932 :
名無しさん@1周年:02/01/30 21:58
仏教の中道、
クリシュナムルティーのありのまま、
これは奥深いよ、君〜
933 :
名無しさん@1周年:02/01/30 22:41
なすがままと、どう違うのじゃ?
なすがまま
934 :
名無しさん@1周年:02/01/30 23:08
>930
みの2 激しく同意!!
星屑のシーツに素肌あわせて眠りに就くまで
そっと愛の中でだけ生きる短さをわすれてゆくんだろう。
オリジナルラブの田島さんからだ。謎
輪講きたいしてます。おれも真面目にやります。
一時名前かえましたが、ちょっと反響うけたので、ばんこで参加さしてもらいます。
^k^輪講は名前つけんと成立しないぞ。
kがその風のような友になるまでkとつきあおうじゃぁあないか。やはりkとは縁がきれんな。
まあおれはきしょい系かもしれんが。まあ酒のんでるからゆるして。
夜でさえお月さんが照らしてるね。ふふふ
937 :
非僧非俗 :02/01/31 03:14
おーー、ばんこ、ひさしぶり。
ところで、このスレ、もう終わるというのに、
スレ主である、非正覚者はぜんぜん姿を見せたことがない?
提案者も、それっきり発言しないから、意向が掴めない。
どうするんだろか? 意志表示がなく、950すぎたら、
とりあえず、こちらで新しいスレを立てる用意をするから、
その前に知らせてもらいたい。
938 :
名無しさん@1周年:02/01/31 04:16
939 :
名無しさん@1周年:02/01/31 05:32
おっと移転ですか、では新スレで発言しますね
きぼ〜ん
941 :
名無しさん@1周年:02/01/31 06:09
輪講スレは提案者がスレたててください。
輪講スレって何?
とりあえず、このスレでの発言はそろそろ終了しましょう
943 :
名無しさん@1周年:02/01/31 12:24
944 :
名無しさん@1周年:02/01/31 13:31
提案者さん、輪講スレ立ててください。
とりあえずやろう
あら、もう新しいスレが立ってるのか、
とりあえず移動
片側を無視するという症状は、自分の病気を否定しようとする脳の働きと関係している。
だから、実際に見ている物に限らず、左側という概念そのものがなくなっているのです。
脳には、自分の思い通りにならない現実を認めたくない、
受け入れたくないという無意識の癖があります。
そこで、左半身が動かなくなったとき、脳がそのこと事態を否定しようとします。
その結果、左側という概念そのものを無くして、辻褄を合わせるのです
自己同一性(identity)
学校ってとこは、下らない概念を教えるところだ。
「信じない」ということは、「結論を出さない」ということとほとんど同義語です。
反応は既に刺激の観察の結果
仏教は、心は正しく、ありのままに、物を知ることをしないという立場をとっています。
目耳鼻舌身意という6つの窓口で色声香味触法という
六種類の情報を知るということになっていますが、
われわれはありのままをみないで、『意』(こころ)のなかで解釈して幻想をつくっているのです。
私たちが『知った』というのはこの幻想のことです。
人それぞれ好き勝手に幻想をつくるので、二人で同じものを見たり聞いたりしても、
それぞれの理解、感覚などは違ってきます。
ですから私にとってきれいな絵も、他人には面白くも何ともない絵になるでしょう。
私にとって美味しいものは他人には美味しくないでしょう。
このような働きの結果として、すべての生命には『個』という概念が成り立って、
孤独になるのです
『恐れる』のではなく、ものごとを『理解する』ために適切に調べることが必要です
人の役に立つ仕事を選び、自然や社会、生命の破壊につながらないように
仕事をすることです。仕事の種類はたくさんありますので、具体的な職業を禁ずる
ことはしていません。
ただし、毒、酒、武器、などを作ったり売ったりするすることは禁じてあります。
仏教は
戒律仏教徒さん
ここは仏教スレではございません。
終わった後で書き込んでいくところから、あなたの性質が見えます。
よく見えます。
954 :
名無しさん@1周年:02/02/09 10:15
おまえら高岡ピカルについて語ってくださいおながいします。
すべては、無常だ
いずれ、無くなる
いま、考えている感情が、思考が、
そのあとに、得するか、損するか、考えてみよう
すべての苦しみが、「無知」から生じるのです
よい行いの場合は、スタートだけは苦しいのですが、そのあとずっと幸福感が続くのです
「見つめる」物質的対象と、「確認する」心理的行為は、
常に対になって生起することに気づくようになる
そこには個人や人格といったものはなく、
ただこの物質的対象と心理的行為とが対になって生起しているだけなのです
現在の瞬間に気づいていくことである。
思考がまとめあげていく概念の世界がスタートする前に、
一瞬一瞬経験する事象を、直接知覚の状態であるがままに認知していくのだ。
しかし、実情はどうだろうか。
心の反応というものは、電光石火の光速度である。
「見た」「聞いた」「匂った」と気づこうと思っているのだが
気づいたときには心の反応もその命令を受けた体の反応までもが
とっくの昔に終わっていて、真っ青になっていたり。
汗が吹き出ていたりする。
そこで慌てて「恐怖」「恐怖」「焦っている」「焦っている」などと気づこうとする。
遅ればせでもそれができれは゛立派なもので、
そのまま現象の展開に巻き込まれ反応に反応を重ねてしまうことが多い。
心の反応が速すぎて、気づかない。あるいは追いつかないのだ。
反応パターンが汚染されている人たち
まちがった心の反応パターンを正しいものに修正する方法とは?
