972 :
名無しさん@1周年:02/04/14 22:31
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n6@8iobtrpipytu
973 :
名無しさん@1周年:02/04/14 22:54
あげ あげ あげ あげまくる
974 :
名無しさん@1周年:02/04/14 23:03
yy48f7qc
y45vuisr
vjrovi
vriet
vjrtiy
975 :
名無しさん@1周年:02/04/17 00:11
976 :
名無しさん@1周年:02/04/17 00:16
Moccいいかげんにしろ。
977 :
名無しさん@1周年:02/04/19 16:50
978 :
名無しさん@1周年:02/04/20 22:38
979 :
名無しさん@1周年:02/04/27 17:04
age
980 :
名無しさん@1周年:02/05/01 23:16
age
age荒らしかい。。。
これでまたdat逝きが遠のくなあ。
1001まで一度埋めたほうが早いのかな。
倉庫送り制度復活を激しくきぼん。
意味もなく埋め草。
「字義通りの意味」……そですね、へい。文学テキストとして読むなら教授が
おっしゃる通りで、ここは自分の思考にひきづられて飛躍した表現になってました。
Ex.3:2 で「主の使いが燃える柴の中にて現われる」
%Ex.3:1-2前半は時系列に沿って、というよりは、この挿話全体を総括して提示する
%ものだと思われる。叙事詩の invocation ほど明確ではないが。
Ex.3:4 で微妙な叙述の変化があって、それ以降は燃える柴の中で話しているものは
「主の使い」ではなく「主」=「神」であるといわれる。
で Ex3:14で、その「神」は名を尋ねられ、「我あり」と答える……
記述Beschreibung のレヴェルでいえることはたしかにここまでですね。
例の書きこみをしていたとき、無意識に美術史学的な寓意解釈戦略を念頭に
おいてしまったせいもあり、つい筆がすべりました。つづく。
>>941 \footnote{
\begin{quote}
*そもそも「我あり」と名乗るのは、語りかける相手=人間があってこそ
意味あるのであって、
\end{quote}
なお、この箇所で、「神」は自発的に名乗ったわけではないことを留意すべき
だろう。神の名を問うモーセの問いに対する答えとして「我あり」は与えられている。
本論の範囲を超えるためここでは立ちいらないものの、この一連の応答と
Gen.32:29との比較は、創世記と出エジプト記における神概念の異同を
検討する上で重要な示唆を与えるように、筆者には思われる}
%以下ちと余談 M-x latex-region-comment-out
まーなんですか……
ちょうど、誰かが別の誰かの属性を思い計って、で、質問したつもりは
なかったのかもしれないけど答えと再質問をくらって、で自分が何者かを
告げざるをえなくなった……レヴェルは違うけど、同じようなことが起こ
ってるんだよね。
問われなければ答えはない。でも問われたからといって答えがいつもある
わけではない(ex. Gen.32:29)。旧約の神は基本的にあんまり返事してくれなさげ
なんだけど、詩篇とか見るとそうでもなさげなんだよね。神概念が変質して
くるのかな:-) つづく。
こんなスレが残っていたんですね。
>>984 そうなんですよ。。カトスレの羊さんとは別の方?
ともあれsage信仰ご協力ありがとう。
986 :
スレ通読ROM:02/05/02 00:13
あらためて読み返してみれば何ともマターリした平和的ムード。
それでも小ヨハネ氏にとってみれば
「折伏」が思うように進まず、ストレスたまりまくり。
しれが第3スレでバクハツしたというか……。
「邪悪な何者かが不正に自分を妨害している」という観念に
閉じこもってしまった。 今はどう思っているんだか。
なんだ、ここでもまだ書き込みが続いているのか。
これが、荒らし対策で、連続書き込み制限がどうしたとかいう協力もとめの
やつね。
なるほど。同じことが起こっている。
ところで、神の沈黙ということが言われるけど、神は隠れていて、呼びかけても
応えない、ってえところがいいとこなんだ、と思うようになってしまった。
「あんまり返事してくれなさげ」はそうで、それに付け加えて
「だけど大事なとこで返事してくれることもある」となるか、
「結局やっぱし、返事はない」となるか。
キリスト教は前者を主張してるけどねえ。それって、隠れた、沈黙の神に
耐え切れなかくて、「顕れた、顕れた」って言ってしまったのでは?
