宗教というものは大規模なものから極小規模なものまで、必ず虚構をベースに構築されていますよね。
キリスト教の聖書なんて嘘しか書いてないというくらいに。
常識で考えれば、というか、分かりきった嘘なのになぜ信じるのですか?
煽りとかではなく、本当に不思議でならない。
今まで誰に聞いても納得できる回答は得られませんでした。
私も禿同。
私なんか信じたくてたまらないし、
信じれたらどれ程か楽なのにと思うのに、
どうしても信じられません。
信じたいという欲求に、理性が勝っちゃうんでしょうかね。
カトリック・スレで聞いたら、信じられないのは、
まだ機が熟していないからだそうですけど。
はー救われたい。
>>1さん
それは、「覚知出来ないものは、出来ない。」と認めるよりも、「それは
明かに実在する。」と『思い込む、思考停止する、盲信する』事で、
「魂の救われ、心の平安(例えそれが偽りであっても)、安定、霊的向上、
罪穢れからの浄化、輪廻からの解脱、悟り、正覚、浄土往生、幸福、健康・・・」
などなどの様々な『見返り』を得られる、と『信じる事、思い込む事』が
「信仰」の現実だからなのではないでしょうか。
4 :
名無しさん@1周年:01/10/22 18:17
5 :
名無しさん@1周年:01/10/22 18:19
強引な勧誘を受けたりして、
入信した方が心理的に楽だった為、入信。
入信後は、間違いを認めたくないんだろ。
宗教は麻薬だ、何言っても聞きゃしねえ。。。
7 :
名無しさん@1周年:01/10/22 18:43
>>4 何を見せられても、たとえ証拠が明らかでも
「宗教は嘘だ」と信じたい人は、自分の間違いを
決して認めないでしょう。彼らは本当に硬い信仰
の持ち主なのです。
かぶった、(w
9 :
名無しさん@1周年:01/10/22 18:50
>>3の続き。
しかし、そのように「神とか霊とか仏とか、あの世とか、目に見えない
感じられない、実在するかどうかわからないけれども、私はそれを信じる
事で救われるのならば、少しでもいいから自分なりに信じていきたい。」
という『自覚』がある人は、熱狂的ではないが、細く長くその信仰を継続
してゆけるのではないか、と思います。また、そういう人は、そのような
曖昧な信仰を誰彼かまわず押し付けたり、布教する恐れも少ないのでは
ないか、と思います。なぜならば、そこには、「そのようないい加減な信仰
を人に勧めるわけにはいかない。」という自制心が自ずと働くから、と思われる
からです。
自分の目で神や仏の姿を見て、声を聞いた事がある人であるならば、その体験
を語る事は何も悪い事では無いでしょう。しかし、ある宗教の開祖が「神はいる」と
言っただけで、それを信じるだけならば良いのですが、他人に誰彼構わず語り布教
する人は、どうして自分がそのような行動に出てしまうのか、自分の心の中をじっと
見つめてみる必要があるのではないか、と思います。
11 :
名無しさん@1周年:01/10/22 19:07
1は軽薄だ。
12 :
名無しさん@1周年:01/10/22 19:08
>懐疑
お前が押し付けてることに気付かんか?
>>10の続き。
ちなみに私も一時期ある宗教団体に入信して、友人やその他の方々に
対して、その教祖が説く教義を話したり、書物を読ませたりしていま
した。しかし、ある時、大変遅れながら気付いたのです。
「私は神について会った事もないし、話したこともない。教祖が説く
教えを『神の御言葉』として信じ込んでいるに過ぎないのだ。つまり
私は神について全く無知なのだ。」という事にです。
そして、私がどうして熱狂的に教祖の言葉を布教し続けていた理由も、
私の奥底にあって、ふと浮かび出て来そうになる『疑念』を押し殺し
て、教祖を信じて『心の安定を保ちたい、守りたい』という欲求から
来る自己防衛のための行為に過ぎなかった事に気付かされたのです。
…という訳で、私はその教団をやめて、今は聖書なり仏典なり、他の
宗教の書物を読むなりしています。しかし、あの時よりは、ずっと
ずっと『安らかな』気持ちです。今は自分なりに神とか仏という存在
を求めていこうと思っています。
14 :
名無しさん@1周年:01/10/22 19:25
>>1 キリスト教を信じるかどうかは別として、
アニミズム的な宗教の存在は個人的には許せます。
例えばね、目の前に大きな看板があったら、その裏に何があるのか
裏に言ってみるまでわからない時代も、また地域もあるわけですよ。
航空機から見た風景なんていうのを人が知るようになったのは最近なわけだし
そういうものを知らない地域だってあるわけだし。
>>懐疑さん 「見返りを得られるから信仰する」っていうのはちょっと違いますね。
日本の神教なんか興味深いですよ。
人にどうすることもできない領域にあるものなら何でも「神」なわけで、
何かの本には「日本の神様」=「お客様」だと書かれていたりもしました。
現代だと妖怪とか言われているものにむしろ近いかもしれません。
基本的には「救いを求める」わけじゃなく、
「日々の生活を送れることに感謝する」ところから生まれたそうです。
>>14 なるほど、しかし、結構、御利益信仰は多いですよね。
特に日本の新興宗教団体には…
16 :
名無しさん@1周年:01/10/22 19:29
>「日本の神様」=「お客様」
あってるよ。
いつも「お客様」を迎える心の準備が大切なんだよね。
本当の宗教は、金を貰わない宗教だ
金払わせるとこは、インチキだ
18 :
名無しさん@1周年:01/10/22 19:58
神は全能と知ったなら、
聖書の奇跡も受け入れられるのだ。
19 :
名無しさん@1周年:01/10/22 20:00
お参りするだけでご利益のある神社やお寺を自分で探してみたら?
意外とあるもんです。ここへ行くとツキが回ってくるというのが。
自分がどこへお参りするかは秘密だけど。
新興宗教はご利益というより、人間関係をめあてに入るもんでしょ。
みなさん、答えてくださってありがとう。
まず、
>>4のリンクを見てきました。
私は去年まで通っていた高校の世界史の授業で、
キリストは実在した人であって、幾つかの偉業をなした人物であるが
それに付随する奇跡は後の創作である。
と教わりました。さらにその偉人伝説の作り方自体を真似て作られたのが
聖徳太子だ、とも。
>>4さんの提示してくれたページ、興味深いのですが
「証拠」とされている証拠自体が虚構でないと述べている部分が弱い気がする。
確かにこんなに長い間、科学が発達しても信じつづけられているということは
なにか実際あったようにも思いたくなりますが、
確か教会がヒトはサルから進化した、と認めたのはついこの間だったような気が…。
>なぜならもう一度母親の胎に入って何度でも生まれて見せることが科学的な証明方法だからです。
この一文を見ても分かる通り、このページはちょっと無理があると思います。
たぶん、他の宗教も似たような伝説が骨組みのひとつとして入っていると思うのですが、
信じていない人たちにも文句なしに納得できるようなものは自分の知る限りひとつもありません。
ちなみに私がこんなスレを立てたのは
>>2さんと似たようなことを長く考えていたからです。
>懐疑さん
難しくて完全には理解できないけど、とても興味深いです。
特に後半部分は共感できました。
けれど、
>「神とか霊とか仏とか、あの世とか、目に見えない
>感じられない、実在するかどうかわからないけれども、私はそれを信じる
>事で救われるのならば、少しでもいいから自分なりに信じていきたい。」
この「信じることで救われる」というのが私の中では永遠のナゾな訳でして。
何かを信じることで心穏やかに生活できる、というのは何となく納得できるんですが、)
こんな、戦争になるくらいに没頭してしまう「宗教」というのはそれだけではない、ですよね。明らかに。
大抵の宗教には「祈る」というのがあると思うんですが、これもまた理解不能なんです、私には。
単刀直入に言うと、なんの意味があるのか、と。
22 :
名無しさん@1周年:01/10/22 20:25
>>1 宗教に附随する寓話に根拠を求めるのはあまり意味がないと思いますよ。
過去には教会が全ての学問の規範になってしまい、ガリレオの悲劇も産んだわけですが
宗教は科学的事実を究明するためのものではないわけで。
たとえば、聖書でいえば、書かれている話は事実かどうかと悩むより
ひとつの寓意ととらえたほうが糧になると思います。
キリストは信仰される対象としてより、キリストとして生きることに
意味があるんですから。
処女から生まれたとか、死後復活したとかが事実かどうかより
純粋な精神性や不滅の真理などの隠喩として理解しておいたほうが
よろしいかと思います。
>>22さん、レスの内容、全て納得です。
確かに宗教の話を寓意ととらえれば糧になるものも多いですね。
ただ、私が言いたいのはそれならばその話は寓話で終わって当然なのではないか、と。
なぜ、それをただの寓話で終わりにせずに宗教として生活の中に深く取り入れ
場合によっては自分の命、他人の命よりも宗教を優先するほどになってしまうのか。
それが理解できないんです。
24 :
名無しさん@1周年:01/10/22 20:47
age
25 :
名無しさん@1周年:01/10/22 20:56
>>23 寓話ですが、真実ともいえるんですよ。
道徳や倫理だって、なんの根拠もないフィクションですが
これ無しに社会や人間が存在できないことを考えれば「真実」でもあるわけです。
宗教を道徳・倫理の体系と考えれば、なぜ宗教をめぐって争いが起こるのか、わかりやすくなると思います。
>>1 >場合によっては自分の命、他人の命よりも宗教を優先するほどになってしまうのか。
それは、間違った信仰だからです。
1さんが疑問に思うように、私もその点は宗教の危険な部分だと思ってます。
だからこそ、カルトが社会問題になったりするわけですし。
本来、宗教によって排他性が生じるほうがおかしいのであって
そうなってしまうのは、宗教に生きることより宗教にすがるという安易な信仰を
してしまうことが原因のひとつなのかもしれません。
>>25 >道徳や倫理だって、なんの根拠もないフィクションですが
>これ無しに社会や人間が存在できないことを考えれば「真実」でもあるわけです。
なるほどー。確かに宗教は道徳・倫理の体系と考えられなくもないですね。
万人が必ずしも理解できるわけではない道徳・倫理が宗教だとすれば。
けれど、やはり道徳と宗教は違うと思います。
その違いのひとつに「意味がない」というのがあると思います。
怒らないで聞いてください。あくまで私個人の考えです。
どの宗教、と取り上げて話しているわけではないので説明しにくいのですが、
宗教的儀式、考え方の多くはその宗教を信仰していない人から見ると全くの
ナンセンスに見えると思うんです。
例えば「祈る」と言う行為ですね。
なんで祈るんでしょうか…?私からするとそこから既にわからない。
また別の疑問なんですが、例えばキリスト教とイスラム教ってどちらかを「正しい」とすれば、
もう片方は「正しくない」となりませんか?神は唯一、とかの大原則のあたりで。
そのあたりをつきつめていくとどう考えても宗教自体、もっと言えば神自体が存在しないと
思えてしまうのですが。
>>26 >本来、宗教によって排他性が生じるほうがおかしいのであって
27でも書きましたけれど、全ての宗教がそれぞれ正しいとすることはできませんよね。
ということは当然宗教を鵜呑みにすれば排他性は生じるのではないでしょうか?
歴史上の戦争の多くの原因の一つはその宗教の排他性だと思うのですが。現在も。
29 :
名無しさん@1周年:01/10/22 21:47
道徳や倫理も唯物論的見地から見れば、所詮人間が創り出したものであり、無意味です。
「善」や「悪」も
31 :
名無しさん@1周年:01/10/22 21:55
唯心論なら意味あるよね。
32 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:32
なんでここまで
仏教の話題が出てこないんだよ
33 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:33
科学だって数学だって虚構です
命なんて言う概念も虚構です
34 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:33
時間や暦も虚構です
35 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:34
>宗教的儀式、考え方の多くはその宗教を信仰していない人から見ると全くの
>ナンセンスに見えると思うんです。
日本人の思考は
日本人以外から見ると全くナンセンスです。
これとどう違うの?
36 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:34
「祈り」や「神」を持たない宗教もある。
虚構=嘘っていう前提が既に変だよ
38 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:39
つまりは脳が生み出す虚構の中に、宗教も常識も科学も文化も国家も存在するのでは?
1さんの考えること、思うこと、すべてが虚構だという事実をまず知ることでしょうね。
そして、どのような虚構がもっとも人が生きていくのに適しているか?を考えたとき、
宗教という虚構は1つの選択肢になるんじゃないかな?
39 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:41
>38
いいこと言った。
確かに、この巨大な経済システムも、壮大な虚構と言えるのかも、
知れませんね…独り言スマン
>>1 全ての宗教が正しいわけではありませんが、どれが一番というものでも
ないと考えてます。宗教をブランドのようにとらえてしまうと
イエスの信仰者はアラーの信仰者を異端だとみなすことに躊躇しないでしょうが
それは間違っていると思います。宗教は自分を育てる糧であって
他人を裁く法律ではないからです。
神というのは、自己の内的な可能性であって、外部に存在する何者かではない
と思っています。
祈りについて言えば、これは儀式的なものですから
ナンセンスだと思うのでしたらナンセンスであると考えてもかまわないと思いますよ。
何かに祈ることをしない宗教もありますし、神も仏も崇拝しない宗教もありますので。
ほとんどの宗教は「他者への愛」を説きますが「我が宗派を信仰せぬ者は殺せ」とは
言いません。宗教が、システム化され政治的になると排他性が生じる場合がありますが
これは、個人の信仰生活よりも団体の維持に力点が移ってしまうからでしょうね。
一万円札も科学的にはタダの紙
43 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:49
>>40 お金がそうでしょうね。
ただの紙切れがなぜ価値代表物になりえて、「信仰」されるのか?
国家が擦ってるから?
それもあるけど、そこまで国家を信じてる人もいないでしょう。
お金は使う人々の「信認」という虚構によってのみ成立してるということでしょう。
そして、お金に対する「信認」という虚構は、生きてのに非常に適しているということでしょうね。
44 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:50
45 :
名無しさん@1周年:01/10/22 22:56
>43
最近偽札が大きな問題になってるのも
たんなる経済的損害だけではなく
この「信認」にかかわるからなんだよな。
46 :
名無しさん@1周年:01/10/22 23:00
>>28 >歴史上の戦争の多くの原因の一つはその宗教の排他性だと思うのですが。現在も。
本当に戦争の主原因が「宗教の排他性」だと思ってるのですか?
それも虚構でしょうね。
今の戦争も本質的には経済問題ですよ。
アメリカ経済が生み出す矛盾に反発する権益層に、イスラム原理主義が入ったにすぎない。
そして、アメリカ経済を守るための「不朽の自由」も、プロテスタント原理主義に正当性を得ている。
あらゆる戦争は、経済戦争と見た方が妥当といえるでしょうね。
宗教は、経済上の獲得競争を正当化するためのイデオロギーとして利用されてるにすぎない。
そして宗教がイデオロギーとして利用されるのは、大衆の無知に基づくところが大きい。
そして、これも虚構にすぎない。
宗教戦争の虚構と経済戦争の虚構との違いは何か?
虚構として観念される事実が、いかに「蓋然性」を持って発生するかの違いになるのでしょうな。
47 :
名無しさん@1周年:01/10/22 23:01
>>45 「悪貨が良貨を駆逐する」事態になったとき、
「信認」が崩れたということになるのでしょうね。
ていうか
虚構であるか否かを判断する基準すらも
虚構に過ぎないんだよ。
人間には虚構しかない。虚構の上でしか生きられない。
だから宗教が必要なんだ。
みなさんの意見を読んで、ちょっと考え方が変わってきた1です。
ただ、科学も数学も虚構ではないですよ。
確かに虚数の世界などはは私には虚構そのものにしか見えないけど。
お金については、ただの紙切れなら例え信認があっても流通しないでしょう。
それに見合うだけの技術があの紙切れには詰まっていいるからな訳で。
偽札と見分けることができないようなお札が作れるようなら貨幣経済はとっくに崩壊してますよ。
しかし、それ自体に価値はないというのは事実ですけれど。
しかし物を交換するということを考えた場合貨幣が生まれるのは当然なわけで。
宗教とは根本的に違うのではないでしょうか?
話がずれましたね。すみません。
>しかし物を交換するということを考えた場合貨幣が生まれるのは当然なわけで。
そりゃ結果に過ぎない。
世界中どこへ行っても貨幣経済だと思うか?
51 :
名無しさん@1周年:01/10/22 23:11
実は
我々が生きているという感覚すらも
虚構なのかも知れないね・・・
科学も数学も世界を合理的に解釈するための技術であって
それが有用な限り虚構は虚構であっても真理の一端があるには違い無い。
要は、それが虚構かそうでないかよりも
有用かそうでないかのほうが重要であり建設的だとは思う。
「全ては虚構だ」という思想が、人生の苦痛を緩和できるのであればそれも良し
ただ、「全ては虚構だから空しい」「全ては虚構だから何でもアリ」ととらえると
逆効果だろうね。
んー。
みなさんの考えはさすがに深いですね。
それで、話を一番最初に戻して「本当は虚構だと分かっててなぜ宗教を信じるの?」
なんですけど、
確かに宗教を頭から否定したりする気持ちは完全になくなりました。
けれどもやはり納得がいかないのはスレのタイトルのことなんです。
どの宗教にもその根幹のどこかに必ずといっていいほど現実の世界では、というか科学的には
おかしいような内容が入っていると思うんですが、
それについては信じている方はどのようにとらえているんでしょうか?
科学自体が虚構、という類の話はちょっと置いておいて、死人が生き返るというのは
やっぱりおかしいですよね。お題目をとなえると救われる、というのも。
キリスト教の人はみな死者復活を本当に信じているんでしょうか?
念仏とか題目についてですが、やはりとなえてみない事には
何も説明が出来かねる世界みたいですよ。
55 :
名無しさん@1周年:01/10/22 23:40
>>1
おれにとっての祈りは、少しでも真実が見たいが為のものだよ。
おれは真宗なんだけど、念仏だけで悪人が救われるとゆうのは善悪の虚構や個人
の立場の違いをきずかせてくれたし、念仏のみ真実、ではこの世に真実はあるの
か?をかんがえさせてくれる。
念仏とゆう虚構を受け入れることでみえてくるものがある。
なによりなんであんなもので救われるのか?とゆう興味をもつことにより、おれ
みたいな者でも出会うことが出来た。
しかし本当は真実など見たがってはいない自分も念仏はさらしてくれたけど。
>>55つまり祈ることによって自分の内面と向き合って考えられる、ということでしょうか。
たしかにそれは有意義なことですね。
しかし、そうすると念仏自体、宗教自体の意味が見えなくなってきてしまう気が…。
57 :
名無しさん@1周年:01/10/22 23:51
墓から死体が無くなったのも嘘ですか?
>>57さん、4のリンク先の内容からだけでは、嘘のように思われますね。
というか、その復活の話はもっと大きく嘘だと思います。
59 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:03
キリスト教はまじでつぶれてほしい
地獄とか想像して鬱病になった
信じても不幸になるだけだった
どんどんキリスト教の嘘をみつけてほしい
60 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:12
1が言いたいのは、
「祈る事で何か(願い事が叶う等の)利益があるのか?
科学的にそんな事が起こるとは考えられないのに、なぜそんな事を信じるのか?」
という事だろ?
61 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:13
>>59 ニーチェの『反キリスト者』を読むとウップンがはれると思いますよ。
それと、もうひとつ。
神、またはそれに類するものの存在を信じる方、神が存在するという根拠は
なんなのでしょうか?
私の母などは無宗教ですが漠然と「神様はいる」と言ってます。
そう考えるといろんな事が納得できるし神様が見ていると思えば良く生きられる、と。
けれど、それって本当には信じてませんよね。
そう言うのではなく、本当に存在を信じている人の話を聞きたいです。
それともみなさん、実際はうちの母と似たようなもので本当に存在を信じているわけではないんでしょうか?
>>59 私も信じてはいませんけど、そういう言い方はあまり良くないとおもいます…。
けれど実際、この世に宗教がなかったら戦争は、少なくともこれから先は起こらないだろうにな、
と思います。今回の戦争も発端は宗教的衝突ですよね…。
果たして宗教は本当に人類に益をもたらしてくれているのでしょうか?
63 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:18
64 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:19
特に聖書は寓意として解釈しないと辛いかも。
ストイックすぎるし、原罪という考えは自己否定的でネガティブな人格を築く
恐れがある。
65 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:21
67 :
名無しさん@1周年:01/10/23 00:36
自分の考えてる常識が絶対だと思ってるから。
ま、分からないでもないけど。
常識で考えられないものを信じるってすごく自分自身を神に捧げてるって気になりません?
オウムのように全財産を捧げて何もかもを神に捧げるって考えてみなよ。
凄いことだよね。
ある意味完璧なアイデンティティを持つという事になる。
それが気持ちいいんじゃないかな。
うまくいえないけど。
>ある意味完璧なアイデンティティを持つ
これ逆かな?(w
>>68 それが気持ちいいからっていうのは、本当は信じていないのではないでしょうか?
このスレ立てて思ったのは、宗教と言っても超常現象的なものをそのまま信じてる人
というのは実は少ないのかな?
>気持ちいい
ちょっとたとえが変でした。
私のボキャブラリーではコレが精一杯でございます。
誰か代返カモン
>宗教と言っても超常現象的なものをそのまま信じてる人
というのは実は少ないのかな?
2chやってる宗教者なんてある程度宗教を客観視出来てる人なんじゃない?
そんなエライもんじゃ無いか。もしくはエセ信者か。エセだな
あと織田無道なら2chOK。
あとまた書き忘れた。
自分はキリ教ですがキリ教の超常現象は信じているかと聴かれれば答えは
「わかりません」です。
自分の身の回りのことで精一杯です。そんなことは専門家に任せておきます。
73 :
名無しさん@1周年:01/10/23 01:21
んー・・
もともとはイエス・キリストの復活という超常現象を
信じることが最も重要なことだったんだろうけど
今の信者の多くは、そんなことよりイエス様の御教えとか
に感銘を受けてるにすぎない・・気がする。
74 :
名無しさん@1周年:01/10/23 01:21
アフガニスタンとかの人は信じてないと生きていけないから
だろう
信じてないと悲しくて生きてられないだろ
キリスト教徒になっちゃうとわかんなくなるんだよ〜
1もキリスト教的に「神」をとらえるのやめないと
わかんないんだよ。いくら考えたって。
たしかに念仏でなくても良いのでは、と思った事はあります。
でも内面を見せてくれたのは念仏でした。
おまけに不安な時には何時でも唱えて如来の光で分析できます。その際には
摂取不捨、念仏のみ真実等が影響をあたえていきます。
ちなみに救われたいと思って行動する際には多かれ少なかれ信仰がからむと
思います。自分以外のものをたよりにするのだから(それを)信じているわ
けだし、また自分を頼りにする人も自分しか頼りにならないとゆう仮説を信
じている。同じ仮説なら心に響くものを選んで賭けてみる(信仰)のもよい
のでは?
仏教の場合、本来人に説くために語られたものでは無く
あれは仏陀に至った人の哲学を書いたものです
従って神様云々と言うのは本来出てきませんし
誰に対しても強制している部分は無いですよ
弟子が教えてくれと言っても、自分が得た物は
微妙な物で人に理解出来る物では無いと断った位
の考え方を述べた物です、原因と結果のサイクル
のリングを断ち切る方法を述べた物で
それが、幸せに見え人の世の心配を無くす考えだから
受け入れられたから。
日本に入っている仏教は密教やいろんな宗教が混ざり
ひどく解りにくい物になってます、日本で生まれた物は
本来のスタイルとはかけ離れています。
宗教の名の元に戦争をする宗教は絶対に間違いです。
79 :
名無しさん@1周年:01/10/23 03:55
おれは神を信じているわけではないが、運命とか宿命、巡り合わせとかいうものは、
信じているかもしれない。最近神さまがいてもいいような気がしてきた。
ふう、まだまだ宗教には遠いか……
キリスト教になかなか入れてもらえない
>>2です。
キリスト教にはいいエッセンスがたくさんあると思うんですよ。
愛とか許しとか癒しとか、あと、恵まれない人への奉仕とかね。
こういうのって、哲学とかを突き詰めていっても出てこないじゃん?
ニーチェ氏みたいな高い山のてっぺんは常人には耐えられないわけよ。
疲れた人は”生きててもいいのよ”みたいな甘い言葉もほしいわけで、
そんなのあるかも知れないなって、訪ねてみたりするのよ。
でもさ、そこでは信者さんが、処女が子供を産んだだの、死人が生き返っただの、
皮膚病が治っただの、マリア像が血を流しただの、
そんなことを本気で、寓意じゃなく言っててね、
幸せな人たちだな、なんか違うなって、越えられない壁を感じるわけ。
私はそういう奇跡の数々によって教えを権威づけようとする挿話なんかは
かえって、ない方がいいんじゃないのと思うのにね。
一部の人にとっちゃ超常現象のほうが重要なのよ。
それと、これが最大の悩みなんだけど、
神の存在を想定することはできるけど、信仰ができないのよ。
だから「祈る」っていう行為自体も、まったく意味分からなくて。
超越的なものの前に自分を投げ出すことを、理性が邪魔すんだよね。
「神はいると考えた方がよく生きられる」ってことと、
「じっさい神はいる」ってことの間って、私にとっちゃものすごい隔たりなわけ。
「マタイ受難曲」とか聞いて泣いちゃうのにね、
私はずっと教会の周辺で彷徨ってないといけないんでしょうかね。
81 :
名無しさん@1周年:01/10/23 10:51
>>1 >>4のリンクからですが
イギリスの最高裁判所長であったダーリングは次のように結論しています。「この世のいかなる知的な陪審員も、復活の物語は真実であると評決を下さざるを得ない、積極的、及び消極的証拠、真実の証拠と状況証拠という、圧倒的な証拠が存在するのである。」
とありますが、これはどう思いますか?
2さんはどうでも教会にいきたいんですか。
キリスト教でなくちゃだめなの?
そんなに違和感かんじてるのに?
生長の家の創始者・谷口雅春氏の「生命の実相」(全40巻・どれを読んでも構いませんが)
日本教分社発行・は新興宗教の中では一番理屈が通っていると思います。
邪霊とか祟りとか怖いことも言わないし。彼の理屈が虚構とも思えないし。
日本教文社でした。
>>74 そうかもしれませんね。どうしても彼らの心境には、その立場に立たされてみないと
分かりませんけれど、なにか心のよりどころが必要、という欲求の方が理性を超えているのかもしれませんね。
>>77&78
仏教にはあまり詳しくないんで間違っていたらごめんなさい。
確かに現実の社会だけを見つめていては得られないものを信仰というものは与えてくれるのかもしれません。
けれど、仏教には極楽浄土という考え方がありますよね。
私からするとそれが信用できないんですね。どうしてあるかどうかも分からないものを目指して
信仰に励まなければいけないのか、と。それについてはどうでしょうか。
>>80 共感する個所が非常に多いです。
>「神はいると考えた方がよく生きられる」ってことと、
>「じっさい神はいる」ってことの間って、私にとっちゃものすごい隔たりなわけ。
私も同様です。
>>81 圧倒的な証拠が存在するのである、と言うんですが、私にはあのサイトを見る限り
信じるに足る証拠だとは思えません。
また、果たして裁判という公式の場でキリスト教の根幹を否定するようなことが言えるような
状況だったのか、についても甚だ疑問です。
この裁判官さんに対して教会から尋常ならざる圧力がかけられたであろうことは容易に想像がつきますし。
…嫌な言い方になってすみません。
クリスチャンとして興味深く読ませていただきました。
1さん、2さんをはじめとして、みなさんの書かれたことにおおむね
納得します。
私自身のことを書かせていただきますと、たぶん、信じるってのは、
確認できてないことに、賭けていくこと、なんだと思います。
たとえば、「君のうしろに椅子があるからそのまま座ってごらん。」って
いわれて、その椅子があるかどうかわからないままに、腰掛けようと
することが「信じる」ということで、後ろをふりむいて椅子を確認して
腰掛けることは「信じる」ということとは違う気がします。
そういう意味で、私が口にする「信じてること」ってのは、すべて
「わからないけど、、、」ってことを含んだまま「信じる」という
方向に自分をもっていってることだと思います。
俺の信仰が薄いからだけかもしれないけど、たぶん、多くの
クリスチャンってのも、この気持ちと似たようなことを抱えている
んじゃないかな?って思います。
ま、クリスチャンに限らず、教会に通っているクリスチャンで
ない人々も。
>>「神はいると考えた方がよく生きられる」ってことと、
>>「じっさい神はいる」ってことの間って、私にとっちゃものすごい隔たりなわけ。
で、たまたま、クリスチャンってあるとき決断したら、それは
それである意味、自分がそのクリスチャンってのに色付けされる
ことになって(言ってみれば、そういうバッヂをつけた、、
みたいな感じ)その後は、基本的にそっちの方向に身をおいて
発言したり、ものを見ていったりするようになるってだけな
気がする。それの方がいごこちがいいから。
(ある意味思考停止なのかもしれませんね。)
だから、たとえば、2さんも、極端なことをいっちゃえば、
もし過去にクリスチャンとして歩み始めていたならば、
今の2さんの考えとは違う事を語っておられるのかもしれませんね。
ただ、基本的にはそうやって苦悩していくことってのもとても
大切なことで、とても有意義なことだと思います。
で、苦悩したときは、ある意味全然違うことから解決がみつかったり
するもんですよね。
>1
極楽浄土は、便宜上追加された考え方で
本来は悟りを得て後、死んだ場合二度と
輪廻の輪の世界に戻らないと言う、至高
の精神世界を指すのですが、多くの人間
に解り易く説くため、日本では仏陀を信仰
する事でその世界に行けると信仰されて
きました、プロセスを省いた簡略化ですね
しかし、知恵による悟りを説く本来の形とは
ずいぶんずれているので、解り難いですね。
で、さらにいうならば俺の場合も、その復活に関しては
「本当だったらいいな。」って思いを持ちながら信仰
しつづけている部分がどこかあるわけで、「本当なの?」
ってきかれたら、基本的には「わからない」って答えるしかないよ。
でも、それを「信じてる」ってことも付け加えるんだと思う。
捕捉です、その問題に付いては、現代で本当の悟りを得て居る
人が居ないのが最大の問題点だと思います。
自分は仏教は素晴らしい考えだと思っています
しかし、とても出家は出来ないですし、悟りにも遠いと思っています
そして、今の日本の仏教は殆ど本来の仏教では無いと思っています
・・・頭から今の宗教を信じるには余りにも嘘の部分が多いと思っています
その点ではあなたと良く似ていますよ。
91 :
名無しさん@1周年:01/10/23 15:13
きみは食べて生きてるよね? 食べ物は科学が作ったものかい? 太陽が絶妙の位置
にあるのも科学では偶然ってことになってるけど、科学は多くの仮説を立ててんだよ。
こいつをも疑うべきだよね。それに死後の世界なんてものも、科学では解明されてな
いし、なんといっても「なぜ生きるのか?」ってなこと(形而上学)は、きみもわか
んないだろ? 誰でもわかってることは一部分なんだ。でも宗教にはヒントがある。
ただ、個人的に俺は、聖書がすべての疑問を回答してくれるものだって判断してるけ
どね。でも、それぞれの良い教えを尊重すべきだよ。
92 :
名無しさん@1周年:01/10/23 15:44
>>86 >信じるってのは、確認できてないことに、賭けていくこと<
椅子があるよ、と言われて見もせずに腰掛けられるのは相手を信用して
いるからですが、振り返っても別に疑いを持っているからとは限らない。
目で見て確認する時、その人は自分の視覚を信じているのであって、
これも「信じる」ことではないかな? 変なことを言って申し訳ないが
他人を信用できない人間でも自分の目、耳、等の感覚は無意識に信用して
いるはず。ところがイエスや何かの聖人が奇跡を行ったとなると、その
場に居合わせた訳でもなし、嘘かもしれないと疑うのは至極当然。
それでもやはり信じようというのは、どこか自分が納得できる部分がある
からでしょう。期待だけで信じ込むのは少し危険ですよね。
>>92 話がややこしかったようでスマソ。
あくまでその例では、「その人を信じるかどうか」、ってことに着目した
話と思ってくだされ。
それから、後半は同意です。
さっきの椅子の例でも、やはりどこか自分で「信じるに値する人物」と
「信じるに値しない人物」っていう区別があるのだと思います。
でも、それでも、やはり、その人がいっていることが本当かどうか?
ってのは、確認できないままに、本当だとおもってアクションしていく
瞬間があって、それが「信じる」ってことだとおもうわけです。
>>93 単刀直入に言います。イエスの教え、行動をひとつひとつ吟味し、御自分の心に
問い掛けてそれが納得のいくものかどうか判断する。その確認作業があってはじめて
イエスを信じられるのではないのですか?もしも宗教界の権威であるからといった
理由で信仰を持つなら、それは依存ですね。
95 :
名無しさん@1周年:01/10/23 19:28
>>49 >それに見合うだけの技術があの紙切れには詰まっていいるからな訳で。
>偽札と見分けることができないようなお札が作れるようなら貨幣経済はとっくに崩壊してますよ。
経済学の基本的なターム、「信認」について全くの理解を欠いてますね。
>宗教とは根本的に違うのではないでしょうか?
イデオロギーの意味分かってるか?
>>51 虚構だろうけど、それは物理的世界からの反応によるわけだよね?
そこに生きているという感覚の「実在感」、「心」が生じるわけで。
そんでその「心」は、いかにより良く生きるかってことにダイレクトにリンクしてると思われ。
それが、結局
>>52の問い、(より良く生きていくのに)有用かそうでないか、に繋がってくるかと。
>>52 結局は、上で述べたように、より良く生きて良くのに有用かどうかの問題なのでしょうね。
そして、人間が「よりよく生きていく」ための弊害は、「死に対する恐怖」なのではないでしょうか?
そして、「死の恐怖」を除去し、よりよく生きて良くことに有用に働く虚構が「宗教」なのではと。
>>53 科学という虚構と、宗教という虚構の違いは、信じるための「確認方法の違い」でしかないのでは?
端的に言えば、現実世界の中で、多くの現実に触れ合うけど、
そのすべてが科学的に立証されてるわけではないよね?
しかし、特に科学的に立証されてないからといって、現実を信じてないわけではないでしょ?
なぜ宗教的説明だけ特別に扱う必要があるのかな?
>>62 以上で答えになってないかな?
「神さま」を信じてるのは、お袋さんが「よりよく生きていく」のに有用だから。
それを否定する気になるか?否定することに意味はあるか?
虚構じゃないものってなに?
科学、宗教が求めているもには「ありのままの世界」への模索と、解明努力。
>>1 >本当は虚構と分かっててなぜ宗教を信じるのか?
虚構であっても、さして問題ではないとおもいますし、信仰という概念も、その手法として
捉えている。ようは「ありのままの世界」への道のり。
自分なりの世界観を構築できれば、それでいいのではないかとおもう。
一律な価値観に拘る必要はないのではないか?
自分の世界観を他人に批判される事も「愚」であるし、批判するのも「愚」である。
諸行無常。
これは虚構ではないな。
>>82 うん。どーしてもクリスチャンになりたいの!
そっちの音楽とかから入っちゃったもんだから。
パイプオルガンのBWV645「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」とか、もうたまんない。
それで、信者さんの中に私みたいな考えの人もいるのかな?と思ってね。
「懐疑派クリスチャン」っつーのかなぁ。
私なんか神様と超常現象が信じられないだけで、
あとははかなりクリスチャン的だと思うのよ(笑)。
また、そういう風に生きたいわけよ。愛があって寛容でパワフルにね。
そういう実践してる人っているじゃん? まあクリスチャンとは限らないけど。
でも教会行ってみると、神様&超常現象を信じ切ってる人ばかりで、
なんかカルトに近いもんがあるぞって気がして。
人のこと「未信者」とか言うしさ。
>>87 :バプ@品川さん
>だから、たとえば、2さんも、極端なことをいっちゃえば、
>もし過去にクリスチャンとして歩み始めていたならば、
>今の2さんの考えとは違う事を語っておられるのかもしれませんね。
そーそー。そうなんす。
「汝の若き日に汝の作り主を覚えよ」とはよく言ったものよ。
なにせ若き日に覚えたのが、私の場合「神は死んだ」だから。
だからって、こんなの知らなきゃよかったとは思わないけどね(くっ苦しい)。
100 :
名無しさん@1周年:01/10/23 21:48
>私なんか神様と超常現象が信じられないだけで
だったら仏教の方がむいてるような・・・
>>22さんが
>>41で言っておられた、
>神というのは、自己の内的な可能性であって、外部に存在する何者かではない
>と思っています。
うん、これなら私も納得できるんだけど。
自分の中の最高の理想を神とおくってことですかね。
「比喩としての神」っつーのかな。
もちろん独善的な理想じゃダメですけど。
でも、こういう考えって、キリスト教じゃ認めてないんじゃないのかなあ。
別に洗礼にこだわることもないし、
一人で聖書とか読んで癒されてればいいんだろうけど、
似たような人が教会にいないかなと思ったのと、
あと、洗礼受けると、私のヘニャヘニャした背中に
一本バックボーンみたいのができるかなって思ってね。
そこはそれ
>>87 バプ@品川さんの言うバッヂ効果よ。
イエスやパウロがついてるぞ、しっかりやれ、みたいなね。
>>1
まず仏教では死後については無記で釈迦は沈黙して語りません。で、浄土教は
確かに死後を実体化しているといえます。ただ一般に言われる死んだらおしまい
というのも、無いと決めているので実体化です。しかし凡人に「語ることさえ
できない」という事をさえ語れない、沈黙のみではつうじません。
死後なんか気にしないというのも嘘だと思います。
同じく架空の事なら浄土を受け入れしかしそれは方便であるとしたほうがより
前向きに死に向かっていけると思う。そして本願のみ真実とするこの虚構一つ
を頼む事はその他の権威、他種の虚構から解放してくれる。
そしてこの最後の虚構は死によっておわる。
>>2=101
> 自分の中の最高の理想を神とおくってことですかね。
> 「比喩としての神」っつーのかな。
自分の中の最高の理想というより、目覚めていない潜在的な精神であって
いうなれば、未知のものです。とてつもない力をもった神は
見知らぬとこかではなく自己の内面に孵化を待って存在しているのだと思います。
隠喩ではなく実在の生ける神です。
アジア的な挨拶、(合掌して頭を下げる)は、他者の内なる神(仏性)に対する礼拝を
意味すると聞いたことがあります。
こういう考えは一見キリスト教的ではないように見えますが、
聖書に「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」
というイエスの言葉があります。
イエスへの信仰とは、イエスの人格や思惟との一体化であって、超常現象を信じることではないと思いますよ。
はぁ…無宗教な私には深すぎて全ては理解できません。とんちんかんな所があったらごめんなさい。
まず、仏教について誤解していました。文句言うならその対象についてある程度勉強しなきゃダメですよね。
反省します。色々教えていただいてありがとうございました。
>>95 貨幣のところについては、はい、おっしゃる通り多分私は理解できてませんでした。
ない頭を絞って考えてみたらああいう答えがでてきたんですけどね…。
ただ、ちょっと納得できないところもあるんですが、科学的に立証されてない現実のモノって、
例えばどんなことでしょうか?
私としては正直、科学は宗教より明らかに上だと思います。なぜ、と言われると上手く説明できないんですが…
科学で解明されないこと、ではなくて科学で否定される宗教上のモノと
宗教では否定される科学を比べると明らかに正しいのは科学であると捉えることができるからです。
例えば私の知っている範囲のキリスト教で言うと、不朽体。
教会は聖者だから遺体が腐らない、と言うが科学的に防腐加工を施しているのだからこれが奇跡であるということは
否定される。また、地動説や進化論は宗教的に否定されてましたけれど今となっては科学のほうが
正しいということになっていますよね。
また、上記の私の母の「神」については確かに母にとって有益、かつ他人には全く無害なものですから
否定はしません。いや、正確には存在は否定しますが信じるのをやめろ、と言う気はありません。
私がこのスレを立てた理由は、宗教は残念ながら人類間の争いの素になっていると
感じたからです。異教徒に聖地を汚されるのは断じて許せない。私には聖地というものに
実質的な意味があるとは思えません。けれどもそんなことで戦争になってしまう。
なぜ、そこまでして、根拠もなさそうにみえる宗教に人はこだわるのか、と思ったからです。
>>97 >一律な価値観に拘る必要はないのではないか?
うう…。そう言われてしまうと話が進まないんですよ。
確かにそうなんですけど、自分には理解できないのでジレンマなんです。
97さんがどんな宗教を信仰していらっしゃるのか分かりませんけれど、
もし神様(またはそれに近いもの)の存在を信じているであれば、それはなぜですか?
何か存在すると言う根拠がなければそんなに、入信できるほどには信じられないと思うんです。
ちなみにうちの母になぜ神を信じるのか、と聞くと「いたらいいと思うから」と答えます。
宗教というのはそんないい加減なものではないと思うのですが…。
106 :
名無しさん@1周年:01/10/24 00:29
いや、そんないい加減なものだよ。。
>>106 そう、なの、かなぁ…。
その程度だったらみんな簡単に宗教捨てられるんじゃないでしょうか?
って、無宗教な私が言っても説得力ゼロか。
94>>
おっしゃることに納得です。
でも、それでもやはり、私とイエスの間に、確認できない多くのことがら
ってのは存在していて、それに賭けるって気持ちはありますよ。
でも、確かにおっしゃるとおりで、権威だから信じるってのはちょっとどうか
と思うことで、いちおう自分の中ではそういうのではないって思っています。
そしてそれは大事なことだと思います。
イエスのとったとされる行動一つ一つに感銘をうけて、自分の中で
信じるに値する!と判断したから、ファンになっているんでしょうね。
でも、やはり、その先には、確認できない多くのことってのがあって
信じるっていう賭けに出てる部分ってあると思いますよ。
109 :
名無しさん@1周年:01/10/24 00:51
>>1 宗教自体がナンセンスであると考えるなら、無理に信仰を持つことのほうがナンセンスです。
科学のほうが優れているなら科学を深く学んでいけばよい話なのであって。
ただし、科学と宗教の領分は別物です。(全くの別物という意味ではなく、役割が違うということです)
考古学が聖書を手本にしてたらトンチンカンなものになります。
同じように、神を数学的に数量化するのも馬鹿げています。
『教会は聖者だから遺体が腐らない』『天動説』『死者復活』『処女懐胎』などは
本質的なものではないのです。科学的にはもちろん正しくありません。
>私としては正直、科学は宗教より明らかに上だと思います。
人間社会にとって、どちらが有用かといえばもちろん科学です。
これなしには、もはや社会はなりたちませんしね。
しかし、本来、役割が違うもの同士を比べても意味がありません。
>宗教は残念ながら人類間の争いの素になっていると感じたからです。
>なぜ、そこまでして、根拠もなさそうにみえる宗教に人はこだわるのか、と思ったからです。
たとえば、国家自体が宗教によって国民を統治しているのであれば
それは宗教というより政治としてとらえるべきです。
そして、それが原因で起きる戦争は国家的な『外交』なのです。
宗教の本質的な部分はとてもパーソナルなものです。
特に現代においては、国家を治める手段を宗教に求める必然性はありません。
これらの問題は宗教自体に原因があるというより、政治的な運営に問題があるように思います。
1さんは、宗教思想と宗教の信仰者と宗教による集団心理とを一緒に考えて
おられるようですね。これらは別々に考慮すべきです。
107>>
宗教っていうより、ようは、自分を捨てられないんだと思う。
神様を捨てられない、、ってんじゃなくって、「神様を信じることで
成り立っている自分」とか、「神様を信じるもの同士の仲間に
属することで成り立っている自分」ってのを捨てられないんだと思う。
ちょっとしたことだけど、「神様を捨てられない人」と「神様を
信じる自分を捨てられない人」ってのは大きな違いがあると思う。
111 :
名無しさん@1周年:01/10/24 01:01
宗教が争いを生むのでわなく、生きていくうえで必要な共同幻想が宗教とよばれ
それが自己利益を守る為に利用されているのでは?
イエスから争いは出てこないと思う。旧約の一部はおんねんをかんじるけど。
>>22さんの
>>103 うーむ。神様って比喩じゃないんですか…。
今はちょっとわかりませんが、ちょっとこのレスは深いぞ深いぞって気がするので、
じっくり温めてみようと思います。
でも凡人にもわかるようにちょこっと解説していただけると幸いです。
あと、仏教って、すべてこの世は虚構っていうのが基本なのかなあ?
たしかにこれじゃあ少なくとも宗教戦争にはならないよね。
戦う根拠が虚構じゃねぇ。
宗教も、同じ虚構ならこれに希望を託そうかな、くらいの
スタンスのほうがお互い排他的にならなくていいと思うのよ。
教団の側も、躍起になって虚構じゃないと言うより、
事実であろうがなかろうがどっちでもいいじゃん、って人を取り込んでいかないと、
カルトな集団になっちゃうよ、と思うんだけどね。
101>>
そういう気持ちはそれで良いんじゃないかなって思うよ。
それから、俺はそういう気持ちを持っている人のことを、
既にクリスチャンだって思うよ。
うまく説明できないけど、イエスという存在を人生の中で
どんな形であれ必要としている人はクリスチャンだと思う。
>別に洗礼にこだわることもないし、
>一人で聖書とか読んで癒されてればいいんだろうけど
洗礼にかぎらず、神と自分との関係を考えた上で、
俺なりにああいうことをしてみようかな、とか、こういうことを
はじめてみようかな、って迷うことはたくさんあるよ。
簡単なことで言えば、今日、教会行こうかな?それとも家で寝てよう
かな?とかね。
少し極端なことをいっちゃえば、洗礼ってのもそのひとつじゃないかな?
って思う。
俺から見たらあなたは既にクリスチャン。俺となんらかわりない生き方だと
思う。
>>2=112
>あと、仏教って、すべてこの世は虚構っていうのが基本なのかなあ?
このスレでは「虚構」という言葉がたびたび出てきますが、これは
「嘘」や「虚偽」と同義ではありません。
私達の認識はすべてはアナロジーなのだということです。
言葉も、何かの実体を解釈するためのアナロジーであるし
『私』という認識を私が持つのも、他人との区別という相対的な関係を
社会的に維持するために必要だからです。
つまり、アイデンティティ、自我というのも私をあらわすひとつのアナロジーなのです。
そして、仏教などでは、こうしたものは本質的ではないという意味で「空」だと言うのだと思います。
私の内に覚醒を待っている神がいる。これを仏教では「仏」と呼んでいるのだと理解しています。
>私としては正直、科学は宗教より明らかに上だと思います。
「算数は道徳より明らかに上」と言ってるのと同じで
違う種類の問題を比べられてもねえ。
全てを一元的にしか見られないというのは、それはそれでひとつの宗教(イデオロギー)だよ。
>13(懐疑)…>10(懐疑)…>3(懐疑)…>1
>5
>6(.)
>8(>7)…>7…>4
>12…>9…>1
>11
>14…>3
>15(懐疑)…>14
>16…>14
>17(.)
>18
>19
>20(>1)…>4
>20(>1)…>2
>21(>1)…>10(懐疑)
>25…>23(>1)…>22…>1
>26(>22)…>23
>27(>1)…>25
>46…>28(>1)…>26…>27(>1)
>30(>29)
仏教の基本は、超自我の確立です、虚構とか空の考え方は
あくまでその考え方の手段です。
119 :
名無しさん@1周年:01/10/24 02:58
>>1 弟子たちがイエスの復活をみて一斉に死を恐れず布教
したというのも創作だと思いますか?
>31
>32
>33
>34
>35…>27(>1)
>36
>37
>39…>38
>41(>22)…>1
>47…>45…>43…>40(懐疑)
>44
>45…>43
>46…>28
>48
>50…>49(>1)
>95…>51
>95…>52
>95…>53(>1)
>54(懐疑)
>56(>1)…>55…>1
>58(>1)…>57…>4
>60…>1
>65…>63…>61…>59
>95…>62(>1)…>59
>66(>1)…>61
>67…>64
>69(1は神です)…>68(1は神です)
>72(>68)…>71(>68)…>70(>1)…>68
>73
>85(>1)…>74
>76(ぽぱい)…>75(ぽぱい)
>77(>55)
>78(素人)
>79
>85(>1)…>80(>2)
>81…>4
>99(>2…>80)…>82(てーぷ)
>84(宇宙)…>83(宇宙)
>85(>1)…>74
>85(>1)…>77…>78(素人)
>85(>1)…>80
>85(>1)…>81…>4
>89(パブ@品川)…>87(パブ@品川)…>86(パブ@品川)
>88(素人)…>1
>90(素人)
>343?
何やってんの?
>91
>108(パブ@品川)>94(>92)…>93(パブ@品川)…>92…>86(パブ@品川)
>95…>49
>95…>51
>95…>52
>95…>53
>95…>62
>98…>96
>97(変人)…>1
>100…>99(>2…>80)
>99(>2…>80)…>82(てーぷ)
>99(>2…>80)…>87(パブ@品川)
>113(パブ@品川)…>101(>2…>80)…>41(>22)…>87(パブ@品川)
>102(>77)…>1
>103(>22)…>101(>2)
>109…>104(>1)…>95
>110(パブ@品川)…>107(>1)…>106…>105(>1)…>97(変人)
>111
>114
>115(>22)…>112(>2…>80)…>103(>22)
>116…>104(>1)
>118
>119 >1
>>1 仏教といいましても、喪家のような「絶対仏信仰」もありますし、禅宗のような
「絶対無」の境地もあります。両者はの考えは全く違う。私は後者の方。
すべて「禅宗」を肯定しているわけではないが・・・
両者は、明らかに信仰という概念が違います。 そもそも釈迦は、バラモン教より
「因果律」「輪廻転生」を神仏から切り離して、自己責任に転化している。
ここのところが重要かとおもうのです。
「他力本願」でなく、自らが「不二」を顕現する・・これが仏教の本懐かと思うのです。
「絶対無」「信仰無」になったとしても、明らかに仏教傾倒者です。
2です。おはようございます。
>>103バプ@品川さん
そーでしょ?じゅうぶんクリスチャンだと思ってるのよ。
でもほら、洗礼の信仰宣言ってあるでしょ、
「天地の創造主、全能の神である父」
「父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、
死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリスト」
「聖霊、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのち」
こういうのを「あなたは信じますか?」ときかれて、
「はい、ただし比喩的として。」とか言ってもいいの(笑)?
