「親鸞仏教の正当性を問う」から始めた教行信証論の続きです。
「総序」と「教の巻」が終わっていますので、以後、「行の巻」を論議していきたいと思います。とりあえず、「経巻部」の完結を目標とします。
議論が立ち往生する可能性もありますが(苦笑)、活発に議論参加してくださる方が出現してくださると嬉しいです。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
と と と・う・み とうみの なんは〜
ね ね ね〜んぶつ な〜む と〜うみ な・ん
とうみの ね〜んぶつ な〜む と・う・み・な・ん
渡海難氏の本スレでの活躍を心よりお祈り申し上げます
渡海難先生のすぐれた検証に期待しております。
私たちも、是非、渡海難先生のもとで、次のような念仏に関わる
多様なテーマを検証していきたいと思います。
娑婆世界 即 浄土 の立場をとるのか?
娑婆即浄土の立場か? あくまで現実以外に存在する想像上の浄土をとる立場か?
法蔵菩薩の18願における例外(五逆者、正法誹謗者)をどうとらえるか?
八熱地獄を信じるのか?
空也が民衆に布教した意義をどうとらえるか?
良忍の念仏行はすべての行に通ずるというのは本当か?
仏法と王法が互いに依存し助け合う新国家仏教を求めた伝教大師最澄
の立場をどうとらえるか?
貧しい者、愚かな者に往生の望みをとげさせるための弥陀の本願を
どうとらえるか?
法然は流罪後、異端・破戒を非難しているが、念仏に破戒という概念は自己矛盾では
ないか?
法主の破門権は、免罪符と同じではないか? 真宗は生き神信仰か?
飢饉・戦乱の時代でないと念仏ははやらないのではないか?念仏の宗派が
教団拡大しようとすることは、社会の混乱を暗に願っているのではないか?
渡海難先生の本スレでの活躍を期待し、挨拶にかえさせていただきます。
>>6 まともな議論を期待しちゃダメだよ。
渡海教の経典には「天上天下 唯我独裁」(2chは俺の独裁で動いている掲示板であり、これに歯向かう者はすべてお坊さんという意味だそうな)と書いてあるからね。
奴のカキコパターンを例によってまたコピペするからそれを読んでから議論してくれ。
改訂版・渡海難のカキコパターンだ。
これを渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げる。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエーションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
>>9 スマソ。<(_ _)>
>これを渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。(誤)
渡海スレに行く前に、これも読んでおいてくれ。(正)
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顕浄土真実行文類二 諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行
顕浄土真実行文類二 謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
親鸞は、教行信証の「行の巻」を「顕浄土真実行文類」と命名している。「顕浄土真実」とは、「顕浄土方便」という概念と対になる。
「顕浄土方便」という言葉は化身土巻の標題にある言葉だ。教行信証で親鸞は、浄土というものを明らかにしようとしているようだ。浄土は、真実と方便という二つの概念で明らかにすべきものだ。親鸞の姿勢が見えてくる。
教行信証は、「教・行・信・証・真仏土・化身土」という六巻部で構成されている。その内、親鸞は「教・行・信・証・真仏土」の五巻について「真実」という言葉を配し、「化身土」について「方便」という概念を適用する。
真実・方便のこの配し方は妥当か?。私よれば、「教・行・信・証・真仏土」の五巻では観念の世界が語られ、「化身土」の議論に、私には実体的具体性を感じてならない。
親鸞においては、我々が観念と思うものを真実と捉え、我々が実体と捉えるものを観念と捉えるのか。そんな感じがしてきてならない。私は、自分の感触と親鸞の感触に対照的なものを感じているということに注目しておきたい。
仏教とは教育学習論である。これが私の仮説だ。生徒は先生に学び、先生は生徒を教える。学ぶ行為と教しえる行為とは方向が正反対である。
学ぶ行為とは、知識経験の無い生徒が真理に向かって行こうとする行為だ。教えるとは、真理を得た者が、真理を背にして知識経験の無い者の中に分け入ろうとする行為だ。
真理に向かう方向を親鸞は往相とよぶ。知識経験の無い者の中に分け入ろうとする方向を還相という。
親鸞は、学習論の中に教・行・信・証を立て、その内の行すなわち行為論を行の巻きで議論する。
>>6 名前:来賓挨拶
>渡海難先生
ま、冗談とは分かっていますが、「先生」という言葉は止めませんか。僕は自分が名指しされている感じがしないんですよ(苦笑)。
