1 :
名無しさん@1周年:
人が死ぬときものすごくつらくて涙が出ます。
でも、死にそうになっている人はいったいどんな気持ち
なのでしょう。その苦しさを思うと私も苦しくて
涙と嗚咽が止まらなくなります。
先日のテロでも、見ている目の前で亡くなった人たちと
その時は涙を流しながら、じきに笑顔を見せて生きていく
私たち。でも、死への恐怖を想像すると耐えがたいです。
人はこの苦しさをどうやって処理しているのですか?
自分が死ぬときのことを思うと恐ろしいです。
2 :
名無しさん@1周年:01/10/09 19:17
>>1 死の恐怖を感じる人は悟りを得やすい。
どこかで、酒飲んで大笑いしている年寄りよりは遙かにね。
「死の恐怖」を滅することこそ「悟り」である。
原始仏教には「死の恐怖」の超越法があります。それは「無常・苦・空・非我」。
・無常(変化・生・滅)
人間は「生まれ、病気になり、老いて、死ぬ」このように変化生滅することを観察
せよ。
・苦(生老病死憂悲悩苦)
このように無常はすべての「苦しみ」となっていることを観察せよ。
・空(幻覚)
この世はなぜ「無常」の世界なのか。それはこの世が空(幻覚)の世界だからである。
幻覚には当然始め(生)と終わり(死)がある。また幻覚は思考により絶えず
変化(病気)している。だから「生老病死」がある。
もし、この世が幻覚でなかったら、生まれることもなく死ぬこともなく変化なく永遠に
生き続ける世界となる。
・非我(肉体も心も我に非ず)
だから、あなたの肉体も心も幻覚であって、あなたではないことを観察せよ。
あなたでないあなたの肉体を病気のように腫れ物のように殺人者のように嫌って
離れよ。これを如実に理解できた者は老病死の恐怖から解脱することが出来る。
これが、原始仏教といわれる阿含経の大意です。
4 :
名無しさん@1周年:01/10/12 08:33
だからこの世は幻覚だというのですね。
幻覚だったら『幻覚が覚める』より『幻覚の中にいる』方が恐い。
5 :
名無しさん@1周年:01/10/12 08:41
死んだら腐る。それだけ。
それ以上論ずるのは馬鹿ばかしいと私は思うのだ。
6 :
名無しさん@1周年:01/10/12 13:51
私も霊になると思います。
そして成仏してあの世に逝くのです。
8 :
名無しさん@1周年:01/10/12 14:34
>>3 >・空(幻覚)
>この世はなぜ「無常」の世界なのか。それはこの世が空(幻覚)の世界だからである。
>幻覚には当然始め(生)と終わり(死)がある。また幻覚は思考により絶えず
>変化(病気)している。だから「生老病死」がある。
>もし、この世が幻覚でなかったら、生まれることもなく死ぬこともなく変化なく永遠に
>生き続ける世界となる。
「空=幻覚」は、むもんの自説だっての。
膀胱に尿がたまれば尿意をもよおし、廃棄物を体外にだそうとする。(死なないように)
胃がからっぽになれば空腹感を感じ、栄養失調を防ごうとする。(死なないように)
手に火を近づければ暑さを感じ火から避けようとする。(死なないように)
死を身近に感じれば恐怖を感じさせ、死を避ようとする。(死なないように)
死の恐怖は生命存続の為の一機能です。
>>8 >>「空=幻覚」は、むもんの自説だっての。
釈迦の説だよ。
11 :
名無しさん@1周年:01/10/12 17:40
死ぬときに、未練を残さない状態だったら成仏できる。
未練や恨み(何らかの強い思い)がある場合は
この世に魂が”思い”となって残ってしまいます。
>>10 幻覚の向こうに真の世界がある、というのがむもんの自説だと言ってるの。
釈迦の説だと言うのなら、経典から抜粋してみそ。
ただし漢訳はダメだよ。
13 :
名無しさん@1周年:01/10/12 18:59
>>12 いや、漢訳・南伝、同じ経典が存在するなら良し。
なぜ漢訳がいけないのかと言うと、漢訳は直訳ではなく意訳なので、
漢訳で『幻』とあっても、原文でなんとあったか分からんから。
15 :
名無しさん@1周年:01/10/12 19:41
>65 :むもん :01/10/02 15:40
>
>>64 >確かに仏教学者や僧侶でそのように解釈している方が多く、解説書もそのような
>解釈が多いのですが、それは全くの間違いなのです。その誤解は『空』を『幻覚』と
>捉えていないために起きるのです。
>
>これは幻覚が存在するか否かという問題ですが、
>無いとはいえないのです。なぜなら、眼前には幻覚の世界が見えるからです。
>もし、無いなら幻覚も見えてはならないことになるからです。
>しかし、有るともいえない。なぜなら世界は幻覚で出来ているからです。
>
>そこで、仏は有るともいわない、無いともいわない。これが「中道」です。
