正念や正定は、やはり瞬間的で不安定なものだと覗っています。
坐禅の時に、「調身、調息、調心」と言うものがあるのですが、姿勢を正して、
数息観を行じていれば、自然に気持ちも落ち着いてきます。
ですからインプットが正しくなければ、アウトプットも間違いますから、
確かにそういえるのだとは思いますが…。

ただ私は「八正道」も一つのものの切り口、立場が八つあると見ていくと、
「正見」になれば自ずから「正語」「正命」と全ては調ってくるとも思われます。
で、逆説的ですが「正精進」や「正命」を行じていく事で、実は「正見」を得る事も
有るのではないかと考えるのです。
ですから禅家では「正定」や「正精進」を通じて「正見」を得るのだと思いますし、
真宗は「正念」によって「正見」を得ていくのではないかと思うのです。

だから「正」が大事になる、と言うのが先のレスでした。堂々巡りですが…(藁)

>あと、レスを読んで、あるギリシャ人の言葉を思い出しました。
あ、聞いた事ある言葉ですが、イマイチ理解できませんでした。スマソ(;^_^A
是非又飛び込んでください。(w

>>変人さん
>この文面は、二元的基準を否定しておるのです。
そうでしたか…、難しい表現ですね。

>三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静というのもありますが、
>上記「一切皆苦」というのは、何故に違うのですか?
横レスですが、「三法印」に一切皆苦を足すと、「四法印」になります。
でもあまり違わないので、私はそれほど区別していませんが…。
58名無しさん@1周年:01/12/23 01:58
>言葉足らずだったので…。
>そういう意味では「正」の基準ははっきりとしているのですが、
>比べる事の出来ない「正」なのだと言う事です。


それを説明するために「中道」があるのでしょうね。
ですから「八正道」は「中道」でもあるかと思います。
59変人:01/12/23 06:28
>>57
>横レスですが、「三法印」に一切皆苦を足すと、「四法印」になります。
「一切皆苦」は、あらゆることのベースになるものだとは思っていましたが、そうでしたか。
さすれば、四法印が重要ですね。私見ですが。勉強になります。

>>58
>ですから「八正道」は「中道」でもあるかと思います。
ここのところも非常に重要ですね。
やはり、基軸がしっかりしていませんといけませんからね。
60名無しさん@1周年:01/12/23 12:44
59変人さん
三法印、四諦、八正道。この体系的連なりは、釈尊の教えの基本形です。
だから、三法印だけ、四諦だけ、八正道だけ、と言う具合に部分独立的
に取り出して理解するよりも、1つの連なりとして理解する方が、余計な
迷い道にはまらないと思います。
釈尊は、よくこのような説法をして、比丘達をある基本的な回答に導いて
いたようです。例えば、仏典を引用すると・・・

「比丘達よ、色(肉体)は、常住であろうか?無常であろうか?」
「大徳よ、無常であります」
「比丘達よ、無常であるならば、それは、苦であろうか?楽であろうか?」
「大徳よ、苦であります」
「比丘達よ、では無常、苦にして移ろい変わるものならば、これを観じて
 これは我が所有である。これは我である。これは我が本体であるとする
 のは、適当であろうか?」
「大徳よ、そうではありません」

というような問答で、基本的な事柄(無常、苦、無我の三法印)を共通認識
出来るように誘導した後に、順序だって、四諦と八正道の説法に入って行く
のです。誰にでも分かるように誘導されますが、その奥とても深遠なるもの
があります。漢釈された、四字熟語とは、少し趣が違うように覗えますが、
まあ、仏の教えをそれぞれに求める道中、時には「釈尊」その人の教えに尋
ねてみるのも、大いに意味がある事だと思っているこの頃です。
61変人:01/12/23 14:19
>>60
>三法印、四諦、八正道。この体系的連なりは、釈尊の教えの基本形です。

なるほど、これは上手い具合に連なりますね。
「一切皆苦」これを最初に肯定するところに、やはり心の平安を感じますよ。
私などは「抜苦与楽」より「苦楽一如」のほうが、やはりシックリいきます。
これは、底辺に「一切皆苦」があるからだと思うのです。
人間が「苦」を背負うことにより、また「楽」も背負う。まあ、こんな感じでしょうか?
まあ、ここのところは上手く説明できませんけどね。
そういえば「煩悩即菩提」。これにても、やはり「一切皆苦」があて理解しやすい気がしますね。
煩悩は、やはり生きていて生ずるものでしょうから、生きている証でもある訳ですよね。
そういうふうに、私などは捉えているのです。「煩悩即菩提」。なかなか良い教えですよ。
62名無しさん@1周年:01/12/25 01:37
age
63ROMの人:01/12/26 01:35
あげておきます。
6438改:01/12/27 08:39
忙しかった事とお二人のレスになんて応答すればよいかと思案中だったので、レス遅くなりました。

実は私は
>>58
>それを説明するために「中道」があるのでしょうね。
>ですから「八正道」は「中道」でもあるかと思います。
というご意見と

>>61
>>三法印、四諦、八正道。この体系的連なりは、釈尊の教えの基本形です。
>なるほど、これは上手い具合に連なりますね。
というご意見にピンと来ないというか、違和感があります。本当にそうなの?って。
無論、基本として三法印は仏教の旗頭ですし、四諦八正道が基本的教えなのは間違いありません。
また個々を切り取って理解するのではなく、全体的に把握すべきだと言う意見には賛同です。
ただ率直に申し上げて、お二人のお話からはご自分が八正道なら八正道、中道なら中道をどのように
理解し、何に気づいたのかを伺う事は出来ません。
2の公約数は1と2、と言ったような話に聞こえて、他人事なんですよね。
だから何が言いたいのか私には伝わって来ませんでした。
出来れば詳しくご教示くださればと思います。
65名無しさん@1周年:01/12/27 11:07
目を閉じている人に光の話をしても仕方がない。
まずは目を開けることです。
6638改:01/12/27 12:30
>>65
お言葉有り難うございます。勿論私は至らない者ですので、毎日右往左往しながら
何とか何とか、漸く日々を過ごしているにすぎません。
もしもあなたの眼が正しく開かれているならば、光の話はしなくて結構です。
どうぞご家族を始め社会の方々のために、自らの生命を生かして使ってください。
閻魔様に飯代帰せ等と言われぬように、くれぐれも宜しくお願い致します。
67名無しさん@1周年:01/12/27 12:32
「光あれ!」神は言われた。
6838改:01/12/27 13:39
>>67
神や仏は置いといて、貴方がどうなのかが問題なのです。
なぜなら、貴方の人生は貴方自身がが生きるものだからです。
貴方の代わりにご飯を食べる人もいなければ、貴方の変わりにトイレに行く人もいない。
貴方の変わりに借金返す人もいなければ、貴方の変わりに家族を養う人もいないのですよ。
6938改:01/12/27 13:41
「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と呼び、また自ら応諾す」
70変人:01/12/27 19:28
>>64
>2の公約数は1と2、と言ったような話に聞こえて、他人事なんですよね。
>だから何が言いたいのか私には伝わって来ませんでした。

まあ、貴方が仰りたい事は大よそ分かります。
私としては、仏教の基本的のものですから、ああ成るほどと思っていますが・・
やはり、仏教の中核をなすものは「空」なのかな?と、自分では思っています。
「空」がベースで、三法印もすべて包含せしめるものじゃないんかなーとか思っています。
こういう考えはどうでしょう?
71名無しさん@1周年:01/12/27 19:31
「煩悩即菩提」と言って、女を次々騙して遊び呆けるのは楽しい事ですよね。
「煩悩即菩提」といって、金を次々弱者から毟り取るのは楽しい事ですよね。

 よもや、こんな誤解はないと思うが、「煩悩即菩提」の意味や、その心す
 処を、何方か御教示願えませでしょうか?
72名無しさん@1周年:01/12/27 20:48
70
所謂「空」は、仏教の中枢というより、世界の中枢ではないないのかなあ?
仏教の始めは「空」ありき。ではなかったと思いますよ。仏典にも、如来
が世に出ようと出まいと、既に法として確立しているものだと、あります
し、私もそう思う。
極端な話であれば、如来が世に出て悟り、伝道したとしても、もう一度仏
教を名乗るとは限らない訳です。広義に言えばあらゆる宗教が目指してい
る究極のものが、所謂「空」なのでありましょう。
仏教の原点は、釈尊にある。そういう意味で私(54,60)は書き込ませて
もらったんです。まあ、分かっているのでしょうが、念のため。
所謂「空」は、仏教の「もの」ではなく、広く開かれたものでしょう。
所謂「空」を語るのに、必ずしも「仏教を持ち出してこなければならない」
わけではないでしょう。私は仏教(釈尊の)は、人間苦を超える道。これ
以上のものではないと思っている。
73名無しさん@1周年:01/12/27 20:58
実際に空の中にあってみれば自分なんていないんだよ。あほらし。
74変人:01/12/27 21:13
>>72
>所謂「空」は、仏教の「もの」ではなく、広く開かれたものでしょう。

ここのところは禿同なんですよ。
私としても、広義において「空」を捉えているのですが、何としてもここはコンセンサスは得られない。
仏教の専売特許?と見ている方が大部分のような気がします。
私としても、「空」を語る時どうしても仏教用語を使ってしまうので、そこのところのギャップがあるらしい。
まあそういう訳で、貴方のレスは充分納得できます。
75名無しさん@1周年:01/12/27 21:16
73は>>69に向けてね。
瑞巌の彦和尚とやらが「誰に」向けて、「どういう目的で」言ったのか?
それを考えれば、その言葉を「文字通り」に受け止めるからおかしくなるのでしょうね。
76名無しさん@1周年:01/12/27 21:17
屁理屈こねて遊ぶスレですか?ここは?
77名無しさん@1周年:01/12/27 21:25
自分の仏教観のヒトリゴトを書き込むスレのようです。
78変人:01/12/27 21:31
そうであっても宜しいし。
そうでなくても宜しいし。
混沌としているところが、また宜しいのかと思います。
79名無しさん@1周年:01/12/27 23:53
仏教徒には仏教徒の立場というものがある。それを主張することは正しい事だと思う。
ただ、それが全てか?と問われれば、「違うと思う」と答えざるを得ない。
如来の説いた直伝の法は、広大な人類史、仏教史の中で霞みかかってしまったと思う。
私としては、所謂「空」と言われるものは、広大無辺な大世界なのだろうと思うので
す。それは、如来、仏教と言えど捉まえる事は出来ないものだと。
まあ、これを言っては元も子もないのですが、「問われた時、私は知らない」これが
所謂「空」の前に出て、最も誠実な言葉なのではないかな。
だから私は、仏教(如来直伝の教え)は、「空」の教えではなく、人間苦の超克の道
であり、教えだと思っている。何故なら仏典から察するに釈尊は、弟子達がそういう
方向に進む事を止めるように厳しく嗜めていた様子が覗われ、ひたすら人間苦の超克
に専念するように導いていたようだから。
80名無しさん@1周年:01/12/28 01:06
75>>79

禿同です。

言葉足らずだったようなので・・・。
「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と呼び、また自ら応諾す」
ですが、これはいわゆる天上天地唯我独尊のことでしょう。
この場合の「我」は、他に他人がいない「我」なので、
自他の分別がない「我」ということになるでしょう。

山が無ければ谷が単独で存在できないのと一緒で、
男という概念も、女なしでは存在できないのと一緒で、
普通は、他人がいなければ自分は存在できないはずです。
そもそも自分という言葉自体が自他の分別を意味していますから。
それをわざわざ「我しかいない」と言うのですから意味深です。
いや、実際問題、同じ事を絶対他者という仏教も確かあったようですし、
無我の境地と説明する仏教もあったように記憶します。
他人の事などどうでもいいとか、自分の考えは他人に分かってもらえない、
などという理由から唯我独尊を教えたのでは無いと思っただけです。

飛び込みの横レス失礼いたしました。
8138改:01/12/28 08:58
皆さんの「空」についてのご意見をまとめると、概ね「空」こそが仏教の中心であり、
宇宙の根源的な法則である、ということであろうと思います。
むろん仏法は釈尊が考えだしたり、作り上げたのではなく、もともとそこにあったものに釈尊が
気づかれた訳ですから、仏教的な真理は一人仏教のものだけでなく、諸宗教全てに通じる筈です。
ですから「空」が重要であると言う事には異論は無いですが、仏教の中心が「空」の理解である、
と言う事には若干反対です。

なぜなら本当に「空」になれれば、>>73>>75のようにはなら無いわけです。
一切が空であるということは、全てが自分であるということでもありますから、
本当の自分に目覚めれば使命感に目覚める筈です。ところがそうなれず、
六根から生じる表面的な感情に支配されているから、仏典を読んでも
「あぁ、今の坊さんはどうしようもない」となってしまう訳です。
勿論、我々坊さん自身も反省すべき点も多いし、教団全体の意識改革も必要です。
ただそれは、今の総長が「僧風刷新」を掲げて5年目ですし、雲水の平均掛塔年数も
伸びてきているようにも感じますし、少しずつではありますがなされている訳で、
まだまだ十分ではないにせよ、「やろう」という気概は高まってきています。
「やっても意味ないよ」という人は、少ないと思います。
だからそれは勿論必要であって、継続してやって行く所存でありますが、
折角皆さんが仏教を学んだり、禅に興味をもたれても、それが現代仏教批判で終わっては、
意味ないでしょう?
やはり私達はお互いに、そこから何かを学び、人生の糧としなければならない訳です。
8238改:01/12/28 08:58
期せずして>>79さんの言われた
>だから私は、仏教(如来直伝の教え)は、「空」の教えではなく、人間苦の超克の道
>であり、教えだと思っている。
と言う事は重要で、私が言い換えれば仏教は「安心」を得るための教えである、という事です。
「安心」とは何ぞ?今風に言えば「自分は何の為に生きているか?」に、明快な答えを見出す
と言う事であり、使命感を持つということですよ。

ですから「空の理解」こそが大事と言う手法は、往々にして空理空論になりがちですし、
その批判的な一派として、いわば「空の実践」こそが大事という禅宗が生まれたのでしょう。
再々掲しますが、これがティクナットハン師が言った、
「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」
と言う事なのだと思います。

つまり「空だから○○するべきだ」ではなくて、「空になることによって○○することができる」
と言う事です。それが判ると、道元の「仏であるから坐禅するのであって、仏になるために坐禅
するのではない」という本覚的立場も理解できるわけですが、私たち臨済禅は始覚的な立場です。
「心は萬境に従って転ず、転處実に能く幽なり」ですから「主人公」が大事なのです。
83変人:01/12/28 08:59
>>79
なるほど。
三法印(四法印)→四諦→八正道。からすると仏教で・・・
その根本のところが「空」かと思ってましたよ。
禅宗なんかで良く使われる「四文字熟語」。あれなんかは最高の理法かと思ってましたね。
いわゆる、あれが仏教の本髄で「一如」はすべての帰結点かと思っていました。

まあそういう訳で、ある程度漠然としたものが、一応明確になったということで、
考える上で良い示唆を与えてくれました。
84名無しさん@1周年:01/12/28 09:30
80
>他人の事などどうでもいいとか、自分の考えは他人に分かってもらえない、など
という理由から唯我独尊を教えたのでは無いと思っただけです。

難しい事ですが、まさに禿同。仏教の悲劇は、精神的に引き篭もってしまう傾向が
ある事なのかもしれないが、世界宗教中戦争の歴史に色を添えていないのは、優れ
た精神の教えがまだ生きて機能している証拠とも言える。
85名無しさん@1周年:01/12/28 10:49
80>>84

禿同です。私も仏教は優れた教えだと思っています。
そしてこのスレで、その神髄を学べることは私にとっても大きな喜びです。
ちなみに>>67は私の発言ではないので、もしもそう思って忠告して下さっている方には、
気になさらないで下さい、と申し上げておきます。
86変人:01/12/30 06:22
禿同の三連発をカマシテヨカトデスカ?