これは私にとっちゃ、ある意味踏み絵よ、踏み絵(笑)。
教会もハードル下げてくれないかなってね。ま、別にいいんだけど。
>>22さんの
>>115 私は大づかみな人間なんだけど、
仏教の「空」って、平たく言えば「一切はアナロジー」論ってことなんですか?
で、アナロジーされない何か、それが神(仏)ってことなんですかね?
覚醒をまつ神、目覚めていない潜在的な精神、自分でも認識できない未知のもの、
未知だから表すことのできない何か…。
うーん。ひょっとしてこれってアートマンってやつ?
んで、これを例えばイエスなりの本質と一体化させるってことが信仰?
んー、深遠すぎて分かったような分からないような。
いずれにしても、これだけ観念的だったら、戦争の種にもしようがありませんわ。
すみませんね、ホント大ざっぱで。
ではちょっくら会社に行ってきます。
>>125 転ぶと一言言えば、楽になれるのじゃ。
はよう絵ば踏みなっせ。
あんたの理性ちゅう絵ば。
かちゅーしゃのためにさんご指摘ありがとうございました。
また、すみませんでした。改善しますね。
>>125 極論からするとクリスチャンかどうか?ってのは、そんな明確な定義って
なくって、基本的には、神様と自分の関係で自分がクリスチャンだって
思ったらそれでクリスチャンだし、そうでないと思ったらそうでないって
ことなんじゃないかな?
ちと変な表現かもしれないけど、クリスチャンになるってことと、
そこの教会員になる、ってことは基本的には別のことですよね?
教会員になる、ってことなら、それは当然そこの教派の聖書の捉え方に
賛同するかどうか、ってことが大事になるのは当然だし、それはそれで
尊重するべきものだと思うけど、それが、イコールクリスチャンかどうか?
って話にはならないのでは?
と、いうことで、自分でよーく考えて、クリスチャンだと思うなら、
「私はクリスチャンです。」って言っていきればいいし、なんか違う
と思うなら、「何か違うと思っています。」って言えばいいと思う。
ちときつい言い方で申し訳ないけど、基本的には2さんの問題であると思う。
今一度自分と神様の間を見つめて、「自分がクリスチャンかどうか?」って
ことをよくよく考えてみればいいのでは?
で、俺の場合だと、とりあえず、おこがましくも「自分は
クリスチャンです」って言うことにしている。
それは、何か特別信じてる気持ちが強いとか、イエスの教えに
とてもよく従っているとか、そういうことでなく、他だ単に、
俺がイエスを必要としてるから。
イエスにすがったり頼ったりすることを大切だと思っているから
「俺はクリスチャン」って語ることにしている。
そして、そうしてクリスチャンとして歩む中に、神様に対して
「ああ、もっとこうしてみたいな」とか、「もっとこうあるべき
だったかな。」とかそんな思いを与えられて生きているんだと
思う。時に、励まされて、ときに叱られて、時に慰められて。
その歩みの中で、奇跡とかそういったことも、「本当かなぁ」って
おもったり「嘘かなぁ」って思ったり。。。
信仰するってロボットみたいになることじゃないから、
人間らしくいろいろまよいながら生きてますよ。
ちなみに自分にとって洗礼ってのはひとつの区切りになったことは
確かだとも思う。そしてそれはよかったことだと思う。
洗礼ってゴールでなく、また新たな自分のスタートだって思う。
だから、もっと気楽でもいいのかなぁとも思ったりもなんかしちゃう
ようなきがしないでもないようなそうでもないようなって
ところです。
宗教に帰依している人たちへ。
女子高生コンクリ強姦殺人事件ってあったでしょ。詳細を知っていますか?
ニュース速報板や共産党板にスレがあります。
あの事件の被害者の女の子やその家族に、神の存在をどう言えばいいのでしょうか。
おそらく彼女自身、家族は悲痛なほどの祈りをささげていたはずです。
また、あの事件を知って、心に修復不能な大きな傷を持ってしまった人(私も含む)
には、なんと言ってくれるのですか?
神が存在するなら、あまりにも、残酷なのではないですか?
適当に、死ね、ということですか?
>>129 ひとつ問うけど、それをここに記すあなたの目的は?
それをまず教えてほしい。
それによって、何を語るべきかってかわってくると思う。
できれば、本当に助けて欲しいです。
もう、健康的に、人生を生きていけるとは思いません。
>>129 俺が聞きたいのは、あなたが傷付いていてそれをいやしてほしいのか
それとも、それを材料にして、キリスト教を批判することを目的と
しているのか。
ちと感じ悪い書き方で、申し訳ないけど、俺としてはどっちも
ありだとおもってるので、どっちを目的にしてるのか、よかったら
教えてください。
133 :
名無しさん@1周年:01/10/24 13:04
>>129 生あるものは必ず死ぬ。
形あるものは必ず壊れる。
>>130 レスありがとう。
もう、自分でも、よくわかりません。
絶望しているのは間違いなく、また、安易に全能の神の祝福を説く行為に、
怒りにも似た、やりきれない思いを抱いているのも間違いありません。
わかっています。弱い人に宗教が必要だということ、最低限の教育、倫理
の役割として宗教が最も適していることは。
今回の事件の場合、宗教の救いの効果があるのはむしろ加害者やその
家族なのだと思います。
なんか、矛盾のような、そういうものも感じます。
>>129 基本的なことからいうけど、なんと言ってくれるのですか? と
言われても、的確な回答なんてなくって、当然「わかりません。」
としか答えようがありません。
その上で私なりに語れることがあるのかもしれませんが、でも、
それでも、それを語ることが、いいことなのか悪いことなのか
とても自分でも悩みます。
はっきりしていることは、「被害者でない俺は、いくら被害者の
気持ちや痛みを共に担おうとしても担うことはできない。」と
いうことです。
誤解を招くような冷たい書き方ですが、俺にとっては、
その事件は永遠に「対岸の火事」だということです。
とりあえず自分の中で大事にしたいのは、まるで自分がその
被害者の痛みをわかったかのようになって、いろいろと語ることは
さけるべきだと思っています。
私ではわかろうとおもってもわかり得ないほどの苦しみが被害者の方に
あったのだと思います。
>134
ある意味で当たり前の疑問(憤懣)だと思うよ。
人が生きる。人が不幸な目に遭って死ぬ。こんなことはあってはならないと思う。
神はいないのか、と悩む。それを足がかりにして、人間がひとりひとり、自分の
真理に到達するのが宗教なんだよ。宗教だけは、他から譲り受けることはできない。
宝捜しをしている人の満足は、宝を探したいという欲求、宝を探すための労力と疲労、
宝が見つからないという失望、があって初めて得られる。最初から、「ほら、宝はここ
ですよ」と手渡されたら、誰でも怒るでしょう?「これは、あなたが見つけた宝で、私
の宝ではない。あなたは私ではないのだから。」節操のない人だけが、他人の勧めた宝
を言われるがままに受け取って、宝探しに手を汚すことをやめてしまう。
涙さんが感じる憤懣も、そういう不合理に対する当然の感情だよ。むしろ、軽々しく
「これが宝です」と口にして平気な、ここのクリスチャンに不信感を抱き、「そんな
ものが宝なわけないだろうよ」と言い捨てたい気分だ。神は、すべての人間たちにいろ
いろな出来事を与えて悩ませることで、宝を見つけさせようとされている。多くの宗教
は、宝でもない他人の持ち物を信者に押し付け、せっかくの神の御心を台無しにしている。
ここの「無節操」クリスチャンよりも、涙さんの方がずっと神に近くて、「宗教的」ですね。
>>129 神様を信じてもどうにもならないことはいくらでもあります。だから宗教
なんて何だということにもなる。でも神とは我々のすべての祈りをかなえる
為に存在するのか? 人間にとっていつも都合のいい超越者であれというのは
やっぱりわがままだと思います。だったら神様なんて信じないと言うなら
仕方ないでしょう。女子高生〜事件は確かに悲惨なものでした。殺された側
の立場に立てばなんとも想像を絶する恐怖、絶望、悲しみがあったことは容易
に窺われます。残酷ですね。ここで、でも人の世ではそういうことも起こり得る
のだと言うことは、とても冷酷な響きを持つかも知れない。客観的にみる
ことの内にどんな愛情があるのか。
私は特定の宗教に帰依してはいません。しかしイエスや仏陀の精神的な導きが
まったくの絵空事だとも思わない。世界中で彼女のように非道な行いの犠牲と
なる人々は数多いでしょう。その犠牲者たちが何かの神を信じているかどうか
はこの際あまり重要ではないはずです。人が人に対して、どれほど愛の欠けた
態度を持ちうるのか、そのことを我々は充分過ぎるほど知らされる。その現実
を知った上で、果たして自分はいかに生きてゆくことができるのか、そこで
本当に自分自身が試されるのではないのでしょうか? あまりによそよそしい
綺麗事だととられるのはやむを得ない。しかし私はそう考えるしかないと思い
ます。
このことを考えるには、たぶん、ふたつのことがテーマになると思う。
一つは、「神がいるのに、なぜこういうことが起こるのか?」ってこと。
そしてももうひとつは、実際起こってしまったこの現実を生きるにあたって
「今後どういきればいいか?」ってことだと思う。
で、まず、涙さんの語る
>安易に全能の神の祝福を説く行為に、
>怒りにも似た、やりきれない思いを抱いている
ってのは、誠にまともな感覚だと思う。
だから、安易に神の祝福ってのは語れないと思う。
俺がよく思うことだけど、たまに「こんな苦しいことがありましたが、
今はそれが解決しまして、今思うと、それは神様が私にくれた試練であり
今ではそれを感謝してます。」っていう人がいるけど、それはそれで、
その本人がそう感じてるんだから、否定しようがないし、
「ああ、よかったね。」っていってあげれるけど、その人が、
同じようにして苦しんでいる人に対して、「それは神様の与えた試練です。」
なんていったり、「神様の計画の中にあります。」とか言ったりしたら、
それには俺は猛烈に反発しますし、「じゃあ、あなたも同じ目に
あってみる?」って脅します。
勉強しなかったからテストの点が悪かった、、ってことくらいなら、
そういわれても、ま、納得するけど、そういうレベルでない痛みとか
苦しみってのが、世界にはほんと蔓延してると思う。
で、その「なぜ起きたのか?」ってことだけど、たとえば、俺が
今、そこらへんを歩いている人を、ナイフで刺したら、やっぱり
その人は死んじゃうんだよね。
どんな信仰をもっていても、どんな立派な行いをした人であっても。
だから、やはり、自由ってのが現実ある以上、その自由を持っている
人間がそれを乱用したら悲劇は起こるってことだと思う。
それ以上のことでもないし、それ以下のことでもないと思う。
ナイフで切ったら血が出る。それだけだと思う。
そして、「なぜ、神がいるのにこのような悲劇を起こしてしまう
ように人間をつくったのか?」って言われても、それはやはり
永遠に「わからない」と思う。
また、悲痛な叫びをあげたとして、それなのに、死んでしまった
ことに対して、「神はそのとき、何を考えて、何をしていたのか?」
と言われても、これも永遠に「わからない」と思う。
>> 135 レスありがとう。
「ご自身のお考え」としては、もっともですね。理解できます。
でも、
>>129で上げた事件の記事は読まれたことあるのですか?
それで「対岸の火事」と言っておられるのですか?
あまりに酷薄ではないですか?キリスト者に限ってそんなはずない、と思うのですが。
攻めるようですみません。
たぶん、牧師に直接相談したほうがいいのだと思うのですが、やはり、
攻めるような態度になりそうで、遠慮しています。
2chだとある程度覚悟したひとが応えてくれるかと思って。
私が甘えてました。
141 :
名無しさん@1周年:01/10/24 13:53
カルマです。
彼女は過去の行為のカルマを受けたのです。
142 :
名無しさん@1周年:01/10/24 13:54
ニューヨークテロで死んだ人は5000人
>>140 >>でも、
>>129で上げた事件の記事は読まれたことあるのですか?
いいか悪いかは別として、結構詳しく知っている。
犯人の顔もみたし、ニュースステーションもみたし。
たぶん、あなたが、示して下さったスレッド以外にずっと前からあるのも
ほとんど目を通してる。
とっても残虐な事件だと思う。
被害者、および、その家族にはほんと自分なりに精一杯の同情をしてる。
でも、それでもなお、俺はその被害者たちほどの痛みを感じれてるわけでは
ないと思う。
俺が被害者と同じ気持ちになっている!なんていったらそれはとても
おこがましいことだと思う。
だから、言葉は悪いけど、「対岸の火事」ってことだと捕らえている。
たとえば、俺が「俺はその被害者と同じ気持ちです。でも、みんなに励まされて
元気になって今では楽しく毎日を送っています。」なんていったらどう思う?
痛みを共有するってのは、ほんと難しいことなんだって。
それを共有したと勘違いすることが人をどれだけ傷付けることか、、、って
俺はずっと思っているわけです。
おわかりいただけますか?
>>141 あなたにもカルマがないといいですね。カルマが。
うん。カルマがないといいね。ほんと。でもあっても
しょうがないね。うん。だってカルマだもんね。
なーんていってるのといっしょだよ。
どう思う?
>>142 数の問題ではないと思いますよ。あまりちゃかすなよ。
145 :
名無しさん@1周年:01/10/24 14:09
>>135 バプの発言をもう少しきちんと読め。正しく理解できてないだろ。
基本的には涙はバプに肯定されてるんじゃないか。
涙が否定してることを同じように否定してるんだろ。
146 :
名無しさん@1周年:01/10/24 14:12
自分の弱さ、至らなさを、自分の弱さ、至らなさとして認められない人が、
自分の不満足を埋めるために、虚構の宗教に走る。そのことによって真面目な人まで
巻き込むのが弊害。
続きはまた今夜。
バプ@品川さん始め、独白人さん、弱い人間さん、真摯なレスありがとうございます。
特にバプさん、攻めるようなトーンで、すみません。この手の事件のことを思うと、一杯
一杯で、息が止まりそうで、震える手でレスしてます(会社だったりするけど)。
実は結構いい歳だったりします。
皆さんのように「心のある」方々とお話できて、ほんの少しだけですけど、楽になりました。
本当は、世の中に酷い事というのは、たくさんあるわけですよね。感覚を麻痺させたり、
局外者を決め込むことは一番いけないことだと、社会人の常識で思うのですが、関心を
寄せるにはあまりにショックが大きくて、やりきれません。
宗教はこの問題にどのように指導的立場をとるのか、ということに興味があって、
レスをつけた次第です。
もしかしたら、単に同じ絶望を共有している人を探したい、あるいこの事件を知らない人に
教えたい、のだったのかもしれません。悪趣味なのかもしれませんが、無知は罪だと思っ
ていますし、ここは2chですから、ある程度の精神的リスクを持って皆参加しているわけ
ですし。
願わくば、単なる救いでなく、世に関与し、二度とあのようなことのないようにしたい、と思っ
ています。宗教者の立場で、同じようなことを考えていらっしゃる方々がいると、それこそ
「人の善」を信じています。
149 :
名無しさん@1周年:01/10/24 14:35
>>145 135に対するレスですか? 135はバプさんだけど...
自分の弱さ、至らなさを、自分の弱さ、至らなさとして認められない人が、
自分の不満足を埋めるために、虚構のネット掲示板、2ちゃんねるに走る。そのことによって真面目な人まで
巻き込むのが弊害。
151 :
名無しさん@1周年:01/10/24 14:39
>神が存在するなら、あまりにも、残酷なのではないですか?
存在しないとしたら?
あなたはとても心優しい方のようですね。
たぶん世界はあなたが思っているよりずっと残酷です。
これを機に生きていくこと、生きていること、について考えてみる
のもいいかもしれません。
あと法律が何故存在するのか、とか。
152 :
名無しさん@1周年:01/10/24 14:41
アフガンの現状は、ひどいものだ。
私は趣味で自動車レースをしている者ですが、極限状態に陥ったからとて神や仏が直接
助けに来てくれることはありません。
ただ、そう言う時にものを言うのは自分自身の信念です。その信念を神や仏がフォロー
してくれることはあります。
信念も、神仏も虚構かもしれませんが、それが自分を何処かへ運ぶものになるのは間違
いない。信念がなければ、厳しい人生を切り開いて行く実行力はどこからも得られない。
ただ、信念だけに頼っているとレースでも人生でも必ず何かとクラッシュする。
どこかでブレーキを踏む勇気と叡智は失敗から学んで経験を積む以外にない。
だから、人生の傍観者になってはいけない。飛び込んで失敗しなければ経験は我物とし
て感覚の中に記憶できない。最大の悲苦は失敗という経験を無駄にして同じような失敗
を繰り返すこと。さらには行動の前に失敗のイメージに捕われて、恐ろしくなって何も
出来ずに時間を失う事。「やってみよう・・」という可能性に懸けてみる勇気は信念か
ら生まれて来る。現実は経験から得た確かな感覚から開かれる。簡単なことではありま
せん。
涙さん
犯罪被害者に、それなりの「感情移入」することが、貴方にとって「美学」
なのかもしれませんが、すべての人が同じ価値観をもっている訳ではないし、
神仏云々よりも加害者に目をむける方が筋かと思う。
そもそも、神仏を「人格化」しているのではないでしょうか?
それも、全ての人が同じ宗教認識では無いと思う。
>153
神にすがるうちは、神には出会いないということだと思います。クラッシュしない
ようにと神にすがる人は、必ずクラッシュする。逆に、神のことを忘れて、クラッシュ
しないように人事を尽くす人は神の加護を得てクラッシュしない。
良寛和尚がいい事言ってますね。ニシンだかを勧められて、遠慮なく食べているのを、
通りかかった僧が見咎めた。あんたは生臭坊主だ、と。ところが、良寛さんは平気で
こう答えた。確かにわしは何でも食うが、その代わり何にでも食わしてやっている。
良寛さんは体にノミやシラミがわいて、血を吸っても決して潰すようなことはしなか
った。所詮、この世は食いつ食われつだ、と。これが本当の神に近い。
人間がほかの動物のエサにならないって誰が決めたんだろう。アフリカでは今でも
猛獣に食われて死ぬ人間がいる。神がそれを許しているということでしょう。それ
が残虐と言うのなら、なぜ人間だけ特別扱いを受ける権利があるのか、再考して
みるべきでしょう。おかしなセンチで彩られた神は贋物です。神はきらびやか
な教会にはいない。アフガンで飢え死にする人々のそばにいる。それを残虐だと
言いつつ、傍観するわれわれのそばにも同時にいる。
>人生の傍観者になってはいけない。飛び込んで失敗しなければ経験は我物とし
>て感覚の中に記憶できない。
この覚悟がつかないで、自分勝手にセンチな神にこだわる人は、神には会えない。
156 :
名無しさん@1周年:01/10/24 16:10
>涙さん
ふと思うのですが、貴方は
被害者の方に対して「自分には何かができる」とか、「何かをしてあげたい」とか、
あるいは、「犯人をどうしても許せない!」とか、「何かが絶対におかしい」とか、
そのような貴方の【エゴ】で、被害者の方を見てるのではないでしょうか?
その貴方の【エゴ】が貴方をして「絶望」へと追いやってるのではないでしょうか?
そして【エゴ】から生じた「絶望」に対して、神仏の「救い」を求めてる。
その見方が、あの事件の加害者の見方と、何ら変わりないことにお気づきでしょうか?
酷いことを言ってすいません。
そんなエゴの「正義」が、今行われてる戦争と同じく、世間でまかり通り過ぎてる。
涙さんがそんな世間の流れに乗っかって、苦しんでいるように思われまして。
そんな方、多いですから。
キリスト教の神は言います。
「汝人を裁くことなかれ。裁かば汝が裁かれる」
例え不条理、理不尽に心が切り裂かれる事件が起きたとしても、
貴方と神仏との関係のみにおいて、
貴方がすべてを神仏に委ねることが必要なのではないでしょうか?
それができなければ、心優しい貴方の場合、目を潰したくなってしまうかもしれません。
Oh! 何だか思いがけない展開に。
とりあえず
>涙さんへ
10年前だとちょっと私は疎いですがニュー速とか読みました。
野放し獣少年グループ/犯行卑劣残忍/親が政治力を利用/
警察見て見ぬふり/司法腰抜け判決/通例踏襲10年そこそこで仮出所/
加害者反省なし?/
よくぞここまで重ね重ねひどいことが。
はっきり言います。
私が被害者の親なら、そいつを探し出してブチ殺します。
その結果何年食らおうが、やらなかったよりマシです。
こういうのを司法が機能していないっつーのよ。
元ヤクザの神父さんだか牧師さんだかだったら、
ひょっとしてとめないんじゃないの?とめるかなあ?
もし仮に加害者が良心の呵責に苛まれまくってるとしたら?
その時はまた考えてもいいわよ。
少年犯罪被害者連絡会の活動に没頭するくらいにしとく。
とにかく何かアクションする。
この世のことに関しては、この世で行動して、この世に一石を投じるしかないのよ。
司法が機能していないのと同時に、全能の神だって機能していないのよ。
いつからか、さあ知らないけど。
だから、そんな時に先人の神をめぐる思索がヒントを与えてくれるだけ。
「許しとは?」とか、「慰めとは?」とか。
そして一時の安らげる枕を与えてくれるだけなのよ。
.
>>151 さん。
あくまで、神が存在したとしたら、残酷なのでは?という意味ですので、存在しないのであれば、
それまで、です。
私はとても心優しいか、と訊かれれば「そうらしい」と答えざるを得ません。自分からこんなこと
いうのは厚顔無恥ですが、妻を含めて、すべての知人、上司からよく注意されますし、呆れら
れていますから事実なのでしょう。悪い意味で「優しい」のだと自覚する努力をしています。
ただ、自分ではそんなに特別だとは思ったことはありません。自分が傷ついたり、損をしたこと
以外に、大きな失敗をしたことは、運良くありません。
>> たぶん世界はあなたが思っているよりずっと残酷です。
たぶん大丈夫です。私が特に女性が犠牲になる事件に過剰反応するのは、私が古いタイプの
情操教育、つまり「女性や子供を守ってこそ男」が、基本にあるからでしょう。リベラルな人から
は怒られてしまいそうですが、親や妻、友人からは支持されています(笑)。
>> これを機に生きていくこと、生きていること、について考えてみる
>> のもいいかもしれません。
多分考えています。問題は、私の人生は私自身はどうでも良くて、如何に私の人生を有効利用
して、世に貢献できるのか、あのようなことを起こさないように助力できるのか、です。
自殺や出家は私自身の救済にしかならないですから。
>> あと法律が何故存在するのか、とか。
江戸って、世界史に他の例を見ない百万都市で、明文化された法律を持たずに、治安と清潔を
維持していた、奇跡的な町であった、というのを聞いたことがあります。それを言えば、今の日本
の法律は、性善説に成り立っていて、ザル法だということも理解しているつもりです。
文化、文明の問題なのでしょうか?
.
>>153 草レーサーさん。
経験、というか「行い」の積み重ねにより、得られる知見がいわゆる智恵とは別にある、という
ことですね。経験者の勘というのは重要だと私も確信しています。なかなか定量化されないか
ら、軽視されがちですけど。
>>155 独白人さん。
前半で述べられていることって、仏教用語で申し訳ないですが、サマディですね。
宗教の一つの重要な効能はサマディへ至るための道具として「行(あるいは祈り)」を持ってい
ることだと理解しており、肯定する立場にあります。
後半部は、「他生の縁」とか「業」とかいうことですよね。独白人さんは、仏教的なお考えを述べ
られていると解釈しました。だとすると神というより仏なんでしょうけど(揚げ足とるわけじゃない
です)、どうお考えですか?
>>156 さん。
エゴ、と言われればエゴだと思うのですが、ご指摘されている、被害者に何かしてあげたい、
とか、犯人を許さない、とは違います。
「これ以上あんなことは起こるべきではない」です。義に刈られているわけではなく、仁から悲
嘆しているのです。また、件の事件を茶化したり無視したりする態度が、まさに加害者と同じ
行為であると思っています。
>> 貴方と神仏との関係のみにおいて、
>> 貴方がすべてを神仏に委ねることが必要なのではないでしょうか?
ありがとうございます。
それができれば私自身は救われるかもしれませんが、私はそのことには本当の興味はありま
せん。最も、すこしでも、心が楽になるのなら、と救いを求めたくなるのも事実ですが。
不遜なのでしょうか?
実は、今、一番心が休まるのは、般若心経かもしれません。「不垢不浄不増不減」というフレー
ズです。
>>157 2さん。
司法が機能していないのだと私も思います。日本の法律は、性善説を前提にしたザル法で、
運用に任されるところがあって、本来、倫理観の高い国民に対してなら、コストが安くてよかっ
たのかもしれませんが、日本人の倫理が崩壊して、今のようなことになっているのだとと思い
ます。
いわゆる人権屋弁護士は、昔は「恥知らず」と呼ばれたことでしょう。彼らが生まれ、活動し
ている背景に、対処すべき大きな問題があると思っています。まだ方法まではわかりませ
んが、いつか必ず行動を起こすつもりです。
治世の観点からだと、加害者が良心の呵責に苛まれるかどうか、は問題とはならないと思い
ます。犯罪を抑止できるかどうかの合理的な判断だけです。
極論ですが、女性の殺害等は、新しい生命の誕生の可能性の根本を破壊しているわけです。
これは神の冒涜ではないですか?
すこし、話がずれてきてしまいました。
そもそも思ったのは、事件の被害者、近親者には宗教は大した救いを与えられないのでは
ないか、それに比べて加害者には、宗教は贖罪の機会を与えている、という不合理です。
第三者である私は、被害者がうけたのと同じ「方向」で傷を負っています。当事者に比べ
れば、はるかに小さな傷です。それでも神の存在を疑わざるを得ません。ましてや、加害者
には「赦し」を与えているわけです。
これが不合理に思えていて、宗教に帰依している人の意見を聞きたかった、ということです。
あ〜、変人レスがあるスレで般若心経を出しちゃった・・
最悪…
>>158-159 あちゃー。相手を見誤ったね。そんな覚悟を持ってる方だったとは。最初のレスに
ごまかされた。「助けて」なんて言うんだもの。みなさんどうレスするんだろ。
>>154 変人さん。
> 犯罪被害者に、それなりの「感情移入」することが、貴方にとって「美学」
> なのかもしれませんが、すべての人が同じ価値観をもっている訳ではないし、
仁です。対人関係を前提とした人間社会を構成する上で普遍的なものだと思ってい
ます。
> 神仏云々よりも加害者に目をむける方が筋かと思う。
加害者の発生過程ですか?処遇ですか?
発生過程については問題の背景をおおよそ理解しているつもりです。
処遇に関しては議論の余地はありません。最大の犯罪抑止効果を期待します。
> そもそも、神仏を「人格化」しているのではないでしょうか?
神には往々にして人格を与えられています。そのほうが理解しやすいからでしょう。私
自身はどちらかと言えば仏教に傾倒しているほうですが、仏は人格ではないことは理
解してます。
> それも、全ての人が同じ宗教認識では無いと思う。
ご自身の認識と、本件での解釈をお聞かせください。
164 :
名無しさん@1周年:01/10/24 19:42
「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の根底には性悪説があり
ます。そこに性善説の司法を持ち込むものだから滅茶苦茶なのです
(これ以上書くとややこしくなりますが)
>> 162 さん、>> 163 さん。
第三者的なコメントにレスするのは不調法かもしれませんが、コメントありがとうございます。
>> 161 さん、できれば、いままでの例など、ご記憶の範囲でご披露ください。
>> 162 さん、いまでも「助けて」欲しいのは変わりません。仏教のアプローチで安寧を得るのは
難しいことだと理解しています。
本当は、すぐにでも飛び込めるような、強い新興宗教があればいい、と思ったこともあります。
こういうの危ないんですよね。すこしわかった気がして、ぞっとしたことがあります。
涙さん
>今一番心が休まるのは般若心経かも知れません。
最初のレスでは、絶対神、絶対仏的信仰概念をもっている方かと思いましたが
レスが進むにしたがい、そうでもないみたいですね。
貴方自身の性格的なものではないでしょうか?
最終的には、「般若心経」に答えが書いてあると思います。
「善悪一如」。「不二」がすべてを包含していると思うのです。
涙さん
私の宗教認識について。
仏教に傾倒しておりますが、「信仰」という概念は「絶対無」に近い。
いわば「不二」観により世界観を構築。それが原点。
絶対仏信仰の仏教徒とは大きな違いがある。板の中ではきわめて異端的存在なのか?
般若心経を仏典の第一義とする。
バラモン教から、釈迦は「因果律」「輪廻転生」を神仏から切り離した。
よって、仏教の本道はすべて自己責任。神仏介在するに非ず。
「不二」を顕現するを仏教の本懐と心得る。
168 :
名無しさん@1周年:01/10/24 20:32
俺は神は信じるが人の言葉は信用しない。
例えそれがイエスだろうが釈迦だろうが。
仁ですか。
>対人関係を前提とした人間社会を形成する...
きっちりした社会観をお持ちなんですね。
>発生過程については問題の背景をおおよそ理解している...
では伺いたいのですが、この事件ばかりでなく青少年の凶悪犯罪がごく当たり前と
なってしまった今の日本で、一体ひとりの人間がどれほどの抑止力を生み出せると
お考えですか? こんな言い方は失礼で不謹慎かも知れません。しかしあなたの
古風な正義感がそのまま通用するような世の中はとうの昔になくなっているのでは?
私も同じように仁愛を大切にしたいと考えたこともありました。しかし現実はそう
甘くは無い。悪に染まった社会(と見てしまうんですが)でいくら正論をぶっても
無駄骨に終わる。あなたが本当に何かができる自信がおありなのか、あるいはやはり
多くの善意ある人々の協力を求めたいのか、まず今の段階では大変なことですよと
言うしかないです。
170 :
名無しさん@1周年:01/10/24 21:02
俺は神は信じるが本の内容は信用しない。
例えそれが聖典だろうが仏典だろうが。
変人さん。
ご自身の宗教認識(というより教義ですね)については拝聴しました。できれば本件に対する
解釈をお聞かせください。
あるいは、善悪一如を説く、ということで理解してよろしいでしょうか?
>>168さん。
キリストの神格については別の話として、私自身は、彼の仁者としての人となりに好感を持って
います。
特に姦通した女を石で打つ、ということを話し合っている人々に対して、彼の取った行動(ちょっと
馬鹿にしたような態度に見えなくもない)がとてもあっさりとしてて、賢者であることに感銘しました。
>>169 弱い人間さん。
もちろん私一人で状況に変化を与えられるとは、思っていません。助力できればいいのです。ど
うせ授かった命を、なるべく、一番有効に使いたいだけです。他に使い道ないですから。
だから今は、自分の理解が正しいか、最も有効なのはなにか、探しているのです。カネは役に立
つのは間違いないでしょうから、それなりの用意も初めています。
あと、まだ日本は悪に染まりきってはいない、と思います。
以降、レス遅れます。夜中に戻ってこれるかもしれません。
>>169 こういったレスを拝見しますと、ノスタルジーを感じてしまいす。
一昔前ですと、極あたりまえな共通認識が、すでに過去のものになっている事に気がつきます。
「仁」。やはり現代にとっては死語に近いのでしょうか?
久しぶりに目にしました。
涙さん
>本件に関する解釈をお願いします。
「至上善」をどこまでも追求するのでしたら「陽明学」しかないと思います。
もしや貴方は、この行動哲学に傾倒しているのではないですか?
レスの様子が、そういうふうに感じられるのです。
1、最初に問題提起
2、宗教的観点と自分の思想ととの比較
3、自己思想の正当性確認
まあ、私の思い過ごしかもしれませんが・・・「陽明学」は危険思想というのが私の見解です。
心情的には169さんレスに同意。
>>涙さん
>極論ですが、女性の殺害等は、新しい生命の誕生の可能性の根本を破壊しているわけです。
>これは神の冒涜ではないですか?
女を殺すのが神への冒涜か、それは知らないけど、
相手が男であれ女であれ犬であれ、
自分より弱いもんを寄ってたかってなぶるようなのは、
とにかく人倫への重大な冒涜だわよ。
あと、宗教のメリットが加害者側に大きい不合理ってことだけど、
私思うに、
宗教はどんな極悪人をも救う装置を用意してないといけないから、
それを安易に解釈して、っつーか悪用して、
はー赦された赦されたって、のうのうとする奴だっているでしょうよ。
だいたいさ「魂の生活保護」みたいなもんなんじゃないのかなあ、宗教って。
で、本当に救いたい人を救おうと思ったら、「おまえもかい!!」みたいな奴まで
必然的くっついて来ちゃうんでしょう。一定割合はしかたないんじゃないの?
本当に不条理、不合理をなくするんだったら、
そりゃあ実際の社会のほうをいじるしかないでしょう。
被害者なり、痛いと感じた人が声を上げてさ。
だから、そこんとこ宗教家もさ、悪人を赦すばっかりしてなくて、
常識的な範囲内で、あれするなこれするなとか言った方がいいんじゃないの?
タリバンみたいのはやだけどね。
ううぅ…レスの内容がみな高度なので読むのが大変です。
例によって意味が完全には理解できていないところは許してください。
>>109 んー、科学と宗教の話については、私が言いたいのは
「科学はそれを信じる根拠がはっきりしている、だから信じられる。宗教は
それを信じるための根拠(奇跡・神・ごりやく等)がはっきりしない、なのになぜ信じるのか」
ということです。自分なりにちょっと上手くまとめられた感じ。
>1さんは、宗教思想と宗教の信仰者と宗教による集団心理とを一緒に考えて
>おられるようですね。これらは別々に考慮すべきです。
別々のモノなんですか…?ちょっと納得できないです…。
>>111 なるほど、そうかもしれませんね。宗教は自己利益を守るために利用されて戦争になる、か…。
では、聖地の覇権をめぐる争いなども、あくまでもそれはただの勢力争いであって、聖地を守るというのは
ただの名目でしかないということでしょうか?
>>112 >宗教も、同じ虚構ならこれに希望を託そうかな、くらいの
>スタンスのほうがお互い排他的にならなくていいと思うのよ。
>教団の側も、躍起になって虚構じゃないと言うより、
>事実であろうがなかろうがどっちでもいいじゃん、って人を取り込んでいかないと、
>カルトな集団になっちゃうよ、と思うんだけどね。
同意です。そういう宗教ならば無宗教な私でもすんなりと受け入れられます。
より良く生きるための「考え方」みたいなものとしてのものならば。
>>116 >全てを一元的にしか見られないというのは、それはそれでひとつの宗教(イデオロギー)だよ
…確かに私は皆さんと比べると思考的な柔軟性に欠けている気がします。ごめんなさい、としか言えない…
>>119 >弟子たちがイエスの復活をみて一斉に死を恐れず布教
>したというのも創作だと思いますか?
創作だと思います。というか、弟子の存在あたりから疑っています。
死者が生き返るならば現代でも法王さまとかならば軽い奇跡くらい起こせるのでは?
確認しようのないような過去のお話だけを根拠に奇跡を信じるのはどうかと思います。
177 :
名無しさん@1周年:01/10/24 23:53
>>176 >>弟子たちがイエスの復活をみて一斉に死を恐れず布教
>>したというのも創作だと思いますか?
>創作だと思います。
ドストエフスキーの「罪と罰」は読んだ?
あれは「復活」じゃないの?
178 :
名無しさん@1周年:01/10/25 00:01
>>177 1さんじゃないですがどんな事が書いてあるんですか?
>>1
だと思います。だいたいこの土地は私達の神から頂いた、だから私達のものだ。
だから私達の作った神を信じないものは死ね。にしか見えない。
キリストもマホメットも他宗教に寛容らしいし。
>>124 やっぱり仏教の知識、足りなさすぎでしたね。すみません。
女子高生〜事件からの神の無慈悲、について。
神様がいるんだとしたらどう考えても不平等だ、というのは私もいつも思っていました。
みなさんの考え方、良く読ませていただきましたが、やはり神様はいないな、と思いました。
「カルマ」というのが何のことだか分かりませんでしたが。前世の罪とかかな?
ただ、その後のディープな仏教のお話ははっきり言って良く分かりませんでした。
>>変人さん
他の宗教は認めていますか?仏教が「正しい」とすれば別の宗教の中身には「おかしい」ものがたくさんあると思うのですが。
>>177 ドストエフスキーの「罪と罰」、ごめんなさい読んでません。
題名と作者を学校で習っただけで内容については1ミリも知りません。
関係のあるところだけでいいんですが、簡単に言ってどんな内容なんでしょう?
ノンフィクションの話なんでしょうか?
182 :
名無しさん@1周年:01/10/25 00:33
涙さん
安らぎは諦めてどう行動したいのか落ち着いて考えてみては?へたに安らぐと
問題への興味を無くしてしまいます。
それと一言、ぼく達自身も犯罪者を生む社会を構成しているし、環境次第で
人殺しになったかもしれないし、日本の存在自体が何人もの人を殺してるかも?
そして行動の結果がどうなるのかを考えてください。しかしそれでもぜひ行動
してください。
183 :
名無しさん@1周年:01/10/25 00:50
>>180 ちょっと気になったので。。
>神様がいるんだとしたらどう考えても不平等だ、というのは私もいつも思っ
> ていました。
神様が、我々にしてほしいことがある、と考えることもできますよ。
>「カルマ」というのが何のことだか分かりませんでしたが。前世の罪とかか
> な?
自分の肉体を含めた、人間から見たこの世界そのものを指すように思うんです
けど、どうなんでしょう。
永遠ではないもの = 時間とともに終りが来るもの。
>>127 バプ@品川さん
そーなんですか、
やっぱり「はい、信じます」って言わなきゃ入れてくんないんですかー。
私がそう答えられるようになる、画期的な解釈っていうかウラ技が、
どっかにないのかと思って探していますが、
やっぱそれをそのまんま信じるっていうんじゃないと、ダメなんですかねー。
はぁー。
まあだいたい、教会に「神なき時代の救い」なんかを求めていくほうが、
板違いだったんでしょうねぇ。
最初の踏み絵が踏めないので、はぐれクリスチャンたらざるをえないんですかね、私(悲)。
まあ、がんばります。
きょうはBWV131「主よ、深き淵より、われ汝を呼ばん」を聞きながら寝ます。
>>183 >神様が、我々にしてほしいことがある、と考えることもできますよ。
うーむ。原爆落とすときにも沈黙を守る神様、それもあなたのご意志?
>>184 いや、ですから、クリスチャンかどうか、ってことでなくって、
教会員かどうか、ってことだけなのでは?
ですから、はぐれクリスチャンかどうか、ってのは、あなた次第で、
そこで問題となるのは、あくまではぐれ教会員かどうか、ってこと
ですよね。
で、それから、「はい、信じます」っていわなきゃ入れてくれないか
どうか、ってのはそれは、それぞれの組織(教会)のポリシーごと
だと思うので、俺からはなんともいえません。
極端な話、10個教えがあったとして、10個必ず信じないとだめですよ
っていう宗教もあるだろうし、3個教えがあってどれか一個でも
なんとなく信じてればOKですよって宗教があるかもしれないし。
そもそも、2さんが気にしてる奇跡の解釈うんぬんとかだけど、
それって結局は人間でいる以上100%信じきるなんて
どこの誰にも不可能なことなんじゃないかな?って思いますよ。
人間ってのは、一人一人当然価値観も感じることも違うわけだから
いくら同じ宗教の同じ教派(宗派)を信じる群れであっても、その中で
それぞれいろいろな違いってのがあるのが健全な状態だし、
それくらいの含みはどこの団体でももっているのだと思いますよ。
2さんは、とりあえず今通っている教会が自分にあうとおもって
おられるのでしたら、基本的にそこの教会に通いつづけることが
2さんにとって幸せなんですから、牧師なり、神父なりに、
今の気持ちを素直に相談されてみてはどうでしょうか?
余計な話かもしれないけど、2さんに俺が伝えたいことのひとつは
(って何個もかいていまさらひとつは、、、ってのも何ですが。(苦笑))
イエスが弟子をとった理由ってことです。
聖書によるとイエスが弟子をとった一番大事な理由ってのは、
単に「共にいるため」ってありますよね。
2さんが、そのイエスの「共にいよう」っていう呼びかけに
応じたいって思うならもうそれでとりあえずイエスと共にいきる
(=クリスチャン)ってことなんじゃないかなぁ。
その上で、いろんなことを考えていけば良いし、その中で
自然に出てきた気持ちとして「教会員になりたい」って思えば
そうすればいいし、また、「洗礼を受けたい」って思えばそれで
いいだろうし、「誰かに伝えたい」って思えれば伝えればいいし。
今の日本の教会ってのは、ずいぶんめんどくさいしきたりとか
いろいろあるのかもしれないけど、基本的にはイエスの「共にいるため」
ってことをもっと気楽に考えて、そう思うなら、いろんなしがらみを
こえて、本当に無条件に、「イエスと共に」歩むってことをはじめてみる
(自分をクリスチャンって呼んでいくこと)ってのはどうだいべぇべぇ。
少なくとも
イエスと自分の関係>>教会と自分の関係
なわけですよね。
決して教会とか、教会のルール(ローカルルール)がくだらないって
いってるんじゃないんですよ。
ただ、イエスと自分っていう間の関係の方がもっと圧倒的に大事なもの
としてあるわけで、それだけをまず考えてほしいなっておもうわけです。
俺がいっつも思うのは、事実上、
クリスチャンになること=洗礼をうけること=どこかの教会員になること
ってのがある意味常識としてまかり通っているけど、そういうスタイルが
合う人ばかりじゃないので、その3つがセットになってるのでなくって、
まずは、イエスの「共にいるため」ってことに共感して無条件で
「私はクリスチャンです。」っていえることがもっと一般的になると
いいなぁって思っています。
あとは、洗礼受けるとか、教会ってのを背負うとかは、それぞれが
選んでいけばいいことなんじゃないかなぁって思います。
でも、しつこいけど、俺はほんと洗礼受けてよかったって思ってますよ。
いろいろわかんないこともあるけど、俺の中ではそのわかんないままに
「とりあえずイエスがやったから同じようにやってみよう」ってのが
あります。
わかんないことは、わかんないままに、、、です。
そもそも「わかんない」からこそ、「信じる」ってことが
おこってくるんじゃないかなぁ。。。
と、本題をずいぶんそれましたが、なんにせよ、いろいろと迷うのは
つかれることです。
極端な話、漫画みたいにイエスがぼよよーんって出てきて、2さんが
信じることができればそれが幸いだよね。(笑)
俺の通っている品川バプテスト教会ってとこにも、2さんと同じような
思いをもっている、大切な仲間がいます。
189 :
名無しさん@1周年:01/10/25 02:09
>>184 >うーむ。原爆落とすときにも沈黙を守る神様、それもあなたのご意志?
確かに、起こった事実だけで善悪を判断すれば、
神はなにやっとるんじゃ!
ということになると思うんですけど、もっと違う視点は存在しているかもしれ
ないわけで。
例えば、完全に目覚めた視点から見たら、それは不調和ではなく、
完璧な状態であるかもしれないわけですし。
つまり、我々が目覚めていないことが1番問題のような気がするのです。
変人さん。
私自身は陽明学には縁がありませんでしたので、傾倒しているということはないと思うのですが、
私の言動の型がそのように分類されるのでしたら、そうなのかもしれません。
私は、至上善をどこまでも追求するなどということは考えておりません。簡単に言えば、女性が
犠牲となる犯罪を醸成するような社会要因に対処したい、というだけです。そして私の想定してい
る行為は、せいぜい、政治的あるいは経済的な活動によるものでしかなく、「心の問題」まで
カバーできないのです。
私の行動は提起した神の不合理を解くことには結びつきません。だから、このスレで質問してい
るわけです。宗教において、異教徒と例外(件の被害者)は、適当に、死ね、ということですか?
「対岸の火事」という意見に軽いショックを覚えたのは事実です。宗教の力はそれほどのものでし
かないのでしょうか?
>>182 さん。
> 日本の存在自体が何人もの人を殺しているかも?
というフレーズに私は反応してしまいます。なにをおっしゃりたいのでしょう。
>>174 2さん。
おっしゃる事はもっともだと思います。女を殺すことを敢えて強調したのは、純粋に生物学的、
経済的な判断基準です。男の方が遺伝学的に劣勢であり、死ぬようにできている、のはご存知
でしょう?
米国に住んで、プロテスタントの集会を見ると、ご自身の考えが具体化するかもしれません。
社会における宗教の役割、特に、「約束の地」と「贖罪」を機能としてもつキリスト教の驚くべき
効能です。「悪い」と言っているわけではありませんので誤解されませんよう。
>>180 1さん。
カルマ、業とは、存在そのものがある種の罪(犠牲といってもいいかもしれません)である、という
ジレンマのことです。人が存在するためには、他の生物を殺し食さねばなりません。これがもっと
もわかりやすい例です。
先進国の子供一人を維持するためのエネルギー、資源のコストは、発展途上国の子供40人分
に匹敵する、という事実があります。これは先進国の途上国に対するカルマだといえるでしょう。
>>182さんはこのことをおっしゃっているのではない、と拝察しますが。
191 :
名無しさん@1周年:01/10/25 02:29
>>1 もう一つ聞きたいんですが
どこのHPか忘れたんですけど
イエスの復活が嘘というのを明らかにするために
いろいろ調べたイギリスかドイツの学者みたいな人が調べているうちに
生き返ったとしとか思えないという結論に至ったらしいのですが
これはどう思いますか?
そのHPは探せばみつかるとまた探します。
192 :
名無しさん@1周年:01/10/25 02:29
>>190 横レスすいません。
カルマとは、悪いものを指しているのでしょうか?
実のところはっきりとしたことを知らないので、もっと詳しく知りたいです。
みつかると思うので探します。でした
すいません、183 = 192 = 189
です。
この世の中の暗い事件は全て、カルマが開放されるときに起こるものだと言い
ます。そういった事件を通して、我々は何かを経験します。その事件はただの
きっかけです。それが起こるためのエネルギーは前から存在しています。
それをうまくきりぬける方法を提案してくれるのが、宗教の本来のあり方なの
ですが。。 でも、自分でも、カルマとは何かはっきり理解できていないのは
事実です。いろんな考え方を知りたいです。
ありました。
>>4のリンクからです。
1930年代、イギリスの法律家であったフランク・モリソンは
キリスト信仰の土台は復活であることに気づき、この迷信を世界
中に暴露しようとしました。しかし事態は変わり彼は「動いた墓石」という本を書きました。
その第一章”どうしても書けなかった本”の中で彼は、
「証拠を調べていくにつれ、自分の意志に反して肉体の復活の
事実を信じざるを得なかった」と述べたのでした
これはどう思いますか?
196 :
名無しさん@1周年:01/10/25 03:07
197 :
名無しさん@1周年:01/10/25 03:09
>>196 どういうことですか?
今はだいぶ変わってきてるんでしょうか?
>>197 知らない。
ただ、70年前にそんな事があったって言われてもどうかな。
199 :
名無しさん@1周年:01/10/25 05:38
結局誰もほんとの事は知らないんだね。
多分100人いたら99人笑うと思うけれど、書いてみるか。
♪だあーれも知らない、知られちゃいけーないー
って歌あるでしょ? 適当に作ったな、と思う人はあまいな。
秘密を本当に知っている人は話さない、ということね。
多分このままではいつまでも答えは出ないと思われる。
発想の転換が必要だけど、みんなが思いつく方法では結果が見えてこない?
つまりみんながダメだと思っているところに答えを得る手法がある可能性が高い
んじゃない?それも誰も見向きもしない所のほうが研究も進んでないだろうから
新しい物が潜んでいるかもね。
結構、答えは身近にあるかも?
今の日本という国には、情報が地球上で一番出ているかもね。
これは、日本の神様と関係あるのかな?
人間のことを一番考えてくれているのは、ごたいそうな教典など残されている
メジャーな宗教の神より、日本の神さまなんじゃない?
何も残してないのは、日本の文化の中に織り込んでいるし、言葉には嘘になる
ことも多いからかな?文字に残しても、写し間違えたり、権力者によって書き換
えられたりするから、危ないのね。
だからといって変な新興宗教なんかにひっからないでね、別にどこぞの回し者
ではないです。
では、がんばって考えてね。
>>1 >他の宗教は認めていますか?
宗教とは、科学で補えないもの(精神世界)をカバーするものであって、そういう観点から
基本的には寛容です。
人間が「真理」を追究するにしても、「五十歩百歩」たかがしれています。
宗教、科学が目指すものは「ありのままの世界の解明」でしょうから、それに到達する
ための手段として「宗教」を位置付けている。
私の場合は、「不二」の世界が自分を変えたのは確かなんで、一応仏教信徒ということになる。
涙さん
>「対岸の火事」。宗教の力はそれほどのものでしかないのでしょうか?
恐竜2億年、人類200万年の歴史。生命は脈々と受け継がれてきた。一個の人間の存在など、
その流れに浮かぶ「浮き草」のようなものではないでしょうか?
そこに、神仏が介在するなど到底考えられないのです。
戦争、飢餓、疫病、犯罪、いろいろな苦難を経て人類は生き延びてきた。
どんなに地獄絵図をみようとも、時間は静かに流れ、すべては過去のものになっていきます。
そういう世界に我々は「生きている」。というのが実体なのかと思っています。
逆に言えば、そういう世界だからこそ宗教が必要なのではないか?
