また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要
親鸞は、「重誓偈」と呼ばれてきた部分から一部を引用してくる。抄要とは、重誓偈の一部を抜き出すという意味だ。
親鸞が引用した内容は大悲の願とほとんど同じだ。ほとんど同じ文をなぜ引用するのか。違いがあるからだろう。「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」。新たな引用はそういう部分を含めている。
「名声十方に超えん」というのは、それ自体が真の目的ではない。親鸞はこの背後にある真の目的をつ読んでいる。衆のために宝蔵を開くということ。功徳の宝を施すということ。大衆の中で説法師子吼するということ。これが最終の目的であるということだろう。
「衆のために宝蔵を開く」。人々に自分が知った認識を開放するということだ。「功徳の宝を施せん」正しい認識を得させるということだろう。
「常に大衆の中にして説法師子吼せん」とはどういうことか。百獣の王である獅子が声を挙げると、他の獣たちは息を潜める。大衆を継続的に指導し続けることで、間違った考えが発生してくることを防ぐということである。
釈尊先生は、自分を多くの賢人達に受け入れられるようにしようと努力された。その目的は、自分が名誉を得ることにあったのではない。自分が知り得た真実を人々に公開していこうと願っていたからに他ならない。
親鸞は、大無量寿経から釈尊先生の意思をそのように読み、その心を真理(人格)にシフトしていく。