仏教の優れた思想というのは、やはり「中道」かと思いますね。
「イデオロギーに固執しない」。ということだと思いますね。
87名無しさん@1周年:01/12/30 09:39
仏教スレで余計な質問をカマシテモヨカトデスカ?

どうも、禿同の意味がわからん。

まあ、意味くらいは洞察可能ですが、

何故に禿であり、同であるのか?
8871:01/12/30 10:48
61
>「煩悩即菩提」なかなかよい教えですよ。
うーん、色々と考えてみたのですが、よく分からない。
何故、「煩悩」と「菩提」が「即」であるのか?
私の回答は「『即』は正しくあるまい」です。

正しくは、「煩悩は、それを正しく見た時、菩提へ向かう動機になる」です。
これが「即」になってしまうと、71のような解釈も可能となる訳ですから。
煩悩を正しく見ると言う、重大な要素を「煩悩即菩提」という漢文から誰が
読み出すことができるでしょうか。
難しい漢文ですと、さも素晴らしく、意味深なようですが、そんなもの有難
がる必要はないでしょう。
仏教に限らず、「人生の教え」は出来るだけ分かり易く語るのが「正語」では
ないのかな?仏典にも、釈尊の言葉として、それぞれが「自分達の言語で語る
のを許す」ともある。現代なら、漢文は中国人の文化で我々日本人には難解です。
現代の日本人は仏教を語るにしても現代文を用いるのが適しているといえる。
伝統的な教えの本髄に迫るなら、漢文のみならず、パーり語からもアプローチ
すべきなのは仏教を学ぶ上では常識でもあります。
それらを咀嚼した上で現代文、現代語で表現するのが深く分かり易い有難いも
のになりましょう。まず分からなければ、お経といえど紙屑と等価なのですから。
分かって初めて価値を知り、実践して初めて納得できるのが、お経の有り難味です。
89変人:01/12/30 11:44
>87
>何故に禿であり、同であるのか?
これは「激しく同意」。の2chバージョンかと思いますね。
「禿銅」でも良いし、「禿道」でも良いし、「禿同」でも良いかと思います。
>88
>正しくは、「煩悩は、それを正しく見た時、菩提へ向かう動機になる」です。
プロセスとしますと、そのとうりだと思います。
私は、どうも「一如」で捉えたほうが理解できるのですが・・。
たとえば「生死一如」「善悪一如」。これなんかは、相対があって初めて意味をなすものかと思います。
「生」だけでは意味がありませんし、「善」だけでは意味がありません。
その延長線で思考してしまいます。
「煩悩」だけでは意味がないとおもうのです。
意識する、しないに関わらず、なにかの相対としての概念であると思うのです。
単独で意味の無いものは、全てその相対があって意味をなすのではないでしょうか?
そういうふうに捉えているのですが如何なものでしょうか?
9071:01/12/30 13:54
89
>「煩悩」だけでは意味がないと思うのです。
確かに、煩悩だけでは「ものの何たるか?」を理解する事も掴む事もできませんね。
別スレで、コミュニケーションの話題が上がっていましたが、一如の世界観そのま
までは、コミュニケーションが成り立ちませんよね。コミュニケーションは自他分
別の状態で行うことだと思うのです。コミュニケーション、相互理解へ向かう道で
は一如的な見方は、人間の認識能力からして他の誤解を招きやすい。
よって、相対(自他分別)で物事を理解、認識するという事が可能になる。
その意味で、「煩悩」と「菩提」を対比させて思想を発展させるのは優れた発想だ
と思います。ただ、「煩悩即菩提」としてしまいますと、煩悩が即そのまま菩提な
のだから、これでいいんだ的な発想になって71のような大誤解が生まれやすい。
人間とは実に自己に都合のよい解釈をしてしまうものだから。私が現代文で出来る
だけ分かりやすく易しい言葉の方が善いと思うのはその辺に由来します。
決して、「煩悩即菩提」の思想そのものが間違っていると言っている訳ではありま
せん。重要な事柄は、解釈の幅を広げない方がいいと思うと言う事です。(^^)
91変人:01/12/30 16:43
90
言っていることは良く分かります。
「煩悩」とは、えてしてマイナスイメージがありますね。
果たしてこの相対となる概念とは何ぞや?となりますと、これが捉えようが無い。
つまり、瞬間の心の状態でして、瞬時に発生して瞬時に消え去る。
これに「拘るか?」はたまた「ありのまま受け入れるか?」ここで大きな差があると思いますね。
「煩悩に拘る」とはどういう事なのか?これをジックリ考えてみたいのです。
これを突き詰めていきますと「有って良し」「無くて良し」。これを会得するかと思うのです。
帰結するところは「中道」。これにて、煩悩とは何ぞや?が解せるに思う。
9271:01/12/30 19:43
91
>「煩悩」とはえてしてマイナスイメージがありますよね。
煩悩はイメージではなく、現実に人間を不幸に導くものです。苦しみに導くものです。
瞬間の心にすると、苦しみを自覚する瞬間です。分かり易く言うと、「あー、良かった」
と、一息就いている時に、ふと、悪い事が起こるのではないだろうか!?というような
心です。これらは何故、起こってくるかというと不善心処(煩悩を起こす心の働き)と
言われるものが人間の精神作用の中に組み込まれていて、それらが常に動いているからな
のです。仏教の学び修行は、この不善心処を超克し、善心処(智慧を起こす心の働き)を
育てるための学びであり、修行です。「ありのまま」が良いのは、実は正見の時だけです。
何故なら「ありのまま」でなければ、正しいものが見えてこないからです。仏教の道にお
いては、煩悩は超克するもので、「あって良し」「なくて良し」というようなどっち付か
ずは良くないと言う事です。中道は、有無の中間という立場ではなく、物事の要のような
ものです。この要の立場に立てば、「あって良し」「なくて良し」にはならずに、「無け
れば良く」「あれば良い」ものが克明になって来るはずなのです。ただ、「なければ良い」
ものに拘泥ず、「あれば良い」ものに執着しないようにするだけなのです。これは正見の時
に弁別できるものです。さらに正思で拘泥、執着を離れるのです。八正道の順序は伊達では
ないのですね。(^^)
9371:01/12/30 20:17
91
>果たしてこの相対となる概念とは何ぞや?となりますと、これが捉えようがない。
つまり、瞬間の心の状態でして、瞬時に発生して瞬時に消え去る。

心の活動速度はとてつもなく速く、非常に速いということです。通常であれば、気
付いた時にはもう起こり、気付いた時にはもう消えている事は多々あります。
これらのものを追いかけてあれこれ考えず、ただ、変化の様相を観察していればいい
ということらしいですね。つまり、これが正見の修行になっているわけです。
だから、これらの動きを観察していればいいだけなのです。この時点で何かに囚われ
たら、三法印に返り、四念処を行うのが基本です。

>「煩悩に拘る」とはどういうことなのか?これをジックリ考えてみたいのです。

煩悩に拘れば、ただ苦しみが増え不幸に陥っていくだけです。やればすぐ分かります。
でも、どうしてそこで「有って良し」、「無くて良し」。を会得するのか私にはどう
しても分かりません。その部分、もう少し詳しく説明して頂けませんか?
94変人:01/12/30 23:14
71さん
>これらは何故、起こってくるかというと不善心処(煩悩を起こす心の働き)と
>言われるものが人間の精神作用の中に組み込まれていて、それらが常に動いているからな
>のです。
ということで、これが・・・
>煩悩に拘れば、ただ苦しみが増え不幸に陥っていくだけです。やればすぐ分かります。
というふうに、どうして決め付けてしまうのでしょう?
ここのとこが、どうも分かりませんね。
即ち、煩悩が全く無くなってしまったら、即ハッピー状態になりますか?
ハッピー状態というのも、是即ち相対の概念でして、煩悩が無ければハッピー状態も無いですね。
さすれば、煩悩にはその実体が無くて、あるのは概念だけですよ。
概念は相対なくして有りえない。ということを気付くのではないでしょうか?
概念も五蘊の理法により、もはやその実体も非ず。
「有って良し」「無くて良し」なのではないでしょうか?

もし説明が不充分でしたら、再びレス付けますよ。大事なところですから・・。
9571:01/12/31 01:03
94、変人さん
>というふうに、どうして決め付けてしまうのでしょう?
これは「決め付け」と言うより、体験上の答えです。私が出した答えというよりも
もともと言われていた答えに私も体験上納得したということです。
>即ち、煩悩が無くなってしまったら、即ハッピー状態になりますか?
五蘊がある限り、煩悩が無くなるということは原理的にあり得ないと思いますよ。
ただ、煩悩が減れば即、心は軽くなり、晴れやかになりますよ。是は即時的です。
>概念も五蘊の法理により、もはやその実体も非ず。「有って良し」「無くて良し」…
五蘊は肉体がある限り、つまり人間である限り実体がないものとして済ませられるよう
なものではありません。抓れば痛いのは現実ですし、飲み食いをしなければ死にます。
これも五蘊ですが現実であり、無きものにならん訳です。五蘊は我々にとっては「一切」なのです。
>ハッピー状態というのも、是即ち相対の概念でして、煩悩が無ければハッピー状態も無いですね。
人間は煩悩がなくても十分にハッピー(幸福)になります。相対的な快苦は、分かり易いのですが
それらは五蘊に振り回されている状態です。煩悩が無くなって同時に無くなるハッピーは五蘊の
作用反作用ではないかな。不生不滅の幸福、これが涅槃と言われるものの性質でしょう。
例えば、光が物質に当ることで影ができますよね。これが五蘊の状態なのです。しかし、物質が
無くなれば影も消えますね。影が消えたら輝きは無くなりませんよね。これらは概念の世界では
ないと思いますよ。ここで煩悩の定義をしておきますが、是即ち貪欲、無知、瞋恚の三種。この
基は渇愛と言われています。渇愛は無明から生じると言われています。
そこで、果たして貪欲が無ければ幸福になれまいか?無知がなければ幸福になれまいか?瞋恚が
無ければ幸福になれまいか?渇愛がなければ幸福になれまいか?無明がなければ幸福になれまい
か?私は幸福になれると思うのですが。如何なものでしょう?
96変人:01/12/31 04:12
71さん
>人間は煩悩がなくても十分にハッピー(幸福)になります。相対的な快苦は、分かり易いのですが
>それらは五蘊に振り回されている状態です。煩悩が無くなって同時に無くなるハッピーは五蘊の
>作用反作用ではないかな。不生不滅の幸福、これが涅槃と言われるものの性質でしょう。

煩悩を絶ってハッピーになる。というのは随分合理的におもえるのですが、二元的対処療法に感じられます。
初めに「一切皆苦」ありき。苦を全面的に肯定して、それから「苦」とは何ぞや?
「苦楽一如」。苦楽一如とは何ぞや?・・・と、こういうふうに肯定していく。
で、最終的に、あらゆる概念を超越したのが「不生不滅」かと思います。
ですから、不生不滅は弁証法的に「排除」するのではなく、プロセスとしては「排除」はあるかもしれませんが、
帰結点は全て包含せしめ且つ超越しているかと思うのです。
ですから、作用反作用も「有って無きが如し」。どうでも「良い」状態なのではないでしょうか?
さように思うのですが、如何なもんでしょう?
97変人:01/12/31 09:17
71さん
>そこで、果たして貪欲が無ければ幸福になれまいか?無知がなければ幸福になれまいか?瞋恚が
>無ければ幸福になれまいか?渇愛がなければ幸福になれまいか?無明がなければ幸福になれまい
>か?私は幸福になれると思うのですが。如何なものでしょう?
ここのところの人間像というのが、どうしても思い浮かばないですね。
即ち、失恋していてもハッピー状態。借金していてもハッピー状態。
いわば、属に言う「おめでたい人間」というのを連想してしまうのですよ。
なんの苦労も無い「自由人」というのでしょうか?悟りの「大愚?」の境地というのでしょうか?

貴方は、それ相当の理想的人間というのを思い描いているのでしょうけど・・・
四六時中ハッピー状態というのは、非常に興味がありますね。
98変人:01/12/31 09:27
71さん
97レスは、貴方を批判してのものではありませんので了承願います。
貴方の意見は尊重しております。
私の考えを率直にカキコしたまでの事。貴方にはいろいろ勉強になっています。
9971:01/12/31 10:14
96、変人さん
>煩悩を絶ってハッピーになる。というのは随分合理的に思えるのですが、二元的対処療法に感じられます。

そうですね。そういう見方も可能です。でも、その見地に立ってみても、二元的対処療法を甘く見る
事はできませんよ。それは欠かすことのできないプロセスなんです。四諦のプロセスを考えて見てく
ださい。「苦」とは何ぞや?で、苦有れば楽有るの「苦楽一如」になるとしたら、それは煩悩そのも
のではないですか?つまり苦楽は輪廻する無常だと。そこで帰結点に行って「有って無きが如し」で
実体の無いものだから、どうでも「良い」状態になるのは、仏教の論法では修行放棄になります。
四諦の、苦、集、滅、道の、滅で止まっているからです。修行中は「あれば良いもの」を増やし「無
ければ良いもの」を減らす努力は欠かせない重大事です。

まず四諦でよく間違われる「苦、集、道、滅」と、「苦、集、滅、道」のプロセスの違いをレスして
もらえないでしょうか?そうしないと基本的コンセンサスさえ得られない状態のようです。(^^)

      
100変人:01/12/31 13:31
71さん
四諦 苦諦→生存は苦なり
   集諦→それの原因
   滅諦→それを絶つこと
   道諦→その方法
まあ私の考えでは、煩悩を絶つために修行をしますね。
そうしますと煩悩とはどういうものか?だんだん分かってくると思うのです。
それで、ある時点まできますと「受け入れてくる」というのでしょうか?
すこし概念が変わってくるのじゃないかとおもうのです。
96レスのとうり・・・
>不生不滅は弁証法的に「排除」するのではなく、プロセスとしては「排除」はあるかもしれませんが、
>帰結点は全て包含せしめ且つ超越しているかと思うのです。
つまり、苦、集、滅から「道」に至るのは、ある段階があると見ています。
「道」において超越するのではないか?これが「不生」かと思うのですが、どうでしょう?