私の世界観からすると、信仰の対象となる「仏」は存在しないと思っています。
「仏」が存在しなくても、「哲理」「不二」によって救われる。 私の仏教観です。
202 :
名無しさん@1周年:01/10/25 08:19
まじで、「復活」とか信じてる奴いるんだ。笑える。
ドグマを信じるということは、それ以外のものを否定することになるから
排他的になるのは当然の理といえる。
色別チーマーみたいなもんさ。青チーマーの所に赤着てったら、
「なに赤着てんだよ」ってなるのと同じ。自分たちのチームの
神をかついでるだけ。
2は信じるの無理だろうねぇ。
まあ入りたきゃとりあえず「はい」と言っとけ(笑)。
思考停止すれば誰にでも可能。
203 :
名無しさん@1周年:01/10/25 10:19
>涙さん
女子高生コンクリ事件がとりあげられていますが、本当に陰惨な事件ですよね。
栃木リンチ殺人事件とか…
神がいるならなぜこんな事件が起こるのか?と問う気持ちはわかります。
慈悲の神、愛の神、でありながら。
しかし、神の慈悲、愛、とは、このような陰惨な事件に心を痛め、自分はどうしたらいいのか
どうしたらこんな事件がなくなるのかと問うあなたや他大勢の人の気持ちではないでしょうか?
被害者を慈しむのも愛であり、犯人を憎むことも愛だと思いますよ。
対岸の火事という意見にショックを受けたとのことですが、所詮、当事者でない全ての人にとっては
対岸の火事といえるのかもしれません。しかし、その 対岸の火事に対してどうにかしたいと考える
ことができるのも人間です。
宗教はこうした事件に対して無感覚になるための技術論ではありません。
対岸の火事にさえアクションを起こせる意志を目覚めさせるものだと思います。
神は何故彼女を助けなかったのかと問うても答えはありません。
神はどこか遠くで人を見守っている誰かではないのです。
神の慈悲は、自らの慈悲によってしか姿を見せることはないのです。
マザーテレサは、あの素晴らしい事業を神の超常現象でなしえたのではなく
自らの愛情によって為したのであり、
そうした自らの愛を通してしか神を知ることは無理だと思います。
そういう意味では
>>153(草レーサー)さんの意見はとても示唆に富んでいると思いました。
204 :
草レーサー:01/10/25 10:35
将来に、確かなものなど何もない。世の中に理解できないことはいくらでもある。
圧倒的に巨大な世界の力を前にして、心細くなって救いを求めたくなるのが人情
なのは誰でも同じこと。救いは誰でも欲しいものです。
でもまず、前提として平和で豊かな生活、危険な状況からは身を守られる保障が
現代の先進国のような環境では、そういうものがあって当然だっていう思い込み
も誰にでもあると思う。自分の利権は守られて保護されて当然だというような。
そしてそういうものがある程度可能な社会制度も先進国では作られてきている。
大自然の厳しさから身を守るために、人間が快適に生活できる環境を作ってきた
ともいえる。しかし、人間を含め大自然は人知を超えて存在し、計り知れない。
いくら最善を尽くしても、思いがけないところから問題が発生してくる。それが
どんなに不合理、矛盾で納得がいかなくても、発生してくるものに付いては受け
入れるしかない。それがポジティブな態度というものじゃないかと思いますよ。
そもそも自然は生き物に身の保障などは与えてはいないんじゃないですか?
自然は、その環境の中で自力で生きていくことを全ての生き物に開放しているだ
けです。身の保障は法律という人間の作った限られた共同体の中でしか作用しま
せん。
神仏や宗教などを持ち出してくるより、自然と人間の関係、人間と人間の関係か
ら、それぞれが問題と向い合い、目指すものに向かっていく方が私は賢明だと思
います。自分が必要としなければ、神仏や宗教などに関らなくてもいい。
単純な質問ですが、涙さんは現在、個人として幸福をどんなところで実感してい
るのでしょうか?
>>192-194 さん。
業は善い悪いではありませんし、色々な考え方があるものではありません。存在その
ものが、他の存在の犠牲の上に成り立つ、という現象を説明した言葉です。
また、善悪を議論する際は、どの観点からの善悪なのか、に注意すべきでしょう。
>>194 で展開されている解釈は、なにかに依拠したものですか?件の事件をカルマ
の故である、という解釈をすることは、私から言わせれば思考停止であり、無関心の
延長です。
あれは、感受性と倫理観が致命的に欠落した子供達、と、そう教育しその環境を作った
親の重大かつ凶悪な犯罪だというだけです。
>>201 変人さん。
私が神を信じているか、ということでしょうか?だとすると、そうではありません。宗教は
人間の精神と心理を説明するものであって、自然現象、社会現象を説明するものでは
ない、と思っています。
私が宗教の必要性を認めているのは、教育、倫理の安定基盤としての側面や、精神
衛生面での補助を与える機能を持っている、ということです。
繰り返しますが、ですから、このスレッドで質問させていただいているのです。
その機能がどれくらい有効なのか?極限的、不合理に見える状況ですら、精神安定を
与えられるような力があるのか?ということです。批判しているのではなくて、期待してい
るのです。ですから、「対岸の火事」にショックを受けているのです。
>>203 さん。
ほぼ私も同意見です。神を信じていない、と言っていますが、人が何かを、あるいは、
何らかの精神状態を神や仏と呼ぶことは、あってしかるべきだと思います。
>>204 草レーサーさん。
ほぼ私も同意権です。私の当初のスレッドがすこし感情的でしたので、誤解させているの
かもしれません。
私が幸福をどんなところで実感しているか、とお尋ねになりましたが、妻が安心した寝息
を立てて私の横で眠っているとき、「人としての幸せとはこういうことだ」と深く理解します。
そして、私は幸せな人だ、とも思います。
しかしその瞬間に、この幸せを奪われた人もいる、ということ、しかももっと酷いことになっ
ている人がいる、という事実が思い出されます。これが裏で、表裏一体です。
裏の観想を出すと妻が不安がるので、表だけを感情として顔に出して、「和やかでよい夫」
を演じています。また自分がその生活を送れる能力に安心感を見出すようにしています。
幸福感だけを覚えるということは、殆ど、なくなりました。もう、10年以上になります。
世の中には「リアルタイムで」酷い目にあっている人がいるのは事実です。気にしないで、
自分だけの幸せを考えればいい、という言い分もあるのは知っています。私もそうできれ
ばいいのですが、できない、というだけです。根底にあるのは、私は、助けを求めている人
を助けたい、という悟性ともいうべき感覚です。
>1
最初の疑問に付いて考えてみました
なぜ虚構の部分が多いのに宗教を信じるのかと言う点に付いてですが
人間が生きるのに必要な精神的な位置付けのために必要だからでは無い
でしょうか、つまり美学の問題だと思います、この辺なら良し、これは
悪しとはっきり宗教が位置付けをしてくれているからだと思います
例えばあの宗教の十戒や仏教の五戒、これはそれぞれの宗教の基本に
有る物だと思います、ただ現代に近ずくにつれ生活に即した解釈が新たに
加わりその本質の部分がぼやけ、判りにくくなって来ていると思います
人が多く居れば考え方の基準が変わって来るのは当たり前ですが
個人の精神的な位置付けの基準の為に理解しやすいからでは無いでしょうか。
208 :
名無しさん@1周年:01/10/25 14:21
虚構かもしれないが、虚構ではないかもしれない。
「信じている」というより、神が存在するという方に”賭けている”のだ。
神の存在を証明することは出来ないが、神が存在しないということも証明できない。
神はいますか?という質問に対する恐らく最も正直な答えは、分かりません、だと思う。
宗教とはギャンブルだ。神はいる、という方に賭けたのだ。負けても失うものはない。
勝って得るものもない。
>>206 おおっ!出ました涙さん!
いいよいいよ、そのポーズ決まってます!!
はい大団円、大団円。
皆さん涙さんを拍手でお送りしましょう。
さて次はどんなパターンで登場するのかな?乞うご期待!
でも俺はマザーテレサのようには生きられないなぁ。
正直尊敬する。
>>205 >>194で展開されている解釈は、なにかに依拠したものですか?
はい。私の考え方ではありません。しかし、事件は起こる前にそれを起こすエ
ネルギーの動きというのは、確かに存在します。それはとても繊細な動きなの
で、通常の認識を持つ人間は感知しない場合が殆んどのようです。
私も、感知出来る場合と、出来ない場合があるのですが、かなりぼやけた形で
現れることが殆んどで、はっきりとはわかりません。
まだまだ歪んだ認識力ということになるかと思いますが。
ある程度深い部分をマインドが認識できるようになると、神の助けを受けるこ
とが出来ると言います。そしてそれは、自分と言う存在を通して、神の意志を
この世界に反映できる、ということに他なりません。この星には歴史がありま
す。自分の肉体のカルマを開放し、深い認識を得るにつれて、全てが分かって
来ます。全ては自分の内側から来ます。外側から来るものではありません。
212 :
名無しさん@1周年:01/10/25 17:08
もし貧しい人々が飢え死にするとしたら
それは神がその人たちを愛していないからではなく
あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。
(マザー・テレサ)
ほんとマザーはすごい人だ。教典を暗記することより
実践のほうがよほど難しいのだと痛感する。
213 :
名無しさん@1周年:01/10/25 17:15
ただ、依存心の強い搾取的な性格なやつが、
マザーテレサの理屈を使って、
扇動をかければ、
「実践あるのみですよ。(ぼくちゃんを構って〜〜〜、)」
にしかならんからなぁ・・
(以上に増加中!偽覚者に警戒せよ!)
マザーテレサと構って君の違いは何か・・
214 :
名無しさん@1周年:01/10/25 17:17
215 :
名無しさん@1周年:01/10/25 17:29
思うに、復活って教祖様磔死じゃカコワルーイから
美化しただけじゃないの?
弟子に売られちゃったとかカコワルーイもんね。
2です。
皆さんの意見、たいへん参考にさせてもらってます。
仏教系の方のお話がちょっと難解で、消化しきれなくて悪いんですけどね。
えー私は、はぐれ刑事が刑事であるように、
はぐれクリスチャンもクリスチャンだと思ってます。
別に教会員じゃなくてもね。
だからまあ、自分で水かぶって、はい洗礼ってことにしてもいいんだけど(笑)。
私が人や社会と関わっていく上で、イエスやパウロそれからあのマザーテレサ、
彼らの精神と共にありたい、っていうのが一番大事なわけだから。
だったら何で教会に入りたいとか踏み絵がどうのこうのと言うのか?
それはですね、
そこの神父さんがさ、非常に人間的に信頼の置ける人だもんで、
できればこの人に洗礼を授けてもらいたいなと。
この人をつうじて、イエスから連綿と繋がる系譜に、
不肖私も加わりたいなと思ってるわけよ。
あと、もし私が死んだときに、お坊さんが来て
お経あげて「チーン」とかやってほしくないっていうのもあるけど(笑)。
まあ神父さんにもそろそろ言ってみるけど。
無神論者の洗礼なんて聞いたことないと思うけどね(笑)。
神っていう概念を、いろんな人が多義的に使ってるからややこしいんだけど、
超常現象を起こす神様は、まあそっちの人におまかせするとして、
22さん、203さんの文脈での神様つまり「内なる神」っつーのかな、
これなら私もOKかも知れないので、そのへんで手を打てないかなと思ってます。
だめなら
>>202さんのおっしゃる様にとりあえず「はい」とか言おうかと。
>>203さん
>>204さんのお話はとても共感します。
217 :
名無しさん@1周年:01/10/25 17:49
>>216 クリスチャンに、クリスチャンと教会の関係を聞いた方がいいよ。
ルターには慣れますか?と。
>だからまあ、自分で水かぶって、はい洗礼ってことにしてもいいんだけど(笑)。
それ(・∀・)イイ!
というか無神論者と言ってるようでは無理かも(笑)。
涙さん
センセーショナルなスレッドに、センセーショナルな涙さんの登場で、一躍人気スレになりました。
板の精鋭達?が集結して、今やチャット状態。
どなた様のレスも真剣なのが分かります。
宗教という概念を再度確認するため、私も真剣にレスを拝見しております。
涙さんのレスは真摯に受け止めております。
人間にとって普遍的テーマであり、私にとっても重くのしかかっております。
正直な話、日に日に高度になっていく内容にスレ立てた張本人である私が恥ずかしながら
ついていけなくなりつつあります…。
しかし無宗教・無神論者の私からすると分からない部分もあるのですが、それ以上に今まで考えられなかった
大切なことがたくさん書かれていてじっくり読ませていただいています。
明らかに、スレ立てる前とでは宗教に対する考えは変わりました。
自分が無宗教であることに変わりはないんですが、宗教には意味があって有益なものであるということが
今更ながら理解できました。
また、宗教を信仰している皆さんも、今まで持っていたそれのイメージとは随分違いました。
もしかしたらあまりにも考え方が違いすぎて議論の余地がないのではないかと思っていたくらいでしたから。
それで、ここまでの私の結論としては、自分の内面と向き合うため、向上させるため、深く物事を考えより良く生きていくための
手段としての精神的な宗教、神様の設定は理解できました。
しかし、そこになんで超常現象(具体的に話題になっているのはキリストの復活)がからんでくるのか、
根拠や証拠がないことを心底信じられるのかは分かりません。
矛盾してることを言っているようですが、自分としては神様がいることにして、いつも神様が見ているからしっかり生きよう、
というのは分かるけれど、他人に「神様はいるんだよ!」と言うのはおかしいのでは、ということです。
…伝わるかなぁ?
>>195 キリストの復活についてですね。
レスを読んだだけでは判断できないので今からそのページ行ってきますね。
ただ、今こうじゃないかと思うことは、
その1 調査の段階で罠にはまり偽の情報を信じてしまった。
その2 フランク・モリソンはもともとキリスト教支持者で実は自作自演。
その3 教会側からの強大な圧力に屈した
…ちょっと疑い深すぎかな。
>>207の素人さん
大体賛成なんですが、それだとなにも宗教に虚構が入っていなくてもいい気がします。
>>208 >神の存在を証明することは出来ないが、神が存在しないということも証明できない。
それを言っちゃうと何でもアリですよ。
私が神であることは証明できないけど、神でないということも証明できない
なんて言って、ほうそうか、と言う人が大勢いたら私、教祖様になっちゃいますよ。
>>215 >思うに、復活って教祖様磔死じゃカコワルーイから美化しただけじゃないの?
実のところ私もそれを考えていました。でもさすがにここでは言えなかった…。
224 :
名無しさん@1周年:01/10/25 23:53
>>221 >自分の内面と向き合うため、向上させるため、深く物事を考えより良く生きていくための
>手段としての精神的な宗教、神様の設定は理解できました。
信仰してる人には手段ではなく、完全に目的だよ。
信仰上の「事実」だけが、この世の真実だから。
それを1さんに合わせて、手段的に話してくれてるんだと思う。
>しかし、そこになんで超常現象(具体的に話題になっているのはキリストの復活)がからんでくるのか、
>根拠や証拠がないことを心底信じられるのかは分かりません。
やっぱりドストエフスキーぐらいは読んでおいた方がいいと思う。
ルカ、キリストの復活で言うなら、「罪と罰」(新潮社文庫、岩波文庫から出てるよ。) からだな。
ルポかと聞いてたけど、ルポじゃない。どっちかと言えば、コロンボ的な推理小説かな。
だからこそ、人間の心的事実が如実にでてる。
内容は、「人間には天才と凡人がいて、天才なら人を殺しても許されるし、罪も負わない」という世界観に至った青年が、
虱のような老婆を殺す。人を殺したことで、青年は(神に)罰せられる。つまり「殺される」。
そして「殺された」ところからの蘇生やいかに…。
青年に追い込みをかける刑事とのやりとり、ロシア革命前夜のペテルブルグのあり様、
ロシア正教会と土着信仰との混合、みどころはいっぱいだから。
是非、読んでみてください。
225 :
名無しさん@1周年:01/10/25 23:58
『罪と罰』ってノンフィクションなの?
226 :
名無しさん@1周年:01/10/25 23:58
フィックションだよ。
涙さん
ひとつだけ聞いていいですか?
あなたは、その事件の被害者と同じ気持ちを背負っているつもり
なのですか?同じ痛みを共有したつもりなのですか?
それはあまりにおこがましいことじゃないですか?
こういっちゃあなんですが、それこそあなたが一番嫌う、
「安易」なんじゃないですか?
被害者と同じ気持ちを背負っているってうなら、あなたが、
こうして2ちゃんしてること自体、おかしいことだと思いますよ。
私が言いたいことは人は所詮、他人を痛みをわかりきることはできない
はかない存在だってことです。
でもだからといって、その岸を笑ってみているのではありません。
一生懸命同じ岸に立とうとしても、それでもなお、人は対岸にしか
立てない存在だってことです。
そして、そのような性質をもった私であることを受け入れた上で、
もう少し謙虚にされて、人のために歩むべきじゃないかな?って
思います。
万一、その事件のことに関して、あなたが、納得するような説明に
出会えても、また、あるときその問題をあなたが心で解決できて
笑う瞬間があっても、また、あるとき、それをわすれて他のことに
没頭する時間があって笑うことがあっても、彼女の命はかえってこない
ことをどう思いますか?
それでも、あなたはその彼女と同じ痛みを共有してるつもりですか?
あなたが笑ったとき、その笑顔は彼女の笑顔ですか?
あなたが納得したとき、その納得は彼女の納得ですか?
228 :
名無しさん@1周年:01/10/26 00:19
世界で35億人もの人間が聖書を信じている。(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)
つまり「世界の3分の2もの人間が同じ神を信じている」ということになる。
これはどういうことなのだろう? きみは虚構の定義さえ述べられていない。
>>205 >あれは、感受性と倫理観が致命的に欠落した子供達、と、そう教育しその環境を作った
親の重大かつ凶悪な犯罪だというだけです。
>私が宗教の必要性を認めているのは、教育、倫理の安定基盤としての側面や、精神衛生面での
補助を与える機能を持っている、ということです。
なるほど。涙さんの強い義憤はやはりそういうところから出てきているんですね。
昨日のレスで少し否定的な意見を述べましたが、それは、倫理というものが今の日本で
どういった位置を占めるのか、という疑問をいつも抱くからです。引用させて頂いた
ような考え方は、以前の私も持っていたように思います。しかし、実際に自分が社会を
眺めるうちに、果たしてそんな理想(!!)が成り立つものか、と真剣に悩まざるを
得なくなりました。失礼ながら言わせてもらいますが、あなたは一家の長として安定した
社会的役割を担っていらっしゃる。そういった立場の人間が、他人をなぶり殺しにする
ような人たち(あえて人としておく)の心境を理解できるだろうか。そんな奴等の心など
どうしてわかってやる必要があるか、お前は鬼畜の仲間なのか、という罵声がすぐにでも
とんできそうですが、私は自分の倫理観で人を裁くことに疑問を覚えるようになったの
です。ここで、被害者と加害者の線引きをはっきりしていないことに涙さんは抗議される
かも知れません。そこがあなたの一番の照準であろうと思います。けれども、この犯罪を
法律や社会常識からでなく、心に焦点を合わせて見つめるとき、事件に関わったすべての
人々(今の日本社会に生きる我々も含めて)の悲しみが怒涛のように押し寄せてくるような
気がするのです。この悲しみは、目に見えるものも見えないものも含め、何が悪い、何を
直すべし、でひとつの秩序へと還流するものでしょうか? 私にはどうもそんな生易しい
ことには思えない。日本はまだ悪に染まりきってはいない、とおっしゃりましたね。
私の言い方が悪かったかも知れない。心棒を失っている、と言うべきですか。いったん
おくことにします。反論もおありでしょうし。
1さん
少しずれるかもしれないけど、奇跡ってことについて、俺が
思うことを書きますね。
たとえば、聖書の創世記ってとこには、アダムとイブって人が
でてきます。
最初の人類が神様によってつくられ、そして、その神様によって
命の息をふきつけられ、いきるようになった、、ってあります。
これは常識的に考えて、本当に第一人目の人間がアダムとイブだった
かどうか?ってことを、聞かれたら、私はNOというと思います。
ところで、では、それがNOであった場合に、その話ってのは、
まったく意味がないものでしょうか?
私はそうは思いません。
もし、聖書が科学書だったら、意味のないことだと思います。
でも、聖書は科学書とは違った、真実があります。
いってみれば科学書にはない真実があります。
そこに目を向けることがもっとも大切だし、そこに科学書にはない
真実があるのではないでしょうか?
231 :
名無しさん@1周年:01/10/26 00:29
日本は、昔と比べて、たぶん科学的に豊かになりました。
食べ物も、きる物も、便利なものも、遊ぶものも、教育をうける環境も、
みんなみんな科学が豊かにしてくれました。
では、そのことに比例して、人間が幸せになったといえるでしょうか?
科学が人を豊かにした、人がいま、昔より、心から笑っているって
いえるでしょうか?
科学以外に大切な何かが、あると思いませんか?
もし、お金も、家も、地位も、すべて自由になったら、そこに
本当に幸せがあるって自信をもっていえますでしょうか?
もちろん、それらすべて魅力的で大切なものです。
でも、それでも、私は、人を幸せにするものは、神の息だと思っています。
と、いろいろ書いたけど、いいたいことは、その奇跡とか、
物語的な話ってのを、科学的に事実かどうか?ってことを目で見る
ことより、もっと大切なことを、心の目で見ることも少し
検討されてはどうかなってことです。
こうは書いてますが、私も基本的に1さんのいうことは
納得する部分は多くありまして、俺自身の疑問を1さんの
発言の中に、共有する思いもあるわけです。
でも、やはり、あまりにその奇跡とか物語を心の目で見ることから
かけ離れてるのではないかな?って思ってかきました。
イエスが行なったとされる、5つのパンでみんなが腹いっぱいとか、
水の上を歩いたとか、死からよみがえったってことがありますが、
同じことはどこかの誰かがしたとしても、驚きますが、別に
そこに魅力を感じたり、それこそ救いを感じたりはしません。
イエスの行動には科学的どうか?ってこと以上にもっと大切な
ことが含まれている気がしてなりません、。
234 :
名無しさん@1周年:01/10/26 00:52
>>232 「奇跡は科学的に見て嘘ではないか」→「科学だけでは幸せになれない」
すり替えではないか?
235 :
名無しさん@1周年:01/10/26 01:54
>>228 親が子供に教えるから信じさせられてるだけでしょ。
アフガニスタンとかみてたら信じてないと殺されるって感じだし。
>>227 パブさん。
質問の答えは「いいえ」です。それから、申し上げたように、私の気持ちの問題は、私に
とってどうでもよいのです。何度も繰り返してますが、宗教にそういう力があるのか?と
いうのを聞いているだけです。
結局、
>>203 のご意見が一番でした。真摯な方だと拝察します。素直な気持ちで申し
上げることができます。御心の天になるごとく地にもなえさせたまえ、です。ありがとう
ございました。このスレに質問してよかったと思いました。
> もう少し謙虚にされて、人のために歩むべきじゃないかな?って
> 思います。
ありがたく拝聴します、と言いたいところですが、私のこのスレ以外での言動を想像して
おっしゃっているようですので困惑します。返答は勘弁してください。
>>229 弱い人間さん。よくわかります。あなたは昔の私のようです。あまり、私の考えを
お聞かせすることは、やめておきます。それから、罵倒はしません。誤解なきよう。
一言、言わせていただけるなら、「あきらめるな」です。
237 :
こぴぺオショウ:01/10/26 02:16
本当にあった奇跡をすり替えちゃったんでは?
目が見えないは、固定観念により見えるべきものが見えてなかった
生き返るは、死んだように生きていた人が生を見つけたとか
>>211 194さん。
神秘主義的ですね。私の今の立場からは少し遠いですので、同じ文脈で議論することは
できなさそうで残念です。私は普通の社会人として対処できること、その方法を考えてい
ます。
>>220 変人さん。
議論させていただいた印象で申し上げて恐縮ですが、研究者でいらっしゃるのですか?
仏教用語に関して造詣が深くていらっしゃるようで、尊敬します。
キリスト教についてはいかがでしょうか?このスレッドをすべて呼んでみたのですが、カ
ソリックとプロテスタントの用語が混同されて使用されているようです。気になりませんか?
240 :
名無しさん@1周年:01/10/26 05:28
交通事故とかで、明日死ぬかもしれないんだよね、人間なんて。虚構ってなんだ?
>>236 わかってもらっちゃいましたか。「あきらめるな」は当方に対してのお言葉?
あきらめた、と言うよりは、自分の慢心を知った、と感じていますね。他人の本音は
窺い知れぬ、と思ってます。
ふと思ったんだ。
おとぎ話に酔ってるのとどこが違うんだろう?って。
清らかなファンタジーを読んで心洗われた気持ちになる。
そしてそこに出てくるキャラクターみたいに生きたいなと思ったりする。
それと同じなんじゃないかって。
僕はファンタジー好きなので。魂の浄化装置のようなものじゃないかな。
やっぱり俗世間に生きてると汚れてきますから。
だから虚構でもいいんじゃないか、という気になってきた。
「虚構の中にある真実」みたいなものがあるのでしょう。
だから他のすべての芸術と同じように人を鼓舞するためにある。
これが僕の一つの答えなんですが、1さんいかがでしょうか?
創世記なんておとぎ話っぽいもんね。この世界はどうして生まれたん
だろうとか不思議に思って、聞いて、「ふーん。そんなもんかなぁ」
なんて思ったりとか。この世界は奇跡的で素晴らしく美しい、
人知を超えた何か=神様が作ったに違いない、と思うようになるのは
自然な心の流れのような気がする。
>>241 弱い人間さん。
「わかった」といったのが失礼だったようですね。お詫びします。「自分の慢心を知った」
「他人の本音は窺い知れぬ」とおっしゃいます。それは事実だとして、all or nothing なの
ですか?
「all or nothing だ」とあきらめるな、と貴方にも自分自身にも、皆さんにも言ったつもりで
す。神 = all なのか、神 = nothing なのか、それがわからないと間違い犯しそうで、何も
できない、という考えは容易ですが、閉じ込められてしまいます。私はそうでした。
色即是空空即是色とはうまいことを言ったものです。
私が「正義を振りかざす」ことを目的としている、と弱い人間さんは期待していらっしゃる
ように読めましたが、そういうつもりはありません。今まで述べた通りです。
宗教を心のよりどころとしている人の意見を聞きたかったので、実は
>>203 さんの答え
を得て、もう、私のこのスレでの目的の殆どは達しました。
それ以外の多くのレスも大変参考になりました。ありがとうございました。
245 :
草レーサー:01/10/26 11:32
240
確かにそうです。可能性としては。しかし同時に明日素晴らしい事があるかもしれない。
現実的に確立が高いのは、現状では前者かもしれない。でも、確立というのも、どうも
怪しい。99%の確立でも、結果で引っくり返ることも事実としてある。
「やってみなきゃわからない」と言うのは確かな事じゃないかな。これは虚構じゃない。
「出来る」とか「出来ない」という決め付けは虚構っぽい。一方「自分には出来る」と
か「自分には出来ない」あと「やってみたい」とか「自分はいやだ」というのは内面の
リアルで、確かに自分はそういう心情だといってもこれは虚構だとはいえないと思う。
何だかんだ言っても、人はいろんな事を信じて活動しているものです。実はこれがなけれ
ば何も活動できず、歩く事もままならないのが人間の事実です。虚構は、思考の問題だと
私は捉えています。
涙さん
宗教について私はあなたの書き込みを見て感じたのですが、勿論、私と涙さんの宗教に関
する概念が異なるものではあると思いますが、まあ、書きたくなったという事で割り込ま
せてください。
宗教の力。私はあると考えます。そういう力が。ただ、一般的に宗教というと、他力的で
神仏を信仰し救いを得るというシステムになっていると私は思うのですが、その信仰する
神仏が小さ過ぎるのが大きな問題になっていると思うのです。宗教は、劇薬麻薬と言われ
るように扱い方、関り方の問題如何で急激な変化を人間にもたらす可能性がある。ただ、
それは、教団の力でも、何々教の神仏のお陰でもないと私は考えますが。たとえそうだと
しても、敢えて発言して恩に着せず、自由に開放してあげるのが本物の御心を行う宗教家
だと私は考えます。でも、人間の方がまだまだその自由に耐えられない。理想を語るのは
簡単ですね。
>涙さん
あのさー、
涙さんがどーいう救済計画を温めてるのか知りませんけどねー、
仁とか悟性とか助けたいとか、そーいうこと言ってる割には、
あなたの人に対する思いやりとか誠実さみたいなのが
ほとんど伝わってこないんだけど。
ていうか、かなり屈折した印象。
涙さんの見識はすばらしいと思いますけどね。
ていうか、これ全部ネタ?
本当のあなたはどこらへんにあるわけ?
……まいっか、そんなこと。
私もいろんな勉強になりました。
>>1 仏教信徒である私が、結局のところ辿りついたのが、信仰の対象である「仏」は存在しない。
という結論に達しております。がしかし、仏教哲理は素晴らしいものがある。
心境としたら、貴方との共通性はあります。
涙さん
私の病気がきっかけで「神秘体験」をしております。
神秘体験と、仏教における「不二元論」が共通性があるので、仏教に首を突っ込みました。
肯定する宗派、否定する宗派。二分されています。
仏教といっても、いかにイデオロギーが違うか・・実感しています。
そういう意味で、2chは宗教を考察する上で都合がよい。
カソリック、プロテスタント
聖書は、3〜4世紀頃大幅に書き換えられている。
現代でも、解釈をめぐり両派頭を悩ませているようだ。
私としては気の毒に思えてならない。
>245
草レーサーさんはいつもいい事言うね。それに、ものすごい勉強家だね。
>「やってみなきゃわからない」と言うのは確かな事じゃないかな。これは虚構じゃない。
>「出来る」とか「出来ない」という決め付けは虚構っぽい。
ここは、キリスト教徒の人には特に着目して欲しいところだな。あまりに「出来ない」
を安易に口にしすぎだ。
>たとえそうだとしても、敢えて発言して恩に着せず、自由に開放してあげるのが本物の
>御心を行う宗教家だと私は考えます。でも、人間の方がまだまだその自由に耐えられない。
宗教の主張とは、人間は神に自己を委ねることによって自由になる、つまり、進んで自ら
神の(本物の)奴隷となることにより、奴隷状態から解放されるという逆説に尽きると思う。
ところが、この境地は単なる口先で「私を神に委ねます」と唱えることとは程遠い。
自由を持て余す人が、自由を放棄するのは信仰ではないよね。それは、奴隷根性が
抜けない人間が、「迷信」という牢獄に自らを投げ入れて安心するだけ。本当の信仰
とは、真に自由になるために、自由の障壁になっている自己をも超越することのみに
よって得られる。この辺で、以前、草レーサーさんが書かれていた「現実から逃避す
るな」という問題とリンクする。
サルトルの言う、「自由という名の呪い」を意識する人は、意外と信仰に近いところま
で来ている。彼らは、迷信家のように自分の自由を捨てたりせず、ひたすら自由であることの
苦難に耐えているからね。あとはいかに自己を超越するか、です。無神論者の方が
奴隷根性から「偽の奴隷」に堕落した迷信家よりも、はるかに信仰に近いと私は思う。
>>244 丁寧なレスをありがとうございます。all or nothing だとは思っていません。
ただ今の世の中はそういった傾向が強いと感じますね。慢心とは、人の心の移ろい
易さ、計り知れなさを充分考慮していなかった自分の甘さを指しています。「あなたが
正義をふりかざすことを期待」しているわけでもないです。現実は非常に困難な状況だ
と思いますから、気をつけた方がいいということです。全般的にあなたの意志に対して
批判的なトーンが感じられたとしたら失礼しました。こういった問題に関しては、人の
心の琴線に触れるだけに意思疎通は難しいと思います。今後のご活躍を祈ります。
なお、私の態度は、これまでの自分の行動とその成果、失敗とその反省を踏まえてのもの
だとご了承ください。
251 :
名無しさん@1周年:01/10/26 17:46
読むだけで大変だけど読んでしまう
独白人さん
う〜ん。良レスだ。えてして私が、こういったレスに巡り合うのは「無神論者」が多い。
自分の世界観をベースに、且つ自分の言葉でレス付けるから、やはり「真実味」がある。
私も、仏教シンパとはいえ「無神論者」みたいなものだから、やはり共鳴するところがあるのだろう。
私も、宗教という概念を再度確認せざるを得ない状況に追い込まれている心境だ。
>>249独白人さん、分かる気がする。
自由ってほんとに重い。
自己判断・自己責任・自己実現…
誰とどうするのも、どういう仕事に就くのも、成功も失敗も、
何でも自分に任されてるわけよね。
で、転んだり起きたり、傷ついたり傷つけたりしながら、
自分で経験積んで、世渡りしていかないといけないのよね。
そんなにきれいな世界でもないのに。
何かの教義や誰かの命令に全部ゆだねて、
それに従ってさえいればいいんだったら、
こんなに楽なことはないだろうなあ。
それに、自分が判断を停止している限り、
この世も、それなりに調和してるように見えるのかも。
もし自由を剥奪するって言われたら、
私、どーぞどーぞって言うかも知れない。
草レーサーさんの意見は、地に足のついた考えですね。共感します。
宗教を拠り所としていなくても十分宗教的だし、
宗教も本来は地に足のついたものであるべきです。
(現実の生活で有用であるべきで、死後の救いや御利益の損得は逆に表層だという意味で)
現実とのギャップをうむような宗教は、もともとその宗教が間違っているか
解釈を間違った信仰をしているかのどっちかでしょうね。
神からみればのう。
世間のこともよく知っておる、勉学もできる、合理的でない世界観は受け入れられない、
こういう賢い者も好きじゃがなあ。
さらにのう。
世間でうまく立ちゆかん困っておる者、口べたで人に言い負かされる者、
勉学もできんが必死で神にすがってくる者。
こういう者がかわいいて助けてやりたいんじゃ。
神への信仰というものはやっぱり練習して上手にならんとな。そうでなければ
神の助けも受けにくいものかもしれないなあ。
阿呆な宗教教義ではないかと思いつつも信仰心を持っておる者
こういう者もいずれは神の恩恵を受けるようになるなあ。
人は信仰心を持っておる限りは失敗が続いても幸せが待ち受けてあるぞ。
神にすこしは期待してみればよいがなあ。
宗教の書物にはうそばっかり書いてあるなあ。
そのうその書物から本物の信仰心をつむぎ出した者
そういう者は本物の実力者じゃなあ。
こういう人に限って、普通の人間より理性はないのに我だけが強い
人が多いんだよね。
260 :
名無しさん@1周年:01/10/26 23:48
上で展開されている議論の流れにすらついていけないので
年中こんなこと言ってるんだよね、この人。
ただ、今、賞味期限切れのある小説家の本にこってるんですね。
261 :
名無しさん@1周年:01/10/26 23:53
また、誰かと勘違いしてるだろ。
いい加減にしろよ。
>>245 >虚構は、思考の問題
そうですね。その思考方法によって心のエネルギーが影響を受け、解放されたり
捻じ曲げられたりするのかも。おとぎ話がこどもの心にとって必要だと言うなら、
宗教も人の心の栄養となりうるのかも知れない。その意味で、宗教の堕落は我々に
とって大きな損失なのか?
263 :
名無しさん@1周年:01/10/27 01:13
今夜は1さん来ないですね。
264 :
名無しさん@1周年:01/10/27 01:49
奇跡を信じてる人たちの事を考えてての仮説
奇跡でも起きない限り救われないと思うほど深層では自分に絶望しているのでは
ないかな。そしてその絶望には気ずきたくないし、逆に気づいたとしたら
死ぬか狂うしかないのかもしれない。だから深いところまで覗くことも無く
あんなものを奇跡だとすがるのでは。
そんな人達にあんなものは・・・と言ったら自分を救うものは無いと言われた
のと同じなのかもしれない。
そして困った事にこの人たち(ある意味俺も)はこのことに気づくのをとても
恐れているからますます盲信するんだと思う。
こんな人達に気づけだの自分で考えろだの言ってもムダです。また、それが言える
人達は自分で気づいたと思ってる傲慢な人だと思う。気づける環境と知能指数
がたまたまいただく事が出来たとは思わないでしょうから。
しかしおそらく自分の事に気づき見る事無しに救いは無いと思われるので
麻酔を打ち気の効いた嘘をついてでも現実の自分を見ていくようにしていく
必要があると思う。なんまんだぶつ
>1
自分が一つの宗教に傾倒している人間では無いので、傾倒している人間の考えは良く
解らないが、宗教の戦略として多く人間を教化する目的のため、寓話を盛り込む
のは仕方ないのではないだろうか、宗派と言う事とになれば中身よりパワーゲーム
の部分が多く、より多くの層を取り込む為の方便だと考えています
それにより、真理をベールで包み見えにくくしているのが実情だと思います
それは職業としての宗教者が絡んでくる限りは仕方ないのでは無いかと思います。
人は超常の力に憧れたりするからね。
盲信してる人を正直馬鹿にしてしまうところはある。
騙されてんぞ、騙されんな、という思いがあるかもしれない。
でもいい意味で騙されてる本人は幸せかもしれないし、
神を信じてる人は無神論者を哀れだと思ったりするらしいから、
一概には言えないね。
267 :
ある宗教者の言葉:01/10/27 07:55
「正の者達は邪の者達を邪と呼ぶが、邪の者達は逆に自分達こそ正であって、
正の者達こそ邪である、と思っているんだ。」
268 :
名無しさん@1周年:01/10/28 00:32
それでもやはり超常現象を信じるのは理解できない。
ましてやそれを信仰の根幹に据えている宗教などは…。
269 :
あらき棟梁:01/10/28 01:34
耐性菌が出始めたのも、医者ではどうにもならんという神様のメッセージ。
現に医者は耐性菌との共存を打ち出したのだからね。
270 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:46
ばか
271 :
あらき棟梁:01/10/28 02:46
ここで書き込む不足発言は因縁となり、来世へ継がれて苦労させられることでしょうね。
ほんとに人間はあざない物ですね。
親神あっての人間ですよ。「からだはかみのかしものや なんとおもうてつこうてるのや」
体は自分のものではないですよね、風邪ひいて熱でても自分ではさげられないのですから。
サムシンググレートという科学の言葉とともに勉強してみては?ここにいるみなさん。
みなさん
そんなではありませんよ、理の問題です。
理がない人間は徳を積むような立場におかれますね、前世での生き方に問題があります。
一言でいえば正しく生きない人間は苦労させられるわけです。
それが因縁です。徳を積めば理がある人間に生まれてきます。
人間の経験値のようなものですな。
>あらき棟梁
じゃかまい、ドアホ!!
過去ログ読め!!
>>271 カルマ論が、あまりにも合理的な論法ゆえ、受け入れやすくなっているのは確か。
現実社会では、それに対応できない状況があるのも確か。
一例をあげると、「戦争」などは「国単位」のカルマ・・と説明した方が合理的。
鎌倉仏教は、そういう面で国情に即した開祖が誕生している。
民衆が、それによって救われる・・という一面がないと宗教はなかなか発展しないのではないか?
社会状況の急変に、宗教がついていけない・・というのが私の実感。
あらきさんのレスを批判しているわけではありませんが・・。
274 :
元祖世界を救う:01/10/28 09:29
>>269 医薬品の世界に身をおいている者として、ちょっと言わせてもらうよ。
医者は耐性菌との共存を打ち出したりしてはいない。事実、耐性菌に効く薬も
開発されている。
医者は、耐性菌を生み出しやすい治療法は控えるようにしている。
>>271 風邪をひいても自分で熱は下げられる。
ビタミンCとB群を飲んで、水をいっぱい飲んで、暖かくして寝てれば
とにかく熱は下がる。もっとも、それで風邪が治るわけではないけど。
聞きかじりの知識で、いいかげんなこと言うなよ。
275 :
あらき棟梁の匂いがけ:01/10/28 11:00
イヤな物言いするやっちゃなぁ・・・。
ココは公式のかしこまった発表会か何かなのか?
べつに自分の思うことを皆、ただ書いてるだけやろ?
それにケチ付けたいヤツが、何でも好き勝手書いたらええんやろ?
>>あなたが持っている断片的知識は、推察して理解できますが
>>きちっと大冊をじっくり勉強されてはいかがですか?
大きなお世話やでなぁ。
276 :
草レーサー:01/10/28 15:04
275
>イヤな物言いするやっちゃなぁ。
って、わかってやってるんでしょ?
あなたの言うような、前世、来世
神、のような確認しようのないことを
再確認しようと、真面目に試行錯誤し
ようとしている人間的な努力があると
感じられませんか?
だから、ケチを付けて好き勝手に書く
というような相手の精神的な努力を認
めない書き込みは避けようとする暗黙
のルールのようなものがあると感じま
せんか?
あなたの宗教が超越していると信じる
のは自由ですが、それをあからさまに
書き込むのではなく、人間に理解でき
るように慎重に噛み砕いて書き込めば
互いに不愉快な思いは少なくなると思
うんだけど。
まあでもそういう人は前世とか言わないと思う。
ここでのみんなの書き込みを見ればわかるけど、
みんな色々な現実を抱えていますね。
噛み合わなかったり、見てる方向が違ったりとか、
すごく「リアル」だと思います。
それぞれにツボも違うようで。
納得できるような答えはありましたか?
278 :
草レーサー:01/10/28 21:35
262弱い人間さん
私もそう思いますよ。例え虚構にしろ人間には、おとぎ話が必要だと感じるなあ。心が明るくなるよう
な、精気がやしなえるような。例えば熱烈な恋愛も宗教に似てるけど虚構ですよね。
ということで、クルマを題材にしてヒトツ。巧くないのは素人だからカンベン。
ある2人の天才的な技術者が、最高に速い傑作的なクルマを作り上げた。ただ、その技術者のクルマを
速く走らせるということに懸ける情熱に違いがあった。
一方は「どんなクルマにも負けないクルマをつくることが結果的に一番速いクルマになるはずだ」とい
う信念の基に製作した。
一方は「運転する人間が最もその能力を引出せることが結局速く走る為には一番望ましいはずだ」とい
う信念の基に制作した。
私の能力の乏しさがかなりツボを外してしまっているかもしれないが、これは違うスレで妖刀と名刀の
違いというヒントから、クルマを材料にしてその違いを考えてみたものなんですが、速く走れるけれど
ドライバーの状態を無視するクルマ。これは危険なクルマです。命がいくつあっても足りない。
でも、クルマ好きにとっては「どんなクルマにも負けない」というのは、とても魅力があって引き寄せ
られてしまう。魂を奪われるように。乗りこなしさえすればいいんだって。
後者のクルマは、魂を奪われるような魅力はない。何気なく速く走ってしまう。気が付いたらリミット
まで来ている。そのクルマがドライバーに知らせてくれるのは限界という壁。でも、クルマに助けても
らっている分、自分にはまだ余力があるような気もする。しかしその余力はドライバーを守る為に用意
されたもの。その余力でクルマに物足りなさを感じるか、限界を確りと覚えておくかは、運命の分かれ
道になるだろう。自分の限界が分からなければ、限界を超えることもどう言うことか分からない。
限界を無視してどこまでもアクセルを踏ませてしまうクルマは刀でいえば妖刀。魔性のクルマ。
限界というものに確りと気付かせてくれるのが名車。
279 :
名無しさん@1周年:01/10/28 21:39
s
280 :
草レーサー:01/10/28 21:42
宗教も同じかもしれない。人間の限界など無視して教義や超常の世界に人間の心を連れて行こうとする宗教。
人間を限界付近まで導いて、そこで判断する余裕を持たせてくれる宗教。どちらがいいかは宗教の場合私には
いえないなあ。クルマの場合なら名車を選択すると思うけど???でも、魔性の車ってどう言うわけか魅力は
感じてしまうなあ。
>>278 面白い話です。
私でしたら、やはり正宗(名刀)より、村正(妖刀)に魅力をかんじる。
なぜか? やはり、刀の本分は「村正」にあるとおもう。
鋭角な刃先は、作者の一念が垣間見える。おそらくは誰しも、見た瞬間読み取れると思う。
もし、それに臆することにでもなれば、武士の恥・・。自分の心を映す鏡でもある。
すなわち武士道とは、一度刀を抜けば自分がやられるか相手をやるかどちらか・・
「村正」は忠実に武士道としての「念」がこめられている。正宗よりランクは上と見る。
武士の恥が転じて「妖刀」となったのであろう。
もしや、私が住人だったスレッドなのかなー。見たというのは・・・
>>280 武士の情け・・一度刀を抜いても、気分によって引っ込める性格の人は
やはり「正宗」でしょう。
一度刀を抜いて、血を見るまでは引っ込めない性格のひとは「村正」。
刀の選択方法によって、自分の行動パターンが変化する・・ということは
ありえる。とおもっている。
貴方が言っている車においても然り。たぶんそうだろう。
283 :
名無しさん@1周年:01/10/28 22:47
>>278-280 ただ、妖刀に飲まれた人間は、「ご乱心」となるからね。
妖刀の「ご乱心」で犠牲になるのは、だいたい女や、子供や、
自殺を考えるような社会的弱者だったりするのが相場なわけで、、
結果は凄惨なものに。
また、能のない妖刀好きに限って、普段からそんなのに群がりやすい。
妖刀好きの人間は、よく自戒しなくちゃね。
無能でないか、怠慢でないか、
喧騒とした中ギリギリのところで静謐を保てるか、
一回うまくいったからって、慢心にならないか、
他人の能力と自分の能力を勘違いしていないか、、
妖刀を使えるかどうか、普段を見ればよく分かると思ってる。
普段は、小煩悩で、純粋で、カラカラ笑ってる奴なら使えるだろうな。
F1レーサーに多いかも。公道では絶対に無茶をしない。
妖刀で得られる世界を、ビリビリした実感のある「虚構」であることを
よく分かってるんだろうね。
普段から、何にでも「妖刀」「妖刀」と言ってる奴はダメだと思う。
ときに、猛スピードで走ってて「死の実感」したときに、
スローモーションのようにすごくゆっくり世界の中に入って、
手足のように細かいコントロールができる快楽を味わったことありませんか?
284 :
名無しさん@1周年:01/10/28 23:12
オウム事件の時を思い出してください。
当時はオウムじゃなくても宗教をやってるというだけで、
無宗教の人が多い世間の人から、同じような何か特別な目で見られた
ような気がしませんでしたか? 僕は何にも話を切り出すネタがない
よりは、あの時みたいにキッカケがあった方が話がしやすいです。
285 :
名無しさん@1周年:01/10/28 23:16
宗教を長年やる動機は、信じているからではなく、本当は信じられないから。
信じられないから信じれるようになろうと努力する。
これが宗教を長続きさせる動機になっている。
よって、宗教をやっている人は実は不信仰者なのである。
286 :
あらき棟梁:01/10/28 23:33
「病の元は心から 我が身うらみであるほどに」一見、因果応報とも
受け取れるお言葉ですが、「いんねん」にしても何にしても、全てそこには
神様の思い(理)がある、というコトでしょうな。
妖刀と名刀か。面白いですね。
妖刀は使い手を飲み込んで力を引き出すタイプ、名刀は使い手を抑え守る
タイプなのかな?