人はだれでも物事の真実が見えないがゆえに、諸々の過ちを犯してしまう。
己の非を認め、心から謝ることのできる人は、『慢』の煩悩を壊しながら謙虚さを学んでいる。
過去の経験を捨て、とりあえず見ることだ。
・・・・比較することなしに。
比較することがなければ、焦ることもない。
そして、現実が見えてくる。
現実が見えれば、・・・・・・その次は、何をすれば良いのか分かる
生命は皆、生命として平等だよ
>遅ればせでもそれができれは゛立派なもので、
↑
この「は゛」は何ですの。
もの2君へ
反応パターンが汚染されている人たちは、自分が物事に接して、
それに対して、どのように判断したか、ということに気づかない人たちなんだ。
「見た」「聞いた」「匂った」と気づこうと思っているのだが
気づいたときには
心の反応も
その命令を受けた体の反応までもが
とっくの昔に終わっていて、
真っ青になっていたり、汗が吹き出ていたりする。
そこで慌てて「恐怖」「恐怖」「焦っている」「焦っている」などと気づこうとする。
遅ればせでもそれができれは゛立派なもので、
そのまま現象の展開に巻き込まれ反応に反応を重ねてしまうことが多い。
心の反応が速すぎて、気づかない。あるいは追いつかないのだ。
心の反応が速すぎて、自分で決断して決めつけたことを自分で分かっていないんだ。
その瞬間に気づかないで、後になって分かっただけでも大したものだ、と言っているんだよ。
>>965 悪運の流転に似てますね。
>そのまま現象の展開に巻き込まれ反応に反応を重ねてしまうことが多い。
雪だまの玉の様に転がり落ちながら、反応に反応を巻き込みながら
転がり落ちるように大きくなってゆく。まま言われる引用なのですが。
自分が本体に対しての気ずきではなく、反応に対しての反応だったのだ!
というミスに対しての気ずきですか・・
しかし、後悔や無念の口惜しい念が拭い切れないのはどうしたらよいでしょうね?
けしてこの思いを知らなかった時には帰れない。
この思いを内包しつつ、それでも気ずきをもてるのでしょうか。
それとも消去すべきですか
その感情的な思いはどう消去すべきなのでしょうね。
よくわかりました。ありがとう。
それで、「ば」と「は゛」を使い分けたわけは何ですの?
>>965でも同じになってるけど。
私は求道心から965に聞いたんですよ。
まあ、平たく言うと教えてちゃんですね。
968さんへ
過去の傷や失敗は、今となってはどうにもならない。
フラッシュバックが起こって、過去を思い出したとしても、過去の感情を無視することだ
過去に意味付けをしても、かえって、過去の感情を増幅するだけだ。
それよりも、今できることをすればいい。
自分の部屋を掃除するもよし、外出したら、道路に落ちているゴミを拾うのもよし。
まあ、自分の引っかかる感情を作り出した対象に対して、
思いっきり自分の感情をぶつけるのもいいだろう。
恐れずになんでも試してみることだ。
なんだか答えを催促したようで、すいませんでした、
お答えくださり ありがとう。
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終了します
統一スレに移動して下さい。書き込むならsage進行でよろしく。
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972 :
small-k:02/02/14 23:30
私は、クリシュナムルティの翻訳本はほとんど全て読んでいます。簡単な言葉ですが、
非常に難解です。究極は、人間(個人)の全存在が完全に統合された状態なのでしょう。
だから、葛藤もなく相反する思考が存在しない…。そして努力もその中に相反する
ものを含んでいるため、Kは否定したのでしょう。でも実践するのは非常に難しいです。
でも、確かに言えることは、思考の生み出すあらゆる活動が葛藤を生み出す…。
葛藤を作らないように勤めることも葛藤を生み出すもとである。だから見ること(意思を
持たずに)のみが、条件づけから逃れる唯一の方法である(方法も実際は否定していますが)。
ということでしょうね。でも私はできない。
974 :
名無しさん@1周年:02/02/15 00:51
憎まれ口をコキながら、やさしいんだから。
すべてが移り変わるのですから、実体として何もありません。