 
10171:02/01/01 11:16
100変人さん
あけましておめでとうございます。
さて、四諦の論法の捉え方はその通りです。でも、私の質問の仕方に問題があったのかも知れ
ませんが、何故、この順番に組み立てられているのか?ということを質問してみたのですよ。
参考までに書き込んでおきますね。
まず、四諦は「四つの諦め」ではなく「苦しみを超える為の四つの命題」と言うのが分かり易
い言い方であり、実際そのように捉えるのが語源から言って正しいと思います。

では、苦、集、道、滅。の方なのですが、これは一般的にその到達地点に「絶対神」のような
ものを想定する宗教理論などに用いられているものだと思います。つまりそれぞれの教えの論
法なり修行なりを、真っ当しない限り最終段階の「滅」には至れない訳です。そして「滅」を
最終目的地に設定しているのですが、これでは常人に「滅」の何たるかが当然分からず、ああ
でもない、こうでもないの迷いの末に、最後には「信」に縋る以外、人間には選択肢が残らな
くなってしまうのです。
一方、苦、集、滅、道。は、「滅」を「ものの道理」としているのです。つまり、縁起の法の
「これ有るなら、あれも有る。これ無ければ、あれも無い」です。釈尊のような方に待機説法
で導かれて、誰でも「ああ、そういうことだ!」と気付けるものなのです。そこで気付いたと
ころで終らず、じゃあ、現実に実践して取り組みましょう。となるので最後に「道」が開けて
自分が歩むのです。変人さんの用語ですと、「空即是色」になりますか?
釈尊、仏陀といえど、涅槃入りするまで、「人間釈迦」として歩み続けていらっしゃったので
すから、仏教の目指す処の何たるかは、そこに語られているのです。最後まで現実と取り組む
事。どこにあるか分からない「悟り」や「解脱」のようなものが最終到達地点、目標ではなく
て、「道」である実践、「空」と「色」の間の実践こそが「道」であり八正道なのです。
「滅」という答えが最終目的地ではなく、答えを実践する道が仏教の教えであり、四諦が、苦、
集、滅、道。の順番に整えられているのが仏教なのです。
10271:02/01/01 11:56
97
>四六時中ハッピーというのは、非常に興味がありますね。

どうも、ハッピーという言葉に語弊があるようです。健康と置き換えてみてください。
病気と健康の関係は相対ではありませんよね。病気があって健康があるわけですよね。
別に、病気を取ったからといって、健康も損なわれることはないわけですから。
煩悩は、言わば病気なのです。法話などでも、よく煩悩を病気に例えることをしてい
ます。変人さんが「煩悩」をどの様に捉えているのかが問題であり、私は「煩悩即菩提」
と言う論法は、「病気即知恵」になるのですよ。(笑)これは違いますよね。
まあ、通常言われている「煩悩即菩提」の意味は分かりますよ。「病気になれば健康へ
向かう知恵が生まれる」ということです。ポテンシャルエネルギーの作用反作用は等価
だと言う事に他なりません。特別に有り難がるものでもありませんでしょう。これも道理
なのです。道理に人間性が入り込む隙はありません。法として既に完成しているものなの
ですから。道理を如何に利用するかで人間性は問われるのです。その道理から、外れてし
まうのがある意味人間性(煩悩)なので、そこのところを勘違いすると何が何だか分から
なくなってしまうのではないですか?
10338改:02/01/01 12:31
明けましておめでとうございます。
スレが賑わっていて大変ありがたいですが、チラッと見ただけですが
色々質問や反論申しあげたい点もありますので、また時間が出来ましたら
宜しくお付き合いください。
私がこのスレを立ち上げた意図は、いかに2chだといえどもあまりに伝統的禅の
立場とは異なる情報ばかりが蔓延していると、ともすると何もご存知ない方に
誤解を受ける恐れがあったり、間違った方向に進まれる事を危惧したからであります。
今年もそのつもりで、出来るだけ判りやすく正しい臨済宗の教え、禅仏教の情報を
告知していければと思っていますので宜しくお願いします。
今年は馬年ですので、「驢の如く、馬の如く」僅かでもお役に立てればと思っている
所存です。
最後に歳旦祝偈を披露して、年頭の挨拶とします。
陽暖風和萬象新 山房迎客點茶親 東君正令此宣布 今日花開壬午春
104変人:02/01/01 18:06
71さん
あけましておめでとうございます。
煩悩は最後まで煩悩であり、その概念は変わらず・・という事ですね。
よく分かりました。
「五蘊皆空」というのがありましたからね、すでにそこに包含されてしまうかと思いましたよ。
五蘊皆空を会得すれば、その時点で煩悩の概念は変わるかと思っていました。
イヤーこの般若経はスゴイ。こんな感想でした。
実際そう思い込みますと、煩悩の概念は変わるものですよ。
「煩悩ありて有りがたや」。こんな気持ちになりますよ。不思議ですね。宗教というのは・・
心持ち一つで感謝する気持ちになってしまう。
「鰯の頭も信心から」。という諺がありましたけれど、やはり気の持ちようですね。

えたして、般若経はそういったインパクトの強い経典なのではないでしょうか?
人間の心の奧底に入り込んで、瞬時に納得さてくれる。そんな印象をもちました。
シンプルな字列のなかに「奥深さ」を秘めている・・そんな魅力です。

38改さん
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いします。
105名無しさん@1周年:02/01/02 05:11
あけましておめでとう。

>>101-102
仰りたいことはよく分かるし、否定はしません。
しかし、それもまた方便の域を出ていない論法でしょう。
特に>>101の内容をよく読むと、常日頃、変人さんがいつも言っている、
そのとき、そのときを深く生きることが、
結果としての悟りを追い求めるより大事なこと、
という意味以外のなにものでも無いように聞こえます。
言い方が違うだけで、変人さんと貴方は同じ事を言っているんです。

「煩悩即菩提」とか「衆生本来仏なり」という言い方には、
確かに修行そのものを否定してしまう趣があり、
文字通りに受け止めると危険ではあります。
しかし、これを正しく理解しないと、それに続く「修行」の意味もゆがんでしまう危険があり、
一概にどういう言い方が「正しい」とは決めることはできないでしょう。
自分が仏であるという認識が最初に無ければ、
どうやったら仏になれるか?という目的指向の修行が出てきてしまい、
それこそ「滅」を結果として追い求める
カルトと同じ悲劇を生む可能性だってあるわけです(同時に修行放棄の危険もある)。
「煩悩即菩提」も、正しく理解されないと、
煩悩を抑圧するという暴挙にでる可能性もあり、
事実そのせいで人間性がゆがんでしまった修行者も多いはずです(放逸に走る危険もある)。
つまり、どういう表現をとるか?というのはどちらにしろ方便の域を出ません。
そういうところに真理は存在しないんです。
106名無しさん@1周年:02/01/02 05:12
また、たびたび出てくる
「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」
ですが、これも本来、たとえば中観派の言うような勝義諦といえども、
世俗諦に対する究極の真理としてではなく、
やはり人を戯論寂滅の境地に導くための単なる方便としてとらえるべきだ、
という意味に読めますね。
さらに、空からの顕現、ですが、これは本来なら修行で言えば、
いわゆる初歓喜地から以降の菩薩道を実践できるようになって初めて言えることでしょう。
つまり、これ以前は、修行者は本当の意味での空を知りませんから、
自分の内を内観する以外に修行(道)のありようは無いかも知れないが
(宗派にもよるでしょうが)、ここから以降はそうであってはいけないのは当然です。
107変人:02/01/02 08:56
>>105>>106
>自分の内を内観する以外に修行(道)のありようは無いかも知れないが

深い内容ですね。つまりは↑に集約されるという事ですね。
私における「深く生きる」は、即ち「内観」という位置付けでして、
いわゆる、瞑想も含む日常の生活そのものが修行。ということですね。

まあ新年を期に、一応わたしも初心に帰って色々考察してみたいと思っております。
「修行放棄」というのも、再考のテーマかと思います。
108変人:02/01/02 11:29
四諦における「減諦」についての私見。
これはどういうふうにして顕現ならしめるのであろうか?
いわゆる「減らす」ことに主眼がなされるのであろう。それで、修行がなされる。
そのうち「気付き」がある。この「気付き」というのは概念の瞬時の変化である。
このことが、いわゆる私のアンティテーゼになっている。
「減らす」という概念→概念の変化→結果的に「減らす」。こういったプロセスです。

いわゆる言葉の使い方の問題で、ここのところの捉え方がどう違うのか?
よくよく考えてみますと同一なのではないか?そういうふうな印象があります。
10971:02/01/02 14:50
105
>仰りたいことは分かるし、否定もしません。

私が101で何か特別なことを書き込んでいますか?四諦は仏教の基本中の基本ですよ。何も
101で私は自分の思想を述べたつもりもなく、これくらいのことは、仏教を学んでいてその
理論、行法を自分の生活の中に取り入れるくらいの人であれば、誰でも納得しているはずのも
のだと思いますし、そうでなければ、基本的な事柄を軽視していると言えるでしょう。何事に
おいても基本が大切で、それを疎かにするべきではありませんからね。それとも、四諦は仏教
の基本であるということも、異を唱えているのですか?
だから、
>変人さんと貴方は同じ事を言っているんです。
そうでなければ、私も困ってしまいます。同じ仏教を学んでいるのに、基本的なところで全く
違う意見になってしまえば、オカシナ事ですからね。レスの流れを見てもらえば多分、分かる
と思うのですが、変人さんと私は、人間煩悩の捉え方でコンセンサスが得られなかったので、
基本的な事に返ってそれを確認し合ったと言うことなんです。

私は基本的な立場から意見し、質問します。確かにセンスのある方などは、経典類をみて一気
に本質に迫れることもあると思いますが、私が見る限りではやはり基本的な部分で不安定であ
るように見受けられるのです。例えば先の「煩悩即菩提」とか「衆生本来仏なり」などの言葉
は、その真意を一体誰が分かるというのでしょうか?直感で受けつける部分は私も否定しませ
んが、安易に他人と意見交換できるレベルの話ではないと思います。この部分を正しく理解す
ると言っても、内容が非常に高度である分どのような理解が正しいのか、誰にも分からないの
が実情でしょう。だから、方便なのだなどと言っていると、人間煩悩に幾らでも逃げ道を作る
ようなものです。分かる処は分かる。分からない処は分からない。とハッキリ認めて、厳しく
制する処はシッカリと制する。これが仏教が迷妄から離れている由縁でしょう。
11071:02/01/02 17:31
104変人さん
般若心経は私もインパクトの有るお経だと思います。109にも書きましたが、センスのある方
などは、一気に本質に迫れる内容だろうと思います。
ただ、そこから、どうしたらいいのか?は、全く雲を掴むが如きではないでしょうか?
観自在菩薩行 深般若波羅蜜多時・・…
ここでまず百人が百人、躓きますよね。何が何だか分からんと…・・
その世界観には人間の直感で迫れるものですが、書いた本人から、直伝でもない限り、あの世
界観に到達できる人はいないと思います。つまり、掴んだものを消化できないという意味で。
実際に、般若心経を実践すると言っても、たちどころに、観自在菩薩が出てきてしまう訳です。
だから、観自在菩薩になったつもりで、分かったつもりで実践するしかないんですね。これが
所謂「方便」に繋がっていくところでしょう。別に、方便はいいのです。分からない事を分か
ったつもりになるのが問題なのです。何事でもそうですが、特に学び事の場合は、分からない
ものは分からない、分かるものから始める。という判断は英断です。
104に
>五蘊皆空を会得すれば、その時点で煩悩の概念が変わると思っていました。とありますが、
確かに、それを会得すれば、そうなるのだと私も思う。ただ、それを会得しなくても、煩悩に
対する概念はものの見方で変化するでしょう。ただ、概念が変わっても、それに対応した煩悩
に変わるだけだと思います。仏教の提唱する煩悩とのスタンスは「関わらずに離れよ」です。
封じ込めよ、や、交戦せよではないです。これも基本的な態度です。
般若心経から、五蘊皆空を会得する具体的な実践方法が掴み出せれば問題はないのかも知れま
せんが、多分、それは玄奘でもいない限り無理であろうと私は思ってしまう。
11138改:02/01/02 17:47
横レス失礼します。

>>109
>私が101で何か特別なことを書き込んでいますか?四諦は仏教の基本中の基本ですよ。
その通りですが、71さんも>>101スレで
>どこにあるか分からない「悟り」や「解脱」のようなものが最終到達地点、目標ではなく
>て、「道」である実践、「空」と「色」の間の実践こそが「道」であり八正道なのです。
と仰っているように、要は釈尊は四諦で理論ではなく実践の重要性を説いたのであり、
その道諦が八正道だった訳ですが、だからといって八正道が必ずしも絶対的なものではなく、
例えばそれが六波羅蜜のどれか一つであっても良いという意味合いで、105さんは
>仰りたいことはよく分かるし、否定はしません。
>しかし、それもまた方便の域を出ていない論法でしょう。
と言われたのではないかと思います。

お二人のレスをそれぞれ読んでいても、それほど立場は異ならないような気がしますが…。
お節介でした。(^-^;

ところで「煩悩即菩提」と「中道」についてレス準備中ですが、「煩悩即菩提」は
『六祖壇経』が出典かと思ったら、ダンマパダに「煩悩即菩提品」があると中川孝氏
が仰ってて、友松圓諦師の「法句経」しか持っていないのですが、それでは確認できませんでした。
一寸、今度もともとの意味をよく知らんべてみたいです。