僕も妖刀に魅せられそうです。
妖刀の場合一蓮托生って感じで余裕のない人が使って滅ぶのがほとんど
なのかな?(笑)そして妖刀は血を吸ってまたキラリと光るのです。
そんなイメージがあるなぁ。歴史的には名刀使いが生き残ってくんだろな。
宗教の場合、自分は名刀だと思ってても端から見たら妖刀ってのが
往々にしてありそうです。
宗教を一番否定しているのは、他の宗教なり、思想である。
もしくは科学、物理学、一部の哲学などの学問体系。
相克の関係にある。
宗教をやっている人は排他的な人が多い。
他の思想や宗教、学問体系には理解を示さない。
自分の正義を信じて容易に人を傷つける発言をする傾向にある。
現在、日本には、なんと20万弱の登録宗教法人がある。
しかし、イスラム教を信じるならば、他の全ては否定されるのである。
共産圏の国では宗教は全て嘘である。
やはり、心の弱い人がすがっているという要素は無視出来ない。
また、国や地域によっても、宗教観は様々である。
日本の宗教は腐っているね。殆ど。零細な者に関しては
ほとんどがカルト的要素を持っている。
また、現代社会やこれからの時代にはさらになじまないものになっていく
であろう。
仏教にしろ、キリスト教にしろ、全ての宗教には
欠点がありすぎる。歴史を振り返っても、人間が犯しうる
全ての過ちを犯している。
個人として心のよりどころとなるものは、心を広く持てば
たくさんあるんだよ。それを、たまたま宗教に求めてしまうと
悲惨な結果を生む。
また、元がメジャーな宗教、キリスト教や仏教に関しては、これだけ、
団体が乱立し、反目し、解釈がバラバラ
では、なんとも、相手にするのがあほらしい。
彼らの一番の敵は、同族なんだもの。
古い話だが
>>4 のリンク先
みたいに、宗教を証明しようという行動こそ、愚かだね。
主なる神を試してはならない。キリスト教の根本からはずれてるよ。
キリストが言ってるよ。
実証法に依って、神の存在を確かめてはいけない。
末端の人間が誤解してどんどん宗教自体もゆがめられていくしね。
利用もされまくってきたし。
要は何が起こったかではなく、そこに神の存在を感じるかどうかだ。
実証法に頼るから、科学によって否定されていくんだよ。
そしたら、証言、法律等によってって・・・。
体温をメジャーで測ろうとするのと一緒って・・・
矛盾だな。測ろうとすること自体が。神の存在を。
感じるか、感じないか。
信じるか、信じないか。
これのみでしょう。
私は感じるが、信じない。
また、感じたものを神とは呼ばない。
大いなる自然と呼ぶ。
哲学的アプローチの仏教に関しては
お釈迦さんの時代的背景、社会的背景、人格的限界が見えるし
繰り返すが、教典の膨大さ、解釈戦争、カルトに利用されすぎ
いろんな面で不必要だと思う。
結局、シャーマニズムからやり直した方がいいのかもね。
1さん。宗教は虚構ではないと思います。
仏教は哲学だし、それを実践し、自らを鍛えるために
宗教団体がある。非常にいいことだと思います。
ただ、日本の仏教は、現世利益がある、悪い霊がとりついてる、
他の宗教をやると不幸になる。
と、ほとんどの仏教にこういう要素が付加されてます。
あと、心が弱ってる人に近づいてきて、洗脳まがいの勧誘をします。
お金を必要以上に取ります。政治に絡んでます。
自分の団体こそ唯一の正義だと思っています。
日本の社会不安の大きな原因の一つに宗教の荒廃があります。
政治、経済と同様、全く、健全に機能してません。
宗教をやる人は、口先より、自分がどう生きて、どう幸せになり、
また、人や社会を幸せにするのか、自分で考えて頑張ってください。
よくなる、よくなる、ってあなた達は行動してるかも知れないけど
世の中、悪くなる一歩です。日本の宗教人に必要なのは盲信することより
も、むしろ、一滴の疑いを持つことでしょう。
291 :
名無しさん@1周年:01/10/29 04:57
>1
虚構か事実かなんて、脳に入っちゃえば同じことなんだよ。
天動説は、あの時代には真実だった。
でも究極的には天動説と地動説のどちらを真実とするかは
各人の認識次第なんだよ。
僕らは絶対に事実を認識できない。
何を真実とするかで世界は変わる。それだけさ。
292 :
名無しさん@1周年:01/10/29 05:08
たこさん、えらい
>>287 「村正」は切れ味に関しては、正宗よりランクは上だったと思います。
介錯には重宝したらしいから・・よって「忌み嫌う」というレッテルが貼られたともいえる。
正宗は、合戦において手柄をたてた一種のシンボル的レッテル(名刀)ともいえる。
まあ宗教においてもそうなんだが、「真贋を極める」ということに関して、レッテルに惑わされず
よくよく吟味が肝要かと思う。
>288-290
私が思うに、これまでの宗教の最大の過ちは、宗教が持つ「逆説の構造」が見えて
いない、あるいは教祖は理解していた「逆説の構造」を忘れてしまったことにある
のではないでしょうか。
ある禅僧の言葉ですが、サトリという鳥は、追っかけると逃げてしまって捕まえら
れないのだそうです。「逆説」というのは、一言で言えば「自分を捨てることで、
神に拾ってもらい、自由になる」ことに尽きます。ところが、最初から拾ってもらおう
というたくらみを持つと、本当に自分を捨てることができない。既存の宗教の誤りは、
こういった偽善に陥っていることです。カルマ論を唱えている方も居られますが、所詮
「来世の浄福」のための善行にこだわる限り、サトリの鳥は永遠に捕まらないのです。
問題を先送りしているだけで。
ギリシャ神話のペルセウスのように、盾を鏡のようにして、後ろ向きに近づいていって
メデューサの首をはねなければいけないのです。それが「正しい」神の捉え方だと
私は思っています。神に拘泥して正面から神に近づく者は、本当の神に出会うことは
できません。現実を見据え、神を捨てて自分の足で進む(そして、神を捨てたことも
忘れて)時、初めて神に出会えるのだと思います。「一度捨てて、拾う」のでなければ。
「一滴の疑い」も不十分でしょう。信じるも疑うもまだまだ「水臭い」関係で、とても
信仰とは呼べないでしょうから。神が風邪ひいたら、自分がクシャミするような、そう
いう関係でないと。一言で言えば「無我」でなければ神は見えてこない。
>>294 「絶対無」に、深遠なるものを感じていたのですが勉強になりました。
宗教という概念が変わりました。
実は、あるモヤモヤとしたものを感じていたのですが、それが取れスッキリした気分です。
296 :
トルストイ:01/10/29 11:46
神を知らないのはわるいことである。しかし神でないものを神と認めるのはもっとわるいことである。
297 :
名無しさん@1周年:01/10/29 12:18
神を追いかければ神に逃げられ、神から逃げれば、神に追われた。私は神を自由に開放してみる。
298 :
あらき棟梁:01/10/29 16:02
俺も書き込めるように、レベル下げてくれ。
299 :
草レーサー:01/10/29 16:55
283
全てがスローモーションになるような・・・
あなたもあの領域に身を置いたことがあるのですか?
私は刀のことは良く知らないので、自分の好きなクルマを題材にして考えてみたのです。かつて妖刀と
名刀が双子の双生児のように似ているということを目にして、引っ掛りましてね、考えてみたんです。
私なりに考えて魔性のクルマはその誕生の動機が、競争の中で、他を打ち負かし勝利する。他との戦い
においてナンバーワンになるということが原点なのです。純粋で美しいのですが、悲哀なんです。
名車の原点に、他という概念はありません。ひたすらに走ることの歓びを引出され、それに導かれてい
つの間にか現実問題としての限界に気付かされる。その限界からどうするかは本人次第ということにな
るんですね。簡潔すれば、圧倒的な力に魅せられて中に呑み込まれていくのが魔性。本人の内側からい
きる力を歓びと友に引出して現実の問題に目覚めさせるのが聖性だろうという考えで書いてみました。
まあ、F1レーサーは雲の上って感じですが、確かに、クルマを運転すること以外では、極々普通の男
って感じらしいですね。
皆さんのおかげで、
今まで「そんなの作り話でしょ」と思っていた
お手軽宗教の神様のほかに、
ああこんな神もあるのかと、言い換えれば、
神をめぐってこんな思索が可能なのかと、
かなーり認識を新たにしました。
294:独白人さんの
>現実を見据え、神を捨てて自分の足で進む(そして、神を捨てたことも
>忘れて)時、初めて神に出会えるのだと思います。「一度捨てて、拾う」のでなければ。
>「一滴の疑い」も不十分でしょう。信じるも疑うもまだまだ「水臭い」関係で、とても
>信仰とは呼べないでしょうから。神が風邪ひいたら、自分がクシャミするような、そう
>いう関係でないと。一言で言えば「無我」でなければ神は見えてこない。
これってなんかすごい!
299:草レーサーさんの 、極限状態でふと感じる聖なるもの、っていうのかな、
そういう感覚も、私は想像もできませんが、実感こもっててすごいですね。
…あとこれは本題とはズレるんだけど、私なんかは、
完全に呆けたようなお年寄りとか、幼い子供の中に、
なんか不思議と神様がいるようなというか、
聖なるものがある様な気がするんだけど、
あれって一体どういう感覚なんだろう。
そういうことってないですか?誰か説明してくれませんかね。
>>294 独白人
人間は1になれても、0にはなれないと思います。
宗教というものは、文化的背景、民族的背景、歴史的背景
いろいろなものが付随しています。そういうものを
無視出来ないと思います。
宗教、神、信仰は各々、別個のものですので
論点が絞りづらいですが。
無我とはなんでしょうか?
神に合う為、
我を捨てる、無にするという作業は必要でしょうか。
また、あなたは神の存在を初めから肯定していますが
あなたは無我になりえたのでしょうか?
それなら無我とは具体的に
どういう状態でしょうか?
ふたつのたとえ話から、結論に至るまでも
飛躍があると思います。
ただ、あなたの知識の豊富さは尊敬に値するし
文体から察するに非常に温かい人柄だと
お見受けします。それは信仰によって得たものですか?
>>294 独白人
まぁ、神とは?という馬鹿らしい命題から
議論しなければ、決着はつきませんよね(笑)
案外すんなり、納得しあえたり・・・。
ただ、僕などはいいのですが、あなたが神に対して
いろいろな解釈をする限り、僕などより
他の宗教や科学や哲学があなたの考えなり、信仰を
否定するであろうと言う要素は想像つきますよね?
だから、絶対的解釈でなくていいです。
あなた個人にとって神とはいかなる存在か
お聞かせ願いたいと思います。
どうでもいいが、天界かどっかに神様がいて、
人間の事を見守ってくれて、ときには助けてくれて、罪を許してくれる。
などという考えは、傲慢で甘すぎはしないか?
実際に神なる者がいたとすれば、人間のことなんぞ気にもかけないか、
退屈凌ぎの玩具としか考えないだろう。
人間は強い、人間は偉い、人間は賢い、だから、他の生物
をぶっ殺しても良いし、邪教徒は拷問してもいい、支配者の定めた
法を乱すヴァカは地獄行き。なぜなら神が許しているからだ。
神は言い訳のために作られたんだろ?
304 :
名無しさん@1周年:01/10/30 01:30
道徳善悪とゆう物はなぜ出来たんだろう?支配や社会維持に便利なのはわかるけど
なぜそれが信じれるのか?信じないとゆう人でさえこの呪縛から逃れていない。
超越、無我、不二、神、体現した事が無い人達がこれらを信じ信じてないその他を
否定する。て、ごめんなさいよ、盲信者を馬鹿にしてるあなた達がいろんなものを
盲信してたり、疑念の目を持っていると冷静だと盲信して高いつもりなのみてて
なんかとてもいやだったので。そしておれもW
305 :
名無しさん@1周年:01/10/30 01:30
>>303 え? 神が人間の罪を赦すのは、すべてを神に委ねた時だろう? 言い訳するような
輩は救われないんだよ。都合良く神を利用するのは、本当の信仰ではないよな。
私信、失礼。
>変人
他スレの三八式機関銃にレスを打たないように。
真贋を見極められるかどうか、試されるよ。
俺は変人ほどの見性を持ってないけど、
あれが贋物であることは俺でも分かる。
妖刀好きならひかれるだろうが、飲まれないようにな。
307 :
名無しさん@1周年:01/10/30 10:55
神を追ったら神が悪魔に化けてしまった。悪魔から逃げたら追いかけて来たのは天使だった。
私は天使に尋ねてみた。どうして神を探す者に神は悪魔になって化けた姿で出会わせるのか?
天使は言った。「それは私にも解らない」と。だが、天使はこう言い残した。それを知りたい
のなら、悪魔に聞く以外道はない。もう一度神を探すなら何処かで悪魔にも出会うはずだと。
そう言って天使は姿を消した。
私は多くを放浪してもう一度神を探してみようと言う決心にやがて到った。しかし今回は以前
のように無邪気ではいられなかった。何故なら、神を探せば、いつ、どこで悪魔が姿を現すか
もしれないということを知っていたからだ。でも、最大の疑問は「何故神を求めていくと悪魔
に化けたりするのか?」ということに集約された。求めなければ神は太陽のように有り難くも
ごく自然な存在だった。私が求め出すことによって、神は悪魔の様に変化して追いかけてくる。
恐ろしさのあまり逃げ出せば、今度は天使に変化した神が何処からともなく現れて付きまとう。
私は考え貫いてあることに気が付いた。神を求めて悪魔が来るということは、私の神の求め方
に根本的な間違いがあるからではないかって。そしてあらゆる宗教に神の正しい求め方を尋ね
て歩いたが、どれもこれも五十歩百歩で、その証拠に少し求めれば、必ず悪魔の業が見え隠れ
してくるのだった。ある時など諦めてやけを起こし、命を賭して悪魔と対話してみようと考え
たが、実際に対話を始めると恐ろしくなったり焦ったりしてとても強く立ち向かうことなどで
きなかった。私にできる事など限られていた。悪魔に変化しているとはいえ、神の如く力があ
る者に、人間が勝つなど無理というものだ。
308 :
名無しさん@1周年:01/10/30 11:07
>>307 おもしろい譬えでよく分かります。
でも最後の1文はどういうことの比喩なのですか?
309 :
名無しさん@1周年:01/10/30 11:13
308
もう少し待ってちょ!
310 :
名無しさん@1周年:01/10/30 11:32
>>304 ごめん、いまいちわかりにくい。道徳や善悪は時代や集団によって異なる。なぜ信じる
のかと言えば他人と一緒に生きているからでしょう。昨今の世の中が乱れているのは
必ずしも人と濃密なコミュニケーションをとらずとも生きていけるからだと思う。
つまり、おのおのが自分の好き勝手に物事を解釈できるから、ですね。社会道徳は
ひとつの「縛り」ですから、それに従えば秩序は生まれるんだが。近代文明はその
秩序を溶かしながら発展したんではないか? 科学的な冷静さを持ち合わせていると
信じてる我々が、昔の人間達より精神的に高い位置にいるのかは、わからないねえ。
>>306 私信
あれはいくら私でも見極めは付くよ。
正直いって、もっとアカデミックなもの・・という先入観があったから
それなりの落胆の気持ちは隠せない。
ここのスレのほうが感動はある。がしかし・・・
いつか貴公子が現れるのではないか・・そんな期待もある。
2ちゃんだからなー。ん〜なもんだろーよ。
>>307 「青い鳥」。みたいですね・・
私の過去を振り返ってみたのですが、確かに正論のような気がします。
面白い考察・・・神様に壺でも買わされましたか? いやいやジョークです(w
314 :
名無しさん@1周年:01/10/30 12:58
>>307 悪魔との対話。強く立ち向かって、勝てないのは、自分をごまかせない
からですか? 人間つーもの、まったき善では居ようがないんですよね、
悪魔を飼ってることを認めるのが取っ掛かりかもなあ。
315 :
名無しさん@1周年:01/10/30 13:35
>>307の最後「悪魔に変化しているとはいえ、神の如く力がある者に、人間が勝つなど無理というものだ。」
これがどういう意味かって?
そらやっぱ悪魔につかまったんじゃないの?フツーに読めば。
ひょっとしてマジで変人さんの言うように壷買ったとか?
316 :
名無しさん@1周年:01/10/30 20:33
>>草レーサーさん
やっぱり…、「あの領域」から時間感覚(完全な動静のあるもの)や
空間感覚(絶えずオプションやスペースを探す姿勢)、人間性などを語る人だと
拝察させていただいてました。(笑)
自分の「あの領域」は、単車でやんちゃをしてたときのものですので、
草レーサーさんと比べることはできませんが、、
宗教における神仏は「虚構」なのになぜ人は信じるのか?
その答えの1つとして、人に「あの領域」での感覚を取り戻させてくれるから
と思ってます。短時間ですけど、それで十分なのはお分かりなられるでしょう。
俺は宗教をやったことはないのですが、
いくつかの宗教とちょっとした縁があった程度ですが、、
(新興宗教じゃないですよ)
>>301-302(たこさん)
神の存在については、個人によって意見が分かれると思います。そう意味では、想像
の産物ということかもしれない。「神が存在しなければ、困る」ないし「神が存在し
なければ馬鹿らしくてやってられない」に近いですね。自分がこの世に生きている
意味を問われているのと同じです。ある人は、自分は偶然によって生まれ、偶然に死ぬ
から無意味だと考える。別の人は、自分が生まれ、死ぬのも、すべて意味があることだ
と考える。誤解を生むかもしれませんが、一言で言えば「(動物としての)ヒトとして生きるか、
人間として生きるか」の違いで、ヒトとして生きることに何の抵抗がない人もあれば、人間
として生きられないのなら死んだほうがましだ、と考える人もいる。神を必要とするのは
後者のみです。
私にとっての神とは、自分自身を含めて、全宇宙に遍満する「存在の原点」です。
それを捉えようとするのは、自分の目玉を見ようとするような愚行です。人は神の外へは
出られないので、神を見ることはできない。見えるのは神の働きのみです。人が物の存在
を見るとき、必ず背景が必要です。ところが、物も背景も同じ「空間」に属するものです
から、「空間」を見ることは不可能です。
神が宇宙に遍満する以上、人間の中にも神はある。人間は、肉体を持ち、外敵から身を守って
生命を保っていかねばならないので、利己主義の一面を持ちます。その反面、宇宙に遍満する
「絶対的安心感」に裏打ちされた、公平無私の一面もある。自分が死ぬことで全体を生かすこ
とを抵抗無く受け入れるような、「神の目」を持っている。人間が神に出会うとは、
肉体的な自分を超えて、「神の目」で宇宙を見ることだと思っています。もちろん、
自分に降りかかる「不幸」も「試練」も、あるいは「幸運」も「恩寵」も、ともに
超越しなければ、「神の目」になったとは言えないでしょう。善悪の判断にも「我」
にとっての利益、不利益が無関係になるので「無我」と書いたのです。
318 :
名無しさん@1周年:01/10/31 17:49
>>317:独白人さん
なんか今日もいい言葉ですね。
1つ質問。
>宇宙に遍満する「絶対的安心感」
てどんなのか知りたいです。
319 :
あらき棟梁:01/10/31 18:40
学校で習った存在という言葉は西洋思想であって、空間という
言葉はまったく異なった意味だと思います。
「存在」とは、兄もいれば弟もいる姉がいれば妹も いるといったふうに、
弟が兄に学び、妹が姉を見習ったりすると同時に、兄が弟をかばったり、
姉が妹をかわいがることが,あると思います。
それは何も血のつながりに限ったことではないと思うのです。
そして空間というものと,明らかに違う点は いい意味での
上下関係があることだと思うのです 下のものは上のものに気を使い、
さまざまなことを学び、上のものは下のものを思いやり、時には厳しく
接するような事において 支えあっていくものだという内容なのだと
勝手ながら思います。
320 :
名無しさん@1周年:01/10/31 19:54
>318
こりゃどうも m(_ _)m
>>宇宙に遍満する「絶対的安心感」
>てどんなのか知りたいです。
大自然の只中に、ひとりっきりになった時、自分のちっぽけな存在がまわりに溶け込んで
しまったような、感動に似た気分を感じられたことはありませんか?私はアメリカ西部に
旅行した際、3000m級の山に登ったのですが、何と言いますか、日本の山と違って最初から
生命の存在を拒絶したような荒々しい光景の中に自分ひとりが立ったとき、威圧されるよう
な恐怖心とともに、言い知れようのない安心感を同時に感じました。「神に打たれた」と
でも言いましょうか。自分の小ささ弱さを実感するのに比例して、大自然(神)の
大きさ強さが実感できるんでしょうね(^^)
322 :
名無しさん@1周年:01/10/31 20:22
>>319 あらき棟梁もいいこと言うじゃねえか。
見直したぜ。
323 :
318=2:01/10/31 21:49
>>321:独白人さん
はーそうなんですか。
大自然に触れて、自分は自然のごくごく一部、塵みたいなもんなんだ、
それでいいんだ、当たり前なんだなと、そういう安心感てことですかね?
自我っていうか、人間界で作り上げた自分の殻みたいなのが
溶けていくんでしょうかね。
人間同士の世界の中で、あんまり大きいものとか、
訳わからない力とかを目の当たりにすると、
逆になんかウツになるのに。不思議なもんですねー。
324 :
名無しさん@1周年:01/10/31 23:39
そう言えばインド思想で、神は確かに人を作ったが踊るものと踊りの関係であり
不可分だと
>>317 独白人さん
極めて明瞭な回答、誠に有り難うございます。
なるほど。あなたの意見に納得しましたので
此処からは普遍的な結論を求める議論ではなく、
わたしの意見です。
”ヒト”から自分の人生に意味を持つ”人間”に
なるのに、自分でそれを構築する方法もあると
思います。”神”を設定し、その意味を与えてもらっている
と考えるのではなく、自分の成し遂げたことに満足すると言うことです。
ま〜、無理矢理、例えるなら、謙虚な人と傲慢な人と言うことですか。
実際は一人の人間に両方の要素があるのですが。
しかし、残念なことに”神”を持つ人間が持たざる人間を見下すことも
まま有りますよね。”神”の存在も、今日の人間の多様性に、ともすれば
飲み込まれてしまいそうです。これこそ、流行の言葉で言うと
グローバリゼーションであり、その対立の具現化が
一神教であるイスラム社会と、西側諸国との対立ですか。
イスラム社会はキリスト教との戦いに持ち込みたいようですが。
あなたにとっての”神”の説明ですがよーく分かります。
私にもその概念が有りますから。ただ、私はそれを”神”と呼ばず
自然と呼んでるだけかも知れません。
少なくとも、私の”神”は人格神ではありません。
人格神を奉る宗教は遅かれ早かれ駄目ですね〜。
しかし、最後の段の境地は人間にはちと、峻厳過ぎませんか?(笑)
これは、誰もがなし得る境地では絶対にあり得ないですよね。
神を見ることの出来る人間と出来ない人間・・・・・。
求めても得られない境地。なかなか、難しい問題です。
独白人さん
さて、ここからはこのスレの本題ですが、
あなたの考えるような境地にたてない人間が殆どだと思います。
そういう人達の”神”は”利己主義”そのものの体現だと
思います。キリストが全ての罪を背負って死んでくれた。
信仰するといいことがある。しないと不幸になる。
宗教の教義をバックボーンにした疑似自我を構築し自己の
絶対的正当化を図る。弊害を上げればきりがありません。
これは、もちろん個人レベルの話しで、社会レベルだと
カルト化、金儲けの手段、政治への愚かな干渉と言うことに
なります。
あなたのような人間が”神”を持つことが問題ではなく、
利己主義者である、心の弱い人間が神を持つことが
問題なんですね。あなたの言う神は利己主義の人間には
絶対に見えないのですから。日本には10億人以上の宗教信者が
います。笑えますね。水増しなのか、重複なのか・・・・。
近頃では、その殆どが不健康な宗教だと思います。
あなたがその人達と同レベルだと思われてしまうほど、
無宗教の人達の宗教アレルギーは凄いです。ま、これも、宗教が
働いてきた悪事の報いですが。
この現状をどうしたらよいでしょう?
>無宗教の人達の宗教アレルギーは凄いです
そうかなあ?特定の宗教団体へのアレルギーはあるだろうけどね
普通の寺や神社まで嫌な人は稀だと思うし
無宗教=反宗教じゃないよ
>>327 仏閣や神社は日本の古来からの歴史であるし
受け入れられやすいと思います。
日本人の意識の中では
仏閣、神社=宗教ではありません。
もちろん、無宗教=反宗教でもありません。
>特定の宗教団体へのアレルギーはあるだろうけどね
特定団体に限定すると、これはむしろ無宗教に人より、
信者同士のほうが苛烈でしょうね。
アレルギーは凄いと思います。特にここ近年、若年層を中心に
広がっています。ただ、あなたの周りにいる人間や
得られる情報とわたしとでは、当然、質が違ってきますから
温度差はあると思います。
客観的なものでは朝日新聞の意識調査では、
その傾向が顕著でした。
同時多発テロ事件をきっかけに思想、宗教界において
世界的規模での見直しが始まるものと思われます。
どうなるんでしょうね?さらに宗教が追いつめられるのか?
キリスト教、イスラム教の意識が高揚するのか?
仏教系各国はあたらずさわらずなのか?
その他は?
>たこさま
>そういう人達の”神”は”利己主義”そのものの体現だと思います。キリストが
>全ての罪を背負って死んでくれた。信仰するといいことがある。しないと不幸に
>なる。宗教の教義をバックボーンにした疑似自我を構築し自己の絶対的正当化を
>図る。
全く、おっしゃるとおりだと思います。キリスト教の根本思想とは、人間は「神の
支配」を信じるべきであって、人間が人間を(自分の利己主義を満たすために)支配
するのは間違っている、というところに原点があると思うのです。少なくとも、イエス
はそのような教えを説いた。ところが、いつの間にやら「自分の側に神を味方につけて、
神の支配と偽って自分が他人を支配する」偽善的な宗教に陥ってしまったのです。
自分がこの世では利己主義を発揮できないので、勝負を来世に持ち越すと言いますか、
自分だけは神のいいつけを守って天国へ行けばよいので、他の連中はせいぜい地獄へ
落ちて永遠の火で焼かれればいい、という残酷きわまりない「似非信仰」が蔓延して
しまった。ニーチェが批判したのも、宗教のそういう「醜い心理面」についてだと
私は思います。クリスチャンの「愛」とは、強い者への憎悪を集めただけの弱者の
連帯感にすぎないではないか、と言うわけです。共産主義的な資本家への憎悪と
本質的には変わらない、と。
仏教はカルマ論を取り入れますから、あまり外へ責めていくようなことはしません
が、「後生のために」悪行を慎むというだけでは、やはり「利己主義の来世持ち越し」
にすぎません。隠された利己主義を原動力にする、誤った宗教は、キリスト教、イスラム
教、仏教に限らず、徹底的に淘汰されていくでしょう。その兆しは現れつつありますね。
>>329 独白人さん
ううむ。なるほど。
としか、言いようがない論理だ。
短いレスですいません。
私の個人的で具体的な体験からというより、シュ協定な思索に関わりを持った人の一般的な
問題として書いてみたつもりだったのですが。
世俗での価値観で生活できる内は、私が思うに宗教的な善悪感は未分のような状態になって
いるのではないかと考えるのですが、そういう状態を前提とすると、概ね宗教の提唱する神
仏という絶対者に出会った者はその輝きを発券した分その精神にその分の影が差すことにな
ると思うんです。そういう意味で神を探し出した者は、その宗教が目指す善に相当する悪に
も目覚めるに違いないということで、神というより天使と悪魔という表象で認識してしまう
状態になってしまうだろうと私は思うのです。
悪魔という表現を使ったのは誤解されてもしょうがないですが、善や幸福を求めて悪や不幸
を見つけ出してしまうということに集約してもいいと思います。その宗教の教義なり思想な
りの絶対性が強ければ強いほど、悪や不幸も強くクローズアップされてくると私は考えます。
人間の精神にとって唯一絶対という信はそれだけ強く心に刻まれることになるのでしょう。
このスレで他の方も書き込まれていたのですが、宗教の逆説とでもいうのでしょうか、信じ
ることで人間はその精神の力を非常に強く作用させる事が可能なのに対し、その同じ力が、一般
的には、宗教を信じる事によって、実際に多くの悲劇が繰り返されているという問題を取り
挙げてみたのです。このスレの朱蒙の虚構と実相の問題も絡んでくるとも思います。
前のレスで最後に書いた、神の如くに力のある悪魔に人間は勝てない戦いを挑んでしまった
という書き込みの意味は、私達人間が、唯一絶対の神を求めるならその神の影と果てし無い
戦いを余儀なくされるということです。善悪という二律背反の問題に人間の独善性を無視す
るように取り組めば、それも無理もない気がします。
神仏が虚構かどうかという問題以前に、その独善性が虚構を果てし無く大きくしてしまう。
それが宗教の信仰の問題の核心に近いと思うのです。神の影という虚構を相手に闘っても
勝てるわけがない。そういう意味で書いてみました。
>331-332
>宗教的な善悪感は未分のような状態になっているのではないか
本来、善悪の概念は人間の都合で定めたものです(人間が牛肉を食うのは
善、ライオンが人間を食うのは悪、という具合)。同様に、神の目から見た
善悪なるものを人間が正しく推理できるはずがありません。ある人が神を
想像する時、その神の姿とは、その人の願望にすぎません。「神」とは、鏡
に映った自分の姿です。
>善や幸福を求めて悪や不幸を見つけ出してしまうということに集約しても
>いいと思います。その宗教の教義なり思想なりの絶対性が強ければ強い
>ほど、悪や不幸も強くクローズアップされてくると私は考えます。
その善と悪というのが、神の定めたものでなく、単なる自分の願望を反映し
た「神の偶像」から来ていることが問題なのです。善を求めて悪が得られる
というのは、これが本当の(神の定めた)善ではなかった、という証拠に
すぎません。
自分が神を求めて鏡を覗き込めば、そこに映るのは自分の姿でしかありま
せん。自我を消して覗き込めば、ちゃんと神が映ります。そこに宗教の逆説
があります。
334 :
名無しさん@1周年:01/11/01 14:22
>日本人の意識の中では
>仏閣、神社=宗教ではありません
外国から見たら完全に宗教だよ。
私達は日本人だから、日本的な宗教には宗教性を感じないだけのこと。
キリスト教・イスラム教だって、日本人から見たら宗教だけど
向こうの人にとっては日本の神道・仏教と同じように生活習慣の一部にすぎない。
333
そこまで言い切れれば大したものだと思います。しかし、書き込みました様に一般的に宗教の提唱する
神仏と言うのは、善の象徴のようにイメージされているものではないかと私は思います。私の内にもそ
ういうイメージはありますし。それが正しいかどうかというよりも、宗教を通じての神仏と人間の関り
方の現実的な問題を私なりに考察してみたということなんです。宗教の逆説という独白人さんの言葉を
勝手に使った事に付いてはお詫びします。ごめん。
しかし、宗教がらみで起こってくる悲劇は、現実問題として、とても個人の心の問題として扱いきれ
るような状態ではないと私などは感じています。善人が依って集って殺されてしまう世の中なのです。
だから、善悪は人間の都合で動かせるようなものではないはずであると私は考えます。
動くのは時代文化や常識としての善悪でしょう。自然や宇宙には秩序や法則というものがあるじゃない
ですか。殺す事を貪るような心は、これに照らし合わせても悪事であると思われませんか?
そういう善悪感さえも人間の作ったものであるとお答えになりますか?
最後に質問させて頂きたいのですが、独白人さんは自我を消してちゃんとした神をご覧になられた方な
のですか?それとも、私の書き込みの神を求めて悪魔に出会うということに対する答えとして書き込ん
だことということですか?
336 :
名無しさん@1周年:01/11/01 21:24
善悪とは、人間が定めたものだよ。
もともと宇宙には、善悪はない。
337 :
名無しさん@1周年:01/11/01 21:57
宗教は心のスケープゴート。頼るものであると同時に。
形作られた宗教には合理性がある。
牛を大事にすることはインド経済にマッチしている。
豚を育てない方がよいということはアラビア半島の自然条件にマッチしている。
338 :
名無しさん@1周年:01/11/01 22:29
339 :
名無しさん@1周年:01/11/01 22:48
336
うーん、そう言い切るのはいいんだけども、どうしてそう思うの?
宇宙に善悪がないと断言できる自信の根拠はどのへんからくるの
であろう?いやっぱりぃ、かーみさまの御言葉でございますかー?
かーみさまの気分になってお話するのは気持ちイーですねえ。
>>334 いえ、外国人は日本人の宗教観にと惑いをもっています。
クリスマスを楽しみ、仏壇を飾り、神社に初詣する。
外国人は常にナショナリズムを日本人より強烈に意識してますので
君は国に愛情を持っているのか、君の宗教はなんだ?
という、問いを持っています。欧米やオーストラリアの西側諸国は
思ったより日本人の特質を知っています。
アラブ諸国やアフリカ諸国がどう思っているかは分かりませんが。
少なくとも、観光に訪れる外国人は気軽に神社やお寺を尋ねます。
しきたり通りに、参拝します。これは文化としては捉えても
厳格な宗教とは捉えていないと言うことでしょう。
グローバルな視点を持ち出すなら、ナショナリズムに裏打ちされた
宗教観が必要だと思います。国としてのアイデンテティーが
深く関わってくるからです。日本はアメリカよりもグローバリーゼーション
の進んだ国だと思います。よく言えば多様性に富んでいる、悪く言えば
まとまりがないと言うことです。
>キリスト教・イスラム教だって、日本人から見たら宗教だけど
>向こうの人にとっては日本の神道・仏教と同じように
>生活習慣の一部にすぎない。
欧米人にとってのキリスト教、アラブ諸国にとってのイスラム教と
日本人にとっての神道、仏教はイコールでは結べないと思います。
現在、日本で勢力を誇る宗教は余りに幼稚で、歴史も浅く、生活に
とけ込んでいません。また、根幹には資本主義の原理が
深く食い込んでしまいました。
日本には現在、本当の宗教というものは存在してにのでは?と、
疑いたくなる状況です。
ま、どちらでもいいですが(笑)
342 :
あらき棟梁で〜す:01/11/02 00:53
オナニーの合間に2チャンネル |
創価女子部は 捨てがたいナァー |
朝からオナニー人生まっしぐら〜す!
 ̄ ̄ ̄∨ ̄
ブーン
・〜
川|川/ \|〜 プゥ〜ン
‖|‖ ◎---◎|〜
川川‖ 3 ヽ〜
川川 ∴)д(∴)〜
川川 〜 /〜 えろえろえろ〜
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
/ \__| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
>善悪とは、人間が定めたものだよ。
>もともと宇宙には、善悪はない。
逆に考えると人間にとっては必要だから定められているといえます。
(つまり、有用な基準には違い無いわけです。絶対的な基準には
なりえなくても、代替えになる基準が提出できない限り有効ということです)
また、善悪とは何か?と考えれば、一般的には善とは合理性であり、
悪とは不合理、不条理であるといえるでしょう。
殺人は、犯人以外の多くの人間(社会)によって不合理、不条理だから悪なのであり
人助けは、社会という全体性の合理的運用に奉仕することだからこそ善とされる
わけです。人生は不条理だという認識があるからこそ、神話が説明をあたえてきたし
宗教も生まれてきたわけです。
では、宇宙は善でしょうか?悪でしょうか?
合理、不合理というものさしで言えば、物理法則に支配されているかに見える
宇宙はとても合理的かもしれません。
というより、宇宙(世界・全体性)というものを基準に合理、不合理を判断するしかありません。つまり、善悪の判断基準の芽はすでにそこにあるんですから
宇宙に善悪は有りとしてもあながち間違いではないでしょう。
そもそも、人間を超えたところで善悪を語っても不毛なのですが・・・
宗教的に考えれば、「善悪の彼岸にこそ、絶対的な善がある」のであって、
その 絶対的な善とは「ありのままのありよう」でしょうね。
(絶対的な善はありますが絶対的な悪はありません。なぜなら
絶対的な善は二元論的なものではなく一元的なものだからです)
また、宗教の極意的な面は禅問答(公案)のように一見不条理に見えますが、
本来的な視点からは、我々の日常自体が不条理だからにほかなりません。
>>340:307さん
宇宙はただ「このようにある」ってだけで、
「このようにあるべき」ってのはないんじゃないでしょうかね。
「人を殺すな」っていうのも人間の決めたルールですよね、
「鯨を殺すな」よりは支持者が多いってだけで。
だからといって軽視していいわけじゃ決してないです。
でもまあ、善悪の由来が人間か宇宙かってことよりも、
あんまり排他的な神を善の象徴にすえるような宗教はかえって不幸を生む
っていうのは、みんなそう認識してると思います。
>>341:たこさん
>少なくとも、観光に訪れる外国人は気軽に神社やお寺を尋ねます。
>しきたり通りに、参拝します。これは文化としては捉えても
>厳格な宗教とは捉えていないと言うことでしょう。
はー、そうかもしれませんねー。茶の湯とか柔道と似たようなレベルっていうか。
日本人自身にとっても、ウチは仏教徒とかウチは○○神社の氏子だとか言ったって、
葬式の作法、正月の作法程度にしか考えてない人が多いですよねぇ。
>>343:22さん
はー、善悪の彼岸ってそういう意味だったのですかー。
>絶対的な善とは「ありのままのありよう」
なんかこれって、
>>317:独白人さんの「宇宙に遍満する「絶対的安心感」」に
通じるものがありますか? うーん、うまく言えませんが、
そこにあるものをそのまんま肯定するみたいな感じですか?
>2さん
>善悪の彼岸ってそういう意味だったのですかー。
先の書き込みはとくにニーチェの「善悪の彼岸」を意識して書いたわけではないですが
ニーチェの言う 「善悪の彼岸」というのは、 人間を平等化、矮小化するような
キリスト教的道徳に縛られた価値判断を「善悪」とし、
そんな 「善悪」を超えた「彼岸」にこそ人間の本来的な生き方があるのではないかと
言う問いかけであり、自己を解放する思想こそ 「善悪の彼岸」なのだというような
ことだろうと思います。
(「善悪の彼岸」は斜読みなので誤読かどうかわかりませんが…)
>
>>317:独白人さんの「宇宙に遍満する「絶対的安心感」」に
> 通じるものがありますか? うーん、うまく言えませんが、
> そこにあるものをそのまんま肯定するみたいな感じですか?
つまり、そういうことです。
『外部の神』と『個の内奥の神』は究極にはひとつです。
「ありのままのありよう」とは、プラトン風のイデア界のようなものではなく
愛憎生死がくり返される生命のいとなみを含むすべてのありようの実体のことです。
聖書にある「神の国」はいつか来る未来の出来事ではなく
「今、ここ」で実現される可能性のある我々の心のありようだと思います。
禅の言葉に「日々是好日」というのがありますが、これも
悟った人間は幸運続きの人生を送ることができるということではなく
不運でさえも良き事として受け入れ、糧にできる状態を言っているのだと思います。
「そこにあるものをそのまんま肯定する」というのも難しいものです。
もちろん、身に降り掛かる不運をなんの対処もせずにほうっておくという意味ではなく
不運に憑かれて冷静さを失った判断をしてしまうことなく適確な処方を用いるということです。
また、タロットカードに「運命の輪」というカードがあります。
車輪のごとく愛憎の歴史はくり返されますが、車輪の軸はただ中央に不動の位置を占めています。
「運命の輪」の軸に近付く行為というのはまさに人生を賭けたゲームなのかもしれません。
>>345:22さん
いや私もタイトルしか知らなくて、
「善悪の彼岸」に一体何があるのかなと、漠然と思ってたもので…。
「ありのままのありよう→善」「絶対的安心感」「日々是好日」
こういうのを読んでたら、
なぜか、バカボンのパパの
「これでいいのだ!」が浮かんできました。アホです(笑)。
でも、「神の国」「運命の輪の軸」も、
神の目になって「これでいいのだ!」と言う、
そんな境地ってことなのかなあ?と、思いました。
善悪論議をきっかけに、いよいよ佳境にはいってきましたね。
「ありのままのありようを肯定する」ということでよいと思うのですが、それを忠実に
守っているのは人間以外の動物だけです。鳥が空を飛ぶ、「善」だ。猛獣が草食獣を
貪り食う、「善」だ。人間の場合には、これが微妙に違ってきます。人間が空腹時に
飯を食う、これは「善」でしょう。ところが、美味いから食べ過ぎる、あるいは美味い
という体験を優先させて、一旦胃袋にはいった食物を全部吐き出して、また食いつづける
(これは実際に古代ローマ帝国で行われていた風習です)。あるいは、食いきれないこ
とがわかっていて、他人の食物を奪ったあげく、それを腐らせる。こうなると、もはや
「ありのままのありよう」とは言えないと思います。仏教で言う「貪り」になるんでは
ないか。端的に言うと、善悪の境目とは、「空腹を満たす」と「貪り」の境界にあるの
ではないでしょうか。
「鳥が飛ぶ」という類推で行けば、「人間は人間らしくふるまう」というのが、唯一の
「善」で、それを逸脱したときには「悪」になるのだと私は思っています。それが神の
定めた善悪ではないかと。その証拠に、食いすぎれば腹が痛むように、悪戯な「非人間
的」なことをすれば、良心が痛みます。もっとも、その痛みは行為を正当化する巧みな
屁理屈と、さまざまな気晴らしによって誤魔化されてしまいますが。
>>346 私もROMしていて、なんとなく納得するのですが、印象的には貴方に同意。
帰納法的推論の域をでていないような気がする。
演繹的考察も興味あり・・ >ALL
ちょっと書き忘れましたが、善悪は行為の結果より、むしろその動機に
あるのではないかと思っています。「食欲を満たす」と「貪り」は、必ず
しも食べた量で決まりません。抹香臭い話になりますが、少ない量を感謝
していただくのと、不満たらたらの心で食べつつ、他人の皿を窺ってスキ
あらば奪い取ってやろう、と考えるのとは、心のレベルが違います。
日々是好日の話が出てきましたが、結局のところ、いかなる幸運も不幸も
すべて感謝していただこう、という精神だと思います。目に見える結果の
善悪でなくて、その動機を見る。神様が人間に対して悪いことをなさるわけ
がない、その動機はいつも「善」だと信じるのが信仰の原点だと思います。
これを一語に突き詰めると「神の支配を信じる」(イエスの言葉)になるの
です。
善悪論議では、その善悪が行為の結果を指しているのか、それとも動機
について言っているのかを区別することが重要だと思います。動機が「悪」
で行為が「善」という場合もあります。例えば、政治家が世界を支配する
という欲望を満たすために、国民に金をばらまくとか。逆の場合は、親切
心から車に乗せてあげたら、直後に事故にあって大怪我をさせてしまった
とか。
>>307 仮に私がそのような「神人合一」の境地を体験したとしても、自覚症状はないと
思います。始終、胃が痛んでそれに慣れていた人が治れば、ああ、胃が痛いという
のは異常な状態だったんだな、という風に過去の過ちがわかるだけです。「完全な
る健康状態」をいくらレントゲンで探っても見つかりませんからね(^^)。
よく言われるのですが、「私は悟った」と言う人は、悟って居ないことを自ら暴露
しているだけです(維摩経など)。
22
間口を広げてくれてありがとう。そうですね。人間に有効な善悪を超えるような
ことを持ち出しても不毛である。納得です。
現実的な問題として、そういう超越的なもものがどうかこうかということ以上に
自分達の足元を固めておくのが賢明なやり方だと私も思います。
2
そうですね。「宇宙に善悪などない」とピシャリとシャッターを下ろされてしまった
と感じたので、少しぶち当たってみたくなっちゃいました。不毛なことをしてしまう。
私も善悪の由来が宇宙か人間かよりも地に足が着いた事に対する問題に軸をにして思索
していくことに同意します。
独白人さん
あなたの考えを聞いてみたいのですが、釈迦はどうして自らの悟りが正覚であると
気付いたと思われますか?誰かから、検証を受けたと思いますか?それとも自ずか
ら気付いたと思われますか?正誤という意味での答えというよりも、そのプロセス
に付いての考えをお尋ねしてみたいのです。簡単に言うと「迷」の状態から「悟」
の状態に移行したことによる状態の変化は本人にとって無自覚ということはありえ
ないと私は思うのです。ガリレオの相対性論ではないけど、重力加速度がつかなけ
れば、己が運動を自覚できないという理論を逆に展開しているようですが、それは
ある意味、死を意味します。それもひとつの悟りの状態かもしれないのですが、ガ
りレオの理論でも明らかな様に、それは分からなくなる未分の状態へ向かう事です。
自らの主体的運動を手放すことによって異から同へ向かうベクトルエネルギーで、
その極みには主客という概念は存在しません。ここに精神が来れば「どんなものと
も」ひとつになれるのです。しかし、自分が何とひとつになっているかなど、考える
ことすらできません。でも、有り難い事に宇宙にはもうひとつのベクトルエネルギー
があります。異化へ向かう力です。これは同化のエネルギーとは正反対で同じものか
ら違うものを生み出す方向へ向かう。宇宙の真の姿はこのように「同化」と「異化」
の間で起こるダイナミズムそのものだと思います。このダイナミズムを自覚できない
のだとしたら、悟った人を覚者というのは納得がいきません。
353 :
名無しさん@1周年:01/11/02 16:33
全てはバラモン教に始まる。
まずバラモン教からゾロアスター教が派生し、
その後ゾロアスター教の影響でユダヤ教、キリスト教、イスラム教が発生。
バラモン教に反発するかたちで仏教が誕生。
バラモン教は唯一神を持たず多神教→日本の神道に通ずる。
よってこれらの宗教の構図は
バラモン教、神道 vs ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教
何気に日本がインドと仲が良いのもそのせい。
イスラムとユダヤの争いなんて兄弟喧嘩にしかすぎない。
つーか教祖がいる宗教は全く信用できない。
モーセ、イエス、ムハンマド、仏陀…
こいつらみんな詐欺師、新興宗教の教祖と同じレベル(w
>352
>「迷」の状態から「悟」の状態に移行したことによる状態の変化は
>本人にとって無自覚ということはありえないと私は思うのです。
白隠禅師が若い頃、自分は完全に悟ったと思い込んだが、師はそれを
肯定しませんでした。また、これは現代の禅僧の方ですが、「無」に
徹するうちに、自分という存在が消えてしまって宇宙と合一したような
感覚になることがしばしばあると書いています。しかし、どちらの自覚も
贋物だったということです。こういう境地を禅では「野狐禅」と言って
戒めます。煩悩に囚われることを鉄鎖、サトリに囚われることを金鎖、と
呼んで、いずれも本物のサトリではないと言うのです。
では、本物のサトリであることをどうやって確かめるか、ですが、それは
「菩提心」であろうと思います。「自他不二」を体感できた人だけが持つ、
他人に対する無限の慈しみを持つかどうか。これは、人間として「ありの
ままの状態を生きる」という原点に戻ることでもあります。仏法によって、
人は空を飛ぶようにはなりません。人間が人間に戻るだけです。307さんの
言われるような一種の超越的感覚が伴うとすれば、それはサトリとはほど
遠いものだと私は思います。
>>354 最初の頃のレスは良かったのですが、段々論法が解りずらくなってきました。
マザーテレサのような方は、「自他不二」を顕現しているように思われます。
仏教思想もとどのつまりは、キリスト教の「博愛精神」ということに帰結されるわけですね?
それが即ち「悟り」の本懐であると・・・
それにしても、論客が千客万来のスレになってきましたね。
307さんと、2さん、独白人さんの議論は、非常に面白いです。
私なりに要らぬくちばしを入れさせてもらうと
307さんの意見はすっごく面白い。善を存在させることにより
その影である悪をも自覚せざるをえない。
なるほど。今日の社会的にはキリスト教の異教徒狩り、
十字軍、イスラム教のジハードに結びつきますね。
非常な悲劇です。個人の内面的には欲望への自制から始まり、自分の
信仰する宗教と違う宗教や異なる習慣を持つ民族、意に染まない人達への
嫌悪感、哀れみに繋がり、差別や排他意識を目覚めさせます。
独白人さんの神には、これも共感します。森羅万象と一体となる境地を
求めるのであって、神を見つけたい、神の言葉を聞きたい、愛されたい、
質問したいではなく、極論すると、自分自身が神の一部であり、神の目を
もって宇宙を見るときに善悪の区別など愚かしいことだ。と言うことですね。
そして、それは特別な境地ではなく、人が人としての営みを大切にし、自然
(神)の一部であると言うことを自覚し、そこから生まれる等身大の感情を
大事にしましょう。ということですね。
勘違いがありましたら、ご容赦下さい。
!!!!!
私の神は私の中にしかいないのかも知れない。
でもその神は宇宙のありとあらゆるものの存在の原点。
自分を限りなく小さく塵にして、神のわざを感じ、
神の目になって、「これでいいのだ」とすべてを肯定する。
限りなく足が地面にくっついた安らぎ、安定。
そのように私をこの世に存在させた神の意志。
その善なる意志を信じること。
あがきながら「そのように」生きてみること。
でも、「神を信じる」って言うなんて、
自分でも予想してなかったな…。
>>354:独白人さん
>>355:変人さん
変人さんが言っておられた「自他不二」って
そういう意味だったんですか。
いや私こないだから、「愛」ってどういう位置づけなのかも、
皆さんにお聞きしてみたかったのです。
>>346 2さん、それ!僕も思いましたよ。
バカボンのパパの
「これでいいのだ」
これ、最強!
「どうでもいいや」
とかね。
有名な吉野家のコピペ
そんなことより、1よ、聞いてくれ。
で始まる奴ですね。あれにはそういう精神が生きている
と思います。だから人気があるのかな。
私の場合、宗教や、思想などに対する思索は趣味程度にしたいです・・・。
「悟った!」とか、
「神通力を得た!」とか、
「神と交信した!」とか
言う人ほど、うさんくさいですよね。
>>358たこさん
ん?「これでいいのだ!」って
私、これでも結構マジなんですけどね(笑)。
>>357とか。
>そういう精神が生きている
って、どういう精神なのかよく分からないんですけど。
>>348:変人さんの
>印象的には貴方に同意。
ってのも、何に同意されてるのか、
何が帰納的で演繹的なのか、なんかよく分からなくて…(悲)。
>>360 2さん
僕も、まじですよ!
えーと、吉野屋のコピペはギャグで・・・、
バカボンのパパ精神が生きてると思います。
そのスレ全体の、堅苦しさを抜いてしまうと言うか、
善悪を越えてるというか・・・。
ま、どっちでもいいです(笑)
2さんの意見に共感と言うことで。
独白人さん
どうもありがとうございました。独白人さんが仰るように超越的な感覚についてなど、私も
語り合うことなど必用がないと思いますし、自他を不二とみた観点からの慈悲の心について
まで、人間が人間の原点に戻るということまで伺えれば、私としては十分な答えを頂いたと
感じています。また、それ以上のものなど、人間には無用の長物なのかもしれません。
私の質問に御丁寧にこたえてくださって感謝を感じています。仰っている慈悲を十分に覗え
るレスの内容でした。
質問したことに付いての私自身の考えも、一応書き込んでみたいと思います。礼を尽くして
くださった方に礼を返したいからです。お気に召すかどうか、若干の心配はあるのですが。
何故、釈迦が己が到達した心境を、これは正覚だと認める事ができたか?についてなのです
が「解るから判る」そうとしかいいようがないのだと思います。つまり、疑問に対する解答
が瞬時だと言うこではないかということです。迷いながら悟っているというような詭弁では
なく、現実的な命題に対して実に迷うということがない。外界の出来事と照らし合わせて検
証しても、客観的に無理がなければ、自他友に認めることにも無理がないということではな
いでしょうか。
私は独白人さんに礼を返すという意味でこのレスを書きました。今後はこの話題に付いてこの
スレでこれ以上深めて語ることに意味を見出せませんので私はこのことに付いてのレスは基本
的にしません。もっと現実的な人間の問題について話し合いたいと願います。
>>2 演繹的
人類の、生命継承を第一義とするならば、人口の増減、劣性の排除が重要になる。
いわゆる、自然淘汰。
戦争、飢餓、疫病、貧困などが、これらに貢献するなら、あって然るべき。
これをもって「善」とする。
ルネッサンス以降、あまりにも人間は「神」に近づき過ぎたのではないか?
