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渡海 難( p6069-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):
願成就の文、『経』に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上
また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし、と。已上
親鸞は、大無量寿経の下巻を引用し、讃歎の客体と讃歎の主体を明示している。何を讃歎しているのか。威神功徳不可思議なるを讃歎している。誰が讃歎しているのか。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来が讃歎している。
威神の威とは「表面に現れた品格」という意味だ。神(じん)は心(しん)だろう。これは内面の品格だ。功徳とは、献身的な行動という意味だろう。不可思議とは、常人の想像を超えるという意味だろう。称讃の客体は、常人の想像を超える気高く献身的な行動そのものである。
十方世界とは、あらゆる世界という意味だろう。東・西・南・北・北東・北西・南西・南東・上・下で十方となる。これは地理的方向性を示していると解することも出来る。
しかし、地理的方向性なら、上・下とはどういうことか。山に住んでいる者、地中に住んでいる者という意味か?これではどうも話が見えない。
東・西・南・北とは、過去・未来・生産・休息という意味の象徴だろう。太陽は東から上って西に向かう。古代の人は太陽の運行と位置で時間を知った。
東の諸仏とは、過去を重視する賢人達という意味だろう。西の諸仏とは、未来を重視する賢人達という意味だろう。南の諸仏とは、生産を重視する賢人達という意味だろう。北の諸仏とは、休息を重視する賢人達という意味ではないだろうか?
北東の諸仏とは、過去のいきさつと休息を重んじる論者達だろう。北西の諸仏とは、未来への方向と休息を重んじる論者達だろう。南西・南東も同様に考えるべきだ。
そうすると、上方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者、下方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者と考えればいい。
釈尊先生の気高く献身的な行動は、価値観の違うあらゆる立場の賢人・論者達から絶大な尊敬を受けた。だからこそ「先生」と仰がれた。親鸞はそんな釈尊観を真理(人格)にシフトする。
真理は、現に、あらゆる立場の賢人・論者から尊重される。さあ、真理を師と仰ぎ、師と呼ぼう。親鸞はそんな意味のことを述べている。