「中道」については、私自身の認識としては「断見でも、常見でもない、のが中道」と
思っています。つまり「今、この、私」を全体的に受け止めるのが「中道」ではないかと…。
そういう意味で中道は、何でもありでもないし、厭世的なニヒリズムでもないですが、
変人さんの認識と若干違うような気がしています。
また今度ゆっくりと。
112変人:02/01/02 18:32
>>110
>特に学び事の場合は、分からない
>ものは分からない、分かるものから始める。という判断は英断です。

私などは、そういった明確な2分別というのは合理的であるようですが、果たしてその様に出来るのであろうか?
出来るのであれば、今の哲学は一つに集約されているのではないでしょうか?
真っ向から対立する思想でも、同一で論じられる。いかに分別がむつかしいか?ということです。
例えば、原子配列は確認できても「電子」は実際確認は不可能です。
実験的に存在が確認されているだけで、それでも一応疑う人は殆どいないでしょう。
それでも「分かった」という事になるでしょうが、実際のところは「未知なる世界」です。
精神世界となりますと、客観的判断がありませんから、余計そのところは至難です。

煩悩について
>仏教の提唱する煩悩とのスタンスは「関わらずに離れよ」です。
>封じ込めよ、や、交戦せよではないです。これも基本的な態度です。

私は、この事を言っておるのです。
即ち、無理に煩悩を絶たなくとも「気付き」があるから、それを超越する・・。
超越とは「ある」「なし」の概念から離れる。ということです。
有っても良し、無くても良し。「関わらず」。ということです。
大事なことは、概念とは何ぞや?というよりも、それに「執着せず」が肝要かと思う。
執着しなければ、いずれ煩悩という概念も離れていくものです。
これが「不生」に繋がると思いますね。ここのところが一番大事かと思いますよ。
113変人:02/01/02 19:45
>>111
>つまり「今、この、私」を全体的に受け止めるのが「中道」ではないかと…。

この部分は、私の主要なアンティテーゼですよ。
「深く生きよ」。と、私が日頃から提唱しております(^^)
11471:02/01/02 20:43
112
>明確な二分別というのは合理的であるようですが、果たしてそのようにできるので
あろうか?
ここのところは、何もそんなに青筋立てて追求する必要がない。という事ですよ。
世界がどうなのか?とか、複雑な哲学理論が分別しがたい、というようなことを分別
せよ、などと仏教では問われないでしょう?
自分にとって理解できる事と理解できない事の分別をせよ。と言う事を言っているん
です。自分に理解できないものは世界に幾らでもありますよね。そういうものを探求
するのは仏教の仕事ではないと思いますよ。苦しみを超える道、それが仏教です。
115変人:02/01/02 21:36
114
私はどうも難解なのですが・・。
「不生不滅」は中学生でも理解できますよね。
「無始無終」ということですから、そこからすれば煩悩などは些細なことですよ。
煩悩が有っても、煩悩が無くても何れ人間は死ぬわけですからね。
私が死んでも「不生不滅」「無始無終」「色即是空」「空即是色」。何も変わりません。
それで初めて「気付く」のではないでしょうか?
「不生」の意味は何方でも理解は出来ると思いますよ。
ようは「受け止め方」でしょう。どう受け止めるか?でしょうけど・・・
私としては、全てここに集約されていると思うのです。
ですから、ここのところは説明しようがないですが、全てが超越できるのではないでしょうか?
さすれば、それ以上の事はあまり意味を持たなくなりますよ。
「気付き」というのは、そういう事だと思いますね。
あまりにも単純すぎるので、説明するほどの事ではないものが、えてして「気付かない」ものですよ。
「眼横鼻直」は良い例なのではないでしょうか?
116一ROM者:02/01/03 00:03
なんかやっぱり噛み合っていないようですね。(笑)
71さんは仏教の基本的な立場からカキコしてるのに対し
変人さんは禅的な立場からカキコしている。
71さんから見ればこんな私のカキコは
「えっ?それじゃ仏教と禅の教えは違うのか?
禅宗は仏教から派生したものなんだから基本的な考えが違うんじゃ
おかしいのでは?」と思うかも・・・。
果たして変人さんと38改さんは71さんを納得させられるかな?
11771:02/01/03 09:53
115
>私はどうも難解なのですが・・…
どの辺が難解なのですか?自分にとって「関った方が良い事」と「関らない方が良い事」を
見分ければいいのではないですか?なにも、そこで究極的な真理を見抜く必要はありません
よね。でも、それに「気付いた」からといって、煩悩など些細な事と言って「どうでもいい」
という態度に出るのは、修行放棄だともいっているわけです。
多分、私も変人さんの言う「気付き」までは同意できると思いますが、そこからの選択肢が
納得できない。つまり、「有っても良し」「無くても良し」=「どうでも良し」という風に
受け取りますよ。通常は。ここで難しい述語を持ってきて十分な吟味もなく解釈や受け止め方
の問題で済ますとしたら、それは結局のところ自分もよく分からずに書き込んでいる事になり
ませんか?さらに究極的真理に「気付き」さえすれば、煩悩など些細な事で、どうでも良い事
だとなれば、私としては「禅宗」は仏教というより、一つの神秘思想になると思ってしまう。
つまり、言葉は違っても「神を受け入れれば救われる」と同じ事を言っているのですから。
説明しようの無いものがあるのは分かりますが、それを「いちいち」持ち出してくるのは仏教を
専門家にしか分からない難しい宗教哲学にしてしまうのではないでしょうか?
118変人:02/01/03 11:37
117
>煩悩など些細な事と言って「どうでもいい」
>という態度に出るのは、修行放棄だともいっているわけです。

この段階になりますと、煩悩への執着(拘り)が客観視されてきます。
「不生」とは何ぞや?「五蘊皆空」とは何ぞや?
そういった事が冷静に洞察されてきます。
しかるに、あるシンプルなところに帰結点を有することになるのです。
「そうだったのか?」ここにて初めて解るのです。
つまり、人間は目の前の「まつ毛」が見えないのです。それがいわゆる「無明」です。
あまりにも単純なゆえ、人間は見過ごしてしまうのです。
修行とはその道程かと思います。長い修行によって「単純」な事が解るのです。
修行をやったからこそ解るのであって。通常ですと、聞き流してしまうのではないでしょうか?
それを理解するためにも「修行」は大事なのでしょう。そういう事だと思いますね。
119変人:02/01/03 11:58
117
>「有っても良し」「無くても良し」=「どうでも良し」という風に 受け取りますよ。

煩悩の受け止め方はそれで良いと思いますよ。
「こうであるべき」。という概念こそ払拭せねばならないんじゃないでしょうか?
これが「禅」とおける中核部分かと思いますね。如何でしょうか?
120変人:02/01/04 08:38
>>111
>一寸、今度もともとの意味をよく知らんべてみたいです。

>変人さんの認識と若干違うような気がしています。
>また今度ゆっくりと。

先達は一応参考ということで・・。38改さんの見解というのが肝要かと思います。
それにて、初めて「すり合わせ」というのをするのでしょうから、
禅師のアンティテーゼがバラエティーに富んでいるのも、
そういった、自分なりにアイデンティティーを持っているからなのではないでしょうか?
そういうふうに捉えているのですが如何なもんでしょう?
12171:02/01/04 10:28
118
>この段階になりますと
というと、どのような段階の事を言っているのですか?
話が一気に飛躍しているので、118のレスそのものの意味が
受け取りにくくなっています。
119
「こうあるべき」という概念を離れるのは「正見」においてです。八正道の最初に
「正見」が設けてあるのです。一番最初にです。
そこから順次続いている項目も伊達ではありませんよ。これが体系というものなの
です。しかも、これは仏弟子達の伝えたとはいえ、釈尊が残した行法なのです。
この八正道を修めていながら、煩悩に対する答えが「どうでもいい」になってしま
うのは、どう考えても納得はいかない事だと、私は最初から言っているのですよ。
私には、「どうでもよくない」という態度を取りながら、「どうでもいい」と発言
する矛盾とも覗われてきます。分からない事を分かったつもりになれば、ご自身が
混乱するだけではないでしょうか?それとも「わざと」難しい事柄の前で混乱する
ことが修行なのですか?
122変人:02/01/04 10:50
121
>というと、どのような段階の事を言っているのですか?
認識の変わる段階の事です。
もちろん認識の変わらない方もおりましょうし、数ヵ月で変わる方もおりましょう。
必ず「変わる」とは断言できません。

>「正見」が設けてあるのです。一番最初にです
一番最初の正見が正しいのなら、なにも修行はしなくても良い訳ですね。
その見極めができないからこそ修行をするのです。
自分が「正しい」と思った事でも、「思い違い」というのがあるでしょう。
それを「無明」というのだと思いますね。
いわば、暗闇の中の光こそ「気付き」かと思いますね。
そこに無常を感じますよ。人間は「無明」のなかで苦悶しておるのです。
それが初めにありき。それから徐々に解ってくるのではないでしょうか?
それが本筋かと思いますよ。いかがでしょう?
12338改:02/01/04 14:07

>一ROM者さん
>果たして変人さんと38改さんは71さんを納得させられるかな?
あ、私71さんを納得させようとするものではありません。
このスレは、ただ、禅宗の正しい情報をお伝えするだけです。

>>121
>「こうあるべき」という概念を離れるのは「正見」においてです。八正道の最初に
>「正見」が設けてあるのです。一番最初にです。
八正道を、正見→正思惟→正語→正業→正命→正精進→正念→正定
と言うように、順序に従って生起すると考えるのは一つの立場にすぎませんし、
また八正道は本来一体のもので、正見、正語などはそれぞれに融通し合う
と考えるのも、また一つの立場にすぎないでしょう。
繰り返しますが、ここで大切なのは何を持ってして「正」とするか、ということでは
無いでしょうか。
そういう意味で「正見」の重要性は私も同感では有ります。
私は、「正見」を得る事は、同時に「正命」を生きる事でもあり、また他の
「正語」「正念」などにも通じると思います。
なぜなら、この正悪を超えた「正」とは、自己の「仏心、仏性」の「本来の性質」
として「正」である、と考えるからであります。
ここら辺が「本覚思想批判」の的で、無我で無常だから「絶対的正があるのはおかしい」
となるところでありますが、禅では正悪、有無を超えた存在を言っているのであって、
けして有無の上での有るではないということを付け加えておきます。

12438改:02/01/04 14:08
さて、だからと言って禅宗は、無謬に「自己の仏心、仏性の存在を受け入れさえすれば
それで良い」とする神秘主義ではけっしてありません。
『涅槃経』に「世尊、一切の衆生、仏性有ると云えども阿耨多羅三藐三菩提
を得るには、須らく八聖道(八正道)を修すべしや」と有るように、そういう
意味で「正見を得るための修行」は必要です。
ここのところが71さんと変人さんの争点であり、古来たびたび取り上げられて来た
問題と同様であるように感じます。
つまりそれは、盤珪の「不生禅」でもあり、南岳懐譲が馬祖道一に「瓦を磨いて
鏡に成るか」と言ったのと、同一の問題を含むと思います。

ただこの問題は、馬祖もそうであったように答えを固定的に考えるのは難しいと思います。
「何の為に修行するのか?」「修行は必要か否か?」の問いには、相手の理解や
状態に応じて答えも変化すると言うのが、禅宗の立場であると思います。

また「煩悩即菩提」の本来の意味を禅的に言えば、「衆生本来仏なり」という事
だと思います。また「迷悟一心に有り、発心即ち菩提心に到る」という事。
けして「煩悩そのまま」の肯定ではありません。
ただ善悪という二元的な対立に禅は「無記」であるだけです。
12571:02/01/04 14:52
122
質問の内容が伝わらなかったようですが、「この段階」というのは、どのような状態から、
どのような状態への変化の段階の事を言っているのですか?という質問してみたのですが。

>一番最初の正見が正しいなら、何も修行しなくても良い訳ですよね。
違います。ここがあなたの見解に対し異を唱えている部分です。その正見に合わせて、思考、
言葉、行いを順次正して行くのが八正道ではないですか。
四諦のところでも苦、集、滅、道。という風に体系が整えられていると既にいっているのです。
「滅」では終らないのです。四諦、八正道の理解がこれだけ等閑であるというのは、私は変人
さんの仏教の理論やその修行の体系をどのように理解されているのか疑問にさえ思えてくるの
です。変人さんの理解している仏教とは、どのような体系になっているのですか?
126変人:02/01/04 16:10
>125
>その正見に合わせて、思考、
>言葉、行いを順次正して行くのが八正道ではないですか。
それが出来るのであれば、そのようにしたら宜しかろうに思う。
出来る人もいるのでしょうけど、私には「出来ない」。ということです。
ですから修行が大事と言っているのです。

>変人さんの理解している仏教とは、どのような体系になっているのですか?
今までレスしてきた通りですね。

ところで、貴方は「体系」と言われますが、どんな「体系」で八正道を実践するのですか?
いわゆる、思考→言葉→行い。ということでしょうか?これが「体系」ですか?

>質問の内容が伝わらなかったようですが、「この段階」というのは、どのような状態から、
>どのような状態への変化の段階の事を言っているのですか?という質問してみたのですが。
簡単に言うと、無明→気付き。です。
127名無しさん@1周年:02/01/04 16:11
12838改:02/01/04 17:01
ん?↑
ブラクラ?(*^▽^*)
129大丈夫か君?:02/01/04 17:16
>このスレは、ただ、禅宗の正しい情報をお伝えするだけです。

片目も開いていない人間が正しい情報って・・・おいおい・・・。(爆)
13038改:02/01/04 20:20
>>129
勿論、私は一介の臨済宗布教師ですので、室内の事や悟りそのものについて
云々するつもりは毛頭ありません。また、何もWeb上に限らず、
そのような事についてアレコレ言う事は、老師様方でもなさりません。
それは、言わずもがなです。

ではなぜ、私のような片目も開いていないような人間が、
このようなスレを作らざるを得なかったか?