>娑婆世界 即 浄土 の立場をとるのか? …
こういう議論は、いずれ触れることになると思いますが、直接言及するという議論形体になるかどうかは分かりません。
18願は信の巻きで議論することになると思います。地獄論は、もし触れることになると化身土巻だと思います。行の巻きではあくまで十七願と「大行」を巡る議論になると思います。
親鸞仏教では、親鸞以後の先人が十分に答えてない問題が多数あります。そのうちの幾つかは、できるだけ議論していきたいと思っています。
あぼーん
渡海難さん 初めまして。
浄土真宗の門徒です(熱心な門徒ではないですが)
単純?といいますか勉強してる方は笑うような質問をしたいのですが
いいのですか?難しい回答は困るのでが・・。
>>19 X君へ。
渡海の相手になってはいけません。荒れる原因になります。
そもそも彼とまともに議論は出来ません。
放置することをおすすめします。
詳しくは
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=997002274をお読みください。
<参考資料>
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 ・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
あぼーん
会員X、会員Yも登場するようですので、祝電披露です。
渡海大師へ
親鸞仏教パートVの立宗、おめでとうございます。
他のスレッドを害さず、反渡海大師の法難・テロに屈さず、
渡海大師の解釈をご披露していただければさいわいです。
会員Y
あぼーん
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渡海上人 様
と〜うみ と〜うみ す〜れの な〜かの と〜うみは〜
い〜つ い〜つ 荒〜れ〜る
よあ〜けの〜 ば〜んに
真宗坊さん かきこんだ〜
渡海の 相手は だ〜れだ
荒らされないようご注意もうしあげます。
あぼーん
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>往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
教行信証の本論に深く入る前に、親鸞特有の因果論を理解しておく必要がある。
因果論というのは、善因善果、悪因悪果という考えだ。善果は善因からのみもたらされる。悪因は悪果しかもたらさない。親鸞はこの考えをかなり厳密に扱っている。
因果には、縁の介在する因果と、縁の介在しない因果がある。例えば、誕生期があったものは必ず減衰期があり、消滅期がある。誕生期があったものだけど、縁が幸いして減衰期も消滅期もない。こういうものはない。
減衰期、消滅期のあるものは、必ず誕生期があった。誕生期の無いものが、縁が介在して減衰、消滅したということはありえない。
しかし、同じように誕生し、同じように育てられた双子だけど、一方は金持ちになり、他方は窮乏すると言うこともある。これは縁による。
水は上から下に流れる。しかし、川の水は嵐に出会うと河口から川上に向かうことがある。どんな川にも誕生期がある。誕生期のあった川は、変貌期があり、消滅期もあるだろう。そして川の水は川下から川上に向かうこともある。
それなら、水は下から上に流れると言っていいのか。たとえ、川の水が遡上することはあっても、水は下から上に流れると言うことは誤りだろう。なぜなら、水は上から下に流れるというこのあり方には、誕生期はない。だから変貌期もない、消滅期もない。
川の水は嵐という縁によって、流れを変える。しかし、水は上から下に流れるというのは、水の本質に着眼した考えだ。ものの本質論は縁に左右されない。
縁の介在しない因果論はものの本質に着眼した考えであり、縁の介在する因果論は現象に着眼した因果論と言っていいだろう。一方は金持ちになり、他方は窮乏する。豊になるか貧しくなるか、これは人生における一時現象的問題だ。
人間の本質は、生・老病・死していく存在である。生・老病・死していく存在であるというありかたには縁の介在する余地はない。縁が介在したために不死身になるということはありえない。どんな薬が発明されても、不老不死になることはないだろう。
縁の介在する因果は迷いの因果。縁の介在しない因果は真実の因果。僕はそう呼びたい。
親鸞仏教は、ものごとの本質に着眼する。救われるのか救われないのかという問題は、我々の本質に着眼した議論である。縁が介在する議論ではない。本質には、始めもなければ終わりもない。変貌もない。
悟りは真実である。真実とは本質に着眼した議論だ。真実には始めもなければ終わりもない。変貌はない。我々が真実の悟りを得るということつまり仏果を得るとすれば、それは仏因つまり真実の因によらないといけない。
つまり、仏が仏になっていくという因果の流れに乗託しなければならない。この問題は、もっと説明しないと分かりにくい。じっくり議論しないと本論に入れない。
>>19 >笑うような質問をしたいのですがいいのですか?
