宗教命令「ファトゥ」byオサマ・ビン・ラディン

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1三島
世界各地からやってきた「イスラム義勇兵」は、世界各地に「アラブ・アフガン」として散らばり、
世界各地で「イスラムテロ組織」として恐れられている。そのアラブ・アフガンの中でもアメリカが
もっとも恐れている人物がいる。それが、オサマ・ビン・ラディンだ。
1998年8月7日、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が同時に爆破された。220人の死者を出したこの爆破テロに
アメリカは激怒し、13日後の20日、スーダンとアフガニスタンの施設を空爆した。この事件の黒幕で
アメリカを激怒させた人物こそ、オサマ・ビン・ラディンである。彼はサウジアラビアの建設会社社長、
モハメド・ビン・ラディンがつくった57人の子供の17番目の子として生まれた。
大学で経営学とイスラム神学を学び、サウジ王室とのつながりもある。彼は1980年、アフガン戦争に
イスラム義勇兵として参加している。彼の仕事は、医療センター・軍事施設・武器貯蔵庫を作ったり、
諸外国からの寄付金を集めることを主にしていた。ちなみにこの軍事施設や武器貯蔵庫の建設にはアメリカの資金も入っている。
彼は多くのアラブ・アフガン同様、アフガニスタンで世界各国のイスラム指導者たちと親交を深めた。
93年に起こった世界貿易センタービル爆破事件の首謀者で、エジプトのイスラム過激派「イスラム団」の
リーダーでもあるアブデル・ラーマン(現在服役中)とも出会い、彼を師と仰いでいた。アフガン戦争後、
ビン・ラディンはムジャヒディンたちの内戦に幻滅して母国サウジアラビアに帰り、家業の手伝いをしていたが、
91年の湾岸戦争でのサウジ王室の政策(サウジにアメリカ軍を駐留させ、イラク攻撃の支援をする)に激怒、
王室を公然と批判した。これ以後、反政府活動を展開し、92年には王室から「ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)」と
宣告され国外追放になった。
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そして向かった先がスーダンだった(1994年)。ここでカリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、行動を共にした。
96年、アメリカやサウジアラビアの圧力によりスーダン当局はビン・ラディンに出国を要請し、彼は部下や家族を引き連れ
再びアフガニスタンに戻った。そしてパキスタンの仲介でタリバンと出会い親交を深めていき、タリバン指導者たちに反米思想を植え付けた。
このころには、世界中のイスラム過激派に対する最大資金提供者としてCIAから眼を付けられていた。
そして1998年2月、ジハードの時にアメリカの資金で作った彼の軍事施設に世界中から仲間を集めて会合を開き、
「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成。「軍人、民間人を問わず、アメリカ人とその同盟者を殺すという決定は、
どの国で実行できるかを問わず、ムスリム一人一人に与えられた個人的な義務である」という宗教命令「ファトゥ」を発令した。
そしてその半年後、大使館が爆破されたのだ。以後、アメリカはビン・ラディンを捕まえた者に500万ドルの懸賞金を出すと宣言し、
いまもその行方を追っている。
3名無しさん@1周年
オジサマ・ビンビン・ライディーン