それはろくに室内も知らず、正統の師家に参禅したことも無いのに、
悟りを得たかのように吹聴し、公案を話題に遊ぶ野狐禅の手合いが、
2chはじめインターネット上には余りに多いからです。
勿論、私はそういう者たちと議論するのが目的ではありません、

カルトの場合もそうですが、入信しているものを脱退させるのは至難の業であり、
よほどの時間と労力が無ければ出来ませんし、それすら徒労に終わるのが殆どです。
しかし、まともな普通の人々がカルトに陥らないようにする予防活動として、
正しい情報を伝えるという事は、比較的容易に行えます。
同様に、禅に興味のある人に、まともな臨済宗の情報が得られる場所が必要だと
思い、このスレを立ち上げました。

インターネットでは相手の顔や経歴もわからず、匿名性も高いです。
だからこそ本音も語り合えるという利便もありますが、
中には現実生活の不満の捌け口として、実際とは違う自分の人格を
誇大妄想的に作り上げる輩も多いです。
臨済禅は現実逃避ではありません。自分自身をどう引き受けていくかです。
そこを臨済禅師は「病、不自信に在り」と言われたのです。
131名無しさん@1周年:02/01/04 21:49
105>>130
129さんじゃないが、正しい情報という言い方自体がカルトの言い方と同じなんだよ。
そんなこと言っているようじゃ、キミもあまたいる野狐の輩と同類だろうに。
それすら気がつかないなら病不自信もいいところだよ。
この2ちゃんで、伝統宗派で、自分たちの正しい見解がどうこう言っているところなんてあるかい?
そんなこと言ってるのはカルトばっかり。
ちゃんとしてた伝統宗派ならそんな馬鹿なことは言わないよ。

>同様に、禅に興味のある人に、まともな臨済宗の情報が得られる場所が必要だと
>思い、このスレを立ち上げました。

あなたのおかげで伝統的禅の立場がよく分かり、同時にヒッピー禅の良さが再確認できた。
そのことに関しては感謝している。
13238改:02/01/04 21:57
>>131
「自分達の見解が正しい」何て言っていないです。
言い換えれば「臨済宗が正しい」なんて言っていない、
「正しい臨済宗の情報」だって。
133名無しさん@1周年:02/01/05 00:30
131>>132

あ、それならいいです。
134変人:02/01/05 12:38
煩悩が有っても、煩悩が無くても、その時その時を「深く生きれば」それで良いのですよ。
一期一会というのでしょうか?
その時、初めて気付くのですよ。煩悩とは何ぞや?
やはり修行は大事かと思いますよ。
仏教一般論ですと、なかなかそこまで言い尽くせません。
13571:02/01/05 14:43
126
だから、基本的な体系は四諦だといっているじゃないですか。
苦しみを超える為の四つの命題です。その中に八正道があるのです。
八正道だけ取り出して行じることなど、できませんよ。
だから、私はあなたが、「どんな修行」をしているのか疑問に思うんです。
多分、こう言うと、「『深く生きる』これが修行ですね」と返ってきそうですが。
つまり、他人に説明できないものに終始しているように見えてきてしまうんですよ。
そこであなたは、
>仏教一般論ですと、なかなかそこまで言い尽くせません。と仰る。とすると特殊論
があると推察しますが、特殊論など仏教の論ではありませんね。仏教というのは釈尊
の教えだということも忘れてしまったのですか?
仏教一般論を離れた論なら、何もわざわざ「仏教」を名乗らなくてもいいのですよ。
仏教=釈尊の教えです。これすらも否定するの?伝教大師の教えでも、弘法大師の
教えでもないですよ。これは中国の僧侶達に付いても同じです。
ハッキリ言ってしまえば仏教一般論を超えた論なら、「仏教」ではないと思います。
あなたは何処ぞの宗派に属しているのですか?修行が大事、修行が大事と仰りますが
一体、どんな修行をしているのですか?その修行で、何か目指すものがあるんですか?
136変人:02/01/05 15:14
>135
仏教全般に話を広げれば、日蓮宗も仏教ですね。
私はあえて宗派には触れたくはありませんが、
もしかりに、死ぬか生きるか切羽詰った時。
「南無妙法蓮華経」の題目によって救われる。という縁にふれ・・・
正誤は別に、気休めでも良いからそれによって助かるのであれば、良しとするのですよ。
つまり、瞬時瞬時が方便であっても大局的見地というのが肝要なのですよ。
ダルマはその時の状況によって、最も適したものが語られるのが良しとします。
よって、状況の変化は又違ったように語られても良しとする。
「南無妙法蓮華経」も然り。さように思います。

注意。日蓮宗と日蓮正宗は大変な違いですから、その意味は含んでおりません。
まあ、深い意味は無いという事ですね。了承願います。
137変人:02/01/05 16:57
絶対仏信仰は仏教か?否か?
私は、これにても考えは色々かと思いますよ。
「南無妙法蓮華経」で幾多の人間が救われるのであれば、これは正誤で決められないのですよ。
こういったケースはいくらでもあります。
正見の難しいところですよ。先ずこういったところの「見極め」。これが大事ですね。
理論的判断の出来ない部分というのはありますよ。精進くだされ。
138変人:02/01/05 19:19
>>135
>>仏教一般論ですと、なかなかそこまで言い尽くせません。と仰る。とすると特殊論
>があると推察しますが、特殊論など仏教の論ではありませんね。仏教というのは釈尊
>の教えだということも忘れてしまったのですか?

ここのところは、なかなかユニークな考えで、いたく恐れ入っております(苦笑
13971:02/01/05 19:31
38改さん
何を持って「正」とするか?これは「無常、苦、無我」の三法印を持って「正」とするのでは
ないですか?この見解に基ずいて物事を見るのが「正見」の眼差しです。その眼差しを基に善
く思考するのが正思で、それに基ずいて語り、行うのが正語、正業です。これで身、口、意の
三業を整えるわけですよね。八正道のいずれにおいても、この正見の眼差しは要な事なんです。
「無常、苦、無我」の見解を外れて「正見」はないと思います。ここで、何処まで正しく見れ
ばいいのか?と言う疑問が出てくるかもしれませんが、仏教の教えは客観的な世界を正しく見
る事以上に、それぞれの人間がその背負った苦悩を超える事に重心を置いていると思うのでそ
の「何処まで」という判断はその立場によって異なってくるのは分かります。でも、正見の正
の原点は、何処までいっても「無常、苦、無我」を外す事はないし、それを何処まで観察する
のか?ということだと思います。仏教で言うところの「正しさ」とは「中道」で、「中道」は
「無常、苦、無我」の見解に僅かでも入ることがなければ分からない質のものだと思います。
何ものかと何ものかの間で闘争があれば、それを裁くのではなく、鎮めるのが仏道だと思います。
でも、それでも鎮まらない時もある。そういう時は静かに念仏を唱えるのも仏道だとも思う。
四諦が仏教の基本であるという事は動かす事はできないけれど、それを行えない状態の時に
それを行えとは確かに言えない。「無常、苦、無我」を自我に受け入れさせるのは容易では
ではないし、人生の基本はそれぞれが行う事ですから。救いや学びを求める徒に対しそこへ
導く為に様々な方便を使うのは仏道でしょう。ただ私は仏道即仏教ではないと言う意見を持
っているので、変人さんとその辺の相違が噛み合わないようで御迷惑をかけている事はお詫
びしておきます。もし、度を越えているとあなたが思ったら、遠慮なく仰ってください。
130であなたがこのスレを立てた意思を私も確認しているので、それを邪魔するようなこ
とになっているとしたら、やはりそれは善くない事だと私は思いますし、私も気付かずに間
違える人間ですから、その辺の余地は設けてあります。
14071:02/01/05 23:52
136,137
言っている事の意味は分かるのですが、仏教一般論の「一般」というところの一般の
意味と、仏教全般という言葉の意味では明らかに違うものです。(正語を心掛けて)
私はテッキリあなたのレスから察して、仏教特殊論があるのかと思いましたよ。(笑
あなたに「分かり易く」とお願いするのは、どうも無理のようですね。仏教全般に話
を広げるのは、レスの流れからして私は適当とは思えません。あなた個人の仏教との
関りを質問しているのですからね。
>正誤は別に、気休めでもいいからそれによって救われるのなら、それで良しとする
のですよ。
誰かが生死の瀬戸際にたってなら、それも方便として善い事だと思います。しかし、
通常なら、正誤が「有っても良く」「無くても良い」「どうでも良い」訳ではあり
ますまい。いつもそんな事を言うのは修行放棄、果ては現実逃避になりましょう。
私だって死に行く人を前にしたら「あなたは八正道を行じなかったので救われませ
ん」などと言えないと思います。
でも、どうしてあなたは「今ここ」でそのような有りもしないことを持ち出して話を
するのだろう?あなたが日蓮宗だというのなら話も分かりますが、そうでもないのに
わざわざ関りのない宗派を持ち出してくる必要はあなたには無いと思いますよ。だか
ら私には、わざと話を難しくしているようにさえ見えてきます。
絶対仏信仰は仏教か否か?が果たしてあなたの人生の苦悩に直接関係している事な
のだろうか?わざわざそこまで行く必要があなたにあるのか?ということです。
そんなことを見極める必要があなたにあるのか?ということです。人生をわざわざ
難しくしているように私には見える。それがあなたの「煩悩即菩提」なのですか?
つまり、煩悩?を突き詰めて突き詰めて目一杯緊張状態にして、そこで気付きを得
て一気に開放するような。でも、それなら精神的な意味での苦行になるのではない
だろうか。あなたのレスをみていると、よく「そこまできて始めて分かる」とか
「そこまで来て初めて気付く」とかは、それを語っているようにも思えてきます。
141変人:02/01/06 03:47
>140
例えば、日蓮正宗の方とは仏教については見解が全く違います。
仏教観を語っても結論は解っています。
喪家の友達はおりますが、互いにそこのところは暗黙の了解があります。

私見なのですが、仏教はもともと寛容な宗教だと思っているんですよ。
葉隠れの「武士道とは死ぬこととみたり」。というのは「無我」に通じるところもあって
武士にこよなく愛されてきましたし、一方では「現世ご利益」的な教義を立てているところもあります。
仏教が、インドでは少数派であるのに、何故日本では民衆に多く受け入れられているのか?
ヒンドゥー教にはない、ファジーな無常観が良く民族性にマッチしているんかと思いますね。
142変人:02/01/06 08:44
禅について
盤珪禅師は、もともとは臨済宗の流れをくんでいます。
最終的には、中国唐の時代の純禅に直結するといわれる「不生の仏心」を説いている。
「不生といふて、不滅といふもむだな事」。また・・・
「古ほうぐのせんぎ」。と言って、公案禅をしりぞけ日常会話を取り入れた。
当時としては、画期的なこととおもいます。
禅には、こういった「懐の広い」ところがもともとあるんだとおもうんですね。
そこが「禅」の良いところだと思いますね。

私は、盤珪禅師も好きですし、白隠禅師もそれなりに良いところはありますよ。
他宗においても、それなりに学ぶべきところはあります。
ようは、「自分にとってのスタンス」ですよ。
これを明確にすればそれで良いのです。
同じ禅師でも、盤珪さんと白隠さんはスタンスが違いますよ。それで良いのです。
14371:02/01/06 15:22
141
あなたが、「ファジーな無常観に私は浸っていたいのです」という意見は、一応受け入れておきます。
しかし、この世界は絶対的なものではありませんが、正誤、優劣などの事柄が諸々問題としてあるの
です。このことは宗教といえど例外ではなく、むしろ隠さずに開放すれば、その極みが噴出する処の
ものです。あなたの喪家の友人とも暗黙の了解があるのは、そのことが分かっているからに他ならな
いと思います。経験から、比較、相対的に他との関わりにおいて正誤、優劣を抜きに関る事が困難で
あると。その状態で深く関れば「とんでもないもの」が出てくると。このことは仏道など関わりのな
い人でさえ分かることなのです。喧嘩なども、始めるのは容易く鎮めるのは困難なのは誰でも分かる
ことです。要約すれば、秩序から無秩序へ変化するのは容易で、無秩序から秩序へ変化するのは困難
なのは誰にでも分かることです。何故分かるのか?というと具体的だからです。
だから、宗教的な観念を離れて理性で暗黙の了解が得られる訳です。お互いに「こは苦なり」で了解
した訳です。これは「苦」が具体的だから分かるのです。
これに対し、宗教的な観念などは具体的ではありません。抽象的で「分かる」類のことではないので
す。分かったつもりになれるだけです。文化としての仏教、教養としての仏教は、抽象的、概念的で
それこそ、まず「捨てるもの」だと思うんですね。あなたと喪家の友人も捨てているから暗黙の了解
が得られている訳です。何故捨てたか?と言えば「苦」が分かったからです。
煩悩が、「有っても良く」「無くても良く」=「どうでもいい事」だったら、わざわざそれから離れ
たり、捨てたりしないと思うのですよ。
144変人:02/01/06 16:15
風にななびく幡を見て、一人の僧は「これは幡が動いている」。と言った。
もう一人の僧は「いいや、これは風が動いている」。と言った。
そこに通りがかった六祖慧能は「それは、あなたの心が動いてるんじゃよ」。と言った。

これは「非風非幡」という有名な話なのですが、同じような話が「一休さん」にもありまして、
一休禅師が、娘さんを背負い橋を渡るさい、弟子に冷やかされる・・・
その際、一休禅師も六祖慧能と同じような事を言っている。

つまりですね、「禅」には独特の「捉えかた」というのがありまして、
ここのところが非常にデリケートなのですよ。
「直指人心」。「見性成仏」。これが底流にありませんとレスは進みません。
よって、序序にではありますが、この方向で展開していきます。宜しいでしょうか?
14571:02/01/06 16:22
141
まあ、いろいろ有るようですが、私は四諦説法からの法の理解が、最も優れていると思っているので、
この立場から意見し、質問しているわけです。これは推測の域を出ませんが、釈尊が仏教におられれ
ば、これほどの宗派が起こることは無かったと思うし、時代や地域の広がりに伴って仏教自体も変化
する部分もあるだろうが、四諦説法と言う骨格は変わらないと思うのですよ。
それが分からなくなってしまった仏教は、やはり末法の仏教と言わざるを得まい。色々なものを仏教
に取り入れて、最後には何でも有りが仏教だとまで言い出す事も可能になる。「仏教」には枠がある。
その「枠」を出たら、仏教である必要はないと思います。これこそ、方便の仏教の極みの姿でしょう。
>何故、日本では民衆に多く受け入れられているのか?
受け入れられる様に変化させたからに他なりません。戦争や飢饉で明日をも知れぬ命の状態の衆生に
安心を与える為でもある。不安や無念の中で息絶えていくより、善い事だという苦肉の策でもあるの
です。そう言う状況下での方便は、その状況下で生きるものです。現在の状況下では、現在の方便が
必要です。私は仏陀の教えに返るのが急務だと思うのです。宗派の特色よりも仏教の原点に重点を置
くようなね。そうなれば異なる宗派でも同じ仏教の心を確認し合い、尊重し合えるのではないだろう
か。大手を振って我が宗派の特色を語る事ができるのですね。まあ、何時かはそうなって欲しいもの
です。詰まるところ私も、その根本的な部分であなたの言に同意でずにいる訳ですから。
大日如来も阿弥陀如来も観音菩薩も私に否定できるものではないが、分からんものを分かったつもり
になって、無理な解釈をしているのは自我を持って法を掴むような事だと思う。それよりも確認でき
る事を確認し合う方が善いのです。
釈尊は正法を、次ぎのように要約している。
1 現に証せられるもの。
2 時を隔てずして果報のあるもの。
3 「来て確かめてみよ」と誰にでも言えるもの。
4 よく涅槃に導くもの。
5 知者のそれぞれが自ら知るべきもの。

