死の恐怖の克服のついて

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1名無しさん@1周年
神や宗教が必要とされる理由として、
死の恐怖から救われるから、ということがあると思うんですけど、
それぞれの宗教においては、実際にどんな教えが説かれているのでしょうか。
何を信じれば、死ぬのが怖くなくなりますか?
2生きとし生ける者の法則 @初期仏教 :01/11/14 02:59
      南伝 小部経典 経集 三、入 箭経

この世における人のいのちは、定めなくして知ることができぬ。
また、みじめにして短く、そは、苦と相応しているのである。

何となれば、一たび生まれたる者の、死をまぬかれる手だてはない。
生れたる者は必ず老と死とに至る。これ、生きとし生ける者の法則である。

熟したる果物は、まもなく落ちる恐れのあるがごとく、
生れたる人も、また同じく、常に死の恐れの前にある。

また譬うれば、陶工が作りたる粘土のうつわの、
みなやがては壊れるごとく人の命もまた然るのである。

おさなき者も 成人せる者も、愚かなる者も 賢き者も、
すべての者は死にゆすられ、すべての者は死に赴く。

死に打ち勝たれて去りゆくとき、父も子を救うことはできぬ。
いかなる親類も縁者も、彼をかの世より救い出すことはできぬ。
3生きとし生ける者の法則 @初期仏教 :01/11/14 02:59
ここに相見つつある人々が、ここに親しく語りつつある人々が、
屠所にひかれる牛のごとく、一人々々、死魔に連れ去らるるを見よ。

そのように、すべて世間の人々は、死と老とに攻めさいなまれる。
されど、もろもろの賢き人は、世間の自性を知りて憂うることがない。

生れ来り、死して去る、かの道をなんじは知らぬ。
生死の両端を正しく見ることなき、汝は無益にも悲しみ泣くのである。
この両端を知ることなくして、おのれを害(そこな)いつつ悲泣する者が、
なお何らかの利益することあらば、賢き者もまたまさにこれをなすであろう。

されど、悲泣すとも、憂悩すとも、人は心の寂静を得ることはできぬ。
ただ、苦しみはますます彼につのり、彼の身体は害(そこな)わるるのみである。

身体は痩せ、顔色はあせてゆく、されど、死せる者は蘇らない。
いたずらに悲泣することは無益にして、ただみずから身体を害うのみである。

憂愁を捨断せよ、悲泣するを休めよ。しからざれば、ますます苦を受くるのみ。
命終せる者の上に、いたずらに涙するは、憂愁のとりことなるのである。
4生きとし生ける者の法則 @初期仏教 :01/11/14 02:59
たとい人ありて百年生くるとも、さらに百年をこえて生きようとも、
彼もまた親戚縁者と別れて、ついにかの世に赴かねばならぬ。

されば人は、聖者の法を聴き、いとしき者の命終にあうとも
「私はもはや彼とともに暮らすことができぬ」と悲泣する心をまず調伏せねばならぬ。

たとえば、水をもて燃ゆる火を消しとどめるがごとく、風来って綿をふきとばすがごとく、
かくのごとく、賢き者は、生起する憂愁を速やかに滅せねばならぬ。
おのれの幸福を求むる者は、おのれの歎き悲しみを除かねばならぬ。
貪りと憂いとを除かねばならぬ。まさに、煩悩の箭(や)を抜かねばならぬ。

すでに煩悩の箭を抜きすて、依るところなく、求むるところなく、
心の寂静を得るにいたれば、一切の憂愁をこえて無憂者となる。
5夢の如し @初期仏教 :01/11/14 03:01
     南伝 小部経典 経集 四、六 老経
人のいのちはまことに短い。百歳に及ぶものは少なく、百歳をすぎて生くる者もまた、やがて老いのために死ぬ。