人類200万年の歴史など、ほんの些細な時間なのではないか・・
宇宙のダイナミズムからすれば、神など有っても無きがごとし。
>何に同調されてるのか、
「これでいいのだ」論。
>>361:たこさん、
>>363:変人さん
わざわざ説明させちゃってどーもすみません。
>>363:変人さん
>人類の、生命継承を第一義とするならば、人口の増減、劣性の排除が重要になる。
>いわゆる、自然淘汰。
>戦争、飢餓、疫病、貧困などが、これらに貢献するなら、あって然るべき。
>これをもって「善」とする。
これって、
「愛なんて強者へのルサンチマンの裏返し」みたいな思想に通じそうですね。
でも、「善」の中に愛とか慈悲とかいう要素もほしいなと、私は思うわけです。
そういうのもないと、人間生きていけない気がするし。
>>346 2さん
>「ありのままのありよう→善」「絶対的安心感」「日々是好日」
> こういうのを読んでたら、
> なぜか、バカボンのパパの
> 「これでいいのだ!」が浮かんできました。
バカボンのパパはある意味、覚者ですよね。
バカボンのパパはとても老子に似ています。
彼は主人公でありながら自らの名前を持たず、
ただ「バカボンのパパなのだ」と言ってのけます。
老子も本名どころか優れた先生というぐらいの意味で他者ががつけた名ですし
実在さえも不確かな人物です。
「賛成の反対なのだ」と言っても、否定ではなく賛成を意味しているところなど
まるで禅師のようですね。
バカボンのパパにとっては、この世の道徳もシステムも通用しませんしね。
ただ彼は「楽しいと思ったこと」は即座に実行します。
世界を混乱させている張本人でありながら誰もが彼を愛しています。
神話の中にはたびたびこうしたトリックスターが登場しますが
バカボンのパパも現代のトリックスターといえるでしょうね。
たとえば、神話はほとんど虚構。しかし、たぶん神話のない民族はない。
神話によって人々が感じるのは、民族の誇り、同族の結束、存在の意味・理由・目的。
人間は、神話や物語が好きです。
神話には、ある出来事になぞられて、心の内面を語っているようなものもあるでしょう。
いろいろな読み方・解釈ができるものほどよい物語かもしれません。
多くの人が同じ神話を、感動を持って心に描くとき、その神話は事実と同じような重みを持つように思います。
完全に作り話だと感じるような神話でさえそうなのですから、事実と虚構の入り交じった宗教書の内容について真偽を分析したところで、たいした意味はないのかも知れません。
また、かりに真偽を判断するとしても、判断基準は個々人の実経験なのですが、人間長くやってるととんでもない経験をしたりしますから。
話は変わりますが、
私としては、神も悪魔も天使も精霊も霊達も、たぶんみんな同じ仲間なのだと思っています。
もちろん、ある種の階層は感じられますが、それほど大きな差ではないような感じがします。
そして、あちらの世界のどの階層とコンタクトするかは、本人の心のあり方しだいかと思ったりします。
>>2 >「善」の中に愛とか慈悲とかという要素も欲しいな、と私は思うわけです。
「種」の継承が第一義ならば、自然発生的に、愛とか慈悲は生まれてくると思いますね。
他の動物でも、共食いみたいのは一般的でありませんし、「種」の保存が第一義でしょう。
ユングの集合意識。フロイトの深層世界における人同士の繋がり・・これらによって
共同体での「生命」というのも視野に入れるべきかと思います。
自己保存本能の延長として考えられるのが、愛や慈悲でもいいのではないでしょうか。
植物の竹などは、数十年に一度だけ花が咲くらしい。この時期というのが寿命の寸前。
「種」の保存をちゃんとわきまえている・・というのが、竹の偉いとこですね。
>>367 変人さん
確かに人間は科学や学問でもって、自分を説明されきってしまうと
自己の存在の意味が無いように感じてしまいますよね。
「いや、我々は単なる物質ではない。霊魂があり、この現世における
人間というものは魂の入れ物であるのだから、来世や天国がある」
等と。キリスト教では神を除くと人間至上主義ですし。
心も、記憶も脳の神経を通う電気信号による作用だよ。
と言う説明では、非常に不安になるのですかね。
私はそこまで言い切るには疑問が残りますが、もし、そうだったとしても、
自分が単なる物質的存在だったとしても、落胆はしませんが。
人を想うと暖かい気持ちになるし、子ども達にはいい未来を残してあげたい。
子孫を残すことこそ、未来に、ま、ある意味での永遠を夢見ることが
出来そうな気がするのですが。
そして最後に、どちらでもいいですが、と言ってしまうのです。
それよりも眠いから(笑)←これも自己保存の為の生理的作用。
愛や、慈悲と何ら、価値は変わらないわけです。修行しなくても
得られる境地。誰も死から逃れられないように、食欲や睡眠欲から
逃れられない。お、調子があがってきました。
無欲になりたいとはこれぞ、強欲では無いでしょうか。
いずれ、死ねば無欲になれるんだから、無我になれるのだから
行き急ぐことはないでしょう。死んでも、霊があり、別の意味で、
生が続くのならそれもかないませんが。(笑)
宗教、それは文化ではなく文明。生まれた当初は文化でも、いずれ文明に
なってしまうのです。核兵器や機械や国家、人類が使いこなそうとしても
決して使いこなせない、逆に人類を支配し始める、愚かな発明だと
想います。眠たいので、過激になってきたかな。
なんか、夜食食べて寝ます。
このスレは面白いですね。いやー。皆さんの意見がこんなに面白い
ところはないや。
たこさん
>無欲になりたいとはこれぞ、強欲では無いでしょうか?
無欲になって、初めて気がつくことがありますね。
「善悪一如」「生死一如」などは、「無欲」な心でないと、観念的解釈になりやすい。
いわば「ありのままの世界」というのは、神仏を捨て、「無」になって・・・
そこを原点にしますと、「神仏が有っても無くても良い世界」というのが見えてくると思うのです。
神仏の存在を超越した世界とでもいうのでしょうか?宇宙のダイナミズムというのでしょうか。
仏教の「不二」というのでしょうか。不動心の世界というのでしょうか。ゆらぎの世界というのでしょうか。
言葉では表現できない世界というのがあると思うのです。
私が説明しなくても、皆さんイメージ的には「捉えている」と思うのです。
ただその世界が、共通認識を前提とする「言語」という方法では説明できない・・ということだと思う。
「無神論者」というのは、心の奥底で「その世界」をイメージしているんだと思いますね。
実際その世界は、信仰という概念で捉えることは無いので、一応は正解と思うのですが・・
物質、反物質の・・「深遠なる世界」だと思いますね。
370 :
名無しさん@1周年:01/11/03 09:25
>>369 「ありのままの世界」を見たから「無欲」になったんだろう?
ありのままの世界に意味が存在しないとわかったから、あなたは
無欲に気づいたんだろう?
自分がやったことじゃないだろう。気づかされたんだろ。
「神仏を捨てる」のはあなたが後から気づいたことだろ。
「ありのままの世界」と自分の心のテキトーな解釈を結びつけるのは
やめたらどうだ。
>>370 私が伝えたいのは、「非心非仏」ということですよ・・
文脈の裏を読んで頂かないと、そういった誤解を生ずる。
最後にカキコした「深遠なる世界」というのが、バックボーンです。
366
物語。神話。好きですねえ、私は。私が特に好きな原型イメージとしては
姫を救いに行く王子が、魔女の魔法に敢え無く返り討ちにあい、ミジメな
姿に変えられてしまった挙句に、様々な苦難に出会うが、やがて姫の涙に
魔法を解かれてかつての輝きを取り戻すようなものとか、人魚姫のように
ある人に会いたいが為に、言葉を失うという制約に甘んじなければならず
願いを果たして出会うことが叶っても、その想いを伝える術を持たずに死
んでしまう話など、どう言うわけか非常に心を打たれたなあ。
私は文学というものには無知な方なのですが、ギリシャ悲劇のようなもの
がどうして語り継がれてきたのだろう。何千年も前の物語が何故、現代人
の心にさえ、強いインパクトを与えるのだろう。
あと、怖いもの見たさというのでしょうか?怖いのに見たくなっちゃうと
いうのは、我ながら謎だ。心が刺激を求めているというのはわかるのだけ
れど、わざわざ嫌なものに惹き付けられちゃうというのは我ながら謎だ。
373 :
名無しさん@1周年:01/11/03 14:00
>>371 文脈の裏じゃなくてあなたの心の動機の裏を読みました。
本当のことで驚いたろう。
「深遠なる世界」は「不二」の世界なんだろ。現象世界の意味や目的が
抜け落ちた世界だからな。
あなたが「神仏が有っても無くても良い世界」と発言できるのはそのためさ。
ただあなたを発言を見てる他人は「見性してるのにいい加減なやつだ」
って思うやつもいるんだよ。
>>373 実際、貴方はすごいよー。全部おみとーしなんだね?
いやーまいたなー。あははは
解釈が少し違うけどね。まあ、そのうち解るよ−になると思う。
375 :
名無しさん@1周年:01/11/03 15:58
>>374 神仏を信じてるオレが怒ってあなたを非難したんだ。
オレの負けだよ。悪かったな。
>>369 変人さん
無欲になって気づく。これは、人間らしく
生きようと言う僕にとっては無理です〜。
ある種の超越者にならないと・・・。僕にはその欲がないので。
例えばある女性が凄く好きだとします。
あばたもえくぼ。東西奔走。無我夢中。
付き合います。ところがある日ふられてしまいます。
初めは、この世の終わりかと、驚天動地、自己崩壊。
でも、しばらくたって冷めてくると、相手の欠点や
自分の落ち度が見えてきます。
「相手が好き」という感情が消失した替わりに
客観が持てるわけですね。ま、好きにも度合いがありますが。
でも、僕は苦しくても別れたくない。二人で努力して
幸せになりたい。やがて、自己の欲を適度にコントロール
出来るくらいにはなりたいですね。盲目的な好悪もやがては
穏やかな愛情に移行していくとベストだなぁ。人生はとどまる所を
知りません。境遇は、日、一日と変化していきます。その度に
新しい、喜びと苦しみが降り注ぐでしょう。
移ろわざるものが、これほど求められるのもそのせいかもしれませんが
移ろいやすいのもジェットコースターみたいで面白いですよ。
相当、強い自我が必要ですけど。残念ながら、僕にはそんな強い自我も
無いですが。
>>374 横レス、失礼。
議論してる相手は俺じゃないし、
言ってることは、まあ変人の方が「真理」に近いのかもしれない。
だけど、変人の方にも非はあるぞ。。
みんなが梯子を使って、一段、一段丁寧に屋根の上に登ろうとしてるところ、
何の因果か、突然、屋根の上に乗せられてしまった子供が、
地面に降りることもできず、虚勢を張ってるようにも見える。
屋根の上から、一段、一段梯子を降りていく努力も必要なんじゃないか?
ときに、「非心非仏」「即心即仏」の見性、ズレてるかもしれんよ。
ログを持ってるなら、あのスレの法話をもう一度、確認されたし。
梯子を登るとき、即非即是の直覚を繰り返すわけだが、
それには「逆説の構造」だけでは足りないんだよ。
今の別スレ、異様に見えるかもしれんが、
あれは「悟り」スレの変人の姿とオーバーラップしてる面がある。
変人の場合は、もっとマシだったし、行者も好意的に見てたけど、、
(だからこそ、ヤバかったんだけどな)
>>365 22さん
バカボンのパパ論
感服です。非常に面白かった。
>>376 >無欲になれない、ある種の超越者にならないと・・・
無欲になれない・・というのは、「生」に絶対なる確信があるからなんじゃないですか?
「生」とて諸行無常。いつ何時朽ち果てるも知れず。そういう事を前提にしますと
執着する対象というのが全く意味のないものである・・ということが解るのではないでしょうか?
逆にいえば、執着とは「生への絶対なる確信」というものが前提になっていますから・・
「無欲」という概念が、「廃人」とか・・そんなイメージに受け取られやすいのですが、
決してそうはないと思いますね。いわゆる無垢の状態と言うのでしょうか?
禅の達人は、良寛みたいな無垢な方が多いと思うのですが、執着から離れた状態なんでしょう。
また「我」という概念もあまり無くなっていると思います。決して廃人ではないですよ。
ああいった姿が人間本来の生き方なんだと思いますね。
>>377 「大悟」を3回も会得した人にはかなわないよ(w
今、執着のレスを打ち込んだところなんだけど、貴方も早く執着から開放されて
解脱をはじめた方が良いような気がする。
ところで、解脱は何回する予定かな?
381 :
名無しさん@1周年:01/11/03 19:49
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冫、 < アッソー
` \_____
昨日、バカボンのパパからのお告げ(笑)のあとで、
何か「神はいる」って言ってもいいような
そんな心境になったんです。
自分を極小の塵にしたら、なんか同時に、
1つの目がある、というか、目になったような気がして。
その目はこの世界を俯瞰して「それでよし」と言ってる。
で、塵の私は「そうか、これでいいのだ」となぜか納得するのです。
「この世のありとあらゆるものを、そうあらしめているもの」
そんなのがあるような気がしてきたのです。
これって私にとっての神と呼んでいいかも知れません。
何教の神でもないような、でも逆に何教の神でもあるような。
あんまりうまく言えませんが伝わりますかね?
こないだまで神なんて虚構だ思考停止だ奴隷根性だと思ってたのに。
別に理性を放棄したって気はないんです。
今までの認識のしかたに、ひとつ新しい視点が加わったって感じ。
現実から逃避するんじゃなく、現実に関わっていくパワーもらう感じ。
「求めよさらば与えられん」てこのこと?
>>379 変人さん
いえいえ、無欲な人を別に廃人だとは思っていませんよ。
生に対する絶対的な確信もありません。
不安定こそ、常であると思っています。どちらかというと。
確信を得たい、神を見たい、という欲望こそ弱さから来ることも
あると思います。また、本当に無欲という状態は生物には
無いと思います。
人間本来とは・・・・?これはいといろな意見があっていいと思います。
本当にいろいろな人間、本来があると思います。
話は少し変わるのですが
ただ、生まれついての境遇だけは、なかなか抗し得ないので、
ラッキー、アンラッキーがあるとは思うのですが、
それをカルマや前世の因果と説明する宗教が多いのは困りものです。
前世ではろくな人間ではなかったと言うことですから。
また、悪霊や祖先の霊にする宗教も多いですね。
生まれながらに親に虐待を受けている子どもにそのような説明を
するのはいかがなものでしょう。あなたの前世の行いが悪いからだ。
さらに絶望を誘うこともあるでしょう。悪霊が祟っているんだ、
とか先祖の霊に供養をしてないからだ。では、悪質な脅迫になり得ます。
実際、生い立ちに不遇な友達が居て、先祖の霊を供養してないからだ
と言われました。はい、霊友会ですが。また、ややこしいことに、
その友達に霊感があり、なにか、すごい議論をしたそうですが
残ったのは怒りと悲しみだけだったそうです。
人の心を分かってあげるというのは、人を幸せにする上で
非常に重要な要素だと思いますが、無欲な方に人の心が分かるのでしょうか?
話は戻りますが、いつ、命が果てると知らずでも、食欲や睡眠欲、性欲は
旺盛だと思います。いや、より、旺盛になるような気がします。
>>382 中間総括みたいなレスですので、私もでは中間総括
私は、神仏の存在を否定する立場にたっています。がしかし・・
現存する世界は、マカ不思議な世界。人智を遥か超えた世界でもあります。
畏敬の気持ちで信仰すべきか? はたまた信仰せざるべきか?
まあ、これが最大の「迷い」だと思います。この迷いから開放されるには・・・
一度、既成概念を取り払い。宗教というのを再度考えてみたい。
釈迦が、バラモン教から「因果律」「輪廻転生」を神仏から切り離している。
ここがもっとも大事なことだと思うのです。執着の開放ですね・・
いわば、釈迦はバラモン教に逆らって「自由思想」というのをブッタたせた方。
ですからブッタ(仏陀)・・というふうに覚えておくと良いかもしれませんね。
私は、仏教の原点は全てここに有ると思っているのです。
全てを否定し、そこから会得する世界のマカ不思議。その世界とは・・・
信仰、無信仰の概念では、到底理解しがたい、人智を遥か超えた世界。
私は、そんな世界かと思うのです。 皆様の考えは如何に?
>>383 そうそう、この「無欲」というのは、「無」がいつのまにか「無欲」になってしまった。
まあ、「無」が本来ですと正しいかもしれません。
「無」というのは、欲望を否定するわけでは無いとおもうのです。
「有」「無」の二元論で唱える「無」と・・・
一元論的「無」は、おのずと意味が違うので、そこのとこ了承下さい。
カルマの法則
合理的な理法ですが、これについては貴方と同じく疑問です。
人間というのは、やはり合理的説明というのが納得しやすいのでしょう。
386 :
名無しさん@1周年:01/11/04 07:04
>一元論的「無」
こらこら、また煽り厨房が暴れるだろうに。(w
正確に言っとけよ。
「無」というのは、意識を介さないとこにある明確な自然の存在だと。
「無欲」というのは、意識を介さないとこにある動物的欲望が存在すると。
「無」の絶対性に司られる「色」の世界の中で、「無欲」を見たしていくのが「真人」だと。
こんな感じだろ?
>>386 >>一元論的「無」
これを説明するに、共通認識としての「言語」を媒介とする。
しかし、この言語自体が、認識の範疇から逸脱したものと解する。
結論から言いますと、到底理解をするには至難を極める。
まあ、それはそれで・・・
人間というものは、程ほどの認識をもって「無」を理解すれば、それで宜しいかと思う。
そういった事に拘るのも、一つの「迷い」。精進あれ。
「無」という概念の注釈、しかと承った。求道心に敬意を表する。
>384
執着を捨てよ。
主体的に生きよ。
自分の心をよりどころとして生きよ。
自分自身の外に絶対的な存在など設けようとするな。
この世界はマカ不思議な世界、物質と精神(意識)の関連し合い混在した世界。
人間のあるべき姿は、無欲と「隣人を愛せよ」の精神。
変人さんの考えは、こんなとこでしょうか?
でも、たくさん失敗して、将来どうなるかも見えず、ゴータマのようには出家もできず、のたうちまわって生きている私は、やはり私の神様にすがってます。
祈ることで、元気が出て勇気がわいてきます。
どんなときも神様がいっしょにいてくれると感じることでずいぶん落ち着けます。
私の神様は、私を見守って下さる、わたしが最も愛している神様です。
私が愛していなければ、神様も私を愛してはくれないでしょう。
愛に理由は必要ありません。ただ、私は私の神様を本当に愛してます。
最善を尽くして、あとは神様におまかせするしかありません。
私の神様、今日一日無事におつとめがはたせますように、家族が無事でありますように、よろしくお願いいたします(祈り・・・)
389 :
名無しさん@1周年:01/11/04 11:59
×ブッタ
○ブッダ
>>388 貴方の意見は正解かと思います。
つまり、人智を遥か超えたものに人間の推測など及ばぬ事。
神仏、有って良し、無くて良し。いわゆる「不動心」。
人間が「深遠なる世界」の一端でも垣間見えるのであれば、それで良いのだと思いますね。
貴方の意見は、人間として充分かと思いますね。
ニーチェが、この世界にあまり頭を突っ込んだんで、若くして頭がイカレテしまいました。
まあ、そこまでしなくてもいいのだと思いますよ。ほんの少し解れば・・それで充分。
1さんの疑問に乗っかって、私の探してるものが、
このスレ、とくに独白人さんや22さんとかのおられる方角に
あるんじゃないかという直感で、こういう所にきてしまいました。
変人さんのレス、難しすぎて私には少ししか
分からないんだけど、
>>384、
>>390を読んでると、
似たようなものをイメージしてるのかなと、思ったりします。
>神仏、有って良し、無くて良し。
そうですね、私もそんな感じかも。
信仰とか祈りとかいうものには至ってないんだけど、
思いもよらず「神」を感じることができた気がする今、
聖書の言葉も何だか以前とは全く違って聞こえます。
また、以前は訳わからない観念の遊びに見えていた仏教の言葉も、
きっと違った風に響いてくるんじゃないかと思います。
>>365:22さんの老子の話も興味深いです。
老子って、確か「無為自然」の人でしたよね。
これも今までさっぱり意味不明だったんだけど、
「無為自然」といっても、別になにもしないんではなく、
「天が自分をそのように置きたもうた通りに生きよ」という
ことなのかなと、かってに解釈しています。
(バカボンのパパのようにありのままに(笑)。)
で、その神は私をどのように生かしめんとして、この世に置いたのか?
それを、神と対話しながら一生かけて探すということでしょうか。
「試行錯誤しなさい、あがきなさい。それがあんただ。」
と、今はそう言ってるような気がします。
それは多分、今の私がまさにそうであるということなんでしょう。
>>385 変人さん
>>386 なるほど、我々には、まず言葉の定義から
入った方がいいかも知れませんね。
同じ言葉でも、各々が思い描く、意味は相当違いますものね。
生い立ちや、修めてきた学問や宗教によって
それぞれ、異なる思い入れがあるでしょう。
その思い入れは感情となり、あまり益がない議論に
もつれ込んでしまうこともままあります。
>>386 この解釈は素晴らしいとおもいます。
無は絶対零度や虚無、停止などの物理的な意味の無でも
文学的な空虚でもなく明確な自然と位置づけるのは
あなたのセンスとロマンを感じます。
私としては手放しで賛成ですが、
これは、しかし、あなた個人の創意、工夫、創造力に
よる定義ですので、なかなか、難しいですよね。
今、気づきましたが、修行、瞑想、ドラッグ体験による
無や神との一体感も個人によって相当違ってくるのでしょう。
同一視して議論しても、またそこで摩擦が生じるでしょう。
自分と他人は違うという自覚が必要ですね。また違うからこそ
同じものを同じ体験を普遍性を飽く迄求めるのでしょう。
>>392 >無や神との一体感も個人によって相当違ってくるのでしょう。
全くそのとうりです。
「我」という認識がグッと覚醒される方もいるでしょうし、反対に、認識が希薄になる方もおりますから。
そこで、あんまり考え込んでしまいますと、精神的にヤバクなると思います。
まあ、リスクと隣り合わせかとおもうのです。ベースに「不動心」というのがありませんと
精神的に不安定になると思います。そういう状態で・・・
自分自身で抱え込んでしまうか?はたまた、他人と接点(よき理解者)を求めるか?
どちらにしても、精神的な重圧はあると思います。そういうことを克服しながら・・
自分自身のアイデンティティーというのが構築されるんだと思います。
仏教における「解脱」にしても、「生=苦」の前提があるわけで、それがあまり感じられない
現代社会において、はたして「解脱」を本気で考えている人間がいかほどいるのか?
「悟り」の有り方も、今後変わってくると思いますね。
蓮の葉っぱの上よりも、現世で彼女と遊んだほーが楽しいんじゃないでしょうか?
394 :
名無しさん@1周年:01/11/04 23:44
>>393 アインデンティティーという概念がもう古くなりつつあることはご承知か?
将棋の羽生と谷川の自己像の違いで例示できる。
谷川は、アイデンティティーと呼ばれてきたものの塊なんだそうな。
羽生には、アイデンティティーと呼ばれてきたものがほとんどないそうな。
そして、将棋の世界で若い世代の名人レベルには、後者が非常に増えている。
変人に、羽生の「安定した内面」がイメージつくか?
変人はリスクの観念に非常に疎過いな。
悪いけど、固定化しすぎて陳腐になってるよ。
>「悟り」の有り方も、今後変わってくると思いますね。
変わらないと思うよ。
変えようとする胡散臭い輩はゾロゾロでてくるだろうけど。
>蓮の葉っぱの上よりも、現世で彼女と遊んだほーが楽しいんじゃないでしょうか?
「蓮の葉っぱの上」 ⊃ 「現世で彼女と遊んだ」
だろ?
>>393 変人さん
>「我」という認識がグッと覚醒される方もいるでしょうし、
>反対に、認識が希薄になる方もおりますから。
>そこで、あんまり考え込んでしまいますと、
>精神的にヤバクなると思います。
>まあ、リスクと隣り合わせかとおもうのです。
>ベースに「不動心」というのがありませんと
>精神的に不安定になると思います。そういう状態で・・・
>自分自身で抱え込んでしまうか?はたまた、
>他人と接点(よき理解者)を求めるか?
>どちらにしても、精神的な重圧はあると思います。
>そういうことを克服しながら・・
>自分自身のアイデンティティーというのが
>構築されるんだと思います。
ここは、見事!!と思いました。というか、身につまされる言葉でも
ありますね。人間が瞑想やドラッグ修行を試みるのは好奇心というものが
動機になりうると言うことに気づきましたよ。この文章を読んで。
だから、あなたの言うとおりなんですが、この段階で不動心など
持つのは非常に難しいですよね。リスクと言う言葉は、正に適切だなぁと。
後段の
>蓮の葉っぱの上よりも、現世で彼女と遊んだほーが
>楽しいんじゃないでしょうか?
これも、一つの悟りかも。どちらも等価値かも知れません。
彼女と遊ぶ。女性と恋愛に落ち、愛情を育むというのにも
想像を絶する苦難を伴うことがあります。子ども、家庭、老人問題、
ホントにたくさん、オプションが尽きますしね(笑)
蓮の上でも修行、彼女と遊んでも修行・・・。ああ、逃げられない(笑)
>>394 羽生は、既存の価値観を壊している。私は「構築」。
リスクの観念は、固定化に非ず。経過処置。
悟りについて。
鎌倉仏教を考察されたし。おのずと答えが出るであろう。
蓮の葉っぱについて
これは俗世一般論。と判断されたし。
>>394 失礼ですが、コテハンを名乗られた方がいいのでは?
変人さんにとてもくってかかっておられますよね。
所で、谷川、羽生の話は面白いですよね。昔は
それぞれの棋士に、アナグマ戦法、銀やぐらなど、得意とする
戦法があり、正に個性と個性のぶつかり合い。いかに
相手の戦法を封じるか?などが大局の見所でしたが
羽生は既成の概念を次々とうち破り、千変万化する局面に
柔軟に対応し、逆転の羽生と言われるくらい奇跡的な逆転劇を
何度も起こしている。
ただ、彼をオールラウンーと言ういい方も出来ると思います。
時代はいま、これですね。イチローやアレックスロドリゲスの
ように、走攻守をこなせる、マイケルジョーダンもそう。
各スポーツ方面にオールラウンダーが増えています。
これは、どんな文化もスポーツもより高度になり、接するに当たって
多様性を持たないといけないという時代のニーズかも知れません。
時代時代にも個性があるので、大きな意味ではこれも個性だと
思います。また、羽生をまねても無理でしょう。所詮、プチ羽生。
世には今、プチが増えてます。プチカリスマと言う言葉も
聞かれますね。羽生こそ、偉大な個性、アイデンテティーの
持ち主だと思います。彼の逸話を聞くと、恐ろしく攻撃的な
人間で、非常にプライドが高い。
悟りのあり方は方法は変わっても、いつの時代も
人それぞれじゃないでしょうか。
変人さんは方法の方と、若干、安売り傾向になるだろうな
という、社会的な傾向を指摘したのでは。
もちろん、普遍的な意味では変えようがないでしょうが。
普遍という言葉も曖昧ですよね。
最後の蓮の葉の上と彼女では・・
彼女と蓮の葉の上ということで。
>>397 394は、木場君。私の後を付回している。
板のスレッドを丹念に調べ上げ、どこかに隠れていても直ぐ発見されてしまう。
まあ、その努力は評価したい。がしかし・・粘着質は避けがたし。
399 :
名無しさん@1周年:01/11/05 00:57
>板のスレッドを丹念に調べ上げ、どこかに隠れていても直ぐ発見されてしまう。
勘違いするな。おいらも当初にレスしてるからチェックしてるだけだよ。
ほんとに自意識過剰だね。
もうあんたは眼中にないよ。そもそも生理的に嫌いなタイプの男なんだから。(笑)
ただ、煽り厨房を殺さんためには仕方がないだろう。
あんたの論理は奴にとっては破壊的だからな。
煽り厨房くんとの接点を取ってるのが分からんか?
ばかちん!
401 :
名無しさん@1周年:01/11/05 01:15
つーか、あんたが勝てる相手なんていないだろう。(w
変人さん
なにげに400ゲットしましたね。
負けた。。。
404 :
名無しさん@1周年:01/11/05 01:33
>羽生は、既存の価値観を壊している。
やっぱり羽生の感覚はまったくイメージできないみたいだね。
くだらん既成の価値観の破壊で、八冠を遂げるわけないとは思わんか?
すでに「構築」されてんだよ。お馬鹿ちゃん。
>私は「構築」。
まったくできてるとは思えないけどな。
ていうか、何でしてると思い込んでんの?
すんごくギモーン???&オオワラヒ
>>404 君は、良いところに気がついたね。
つまり、羽生は既存の価値観を壊して、そして「自分なりの価値観」構築している。
やっとそこに気がついたんだね。ヤッパ私の「追っかけ」してると良い事あるね(w
私が、常日頃提唱している「既成概念の破壊」というのは、正にこの事なんだね。
まあ、この意味を理解しただけでも進歩したよ。おめでとう・・・
>>私は「構築」。
これは、君には少し理解するには難しいと思う。
だが大悟?を3回経験しているよーだから、いづれ解ると思う。
私の情報に、敏感になっているよーだね。関心するよ(汗&苦w
人類の生命継承は、微妙なバランスのうえに成り立っているのではないか?
これは、私の私見なのだが・・・
地球上において、例えば人口が急激に増えたとすると、人間は潜在的に「生命継承の危機」を感知する。
そうすると、愛とか慈悲とかいった概念も少しずつ変化をし、それが相互のコンセンサスになるのではないか?
いわば、人類自身が「人口減少」の方向に向かっていくと思うのです。
反対に地球上の人口が減少した場合。愛とか慈悲という概念は、より強化され「人口増加」という方向に向かう。と考える。
この延長線で、最近の凶悪事件を捉えてみれば・・・前レスの「女子高生コンクリ事件。
あれも、そういった状況(無意識的淘汰?)を背景とした、一種の警鐘と考えているのです。
つまり、飢餓や疫病で混沌とした世の中であれば、人間は必死で生存するでしょう。
自殺者も少なくなれば、ましてや殺人などは急激に減少すると思うのです。
まあ、一つの犯罪を「時空的視点」で考えるのも良いのではないかと思う。
>そうすると、愛とか慈悲とかいった概念も少しずつ変化をし、
>それが相互のコンセンサスになるのではないか?
>いわば、人類自身が「人口減少」の方向に向かっていくと
>思うのです。
これは、生物学的にも立証されています。
例えば、トノサマバッタが異常発生すると、
体の色も性格も、まるで違ったものになります。
緑色から、褐色になり攻撃的で、肉食も可能になり、
長距離移動可能な、羽を持ちます。
これは食料獲得の限界を広げる為です。
また、ある個体数の密度が限界を超えるとストレスで、
数が減り始める動物もいっぱい居ます。
生物は、その数によって、心理的にも、肉体的にも
変化、抑制が起こります。あなたの意見は、
けっこう、各方面のいろんな学者によって裏付けられてますよ!
僕も、そういうことを考えてました。
また、人口だけでなく、情報の密度、自然状態、便利さなども
加味してみると更に、愛や慈悲の心は減るような・・・
後段の意見にも殆ど賛成ですが、貧困、飢餓は犯罪を増やすことも
有るようです。
しかし、もし、新宗教を立ち上げようとする場合、
時空的視点、それも5年、10年単位の視点が必要かも。
普遍ったって、方法論が既成の宗教では古すぎです。
神によらず、人間主体の宗教があったっておかしくない。
ある種の人間には神様の言葉より、あなたの
>>406 のような意見の方が理解しやすいでしょう。
>>362(307さま)
遅レスですみません。
>何故、釈迦が己が到達した心境を、これは正覚だと認める事ができたか?についてなのです
>が「解るから判る」そうとしかいいようがないのだと思います。つまり、疑問に対する解答
>が瞬時だと言うこではないかということです。迷いながら悟っているというような詭弁では
>なく、現実的な命題に対して実に迷うということがない。
私のそのように思います。ただ、鳥が空を飛べるのが当たり前という意味で、過去に自分が
飛べなかったことに対する不思議さだけが残るのではないか、と思うのです。誰かが釈尊に
「あなたは悟ったのか」と問われたら、おそらく「多分そうだと思う、今のところは」と
答えるしかないでしょう。自覚症状がないことと、完全な健康体であることとは違います
ので。釈尊の場合、実際にお弟子さんは「完全なサトリを得た聖者は永遠に死ぬことは
ない」と想像していたので、釈尊が入滅したときには大騒ぎになったとされています。
あるいは、釈尊自身ですら、実際に死がやってくるまで、自分が死ぬかどうかについては
わからなかったのではないでしょうか。
また蒸し返しになりますが、白隠さんにとっては、「野狐禅」のサトリを得たときの方が、
正受老人から正式に印可されたときよりも「悟った」という確信が強かったのです。サトリ
という自覚を持つ本体が残っている内は、本物のサトリではありえないと思うのです。
むしろ、飛ぶという自覚を持つこともなく「あたりまえに飛ぶ」鳥の姿に近いのではないで
しょうか。これは、古来の多くの求道者の書いたものからの推測にすぎませんが。
変人さんが仏教思想において、あることを語り出すと、どのスレでも、ある種の類型
のようなパターンになってしまうようですね。
変人さんはこの問題に決着をつけたいとお考えですか?しかし、決着の付け方にも色々
ありますよね。ひとつの提案ですが、HNを変えてみてはいかがでしょう?それこそ、
変幻自在に。あなたがあなたであることを現せなくなってしまうのは残念ですが、名は
捨てても実は残ります。いい意味でも悪い意味でも、実は隠しきれませんが、そこは方
便、知らぬ存ぜぬでかわすことも、この環境内では可能です。
とんだお節介になってしまいましたが、お許しください。
>>406:変人さん
個体密度上昇から個体数抑制へと至る自然のメカニズム、
そこから人間だけが自由って訳じゃないですもんね。
それは確かにそうなんでしょうね。
>>376で変人さんも言っておられましたが、
>自己保存本能の延長として考えられるのが、
>愛や慈悲でもいいのではないでしょうか。
よって時代によって愛や慈悲のあり方も変わってくると…。
でもなんか宗教家の方にしては即物的な気がするんですけど。
いや、私も人口に適正規模はあるとは思うんですけどね。
愛や慈悲について、私も考えてたんですけど、
私、以前にこのスレで、完全呆け老人や幼い子供の中に、
神のようなもの、聖なるものを見る気がするんだけどあれはどうしてなんだろう?
とか書いたんだけど、あれを今考え直すに、
自我というものがどっかに行っちゃった姿、
すなわち神が置いたまんまの姿がそこに見えるというか、
その人をこういう風に存在させているもの、
そっちの方に目が行くからかも知れないなと。
あと、昼間はうっとおしいけど寝顔がいとおしい、
っていうことあるじゃないですか。
で、そもそも何でこいつはこうやってここにいるんだ?
と不思議に思ったり。
まあ別に、マクロで見たら、
それぞれの個体がそれぞれの時間的・空間的行動半径で
ウロウロしているうちに、接点を持ったに過ぎないんでしょうけどね。
つまり、誰かがなぜか目の前にいることに、神のわざを感じるってことが、
愛や慈悲の原点ではないかと。
もっと広げたら、なぜか同じ時を生きていることが、いとおしいというか。
マザーテレサなんかは、ひょっとしたら、
そういう風に思って活動したんじゃないかと思うんですよね。
>たこさん
>無欲になりたいとはこれぞ、強欲では無いでしょうか。
そうですね。これもまた仏教の真髄を突いていると私は思います。
>いずれ、死ねば無欲になれるんだから、無我になれるのだから
>行き急ぐことはないでしょう。死んでも、霊があり、別の意味で、
>生が続くのならそれもかないませんが。(笑)
肉体としての人間にとっては、生存のための欲もまた「あるがまま」の姿だと思います。
「腹が減ったら食うこと」はそのままサトリの世界にも直結すると思います。要は、
「食わなくてもいい時に、食いたくなって、食えないことに悶絶するような不自然な欲
を持たぬ」ということでしょう。死んでから霊的な存在として生き続けるのでしたら、
肉体の保存のための欲は不要になりますね。その時には、不要な欲に振り回されること
がないのが「あるがまま」の状態ということになります。
「あるがまま」の状態は、「いま、自分、ここ」によって異なってくるので、「無欲」
という固定化された状態でサトリを捉えるのは誤りだと私は思います。「無欲」だけで
人が成仏するなら、苦行時代に釈尊もサトリを開いていたでしょう。社長には社長の
サトリがあり、サラリーマンにはサラリーマンのサトリがある。いや、煩悩の種類だけ
サトリがあると言うべきかもしれない。万人が同じ境地になるのがサトリなら、ロボトミー
手術で「欲」の中枢を切除すれば、人はサトリを得るはずです。あるいは、たこさんの
仰る通り、死ぬのを待てばいい(全く、的確な指摘ですね)。
>>411 独白人さん
いままで、この宗教版では無意味な論争をしてたような
気がします。他のスレで。悪意や欺瞞、
傲慢、排他的な猜疑心が横行してますよね。
この宗教板が2CHでも、最低レベルの人間がいるところか?
と思っていましたが、このスレは本当に為になります。
あなたのようにフレキシブルな考えも、宗教内で可能だとは。
>立場だけのサトリの数がある。
反論の余地はないと思います。言葉をいろいろに換えても
表現可能でしょうし、思えば当たり前のことで
人生の中で何度も思ったこともあります。
が、いま、この言葉を見つめ直し、心にはっきり焼き付ける
ことが出来ました。寛容、向上心、相互理解、と
あらゆる要素を含んでいて、厳しくもあり優しい言葉でも
あると思います。
有から無へ。我から無我へ。
自覚といういい方が僕の名かではぴったりですね。
”悟る”よりも、まず、自覚くらいから始めるのが
僕にはぴったりです。
>人口減少の問題に対する私見(独白)
中国の人口抑制の問題も含めて、いろいろと人智を尽くしても、人間がたくらんだ
ようには行かないと私は思いますよ。人間が100%善などできない。できるとしたら
それは神のわざだけでしょう。
第一、人間の存在で、自分のなした行為の結果の責任を取ろうというのが
傲慢だと思う。せいぜい、自分は善と信じて精一杯やったが、神の目からは
悪かもしれないし、実際には悪のみという結果になるかもしれない。その時は
どうかお許しください、というのが「まともな人間」の考えることだと思う。
結果はともかく、せめて動機だけでも善をめざしたい。人間の弱い立場を思い
知れば知るほど、謙虚にならざるをえない。
老人や子供が神に近いと感じられるのは、彼らには振り回すべき正義もたくらみ
もないが故に、謙虚にならざるをえないからです。マザーテレサは立派な行為を
しましたが、仮に彼女が少しでも「自分はこれによって、少しでも神に近づいた」
という意識を持てば、その善行がたちまち彼女を地獄へ落としたことでしょう。
くどくなりますが、人の行いの善悪は、決してうわべから判断できるわけでは
ありません。たとえその「結果」が善で、多くの人を救ったとしても、神の目から
は「動機」が悪である場合もありえます。
同様の理由で、他人に対する慈愛も、人工増加など具体的なもくろみが
付いた途端に「不純な愛」になってしまうと私は思います。
>>409&ALL
仏教思想と言いましても、実は「美味しいところ」だけつまみ食いしていても、なかなか見えてこない。
善も悪も違った視点で捉えてみる・・「善悪一如」の真髄とはこの事なり。
しかし、これが実相なのかと問えば、さに非ず。まだまだ奥が深い。これを「深遠なる世界」だと思う。
白隠禅師が、3回の大悟を経験した・・ということらしいが、やはりそうかと思いました。
つまり、世界観の構築>破壊。を3回繰り返したのだと思います。
ようは、406レスは一つの世界観であり、それが全てではない。
しかし、この世界観を踏み台として、さらなる世界観を構築していく。このことが大事だと思う。
マカ不思議世界とは、こういった積み重ねにより、その一部が顕現されるのだと思う。
こういった世界観は、ある意味リスクがあるのは百も承知。だからこそ・・
秘儀、秘伝として世の中に顕示されなかったのではないか?
しかし、もはや世界は変化しつつある。それに伴う意識の変革ということを考えたい。
415 :
名無しさん@1周年:01/11/05 12:43
>1
>必ず虚構をベースに構築されていますよね。
世に存在する小説もまた虚構である。それでも人に感動を与える。
宗教もまた然り。
独白人さま、並びにスレの皆様。
うーん、難しい。このスレの方向性、今ものすごく難しい方向へ向かっているような気がします。
私も、色々な宗教思想などに付いて他者と意見交換するのはいいことだと思っていますが、スレの
朱蒙というものがあります。変人さんの書き込みも大変素晴らしいのですが、彼の好むと好まざる
に関らず、スレそれぞれの個性を殺してしまいかねない傾向が出て来てしまう事も見逃せないと思
うのです。今、思い返すと私が独白人さんとのやり取りの中で、余計な自負心を発動させて書き込
んだ事が、スレの方向性を変えてしまった縁になってしまったのではないかと反省しているところ
であります。理論的な正誤などより、精神的な動機が不思議とスレの流れに影響してくるのは否め
ないような気がするからです。(続)
>>413独白人さん
独白なのにレスはあれなのかな?
そうなのかなあ? マザーテレサの動機が悪かも,
なんて考えたこともなかった。
神の御心に沿おうとはしたかも知れないけど,
自身を神に近づけようなんて思ってないんではないかと。
そもそもそれが神に対する最大の冒涜なわけだし。
独白人さんは,マザーの愛になんか胡散臭さ感じておられるんですか?
んー,どういう慈愛が「不純じゃない愛」なんでしょう?
私が残念に思うのは、高度な理論を高度な用語で語り合ってしまう為に、そのことに付いての
専門的な勉強をしていない者はついて行けなくなってしまうことなんですね。
この事は誰がいけないとかいう問題でもなくて共有している問題なのだと考えます。かつての
釈迦などは待機説法を使い、非常に高度な精神の問題を様々な状態に応じて語り、しかも出来
るだけ簡単な言葉を用いて日常生活の中で誰でも経験しているような事を例え話のようにして
いたのではないかと思うのです。
つまり、どんなに高度な理論でも相手が理解できなければ毒にさえなってしまう可能性がある。
自分が如何に精神的な高い境地に到達して、如何に正確な理論を駆使して語ったとしても、そ
こには相手が居り、人間としての未熟と喜怒哀楽を抱えている存在だと言うことを無視してし
しまえば、相手もこちらの正しさになど敬意を表したりしないでしょう。人間の答えとは常に
「迷」と「悟」あるいは「我」と「彼」、「問い」と「答え」などの間で「ならばどうするの
がいいか?」というように固定されないものだと考えられる。人間である以上「迷」にもなり
きれず「悟」にも成り切れるものではない。そしてそれぞれの中で「迷」の状態と「悟」の状
態が判別できるようになっている。違うのは、背負ってきた過去と生活上の立場であろうと思
われます。それが「我」というものでしょう。これ以上「我」を深く探求して得られるものと
これを「我」として、同じ人間として共存共栄の道を模索するのでは、「私達」あるいは「人間」
にとって得られるものも当然違ってきます。
このスレにおいては、究極の悟りに付いての議論よりも、今私に必用な悟り、私の欲しい悟りと
言うよりも、総体として必用な精神はどんなもので、何がそれを邪魔しているのか?というよう
な信仰と虚構の問題を前にして、これだけは押さえておきたいと思われる最大公約数的なツボを
より正確に捉え直すことができるように進んで行くことが重要ではないかと思うのです。
>>413 人口の増減は、人間の英知・・というよりも、むしろ自己保存本能の発露。
その延長線である「生命継承」。このプログラムはすでに「人間の存在」自体にインプットされていると思う。
全く、善悪の概念に依らない、「人間の存在」がすでにそういう形態をもっていると思う。
これを自然発生的なものと捉えるか?はたまた神仏の介在として捉えるか?
ここのところが、人智を超えた「深遠なる世界」だと思うのです。
まあニーチェにしても、合理的な論法を展開したとおもえば・・トンデモ話も出てくる。
いかに、ここのところの解釈に腐心するかが良く解ると思います。
>>418 そうですね。下手な書き込みしますと「危険思想」に繋がる事もありますからね。
気を付けませんといけません。
今後、スレの主旨に沿ったものをカキコするよう勤めます。
408独白人さん
先ほど、キーボードに向かって居りましたら、横の窓から急に強烈な光が差し込んできました。
太陽の光が隣の家の天窓に反射してアッという間に輝いては消えていったのです。
私は予期せぬ輝きに照らされて、その一瞬、えもいわれぬ歓びを感じていました。独白人さん
とは、同じものを違う言葉を使って表現する為に、違うものであるかのように受け取っている
たけかもしれないと言う思いもあります。私はあなたとの違いに拘るよりも、内在している同
じものを見つけ出しててみたい。同じ人間として心の深部から共感できるようななにかを見つ
けだしてみたい。悟りも大切ですが、人と人との本来的な関り方の原点になるような暖かいな
にかも大切にしたいのです。
307さん。まあいいじゃないですか。堅いこと言わずに(笑)
おもしろければ。
>私はあなたとの違いに拘るよりも、内在している同
じものを見つけ出しててみたい。同じ人間として心の深部から共感できるようななにかを見つ
けだしてみたい。悟りも大切ですが、人と人との本来的な関り方の原点になるような暖かいな
にかも大切にしたいのです。
僕も全く同感です。この気持ちが有れば、まあ、ぼちぼち
脇道にそれたりしながら進みましょう。
案外、大切なことは、寄り道先の、道ばたに落ちてたりするかも
名もないけど気高く咲いてる小さな花のように・・・
ポエマーだなぁ。
だんだんメルヘン調のスレになってきました。
まあ、神仏というのは、自らの心の投影を具象化したものと考えていいと思う。
ですから、どうしても「人格神」「人格仏」的概念で捉えてしまう。
そして「主従」の関係を勝手に作ってしまう。これも少し疑問ですね。
森羅万象の中で、人間がそれほど神仏かあら「目をかけられている」訳ではないと思う。
これぞ人間の「慢心」だと思いますね。
こういった、あたりまえと思える宗教概念を、もすこし検証したほーが良いと思います。
ここのところが、相当ネックになっていると思います。
自分では、神仏に帰依したつもりでも、実はそれこそがエゴになっている事もあります。
視点を少し変えてみますと、違った神様、仏様が見えてきます。
たこさん
そういうものかもしれないですね。だがどうしてだろう。神仏や悟りのような一種の究極的なものを
扱うと、どーしても変な方向に行ってしまうような気がします。神仏や悟りの観念ばかりが先行して
肝心の人間が付いて行けないような気がするなあ。しかし、心には余裕も必要だ。すこーし道幅を広
くして語り合うことにしましょうか!
423変人さん
メルヘン。よかったら、変人さんが語るメルヘンも聞いてみたい気がするなー。変人さんというと剛
のイメージがあるのでメルヘン調は似合わない気がするのですが、変人さん、女子供を救うためにつ
いにメルヘンで仏教を語る!!メルヘンで語られる不二の哲学とは??・・ジョーダン307でした。
>>424 307さん
>すこーし道幅を広くして語り合うことにしましょうか!
たとえというか、これも詩的な表現というか・・・・
道幅が広いっていうのはいいですね。
最近は、特に都会に住んでると
ホントに情報も、人間も、環境も狭いような気がする・・・。
こんなに世界が見渡せるようになったのに
人間は逆にせまーくなってるのかも・・・。
たぶん、宗派や思想じゃなく、結局人間なのかも。
違う宗派でも、憎みあう奴は、憎み会うし、
仲良く出来るものは仲良く出来るような気が・・
怖いのは、思想や宗教、国家がそれを阻害することだと
思います。人間、タイマンではなせば、そうそう、憎悪は
湧かないはず。
道幅をひろくか・・・。いい言葉ですね。
他を否定せず、寛容な思想なり、宗教はないですね〜。
そういうポーズは取っていても。
道幅をひろく・・・
>>424 >変人さんというと剛のイメージがある・・
まあ、そうかもしれませんね。私のレスはアクが強いのでしょうか?
一方で共鳴してくれる方もいるのですが、相当な反発もあります。
明らかに二分するようです。こういった事を鑑みますと、柔の方向に進路変更
しませんといけませんね。
本題に入りますと、「宗教は虚構」か否か?これを究明するに・・問題の中枢部分にメスを・・・
あらあら、また剛になってしまいました(w
>本当は虚構と分かってなぜ宗教を信じるのか?
これについての私見なのですが・・・
仏教書とか、聖書とか、私は思春期の頃から親しんできました。
たとえ信仰心がなくても手軽に読める。これが一番大切な事だと思います。
真理を究める・・というのは、また別の問題だと思います。
いずれにせよ、世界観というものを構築して、それから信仰という事を考えたら
いいかと思います。信仰というのは自分自身の問題ですから、自分で決めれば良いと思います。
>>426 変人さん
宗教は虚構か。僕はたとえそれが虚構であっても
本人が信じているなら、そうかも知れないと思ったり
その気持ちを大切にしてあげたりするのに
奴らは無神経なんだから。
押しつけてくるんだよな
>>428 たとえば、恐竜2億年、人類200万年。これだけでも人間の描き出す神仏というのに
どうしてもイメージとして理解できないんだね・・・
いわば、人格神、人格仏の概念だね。よく信じられるなーと思ってしまうんだね。
果たして人間というのは神仏を、どういったイメージで捉えているのか?