これらの事を吟味している修行者は善いとしても、等閑にしている修行者はもう一度よく釈尊仏教を
捉え直してみては如何なものだろうか。それぞれの宗派はそのままでいいのだから。
14671:02/01/06 16:50

私の意見で、レスが進まないようなので、ここで少し持論を離れ、禅、臨済宗
というものを見ている事にしますよ。長々と済まなかった。どうぞ、構わずに
進めてください。
147変人:02/01/06 17:45
木を燃やして灰になった場合。
これを連続性で捉えず、ある瞬間が木であり、ある瞬間が灰である。
つまり、命というのを「瞬間」として捉えている。

これは、道元禅師の煩悩の喩えばなしです。

盤珪禅師は、嫁姑問題に関して「互いの記憶を憎んでいるんじゃよ」。
つまり、道元禅師と同じ事を言っているのです。
これでヨカトデスカ?(^^)
148変人:02/01/06 18:29
>>145
「如来界に土足で踏み入る者」。そういう捉えかたですか?
それが我慢ならんのと違いますか?
そういうのがビンビン伝わってきますよ。
149変人:02/01/06 21:54
宗派云々はさておき
直指人心。
心鏡なり。
これで良いと思う。
自分にとって「禅」とは?これで良いかと思う。
15071:02/01/06 22:22

別に「我慢ならん」と言うわけではないですよ。納得できないものは納得できない。ここに
います。つまり分かるものは分かる。分からないものは分からない。これが私の基本的な土俵
なのです。でも、私が不満なのは同じ仏教を学んでいる徒が共通分母さえ確認し合えない事です。
148は一応受けておきます。
151変人:02/01/07 02:26
如来界(浄土)が外にあるという一部の宗派はそういうふうに見えるらしい。
私は、涅槃寂静。そのままの世界だと思っている。
直指人心。自らの仏性を目覚めさせ、自覚することを意味する。
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味。

>つまり分かるものは分かる。分からないものは分からない。これが私の基本的な土俵
ここの部分も、貴方ご自身の努力しだいではないでしょうか?
つまり、仏教は体験(修行)することに意味があるんで、理論で云々しても
分かることと分からないことはご自身の問題ですよ。こればかりは私にはドーニモナリャセンヨ

そういうことで、禅は「直指人心」。自らの心を鏡に喩えたのです(盤珪禅師)。
宗派が、臨済であろうが曹洞であろうが無宗派であろうが、さして問題に非ず。
ようは、自分自身の仏性に目覚めればそれで良いのですよ。
それから、四諦における「道」を考えればいいんじゃありませんか?
先ずは「黙って座れ」。これっきゃないかと思いますが如何でしょうか?
152変人:02/01/07 08:40
伝統宗派について
私の友人が住職でしてね。修行時代はそれなりの質素な食事で「食」による修行というのも出来ますが、
実際、檀家との関わり合いをもってきますと、檀家が野菜や果物を寺に持ってくるわけですよ(地方の場合)。
季節によって、同種類のものが沢山集まりますから、どうにか食べても当然余ります。
さすれば、それを処分していく訳ですね。最初の頃は心が痛むのですが、徐々に馴れてきますよ。人間ですから。
そのうち「食」に関して、感謝する気持ちも段々失せてきます。
こういったこともありますから、修行というのが如何に大変か?ということですね。

正見が如何に大変か?ということですよ。
体系の大事さを強調しても、実際のところそんなに甘くはないですよ。
自分に厳しくならないと、そこは会得できません。
盤珪が乞食と生活をともにしたのも、底流を考察しませんと理解できないと思います。
15371:02/01/07 15:07

私の「分かるものは分かる。分からないものは分からない」これは仰る通り自身の努力で賄える
部分でもありますが、基本的には人間の認識力の限界のことを言っているのです。
宗教というのは人間の認識力を超えた世界、言わば形而上の世界を扱い、或いは定義します。し
かし、仏教は「涅槃」というものは認めますが、それがどういうものであるのか?は基本的に議
論しません。何故なら、人間の認識力の限界を超えているものだからです。だから「浄土」であ
るとか「悟り」であるとかは放っておきます。行じる事は「苦の滅」苦しみを取る(離れる)事
です。「浄土」や「悟り」は無明に覆われた人間には分かるものではありません。でも、苦しみ
は「誰にでも」分かる。苦しみを取る(離れる)事も分かる。病人がその症状で回復状態が分か
るようなものです。これは理屈を超えて「誰にでも」分かる事です。「禅」というのは一般的に
禅問答などと言われるように、第三者的な立場の人には全く分かりません。文字言語に頼らずに
概念的教義も否定する禅の宗を考えれば、そう言う事になるのは理解できるし、分けられないも
の、文字にできないものに重きを置くのは大切な事だとも思う。しかしそれに終始するなら禅寺で
信頼関係の基で行うのが筋ではないだろうか。不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏を宗と
するなら、ここでの安易な書き込みは不適当であろうと思うのです。「ここは修行の場でないか
らいいのだ」は詭弁になるのではなかろうか。その外にでるというのであれば、人間対人間とい
う平等の立場に立つべきだと思う。人間の認識を超えた体験を持ち出してきて、あなたには分か
らんとして済ます態度は人間対人間の立場において道理に適ったものとは思えません。それを敢
えて行えば、何が生まれるかと言えば、相手に誤解と敵意、本人に虚しさを植え付けることにな
っても来るでしょう。この世の定めは相対です。相手があるということです。自分の心だけで済
ましましょうということであれば、それこそお寺へ行って一人黙って座っていればいい訳です。
分かる事と分からない事、分けられる事と分けられない事を別けるのは英断なのです。これが分
からないのなら、自他一如というより、唯我独尊の状態ではないでしょうか。
154変人:02/01/07 16:18
>153
>それこそお寺へ行って一人黙って座っていればいい訳です。
それが良ければ、それも宜しかろうに思う。それは各自で決めることですよ。
仏縁は、宗派に限らず、瞬間々々においてなされるのいが良いかと思いますね。
貴方が仰っていることは、カキコはたやすきけど相当困難ですよ。御存知ですか?
それでも固執し、それをマットウするのであれば私は何にも言いませんけど。
それで衆生が救われるのであれば、それが一番良いのですよ。
お解りですか?「言うはやすし行うは難し」。なのですよ。
今、本当に大事なものは何であるのか?これをとくと吟味なされば、すでに答えは明白。
貴方の胸の奧低には、既にその答えがあるやに思う。
もし無きとしても、すでに衆生はお見通しかとおもう。衆生とて賢明ですよ。
15571:02/01/07 17:07
>正見が如何に大変か?ということですよ。
確かに正見は大変です。しかし、何処かに正確無比な正見があるとお思いですか?
分からない事を分からないと見るのも正見なのですよ。
体系は重要です。四諦の中には理と道があるのです。あなたの知り合いの僧侶は
体系からはみ出して何か難しいことを頭の中で考えていたのかもしれません。
体系の中には無常、苦、無我といって自分に厳しくする理と道が示されているのです。
理と道という分けるべきでないものを分けたまま怠るならば、そりゃオカシクな
るのも道理です。だから、基本的な体系を叩き込んでおくのです。何処で何をし
ていようと直ちに思い出して自分が道理に戻れるように。禅のようにある意味で
理を否定する道は厳しいだろうと洞察します。理論がなければ修行の迷いも多か
ろうから。名僧と言われる僧侶達の修行は、まこと敬服に値する。精進あれ。

私も宗派はさして問題に非ず。です。ただ、自らの宗は定めなければ修行に軸が
持てないと思う。私も黙って座る事を等閑にできる立場ではありません。
156変人:02/01/07 17:58
>体系からはみ出して何か難しいことを頭の中で考えていたのかもしれません。
つまりですね、頭で考えてもどーにもならないかと思いますよ。
生きるとは何ぞや?これは、盤珪さんみたいに乞食になれば、段々読めてくるのではないでしょうか?
何故、そんなことしないと分からないのか?
いわゆる「無明」なんですよ。ここのところを見落としているんじゃないでしょうか?
行学、共に大事ですよ。されど修行無くしてとても分かるはずがありません。
貴方が論じているのは「知識」ではないでしょうか?
「知識」よりも「智慧」が肝要かとおもいますね。
四諦は、私が何度も言ってますよ。四諦の実践こそ「禅」と言ってるんですよ。
「学」を実践して、それで極めるのですよ。そこへのプロセスが大事なのです。
私の話は、相当遠くに既にトンドルのですよ。
実践の話をしているのですが、如何でしょうか?
157変人:02/01/07 18:21
一休禅師が、普段着の着物を着て、人に逢ったんですね。
そしたらあまり無愛想でした。
今度は、袈裟懸けでその人に逢ったんですね。
そしたら大そう丁重なもてなしをしたんですよ。
一休禅師は、袈裟懸けに態度が変わるその人を諌めたんですね。
いわゆる「羊頭狗肉」の話ですよ。
「禅」には、こういった話が多数あるんですね。
ナジョシテアルノカ?これはですね、あまり話しの分からない人の為にあるのですよ・・。
精進されたし。
15871:02/01/07 19:23
156
>私の話は、相当遠くに既トンドルのですよ。実践の話をしているのですが、如何でしょうか?

前部の意味は不明です。何を意味するのか「分かり易く」説明して頂けませんか。
「実践の話」とは具体的にどういうことか、的を絞ってください。
159変人:02/01/07 20:19
158
>「実践の話」とは具体的にどういうことか、的を絞ってください。
これはですね、瞬間を生きると言うのでしょうか?
「深く生きる」事ですね。さすれば観えてきますよ。
座る事だけが修行ではありませんよ。寺で座る事も大事でしょうが、更に大事なのは「継続」これしかありません。
普段の生活そのものを修行と捉えることが肝要ですよ。
歓びの時も、悲しき時も、雨が降るときも、風が吹く時も、心は平常心。
命の瞬間を内観するのです。さすれば煩悩に惑わされる自身を観るのです。
煩悩とは何ぞや?を考えるより、考えずとも既に良いのです。これを継続するのが大事なのです。
お寺に数時間座っても、家に帰ってきてからの方が大事かと思いますよ。
とにかく。安易に「お寺が良し」。と考えるのは「逝って良し」。かと思います。
160変人:02/01/07 20:38
158
>前部の意味は不明です。何を意味するのか「分かり易く」説明して頂けませんか。
盤珪さんの、乞食の話が分かりませんか?
つまりですね、「生きる」とは基本的に「喰う」ことですよ。
喰わなければ生きられませんからね。
一切を排除して、基本的な事から考えたら如何でしょうか?
つまり「本質」が肝要なんだとおもいますね。
その部分を抜きにして論じても、得るものは無いかと思いますよ。
貴方が「分かる分からない」を固執するところにも、問題があると思いますね。
そういった二元的捉え方も、段々無くなってくるかと思いますよ。
それを「無明」というのですよ。自分では気が付かないものですね。
16171:02/01/07 22:04
159,160
確かに私の書き込んだ事は理屈が先走りしていたようです。つい、論じる事に夢中に
なり過ぎたと思う。貴方にはお礼を申し上げておきます。あと、遣り取り中に失礼が
あった事もお詫びしておきます。自信過剰が不味かったようです。天狗の鼻を折られ
た気分です。正論に自我を付けてレスしていた自分が甚だ不届きな行為をしていると
気付くことができました。分別のない心に対して恥じ入っている限りです。自分の道
を「生きる」ことにこれを機会に忠実になってみようと思っています。
162変人:02/01/07 22:31
>161
今の、この瞬間こそ、いわゆる一期一会ですよ。
わたしにとっても大変勉強になりました、これも修行と捉えております。
私もレスの進み具合で、自分が観えてきました。
2chでは、随分勉強させてもらってますよ。
貴方にも、結構手ごたえはありましたね(笑
感謝してますよ(^^)
163変人:02/01/08 03:50
盤珪さんが乞食になったことで、後世の人達に「生きる」ことの意味を問いかけている訳ですよ。
禅師の生き方そのものが「教え」になっているのかとおもいますね。
ですから、先達はいわば「禅」における財産ですよ。
良寛も「大愚?」というのを残してくれましたね。その功績は計り知れませんよ。
良寛の生き方に、どれほどの人達が救われたか?想像すれば明白ですよ。
「そういう生き方は出来なくとも、そういう生き方もある」。
その「見本」を示してくれたんですね。

「公案禅」も貴重ですよね。それをしりぞけた盤珪も貴重ですよ。
無駄な禅師は誰もおりませんよ。
たとえトンデモ禅師がいたとしても、それによって「目覚め」を起こす場合もあるのです。
そういった禅師達を全て受け入れるのですよ。そこから学ぶのです。
私のスタンスとしては、まあこういったところでしょうか・・・。
164:02/01/08 04:02
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炉同志の萌え萌え美少女の会 (・∀・)イイ!!   
165名無しさん@1周年:02/01/08 21:48
>>163
>たとえトンデモ禅師がいたとしても、それによって「目覚め」を起こす場合もあるのです。
>そういった禅師達を全て受け入れるのですよ。そこから学ぶのです。

ああ、なるほどね。それでこのスレにカキコしているわけか。
おそらく、ROMしてる人みんな納得。(苦笑)
166変人:02/01/09 09:06



「禅」の公案に「婆子焼庵」というのがあって、
修行僧に庵を建ててやり、良く面倒をみていたんですね。数年後に孫娘を誘惑させるのです。
修行僧は見事にこれを払いのけてしまうのです。怒った老婆は僧を追い出し、庵も焼き払ってしまうのです。
 