どうぞ。どうぞ。僕でよかったら分かる範囲で答えますよ。僕に分からないことでも、2CHにはたくさん専門家がいる。みなさんが答えてくれるでしょう。
>難しい回答は困るのでが・・。
<難しいことは僕にも分からない(笑)。>
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41 :
名無しさん@1周年:01/09/12 22:22
ほんとにヒマだねー上の人
お前犯罪者じゃねーのか?
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61 :
名無しさん@1周年:01/09/13 21:04
渡海難聖人 様
>仏が仏になっていくという因果の流れに乗託しなければならない。
浄土に生まれて、そこで修行して仏になるんですか?
真実の果は真実の因から生じる。迷いの因は迷いの果をもたらす。真実の因は必ず真実の果をもたらす。縁が介在する余地はない。親鸞の因果論にはそのような考えがあるようだ。
仏果は仏因から生じる。我々に救いがあるとするなら、仏が仏になっていく流れに乗託して始めて具体化する。アウトラインで親鸞の考えを言うなら、そんな言い方になるのだろう。
もう少し具体的に説明しよう。私が仮説的に言えば、親鸞は、真理そのものに人格を認め、人格としての真理の救済活動に乗託して始めて救われていくという考えを採るようだ。
真理は人格である。バスにナイフをもって乗り込み、乗客を殺して運転手を脅迫する少年の言葉に、心理学者・精神医学者はひたすら耳を傾ける。
科学者は花に生命の起源を学び、画家は美の神髄を学ぶ。実にあらゆるものが様々に教えてくれている。
真理は、自らを求める者に喜びを付与し、多くの苦難の克服を可能にし、多くの苦難の克服したものに自らの姿を顕わにし、そのものに先駆者としての栄誉を与える。
我々にとっての最大の教育者は真理そのものである。
真理には、傑出した教育者としての意思と行動力がある。親鸞は、真理のそのもののあり方に、二千年、三千年昔の釈尊と同体の人格すなわち、釈尊と同一の意思と行動を認めるのだろう。
釈尊先生は、王家に生まれ、王位を捨てて出家され、三十五の時に十二因縁の法理を見いだされた。祇園精舎を建設し、学則を定めて人類で最初の全寮制の学校事業を開始されて多くの賢者を育てた。
大無量寿経は、小乗仏教(基礎教育)を終えた若者が釈尊のような教育者を目指すにあたって、その道順を示す。王位を捨てた一人の修行者法蔵菩薩が教育者阿弥陀仏になっていく課程を示している。
阿弥陀仏は、釈迦がモデルだ。阿弥陀仏は、極楽浄土という学校を創る。極楽浄土のモデルは、無論、祇園精舎である。真理の意思と行動が釈迦に重なるなら。真理の教育活動の根は、釈迦の教育活動の根と本質は同一のはずである。
釈迦の教育活動は、修行者としての釈迦(因)が大乗の仏釈迦(果)に成っていくその因果の課程の中で実現されてきた。そう考えれば、釈迦をモデルに描かれた大無量寿経の阿弥陀と極楽物語は、人格としての真理が実践する教育活動と重なってくる。
我々が真理に目覚めていく課程は、真理を目覚ましてくる人格としての真理そのものの教育活動の因果に符合する。真理の因果は人格上でどのように流れ、我々を目覚まし来るのか。真理の人格で流れる因果のあり方を親鸞は大無量寿経に求めていく。
どうも分かりにくいようですので付加します。
訂正前 修行者としての釈迦(因)が大乗の仏釈迦(果)に成っていくその因果の課程
訂正後 修行者としての釈迦(真実因 仏因)が大乗の仏釈迦(真実果 仏果)に成っていくその因果の課程
<これで分かってもらえますか(苦笑)。分からないと言う意見がでてくればもう少し工夫します。そうでなければ、次ぎに議論を進めます>
あぼーん
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このスレッドは68を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
あぼーん
71 :
名無しさん@1周年:01/09/14 07:48
渡海難大権現 様
あのさ〜、浄土に生まれてそこで仏になるっていうんでしょー
現代は、戦乱や飢饉で野垂れ死にする人がうじゃうじゃいた
鎌倉期とは違って、浄土みたいなものだよねー
だったら、家が浄土経系だったら、現代こそ仏になる修行