>この中道をわかりやすく説明すると『世界は無いが、幻覚としてならある』
>ということになるのです。
>
>この中道の解釈を誤ると、阿含経は完全に意味不明の怪物になってしまうのです。
>
>仏は告げられた『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者(生まれる者)、
>滅する者(死ぬ者)これ幻化にして真実有ること無ければなり。』(阿含経)
16 :
名無しさん@1周年:01/10/12 19:48
>344 :名無しさん@1周年 :01/10/08 17:43
>
>>341-342 >>人間は自分自身で考えていると思っているが、何一つ考えることは出来ず、すべては
>>人間の中にいる霊によって考えている。善を考える時は善霊から流れており、悪を考
>>える時は悪霊から流れている。
>>人間はただ器のようなもので自分自身では何も出来ない。悪を行った時行った人間には
>>何の罪もないのに刑罰を受けるのは、それは自ら行ったと信じているからである。
>>もし、この真実を知り、自分には何の罪もないことを悟れば刑罰を受けることはない。
>
>>生長の家で「私は神の子であって病人ではない」この信念によって病気が治る
>>のは事実ですが、病気という刑罰のカルマがあるはずなのにどうして治るのか。
>>不思議だったんですがね。
>
>つまり、「何か罪を行っても、それを行ったのは悪霊であり自分には何も罪はない。」
>しかし、「私は罪を行なった。」と思う事により「刑罰(苦しみ)という幻が具現化する。」
>だから、「私は罪を行なっていない。」と思うことで「刑罰が消える。」
>そして、「病苦なども本人の妄想が創った幻であり、本来存在しない。」
>であるから、「私は病人ではない」と思う事によって「病気という幻が消える」
>こういう事ですか?
>
>350 :むもん :01/10/08 20:57
>
>>344 >おっしゃる通りです。
17 :
名無しさん@1周年:01/10/12 19:50
>355 :むもん :01/10/09 08:23
>
>>351 >>>エイズとか狂牛病も消えますか?
>
>もちろん。
>しかし、簡単には行きませんよ。
>あなたが三年間電車で通うサラリーマンとして、定期券が左ポケットにあるとします。
>それを右ポケットに換えます。これであなたは右ポケットに定期券があることを
>悟ったことになるわけです。しかし、翌朝改札口では必ず左ポケットに手を入れる
>でしょう。これは本当に悟っていないからです。
>たった定期券のポケットを換えただけでこんな状態になるのですよ。
>
>ところが、定期券は右ポケットと朝晩考え続ける。これは集中力ですね。
>すると改札口ですんなりと右ポケットに手を入れることが出来るのです。
>
>生長の家の人が、朝晩神想観を続けるのは、これが理由ですね。
もっと科学的に考えろ!
個としての有機生命集合体は死ねば活動は終わり!
食物連鎖で考えればある意味確かに流転はする
生きた痕跡は覚えてくれる人がいる限りはその人の中で残る
只有名にならない限り、覚えてくれる人が死ねば無形の思い出も消えてしまう
今を懸命に生き、できるだけ多くの関わりを創り続けることが生きる証!
宗教は死への恐怖が作り出した都合のよいマスターベーションにすぎない
もっと高所で見れば増えすぎた人類に対するウイルスが宗教かもしれない
弱いものが強いものに食われるのが正しい自然の摂理
弱いものが滅びることこそ自然はより良く調和するのかもしれませんよ
>18
力強い言葉の中にあなたの愛を見た。
死ぬのか怖いだろ?だったらこうしな!と迫る宗教は確かにオナーニ
だが、死ぬのは誰でも嫌だよな!だったら生きる意味を真剣に考えろ
というのが本来の宗教です。全く18番さんの意見に同感。
科学的に考えるということは、なぜ自分が生まれて来たのか考える
ことでもあるんだと思います。
20 :
名無しさん@1周年:01/10/12 23:41
うむ
生きているより死んたほうがましと思う人が日本には年間3万人はいるがね。
22 :
名無しさん@1周年:01/10/13 00:17
>>21 今現在の『生』から逃げているだけで『死』を求めているのとは違うのでは?
23 :
名無しさん@1周年:01/10/13 07:27
>>13 >>いや、漢訳・南伝、同じ経典が存在するなら良し。
仏は告げられた『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者(生まれる者)、
滅する者(死ぬ者)これ幻化にして真実有ること無ければなり。』(阿含経)
24 :
名無しさん@1周年:01/10/13 07:30
>>18 では膨大な人間の記憶や知識が頭脳に記憶できるとお思いか?