白隠は、この話を弟子にするのですね。
弟子は「私なら直ぐ抱いてしまいますよ」。と言うと・・・。
白隠は即刻「破門」してしまうのですね。まあ、当然というべきか?否か?
まあ、私でしたら「老婆の志を先ず考える」。というのが「一つの捉え方」と思っています。
ようは、そういった逸話の中に白隠の人間性をみるのです。
白隠が「人間性が悪い」という事ではありません。「禅」を考えるのに良い材料になる話です。
16738改:02/01/11 10:01
>>139
>71さん
丁度お二人のお話が盛り上がっていたので、忙しさにかまけてレス滞りました。
まだいらっしゃったら、すいません。
さて、何をもって「正」とするかの私の質問に対し、
>「無常、苦、無我」の三法印を持って「正」とするのでは
>ないですか?この見解に基ずいて物事を見るのが「正見」の眼差しです。
とのお答えを頂きました。
確かに理論的にはそうなんですが、ただ「正見」それ自体が無常・無我に基づいた
見解だとしたら、「八正道」は無常・無我を具現化する、つまり自我を滅却して
無我・無常に成り、それによって涅槃に入る為の方法ですから、はじめ八正道を
実践しようとする修行者は、「正見」を得られていないと言えると思います。

話の段階がまちまちで、なかなか噛み合わない部分もあろうと思いますが、
もう少し私の自論にお付き合いいただければと思います。

私が「何を持て正とするか?」とお尋ねしたのは、禅的に言えば「正」とは
「戒律に従った正しさ」でもないし、「仏教学体系的正しさ」でもない。
ましてや「道徳的正しさ」や「社会的正しさ」では決してない訳です。
私が思うに、釈尊が言われたこの「正」は、「生命そのものの持つ本来的正」
だと思うのです。ですから「正・誤」や「正・邪」と言うような「対立的正」
ではありません。二元的な対立を超えた「絶対的正」であります。
禅ではこの「正」を「無」と言ったり、「有」といったり、「本来の面目」と
言ったり、「一無位の真人」と言ったりします。しかし中身は同じものです。
或いは、この「正・邪」、「有・無」など、二元的対立に落ちない、
全体的なモノの捉え方を「中観」と言ったりもします。
16838改:02/01/11 10:01
ここで私が言いたい事をもう一度整理しますが、「八正道」の「正」は、決して
他からやって来る「正」ではない、求めて得られるモノではないという事です。
水は何か修行して、高い所から低い所へ流れるようになる訳ではないのです。
花は冬の間修行して、春になると花を咲かせる訳ではないのです。
水は自ずと低きに流れ、花は自ずと時節を知って開くのです。
人間も同様で、顛倒したモノの見方、煩悩邪見を離れさえすれば、本来私達の
生命が持つ「正」と言うものが自然に発露してくると言う事です。
大人になれば髭が生え、年を取れば白髪になる、腹が減れば飯を食い、眠くなれば
横になる。
或いは「東ニ病氣ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」
こういう優しさは訓練によって他から得られるモノではない、自分自身の中に
生まれながらお互い持っているモノなのです。

私達にとって、動物の子でも、人間の子でも赤ちゃんは本来可愛いものです。
だから育てる事が出来る。これは生命の智慧なのです。だけど最近、親の都合で
幼児虐待が起こる。「子供が泣いてうるさくてTVが見れないから殴った」
これは自分勝手な顛倒で、私達の生命が本来持っている「正」を見失っている
状態です。こういう人に「子供を可愛いと思いなさい」と説いて、或いは
「愛情を持って子供を育てなければ厳罰に処す」と言って、果たしてこの人に
子供への愛情が養われるでしょうか?子供を可愛いと思うでしょうか?
この人自身が、自分の中の親心「我が子をいとおしく思う、自分が死んでも子供
を助けたいと思う」そういう親心に触れないことにはどうしようもないのです。

求めて得られるものでない自分の心、仏心、仏性、自ずから持っておるところの
絶対的「正」に気づくには、教条的に決められたカリキュラムさえこなせば、
オートマティックに段階的に心が開発されるのではない、という事です。
それが禅宗の見解なのです。
16938改:02/01/11 10:56
勿論だからと言って修行が不要だと言っている訳ではありません。
むしろ私は修行は絶対必要だと思います。何もしなくていい訳じゃない。
変人さんの好きな盤珪さんが「不生で調う」と言ったのも、
「何もしない、全て任せきっていく」というある意味努力が必要です。
盤珪は、弟子が坐禅するのを叱っています。
「そんな迷っているようではダメだ!」と言う事でしょう。
「不生に徹しろ」と言う事でしょう。
「阿弥陀仏にお任せする」と言うのと同じですね。
臨済禅師は「自分に信かせない」と言いました。皆同じです。
しかし、それは当時の修行者を始め、多くの人々が「出家して修行しなければ
安心は得られない。どうせ俺なんて」と思っていたから「不生でいいのだ」
と説いたのであって、現代生きておられたら、私なぞ「お前少しは修行しろ!」
と言われていたと思います。

ただここで大切なのが、「修行は真似である」と言う事です。
霊雲の則竹老大師は良く「私達はお釈迦様の真似をして坐禅をしているのだ」
と仰います。ですから、師、正しい師に就くという事が大切です。
謝った師に就くと、間違ったことを真似てしまうからです。
故に、禅宗は仏法滴々の正統を重んじるのです。
そうでなければ、なぜ盤珪さんは印可を求めてあちこちを訪ねたのでしょう?
勿論、機縁で肯がう、肯がわないという事があります。
また印可状が政治的にどうこうという事でもありません。
自分ひとりで「これでいいのだ」となってしまったのでは、いけないのです。
それが僧伽と言う事です。
勿論、究極的には自分の問題です。お釈迦様にも、達磨さんにも窺い知れない、
自分自身をハッキリと知らなければいけないのです。
(私はハッキリしていませんが…┗(-_-;)┛)
だけど、独覚、声聞ではいけない。
17038改:02/01/11 10:57
禅的境地は、禅宗でなくても得られます。陶芸家でも、大工でも、スポーツ選手、
その他あらゆる人々でも、ある程度の達人になれば絶対的無を体験する事は良く
あることなのだと思います。

ただし、その境地に安住してしまっては何にもならない訳です。
坐禅して、「無ーッ」となって気持ち良い、清々しい、「あー良かった」
それで終わっては穴倉禅です。
臨済禅では、その自己の生命に触れたなら、その生命をどう使っていくか、
何の為に飯食ってるのか、それが一番大切な事なのです。
世の為、人の為に、この生命を使っていく、「馬の如く、驢の如し」と僅かでも
荷物を背負って運んでいく。「泥牛」となって働いていく。
それが菩薩であり、大乗だ、上座部だと言うことなく、釈尊は「いかに生くべきか」
を説いたのであって、決して「坐禅して安楽に永住する」事を説いたのではないのです。
そして、「いかに生きるべきか」それを身を以って教えてくれるのが正師です。
その出会いは一見得難いようですが、私は様々な老大師方の生き方を拝見していて、
まだまだ確かにあると思います。
ですから、皆さんが我々禅坊主や禅教団と言うものに、批判的なのは自分自身を
省みても致し方ないことだとは思います。
しかしながら、だからと言って既成教団が全く駄目かと言えば、決してそうではないです。
むしろ一部の非伝統的禅の師家が、正師と言えるのかどうなのか、私は批判的です。
どうせ学ぶなら、どこでやっても同じ努力を払うならば、しっかりした老舗を選ぶほうが
良いのでは?と言うのが私の個人的意見です。
171名無しさん@1周年:02/01/11 11:11
禅語り する人多いね
172うっとうしかったら無視して:02/01/11 12:06
中国での五つの禅宗の顛末はどうなっているのでしょうか?
黄盤禅(漢字覚えていない)は日本に宗主が来て帰化したけど。
他の4禅宗(臨済宗も含め)は文化大革命なんかでどうなったのでしょう?
173172:02/01/11 12:08
質問箱があることを忘れていました。
ごめんなさい。
174変人:02/01/11 13:19
>>1338改さん
>以前「少林寺と北禅」スレで、神秀と六祖の偈頌は、一つ事の両面だと申しましたが、

これはたぶん、神秀の「心は明鏡台の如し」に対する、六祖慧能の「心は明鏡台に非ず、本来無一物」。
ですね。
神秀の「煩悩は時々払拭せよ」。という意味でしょうけど、六祖とはかなり違う気がしますよね。
六祖は「煩悩が降りかかるはずが無い」。と言っておるのですからね。
それでも「一つ事の両面」ですか?
そこのところが興味があります。ご教示下さい。
175変人:02/01/11 13:26
(つづき)
これは私見なのですが・・・。
神秀は、六祖の境地には至っていなかったのではないでしょうか?
かなり認識にズレがあるような気がしますよね。
176名無しさん@1周年:02/01/11 13:26
17738改:02/01/11 19:40
>>172
黄檗宗は五家七宗ではありません。
もとは臨済宗ですが鎌倉時代に我が国に伝わった、宋風臨済禅ではなく、
江戸時代に隠元禅師によって伝えられた明風臨済禅で、念仏を用いる所が特徴です。
黄檗宗と言う呼称を用いたのは明治9年が初めてで、鎌倉期に伝わった臨済宗と
差別化するために、黄檗山万福寺の山号をとって命名したものです。

唐時代に栄えた五家は、六祖から南岳、馬祖、百丈と伝わり、
そこからイ山、仰山と伝わったのが、イ仰宗。
また百丈から黄檗、臨済と伝わったのが臨済宗。
また六祖から青原、石頭と伝わり、徳山、雪峰、雲門と伝わったのが雲門宗。
雪峰、玄沙、法眼と伝わったのが、法眼宗。
また石頭から薬山、洞山、曹山と伝わったのが、曹洞宗です。
臨済宗は後に、楊岐派と黄龍派に分かれて栄え、この二派を加えて「五家七宗」と言います。
臨済宗楊岐派以外は、南宋にはすべて滅んでいます。
中国の臨済宗は清時代まで盛んに続きましたが、清時代に絶えます。
ただその流れは我が国とベトナムに伝わり現在でも続いています。

中国禅宗寺院は、確かに文化大革命で色々な被害に会っていますが、
現在もあります。
最近は日本の教団の援助や交流もあって、次第に復興されてきています。
私はもう10年以上前ですが、少林寺や臨済塔、趙州塔、また黄梅の五祖寺
にも拝塔したことがありますが、その時は仏教学院というのが南京など何ヶ所かに
あって、若い修行者達と出会った事が印象的でした。
178かっぺ:02/01/11 20:48
突然ですが…
このスレ、読んでいて、疲れました。
素人にも、わかりやすい話し方で、説明してもらえないでしょうか?>38改さんへ
基本的には、自分の宗派にこだわらないところで、臨在禅を語ってもらいたいのです。

例えば、「無我」とは何か…
ジャイナ教祖は、釈迦に向って「無我と言うが、ちゃんと、自己はあるではないか」と
言ったといいます。
あ、一つだけ私見を言わせて貰いますと、
仏教関係者の「悟り」は、自己中なもの…というのが、私の私見なのです。
禅による体験…トランスを伴う自己喪失感…その神秘的な体験を考察して、もって、
「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。
(仏=覚者という意味で)

ちなみに、私は、いかなる宗派にも属しておりません。
17938改:02/01/11 21:08
変人さん、お久しぶりです。

>それでも「一つ事の両面」ですか?

>これは私見なのですが・・・。
>神秀は、六祖の境地には至っていなかったのではないでしょうか?

良く禅の解説書などには、そう書かれていますよね。
まぁ、史実的、或いは文献学的な解釈は『六祖壇経』中川孝、タチバナ
教養文庫の解説に譲ります。興味があれば『壇経』読むついでにでもご覧下さい。

ここでは禅的にお答えしますが…。
確かに禅の絶対的平等の立場、無字一枚の世界から見れば
「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処有塵挨」となるのでしょう。
それは、先に「八正道の正は求めて得るものでは無い、本来備わっている
生命が自ずから正邪を超えた絶対的正である」と申し上げたのと同様の立場、
仏、法、僧で言えば、仏の世界、仏の体は無一物です。

しかし法の世界、差別の相に立てば、我々は現実に肉体をもって生きている訳で、
更に、この生命をどう主体的に使って生きていくかと言う僧の世界、用の立場に立てば、
「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使染塵埃」
という姿勢も重要ではないかと思います。
私は、言うなればこれは神秀の生き方であり、神秀の「請願文」だと思います。

それを『壇経』に書いてあるからといって、「慧能が神秀より優れている」
と鵜呑みにして、神秀を馬鹿にするのは非常に忌々しき事だと思うのです。
まぁ実際、慧能の方が、神秀よりも力量があったのかもしれませんが、
南宗程ではないにせよ、その後北宗も栄えましたから、
神秀も立派な五祖弘忍の法嗣なんです。

白隠、盤珪に劣らない江戸時代の禅僧、沢庵禅師も『東海夜話』の中で、
「神秀は慧能に遠く及ばぬ、五祖は慧能に衣鉢を与えたのだと、得意げに語る
禅僧が多いが、壮語するその殆どが神秀ほどの智・行を持っていない」と
嘆いています。

勿論、究極的には「本来無一物」なのでしょうが、私は現代に於いて、
そしてここ2chに於いては、「これでいいのだ」と本覚倒れになるよりも、
「自分の生命は仏様からの預かり物」として大切に生きていく神秀の姿勢から
学ぶべきものが沢山あるのではないか?と思うのです。
18038改:02/01/11 21:25
>>178
かっぺさん>
>このスレ、読んでいて、疲れました。
すいません(^-^;でも読んでくれて有り難うございます。
>素人にも、わかりやすい話し方で、説明してもらえないでしょうか?
一応、心掛けてはいますが、皆さん禅に対する理解に程度差がありますから、
どうしても専門用語を使いがちです。
最初の頃のお話は、それほどでもないので、今度暇な時ご覧頂ければ幸甚です。
>基本的には、自分の宗派にこだわらないところで、臨在禅を語ってもらいたいのです。
う〜ん、私は自分の宗派にこだわって他の宗派や宗教を排斥するつもりはないです。
ただ私は臨済禅坊主なので自らの信仰に基づいてしゃべらない訳にはいけないのですよ。
だって私は私ですから、自分を辞める事は出来ないのです。

>例えば、「無我」とは何か…
理屈で言えば一番難しい問題なのかもしれませんが、簡単に申し上げれば、
「例えばカッパさんが死んでその遺体を放置して置けば、途中腐敗したり、虫に食われたり
バクテリアに分解されながら、最後には土に返る」という事が「無我」です。
そしてその養分で木が茂ったり、草が生えたりするのが「無我」です。
『葉っぱのフレディ』を読むと多少「無我」が判ると思いますよ。

>仏教関係者の「悟り」は、自己中なもの…というのが、私の私見なのです。
>禅による体験…トランスを伴う自己喪失感…その神秘的な体験を考察して、もって、
>「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。
疑うのなら、徹底疑った方が良いですよ。
181名無しさん@1周年:02/01/11 21:43
>>177
>黄檗宗と言う呼称を用いたのは明治9年が初めてで、
>鎌倉期に伝わった臨済宗と差別化するために、
>黄檗山万福寺の山号をとって命名したものです。

じゃあ、どう呼んでたの?
臨済宗?
182変人:02/01/11 22:31
>>179
>「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使染塵埃」

神秀の「時時勤払拭」の部分は「受け止め方?」という事なんでしょうかね。
広義においては、まあ「修行は怠ってはならぬ」というふうにも読めますが・・。
差別の相となれば、その様にも解釈するのが妥当なんでしょうね。

実は、盤珪も「心如明鏡台」と言っておりますが、それも「不生でととのふ」ですから。
禅師の捉えかたというのも色々ありまして、実に興味深いですね。
それはともかく、レスどうも有難う御座いました。
どうも胸につかえていましたものですから、大変参考になりました。 
18338改:02/01/11 22:41
>>181
>じゃあ、どう呼んでたの?
>臨済宗?