するべきなんじゃないの? 現代日本で、死後の極楽浄土求める
奴は、念仏教徒じゃないよね。破門だね。
現代で、念仏すれば浄土に生まれて救われるなんて言ってる
坊さんは、いらないよ。あまいよ。飢えに苦しむアフリカとか
行って布教してこいよ、そういう奴は。そこで、現代の
日本人が極楽往生願う甘さを知ってこいよ。
まー、座禅念仏すすめている渡海難も同罪かな?
現代の念仏者が、自力で仏になる行をせずして、18願なんか
実現するわけないよ。
現代日本で念仏して浄土に生まれようとしている念仏者は
嘘つきだよ。いんちきだよ。カルトだよ。渡海だよ。
あぼーん
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74 :
名無しさん@1周年:01/09/14 12:27
渡海難 大明神 様
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どうもうまく説明できていない。親鸞の考えをもう一度仮説的に述べてみたい。
真理は拡散する。拡散する前も拡散した後も真理は普遍的に真理である(久遠実成性)。拡散した前も拡散した後も善である。真理は、一人によって認識され、二人、三人に認識されていく。真理の本質的拡散により、認識した人が一人、二人、三人と救われていく。
救われていくとは、真理を知っていくつまり迷わなくなるということだ。真理の本質的一方向的動きに拡散性がある。逆行はない。ここに因果がある。
一人によって認識され、二人、三人に認識されていく。一人に認識させ、二人、三人に次々と認識させていく。
仏教の善因善果は、自分の悪因を磨いて善果を得るというものではない。真理の善因善果(拡散性)を拡散性に求め、そこに意思と行動性を観念する。
ニュートンを例にとる。彼はどのようにして救われたか。この場合の救いとは、真理を認識するということである。物理法則すなわち、「万有引力の法則を認識する」ということに譬える。
ものが落ちるという現象は、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、アルキメデスも、孔子様も見ていた。
しかし、ニュートン以前には、誰一人万有引力の法則に気づいていない。ニュートンが始めて気付いた。万有引力の法則は、ニュートンを奮い立たせ、夢中にさせ、様々な苦難を克服させ、偉大な物理学者に育てていった。
ここに万有引力の法則の人格的な作用を観念できる。ニュートンの発見以後、多くの人々に認識されていく。
偉大な物理学者に育てようとする万有引力の法則それ自体の働きは、過去の全ての賢人にも平等に働いていたはずであると考える。それに呼応したのはニュートンがはじめてだろう。
ニュートンが呼応した契機や動機(縁)にはいくつか原因があるだろう。なんらかの契機や動機があってニュートンが呼応した。しかし、ニュートンの契機や動機づけ自体にも、万有引力の法則それ自体の人格的な働きが様々に作用(縁)していたと観念できる。
真理は、人格性を具してニュートンの前に現れ(因)、教育者として作用することで、やがてニュートンを偉大な物理学者に育て、その姿をニュートンの意識に届け(法則発見)、その姿を明確なものにした(果)。
釈尊先生は王宮に生まれた。先生は王宮では何ら不自由ない生活をしておられたが、王宮内に留まる限り何ら人々に対して働きはなかっただろう。
先生は、いったん仮に教育者(善因)として作用することで人々を教え育て、やがて人々に幸福を実現し、大乗の仏(善果)に戻っていかれた。人々は、先生の善因善果に乗じて育てられていった(善果)。
親鸞は、真理の人格的教育性、拡散性に釈尊先生と同質の人格性を認め、釈尊先生をモデルに描いた阿弥陀物語から、真理の姿を認識していく。これが親鸞仏教だ。
あぼーん
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>87
クソスレをむやみにあげないように!板全体が荒れる恐れがあります。
以後、sageでカキコしてください。
>>87は渡海信者です。
渡海を支持する者も、渡海と同様のカキコをします。
つまり、渡海を馬鹿にする者=坊主と言っています。
あるいは、渡海をヨイショする(応援する)カキコをします。
今後、このようなカキコをした者は全員「渡海信者」とみなし、ブラックリストに掲載します!