人はおのれの執する物のために愁(うれ)える。けだし、所有に常なきがゆえに。
そは存し、変じ、また滅する。かく知りて人は執着を去らねばならぬ。

「これは私のもの」と思える物も、そは死のために失われる。
賢き者はその理を知りつくして、おのれの執着を去るのである。

たとえば、夢にて会いしものを、人は、覚めてまた見ることはできぬ。
かくのごとく、愛する人々をも、命終してのちは見ることができぬ。

この世にありし頃は、其々とて、その名も聞き、その顔も見たるに、亡き後は、ただその名のみが、彼を語るよすがとして残る。

執着するものを貪り求むる者は、悲愁、邪慳(じゃけん)の心を捨てることはできぬ。
されば、安穏の境地を知る聖者は、すべて所有を捨てて行ずる。

聖者は一切処に依ることなく著(じゃく)することなく愛する者もなく、憎む者もなく、
たとえば、はすの葉に水のしずくの著(つ)かざるがごとく、悲泣することもなく、邪慳の心をいだくこともない。
6名無しさん@1周年:01/11/15 23:13
もうちょっと手短にまとめられんかな?
7名無しさん@1周年:01/11/15 23:18

みんな死ぬんじゃ! ゴルァ!
8名無しさん@1周年:01/11/15 23:44
>>7
ワラタ
9むもん:01/11/17 08:04
死の恐怖の克服は、死後の世界が在るか否かによります。死後の世界が在れば、
死の恐怖は半減するでしょう。次に死後の世界が在るか、在るとしたらどんな
世界か、死後の世界が在るという論拠は何かということが問題となります。
そこで、死後の世界の存在論拠は「空」という仏教用語を正しく解釈すること
によって死後の世界を確信することが可能となるのです。
10名無しさん@1周年:01/11/17 08:53
>9
自分に絶望してる奴は死後の世界があるほどの恐怖はないだろうが。
11むもん:01/11/17 08:56
「空」
この地上世界は本当に存在するのだろうか?
「存在するに決まっているだろう。」
なぜわかる?
「見えるだろう。聞こえるだろう。臭うだろう。味があるだろう。触れるだろう。
考えることが出来るだろう。だから存在する。」
君は夢を見たことがあるだろう。夢の中でも見えるし聞こえるし臭うし味わうし
触れるし考えることが出来るよ。だから夢の世界は存在するというのかね。
「夢は存在しないが、この世は存在する」
それは少しおかしくないかね。君の論理だと物質の存在原理が二種類あることに
なる。一つは物理的作用、もう一つは心的作用。
「空の本当の意味は、この地上世界もあなたの夢と同じ原理で出来ているというこ
となのです。」

「死後の世界」
夢が覚めれば、あなたはどこにいますか?
「ベットの上だ」
では、この世の夢が覚めたら(死んだら)、どこにいるのだろうか?
「・・・・・・・????」
12名無しさん@1周年:01/11/17 09:03
みなさま、済みません。私には死はあり得ないのです。
13名無しさん@1周年:01/11/17 09:05
>12
それはたいへんですね。同情いたします。
14名無しさん@1周年:01/11/17 12:05
 ┌─────────―─────────―
 │ キチガイ警報!!!
 │http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/998835507/
 └―――──―――――─────────―
      ヽ( ゚∀゚)ノ
         (  へ)
          く
15むもん:01/11/21 09:17
死を恐怖する必要はありません。ただ、この世に愛着や欲望が強いと、
死によってそれらを手放さなくてはならないので、苦しむでしょう。
もし、それらが無ければ、この世の一切の恐怖は取り除かれて少なくとも
この世よりは快適でしょう。
すなわち、悪夢よりは目覚めた方が快適なのと同じです。
16むもん:01/11/22 09:29
仏はいいます。
再びこの世という夢を見たくなければ、この世に対する一切の欲望や
愛着を断ち切れ、そうすれば再びこの世界へ生まれることはない。と。
17光の子
 死ぬという「自分」が、作り出されている幻影であることに
気づいた時、「死を恐れる自分」という幻影も消える。そして、
それらの自分という幻影を作り出す作用が止まり滅した時、
生死、死後の世界という想いも生み出されることはなくなる。

「すべてから分かたれてある自分」という寝床の中で生死の夢
を見る者、夢から離れようとする者、夢から目覚めたと思って
いる者...。これらすべての「夢を見ていると思っている自分」
という夢の中で眠る者は、夢の中で「死」という次なる夢に陥る
ことを恐れ続ける。そして、夢を断ち切って良い夢が見られる、
という想いによって恐れを希望に変えた時、新たな夢を作り出す。
その解脱する自我という夢想によって。