そこのところの考察が私には興味があるところだね。
自分勝手に造り上げた神仏では一種の妄想的概念ではないか?と思ってしまうんです。
「主従」の位置関係に非ずして、自己の「主体性」。ここのところが非常に大事だと思うのだが。
う〜ん。この論法、どれだけの人が関心あるのか?非常に微妙。
これは難解と言う問題よりも、底辺にあるのは、「世界観の違い」だよね。
イヤイヤ難しい。
430 :
名無しさん@1周年:01/11/05 23:03
即心即世界観・価値観
非心非世界観・価値観
戯言ではありません
中にはヨーガのような真理を追究する宗教もあります。
ちなみに私のハンドルBMはブラフマンからとりました
瞑想中はよく神霊のビジョンを見ます
>>429 変人さん
>う〜ん。この論法、どれだけの人が関心あるのか?非常に微妙。
>これは難解と言う問題よりも、底辺にあるのは、「世界観の違い」だよね。
>イヤイヤ難しい。
僕は自問自答をして、難しいと結ぶあたりに変人さんの人間性を
感じます。たしかに宗教を信仰している人には偏狭な人が多いですね。
想像、創造力が乏しく、与えられた情報を、屁理屈で正当化するのが
生き甲斐のような人間が。自分の感じたこと、信じていること、経験した
事で全てを分かったようになる・・・・。それが、危ないんじゃ
ないでしょうか。不思議な体験をしたり、大いに感動したりすれば
それを根拠に信じ切ってしまうことが多いですね。
結局、宗教も、思想も、真理を求める探求心も、一見冷徹にみえる
理論も、根底に流れているのは感情であり、人間そのものだと思います。
分からない!難しい!というのが最強のサトリかも・・・。
でも、容易に人に染まらず、宗教に染まらず、理屈にかぶれない。
そういうものに私はなりたいのかも知れない。
けっこう、このスレは僕にとって、有意義です。3時のお茶のように。
何か変人さんのレスが、読み易くなったような…。
主体性の話がでていました。
変人さんの言われている主体性と、同じなのかどうか分かりませんが
自己の主体性が、もう放棄したいくらい重く感じられる時ってないでしょうか。
私も何事も主体性が大事という教育を受けてきました。
何か思うようにいかなかったり、失敗したりしたとき、
主体性第一の考えから行くと、それはあくまで自分のせい、
自分で努力して克服しなさい、みたいになりますよね。
そういうのがとても重圧です。特に今みたいに生きにくい時代だと。
だからといって、安易にそれを放棄して、
何かに帰依する、というか盲信する、
神の言いつけに従って、自己決定から逃げる、
そういうのは不健康だと思います。
私はこのところ神を信じる人の立場で書き込んでいるんですが、
本当は信仰なんてしてないとも言えます。ていうか、
信仰する人しない人、どっちの立場も分かるようになった、
そんな気がするってだけで。
神といってイメージするのは、この窓から見渡す風景です。
その風景の中に、時おり神のわざのようなものを感じるけれど、
それは私が勝手に感じてるだけだし。
神が私に何か言ってるといったって、それは本当は私が言ってるのだし。
つまり、主体性を突き詰めていけば、やはり人それぞれの
どうしようもない限界にぶちあたってしまう。
そんな時に、大いなるものの前では、人は完全じゃない限界あるもの、
それでいいんじゃないのという理屈も欲しいんですよね。
それこそ藁をもすがる思いで、私も神を探してたんだと思います。
でも思ったのは、例えばイエスが死後本当に蘇生したとか言ってる人と、
ああ私もそんなに変わらないんだなと。
きっとその人にとっては真実なんでしょうね。
ただそれを客観的事実だと主張するかしないかの違いだけかも知れません。
434 :
名無しさん@1周年:01/11/06 00:44
即心即宗教
非心非宗教
>>433 2さん
な〜る〜ほ〜ど〜。
信仰する人もしない人もどちらの立場も
分かるようになったと。
ある意味、中途半端な立場ですが、
僕と一緒に半端を極めましょう!
主体性教育、主体性が重い・・・・・。
わかるなぁ。
最近は、感嘆してばかりです。
>本当は虚構だと分かっててなぜ宗教を信じるの?
虚構だとわかってる人は信仰してないだろう〜。
馬鹿なマジレスだが。
ただ、宗教は人間の強さではなく、弱さから出来たものだな〜。
そこにも、問題があると思う。
たこさん
まあ、つまり私が言いたかった事は、一度親子関係を断ち切る・・という事なんだね。
親(神)、子(人間)この関係切るわけです。そして一人で生活してみる(主体性)。
縁を切ったといっても、親は「遠くで見守る」。という状態で良いよ思うんだね。
これが即ち私が抱いている世界観なんですよ。
物事はなんでもそうなんですが、一歩退いた状態ですと客観的に見られる訳ですね。
こういった事を私が提唱して、果たして何人が納得するか?・・は問題ですけど。
2さん
私は、人間の存在など、川に浮かぶ木の葉のようなものだと思っているんです。
つまり、いつ川に沈むか、いつ風に飛ばされるか・・危ない状態。
どうしても、川の流れに沿って生きて行かねばならない。弱い存在。
だからこそ「尊い存在」だと思うのです。
ですから、愛とか慈悲とかいったものに人間は強く惹かれるのでしょう。
キリスト教における「愛」とは、やはり人間の弱さの象徴かと思うんですね。
イエスの復活にしても、やはり人間の「願望」の象徴だと思うんです。
一般的に宗教というのは、こういった美味しいところが上手にミックスされています。
いわゆる、美味しい部分を「虚構」というのでしょうか?
どこまで虚構なのか線引きが難しいですが、まあ勝手に人間が料理するのでしょう。
>>437 非常に口当たりがよく、受け入れやすいと思います。
神の有無論争も、穏やかに進むのでは・・・。
この考え方だったら。しかし、教団経営者側から立つと
神は人間に干渉する物でないと困るでしょうね。
逆に言えば一人一人が自分自身の中に神を見ることが出来れば
宗教は消滅すると言うこと。かな。
僕は、神様はどうでもいい派ですが。もし人格神であり
会えるのなら談笑することにやぶさかではありません。
してもらいたいことはないですが罰を与えないでね。
人格神は、怖いからな。
440 :
名無しさん@1周年:01/11/06 04:42
虚構とは何でしょう? 現実と夢は? 無限を想定しない持続とは? 聖書を読もう。
古代においては人間は大自然というおそろしく大きな力の前には弱き存在
でした。しかし、今や核兵器に代表さるような諸々のテクノロジーによって
かつて畏怖した大自然以上の力を得てしまいました。
古代では人知を超えた大自然に対しては祈りが必要でしたが、
現代ではテクノロジーによってそれを制御・支配できうるまでになりました。
そういった時代の流れの中で俯瞰してみれば、現代は必ずしも神を
必要としなくなったと言えるかもしれません。
しかし全く不必要ではないかというと、そうでもないと思います。
神は虚構か?というふりだしの問いですが
誰がどの時代で何を指して「神」と呼んでいるかによって
様々な答えが出てきそうです。
「芸術とは何か?」という問いに答えがないように
「神とは何者か?」にも決まった答えなどないでしょう。
しかし、岡本太郎にとって芸術は爆発であったように
個人が納得できる解釈というものがあることは確かです(笑)
神は何者であってもいいわけです。有益な人生にかかわるのであれば…
虚構といえば、「言葉」すらも虚構です。「レモン」という言葉にはビタミンCは
含まれていません。我々の世界とは、言語によって曇ったリアリティです。
「言葉」 によって便利で合理的に生活できますが、 「言葉」によって
悩んだり悔やんだりしています。 「言葉」で解釈せずに、そのまんまの世界を
感じるためのひとつの技法が瞑想です。 「言葉」は記号であって リアリティ
そのものではないですし。
我々は「今、ここ」という足場の範囲でしかリアリティに近付くことは
できません。カルマなどの過去に捕われる思想は混乱するだけです。
カルマという考えが「今自分が●●なのは、過去や前世の因縁なのだ」という解釈をして納得するためのものであったら、不要な思想でしかありません。
「良き瞬間が次なる良き瞬間を呼ぶ」つまり、現時点でのあり方に対して
しか効力はないような気がします。
442 :
名無しさん@1周年:01/11/06 05:55
>>409 必要ないと思いますよ。
もう破壊的な展開にはならないでしょうから。
名無しさんでも追い込む方法はありますし、(笑)
それに、彼奴のHNは、待ち人来らずですから。。(ウヒョ
>>420 >下手な書き込みしますと「危険思想」に繋がる事もありますからね。
このスレなら、大丈夫だと思うよ。
ちょっとやそっと「危険思想」を流しても、バランスが取れるから。
特有の臭いもしないし。
ていうか、やってみてほしいかも。
ん?自分の意見?
>>1 擬似問題だと思うよ。
宗教が虚構なのではなく、「認識の世界」全部が虚構なのである。
そして、宗教的世界は虚構かといえば、虚構である。
そして、身1つで宗教的世界を実存させるのが、人間である。
て、答えになるかな。
ホント、私などがしゃしゃり出なくてもこのスレの住人の方々の力で、ある種の「場」のようなもの
が出来ているのかもしれない。昨晩からの流れを見ていても、まるで何事もなかったかのような流れ
を取り戻しているようだし。自然でしなやかなバランス感覚って、いいですよねえ。
さて、神仏に付いて私が思うことは、一言でいえば「宇宙」ということになるのではないかな。この
バカでかさと、一定の法則、秩序が貫かれている事を考えると、そういうことになるんじゃないかと
思うなあ。それに、宇宙がなければ何ものも存在しえないわけであるしね。しかもこれが摩訶不思議
で、バカでかい銀河と小さな貝殻が同じ渦巻き構造になっていたり、基本的な構造や法則などで、様
ざまなレベルでの合致がある。しかも宇宙は、果てしない世界であると同時にいつも「ここ」にある。
人間は、科学技術の進歩によって自然から、独立した人間の社会を建設しようとしている。しかし自
然を無視した開発などをやれば、手痛いしっぺ返しを食らうということも学んだ。だが、人間の欲望
は止まらない。これはで中毒患者が末路に向かって右往左往しながら引っ張られているのと変わらな
い。人間社会は病んでいる。社会が病んでいるなら、その社会の心を扱う宗教は狂気を多く飲み込ま
ざるを得まい。その宗教の精神がその毒とどのように対峙するのかでその宗教の特徴が現れてくるの
だろう。踏み止まるので精一杯の宗教、狂気を制して行く宗教、狂気に同調してしまう宗教。概ねこ
の三つに分類されるのだけど、いずれにしても宗教に精神的な毒が様々な形で明確に集約してしまう
事は否めない現実だと思う。そういう意味では、宗教が精神的に危険な場所にならざるを得ないのも
やもえない。宗教は、一番深くは人間の、そして時代の、文化の精神の明暗を克明に映し出す。逆に
言えば、分かり易いとも言える。それでも、分からなくなってしまうのが人間なのかもしれないし、
分かっていてもどうすることも出来ないのが人間なのかもしれない。
精神や思考の「正常」と「異常」の間で、そのそれぞれに作用させる「毒」と「薬」の使い方をマス
ターしていくのがあるいは自然がが与えた人間のお仕事なのかもしれない。人間がおかしな事をする
ように作られているのは、そういうことかもしれない。
22さん
スレの住人は、ある程度の認識は一致しているようですね。わたしもそう思います。
前レスで、涙さんが「女高生生コンクリ事件」で相当トラウマ?状態でしたが、
私も継続して考察しておりました。
あれは、「女性」が被害者・・というのがキーワードかと思うのです。
つまり、生命継承の任を担うのが女性ですからね。自然と畏敬の念が内在していると思うのです。
仏教的に「自他不二」と改まって説明しなくても、ごく自然にそういうものは顕現しているんですね。
まあ、国情の差はあるとはいえ、男(労働力)、女(子孫継承)。こういった構図を担ってきた。
これを、あたりまえのように延々続けて来た。この「あたりまえ」が大切かと思う。
まあ、私がこういった事をカキコしますと、セクハラ云々というクレームが付く事がありますが・・
それだけ女性の存在が強くなっている訳です。
つまり、私の自論で解釈するに、「子孫増殖?」のシグナルはすでに出ていると思うのです。
しかし、世はまさに少子化の傾向・・これは将来において、なんらかの暗雲を暗示しているのでしょうか?
どうも、そこのところが懸念されます。
307さん
貴方の論法における、人間社会に宗教が攻しきれない考察。良く解ります。
まあ、これは貴方に限らず、どなたでも感じていることだと思いますね。
アニミズムが古代には有効であった。しかし時代と共に消えていく。
宗教にも、こういった変遷というものがありますから、時代にあった捉え方というのも
有って然るべき。
まあ、鎌倉仏教のようには少しやり過ぎかとは思いますが・・
当時に人は、それによって救われた人もいるのでしょうから、なんとも言えませんが。
カルトが入り込む素地は充分ある。そこが気を付けなければいけないとこでしょう。
>>435たこさん
そうですね。中途半端にやっていくしかないですか。
以前は洗礼でも受けたら何か見つかるかなと
思ったりしてましたが、そんなことどうでもよくなりました。
子供にとってサンタクロースは存在するように、
神が欲しい人は、いろんなことに神の存在を感じる。
22さんが言っておられた「芸術は爆発だ!」、
これも岡本太郎にとってはそれが真実だし、
またそういう表現しかしようがないんでしょう。
どっちも内面のリアリティが全てなんでしょう。
ここまで来るとなんか、「客観性」でさえも
1つの信仰なのかなと思っちゃいますね。
うまく言えませんが、宗教との関係は、
主観性と客観性、絶対性と相対性、個別性と普遍性
その間をあっちこっちウロウロするしかないのかと。
>>438変人さん
何か変人さんのレスがまたまた読みやすくなったような…。
キリスト教の愛って気色悪いですかねえ?
所詮、弱者の傷の舐めあいに見えるんですかねえ。
その宗教の歴史的背景ということもあるでしょうね。
キリスト教って、やはり弱い人間、虐げられた人間をベースに
広まったものですから。教祖さえ磔ですもんね。
でも所詮みんなそんなに強くないんじゃないですか?
妄想で殺し合ってるよりは、妄想で傷を舐めあってる方が
まだマシな気もしますが…。
いやいや、しかし。
そもそも、愛ってそこまでぜんぶ矮小化されうるのかな。
私ちかごろ子供を産ませていただきましたが、そいつなどを見ていて、
自己保存の延長じゃない愛、ましてルサンチマンの裏返しでもない愛、
何の目的もない愛、そんなのが確かにあると感じるんですよね。
マザーテレサの行為にしたって、
献身的に奉仕して神に近づこうとかの、何らか目的のある行為ではなく、
他人の痛みをそのまま自分の痛みとするような、並はずれた共感性の高さで、
自然発生的にやってたんだと思う。それこそ無償の愛っていうか。
キリスト教にはイエスの母マリアとか、マグダラのマリアとか
女の登場人物も多いし、そのへんが割と私とかの心情に合うのかも知れない。
しかし、それを弱者のなんとかだからと矮小化するなかれ。
世の中の半分以上は女なんだし。
ニーチェ氏自身、弱者になるまいと、ただただ精神の高みへ高みへと
知性・感性を研ぎ澄ましていき、結局ああなっちゃったんでしょう。
彼に何がないって、やっぱ愛がなかったんじゃないですかね。
存在を認める愛、ゆるす愛、共感する愛のない、高い高い山のてっぺんでは、
人間は生きられないんじゃないでしょうか。
天才で愛がなくて変になったり自殺した人多いでしょう。
人間て、より高く強くという自分の理想に向かっての縦方向のラインと、
互いに愛し合い、ゆるし合うという横方向のラインと、
両方不可欠なんじゃないかと思うんですけどね。
子孫継承のこともまた考えてみます。
>447
横レスで悪いけど、なぜ「弱者の傷の舐めあい」では不満なんですか?
キリスト教の教義とは、自分が弱い存在であることをあっさり認める
ことなのでは?マザーテレサは善行によって「強く」はならなかった。
むしろ、善行を通じてますます自分の弱さを認識していったのではない
でしょうか。もし、彼女が善行を通じて、自分を強めていったとすれば、
前にも書いたように、彼女は善行によって地獄へ落ちたでしょう。
善行が人を義にするのであれば、神など不要ということになりませんか?
信仰とは、自分の弱さを認識して見切りをつけ、神に自分自身を投げ出す
ことだと思います。
私見ですが、クリスチャンの方は信仰によって「弱くなる人」と「強くなる
人」に真っ二つにわかれますね。
>>447独白人さん
うーん。私がここで「弱者の傷の舐めあい」っていったのは、
ニーチェ氏が吐き気がするって言ってるみたいな、
やらしいキリスト教徒のイメージってあるじゃないですか。
社会的強者への恨み、復讐心をひた隠しにしてつながってるような。
ああいう姑息なイメージに矮小化しないでほしいと言うことですかね。
自分が弱いことを自覚して神の前に存在を投げ出す、っていうのは、
それは全くその通りだと思います。
2さん
あ、貴方は女性でしたか?別にどうでも良いのですが・・・
一種の先入観というのがありましたから。
「愛」についての認識、なんとなグッグとくるものがありますね。
女性特有の感性というのでしょうか?
「生命継承」の素地・・というものを感じられます・・アラアライケマセン。
ついつい即物的になってしまいます(w
私は、マザーテレサが好きでしてね。
ホームレスと同じ目線でコミュニケーション取りましたね。
布団をわざわざ窓から投げ出したり、ホームレスに跪いたり・・・
宗教といえば・・・あの姿こそ「真の宗教」かと思うのです。
まあ、わたしはキリスト教ではありませんが、宗派を超えて、
すべての人類に感動を与えました。彼女は天国に召されましたが
すべての人の心に生き続けていると思います。
私は先程、自分のレスで精神や思考の「正常」と「異常」ということを書き込みましたが、やはりその
正常と異常というのも時代や文化によって変化するものであるということも否めないような気がする。
やはりそう言う時でも私は、極みにおいて宇宙の法則や秩序に、その基準を求めることになると思う。
そこで質問してみたくなったのですが、みなさんの中のセンサーは「正常」と「異常」をどのように
見分けているのでしょうか?このセンサーの働き具合、すごく大切たと思うものですから。ちょっと
意見交換してみたくなった。
452 :
名無しさん@1周年:01/11/06 13:31
宗教にはまってる奴=根暗、電波
独白人さん
一方では見識の高いところが見受けられるのですが、
キリスト教に、一種のアレルギーをおもちでしょうか?
私は、イデオロギー的にはキリスト教は少し受け入れられないのですが
でも、それほど偏見はありませんね。
キリスト教でも、仏教にはない素晴らしいところもありますよ・・
450変人さん
よっ!変人さん、ついに女子供を救うためにメルヘンを語りましたね!
ついでに私の問いにも答えて欲しい!欲しい!!欲しい!!!(笑
だって、私も女なんですもの・・・・(うそ)(うへっ、きもちわる)
307さん
一般に、一分野に秀でた人は、やはり「負」の部分というのも併せ持つ。
天才といわれる学者や芸術家。情緒面に不安定がみられる。
でも実は、こういった「不安定」の中から「新しいもの」が生み出されていくのも真なり。
明確な線引きが、かえって「新発見の阻害」という事にもなりかねない。
まあ、ここのところの見極めが難しいのでしょうけど、
えてして、どうも保守的人間は自然淘汰の対象になるのが経験則のような気がする。
456 :
名無しさん@1周年:01/11/06 14:10
しきりタガーリは自分でスレッド立てればいいのに
なんで他所に来て乗っ取るような真似ばっかりすんのさ。
456
しきりたがーりって、ひょっとしてオレのことカイ?その気はないのだが・・・な。
458 :
名無しさん@1周年:01/11/06 16:37
人間はみな確実に弱い。強いと思っている者は単に「勘違い」しているだけだ。
なぜなら、みな必ず死ぬのだよ。そしてそれが「いつか」は、だれにも
わからない。しかも死は「未知のもの」だ。聖書は読むに値すると思う。
>449(2さん)
いや、ね。「弱い者同士の傷の舐めあいじゃないか」と言われて、「はい。私達は
弱い者で、神の前には取るにたらない存在です」と素直に認める人の前には、どんな
傲慢な人でも絶句するんじゃないかと思いましてね。
誰だったかな。剣を持って抵抗する人間を斬るのはたやすいが、丸腰でしかも観念し
切って、合掌する人間を斬るのは難しいって言ってました。人間が「弱きに徹した」
とき、不気味なほど「強く」なりますね。そういう「強さ」までニーチェが否定した
のではないと思うんですよ。きっと、そういう態度には敬意を払ったことでしょう。
>453(変人さん)
それは、キリスト教に限らず宗教の本質をあなたが理解していないだけですよ。
弱さに徹して絶対安心を得るというのは、あらゆる宗教のエッセンスです。
>>459 >丸腰でしかも観念し切って、合掌する人間を斬るのは難しい。
これは、剣を持って斬る側が完全に負けているんで、斬られる側は強いわけでは無いと思います。
つまり、勝負のカギを手中にしている人間が「斬れない」というのは
自らの心に負けているんだと思います。
まあ状況にもよりますが、武士たるもの一度刀を抜いて本懐をとげらなくば
恥と心得なければなりません。 情念が優先する世界ではありませんからね。
名刀、妖刀の見解の相違はそういうところかもしれませんね。
>弱さに徹して絶対安心を得るというのは、あらゆる宗教のエッセンスです。
そう言われてしまえば、納得する部分もありますね。
トータルの部分では意見は合っております。各論になりますとズレが生じますが(w
まぁ、色んなものがありよ。別にいいんじゃない?
霊的世界のものは、見る人によっては虚構にしか見えないからね。
まぁ、変なもの信じるよりはマシだから、それはそれでいいと思うわよ。
462 :
名無しさん@1周年:01/11/06 17:34
いっそ「虚構」ならどんなに楽か・・・
悩みの元は、“神がいるかもしれない”というところからきているような気がする。
現時点で、宗教が虚構だと決めつけるのは危険じゃないの?
ま、虚構なら虚構で、落胆も大きいだろうが。。。
>>461 っあ、マリアさん。一瞬女性かと思いましたと(w
今日は主張ですか? お初にお目にかかります。
メインスレッドはどうですか?
まあ、私も遊びに行きたいと思っているんですが、なかなか勇気がなくて(w
>>462 まあ、そこまで極論を言っているわけではないんですよ。
一応のコンセンサスは、もうすでに出来上がっているのです。
455変人さん
悪ふざけが過ぎたということかな?予想外のレスが帰ってきた。変人さん、もしかして気を
悪くされましたか?私は時々、悪ノりしちゃうタイプなんです。御免なさいネ。
でも、私の性格、そんな風に見えますか?ならば、新しいものを生み出してみたいものです。
そういうのを、生みの苦しみと言うのでしょうか。女性は出産で、味あわなければならない
のですね。先日、鬼子母神というドラマを見ましたが、母親の捻じれた愛情というのは恐ろ
しいものがある。あれは奪われる愛の究極の悲哀の姿にみえました。不二一体の母子が引き
裂けられて行く心情は、他者には推察し難いものがあるに違いない。自他不二の状態からや
がて別の人格が生まれていくるのは、当たり前のことだという通念が母子達を救っているの
かもしれない。その当たり前に疑問を持って拘ってしまうのが人間の長所でもあり短所でも
あるということですね。長所と短所は切り離すことはできないが、どちらが強く作用してい
るかは、誰にでも分かる事ではないかと思う。ただ「どうしたらいいのか」が難しい問題に
なって立ちはだかっている。鬼子母神も、御釈迦様の慈悲と智慧によって神になったのだか
ら。「負」を背負うことは、それだけのポテンシャルも蓄えているということなのだろう。
>460
私はむしろ、上段に構えたままで剣を振り下ろせないという人間の「弱さ」を
愛しますね。強いだけなら、ライオンは容赦なく相手を攻撃するでしょう。
私は「強いライオン」よりも「弱い人間」として、さらに、その「弱さ」をこそ
杖として生きていきたい。
変人さんは武士道精神のことを言っているだけじゃない?おそらく彼自身は人を切る
ことなんてしないよ。(当然??)。現代人なんだからさ。(w
まあ、武士道という戦闘者の理論で人間を御し切れるものではない事は確かだと思う。
307さん
っえ、えー。よく解らないですけど。勝手気ままにレス打っちゃうほーですから・・
気になどしていません。結構今まで厨房に袋叩きにあっていますから、静かな方です。
レスのコメントは、あくまでも一般論です。
貴方は、もしや涙さんではないですか? イヤイヤお気にしないで下さい。
レスの内容がどうしても涙さんに重なるものですから。
言葉は、言霊(ことだま)といいますから、どうしても人格化してしまう。
鬼子母神も長所と短所、天才も然り。エジソン、武蔵も然り・・一律背反が私の自論です。
455レスは、いわば自論の展開ですね。武蔵も「負」の部分があってこそ開眼している訳ですから。
展開とすれば、鬼子母神と似ているかもしれません。
>>465 うむ。まさに正論かと思います。
えてして人生というものは、こういった、正解が二つあることがあります。
正宗か、村正か、これはどちらとも言えません。
あえてどちらと問うならば、告白人さんが正しいでしょう。
「自分を滅して他を生かす」これも武士道なのでしょう。
ところで、独白人改め告白人ですか?
これだと、キリスト教のザンゲのようですね?ハンドルのイメージが・・
>>440 聖書から学ぶことはある。
しかし、それは違うだろう。と言うことも
多々ある。無限とは、別にあなたや、私の命が
続くこととは関係ないのでは。
>>441 22さん
なるほど。なるほど。
なるほど。うーん。
宗教も、文化なら大いに議論の余地もあろうし
間違いを含んでるかもしれないと言う立場なら
さらに議論を経て、時代に即したものになりうるだろうし
反対論者の居場所もあるのになぁ。
>>442 なるほど。ははは。全部が虚構ね。いっそ、そこまで
言いきるのなら宗教自体、虚構か、真実かという
問いも小さいものになるな。そういう考え方も
数多くの思想に取り入れられてるね。宗教も。
ただ、我こそは正しい!という立場が問題なんだね。
見えてきたよ。虚構かどうかは問題だけど
我こそは正しい!と言う立場のもとに排他的になったり
相手を断罪することこそ、根深い問題かも。
>>443 307さん
>さて、神仏に付いて私が思うことは、
一言でいえば「宇宙」ということになるのではないかな
僕もこの立場かな。神を想定するのではなく、何を神と呼ぶのか。
神とは感じるものでしょう。いるとしたら。
優れているからとか、理屈で言えばこうだからとか、
奇跡を起こしたからではなくね。感じると言うことは
非常に繊細な面を使うことです。だから傷ついているときに
入信してしまったり、否定されるとムキになるのでしょう。
理性と感情、どちらも大切ですね。
その後の文章に関しては感服です。これは、もう政治レベルでの
宗教政策の場で話し合うことでしょう。
税的優遇措置で汚い銭もうけの温床になっているのも
もんだいだし、何処までが霊感商法なのかの線引きもあいまい。
釈迦の生まれ変わりだと言う人間を野放しにしておいていいのか?
たくさんいます。日本には18万以上の登録宗教法人が
有るしね。
>>444 変人さん
そうですよねよきにつけ悪しきにつけ、文化が変遷していくのは
世の常だけど、その速度が、現代は速すぎます。
これは、変遷ではなく、崩壊かと・・・。
僕は女性至上主義だからなぁ。愛する女性を幸せにする為に
生きているようなもんだ。
>>446 2さん
!!そう!サンタクロースですよ!僕は、そういうものなら
いくら存在しても構わないし、信じてみたいと思うし、
誰もがサンタクロースにもなれると思う。
なのに、何故、神というと、アレルギーを起こすかというと
神には非常なマイナスイメージが有るからです。
その原因は何あろう、宗教そのものであり、信者の方達の
言動です。神をおとしめたのは、神に群がる人達だと思います。
>うまく言えませんが、宗教との関係は、
>主観性と客観性、絶対性と相対性、個別性と普遍性
>その間をあっちこっちウロウロするしかないのかと
これは、なにか笑ってしまいました。人間そのものですね。
人間悲劇というか、人間喜劇というか・・。
興味深い意見です。
>>447 2さん
横レスですが、ほーう。と感嘆。
470 :
名無しさん@1周年:01/11/06 21:34
本来の仏教は宗教と言うより、哲学じゃないんですか??
>>307 異常と正常のセンサーね・・・。
自分で判断する。友達に聞く。自分はおかしいんじゃないかと恐怖する。
い〜ろいろ、やってみますが、究極にはないでしょう。
よく考えると、どんなつりの名人でも、つれない日はある。
なのに、絶対つれるマニュアルをもって、俺はつれるんだ!と、
叫んでいるのが盲目的信者かも。
僕は正常か・・・。どっちでもいいや!と答えるしかないなぁ。
変態でもかまわないし。
>1
哲学っぽくなるけど、この現実世界自体が、宗教と同様に不確定なもの。
科学は科学自体が絶対であるという証明はできない。我思う故に我在り。
この世の目に見えるもの、証明可能なもののみを信じるという思想
=無宗教・科学主義そのものが、宗教と同じレベルにあるのです。
結論→宗教が本当は虚構だとわかってるけど、「虚構じゃない」ものが存在しないので、
可視現実を真実と考える人もいるし、超科学的なものを真実と考える人もいる。
ちなみにこのスレッドの最初の10レスくらいしか読んでないので既出ならすいません。
>>463あそこは、別に誰が来てもOKよ。
ただ、あたしがやってくるというだけのスレッドだから。
>>472 デカルトも一つの哲学なんだが、私はむしろ・・
「我想う故に我無し」の哲学に傾倒している。
つまり、究極の「我」の否定になる。
さすれば、どこに主体をもってくるか?ここが問題。
全部ひっくるめた、十羽一絡げの世界観です。
>>472:ドーナツさん
おお、いきなり結論を…。
でもまあ、そんな感じですかねー。
>>470 >仏教は哲学じゃないんですか?
実際、私はそう認識している。ですから、信仰という概念はない。
では、仏教に何を求めるのか?と言いますと・・・
そこに「仏様」という存在をもってくると、非常に人間は安心する。
逆にいいますと、仏様の存在がないと非常に難解だと思う。
仏教においては、そこが一番のキーポイントかと思う。
つまり、究極の仏教信者とは、信仰の対象が無いことになる。
>>448 独白人さん
> マザーテレサは善行によって「強く」はならなかった。
> むしろ、善行を通じてますます自分の弱さを認識していったのではない
> でしょうか。もし、彼女が善行を通じて、自分を強めていったとすれば、
> 前にも書いたように、彼女は善行によって地獄へ落ちたでしょう。
いえ、おそらくマザーは善行を通じて、自分を強めていったのだと
思いますよ。「もっと多くの“貧困の中にいるキリスト”を助ける力をください」と。
弱き者を救うことは弱い人間では困難です。多分独白人さんは
「 彼女が善行を通じて、自分を強めていったとすれば」という箇所は
「彼女が善行を通じて、傲慢さを持ってしまったなら」という意味で書かれたとは
思いますが。
しかし、 マザーはそうならないために毎日祈りをささげていました。
『より少なく持てば、その分、より多く与えられるのです。
より多く持とうとすれば、より少なく与えることしかできません。 』
『飽くことなく与え続けて下さい。しかし、残り物を与えないで下さい。痛みを感じるまでに、自分が
傷つくほどに与えつくして下さい。 』
http://www.kannet.ne.jp/trydent/mother/mt-words.html 『「私に特別な治療はいらない。私が仕えた貧者たちと同様に死なせてほしい。
この国では、貧乏な人は私の受けている治療を受けられないのである以上、
私 が 特別扱いされる理由はない」。心臓の苦痛を訴えて入院したマザー・テレ サは
死 の床で、手術を進める医師団にこう語った、と毎日新聞は報じた。』
http://www.gospeljapan.com/skj/special/19970905teresa.htm キリスト教の祈りとは、弱さの確認作業ではないと思います。
神に愛されるための祈りではなく、 隣人を無償の愛で包むことのできる
力を神からさずかるための儀礼ではないでしょうか。
ただ、そういうキリスト教のあり方が現にあるかと言われれば
クリスチャンではないのでよくわかりませんが。
おそらくキリスト教の理想はそういうところにあるような気がします。
479 :
名無しさん@1周年:01/11/06 23:59
「強い」とか「弱い」とかなんて、どうでもいいじゃないですか。
480 :
名無しさん@1周年:01/11/07 00:02
>423
>神仏というのは、自らの心の投影を具象化したものと考えていいと思う。
投影しなければ、恋もできないし、芸術も生まれないかもしれない。
しかし、「磔のキリスト」が自らの心の投影の人たちはかわいそうではある。。。
>ですから、どうしても「人格神」「人格仏」的概念で捉えてしまう。
やっぱ、人間は人間が好きだってこと。
どうせ形がないんなら、人間の形にした方が親しみがもてるし。
それに、あらゆるものに神が浸透しているなら、人間の内にも神性は宿っているはずだから、まんざら間違いでもないし。
>森羅万象の中で、人間がそれほど神仏かあら「目をかけられている」訳ではないと思う。
全くそうなんです。でも、神様だって愛されれば悪い気はしないだろうし。
好きだ好きだって言ってれば、そこまで言うんなら食事くらいしてやろうかと思うのが自然というものでしょう。
## だからぁ、神は人間じゃないんだってば!それが投影なの!
でも、人間だって神を理解しようとしてがんばってるんだし、神様も少しは人間に近づいてくれてもいいんじゃないかと。。。
## だからぁ、それが慢心だって言うの!
なんか、つまんないね。
ワタシの場合、もっと素朴な神様でいいみたい。。。
>>459 独白人さん
なるほど、読み落としてました。そういう意味でしたか。
しかし、「弱さに徹して絶対安心を得る」
そういう面もありそうですが、
「合掌する人間を斬るのは難しい」という話、剣の前でさえ
ゆるがぬ心こそ強さのように感じますが。
それは、弱さに徹する者の強さというより、もはや弱さ強さを超越したもののような
気がします。
>>468 たこさん
> 我こそは正しい!と言う立場のもとに排他的になったり
> 相手を断罪することこそ、根深い問題かも。
まさにそこが人間の業みたいなものでしょうね。しかし、宗教が「真理」を
垣間見せることができなければ宗教としての価値がありませんから難題ですね。
カルトは90%の真実とともに10%の嘘を含ませます。この嘘が火種になって社会は混乱する
のでしょう。
>>447=2さんの『存在を認める愛、ゆるす愛、共感する愛のない、高い高い山のてっぺんでは、
人間は生きられないんじゃないでしょうか。』
『人間て、より高く強くという自分の理想に向かっての縦方向のラインと、
互いに愛し合い、ゆるし合うという横方向のラインと、
両方不可欠なんじゃないかと思うんですけどね。』
というレスの中にあるように、私もそういうバランスは不可欠だと思ってます。
「我」を捨てたところに「我」を超えた視点を得る。
その視点からの展望に神は生き生きとしたリアリティとともに存在(遍在)するのかもしれません。
例えば、友人の死に「死は終わりではなく始まりだ。現世のしがらみから解放されたのだから祝福しよう」
などど言ったら友人の親から殴られるかもしれません。こんな現実から浮いた悟りなど存在しないので
あって、これでは宗教の誤用が感情をマヒさせているだけにすぎません。
愛する者の死に自らの肉体が引き裂かれるような痛みをともなうことがないのであれば
それはとても宗教的とはいいがたい現象だと思います。
482のレス、支離滅裂・・・(謝
>我思う故に我在り。
>この世の目に見えるもの、証明可能なもののみを信じるという思想
>=無宗教・科学主義そのものが、宗教と同じレベルにあるのです。
デカルトのコギトは、また意味が違うんだけどね
>>480 いやー、すごいなー。と思ってしまいました。神様が貴方の直ぐ側にいるみたいで・・
どういう概念で捉えているのかなーと想像はしていたのですが、ビックリです。
でも、本人がそれで身近に感じられる存在でしたら、きっと幸福なのでしょう。
じーっとレスを見入ってしまいました。相当なインパクトです。
こういった精神世界もあるのかなーと思いまして。大変参考になりました。
でも、ここまで神様と一体感になれるのも、なんかスゴイ気がするね。
すごい、情報量のスレになってきましたね。
すごく建築的でいいスレだなぁと、思います。
楽しく、思索、勉強させてもらっていると言った所でしょうか。
2CHの宗教板も、結構な存在意義があるものです。
>>480 480さんの言いたいことが分からないんですが・・・。
素朴に・・・。
>ワタシの場合、もっと素朴な神様でいいみたい。。。
最後の一節ですが、日本の神道なら、素朴な神様が
いっぱいですよ。貧乏神から、川の神、妖怪も神様扱いされてるし
人間以下の神もいます。ただ、祟ることがあるので忌み嫌われてるが
奉ると・・・(笑)
素朴でいいです。八百万の神様の概念は日本人にあってるのかもね。
マリアさんが詳しいんじゃないですか。
>>487この世の始まりに現れる現象から、
それ以降に現れた現象を含めて、
何でもかんでも存在したもの全てが神様なのが神道の世界よ。
だって、どれ一つ欠けたとしても、あたし達人間なんて
出来なかった可能性はあるから、それに対して感謝し拝むのよ。
それに、人生色々。いいこともあるし、逆に苦労もあるしね・・・。
いいことも身になるけど、苦労も身になるもの。
489 :
名無しさん@1周年:01/11/07 02:16
拝んで救われるなら自殺者なんぞおらんね。
>>488 うはー、それはいい。わかりやすい、信仰対象だ・・・。
これなら、神はいる!って断言できるね。
僕が生きてるのがその証拠だって・・・。
しかも、絶対神だし、人格神だし、おおらかだなぁ。
>>489拝めば救われる。そんなこと言う宗教もあるわね。
無いとは言い切れないけど、人生は修行だからね。
自分を助けるのは最終的には自分しかいない。
だから、否定に近い肯定をするわね。
ただ、色んな経典を読んだり、人の心や自然や色んな出来事から
発する現象は人の手助けはできる。
これは神との縁がある証拠だと考えるわね。
>>490自然の恵みがないと、人は生きられない。
神道ではこう考えているからね。
自然を神と考えて自然から糧を分けてもらって生きていると
考えているのよ。
492 :
名無しさん@1周年:01/11/07 03:14
>>491 神がいればね残念ながらそんな物はいない。
493 :
虚空の悪魔:01/11/07 04:24
主の御言葉は力がある。
インマヌエル。
神はいまして我々に力を及ぼしております。
どのようにして及ぼされてきたか?
我々人間はみな罪人である。
そりゃ〜、兄弟にばか者というものは地獄に投げ込まれるだの
淫らな思いで女を見たら既に心の中でその女を犯したのであるだの
言われたら、いかなる人間でも神様から見たら罪人です、はい、すんません。
↓
つまり、人間は神様に対して
どうあがいても償いきれないほどの罪を不可避的に背負っている。
(ところで、人間ってあんたが作ったんちゃうんかい)
↓
そんな人間にも神様はお日様を昇らせて、雨を降らせて下さいます、
あぁ、ありがたやありがたや。
↓
シカァ〜モォ!
↓
なんと、恐れ多い事に神様はどんなに償っても永遠に償いきれないはずの人間の罪を
御子をお遣わしになり、あまつさえ、その御子を贖罪のイケニエとしてお捧げになって
許してくださったのです。
↓
こうして、最強にして永遠の債権者であった神は
同時に借金を肩代わりしてくださった気前のいいお方となったのです。
コレ最強。
・・・クリスチャンとノンクリスチャンの違いは
最初の前提「人間は罪人である」を受け入れるか否か。
最初の前提を受け入れたら以上の結果により、神様に頭が上がるはずがないのです。
自分の罪深さを知ってしまう繊細な方々にこれ以上の福音はありません。
あぁ、怖い怖い。私は神を畏れる・・・もとい怖れる者です。
こんな完璧なシステムを持ち、
今なお大量にそのシステムに人が取り込まれている。
こんな怖いもの他にありません。
494 :
名無しさん@1周年:01/11/07 04:30
>>487 ようするにそんなに難しく哲学的に考えずにもっとこう、なんと言うか素朴にいつも
側にいて見守っていてくれているような、そういう神様がいいと言っているのではな
いでしょうか?
神が人間を、または私個人を目にかけてもらっていると考えるのは確かに傲慢なのか
もしれないけど、論理的にそう言い切ってしまえば神にすがって生きている人にとった
らみもふたもないと言うか・・・
宗教ってすごく主観的なものだから、それが絶対的だと言って傲慢になってしまう
人は多いから、その中でできるだけ客観的な目線を持たないといけないって知り合い
の牧師さんが言ってました。
ちなみに僕はキリスト教にはとても感心があるんだけど素直に信じれないのですごく
中途半端な状態なのです。だからこのスレッドはすごくよいです。
>>493 虚空の悪魔さん
意味が分かりません。
しかし、罪を犯す人間を作ったのが神様ならば
神も同罪。それを許す、許さないは自慰的行為。
UN-FOR-GIVEN(許されざるもの)で良い。僕は。
>>494 >宗教ってすごく主観的なものだから
と言うアドバイスを素直に受け取る君は、現時点では、
客観的意見の持ち主でしょう。キリスト教には
なじまないのでは?信じる事が前提なんだから。
主観的といえる自分をも消し去り、主観も客観もなく、信じる
ことが要求される宗教でしょう。ジョンレノンのスレを
見てください。あそこにはキリスト教の悪い例がいっぱい
あります。まぁ、ゆっくり考えたらどうでしょう。
僕も、子どもの頃はボーイスカウトに言ったり、日曜学校が
好きだったけど、キリスト教信者ではない。
そこにいる人に人間的魅力を全然感じなかった。
そこに集う人達が人間的魅力溢れた人達だったら
入っていただろう。伝えるのも人。僕は現在、宗教信者には
うさんくさいものや利己主義者が多く見受けられるような気がする。
その牧師さんはおもしろいよね、そういう意味から言うと。
キリスト教よりもその牧師と話すことが有意義かも。
でも、自分をしっかりもってね。
496 :
虚空の悪魔:01/11/07 05:10
>>495たこさん
え〜っと、私もなんてお答えすればいいのかわかんないですが(笑)
たこさんみたいに許されざる者でかまいませ〜んとか、罪人で良いで〜す
・・・っていう人にはキリスト教の福音はあんまし意味ないって事です。
信じる者は救われる、っていいますけど、単に、信じない者は救えないのです。
しかも、別にそういう人は少なくとも福音を必要とせずに生きていける人なんですから
別にいいんです。
単に、信じた者達のメカニズム的にはこんな感じかな〜って事を言いたかっただけで。
497 :
名無しさん@1周年:01/11/07 06:47
>>496 虚空の悪魔さん
なるほど。しかし、虚空の悪魔とはまた、すごいHNですね。
キリスト教信者でないことは分かります。
というか・・・、すごいです。これほど、挑戦的な
HNもないでしょう!UNFORGIVENなんて、可愛いものです。
ちなみに、「〜」は雰囲気を柔らかくしますね〜。
そのHNにして、この文体。なかなか、ユニークな人ですね♪
虚空の悪魔さん
私は、言いたいことが良く解ります。つまり、キリスト教では「初めに原罪ありき」。
ですからね。人間が、この段階で萎縮してしまうんですね。
「神人合一」なる神道的大らかさがありませんね。
>>494 まっ、宗教にもいろいろ捉え方があるんだなーと、大変参考になります。
まあ、素朴な発想というのも、ある面良いかもしれませんね。
>>495 あらら、たこさんはキリスト教に傾倒している方なのかな?
そうだとすると。悪い事をカキコしてしまいました。
「初めに原罪ありき」は、良い意味にも解釈できますから、そこのところは
ご存知でしょうけど・・
>>449 変人さん
いえ、いえ。文面にそのようにとれる箇所がありましたか?あれ?
僕は、どんな、思想、宗教からも等距離だと思います。
というか、そういう立場を取りたいと常日頃、心がけ
勉強しています。無数に、正に無数にある、思想、宗教の
うちから正しいものを抽出できる判断力が自分にあると
思うほど傲慢ではありませんので。
しかし、変人さんには、今までの、スレから見て好意を持ってます。
ウフ。
501 :
(独白人改め)告白人:01/11/07 09:04
>>467 ははは。HNについ本音がでちゃいましたね。洗礼は受けてませんけど、クリスチャン
の端くれ、という感じでしょうか(^^)
>>478 あなたがマザーテレサを尊敬し、高めたいという気持ちはよく理解できますが、もし
彼女が本当のクリスチャンならば、そんなことはやめてくれ、と懇願すると思います
よ。義とされるのは神だけで、被造物そのものに義はない。たとえマザーテレサという
一人物でさえも。むしろ、被造物に働きかける神の偉大さを崇めるというのが、真の
信仰だと思います。これは、教皇であろうか、福音を述べ伝えた聖徒であろうが、同じ
ことです。「人」をよきものと見なすことから偶像崇拝が始まります。確かに、
>>479 さんのご指摘の通り、「強い弱い」はどうでもいいことかもしれないが、それをないがし
ろにすると、やがて、それがカリスマ的な偶像崇拝を生み、無用な宗教間の流血につな
がってくるのです。
>>501 インドのキリスト教団体は、テレサの行動に反対の意向を示したらしい。
おそらくは、告白人さんの見解に沿うものと思われる。
そこのところは、私も上手く読み取れないのだが、一応参考になった。
「義をもって尊しとす」。ここのところが難しい。
私の問題意識の方向でばかり書いてすみません。
客観主義、実証主義といった、これまた1つのイデオロギー、
(それはそれでかなりな普遍性を持つんですけど)
それにがんじがらめになって、私が今まで全然感じられなかった
「虚構のリアリティ」そしてその最たるものとしての「神」
を見せてくれたのが、このスレの諸先生です。
その結果どの宗教も、ああこれ分かるなぁ,いいなぁという感じです。
>>488>>491マリアさんのレスなんか見ても、不思議なくらい納得します。
あらゆる宗教の「神」に共通するものがあると同時に、
あと、それを語る人の謙虚さっていうんですかね。
>>408さん、
>>493>>496虚空の悪魔さんにも、そんな感じで納得します。
宗教に関して、まずとっかかりのアレルギーが解消したところでしょうか。
他にもいろんなとこからエッセンスを吸収したい気がします。
>>501(独白人改め)告白人さん
そうだったんですか…。なんと抽斗の多い方でしょう。
私がこの方だと思ってついて行ったのは、間違いでなかった。
「マザーってやっぱり偉いよなー」とか
「パウロって、自分じゃ弱い弱いって言ってるけど強いよなー」
とかって、自然の感情だと思うんですけど、
そういうのはダメなんですか…。
クリスチャンとしての独白人さんすなわち告白人さんは、
かなり厳格な方なのですね。
ただ神のみであとは被造物、
被造物が偉いんではなくて、そのように働きかけた神が偉いということですよね。
私なんかは、神様よりは、生身のマザーや
生身のパウロの方が偉いと思ってしまうのです。
偶像崇拝・被造物崇拝なのかも知れませんけど、
それを言うなら神様は「想像」じゃないかと思うんです。
クリスチャンになるには、まだまだほど遠いですね…。
神は栄光を飽食したい強欲な存在とすら私の目にはうつるのですが。
>502
それも裏にはいろいろあるんでしょう。売名行為だ、と見る人もいるし、
彼女があれほど熱心にやっているのに、何もやってない自分の良心が咎める
とか。とにかく、行動だけでは人の本心はわからないと思います。あるいは、
自分の本心ですらわからない(いつの間にか自己欺瞞にはまっているという
意味で)のかも。
>503
私は元々仏教から宗教の道に入りましたので、誰かについて「偉い」と
感じたり、自分も「偉くなろう」ということもまた、執着にすぎないと
いう考え方に慣れています。むしろ、自ら大愚として生きようという発想、
一休さんや良寛さんの行き方にあこがれを持っています。
良寛さんが家に来ると、そこに居るだけで場がなごんだといいますが、
それは良寛さんが偉いのではなくて、偉いを超越してしまった良寛さん
を通じて、神仏が顔を出すから、「ありがたい」と感じるのだと思います。
この良寛さんを、キリスト教に当てはめてみると、荒れ野で呼ばわる洗礼の
ヨハネでもなく、独得の演説調で神学を書きまくったパウロでもない。
どうしてもイエス本人でないと当てはまりません。ひたすら「神の支配」を
信じて、何も所有しないが故に、森羅万象のすべてを神から受け取る、魂の
富者です。
>クリスチャンとしての独白人さんすなわち告白人さんは、かなり厳格な方なのですね。
キルケゴールは大好きでよく読みます。私が洗礼を受けないのも、彼の影響
かもしれません。教会にはイエスは見つからないと確信してますから。
>504
私は逆だと思います。もし神が栄光を誇るために人間を造ったのなら、
自由意志など与えませんし、自分の存在を信じない人間の前に現れて、
信じるように仕向けるでしょう。むしろ、神の側からは人間が信じなく
てもよい、むしろ神からの干渉なしに人間が人間としてふるまうことを
望んでいるから、姿を隠しているのでしょう。
神は、人間が勝手に神を祭り上げ、その権威を利用して「人間が人間を
支配する」という構図を作り上げたことを苦々しく思っているでしょう。
しかし、自ら手を出してこれを改めることはない。その位、人間に信頼を
置いているということです。
神の愛は無償です。栄光の飽食と引き換えではありません。そう見えてし
まうのは、「神の愛は有償ではないか」と不信感を持ち、媚びを売るため
に不純な動機で栄光を捧げようとする信者達のせいです。
507 :
名無しさん@1周年:01/11/07 13:02
神はえこひいきをしない。
神を信じる人間も、信じない人間も、同等に扱う。
神に祈りをささげる人間も、祈りをささげない人間も、同等に扱う。
神を称える人間も、けなす人間も、同等に扱う。
えこひいきをしない。
そのように人間を創ったのだから。
508 :
名無しさん@1周年 :01/11/07 13:07
509 :
名無しさん@1周年:01/11/07 13:09
神はえこひいきをしない。
510 :
名無しさん@1周年:01/11/07 13:10
>>505:告白人さん
一休さんや良寛さんって何となくしか知らないんであれなんですけど…。
1つ変な質問。
大愚として生きよう、弱者に徹して生きよう、というのは、
向上心や努力を否定するんではないんですよね?
それとも、(金銭欲、名誉欲、権力欲じゃなくて)
人の役に立ちたい、いい人になりたい、賢く強くなりたいと
思う、これも執着なんですかね?
何かをやろうと思って、人間として最大限努力して試行錯誤して、
それでもやり尽くせなかったり、挫折したりして、
自分は弱い、愚かだ、神様ゆるして、と投げ出すんですよね?
最初から全部神にゆだねて祈るだけ、っていうんではないんですよね?
基本的には2さんに同意。
正直言いまして、宗教のある一面を垣間見てしまったような感じ。
まあ、相当なインパクトを受けています。
あまりにも私は、キリスト教に無知でした。
テレサも、こういったプレッシャーの中で、よくぞ偉業を成したと感慨深い。
また、イデオロギーによって見解の相違に大きな開きがあるのも驚いた。
宗教を論ずることも大事だが、先ず「人間とは何ぞや」。ここのところが第一義であろう。
このスレッドは、そういう意味において感慨深い問題を投げかけている。
まあ、2ちゃんにしてはチト重いテーマになってしまいました。
私としては、結構こういった重い感じは好きな方ですけど(w
513 :
名無しさん@1周年:01/11/07 14:09
どなたか今までの流れ
をまとめてもらえませんか。
容易にコメントしにくい。何が問題になってるの。
514 :
虚空の悪魔:01/11/07 14:11
>>497 なっはっはっはっはっ(笑・・・もとい藁?)