ひどい場合は武力行使をするかもしれませんので、そのつもりで。
>ひどい場合は武力行使をするかもしれませんので、そのつもりで。
武力行使はやめたほうがいいと思われ。
板全体に迷惑をかけるだけ。
それよりも渡海難と渡海信者は完全放置したほうがいい。
あぼーん
あぼーん
カンパのお願い
みなさまへ
渡海 難
平成12年2月
(1) 浄土通信維持のため、経済的な支援をしてくださる方を捜しています。
(2) 最近、浄土通信宛に掲示板、電子メールなどで多くの質問、問い合わせが送られてきます。当方はそれらにできるだけ迅速にお応えしようとしています。
(3) 質問の内容は親鸞仏教の本質に関わる問題が多く、回答に時間をとられています。
(4) 親鸞仏教を将来に向けて正しく語り伝えて行くことは、多少なりともそれを聞きかじってきた者の喜びであり、また責任と考えています。
(5) こちらは自由業とは言え、家族を抱えた生活があります
あぼーん
名前:渡海 難( p3038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 投稿日:01/09/15 11:55
>>351 名前:渡海 難さん、頑張れ
折角ですが、2CHでカンパのお願いをするつもりはありません。
私のホームページからのカンパのお願いのコピペは、どうかご遠慮下さい。
96 :
名無しさん@1周年:01/09/16 09:16
渡海難教授 様
わたしは、あみだ幼稚園浄土組の園児です。かたし教授にお手紙します。
お手紙は、幼稚園の かんのん先生に代わりに書いてもらってます。
質問があります。
科学的探求精神が人格化するというのはわかるのですが、
個々の法則が人格をもつとはどういうことですか?
よくわかりません。
苦をなくしたいという精神が、人格化して阿弥陀如来となって
現れるのではないですか?
かたし教授の投稿は、いつも幼稚園で話題になっています。
精神の健康に気をつけてがんばってください。法華組や華厳組や
あごん組みのみんなも注目しています。
かたし先生はあみだ幼稚園のヒーローです。 さようなら。
>96
お前は皮肉か?それとも本当に渡海ビリーバーか?
糞スレ上げるなって言ってるだろ、ボケ!
>>96 >教授 <?? 苦笑>
>個々の法則が人格をもつとはどういうことですか?よくわかりません。
個々の法則が人格をもつということじゃないんです。万有引力の法則とか、オームの法則とかいうものがまずあるんだとか、それが人格を持つんだということじゃないんですよ。
真理は本質的に拡散性があるということ。拡散させようという意思と拡散させる行動力を観念できる。意思と行動力が観念できれば、これは人格として観念できるではないかということです。
真理は拡散性を持つ。真理の拡散性向は誰にも止めることができない。権力者は、知識人弾圧でそのスピードを減速させることはできても、いったん拡散した真理を前の縮小段階に戻すことはできない。
「太陽が回っていると思え」と裁判官に命令された人が、判決後、「やっぱり地球は回っている」とつぶやいたという話は有名です。(史実かどうかは知りません。)
岩波文庫の末尾に、創立者岩波茂雄の言葉が載っています。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつて民を愚民ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されることがあった。
いまや知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取なる民衆の切実なる要求である。…」
真理の拡散性向に不撓不屈の精神と行動力を認識し、これを人格として観念してみよう。その不撓不屈の精神と行動力は、釈尊先生の精神と行動力に重なるじゃないか。これが親鸞の仮説だろうと僕は思うんです。
真理は、拡散後も拡散前も真理なんです。物と物は引き合うという原理は、ニュートンが発見しても発見しなくても真理なんです。
ところが、その法則にニュートンが気付くと、その内容は王立委員会で発表され、スピードの速い遅いはあるでしょうが、世界中に拡散していきます。
王立委員会で発表した人物はニュートンですが、ニュートンにそういう行動を採らせたのは、ニュートンに発表させないではおかなかった真理自体が具有する拡散性向そのものじゃないか。そう観念できるでしょう。
真理認識の拡散は、誰も止めることができない。押しとどめることはできない。ここに、拡散性行のある真理自体の意思と行動力を観念できる。人格を認めることができるということです。
>苦をなくしたいという精神が、人格化して阿弥陀如来となって現れるのではないですか?