あ、これは埋めるのに協力せいとのお達しへの応答で、内容はないよう。
おとっと。ageちった。
さて、%
>>930-950あたりで(ぉぃ)提出されているブルネルス説を、とりあえず踏襲する。
旧約の神は以下のように表現されている。
「(人に対して顕現する)ヤーウェ」
=「(有限な被造世界に対する、端的に神的なものとしての)神
\footnote{諸神の神、という表現も散見するが、これがたんなる修辞上の問題なのか、
周辺民族が有した多神教文化に対する意識的な優越性の主張なのか、は本小論の枠組を超えるので、
やはり立ちいらない。}」
=(イスラエル/諸国民を「僕」として規定する)「主」
ここで表現の相違は、「ヤーウェ」と世界との関係をどのように規定するかに
求められ、神の内部での構造を反映するものではないように思われる。
一方、キリスト教の三一性は、なるほど神と世界との関係規定を含みはするものの、
伝統的には、神の存在様態を原理的に規定するものとして理解されてきた。
我々はここに、ある断絶を見いだす。
\footnote{
おそらくこの断絶は、キリスト教を、
ユダヤ教やあるいは後に登場するイスラム教とわかつ決定的な相違であり、
それにくらべればナザレの大工が救世主かどうか、というのは副次的な問題
である。}
ヤハウェの使い=ヤハウェ(=ヤハウェ顕現体)
という解釈に基づき、小さくないほうのヨハネは、イエスに「父が私を遣わした」
「私はある」「私と父とは一つである」等々の発言をさせた。
霊についてのヨハネの言及も律法=モーセ五書の解釈に基づいていると推定され。
してみると、後半に出てくる、慰め手という聖霊理解はどういうことになるか?
「慰める」という言葉の日本語としてもつニュアンスは、この語を私たちが理解
する際に、不適切な要素を持ち込んでいるのではないだろうか、などなど。
いつかまたやってみたい。
カトスレの羊です。
ブラウザが変で、名前欄の漢字がおかしくなるんです。変えました。
懐かしいですね。
>>987 顕われはほんとうは微妙なんですよ。W)
続きが読みたいので、現行スレno?でも続けてほしいですね
確かに神のあり方について三一論は語ってますわなあ。
だけど、それは結局子なる神だの聖霊だのを登場させてしまったので、それと
父との関係について規定しなけりゃならなくなったからで、
私のような立場からみれば、後知恵ですな。あまりたいしたこっちゃないよう
な気がしたりして。まあ、見事に辻褄を合わせたけどね。大掛かりな装置でね。
でも、そうしたことは、自分が超越者に対してどういう態度をとるかという
ことに比べたら、たいした問題ではないように思ったりして。
>>986 でしょ。個人的には宗教板議論系スレッドではまたーりの極致にあるスレだと思って
るんだけどねえ。。てのはおいといて。
しかしユダヤ教から発生してきたという歴史的事情は、キリスト教における
神概念を旧約に基づいて構成することを余儀なくした。少なくとも新約聖書の
記述に、その確信を読みこむことはあながち不当なことではないように思われる。
そうして、キリスト教徒はこの確信をいまでも捨ててはいない。
\footnote{旧約を放擲する試みがなかったわけではない。しかしそれは異端として
断罪され、かえってキリスト教が、旧約がおのれの源泉であるとの確信をより
強固にすることに繋がる。}
しかし、このキリスト教内部では意識されなかった断絶は、ユダヤ教における
旧約読解と、キリスト教における旧約読解との差異を、あるいは意識的に、
あるいは無意識的に%この辺、修辞。……埋められるにこしたことないが。
拡大することにつながった。
キリスト教が自らの出自としての旧約に適応した読解戦略は、キリスト教
においては「予型論」と呼ばれる。これは旧約の諸エピソードを「福音」
つまりイエスの生涯と死、および復活をあらかじめ予告する表現ないし
事象として解釈する読み方であり、たとえば先述の「燃える柴」は
柴=自然所産であるマリアが、神性=子なる神イエス・キリストを
後者の超越性によって損われることなく、というよりは同じく超越ではあるが
人間と神の間の関係性をつねに更新する「慰め主」としての聖霊に
よって胎内にはらむことを示している、と解釈される。
予型であるということは、「神が全てを無から創造した」からですね。
%994最終行、まだ考えがまとまってないけどとりあえずながす。
%あんまりいじめちゃやよ。でもつっこみ歓迎。
ところで、このような読み方は通例「象徴」といわれるが、キリスト教に
おいてはすでに教理としての神の理念が与えられており、それを旧約の
個別表象に適応していく作業が行われている。%後だしじゃんけん、だね。
筆者はここでF.J.W.Schelling の用語法を踏襲し、このような対応関係に
基づいて成立した表象を「寓意」と呼ぶことにする。
%Schematismus,Allegorie,Symbolの区別があんのだ。
モーセ五書の編集者たちにとって、当該箇所が端的に神の顕現を現わす
ものだったとすれば、キリスト教においては、これはある一時点における
神の顕現を現わすものであると共に、信経がいう「子が……聖霊と処女マリアによって人となる」
という事態の寓意的表現として与えられたものでもある。%N-Kだっけ?これ。
ところでシェリングは、キリスト教神話においては、子なる神イエスだけが
実在と観念がそのうちでは等しい表象、つまり「象徴」であり、あとのものは
ことごとく「象徴的な表現」である、と主張する。%PdK、引用箇所めんどいからパス。
>>995 よくわかんない。本スレのほうで改めて説明してくれるとありがたし。
筆者はここで、有限的かつ時間的存在者であるマリアもまた「象徴的行動」
であるとされていることに注目する。シェリングにおいて、マリアは産出の
寓意であり、それは非物質的な意味での自然であるとされる。
象徴と寓意が厳密に別れたのは近代になってからでは
999です
それではみなさん、いずれまた……
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。