実は私、家族は全てクリスチャン、私も(2ちゃんねる風にいえば)リアル工房の時に
クリスチャンとなりましたが。(今思えばその場のノリでなっちゃった感じです。)
しかも、ある教会で役員を務めさせて頂いています。
しかし、キリスト教に対する疑問というか・・・しっくりこないという感覚が有り
最近ではある出来事から完全に信仰を失いました。
とにかく、私達の教会は今、憎悪と怒りと欺瞞と悪意に満ち溢れています。
>>498 そうですよね〜、原罪。
「お前達はみんな罪人なのだ!しかし安心しろ、
その罪を許す為に死んでくださったお方がいらっしゃるのだ!!」
・・・なんて言われたら萎縮っていうかぐうの音もでないってやつですよねぇ。
でもまぁ、神様なんておそれてもらってナンボってとこもありますし
>>504 神様って既に栄光を得た存在じゃないかなぁ。
っていうか、だから神様なのでは。
まぁ、強欲かどうかは知りませんが自ら
「おらぁ嫉妬深い奴だぜ?」とおっしゃられています。
どっちにしろ七つの大罪の一つですが(笑)
>>508 というか、「被造物である。」という時点で我々は一つの意味を与えられている、
とも考えられると思います。
うーむ。クリスチャン恐るべし。
516 :
家の前の大木より:01/11/07 14:32
人類終末かなー。
テロ事件、不況、汚職、凶悪事件、この病んだ人間が起こす行為は
人類誕生から何一つ変わってないじゃないか。
世の中暗くなると,新興宗教が雑草のようにでてくるんだよなあ。
まずテレビが協力する。超能力の内容を増やすビーとたけし。
今日のテレビでは宜保愛子が出るテレビもあるらしーよ。
ここで思考が傾くんだよな。
>>513さん
これはちょっと容易にまとめられるもんではありません…。
まあ一度、読んでみてください。とってもおもしろいです。
僕は、インターネットの普及に伴い、思想界、宗教界に大きな、影響を
与えるのではないか?と、思っていました。内情も知れるしね。
宗教被害者の告白ものっかるし。この、宗教板でも、誹謗中傷の方が
圧倒的に多いですね。仏教諸派は憎しみあい、否定しあい、キリスト教諸派も
同じ。ましてや、根本を意にするもの同士は、理解しあうことさえ困難。
宗教というのは大概に於いて、我を捨てよと言う教えがあるが、逆に
我を強化してしまっているかんじ。集団の我とでも言おうか。
さらに、神オタ、キリオタなど、アニメおたくと同列に扱うような
表現も新しく出来はじめた。これからの状況の推移は非常に興味深い。
また、この半年をみても、さらに宗教をとりまく環境が変わってきている。
ADSL、CABLEの導入でネット人口が増えていく。ここ2年で、
ヘビーユーザーは数倍になるだろう。そんな人達の目にも、YAHOOや2CHでの
宗教論争はとまることになる。こんな、醜い争いを繰り返している宗教諸派
は今現在、無宗教の人達にさらに嫌悪感をもようさせるだろう。
人心が乱れれば宗教自体も乱れる。宗教は人を導かない。人が宗教を導く。
オウムも創価学会も、ライフスペースも、法の華も国に認められた
れっきとした宗教団体。あんなのは宗教じゃない!というのは通じない。
また、あんなものを野放しにしている、宗教界にも責任があるのに
一連のカルト事件についてどのような態度を取ったかと言えば
事が終わってから、否定し、あざ笑い、やはり我々は正しかったのだ、
という、自教団の喧伝材料にしている節もある。
繰り返して意見します。宗教は人を導かない。人が宗教を導くのです。
>>518 世の中の流れとしては、すでにそういうふうになっているだろう。
これからは「個人」にとっての宗教。スタンスをどういうふうに構築するか?
ここにあると思う。情報が入手しやすくなれば、おのずと宗教教団というスタイルも変ってくるだろう。
521 :
名無しさん@1周年:01/11/07 15:11
いやあ、そんなことそれこそ20年以上前の「未来学」ブームのときから
言われて、言われ尽くしてますがな。のほほーん。
522 :
名無しさん@1周年:01/11/07 15:30
>>521 言われつくしてない。言われてても、ごく一部でしょ。
未来学なんてしらなーい。マイナーでしょ?
ま、知らない人はなんにも知りませんから。
>511
誤解されないかな、と思いつつ、こんな喩えで説明しますね。
人間の細胞って最初は共通で、「お前は骨になれ、お前は脳みそになれ」と指令
されて初めて、骨や脳みそになるのだそうです。その時に「自分は骨なんか嫌だ、
脳みそになりたい」と駄々をこねる細胞はいない。これを人間に当てはめると、
それぞれ職業に対する適性があって、生まれつき肉体労働に向く人もあれば、一日
中デスクにかじりつくのが平気な人もある。そのそれぞれの立場で「よい仕事人」
を目指せば、お互いに社会に役立つことができます。その人がどの仕事をするかは
神様が適性をお決めになったのだから、上下を決めるべきではないし、他人の仕事
を蔑むべきでもない。要は、ひとりひとりが神と向かい合って、隣人を通じて神に
奉仕ができればいい。
ところが、世の中を見ると、必ずしもそうなってないです。金儲けになって、カッコ
いい仕事を皆がやりたがる。だから、生存競争が起きて、エリートと落ちこぼれに別れ
てしまう。昔は農業主体だったから、今みたいに小さい頃からコンプレックスに悩む
必要なかった。「立派な人」や「尊敬すべき人」だって、その人が生きている世界で
無理なく手が届くところを目指せばよいのに、なまじっか世界中の情報がはいってくる
ものだから、つい「世界的に立派」でないと無価値に思えたりする。いわゆるスター
が持てはやされる世界は、普通に生きている人間を(無用に)不幸にすると私は思います。
皆が皆、良寛さんのように鞠つきばかりしたら、世界が潰れてしまいますけど、彼の
「あるがままの自分をそのまま受け取り肯定する」というマイペースな生き方は、
見習う点が多々あると思っているのです。
くだらん事でもうしわけないけど今やたらはやってる陰陽師って西洋の悪霊みたい
なんをお払いしたりできるのかな?そんでエクソシストっちゅう人達は日本の霊を
払えるのか?
最近たけしの番組とかで陰陽師ってよく特集されてるけどなんかめちゃ奴ら偉そう
やしすっげ−うさんくさい。あほらし。
>>524 すごくわかります。
今の私たちには必要以上の欲望がうずまいているように思います。
でもこういう事を分かっていても自分だけではどうしようもないというか、無くせない
ですよね。だから宗教というものの中に答えを見いだそうとするんですね。
だからといって信仰を持ったからと言ってそう簡単に解決はできないだすが。
>>501 告白人さん
>彼女が本当のクリスチャンならば、そんなことはやめてくれ、と懇願すると思います
> よ。義とされるのは神だけで、被造物そのものに義はない。
なるほど、あなたはクリスチャンでしたか。たしかに クリスチャンとして生きるということは
そういうことなのかもしれませんね。
しかし、なんとなく2さんの『私なんかは、神様よりは、生身のマザーや
生身のパウロの方が偉いと思ってしまうのです。』という視点に共感を覚えます。
なぜなら、目に見える“神”を通して本来の神が姿を見せるような気がするからです。
全ての被造物は神の片鱗であり、神と離れた別のものではないと思っていますので。
全ての万物には神性があり、人間が特殊なのはその神性に気づくことができる存在だという
ことです。マザーは教会を飛び出して現に苦しんでいる人々のいる街にでましたが
これは、教会のモラルよりも神の指示を優先したからにほかならない。
これはリアルな福音であると思っています。
>教会にはイエスは見つからないと確信してますから。
たしかにそうかもしれませんね。教会はクリスチャンにとって帰るべき家かも
しれませんが、家の外にこそ見つけだすべき宝はあるように私も思います。
教条主義の宗教界を皮肉ってクリシュナムルティは
「コカ・コーラとくり返し唱えていてもマントラになる」と言ったそうですが
なるほど、一理ありと思いました。言霊を否定しているわけではなく
言葉に宿る力・意味を理解できないまま真言を唱えても無意味だということでしょう。
私は数有る宗教の中でも禅の思想に共感する部分が多いのですが
それも不立文字、言葉を超えたものをわざわざ言葉で説明せず黙して座せよという
ところが風流で好きなのかもしれません。
>>524 人間は、生まれついて平等ではありませんね。容姿も違いますし、経済的にも違います。
そういった原点というものは、貴方と共通しています。がしかし・・・
そういった環境において、人間の感情における競争原理はごく自然に働くとおもいます。
理想をもって生きる者、あるいは挫折する者、いろいろな人生経験を経ながら成長するんだと思います。
当然そこには、人間同士の「格差」が生じます。これをどう受け止めるか?
ここに人間の真価が問われるのではないでしょうか・
良寛のような、いわゆる「自由人」的人間は、殆どの場合「無頓着」です。
これは「無分別智」を得る、一つの境地と考えます。
無分別智は、分別がありて、始めて得る境地でありますから、分別を肯定しています。
全く、分別を否定しないところが、自由人たる所以なのかと思います。
つまり、分別が理解できないと、無分別というのは何の意味をもたない・・ということです。
530 :
名無しさん@1周年:01/11/07 17:32
格差=神様がお決めになった適正(ワラ
>>1 あなたが、もし、あらゆる虚構から抜け出ていたら、こんなスレ
たてないよ。同類だよ。自分を振り返って見ろよ。
>>528 >マントラ
まあ、これは言霊の要素より人間をトランス状態にする効力があると思いますね。
>禅の思想
世界観を、自ら構築するところに魅力があるのかも知れません。
例えば、「宇宙のゆらぎ」が最近序序に解明されてきました。
我々の世界が物質世界だとすると、反物質世界も存在するのではないか?というのも現実的に考えられる。
また、宇宙のビッグバーンも一回きりでなく、発生、消滅を繰り返すのではないか。と言われている。
宇宙の存在もまさに諸行無常。人智を遥か超えた世界であります。このダイナミズムを表わす言葉として
「神」「仏」というイメージで捉えることもできますが、これは人それぞれの世界観の問題。
人間の描き出す「神仏」の概念は、大きな幅があるということなのでしょう。
>>524:告白人さん
スター崇拝は、誇大妄想や無用の劣等感をまねく、
もっと足元をみましょう、ということでしょうか。
はー。たしかにそうです。私も肝に銘じないと。
>>511のようなことをお聞きしたのはですね、
大愚として、弱者としてっていうときに、
じゃ別に努力とかしなくていいのかな、と思ったのです。
良寛さんの「大愚」っていうのを聞いて、
ふと、宮沢賢治の「ミンナカラデクノボウトヨバレ…」
を思い出したんです。
宮沢賢治も、貧しい岩手の農村の改善に役立ちたいと、
先生になったり農民運動に奔走したりしたんだけど、
結局実を結ばず挫折して、その病床で、
せめてデクノボウとして生きたいと切に願ったんですよね。
だから最初から、俺デクノボウでいいや、ってわけじゃないですよね。
仮に「生涯一デクノボウ」を目指してたとしても、
「みんなのほんとうのさいわい」っていう理想と、
それへ向けての実践があったわけで。
そういう意味で、良寛さんがどうして「大愚」になったのか、
それとも最初から超越しきってたのか、ちょっと気になります。
「弱さ」もそうなんですけど、
最初から、弱くて愚かですみません、というんじゃなく、
人間としてやれるだけやった上で、その限界としての
弱さなり愚かさで、神の前に立つってことじゃないかなと思うんです。
>>528 22さんも、本当に抽斗の多い方ですね。
宗教こそが真の禁断の果実、もはや人間はその甘さ故に捨てられない
そして自ら進んで己が中にある神聖さを殻に閉じ込めた
その中、人は堕落する快楽を覚え、尚望み身を投じ悦楽に溺れた
其れらを失う者は時に気づき、捨て去る者は稀としてそれを得る
最小なる最大を知り、在ることを知る者に無は恐怖ではなくなるのだ
それがまやかしでしかなく、死が無いことを知るからである。
536 :
名無しさん@1周年:01/11/08 07:00
まあ、仏教・キリスト教世界のむつかしい世界で疲れたときは、インドに行ってみましょうか。
( バガヴァッド・ギーター第9章27〜29 )
クリシュナは告げた。
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。
私は、万物にたいして平等である。私には憎むものも好きなものもない。
しかし、親愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。」
>>533宮沢賢治
文人というのは、その分野に才能を発揮するのですが、一般的に世渡りは下手ですね。
最後に手帳に書いた、「アメニモマケズ・・・」。あれは敗者の無念を垣間見てしまう。
これは、太宰治と共通するところがあります。つまり・・・人間の「弱さ」がにじみでています。
その「弱さ」に読者が共鳴すると思いますね。
太宰などは、あの「弱さ」があった故あれだけの文章が書けたのかと思いますね。
読者は想像しますよ、あのデリケートな精神状態で、手を震わせながら机の前に座る姿を。
文学が、読者に感動を与えるのは、そこに敗者の「叫び」がある。そこに魅力があると思う。
1000円なにがしかで本を買い、それ以上の優越感を味わい、それをもって良書という。
まあ、人間というものは勝手なものだと思いますね。
>>535 宗教観が、エッセンスとして纏められ、なかなか意を得ている。共鳴する部分あり。
人は悟りを悟ることができます。
鳥は自覚なしにあたりまえに飛んでいるのではなく
時にあたりまえに木に止まり、あたりまえに巣に帰り
そしてあたりまえに飛ぶのです、人もまた同じです
全てを捨て純粋に自らの人間と世界を見つめれば
あたりまえに悟り、あたりまえに実践するのです
難しいと思うから難しくなり、無理と思うことで自ら逃げてしまう
実は極めて単純で簡単で何も特別なことではないのです
考えると複雑で大変に難解なのものも、ありのまま受け入れれば
極めて単純化されたイメージとして入ってきます
キッカケが掴みづらいだけで、簡単なことです。
但し、有頂天になると僅かにズレた認識が後に大きな過ちを
引き起こしかねないので、そこは注意が必要です
失敗しても地獄に落ちたりはしませんから
あまり気を落とさず腹を立てず何度もトライすると良いでしょう。
539 :
名無しさん@1周年:01/11/08 08:07
う〜ん、古神道的だね。
>533
うろ覚えですが、良寛さんは越後の名家の生まれで、父親の代に事業に
失敗したかで落ちぶれてしまった。つまり、挫折を経験しているのです
ね。父親が加茂川?で入水自殺した菩提を弔うために出家したんでした
よね。
良寛さんは、その後、お寺や神社の境内を借りて庵住まいをしますが、
庵にはいった泥棒が何も盗る物がないのにあきれて出ようとするのを、
密かに目覚めて様子をうかがっていた良寛さんが気の毒に思って、わざ
と寝返りをうち、夜具を「盗らせ」た、という逸話が残るくらいに貧乏
に徹した生活を送りました。その直後に破れ窓から月をあおいで、「泥棒
が盗り残したり窓の月」なんて一句を読んだり(^^)。
こう言っちゃなんですが、今で言うところのホームレスみたいなもので
しょう。気がついたらホームレスになっていた。それで、徹底的にホーム
レス生活を楽しんだ方です。シモーユ・ヴェイユという女流哲学者は、自分
なりにキリスト教を突き詰めて、最後は無産階級に身を落として若死にした人
ですが、そういう気負いがない、自然さが良寛さんの特徴だと思います。
541か、アクセスした人は何人かな
分かりませんか
>>537変人さん
確かに、どちらもとても繊細で傷つきやすい天才ですよね。
ん?優越感とか感じちゃいます?
やっぱし、変人さんは強いんですよ。
太宰氏なんかは、ニーチェ氏同様、
自分の弱さ愚かさを認めることはすなわち、
存在の全否定だったと思うんですよ。
デクノボーなんて呼ばれるくらいなら死んだほうがまし、
っていう人でしょう。
それに対し宮沢氏のほうは、
弱さ愚かさを全面的に受け容れていたと思うんです。
それこそ「丸腰で合掌」みたいな。
やっぱり信仰があり愛があったからじゃないでしょうか。
>>541告白人さん
はー、そうだったんですか。
きっと良寛さんの最愛のお父さんだったんでしょうね。
大愚も、そういう諸々のことの結果、
たどり着いた境地ということですね。
”かくれんぼ中に昼寝した字のきれいな人”
くらいしか知らなくて(笑)。
一生懸命ぶちあたって転んで、っていうのもいいけど、
気負いがなくて自然体というのもいいですね。
それでいて世捨て人的でない温かいものを感じて、癒されます。
なっとく。
>>543 >ん?優越感とか感じちゃいます?
あははは。これは私の主観ですから、万人に通ずるものでありませんね。失礼
もう少し、デリケートなところがありましたね。
太宰は、青森の名家生まれで、幼少の頃から劣等感をもっていましたね。
あの劣等感こそ、太宰文学の原点かと思いますね。
「人間失格」は、裸のままの「人間」を見せ付けられました。
読者は、顔を赤らめながら、恥じらいの気持ちで読んだのかと思いますね。
まあ、これは私の想像ですけど・・オット、今の女性は恥らはないでしょうか?
こんな事をカキコしてしまうと、セクハラ云々と、煽りがきそうですから止めときますが・・
宮沢の分析は、たしかに仰るとうりですね。太宰とは違います。
純朴な人柄のようでした。まあ、一般的には宮沢のように生きたいと思うかもしれませんね。
現実社会との折り合いという面もあるでしょうが・・思想的には賛同します。
>変人さん
>1000円なにがしかで本を買い、それ以上の優越感を味わい、それを
>もって良書という。
それは読み方次第でしょう。賢治自身は真面目に「イーハトーヴ」を故郷に
建設するつもりだったし、現代でも賢治に生き方の道標を見出す人はいると
思います。誰だったか、哲学者がこんなことを言っていた。世の中には2種類
の書物がある、ひとつは「エピソード性のある本」で、いわば読者がそれを
追体験するもの、読者は読後に「ああ、面白かった」と言えればよいので、
「自分がそれを読んだこと」に対する責任をとらなくてよい。他方は、読者に
問い掛ける本で、読者は著者と丁々発止の闘いをくりひろげる。一旦、自分の
心に突き刺さった「トゲ」は、いくら本を閉じて忘れようとしても、日に日に
心に食い込んでくる。いつの間にか、「自分がそれを読んだこと」に対する
責任を負うはめになる、というような本。
セクハラモードで表現すると、前者のは一夜限りの売春婦、後者のは生涯愛し
続けるべき伴侶です。良書の名にふさわしいのは後者だけです。良書を良書に
ふさわしく読める読者は暁天の星のごとし。
ついでに「いらぬこと」を書いておきます。
聖書ほどの良書は稀だと思います。しかし、聖書ほど「売春婦扱い」されて
いる悲惨な良書も他には例を見ない。
>>545 良書論
深い分析恐れ入りました。
今考えるに、確かにこの手法で二分できますね。
そういえば、私の頭にも数本の「トゲ」が刺さっております。
「生涯愛し続けるべき伴侶」として大切にしたいと思っております。
>547
私も読んだものの受け売りにすぎません。いらぬことを書きました。 m(_ _;)m
イエスもソクラテスも、「自分は正義である」と信じる盲目人の怒りを買って殺され
ました。同様の理屈で、真実を語る書というのは、「これだけは触れて欲しくない」
と心の奥底に隠し持った傷を見つけ出してきて攻め立てるので、読者の怒りを買うも
のだと思います。誰も、金を払ってまでして、本を読んだあげくに怒りたくないので、
良書はなかなか売れないのでしょうね(^^)。「自虐的」要素がないと良書は読めない
と思います。それに耐えられるくらい精神的にタフでないと。
このスレに関わってくるのですが、宗教もまた、そういう「自虐的」な面があると
思うのです。醜くて弱い自分という存在を、白日の元にさらけ出すという面が。
>548
「自虐的」要素論
聖書は、それなりの「自虐的」面をもってますね。
女性のクリスチャンで、私に手紙をくれたんですね。内容は・・・
「愛は寛容であり、愛は情け深い、愛は・・」。聖書。コリント人への手紙抜粋。
これは、相手がクリスチャンなだけに相当なインパクトがありますね。
日本流に言うならば、言霊(ことだま)というのでしょうか?
聖書からの抜粋は、私がキリスト教に縁が無くとも「真意」は伝わってきます。
聖書は、それなりの「重み」は感じますね。
それを、どういうふうに表現していいのか、言葉が見つからなかったのですが、
貴方のレスが、その答えだと思いますね。
>それに耐えられるくらい精神的にタフでないと。
これは良く解ります。と言っても・・・クリスチャンではないので
その全てがわかる訳ではないですが、言いたいことは伝わってきます。
550 :
名無しさん@1周年:01/11/08 16:40
神様は死んだ
悪魔は去った
太古より巣食いし
狂える地虫の嬌声も
今は、はるか
郷愁の彼方へ消え去り
盛衰の於母影を
ただ君の切々たる胸中に
残すのみ
神も悪魔も降り立たぬ荒野に我々はいる
>549
ああ、それは「愛の賛歌」(Iコリント13:1-13)ですね。クリスチャン
が好んで引用する常套句のひとつです。
しかし、あれは「誰々の愛」と断らずに「愛とは」と一般化してお茶を
濁しているところがミソなんです。絶対に自分に責任がかからぬところ
で「愛」を口ずさむ。「愛とは忍耐強い」とは「神が人間に対してこう
ある(ないしはあって欲しい)」という話で、「自分は忍耐強くないから
愛とはいえないのだ」という反省としては受け取らない。そういう部分が、
いつの間にか自分をヒロインにだぶらせて、ひとり涙するメロドラマ的な
自己陶酔、「売春婦的な読書」につながるものがあります。正しい読み方
をすれば、聖書ほど「口に苦い」読み物はないと思います。
これが時代が下って「牧会書簡」と呼ばれる、パウロの弟子達の手紙に
なると、もっとヒロイン意識が強烈になります。責める対象が「自分」
から「別の信者」にシフトする。たとえば「既に道を踏み外し、サタン
について行ったやもめもいるからです」(Iテモテ5:15)という具合に。
2chなどで声だかにクリスチャンの優位性を強調する人というのは、
たいてい「牧会書簡」を引用するからすぐに見抜けます。そういう人は
クリスチャンとしてはすでに死んじまった人だと私は思います。
>>528 22さん
なみゅもうほれんげきょうでも、あかさたなでも民謡
でも、ロックでもいい。レゲエやトランス系の単純な
リズムで繰り返す音楽に載せて唄ったり唱えたりするとより効果的。
精神集中されアルファ波がでます。
僕は音楽が専門ですが、良くこの経験をしますし、
心理学でも実証済みです。
ましてやそこに念を込めれば強力な自我さえも構築できますが
この自我には根拠がないので、否定されるとすぐに崩れます。
ま、麻薬やお酒で絶好調の状態と変わらないですね。酔いから冷めれば
下らない日常なのですが、宗教が絡むと、本当に私は変わった
思いこんでしまう。
だから、否定する人間に対しては、本当は抗し得ないので
ヒステリックになってしまうのでしょう。マントラや祝詞、
読経のこういう使われ方はもはや祈りではなく、呪文です。
と、私は思います。特に、きつい労働のあった地方や、戦争で傷ついた
地域、祭りが盛んな地域ではラリる音楽やリズムが多いです。
宗教と音楽は密接に結びついていますね。読経などはトランス系に近い。
賛美歌はハーモニー重視で、官能的。リラックス効果と抱擁感が強い。
ま、嘘かホントか分かりませんが、音楽の起源が、祈りやまじないだった
と言う学者もいます。僕は人類が始まるずっと以前から音楽はあったと
確信しています。宗教よりも、無に近く、神がいるとすれば、音楽の方が
これまた、宗教よりも近いでしょう。
もうめちゃくちゃ、亀レスですが。
>>511 告白人さん
宗教は教祖や、神以外にスターを認めませんよね。
特にカルトの教祖は自分以外のスターを嫉妬します。
僕は、スターは崇拝せずとも尊敬し、見習うべき所は見習い、
人間くさい欠点は愛し、何よりもその方面の活躍を楽しみにしてます。
欧米でのスターの位置は、
「私には地位も名誉もあるから、社会的責任を果たします」
というもので、芸能人も、文化人もスポーツマンも、一流会社のトップも
政治的発言や社会事業を、それこそ、表だってやってますし、市民も
それを求めてます。
が、日本人は、素直に人を認めにくいたちですし、何かすると、
売名行為だ!と揶揄します。先進国で日本人ほど、互いを尊敬しない
国民もいないでしょう。野球の見方一つでも、全然違いますし。
>551
>クリスチャンが好んで引用する常套句です。
ああ、そうでしたか。私は一応「殺し文句」として受け取ってしまいました。
まあ若いせいもありましたからね。
>「既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです」
こういう展開になりますと、サタンについて行った方を、当然批判する側になりますからね
自分の位置関係が、自然に明確になっていくのでしょうね。
ということは、聖書を読んでいくうちに、キリスト教を自然に受け入れていく訳ですね。
一種のナルシズムを思い浮かべてしまいました。
そういえば、クリスチャンはドラマティックな雰囲気がありますよ。
その世界に陶酔しているような感じが・・言われてみれば納得ですね。
トータル的に、それもキリスト教の魅力かもしれませんね。
まあ、貴方は「口に苦い」と言っておりますから、この範疇には入らないのは解っております。
>>514 虚空の悪魔さん
おもしろい。神を感情論で捉えると、理解しやすいかも。でも、これって
結局、人間以上のものじゃ、ないのでは・・・。
>>516 家の前の大木よりさん
ビートたけしは日本を駄目にしたと思う。大きな原因だ。
文化を破壊し、退廃的な雰囲気を圧倒的なメディア利用で
作り上げてしまった・・・・。僕が、人間として、怒っている人間の一人。
憎んでいるといっても言い。政治的な解決としては、社会的に抹殺するか
本当に消すか・・・・・。あと、小室かな。とにかく、文化の破壊は
森で言えば土壌消失と同じ。ホントに、文化は尊いもの。文化がなければ
文明だけになり、人間はどんどん壊れていく。上記の二人は文化を
めちゃくちゃにした。
変人さん 相変わらず、多方面の知識が爆発してますね(笑)
それが、いま、宗教考察に集約されてると・・・・。どこに、最終的に
集約していくかが、人生ですかねぇ。僕の場合、女性至上主義
という、天涯孤独な自己戒律を作ってしまいましたよ。そこに集約されて
いくのかなぁ?
宮沢賢治はガキの頃たくさん読みました。おもしろかった。しかし、
法華経はさっぱりわからんぞ。解釈は出来るが。芸術としては
無責任な未完成品にみえる。解釈したがりなタイプには最高の
作品かも。若くして死んだ天才画家やミュージシャンが語り継がれるように
可能性や未知と言う要素を盛り込みつつ、それでいて完結している、
こういう状態はなかなか作り出せない。法華経も背負っている背景が
なければただのくずなんだが・・・。
全然、関係ないが、何かと話題のマザーテレサですが、友達が
結婚式を挙げてもらったそうだ。相手も日本人で
死を待つ人の家?でボランティアで知り合ったそうだ。そいつは
日本中を講演してる。下手なオカリナが得意技。若い頃不良。
ほほえましい。
このスレの、レベルと情報量は異常だ・・・・。
はぁはぁ。マイペースで行こう。せっかく良寛和尚なるものを
教えてもらったのだし。
556 :
名無しさん@1周年:01/11/08 19:14
自分語りになってることを気付け<コテハン
>553(たこさん)
私が面白いと思うのは、ブッダもマホメットも自分を神格化していない
という点です。たとえばブッダで言えば、自分は過去の聖人が見つけた
古い道を再発見しただけだ、自分は人類を救う道をガイドする道標にすぎ
ないんだ、というようなことを言っています。マホメットがイエスをぼろ
かすに言っているのは、キリスト教徒がイエスを神として崇拝するからです。
ではイエス自身はどうか、というと、ここから「告白」になるんですが、恐らく
他の教祖達と同じだろうと思うのです。不幸なことにそういう宣言をする間もなく
十字架にかかってしまったので、弟子達の手で二目と見られないくらいに神格化
されてしまいましたが。
本物の教祖は神を唯一のスターと宣言し、自分を神に並べるような愚かな
ことはしません。神と人間の間に立ちはだかる者は、神と人間の両方から
搾取する「呪われた存在」にすぎない。問題は、人間があまりに愚かなため、
目に見える者しか崇拝できない(おお、信仰薄き者達よ)。それで、教皇が
必要になったり、牧師が職業化したりする。悪い例では、ビンラディンの
ように神の権威を利用して人間を手足のように動かす。
英語のアイドルとは、偶像が語源だそうですが、宗教上のアイドルは百害
あって一利なしです。モーゼが今の時代に現れたら、憤怒のあまり石版を
投げつけるでしょうね。
>>555(たこさん)
良寛さんのついでに白隠さんもどうぞ(^^)。
白隠さんは若いころに何度法華経を読んでみても、比喩ばかりでどこ
がありがたいのかわからなかったそうです。ところが、朝晩に法華経を
読呪すること十数年、40才を超えたある夜(ちょうど今ごろの季節らしい)
、外から聞こえてくる虫の声を聞いて忽然と悟りを開き、法華経の「心」が
わかって号泣したということです。たこさん、気長にいきましょうや(^^)。
そういう私も、少し読んだけどつまらなくて「積読」状態です。
>>553(補足)
欧米人は、日本人よりも「世間体」を気にする人が多いと思いますよ。この前、
どこかのアンケートで、人生の目的は何か、ということの国際比較をしてました
ね。日本人は大多数が「楽しく暮らすこと」だったのに対し、それ以外の国では
「社会的に尊敬を受ける」というのがトップに上がっていたのが印象的でした。
こういう背景から考えると、スターの社会的ふるまいも額面通り受け取れない気が
します。国連の費用負担を一番クソ真面目に払っているのは、赤字国債垂れ流しの
日本ですが、国の借金を片付けたアメリカは巨額の滞納国です。評価されない分野
には一切手を下さない。欧米流のやり方の裏には「偽善」が必ず横たわっている。
そして、その「偽善」はキリスト教の悪い面が大いに影響していると思う。
>たこさん
>>552 音楽は不思議な芸術ですね。
形無く、響きと響きが解合う空間の振動。
私はクラシックもパンクロックもノイズもフォークも
脈絡なく楽しんでますが、いい音楽を聞いてるときの高揚感は
言葉では表現しづらいですね。
芸術は高踏的なものという一般認識がありますが
これまた古代から受け継がれてきた文化です。
ビートたけしを批判されてますが、実はわたしは
それなりに彼に好感をもっています。文化は崇高なものだけに価値があるとは
思ってませんし、ポルノ小説にも一抹の真実があったりします。
ダダイズムという芸術運動がかつてありました。
これは「反芸術」をかかげ、破壊美を賛美する退廃的なものでした。
しかし実のところ、そこで生まれたものは新しい美の発見、見捨てられてた
認識の復権であり、いきづまった表現の可能性を拡大するものでした。
芸術や文化においては善悪よりも質が重視されると思います。
まあ、 ビートたけしの仕事が質が高いかどうかは、それほど熱心なファンではないので
私は判断しないでおきます(笑)
文化については、放任主義が一番のようにも思います。
よいものが残り、くだらないものは消えてゆくのみのような気がします。
バロックというのは「ゴテゴテ飾り過ぎた醜悪さ」をかつて意味してましたが
現代ではそれも美のひとつの様式ですしね。
ちょっと話題がそれてるかもしれないのでsage
557 告白人さん
僕も、この意見に賛成です。つまり、スターは求められているということも
言えますね。いくら、戒めても、自分より強い存在にすがりたい、
許されたい、愛されたいと思っている内は、教祖や神を必要以上に
崇め、それこそ、神格化し、崇拝するでしょう。ある意味、宗教は
神のものでもなく、創始者のものでもなく、信者のものですからね。
宗教団体経営というのは難しいですね。理想は言うはやすし、西川きよし
ということか・・・。
>>560 22さん
ビートたけしの仕事の質と言うより方向性です。自分は常に第三者の
立場を獲得し、一生懸命な人を馬鹿にし、あざ笑う。
スーパージョッキーのがんばるまんは正にその名の通り。
軍団にチャレンジさせ、その無様な姿をあざ笑う。風雲たけし城然り、
賞金獲得の為、必至になって難関に挑む、人達の失敗をあざ笑う。
元気が出るテレビでは、告白する少年に着いていき、失敗を笑う。
ここが変だよ、日本人では、必至の論争を笑う。平成教育委員会、
誰でもピカソ、全て、司会者は誰かにやらせ、自分は
たいしたこともないのに、おいしいとこどり。平成教育委員会でも
最初に答えを知っているから、偉そうに出来る。しかし、みんなは
たけしが物知りだと思ってしまう。一所懸命を馬鹿にする風潮、
シラケ、メディアは若年層に非常な影響を与える。
彼の演技力をみろ!何の創造性もない。かれこそ、自分を権威あるものに
見せる才能があると思う。世の中、プチたけしがうんざりするほど出来た。
臆病で、自己件意欲が高く、自分をさらせない。TVは彼の影響を非常に受け
番組作り自体が変わってしまった。芸ではなく、人脈でつながる芸能界。
海外の安いファイルを買って、無用のタレントを何人も呼んでコメントだけで
何百万のギャラを渡すようなシステム。たけしはスタジオにさえいないときがある。
彼だけ別撮り。そのお金で、もっといい番組を
作って欲しい。時間をかけ、芸を磨き、高い文化を創って欲しい。
しかも、今の芸能界は後人育成に何の寄与もしていないし。
僕はこれをカルトたけし教と呼ぶ。スレからずれちゃった。
現代メディアの底流にあるもの
若年層において、ニヒリズムが蔓延しているのではないか?
一昔前だと、アイデンティティの無い人間を総称して「ニヒリスト」という意味に使われたが
今や、ニヒリズムは市民権を得ている。これこそがアイデンティティと言ってもいいくらいに。
これに対応しているのが、いわゆる「飛んだり跳ねたり」のバラエティ番組。
いち早く、この時代に上手く適応したのがタケシかもしれない。
それともタケシが、こういった若年層を作ってしまったのかな?
そういう事だったら、タケシが一番悪い事になるな。
>>562 変人さん
たけしが一番悪いとは言えないけど、彼が象徴かも知れない。
有名なのが、8時だよ、全員集合!が
裏番組、俺たちひょうきん族のおかげで打ち切りになった
出来事。あれ以来、笑いは、緻密で計算されたものではなく
内輪ネタの突発的なハプニングになった。
ダウンタウン松本は数少ない、計算された笑いを作れる人だと
思う。最近のバラエティは素人が芸や人生を見せて
タレントがそれを見てると言う仕組みになった。
しかし、変人さんの意見は、有難い。こちらが発言したことに
考察して答えてくれるので、発展する。なるほど、そうかと。
いや、なるほど。こうしてみると、神や、宗教の方ばかり
考えるのではなく、こうした人間の心理の変遷を辿ると、
時代、時代の価値観、ひいては、神や宗教や哲学が
見えてくるのかも。どうも、最近の日本の宗教は、生活信仰という
べきものを一足飛びに越えて、極端に真理、真理ばかりを
求めるが、ニヒリズムの蔓延を考えると納得がいく。
空っぽか絶対かの二元論、二極論になるのも無理はない。横の
広がりが少ないのだ。日本は多様性に富んでると見せかけて
あまりにも画一的なのではないか?それが国内の類似仏教でさえ
対立している構造を生んでいるのかな?見方以外は敵!と。
オウムの事件が起こったとき、小室哲哉が週刊誌で
僕はオウム的じゃない!と、素早く反応していたのには笑ったが。
日本の音楽業界もメガヒットか、全く売れないかの状態。
実はCDの売り上げはどんどん落ちている。
いや、そうだよ、変人さん、気づかなかった。ニヒリストは
市民権を得ているどころか・・・・。普通はそういう状態って
感じだよ。外国人の友達は熱いもの。議論でも、音楽でも。
でも、日本人は自分が否定されそうになると、ムキになるか
逃げるか。それが勝ち負けばかりを意識する日本野球と
大リーグの野球自体を楽しむという姿勢にも現れているのかも。
俗に巨人教ともいうし・・・。ううーむ、興味深い。
ニヒリズム
まあ、これは私にも少々理解できる部分はあります。
すなわち「挫折」を極端に嫌うのではないのかな?
恋愛にしても然り。失恋をのリスクを極端に避ける。
夢を持とうとしないのは、それに付随する「挫折」を嫌うんだと思うね。
それなら最初から「希望」をもたない方が良い。という処世術を身に付けちゃうんかもしれない。
いわば、傷つきたかーないんだね。まあボンボンなんかもしれないね。
つーことは、どんどん女性化してくるのかな?男性諸君は・・・
田島O子(国会議員)さんみたいな方が、女性のシンボル的存在として台頭してくるのかな?
っお、お。セクハラ問題が浮上してきそうなんで・・このくらいで・・。
おーやばい。
こんばんは。
>>544変人さん
あ、いや、いいんですよ。
そんなにセクハラとか気を遣っていただかなくても。
「宮沢賢治→女子供のメルヘン→キモイ」っていうんでも、
「宗教に興味あって2chやってる女→最悪」とかいうんでも、
べつに大丈夫です。2chですから。
もっとも、私だってネカマかも知れないし…。
(もう本当に何が起こるか分かりません、このスレは(笑)。)
余談ですが、田嶋議員はルサンチマン型フェミニストの
部類ですね。このタイプはかなり古いです。
>>551告白人さん
私が24時間テレビみたいに、愛は愛はと連発したので、
告白人さんがアレルギー起こしてるような…。
本当はもっと身近な、ふっとわきあがるものだと思うんです。
でも、ほかに適当な言いあらわし方がないもので…。
そういう意味では「神」という言葉と同じかもしれません。
どっちも普段は恥ずかしくて言えません。
>>552たこさん
>>560 22さん
私はバロック好きなんですが、バッハの「マタイ受難曲」をきっかけに
最近キリスト教にはまってしまったのです。
その終曲の歌詞もまた良くて。
「我ら涙流しつつひざまづき、御墓なる汝の上に願いまつる。
憩いたまえ安らかに。苦しみ抜きし御体を憩わせたまえ。
安らかに、こころよく眠りたまえ。
御身を納めし墓と墓石こそ、わが悩める良心の、うれしき憩いの枕。
また魂の安けき逃れ場にてあれば。
憩いたまえ安らかに、安らかに憩いたまえ。」
というような訳なんですけどね、
もう私もそのままそういう心境になってしまいます。
イエスさんもすごいけど、
バッハがなければイエスさんには会えなかったでしょうね。
>>557告白人さん
すごく卑近なたとえになってしまうんですけど…。
神様は1つであるとして、イエス、仏陀、マホメットはみんな、
神様の「代理店」みたいなもんですよね。
その下の宗派、教派はまあ「取次店」てことで。
で、2chでも取次店同士が、ああでもないこうでもないと論争してると。
そして、告白人さんは、その代理店の重役とか取次店が、
社長の意向を無視して、むちゃくちゃやってるんではないかと、
そんな感じですか?
私はまだ、神様よりは生身の人間のリアリティのほうがかなり大なので、
代理店のイエス社長を、ああこの人いいなあと思ってるってとこですかね。
あと、取次店社員のマザーさんとか…。
神様はあんまり信じないけど、人間はすぐ信じてしまうタチなもんで。。
でも取次店同士とか取次店内の争いは、はた目にみて、
そんなのどっちでもいいんじゃないの、とか、
だったら教会なんか行かなくていいじゃん、みたいなことが多くて
不毛な気はします。
クリスチャンて「イエスが好き」みたいに、
おおらかなもんでいいのかなと思っていたら、
告白人さんの話だとそうでもないみたいですね…。
>>567 よっこれ〜す♪
仏陀は違うよ〜。仏教に神様はいないよ。
仏とは人間が到達しうる境地だよ。
いろ〜んな宗派が腐るほどあるので、取り次ぐのは大変だし、
取次先まで違うようだからね。ま、難しい。なんで、信じることを
ここまで複雑にしてしまったんだろ〜ね。
あ、たこさん。
そうなんですかー。
神様のいない宗教なんですね。じゃあ哲学に近いのかなあ。
そうか、大乗と小乗とあったんですよね。
たこさんも世俗界から宗教の世界から、縦横無尽に幅広い方ですね。
>>567 >クリスチャンて「イエスが好き」みたいに、
>おおらかなもんでいいのかなと思っていたら、
>告白人さんの話だとそうでもないみたいですね…。
それで充分だと思われます!なんだかんだとごちゃごちゃ考えても結局の所
「自分がどう生きるか?」じゃないですか!
私はイエス様が好きだからそのように生きようって、それだけでもう充分に
宗教の役割を果たしていると思います!
それだけです!
そうだと思います。禅問答というくらいに複雑怪奇な理屈が
好きな宗教ですね。だから、宗派がとにかく多い!でも、それだけに
この宗教が青春時代だった頃は熱くて面白かったでしょう。
学問なので、一緒に学ぶ仲間と議論したりして。
それに比べると、キリスト教は道徳に近いような。しかし、
仏教のように、理屈に裏打ちされてない分、天国地獄が必要なのかも
知れませんね。戒める為にも。人間の心理を逆説的に説いていけば
需要と供給、必要に応じた形態を取っていると思います。
どちらも、人間が作ったものにしかおもえない。奇跡も、超能力も
必要なし。
うぃ〜す。僕は前にも書いたけど女性至上主義者です。
愛した人をどれだけ幸せに出来るか?それが、最高の価値観です。
そこから、幸せとは・・・・?を、考えます。
それには、思想や宗教よりも、日常の、掃除や買い物、仕事、
小さなけんか、たまには二人で映画を見に行く、といった諸事細かなこと
に心を砕きます。そして、相手を理解することに務めます。
何を信じるかを求めるのではなく、信じられるものを新たに
二人で築いていこうと、こう思います。宗教や思想や哲学は
ごく小さな一つの手段に過ぎません。謙虚でも傲慢でもなく
ただ愛したい、許す、許されるではなく、ただ、お互いを必要と
する、こういう関係になりたいと思います。また、社会に接するに
今度は、二人、家族単位での人格も出来ていくでしょう。
会社や宗教も法人という社会的人格を与えられるように。
信仰にしたがった行動や生活ではなく、行動や生活こそ、信仰を
生むものだと思います。と、ごく感嘆に説明しましたが、
現在はこういう立場ですかね。ま、どうでもいいですが。
究極的には、全宇宙自体を神と呼び、厳然と存在するが行動に是非を
問われず、何の制約も受けない。もちろん罰も与えられない、
また、日常的には八百万の神と行った考え方に近く、存在するもの
全てが神だと思います。絶対怒られるけど、まんじゅうと、聖書は
僕に取っては等価値です。
大乗と小乗ですか。これがまた、ややこしいすよね。片方無くしては
成り立たないのに・・・。僕らは信じるより、まだまだ、感じて、
学ぶことの方が多いと思う。「僕ら」というのは、
何となくこういいたかった。ただ、信じるという行為は、時に
向上心と好奇心、謙虚さ、いろいろなものを無くすことに繋がるので
注意が必要だと思う。変人さんの話で思い至ったのですが、ニヒリスト
というのは総じて、プライドが高い。プライドが高いのに空っぽだ。
だから、宗教なんですよ、今の時代。右翼でも左翼でもいい。
脆弱な自分自身に変わってくれますから。非常な努力をして
誰かが得た確信と一夜にして対等になれますからね。
あと、変人さんの女性観には興味があるなぁ。
ま、楽しくやりましょう、眠い!寝よう。うしし。こたつに入って。
明日は休み!幸せだ。
471たこさん、今更の亀レスって感じになっちゃったけど、問いかけに応えてくれてありがとう。
そうですね。他人に相談したりして、最終的には客観的に自己を省みることになるのが通常の方法
だろうと私も考えます。
ただ、それぞれが最終結論を求める客観的に自己を省みるって、結構それぞれの内的な感覚として
は、曖昧なままで手を付けようとしない部分という感じを強く受け、みなさんはどのようにその内
的感覚に対して観相を持っているのだろうと思ってしまったんです。
私自身は、やっぱり最終的に辿り着くのは「宇宙」というものになってきます。何故かと言うと宇
宙は「フェア―」だという気がする。星は何百万光年彼方のものでも球体であったり、宇宙空間と
いうのもその基本的な状態から、様々な空間があるということで。だから、そのフェア―という感
覚を、自分の内的な感覚のリアルとして、ありありと呼び出す事ができるか?これが私の目指して
いる信仰の命題になっているのでもある。「私」というベクトルエネルギーをフェア―にするとい
うのではなくて、宇宙のフェア―をそのまま内的な感覚として呼び出して体感してみようというこ
とです。そのフェア―にアクセスしていくセンサーが「正常」と「異常」を感知する非常に大切な
人間の内的な感覚ではないかと思うのです。私流には、どんなに異常なことをしていても、内的な
感覚として、このセンサーが作動していれば、狂人ではない。そのセンサーがその人の異常をして
正常へ向かわせるエネルギーを蓄えてもいるし、その精神も苦悩にたいするある種の覚悟も存在す
る。しかもその経験は「その時」正常化へ向かうさいのかけがいのないものにも今度はなってくる。人間は自ら間違い、自縄自縛になりかねない存在。広大無辺な心の世界を抱きなが
ら、孤独なな精神世界の王になってしまう存在。この現実に対してフェア―へ向かうセンサーが内
的感覚として生き付いていれば、当てにならない神仏に縋るより実りは多いと私は考えます。
>>570けいたさん
そーなんですよね。
私も基本的には「イエスが好き」でいいんじゃないの、
と思いつつ、でもどうせなら宗教の本質みたいのを、
知りたいと思って、ここで道を尋ねまくってるんですよね。
で、とても勉強になってます。
けいたさんもご一緒にどうぞ。
>結局の所「自分がどう生きるか?」じゃないですか!
おっしゃるとおり。
>>571たこさん
たこさんの宗教的世界観、私も同じような感じです。
で、最終的にっていうか今現在、たこさんが女性至上主義
の結論に至っているというのがまたとてもすごい。
たこさんが、愛する方のために日常の諸事に心を砕いている様子が
伝わってきます。
何となく良寛さんの「子供と鞠つきすること至上主義」
これが思い浮かびました。
日常の中の、身近な人との心の交流が無性に楽しいっていうのかな。
>信仰にしたがった行動や生活ではなく、行動や生活こそ、信仰を
>生むものだと思います。
うーん、なんか納得。
あ。「女性至上主義」といえば、変人さんこそ
そうなのではないかなと、私は思います。
>>492いないという根拠は難しいわ。
いるという根拠は、あたし達の神道にはたくさんあるからね。
この世の誕生とそれに起因する様々な現象があるという以上
神道の神はますます証明されていくからね。
科学者が必死に覆そうとすればするほど、
神道でいう神という現象が証明されていくから、変よね・・・。
キリスト教の話が主のようだけど、
その点、ユダヤ・キリスト・イスラムの創造論は、旧約聖書だけど、
あれは秘儀によって読み解かねばならない内容だから、
そのまま読むと訳が分からなくなる代物よ。
インチキだと言うのもまた然りだけどね。
女性論
私は、基本的に人間は、進化の過程でたまたま「知能が優秀」になってしまった・・
というふうに捉えているんです。
まあ、宗教という概念は、ある一定の知能を有していなければ、その概念さえ無かった訳です。
猿が、もう少し知能が発達していたならば、猿神様も概念として生まれるのではないか?
そういう位置関係で、人間を考察してしまうんですね。
まあ、動物一般的に考えれば、繁殖能力のある「メス」が優遇されますね。
カマキリなどは、田嶋O子さんをなんとなく連想してしまいます(w
オスの立場は顕著(交尾後の餌)ですね。その延長線上で考えております。
自然の摂理として、そういう捉え方が一番適っていると思いますね。
ルネッサンス以降、人間は少し慢心になっているのではないか?
そういうことも、ある程度は客観視する事も大切かなーとは思うんですね。
576
ずいぶんと厳しい雌雄感ですね。そう言えばよく宗教での聖域は女人禁制になっているな。
私は一般的に男性は知性で、女性は情緒に向かっていく傾向があるっていう認識があるく
らいかな。基本的に男性も女性も同じ人間という考え方です。ただ、気持ち的には美しい
異性を優遇したくなっちゃうのですが。まあ、神仏もそうだけど、身近にあるどんなもの
でも、根本的にはその人の心が見ているものだと思う。極論すれば、女性の美しさなんて
のも、虚構ですよね。ただ、私達の目に美しく映って来るだけで。とてつもなく目が良く
て、分子のレベルで観察できたとしたら、どんなに美女といわれる人でもそのおぞましさ
から逃げたくなるに違いない。だが、そのおぞましさもまた、虚構に違いないわけです。
五蘊皆空と言ったところで、このレベルまで来て人間やってられる奴などいるわきゃない。
私が仏教的な世界観に馴染めないのもその辺ですね。つまり、その先に何があるのかとい
と無しかない。しかも、目指しているのは完全消滅という究極の死だなんて。しかもその
無や死後消滅だって、神がいるというのと同じ位、眉唾もんの話じゃないのかな。さらに
その根源には生老病死の苦しみから逃れたいという、現実逃避の思想が見え隠れしてくる。
私は永遠に全知全能の神を跡を追って、世から世へ生まれ変わる旅を続ける方がいい。
>>575 神道の神が証明されていく。というのも、なんか面白いね。
どういうプロセスで証明されるのか?というのは、きっと野暮な質問なのでしょう。
「神人合一」もシンプルで良いよね。
江戸末期に実在した、仙台四朗という「福の神」知ってますか?
「ばあやん、ばあやん」を連発する、いわゆる白痴男です。
その方は、信仰の対象になるのですか?