>>19 生きる意味について真剣に考えても、いつか死ぬでしょ?
25 :
bakiri:01/10/13 07:36
死は限りない現実。だそうだ。
>>23 だから言ったろ。
>仏は告げられた『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者(生まれる者)、
>滅する者(死ぬ者)これ幻化にして真実有ること無ければなり。』(阿含経)
これじゃ原文でなんとあったか分からないと。
おーい
28 :
名無しさん@1周年:01/10/14 06:55
>>26 >>これじゃ原文でなんとあったか分からないと。
原文わかる人いるの?
29 :
名無しさん@1周年:01/10/14 07:03
元あるものの存在形態が変わるだけで死などはありません。
生も同じです。
30 :
都心には気をつけろ!:01/10/14 08:03
未知って確かに怖いですね。
あーではないか、こーではないか・・・と思ってみたり、
文献を漁って、納得してみたりはするものの、
いざ、タイム・アウトが来るとなると、経験したことのない、
未知なる世界が待っているわけですから、矢張り恐いものだと思います。
そこで、信仰を持てば、持てれば、耐えられるものと思います。
信仰心のあるなしが問われる時でもあるのでしょう。
「自我」の存在が果たしてどうなるのか・・と思うと矢張り、恐いものだと思います。
死ぬ、その時が来たら、死ねばいいと思います。素直に死ねばいいのだと思います。
ただ、自分の場合、身の回りの整理とかしておかないと・・とは思いますが。
ID,PASSなど自分しか知らないこととかを、いざ何かがあった場合にでも
信頼できる者に伝わるようにメモでも残しておいて、安心して逝きたいな・・とは思います。
遺言は毎日でも書いておいたほうが、気が楽かもしれないですね。
安心して逝くためにも、遺言は書いておこうZE !!
31 :
名無しさん1周年:01/10/14 10:37
経典よんだだけで「空」の本質がわかり
真理を理解できるなら
こんな楽なことはないね
32 :
名無しさん@1周年:01/10/14 13:03
>30(藁
いざ何かあった場合?安心して???
死んだ後のことまで、、気苦労が耐えませんね。
33 :
名無しさん@1周年:01/10/14 13:12
>ただ、自分の場合、身の回りの整理とかしておかないと・・とは思いますが。
エロ本、処分しとかないと。
34 :
名無しさん@1周年:01/10/14 13:50
アラスナ
南伝 小部経典 経集 三、入 箭経
この世における人のいのちは、定めなくして知ることができぬ。
また、みじめにして短く、そは、苦と相応しているのである。
何となれば、一たび生まれたる者の、死をまぬかれる手だてはない。
生れたる者は必ず老と死とに至る。これ、生きとし生ける者の法則である。
熟したる果物は、まもなく落ちる恐れのあるがごとく、
生れたる人も、また同じく、常に死の恐れの前にある。
また譬うれば、陶工が作りたる粘土のうつわの、
みなやがては壊れるごとく人の命もまた然るのである。
おさなき者も 成人せる者も、愚かなる者も 賢き者も、
すべての者は死にゆすられ、すべての者は死に赴く。
死に打ち勝たれて去りゆくとき、父も子を救うことはできぬ。
いかなる親類も縁者も、彼をかの世より救い出すことはできぬ。
ここに相見つつある人々が、ここに親しく語りつつある人々が、
屠所にひかれる牛のごとく、一人々々、死魔に連れ去らるるを見よ。
そのように、すべて世間の人々は、死と老とに攻めさいなまれる。
されど、もろもろの賢き人は、世間の自性を知りて憂うることがない。
生れ来り、死して去る、かの道をなんじは知らぬ。
生死の両端を正しく見ることなき、汝は無益にも悲しみ泣くのである。
この両端を知ることなくして、おのれを害(そこな)いつつ悲泣する者が、
なお何らかの利益することあらば、賢き者もまたまさにこれをなすであろう。
されど、悲泣すとも、憂悩すとも、人は心の寂静を得ることはできぬ。
ただ、苦しみはますます彼につのり、彼の身体は害(そこな)わるるのみである。
身体は痩せ、顔色はあせてゆく、されど、死せる者は蘇らない。
いたずらに悲泣することは無益にして、ただみずから身体を害うのみである。
憂愁を捨断せよ、悲泣するを休めよ。しからざれば、ますます苦を受くるのみ。
命終せる者の上に、いたずらに涙するは、憂愁のとりことなるのである。
たとい人ありて百年生くるとも、さらに百年をこえて生きようとも、