それぞれの生命が自分自身の主観の世界を作る。これが問題です。
人間である限り、考えたり、判断したりすることは避けられない。それはそれで結構です。
しかし考えたのだからといって、『事実』にはなりません。自分が判断したのだからといって、
判断が正しいということにもなりません。主観の世界で生きている我々にとって、
誰の主観が正しいのかと考えること自体が、矛盾です。
皆、自分の主観を述べているだけです。
ですから、主観にとらわれず、主観は真実だと思わず、主観は自分の頭が作った解釈だ
と思って生活するならば、何の罪も犯さず、清らかに生きていられると思います。
ちょっとした出来事も忘れがたく、それにしがみついて延々と悩んだり、
くよくよしたり、
あるいは憎しみを持ったりする性格のだらしなさが、PTSDの原因です。
原因は、過去に引きずられるということです。
「過去は過去だ」「今は違うのだ」
と明晰に理解しないことです。過去の経験に過剰に意味をつけることです。
ものごとに意味をつけることをやめる方向へ訓練しなくてはならないのです。
たとえば幼児虐待の経験がある場合は、「そのときは親も若く、バカでした。
私もうるさくて手に負えなかった」
ただそれだけのことだと思うことです。
あまりしつこく原因を調べることがかえって、
何か意味付けをしてしがみつく原因になる恐れがあります。
どんな出来事でもそのときの条件によるもので、
それを感情的にひきずってはならない。
ひきずる人は、過去の思い出の中に閉じ込められているだけで現在も将来も見えない。
一般の人は、今の瞬間だけを明るく、
しっかりと生きていれば、十分だと思えばよいのです。
人生というものはないのです。
それは、頭の中で、瞬間瞬間の出来事をつないでいるだけです。
今の瞬間さえ成功すれば、すべてOKです。
瞑想とは、起こってくるどのような現象をも確認するという行為を、
絶え間なく、継続的に行うことが大切です。
苦しみがある場合、苦しみの感覚を取り除くすべてのプロセスを、
きちんと確認するのです。
動きをひとつひとつ確認する
動きのひとつひとつを厳密に確認する
ゆっくり、穏やかに動く、確認する。
ゆっくり穏やかに行うと、気づきと集中力、それに洞察力は、より強くなります。
対象に意味付けすることなく、単に『見た』という自らの行為だけを注意深く
確認します。
まず、子供のような私の疑問に誰かに教えて欲しいのです。
事実とは何ですか?現実とは何ですか?そして真実とは?
この似ているようで違う事柄の意差が私はよく理解できていないのです。
混乱していて、私がつまずいた原因の一つのような気がするからです。
彼方はどう思うのですか?
自分のエゴを消そうと努力するのは失敗に終わるんじゃないかな。
むしろ自分のエゴを原動力にして、生きていけば、うまく行くと私は思う。
>>979 その事に関しては私もそう思います。エゴが自然な流れとして
出来事の流れの中で出てきた時、それはやはり自然な自分なのだと思うからです。
それを無理な形で、押しとどめようとしたり、借り物の思いや思想で
代用したりしても、葛藤の中に迷い込んでしまうか、恨みに身を焦がすか
諦めの虚脱の中で憔悴するしかないのではないでしょうか?
そしていずれは本当の自分からのの反撃にあい、嘘の偽りを身につけた自分は
敗北するような気がします。
どんなに美しいあるいは理想論がそこにあったとしても
その人間の道程として心からの理解と、同一心がそこになければ
所詮虚飾は何処まで行っても虚飾出しかなく、嘘なのだと。
それよりはエゴを抱えながらも自分に正直な道を歩み行き、そのエゴから
導き出される出来事から自分を見出し理解していく方が、まだ真実がそこに
在るように思えるからです、
「悟り」という言葉をここの板でよく聞きますが、人によってはまるで
エゴを無くするのが良い事のような言い方を書いています。
私はそのような人間には、なにか作為的なような物を感じます。
肥大しすぎたエゴは身を滅ぼしかねませんが(肥大しすぎたエゴは
私は本当のエゴだとは思いません、余計な物がくっつきすぎた結果だと思います。)
エゴをなくした人間は、とてつもなく危険な(その人間自身が)気がするからです。
そうなれば、本当に「神のようだ」という看板だけを持たされて
人身御供のような物なのではないでしょうか?