>>577 >世から世へ生まれ変わる旅を続ける方がいい。
なんか、ニーチェがそれらしき事を言ってましたね。
でも、あの人は神を否定してしまったから、関係ないな。
でも、真っ向から神を否定するっていうのも、相当プレッシャーがあると思うね。
彼の遍歴をみると、結果的には罰があたったのかなー。
ゆえあって、しばらく落ちます。
みなさまありがとう!!!!!
>>573 307さん
むついかすぃ(笑)
正常、異常か・・・・。
むむむ。宇宙の原則、生命の掟を体内に宿すのですね。
僕らは、確かに受け継いでいるでしょう。誰に教えれれるでもなく。
この世の全ては、あるがまま正常だと思います。
悲しみも喜びも等価値。嫌悪も好感も等価値。
人間はしかし、喜び、悲しみ、孤独、恐怖からは逃げれないでしょう。
だから、それこそ判断基準になってくる。仮に正しいものがあっても
それよりは自己の感情で判断する。世の中、我こそは正しいというもので
満ちあふれています。それを受け入れるのも好みによるのでしょう。
この正しさは、僕のニーズにぴったしだ。僕の好みだ!と言う風に。
正しさは人間の意識とは関係なく、厳然と存在するものだと思います。
だと、すると正しさを受け入れると言うことは不幸も悲しみも
喜びと同じように受け入れるしかないでしょう。
神を信じる、信じない、虚構だ、虚構じゃないと言う判断も
本人の生い立ち、個性、遺伝、と言う風に人間側に基準を
依存しているように思えます。
と、あなたの意見からインスピーレーションが湧きました。
あなたの意見は、よく分かります。しかし、よく考えていらっしゃいますね。
ふむ〜。
>>574 2さん
本来、信じるという行為には、相反して裏切られるという
結果が着いて廻るものだと思います。
会社同士の取引、男女、友人関係、国家関係、全てが
歴史上、信頼と裏切りによって彩られてきました。
だからこそ、信じるという行為は尊いものだと思います。
絶対に裏切られないものを信じるよりもね。
人を信じるという行為は、逆に言えば、裏切らない努力に
繋がります。これほど、人を鍛えるものがあるでしょうか?
日常の、創意工夫と努力。愛してくれる人へ、もっと愛を
与えようという努力。その対象が女性と言うわけです。
というか、彼女ね。今はいませんが。ま、僕も、こう考えるに
至るまでは、色々あったわけです。ふつ〜に(笑)
絶対裏切らない、正しいものを信じる対象に持つことは
本当に幸せだとは思いますが、今の僕にとってそのような
状況に甘んじるには捨て去らないといけないものが多すぎる。
たとえば、些末なことですが、友人達からあいつだけは
宗教にはまらないだろうと思われているという信頼を
裏切れない。見栄もあります(笑)あと、宗教をやっている人は
責任を神に持ち込むでしょう。それが嫌です。
僕は自分も、神も友人も手放しでは信じていません。
また、信じる対象や答えを探す努力は程々にします。
それよりも、人間、やることがあるんじゃないか?と、思って
しまいますね。
>>576 変人さん
有り難うございます。女性論。
そうですね。僕には猿と人間の知能の
差さえ分からないほどです(笑)
目先の利口さは人間の方が勝っていても、生き方、自然の調和
いろいろな観点から考えると、他の野生動物に比べても
人間は劣っているような、知能に於いて。所詮、最近に
殺されてしまうような存在だし・・・。
男性卑下主義のようですね(笑)ああ、女性に奉仕したい・・・。
カマキリかぁ。奴らも可哀相ですね。さすがにああされることが
分かっていたら、僕は女性には近づきません。
307さん!深く考えすぎ!!(笑)
単純に行きましょうよ!心も大切!ルックスも大切!!
後は好みで・・・。ちなみに優香や紀香の方が
山田花子やマチャミより好きです。
2さん、ごきげんよう!また会う日まで。
マリアさん 結局、逆説的に神道の神は科学によって
証明されるわけですか。しかし、証明されてしまったものは
信仰の対象ではなく、判断の対象になってしまいますよ!
日本の妖怪や神は科学から逃げなければ!奴らの心の
隙をついて、祟りや、お茶目ないたずらや、幸せを
与えてやらなければ。と、僕は神としておもふ。
>>582 まあ、女性観というのは社会状況、文化に大きく左右されますからね、基本的には女性は
「受身」かと思いますね。
アメリカ開拓時代は人口増加が、とりあえずの命題でしょうからレディファースト思想が台頭してきます。
一方では、アフガニスタンのような女性軽視の文化(宗教?)もある。
ようするに、国情、時代によって「常に女性は受身」のような気がするのです。
まあ、これを根底に考えますと「男性劣位」をもってバランスを取るのがベターかな?と思うのです。
日本の女性は、今のところ憂慮すべき状態ではありません。とりあえず・・・
でも、これにしても「男性社会優位」が根底にはチラツク。
ここまで話を進めると、田嶋先生的になってきますね。
いくらか先生に洗脳されたかな?(w
>>583 変人さん
なるほど〜。
じゃあ、変人さんは
人間と宗教、あるいは人間と神の関係も
時代、文化、社会状況によって大きく変わりますが
どちらが男性的でどちらが女性的にたとえられますか?
どちらが受け身で、どちらが劣勢なのかな〜。
まぁ、たとえられないかもしれないけど、そこは、お遊びで
僕も考えます。
うーん、深く考えすぎかー。でも、まあこういう奴も時々いるんですよ。私はかなり強力な男性原理に
動かされているタイプだと思うのですが、面白いものでね、彼女はホント正反対のタイプなんですよ。
彼女がいる限り、私が空の世界に行っても叩き落されてしまう。彼女は空の海を愛する私の錨になって
くれる女性です。面白いものでね、彼女は宗教に無縁だった国で育った人でもある。
その彼女と、鎌倉の大仏を訪ねた時、想像外の行動に私は驚いた。大仏の前で合掌し、瞼を閉じること
一分、二分・・・三分。まるで私の存在さえもかき消してしまったような雰囲気を出しながら・・・。
その雰囲気があまりにも美しかったので、私は後になって何を祈っていたのか尋ねてみた。
返ってきた応えに私は思わず吹き出してしまったが。でも、即座に感受した美と、語られた言葉のギャップ
を埋める答えが直感で与えられたので、私は彼女と一緒に生きてみたいと本気で思うようになった。
奇しくも彼女との出会いの時期は、私が全てを捨てて空の世界に専念する為の準備を整えつつあった頃
でもあり、場は聖とは正反対の夜の街という滅茶苦茶さだったのだけど。彼女とは一年半ごしの付合い
になるが、来年結婚する予定です。しかし、私自身を含め、人間の穢れとは忌々しいものだ。だけどその
同じ人間の高貴なる輝きも他に変えられるものが何もない。人間は誰でも自分自身が地獄に仏なんだろう。
ところで変人さん、ニーチェは女子供の価値観というものは否定しなかったのですか?私は子供は神々で
あり、女は天使であり、私自身は今のところジョカーといったところでしょうか。
子供の頃は神と一緒に遊び、思春期に恋に芽生えて天使を見つけ、成熟期に社会で悪魔と闘い、老年に再
び神に出会い、今度は神に悪魔を叩き付け、やがて人と神の間で仏の智慧と慈悲を悟る。こんな人生が
人間には望ましいと考えています。
>>585 307さん
>>女は天使であり、私自身は今のところジョカーといった
ところでしょうか
あはははは!!!受けました!ジョーカー。
>>子供の頃は神と一緒に遊び、思春期に恋に芽生えて
天使を見つけ、成熟期に社会で悪魔と闘い、老年に再
び神に出会い、今度は神に悪魔を叩き付け、やがて人
と神の間で仏の智慧と慈悲を悟る。こんな人生が
人間には望ましいと考えています
ポエマーですね!なるほどー、人は神のみに学ぶに非ずか・・
彼女は中国かロシアの方ですか?いい出会いですね。
僕も、大仏の前で祈る彼女の美が何となく分かるような
気がします。しかし、あなたはそこまで、宗教、神に
対して真摯だっとは・・・。
僕は神は尊びませんが、あなたを尊びます。
お幸せに。
もともと神の分霊である人間が、神を自覚する為には神のいない世界に赴くしかないだろう。
星の輝きを賛嘆したい人が暗闇に行くのと同じことだ。素晴らしき人間のいいところは転ん
でも只では起きない習性だ。ありのまま、以上の世界を創造できる。
たこさん
宗教という概念が、人間の思考の範疇に内在する限り、これを基本に考えれば・・
宗教そのもの自体が、完全であるとは到底思えない。ようするに、人間は不完全を前提として。
その不完全な人間が、神仏を優位に立たせた。しかしこれとて、人間の「思惑」が垣間見られる。
「受身」というならば神仏が、それに当たるのではないかなー。
時代、社会状況において、その概念も変化してくると思いますね。
307さん
ニーチェは神を否定しましたからね、そうすれば当然、人間の存在意義というのは
重要になると思います。人間同士の差別は無いと思いますね。
これは、神仏を否定したマルクスにおいても、思想的には人間同士対等ですよね。
ヒトラーは、優性思想でユダヤ人を殺したし、レーニンは唯物論で人を殺した。
まあ、いずれにせよ「大儀」をもって人が殺せちゃうんですね。
アメリカの大儀は、確か・・・正義でしたね。
589 :
名無しさん@1周年:01/11/10 13:22
虚構ではありませんよ
たこさん
お褒め預かったお礼に、もう一つ与太話をしてみる気になりました。今度は私の夢の話なのですが。
時々、忘れられない夢というものを見ましてね、その内の「愛の衝撃編」です。(笑)
ずいぶん前のこと、私は人間の愛を信じることが出来ずに心が孤独な殻に閉じ篭められてしまった
事があったのです。要約すると契約的な愛から純粋な愛へと内的な愛を進歩させて行く過程で、他
人のことが信じることが出来なくなって、壁にぶつかっていたのです。そういう時に見た夢の話。
どういう訳か、宮沢賢治の故郷にいて、川の辺で彼と一緒におにぎりを食べながら何かを語り合
っていました。その内に「愛」について語り合っていたのですが、私は利己的な愛なら信じられ
るが、利他的な愛など、偽善的な行為以外信じられない。などと議論していました。
私があまりにも強固に言い張るので、彼は怒って「その内あなたにもわかる時が来る」と言って
立ち去ってしまったのです。(続)
>>588 変人さん
>「受身」というならば神仏が、それに当たるのではないかなー
びたり!一致です!僕も、そういう考えが浮かんでからの
質問でした。考えてみれば、末世的な時代は、歴史上、何度も
あった。文明が爛熟すると、人心が乱れ、戦争を繰り返して
来たのが人類ですけど、その度に、預言者、宗教家が
現れ、救済(?)を行いましたよね。免罪符とか、南無阿弥陀仏
とか、お手軽なものも、その度に、増えていったような気がします。
経済が行き詰まると、行政が濫発する赤字国債みたいなものかな。
魂の借金と言おうか・・・。しかし、もちろん返す当てはない。
何千年前の借金を僕らは背負わされてるのではないかな。
キリスト教でいうなら、罪を人類に自覚させようとする
キリスト教自体が原罪であり、魂の付けだと想う。
古代インドの苦しみが、今も伝わっているのが、仏教。
本当は文化というのはその時代、時代に生まれ、滅んでいけばよい
と思うのです。それこそ、命のように・・・。
春夏秋冬・・・、1年単位で見ても命のサイクルは繰り返される。
宗教は新しく生まれようとするたくさんのものの芽を
摘んでいるような・・・・。
続き
話をもどすと、時代時代の
人間が、いろんな形で苦しみに立ち向かってきたのに
逃げたり、目をそらした人達がいる。現実逃避を行った
人達がいる。その付けが廻ってきているような気がします。
宗教というものには確かにそういう側面がある。
創始者や教祖の魂を何千年も風化させずに伝える・・・・。
付けも一緒にね。しかし、結局、時代時代の人間に
利用され、解釈され、変遷して行かざるを得ない。
受け身でしょう。宗教は。しかし、こういう結論は
宗教の普遍性を丸ごと否定しているな。
いい宗教も、もちろんあるでしょう。でも、宗教はソフト。
人間の手に結局は委ねられているのです。
宗教へのアプローチも、愛だと思います。
解釈や、信じるという行為では無い。
もし、宗教や神を根本から否定する存在があるとするなら
それは科学や哲学、共産主義と言ったイデオロギーではなく
結局人間、人間性そのものなのでしょう。人間であるが故に
生まれた宗教なら当然の帰結。しかし、それをも神が超越している
と言うのなら、僕らにとって全くの不可知であり、不可触領域
であるのでコンタクトはとれない。ましてや、懲罰など
加えられるはずがない。という感じで・・・。どうでもいいけど。
思索は進むよ!インスピレーション!
>>590 307さん
続き楽しみにしています。
感想は最後に・・・・。
続くと言われるとどう展開するのか、非常に気になる・・・。
場面は変わって、夜。それは激しい風雨が荒れ狂い、稲光が不気味に光っている時のことでした。
私は森の中で木につかまりながら、稲光の中で農地を耕す人影を発見した。
彼は宮沢賢治でした。まさに雨にも負けず、風にも負けずに農作業をしていたのです。(笑)
しかし、あまりにも危険な状況だった為、私は思わず飛び出して彼を連れ戻そうとしました。
でも、彼は険しい表情で「ほっといてくれ」と言い放ち、しきりに桑を振り下ろし続けます。
しかし、もうすぐ彼の桑に稲妻が襲ってくることを直感している私は、やがて哀願するよう
に彼を説得していました。
そこでようやく桑を捨てた彼が、今度は物凄い迫力で私を問い詰めてくるのです。あなたは
さっき「他人などどうなってもいい。偽善的な愛の行為が人間の本心だ」と言っただろう。
ならば「私がどうなろうと知った事ではないはずだ」と言い放ち、再び桑を取ろうとします。
私は「とにかく危険だから止めろ」と怒鳴ってみたが「危険なのはあなたも同じだ。早く帰
れ」と怒鳴られてしまう。
私は自分で否定していたものが、自分の中にあることを認めざるを得なかった。「他人を思
いやる心が確かあった。私の考えが間違っていた。だから一緒に帰ろう」と私は彼に告げ
ていた。すると簡抜を入れずに彼が「あなたにあるのなら、私にだってあるんだ!」と告げ
られて、私は頭をガ―――ンと叩かれたような衝撃をおぼえて目覚めました。
私の夢なので、客観的に理解して頂くのは難しい面もあると思うが、我彼の関係をから制限
のある愛というより、人間の心としての愛が潜在的ながらも有ると確信させられる夢でした。
お陰で心の殻を破る事もできたし。それにしても衝撃の強い夢で、目覚めてから妙に納得し
ちゃって、現実的な態度も変化した。人間でありながら人間が愛しくなちゃった夢でした。
たこさん
>宗教や神を根本から否定する存在があるとするなら、
>それは科学や哲学、共産主義と言ったイデオロギーでなく
>結局人間、人間性そのものなのでしょう。
時代が、こういった事に気が付いてきているのでしょう。
「個人」という概念が、クローズアップされてきた。
村社会の枠組みが、今や「個人社会」へと転換点にきていると思うね。
宗教という概念も、2chのレスを拝見していると、急激に変化しているのが解る。
宗教とは何ぞや云々しても、結局は人間に都合の良いように解釈してきたんだね。
気が付いてみたら、「大きな虚構」となってしまった・・こう言う事なのかなー。
序序に、問題の本質にメスが入っていくよーだね。
>>595 変人さん
!!!!!!!!!!!!
なるほど!!!じゃあ、宗教や神を虚構にするもしないも
人間ってことか・・・・。
特に、先進諸国見たいにグローバリーゼションが進み、
情報が多角化していくと、自ずから、個人の判断が非常に重要に
なってくる・・・。単一思想の国でもなく、単一宗教の国でもない・・・。
神を信じようが、信じまいが自由。資本主義故の自由競争・・・
価格破壊、デフレスパイラルと続けば、宗教だって、資本主義社会に
参加している以上、サービスを落として薄利多売・・・・。
ベンチャー宗教がこけるとカルト・・・・。
は〜、このスレってキリスト系、仏教系、神道系、無宗教系が入り乱れる
多様化の最先端みたいになってて、僕は皆さんに逆に
キリスト教のいい所や、仏教のいい所、神道のいい所も教えたもらったけど
逆に、更に、どうでもいい病が増した(笑)。ニヒリズムではなく。
他のスレのキリ系にしろ仏系にしろ、神道系にしろ、無宗教の人だって
どうしようもない奴はどうしようもない。要は人だよ・・・・。
変人さん、僕もここ半年でも、この板の住人が変わってきてるのが
体感できる。いろんな原因があると思うけど、ADSLとかも、大きかったろう。
そうか、そうか〜。いや、ゆっくり考えよう。僕も馬鹿だなあ。
まだ、人類には先があるな。変化できる余地が。
たこさん
だんだん宗教の本質が見えてきたよーだね。
宗教は、その時代その時代に任をになってきた、しかしグローバリゼーションが進むにつれ
それとともに、宗教もまた大きく変化しよーとしているんだね。
宗教が「受身」であることを、今ここで暴かれよーとしているんだね。
2chの果たした役割はおおきかったね。(まあ、これはオーバーか?)
キリスト、仏、神道、これらの情報がリアルタイムでキャッチできる。
これにしても、一大革命かと思うよね。
伝統宗派が、これまで秘儀、秘教としてきたものが、ネットによって白日のもとに晒されてしまう。
そういうことも、最近起こっているよーだね。
神秘性が売り物の宗教だと、こういうのは少しマズイことになるね。
この手の手法は、いわば時代遅れになったんだね。自然淘汰の憂き目にあうよね。
まあ、いくらか洗練されていくだろう。時代に合った宗派が残るんだろうね。
>>582あらあら、ありがとう。
>マリアさん 結局、逆説的に神道の神は科学によって
>証明されるわけですか。しかし、証明されてしまったものは
>信仰の対象ではなく、判断の対象になってしまいますよ!
それでいいのよ。全てのものには成立の過程がある。
全てのものにあたしたちのいう御霊が宿っているんじゃないか?
ということも最近では研究されているようだし、
科学的にその意思を聞きだせるようになったら、
世の中の考え方は変わるわよ。
変な霊に煩わされることもないじゃない。
あたし達の役目も終わるかもしれないけど、
それはそれでまた良いことよ。
>>597 >伝統宗派が、これまで秘儀、秘教としてきたものが、
>ネットによって白日のもとに晒されてしまう。
>そういうことも、最近起こっているよーだね。
結構、その真意は何でもないものだったりするわよ。
いいことじゃない。非常に良いことよ。
人がそこにまで近づいてきた証拠よ。
そういう仕事に携わる者の一人として、あたしは嬉しく思うわ。
600 :
名無しさん@1周年:01/11/10 19:40
>>594 いきなりですいません。利己的な愛と言われますが、本来それは愛ではないのでは
ありませんか?宗教というものの定義が何かわかりませんが、現代においては
イデオロギーや利害対立を解決せしめるような宗教は現れていません。即物的な
快楽に支配される現代人にとって、もはや愛とは自己満足であり、本当の意味で
人としてのあり方を突き詰めるようなことは、社会を離脱する覚悟なしには無理で
しょう。賢治はそのぎりぎりの線まで自己を追い立てたのであり、それでも過去の
宗教者の見出した真理には届かなかった。時代に応じて新しい宗教が興るというのは
何か眉唾に聞こえるのです。
366 = 388 = 480 = 536
矛盾してるところもありますね。
とても皆様のお話にはついていけそうにないので、私の整理をしておきます。
>536のギーターの部分が、今の私はいちばん好きです。
ちなみに、>536の文章の中にある「放擲のヨーガ」とは、具体的には最初の2行を実行することです。(たぶん)
このギーターでは、クリシュナが最高神の化身として、アルジュナに語りかけていますが、別にクリシュナでなくてもいい、私の神様でよろしいわけです。
ギーターは虚構かも知れません。
宗教としてとらえているわけでもありません。
しかし、実生活での信仰のあり方として、シックリくる感じです。
四月の気層の光の底を
唾し はぎしりゆききする
俺はひとりの修羅なのだ (春と修羅より)
そして、私もせめて修羅でありたいと。。。できれば人間でありたいと。。。そう思ったりします。
まあ、「私にも神は浸透している」とそう感じる瞬間もあるわけで。。。。
さてさて、明日も仕事だし、早寝すっか!
おめでとう。600ゲットさん
あのう、申し上げ難いのですが、何しろ夢なものですからただの与太話として聞いて頂きたい。
私にも何故、愛情問題の夢で宮沢賢治がでてくるのかもよく分からないんですよ。
ただ、人間の愛情の問題に付いてかなり葛藤していた時に道が開けていった天啓のような夢だ
ったのでよく覚えているだけなんです。ただ、愛のことで躓いたなら、いつでもあの時の確信
を呼び出せるような気はします。それだけのことなんです。宮沢賢治さん自身の事は実はよく
私は知らないんです。済みません。(恥)
個人的な心に問いかけてくる、愛情の問題として、個人的な夢が役に立ったと言うレベルの話
以上のものではないんです。私はウソは書いていませんが、眉に唾をつけて聞いて欲しいです。
さて、本題に付いてなのですが、一口に愛情といっても色々あると思います。私は利己的な愛
も、自己満足の愛も愛情の一種だと思いますよ。ただ、それらの愛情はあなたの言う通り突き
詰めて行くと孤独になるか、他へ向かう刃になってしまう。でも現実そうならないで暮らして
いけるのならそれに越した事はないでしょう。愛情の種類を問う事より、自分の中に確かな愛
情があるという確信の方が人間には重要だと思いますし、その方が幸せです。それで愛する家
族や友人達がいれば、宗教など常識や習慣としてとして通り過ぎてしまっていいものだと私は
思うのですが。特に何処そこの宗教がとか、誰某の宗教がなどということは、どうでもいいこ
とだと思うなあ。宗教に関る時は最初から眉唾もんとして聞いた方がいいし、そうするべきです。
>>599 >結構、その真意は何でもないものだったりするわよ。
まあ、実際そのようですね。
つまり人間というのは、後ろ手に隠し持っているものには、非常に興味をそそるものでして
この心理を上手く利用したものでしょう。
一昔前には有効だったのでしょうが、こう情報が氾濫してきますと、なにかと
「子供だまし」的手法が通用しなくなってきたのでしょうね。
まあ、良いことなのでしょう。
604 :
600ゲットありがたく頂戴:01/11/11 00:43
>>602 宮沢賢治を詳しく知らなくとも、夢の中でそんな重要な役割を果たすのですからきっと
彼に対するある種のイメージができているんでしょう。それは、自分がいかにつらい目に
遭おうとも揺らぐことない信念、のイメージだったりして。まあ夢カウンセラーでもない
んでわかりませんが。
愛情、については、人の感情の発露としての愛と神にまつわる愛(アガペー、だったかな)
とはやはり区別するべきなのかと思います。人の感情はややこしいもので、愛が独占欲、
排他心などと結びつきやすかったりする。もちろん307さんがおっしゃりたいのは
そういった付随する問題でなく、純粋に相手を想う気持ちなんでしょう。それは充分
わかりますね。でもここで宗教の虚構、というテーマをからめて考えると、何故それが
人類にとって必要であったか、にやはり戻ってくる気がします。人の営みにあまりに
不具合が多いこと、他人に素直な愛情を注ぐのが簡単でないこと、もっと言えば憎しみ
や恐れ、ねたみといった感情の持つ力があまりにも強いこと、そんな人間の心に何とか
救いを与えよう、というのが宗教的な思想の原点かも。宗教を常識かただの習慣と
片付けられるのは、その人が本当にそれを必要とするような状況にない、あるいは
その本質に触れていないからである、とも考えるんですが。
まあ昨今の新興宗教や既存の宗教の還俗ぶりを見るにつけ、はなから眉唾ものと
感じてしまう気持ちは誰にもあることでしょうけれど。
605 :
常識ないかも?:01/11/11 01:03
寝る前にひとこと。常識ってなんでしょう?真実って何でしょう?
確かに端的にみれば宗教は虚構のように見えるかもしれませんが、
今日一番説得力のある科学的、論理的思考だって違う時代からみれば虚構のように
みえるかもしれません。宗教にうそっぽさを感じることができるのであれば、それと同時に、今自分が
信じていることも疑ってみては?
人の言う神は虚構であり、甘く囁く愛も虚構
当然のことながら宗教も虚構、科学は築き上げたもの(虚構も多)
人に掴めないものは人がつくりあげた巨大な虚構群でしかない。
時代が変わりそれに応じた宗教が興るのと言うのならば
人が今まで通り弱いままでいたいと言う証。
これからの人に必要なのは宗教が必要でなくなること、そう思うこと。
宗教が人に必要と思うのは、既に前向きではなくなっている証。
深いところで思考停止したまま留まりたいという願望のあらわれ
これこそ人の精神が永く進化しなかった最大の要因
宗教からの巣立ちがこれからの人に本当に必要であるが
人は再びそれは選ばないだろう、もはやその道は選べないと
深く思い込んでしまっている上、選択肢の中にも含まれないだろう
人が戦争を繰り返すのと同じ、必要で大切なものは
もはや見えなくなってしまっているのだ。
議論はいつの時代も繰り返され、時代が変わり進んだと言うが
実はそれは、ただ時間だけが積み重なっているだけである。
宗教がもつとされる役割、果たして本当にそれでしか
得られないのであろうか。宗教によらないと不十分なのだろうか。
人が何もかもを捨て激しく泣きつかれた時、何を見るか知っているか。
私は神霊を瞑想中によくみます
BMとはブラフマンを意味します
>>606 >人が何もかもを捨て激しく泣きつかれた時、何を見るか知っているか。
なんだろ?虚無かなあ?
一粒の希望でも転がってりゃいいけどな。
600ゲットさん
私にも、あなたのような疑問はありますよ。でも、この疑問の前に立つととてつもなく巨大な壁に
遭遇することになる。それは、究極に対する自分自身の限界というものです。
確かに、人間にとって宗教心や慈悲、愛情は重要なものと考えます。しかし、それだけが重要とい
う訳ではないのも常識として御存知だと思います。
いい意味でも悪い意味でも、宗教と言うものはこの常識に立ち向かってくるものですよね。ソクラ
テスやイエスの哀しい死は、この常識に対してあまりにも挑戦的だったからではないでしょうか?
勿論、彼らの兆戦は善い意味での兆戦に違いないのですが。
私は、人間は基本的に幸福な状態でいるのが一番望ましいと考えます。だから、そういう状態の
人々には宗教など、常識習慣で構わないと思うという事です。
人間は幸福な状態では、必ず神を受け入れると思いますよ。それは言語や認識というような表面
的な問題としては難しいですけれど。そういう表面で別個的な自我へ向かうエネルギーに同乗し
たまま、超越思想を扱うからオカシクなってくるんですよ、宗教的な神仏や思想って。
困っている人を救うのにわざわざ神仏を持ち出してこなくてもいいのです。勿論、戦時下のよう
な生命の極限状態におかれた人間にはその限りではありません。
宗教の根本。人の振り見て我が振りなおせ。聖書の中でイエスがゴルゴダの丘への道を歩む途中
女がイエスに同情の涙を流して言った。「イエスさま、お可哀想」と。しかし、イエスはその女
に「あなたは自分自身の哀しみの為になきなさい」と仰られた。普通、宗教に関る人は自分自身
が救われたくてやって来る。他人を救うなどという動機で宗教活動する人は異常になるか、自他
不二の境地に到るかのどちらかでしょう。前者が圧倒的多数ではないかなあ。
人間の現実を無視するような崇高な観念は、現実問題として人間を異常にしてしまうということ
でしょう。実感と観念の分裂は、その間に橋が架らなくなるとヤバくなってくる。
相手の憎しみや恐れを取ってやろうなどとすれば殴られるのがオチ。自分のことを棚に上げやが
ってと。殴られた方はその善意を踏み躙られたことに憎しみや恐れを抱くようになるだろう。や
はりまず、自分の目から色メガネを取るのが先決でしょう。
>>609 >私は、人間は基本的に幸福な状態でいるのが一番望ましいと考えます。だから、そういう状態の
>人々には宗教など、常識習慣で構わないと思うという事です。
そういうことですか。それはそれでいいんですけど。
思うに、307さんは充分お幸せに暮らしていらっしゃるんですね。僕も、人は幸せに生きて欲しい
という願いがあります。ですが、現実問題幸福なんてそうやすやすと手に入るものでもない。
様々な苦労、災厄に心惑い、懸命に生きる道を探すのも人間の運命です。
>そういう表面で別個的な自我へ向かうエネルギーに同乗したまま、超越思想を扱うからオカシク
>なってくるんですよ、宗教的な神仏や思想って。困っている人を救うのにわざわざ神仏を持ち出
>してこなくてもいいのです。
確かにね。それが宗教による多くの災いを生み出している原因でしょう。人間社会の問題は政治や
社会科学によって解決すべきなのかも知れない。ただ問題なのは、人間の抱えるすべての苦難は
心の内側に起因している、という事実です。僕がこれまで自分以外の人たちについて思い悩んで
きた中で、そんなことを考える自分の偽善性にどう対応すべきかが一番の問題でした。それは今
でも解決されておりません。結局自分が満たされたいんだろう、という問いは、ノーと言う答え
を許さない。それでも、理不尽な苦しみに苛まれる他者の姿は、自分の心に何かを訴えてくる。
そのことに鈍感になるのは容易いことです。好きなことにうつつを抜かしていればいいだけの話。
でもそこで、それでいいのか、と考える。自分の快楽のみが人生の目的であってよいか?その
ことに僕はとても大きなこだわりを持っているのです。突き詰めていけば、そこにあるのは自他
共に幸せでありたいという願望であり、そんなものはただの甘えに過ぎないと看破されてもなお、
容易に捨て去ることのできぬ理想への愛(エロス)なんだと思います。
>>609 (続きですよー。)
その意味で、
>普通、宗教に関る人は自分自身が救われたくてやって来る。他人を救うなどという動機で宗教
>活動する人は異常になるか、自他不二の境地に到るかのどちらかでしょう。前者が圧倒的多数
>ではないかなあ。人間の現実を無視するような崇高な観念は、現実問題として人間を異常に
>してしまうということでしょう。実感と観念の分裂は、その間に橋が架らなくなるとヤバく
>なってくる。相手の憎しみや恐れを取ってやろうなどとすれば殴られるのがオチ。自分のこと
>を棚に上げやがってと。殴られた方はその善意を踏み躙られたことに憎しみや恐れを抱くよう
>になるだろう。やはりまず、自分の目から色メガネを取るのが先決でしょう。
というあなたの指摘は的を外していないし、充分に考慮すべき問題です。理想論だけで現実を
生きることはできない。しかし同時に、進むべき道筋もわからないまま目先のことに全神経を
集中してしまうのも、ある意味危険な生き方ですね。コピペ多くて失礼。
>>594 307さん
面白いですね!!人間の心として、限りなく無償に近い愛ですか。
でも、「自分さえよければいい」、というのも無償の愛だと思いますが。
愛に無償も、有償も、根元的もアサハカも無いような気がします。
自己満足も、他己満足もないようなきが・・・。
誰かの為、と言っても、それも自分がそうしたいからなのであって・・・。
だから、どうしてか?と言う問いには、そうしたいから。と、僕は
答えるかな。無償とか、有償とかは利にさとう人間が考えた
概念であって、僕には馴染みが薄い。
307さんは、自分を追いつめてしまうタイプなんですね。
なかなか、ロックンローラーですね。その夢から、悟るなんて
劇的でいいですね。その、夢の衝撃というか、思い出というかが
大きいのは何となく想像がつきます。みてみたい夢だ・・・・。
それと、ニヒリズムからは遙かに遠い人だな。と、思いました。
お互い、熱く生きましょう!
613 :
縞栗鼠(シマリス)の親方:01/11/11 20:29
>>605 寝る前に一言さん
科学や学問や哲学は疑うことから、比較から出発してるんだよ。
自己や現実や、物事が見たままの姿として受け取っていいのか?
とね。例えば、コップは日常生活であればコップだけど、
科学的に言えば、珪素で出来た、物質でしかなかったり・・・。
人間も、化合物であったり、愛も生命保存の本能だったり・・・。
でも、宗教は信じる事から出発しているので、非常に、
宗派内においても、他宗派に於いても、議論しくい。
少なくとも、根本的な事については、議論の余地がない。
それを疑うなら、宗教や神の存在が意味をなさなくなるからね。
人間は弱き生き物。ずーと、疑ってるんだよ。
人を、思想を、明日を、物事を、約束を。
疑うことに疲れてるんだ。確かなものが欲しいんだよ。
だから宗教なんだ。逆に言えば、宗教以外のものは、
心して疑う必要は無いんだよ。
宗教と宗教以外のもの全てなら、どちらを取るか?
こう考えた方がいいね。
だいたい宗教に嘘っぽさを感じる人で、そこそこの人間性を
もっているなら、それはリアリストだよ。他のことも
当然疑ってるよ。
ところで、宗教も他のもにも疑いをもつならどうやって生きていけば
いいのか、君の意見を聞きたいね。
>>606 おもしろいね。
ま、滅びない限り、気長にやりましょうよ。
時間っちゅうもんは、長いでっせ。僕らが嘆いたり出来るのも
100年以下でしょう。人類の歴史も、文明が起こってから
4−5000年。あと、1万年も立てば、違う結果も出るかも。
それまでに滅ぶのなら、宗教も役立たずと言うことで。
甘くささやく愛くらいしんじさせてよ〜(笑)
>人が何もかもを捨て激しく泣きつかれた時、
何を見るか知っているか。
興味あるな。激しく泣いたり、絶望したりはあるが
何もかもを捨てようとした音はない。自殺衝動だって
今思えば、生きると言うことと、切り離しては考えられない。
聞かせて欲しい。神か?虚無か?希望か?
しかし、一端でも、何も鴨かもをすてたら、前の人格なり
状態には戻れないだろうね。ま、いいけど。
307さん
夢の話は頭より、感情に訴えてきたわけですよね。
大切な人が危険なら、普段の理屈なんて吹っ飛ぶかも・・・。
人間、そういう状況で、生きるのもいいかも。このような議論は
ある意味、暇で平和なのかもね。
>>608 散歩中
ポエマーだねぇ。一粒の希望か・・・・。
百の真実に追いつめられたときに、たった一つの虚構が人を救うこともある。
また、百の虚構に甘やかされているのなら、たった一つの真実は
ナイフの要に君の心臓を貫くだろう。
BY たこ
おお!詩的に議論するのも面白いかも!
617 :
名無しさん@1周年:01/11/12 05:19
良いスレだ、つい気になって自分を見つめ直したよ。
>人が何もかも捨て激しく泣き疲れたとき、何を見るか知ってるか?
ドストエフスキーなどは、エクスタシーに達している。
まあ、これは処刑寸前の銃口を向けられた時だけど・・後、処刑は中止された。
三島由紀夫も、一種の快楽(生の歓び)を書きしるしている。
まあ、これとは意味が違うのかもしれないけど、とりあえず私の答え。
たぶんこれは概出。
600さん
私にも、あなたの気持ちが少しわかるような気がする。形式においては利他的な行為。でも、内心
では、偽善の姿が見え隠れしてくる。
でも、大抵の人はそうだと思う。そこで自分を厳しく観察すればその偽善性が明白に浮かび上がっ
たりして、下手をすると自己嫌悪にさえ陥ってしまう。そういう経験は私にもある。そういうこと
も含めて、人間の愛に大きな疑念を抱かざるを得なかった時にあの夢をみたのです。
私は、あまり偉そうな事は言いたくないけど、他人の不幸は自分の不幸なんですよね。極言してし
まうと。心の世界に他人はいないという意味で。どんなに親しい関係の人間でも、その人になる事
はできませんよね。その人の苦しみも哀しみも、ホントのところ本人にしかわからない。その人に
成り変って自分が体験する事はできない。苦悩する他人の姿を見て、自分の心に投影することしか
できない。仮にその投影がどんなに正確でも、精神的な意味では、その人の歓びも哀しみも取り除
くことも奪う事もできない。これは私は尊厳だと思う。他人が立ち入る事を許さない。
私の宗教感なのですが、誰でも生老病死と四苦八苦という十字架を背負ってこの世界に何かをしに
来ている。それだけの代償を払う何かがあるということだと私は信じたいのです。
目を覆うばかりの惨状も、地獄のような様相も、私達人間の思惟を超える何かがあると私は信じた
いのです。勿論、100%信じきるなど出来ませんが。それでいいと思っています。人間なのだか
らね。人間には100%の事など期待しては酷なのです。人間の考える100%も当てにはなりま
せん。自分のでも、他人のでも。何かの善行の中で、自他の内に偽善を見付けても、そこに厳しい
眼差しも必用ですが、優しさも必用です。そもそも、何の為の善行なのかと問えば、その根源には
苦悩を軽減したいという動機があると思う。少なくてもあなたにはね。そこには多分、我彼の区別
ができない大切な何かもあるに違いない。私があの夢で感じたものはそういうものだったような気
がします。その根に繋がっていれば、自己嫌悪のカラクリを超えて不完全な人生の可能性を生きる
歓びも湧いて来ると思います。
>人が何もかも捨て激しく泣き疲れたとき、何を見るか知ってるか?
答え:分からない。
分からないよ〜。何を見るんだろ?コアラ?
では、皆さんは何かを、人でも何でもいいから
殺したいほど憎んだことはありますか?
僕は微妙にある。それは宗教。特定のというか、ひいては全部というか。
日本にはさ〜、18万登録宗教法人が有るんだよ?
異常じゃないか?
もし、宗教が少しでも人の幸せに役だつんならさ〜、これほど力強い
事はないけど・・・。政治家と一緒だよな。
ぜ〜〜〜〜ったい、殆ど、インチキだぜ。
大きな団体の、キリスト教や仏教の各宗派でも醜聞が絶えず、
言い争い、否定しあってる。ましてや・・・・・。
まぁ、中堅クラスの宗教にひどい目に遭わされたのですわ。
でもね、その人達は、信じてやってるんだろうね〜。
人の道に外れても・・・・。と思うと、不憫というか、
それで、幸せなのか?と思ったり、アプローチに困るね。
ただ、明らかに弱い人間の集団だった。だから、そこのグルに
問題があると思う。支部長か・・・。こいつが、分かっててビジネスで
人をああいう風に洗脳し、精神を破壊してるなら、僕の中の選択しに
殺人があるね。そいつも洗脳されてるだけだったら、可哀相。
もし、信じてやってるんなら、戦争が起こるのも仕方ないと思う。
だって、全てを否定されたからな〜。こっちは話し合おうとしてるのに。
宗教心信じるよりも、約束を守る、嘘を着かない、相手の気持ちを
思いやる、創意工夫で、努力する。違う価値観の人とも議論して
あらたな価値観を未来に向けて作っていく。
ほら、神様なんか設定しなくても、やらなくちゃならないこと、
人間が出来ることは山ほどあるよ。僕は、彼らを許すというと
傲慢だが、理解した。理解しようと努力してる。苦しいけど。
でも、彼らは、目の前の努力より、先祖供養が大事らしい。
過去の因縁が全部悪いんだと。はぁぁ。勘弁してくれよ。
>>619 307さん
感動しますね。可否を問うのはやぼったい。
褒めるとか、立派とかではなく、
あなたは愛すべき人物で、信用できる人間だと思います。
スレ友になりましょう。
622 :
600です:01/11/13 01:35
>>620 「宗教」のいやらしさが嫌われることがよくわかります。約束を守る、嘘をつかない、
相手の気持ちを思いやる、創意工夫で.......それが人間同士の信頼を育てる基礎です
よね。経験を重ねるにつれ、そういう誠実さが失われていくことを残念に思います。
と言うか、自分の心の持ち方次第なんでしょうけれど。努力し続けるのは大変なこと
ですね。
>>619 307さんレスありがとうございました。また改めてレス打ちます。
623 :
名無しさん@1周年:01/11/13 01:41
90%の幻想と10%の真実。
10%に入れるか入れないか?
そこがポイント。
624 :
そこがお前の極楽浄土か:01/11/13 04:49
>>620 以下は極言です。
言葉尻とらえるようで悪いけど、「政治家と一緒」って自分で言ってるでしょ。
そのとおりで宗教って別に特別なものじゃないわけで。
虚構のレベルとしてそれが政治であったり宗教であったりってだけ。
醜聞が絶えないのも当然でしょ。
社会という虚構の一部分として存在する以上ね。
この辺は「出会い系犯罪」のマスコミの取り上げ方と同じものを感じる。
それが「宗教」であるからというだけで否定するのはどうかと。
違う価値観をといいつつ、矛盾してますよ。
ただ、あなたが宗教嫌いというのは実体験から
「ビジネス」のあくどさや犯罪としての部分なんでしょうけど。
ただ、虚構のレベルとして違うというだけで、
神や信仰を金やイデオロギーに変えれば、ね。
豊田商事も新聞拡張団も政党もおんなじ。
それは宗教そのものでないのでは。
単なる悪徳商法であって返品が利かなければ法のお出まし。
もしくは頑固親父のいるラーメン屋に入ってしまった、みたいな。
「ダンジキ御一行様」のダイエット商法も問題だわな・・・。
>>624 そこがお前の極楽浄土かさん
はいな!キッチュなHNですね!
その通りです。僕が宗教が嫌いなのは絶大な力を持ちながら
感嘆に利用されてしまう所。
例えばパソコン一つで高校生が、全米に何百億円の
損害を与える、ウィルスをまき散らす。
核兵器も、ボタン一つ。宗教そのものを憎むのではない・・・
と言いたいが、違う!宗教そのものです。なぜなら、
人間が、本当にうまく活用することが不可能だからです。
1世代なら可能かも、数十年なら可能かも・・・・。
しかし、人間が扱う限り絶対にミスは犯します。つまり、活用
側と切っては切り離せないものだからです。
政治や、経済と違う所は、絶対的な善や存在を設定し、
人の幸せを前提にしているからです。政治や経済はきれい事は
抜かしません。たとえ口でどんなにきれい事を並べてるに
しろね。僕は宗教に頼り、幸せを求める人間を憎めない。
欲望にゆがんでしまって、道をはずした教祖も憎めない。
というより、理解できる所もある。
しかし、宗教や核兵器やパソコンは時として憎む。
人間が取り扱えれば文化です。支配されるのなら文明です。
僕は、体の半分は文明否定論者です。
あと、18万も有るんですよ!これぞ、認可する行政、経済、
宗教の癒着!どんなに汚い金が動いてるか・・・・。
経済の一部、教祖、行政の一部は潤うでしょうが。
そして、資本主義国家の中で宗教人が18万も有ると言うことは、
少なくとも、資本主義国家の中での宗教というのは
金儲け集団に他ならない、例外はあるでしょうが、むしろ
利益を目的とした団体というのが普通なのです。
つまり、宗教の存在自体が人間を堕落させるシステムに
他ならないと言うことです。例外は有るにしてもね。希少な。
宗教と言う信じるべきものは、まず、疑ってかかった方が正解なのです。
ま、でも、あなたの意見を採り入れるなら、
政治も敬愛も宗教も人間の作り出した虚構で、やり方がまずいと
言うので有れば、人間を憎んでるんでしょうね。
あ、当たり前か!人はやはり、人を憎み、愛し、傷つけ、
勇気づけられていく。それが人生だし、愛そのものだと思うが。
ま、僕もふつーの人間ということですか(笑)
でも、そうすると、宗教や神なんか、やはり二次的なものという
結論になってしまいます。それでもやぶさかではありませんが
なんといっても、宗教板ですしね。ま、どっちでもいいですが。
627 :
そこがお前の極楽浄土か :01/11/13 06:57
だから政治も宗教も経済も一緒やぁ♪一緒やで〜♪というわけで。
宗教が神や善を設定すれば経済が利益や政治が秩序を。
ケインズ主義を盲信して財政出動しまくってたら破綻するし。
カッコで括る作業と感情移入のさじ加減。
宗教法人ということで言えばそれはあくまでも「法人」なわけで。
理念的なことだけども、一つの教団と法人は別物。
二次的というよりは要素と考えます。
漬物がなければという人もいればなくても良い、大っ嫌いって人も。
それでも漬物は食卓に乗りつづける。
すべてはご飯のために。
ああ、わけがわからない(w
628 :
名無しさん@1周年:01/11/13 10:14
>>627 そこで言う「ご飯」は何の比喩だ?人間、なのか。
>>627 そこがお前の極楽浄土かさん
まあねぇ。感情移入しやすいわなぁ、宗教は。
だから、少ない元手で商売になるんだし、政治にも口出しできるし・・・。
エゴを商品化したものとも言えるね。経済活動団体という
見地で見ると・・・。余りに清貧な経営をすると、物足りないと
信者に人気が出ないし・・・。みんな、構って欲しいわけですな。
人に言われるとむかつくから、神に言われたいと・・・。
しかし、一要素そとして、全体を見渡せば、ま、確かにいっしょくた。
何もかも。何もかもね・・・・。しかし。宗教に入っている人は
そのいっしょくたな世界を宗教観で全部説明してしまう。
宗教を信じる人は、その宗教以外を勉強した方が、その宗教団体の
全貌が見えてくるでしょう。
あのー
神か・・・。
そういや昨日道端で乞食してたな。
あいつ俺らが面倒見てやんないと
一人では生きていけないくせに
甘やかすとつけあがるし。
だからもうお前の面倒は見切れない
って言って可哀想だけど別れた。
笑っちゃうね!!!
変と変を集めて、もっと変にしましょ。変な変な宇宙は大変だ、だ、だ。
この広い宇宙は、たまらなく不思議ね。でたらめな事件が当たり前の様に起きる。
それでも、驚いたりしてはいけない。落ち着いて話し合いましょう。
634 :
600ですよ:01/11/14 01:22
>>619 307さんのレスを読み返して思いました。愛情深いんだなあ、と。僕はそんなに他人を
暖かい目で見ていないかも知れない。自分の心に何があるか、それはいわば、他力本願
的な甘えなのでしょう。神をどこかで信じたい、それさえあればこの世の理不尽は任せて
おける、というわけです。しかしこんないい加減な人間が神に何を期待できるというので
しょうか。自分が精一杯の生き方を貫き、自己を投げ出してやっと神のしっぽが見える
くらいじゃないだろうか。そういった、まずは自分の生き方に総力をささげる態度抜きに
宗教だなんだとたわ言をほざいても意味がない。あなたの考えておられる人の幸せ、それと
結びつく宗教心があるとすれば、戒律や盲信によって人をあらぬ世界に運び去るものでなく、
人間らしい暖かな心を失わない愛にあふれた生き方こそ、それに値するのだろうと思います。
僕はイエスやブッタがそのような生き方をされた人だと信じます。だからこそ、自分にない
ものをそこから得たいと考えるのです。自分の弱さ、愚かさを受け入れ、人生をより良い
ものにしたい。願いは口先だけではかないませんが。
私はそんなにできた人間ではないよ。一連のレスは夢の与太話ですから。私の人格からと言う
より、人間の善意識からの解答だと私自身は思っています。だから、誰でも同じものを持って
いるということで、私は安心したのです。誰か、特別な人だけが持っているだけだとしたら私
は人間を信用しようという気にはとてもなれません。
例えば、緊急の際の人命救助などをみても、市井の人々がとてつもない愛や勇気を発揮する事
があるじゃないですか。そういう類のものなんですよ。やろうと思ってできることではないの
かもしれません。後になって冷静に考えてみると、何故あんな行為が出来たのかと我ながら
不思議に思うのかもしれない。でも、その時は迷いもなく、確かな自信を持って行動している。
実際には迷っている時間はないからなんでしょうけれど。
600さんのカキコを見ていると、そんなに精一杯突き進もうとしなくても、いいんじゃない
かなと感じます。私自身もそうなのですが、自分の現実の一歩前に出てみるだけでいいんだって
言い聞かせてます。私の場合は崇高な理想を目の前に置いてしまうと、現実の前で途方に暮れて
しまうんです。でも、一歩前に出てみようって気にならなれるんですよ。通常ならば通り過ぎて
しまう事や、気兼ねしてしてしまうような事を一つだけやってみる。そういう心掛けをもってみ
ると、結構日常生活の中で人間らしい優しさを必要としている場面で動けるものです。私自身は
極々小さなことしかしていませんが、それでも自分の心が温かく豊かになれれば、誰も損をする
ことはないですよね。私は自分が損をしたと感じる時は正直にやめてしまうことが多いです。
私は人間の優しさに標準を合わせています。神仏のレベルなど無理ですから。それでいいんだと
考えます。では、人間らしい人間とはどんな人のことを言うのだろうか?これこそ重要なテーマ
だと思うのですが、みなさんからは神仏や悟りの方が人気があるようです。
636 :
600でした:
>>635 おもしろいですね。僕は307さんを特別な人物だとか言いたかったわけではなく、平凡な人間
として当たり前に持っているべき優しさ、のようなものを感じただけです。しかしそれを決して
つまらないものと粗末にせずに、御自分の善き心として大切にしようとしていらっしゃる。
そこに尊さがある、と僕などは思いました。他者を信用できるか否か、という点で言わせて
もらえば、現代、特に堕落した状況におかれた人間はどうしても"善意識"から遠ざかります。
本来善性を持っているはずでも、それを生かせない人間はたくさんいるでしょうし、そういう
条件を無視して軽はずみに信頼関係が結べると考えるのは危険です。307さんの「優しさ」は、
日常に倦み疲れた人々になにがしかの潤いを与えるような気がします。まあネット上で読んで
いる限りですからあくまでも想像の域を出ないですけれども。それから、神仏のレベル、まで
自分を近づけようなんて畏れ多いことは考えませんよ。けれどやはりそういうことを言いたがる
のは、誰でも理想は理想としてとっておきたいからじゃないですか?すべて現実の追認じゃあ
夢も希望もありませんから。人間らしい人間ね。そりゃ十人十色がいいんじゃないでしょうか。
おもしろくて。