>>933 dendo さん、おひさしぶりでした。なんか急に硬い話をし始めて、恐縮です。
たしかに、フィロンを念頭に置いています。以前、イエスを「神のエイコーン」と
するパウロの言葉を理解するのに、フィロンの創世記解釈が役に立って、パウロは
もちろんフィロンの追従者ではありませんが、ディアスポラの教養あるユダヤ人と
して、共通する解釈法を仮定すると、パウロのイエス理解の背景にある創世記解釈
が推定されたもんですから、今度もうまくいかないかと・・・皮算用中でした。
>>935 romさん、実に興味深い情報提供(というよりこれはご教示という
べきですね)をありがとうございました。
私が言及しようとしていたことは、まさにおっしゃるところの、
> 五書自体に「ヤハウェ」と「ヤハウェ顕現体」を区別する発想があり、
に該当するものと思われます。
だから、堅い線で主張すれば、おっしゃるように、
>「キリスト=ヤハウェ」よりはむしろ
>「キリスト=ヤハウェの使い(顕現体)」と見なしたと考えるのが
> よいかと思います。
ということなんでしょうね。ここからヨハネにおける対応を言い直せば、
父なる神:子なる神(イエス・キリスト)
=旧約のヤハウェ:旧約のヤハウェ顕現体 となるでしょう。
ただ、私はここから、そもそも旧約のヤハゥエは、人間に現れた神(つまり
顕現体こそヤハウェ)だとする理解が可能なのではないか、という考えを
なお捨て切れません。>次発言へ
>940 の続き:
*rom さんご指摘の顕現体について:例えば、創世記18章でマムレの樫の
木のところでアブラハムに現れたヤハウェは、3人の人の一人として描か
顕現体でしょうが(あるいは後代になって三位一体の象徴のように3人を
見る立場からは3人まとめて顕現体?)、17章冒頭で抽象的に描かれる顕
現もまた顕現体なのではないでしょうか。さらに、出エジプト記3章の燃
える柴の中に現れたのは、2節では「ヤハウェのみ使い」、4節では「ヤ
ハウェ」自身と記述されてますが、いずれにしてもヤハウェ顕現体に当た
るのでしょうね。そのヤハウェ(顕現体)こそ、「私はある」と自らの
名を示したのでした。
*私が言いたいことは、「み使い」という表現をされてなくても、人に現
れ、語りかける場合、ヤハウェは顕現体として現れるしかないのではない
か、ということです。
*そもそも「我あり」と名乗るのは、語りかける相手=人間があってこそ
意味あるのであって、そういう意味では、顕現体としてのヤハウェにこそ、
「我あり」という名は相応しい。
*あ、ここまで書いて分かりました。「見えない方の神はヤハウェではな
いのではないか」という私の前言を撤回します。そう主張する必要はあり
ませんでした。
*次のように言い直します:顕現体としてのヤハウェは、自らを「神」と
し、「我有り」と名乗ります。が、その顕現体としてのヤハウェはしばし
ば「ヤハウェのみ使い」と呼ばれることがあるということにヨハネ(グ
ループ)は注目して、顕現体としてのヤハウェと、それを「遣わした」ヤ
ハウェと、ヤハウェを二重化して理解する思想に至ったのではないか、と。
*繰り返すようですが、そもそもヤハウェは人々に語りかけ、関係をもっ
てこそヤハウェです。だから、ヤハウェはほとんどヤハウェ顕現体として
登場するしかないのであり、人はその現われた神から、その背後に、遣わ
した見えない神を想定するしかない、ということになるでしょう。
*ヨハネが、イエスを「我有り」の主体として描き、「聖書は私について
証言するものだ」、「私を見た者は父を見た」「私と父は一つ」等々と
発言した・・・といったことと、以上の理解とは整合的だろうと思います。