彼もまた親戚縁者と別れて、ついにかの世に赴かねばならぬ。
されば人は、聖者の法を聴き、いとしき者の命終にあうとも
「私はもはや彼とともに暮らすことができぬ」と悲泣する心をまず調伏せねばならぬ。
たとえば、水をもて燃ゆる火を消しとどめるがごとく、風来って綿をふきとばすがごとく、
かくのごとく、賢き者は、生起する憂愁を速やかに滅せねばならぬ。
おのれの幸福を求むる者は、おのれの歎き悲しみを除かねばならぬ。
貪りと憂いとを除かねばならぬ。まさに、煩悩の箭(や)を抜かねばならぬ。
すでに煩悩の箭を抜きすて、依るところなく、求むるところなく、
心の寂静を得るにいたれば、一切の憂愁をこえて無憂者となる。
南伝 小部経典 経集 四、六 老経
人のいのちはまことに短い。百歳に及ぶものは少なく、百歳をすぎて生くる者もまた、やがて老いのために死ぬ。
人はおのれの執する物のために愁(うれ)える。けだし、所有に常なきがゆえに。
そは存し、変じ、また滅する。かく知りて人は執着を去らねばならぬ。
「これは私のもの」と思える物も、そは死のために失われる。
賢き者はその理を知りつくして、おのれの執着を去るのである。
たとえば、夢にて会いしものを、人は、覚めてまた見ることはできぬ。
かくのごとく、愛する人々をも、命終してのちは見ることができぬ。
この世にありし頃は、其々とて、その名も聞き、その顔も見たるに、亡き後は、ただその名のみが、彼を語るよすがとして残る。
執着するものを貪り求むる者は、悲愁、邪慳(じゃけん)の心を捨てることはできぬ。
されば、安穏の境地を知る聖者は、すべて所有を捨てて行ずる。
聖者は一切処に依ることなく著(じゃく)することなく愛する者もなく、憎む者もなく、
たとえば、はすの葉に水のしずくの著(つ)かざるがごとく、悲泣することもなく、邪慳の心をいだくこともない。
>たとえば、夢にて会いしものを、人は、覚めてまた見ることはできぬ。
>かくのごとく、愛する人々をも、命終してのちは見ることができぬ。
「死んだら、もはや会う事はできない」と言い、
「あの世で会う事ができる」と言わない所が、非常に仏教的ですよね。
osietaroka
41 :
名無しさん@1周年:01/10/15 07:44
>>生きとし生ける者の法則
>>夢の如し
これこそまさに真実。仏の真の教え。「無常」の意味。
42 :
名無しさん@1周年:01/10/15 20:38
キリスト教ではどうよ?
43 :
シイについて教えてください。:01/10/16 21:32
∧ ∧___
/(*゚ー゚) /\
/| ̄∪∪ ̄|\/
| |/
 ̄ ̄ ̄ ̄
44 :
名無しさん@1周年:01/10/17 22:13
実のところ、生きていくのが精一杯。死なんて考えたことない。そんな暇もないし。
でも、4歳の頃自殺をはかったことがあるんだが、死ねなかった。人間簡単には死なせては貰えないんだな・・
と幼心にも感得したものであった。まぁ、がんばろーや。
与えられた命、大事にしようーや。
人が死ぬのはこの世界が無常だからです。
だが人間の実体は死にません。
48 :
名無しさん@1周年:01/10/23 18:44
人間が死ぬ時・・・ちょっと考えてみて欲しい。あなたが生まれて来る時、オギャアー
と誕生した時の事を覚えていますか?例外はありますが、死ぬ時も多分自分が知らないうち
に亡くなっていくのでしょう。前世がある事やカルマに関して否定はしません。
ある意味でこういった事を割り切って考えるのも良いと思います。エイロクスケ
の大往生に12才の子供が、ねー、なんで人っていつか死ぬのに生きなきゃならないのって
書いてあるの読んでショックと感動を覚えました。
人間の死後や魂の存在に関する記述は多々あります。スタンダードでいくと
もう文庫になった立花隆の臨死体験(文芸春秋)この本を読むとアウトラインが
解ります。いわば総論的ですね。各論になるとたくさんあり過ぎだけど個人的
に、んーーとうなずけるものもありました。現実的にいくとエリザベスキューブラー
女史の著述で死の瞬間とゆうのもおすすめです。まーこういった書物の中にもある意味
で自分が死にたいするこころ構えができるような気がします。
死はむこうから否応無しにやってくる場合も有るし、こちらから捉える
こともできるそうだ。共同通信
53 :
名無しさん@1周年:01/10/28 15:40
♪食べられる〜
54 :
名無しさん@1周年:
死んでないので教えておげられません〜失礼