はい、そのようです。実際隠元の墨蹟の關冒印もまた臨済正宗です。

>>182
>神秀の「時時勤払拭」の部分は「受け止め方?」という事なんでしょうかね。
まぁ、これは私の読み方なので、神秀と慧能が全く同じレベルの境涯として
「一つ事の両面」とするのは、全く私のいたらない管見でありましょう。
ただ、私の申し上げたかった事はお汲み取りいただいたようで有り難うございます。
184変人:02/01/12 12:15
>>178
>ジャイナ教祖は、釈迦に向って「無我と言うが、ちゃんと、自己はあるではないか」
>「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。

ここのところは面白いですね。
私の前レスで「分かるもの分からないもの}を論争?しましたが、
やはり、二元的に捉えることの難しさ、というのがあるように思うのです。
「無我」「本来仏」は、教科書どうりにはなかなか掴めないものはありますよね。
「空」が底辺にありますと、なんとなく納得できる部分というのが有るのではないでしょうか?
不立文字の範疇かと思うのですよね。そこが「禅」特有なんでしょうか。

これは、私見ですので反論がありましたら承ります。
185かっぺ:02/01/12 18:42
38改 さん、それに変人さんの誠意が身にしみます。
私自身の「大疑問」…なんとか、クリアーしたいのです。
厄介な奴ですが…お付き合い下さい。

まず、「無我」に対する把握。
ゴータマは、霊魂否定の意味で、「無我」と言ったのでは無かったのですか?
ジャイナ教祖には、死人の霊が見えていた。
それで、ブツダに対して、「死んでも自我があるではないか」…と、言った筈。
これは、話の内容が噛み合っていなかったと言うことでしょうか?

変人さん、すみません。
前にスレがあるそうですが、私の言葉の土俵で話してくださらないと
私には、ちと、理解できないところがありますので、
ここで、改めてお尋ねします。

問題は一元論と現実世界の解釈とでも言いましょうか?
俗に集合的無意識を垣間見たとする多くの行者、覚者によって、
「宇宙即我」との認識が生じているものと思われます。
そして、その認識の延長上に「人は本来、神であり、仏であった」という主張が出てきますね?
ここまでの私流の言い方におかしいところはありますか?
18638改:02/01/12 20:39
こんばんは、かっぺさん。
>まず、「無我」に対する把握。
>ゴータマは、霊魂否定の意味で、「無我」と言ったのでは無かったのですか?
>ジャイナ教祖には、死人の霊が見えていた。
>それで、ブツダに対して、「死んでも自我があるではないか」…と、言った筈。

不勉強で阿含経典は読んでいませんし、ジャイナ教の事はしりませんが、
私の認識では、霊魂否定と言うよりも、厳密には我(アートマン)の否定だと
思います。
と言うのはアートマン=霊魂なのかどうなのかもハッキリしませんから…。

我(アートマン)とは、言い換えれば「自分」という常住不変の存在の事です。
判りやすく言えば、それまでバラモン教などでは宇宙には不変の根本的生命、
梵(ブラフマン)があり、その梵(ブラフマン)が転じて、我(アートマン)
になっていると考えられていました。

つまり、私(我)と言う存在は、生まれ変わり死に変わりしても変わらない存在
だと考えられていた訳です。これはインドに侵攻し、支配したアーリヤ人にとっては
とても都合よい考え方でした。アーリヤ人はインド原住民をバイシャ、シュートラなど
低いカーストにすえ、自分たちはバラモン、クシャトリアなどの高いカーストとして
国を治めていましたが、生まれながらに低いカーストであるのは前世の因縁である、
という理論が成り立つからです。

一方、仏陀は無我を説き、四生平等を説きました。本来、変わらない私(我)
というような存在はなく、全ての存在は常に変化している。
であるから自分の前世の行いで(この場合両親や祖先の影響がないと意味ではありません)
今生の身分や病気であるとかないとか、と言うような事は一切無いのだ。
全ては縁起に拠る、としたのです。これが、無我論の根本的思想だと思います。
18738改:02/01/12 20:40
一方で仏陀は、死後の世界や霊魂の存在については、「無記」と言う立場を取っています。
「無記」とは、「有る」とも説かない、「無い」とも説かない、「有ってかつ無い」とも説かない、
「有るのでもなくかつ無いのでもない」とも説かない、という事です。
有名な「毒矢の喩え」がそれです。 つまり毒矢が刺さった怪我人が、この矢を誰が放ったものか、
誰が作ったものかを詮索するよりも、矢を抜いて毒を吸い出すほうが先決なのと同様、
我々は死後の世界があるのか?霊魂が存在するか?と言うような問題を考えるよりも、
この人生の苦しみをどう乗りこえて、いかに充実して生きるかの方が重要であるという教えです。
私も、そう思います。
不思議な事はあるかもしれないですが、文字通り、思議せずに「あぁ、そうか」と受け止めれば
良いのではないでしょうか。

なお私はレスがめちゃくちゃ遅くなる時がありますが、ご了承くださいね。
暇があるときはなるべく早くレスしますので。
188変人:02/01/12 21:10
>>185
>俗に集合的無意識を垣間見たとする多くの行者、覚者によって、
>「宇宙即我」との認識が生じているものと思われます。

直覚?ですと、まさに「宇宙即我}そのものだと思うのですよ。
しかし、この「宇宙即我」というのは、いわゆる「梵天一如」バラモン教そのものなんですね。
だから、本来ですと仏教的ではないのですが、直覚?ですとこれかと思います。
一元論か?不二元論か?実際、理論的解釈など出来ないかと思いますよね。
あくまで、理論は説明ですからね。仏教的に説明するのでしたら不二元論ということになるんでしょう。
一元論ですと形而上的「神」の概念が生じるので、仏教にはそぐわないのでしょうね。

>その認識の延長上に「人は本来、神であり、仏であった」という主張が出てきますね?
すなわち、天地草木全て「万編する仏性」というのかと思うのです。
いわゆる「空」ですよ。
ですから「空」を底辺に添えた「無我」「本来仏」。これでしたら捉えやすいかと思うのです。
貴方の考えで宜しいかと思いますよね。
霊魂否定も、霊魂肯定も、空でしたらさほど問題にもならないんじゃないでしょうか?
ここのところが、「仏教哲学」の素晴らしいところかと思うのですよ。
また、なにか御座いましたらレス下さい。
189かっぺ:02/01/12 21:49
こんばんは!
38改様。私の次元まで下りてくださったお話、分かりやすく、感謝!です。
しかしながら、浅学非才な私目も、お書きくださった教科書の内容のことは、存じ上げております。
私は、これらの教科書の内容に????と思っている次第なのです。

例えば、無我=アートマン=自我(思考、習慣の傾向)と言うことであれば、一見、
そこには、実体というものが無いことは事実?なのでしょう。
問題は、捉え方なのですね。
私にわからないのは、肉体亡き後も、霊的な実体(仮に霊魂としておきます。)は、
実在しています。意識があり、意志があり、意志の交流も可能な「生体」です。
体験上では、彼ら?は、生前は人であったことに間違いはないであろうと思っています。
彼ら(非肉体人間)にも、自我が備わっており、肉体とともに、消滅してはいません。
多分、ジャイナ教祖の指摘は、この点にあったと推測します。
自我と霊魂…この関係、組織構成がいまいち、よくわからないのです。
現代物理学でいえば、全ては、光子の構成。(電磁波の作用=物質)
今のところ、私が確認しているのは、霊体がなんらかの思考、感情を励起したときにのみ、
彼らは、光を発します。
これは、電気理論に酷似していますよね?(電気と光の関係)
その、同じ光子が、霊体を構成し、しかも、意志を発する。
このとき、思考=自我、と、霊体、もしくは、霊魂とは別物なのか?
同一のものから成るのであれば、無我説は、成り立たない。

話を素粒子?のレベルから、分子のレベルにしましょう。
光を素粒子のレベルと見て、その集合体とも見える霊魂を分子と見るわけです。

我々が視覚で認知できる霊魂は、確実に、個別の「存在」です。
決して、宇宙大の名も無く、実体も、無く、把握することも、想像することも出来ないような
「何か」ではありません。
仮に、「それ」が、その宇宙大の何かと関係があるとしても、別に、霊線で繋がっている
とも、見えない。
もしも、宇宙大の「何か」を本体とした、分霊であるとしても、
分かれてしまったそのもの(霊魂)は、そのもの独自の自我を有しています。
こういうものを観察するとき、「あなたは私であり、私はあなたである」などと、
果たして言えるでしょうか?
190かっぺ:02/01/12 22:18
書き込んでいる間に、変人さんのレス…有難うございます。
危うく、見落とすところでした。
話が「空論」に来たようですが、教科書通りに言えば、「空」には、
全てを包含したもの…との解釈があるようで(如来蔵思想)、ここもまた、
私目が???とするところなのです。
果たして、先師の直覚に間違いは無かったのだろうか?(笑)
実は、先の「無我説」といい、この、「空論」といい、これをどう解釈するかで、
これから先に展開される、思想体系は、180度、違ったものに成ってしまいます。
多くの、既存の諸経典としてまとめられた、思想は、その方向として、
「あなたは実は既に、仏である」と、結ぶことが出来ます。
しかし、もし、仏教の三宝印をして、違う受け止め方が、あるとしたら…
話は、一変するのではないでしょうか?
大それたことを申しました。
あくまでも、…だとしたら、のことであって、自信も確信もないのです。
と、申しますのも、卑小、私目は、
「空」=カオス=「無記なるもの」のような気がしているのです。
この場合、磨かれない魂は、神にも仏にもなれません。
その身、そのままで既に、神、もしくは、仏である事の「否定」となります。

変人さん、教科書によらず、あなたご自身の偽らぬ体験から、
このことについての、ご説明をお願いいたします。
191変人:02/01/12 23:03
かっぺさん
大体、人間は「不死不滅」を考えますね。
「空」ですと、いわゆる「宇宙即我?」で「不生不滅」的世界観が築き上げられます。
まあ、無始無終ということでしょうか?。ここに大慈大悲(至福感)が同時にありますから
相当インパクトのあるものと思います。
で、ここにおいて霊魂という概念全く変わるのではないでしょうか?

>この場合、磨かれない魂は、神にも仏にもなれません。
ここのところが大事なんですけど、全く二元的概念では捉えないのかと思いますよ。
その境地を上手く説明しようとするならば・・・
盤珪の「不滅とてむだなこと」。これに尽きるのかと思うのです。
つまり、何と言いましょうか?「無分別の分別」のようなプロセスが大事なのかと思います。
「横眼直鼻」。これもプロセスですよね。
盤珪は、「悟りを拓くために修行をするのでは無い」。この事かと思いますね。
二元的に考えるとガッカリするかもしれませんが、これは全く違うと思いますね。
19238改:02/01/13 06:59
>>189 おはようございます。
なるほど、そういうことですか。以前ネットで出会った友人達と対話した事がありますが、
その方々は、やはり死者の姿がある種の波動となって見えると仰っていました。
かっぺさんは、個別の「存在」の霊魂を感知できるのに、仏教では無我を説くが、
それは間違っているのではないか?という事ですね。

私は、このご質問に対しても、もう何度も引用していますティク・ナット・ハン師の言葉を
以ってお答えさせていただきます。
「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」『禅への鍵』春秋社21P〜22P

ご承知の通り、仏教は死後の世界や霊魂の有無を解明するものではありません。
それぞれが現在の人生を充実させて生きる方法を説くものです。
無我も同様で、無我だから○○しなければ成らないのではないのです。
私達の人生の悩みは、往々にして「私はなぜこんな境遇に生まれたのだろう」とか、
「なぜこんな状態になってしまったのだろうか」という、病気にせよ、経済にせよ、
人間関係にせよ、本来自分以外のもの、背が高いとか、スタイルが良いとか、
自分の付加価値、或いは自分の存在価値についての悩みが殆どでしょう。
そのような中、無我、無常に成ることによってこそ、自分自身の根源的価値に目覚め、
人生の意義や目的がクリアーになり、より充実した生涯を送れるようになるのです。

かっぺさんに限らず、それぞれの問題は、それぞれご自身で解決するより仕方の無い問題で
あり、誰かに言われたから、本を読んだからと言って解決するものではありませんが、
ひととこ私の立場から言わせて貰えれば、「霊魂の存在を感知する事が出来たとして、
それが貴方の人生を充実させるのかどうか?」という事です。
むしろ悩みとなるようでしたら「あぁ、そうか」とあまりこだわらない方が良いように思いますが。
193奇人:02/01/13 21:55
今晩は!皆様!
先ほど、長々と書き連ねましたところ、リロードせよとの事…全部消えてしまいました。
これは、やめとけ!ということなのだと勝手に解釈し、(爆)ご挨拶程度にとどめます。

>、「霊魂の存在を感知する事が出来たとして、
それが貴方の人生を充実させるのかどうか?」という事です。

あのですね、これ、私の主張してやまないところなのですよ。
問題は、無我説という、仏教理念の根幹に関わること…それに踏み込む為の材料。

私にも、禅の体験は実はあるのです。
先師方が、書物で記されている全てのことを私は、体験しています。
トランスも…ずいぶん昔の話ですが…いちおう、ご参考までに…

私の質問は、ひとまず、中断します。
他の方々の為に…ありがとうございました。
194悟って道半ば:02/01/13 23:21
見性しました。よって皆妄想分別。
195変人
悟りでもなければ、見性でもないし