苦とは何かということ。まずここを考えてみましょう。
自分は苦しいとか苦しくないとか、苦には、主観的な意識の対象感覚としてのものがあると思います。借金に追われて苦しいとか、病気の痛さに耐えられなくて苦しいとか、全てこれは苦です。
でも、借金苦は返済できれば解決されます。痛さの苦は病気が治癒すれば解決されます。一時的な苦です。
一時的な主観的な苦の解決も非常に大切ですが、仏教が視野に入れている苦とは、一時的な苦の背後にある本質的な苦だと思います。
一億円の宝くじが当たって有頂天になっていれば、それを苦と思う人は少ないでしょう。でも、仏教は、有頂天自体にも苦という概念を適用してきます。
鬼の心で鬼の行動を採る者を鬼と言います。ケダモノの心でケダモノの行動を採る者をケダモノと言います。
昨日まで有頂天でいた者が、今日は鬼畜となり、やがて地獄に堕ちていく。地獄の底で慚愧して真人間に戻ったのもつかの間、再びケダモノになっていく。意思と行動が変われば人格が変わります。人格が変われば、変化の一つ一つの節目に挫折と再起があります。
再起(生)・衰退(老病)・挫折(死)の繰り返し、これを本質的な苦と考えているんだと思います。
苦をなくすとはどういうことか。苦をなくすとは、再起(生)・衰退(老病)・挫折(死)の繰り返しを断つということです。繰り返しを断つとはその原因を無くすということです。
苦の原因は何か。釈尊先生は、原因に無明という概念を立ててきます。釈尊先生が立てられた無明という概念は、恐らく現代語で言う無知という言葉に一番近いんでしょう。
しかし、無知という言葉が、知的という範囲に概念が限定されるとするとすると、それよりはもう少し深い感じがします。
本当の事が分かっていない。本質が分かっていない。だから、一時の感情で有頂天になり、鬼にもなり、ケダモノにもなる。ものごとの本質が分かってくれば、有頂天にもならない。
鬼にもならない。ケダモノにもならない。冷静に物事を見極めることがことができるようになる。釈尊先生はそう考えられたのでしょう。
本質的なものを知っていこう、見極めていこう。釈尊先生はそう提案された。
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」
自分自身の無知に気付くということは、「互いに教え合おう、学び合おう」という提案に賛同するということでもあるんでしょう。親鸞は、教行信証の末尾に安楽集を引用しています。仏教の本質を明確にしている言葉だと思っています。
実にあらゆるものが我々に向かって様々に真実を語ってくれています(真理の拡散性向)。我々に向かって真実を語ってくれているということは、我々の無知を目ざまそうとしてくれているということでしょう。
ニュートンに万有引力の法則を気づかせた働きも、万有引力の法則を知らないニュートンの無知を破り、万有引力の法則を知らない万民の無知を打破していこう、苦を打破していこうという真理の自体の働きではなかったか。
親鸞はそんな仮説を立てているんでしょうね。
あぼーん
あぼーん
ほとんどあぼーんされてる。
これは渡海信者によるテロ行為だ!
110 :
名無しさん@1周年:01/09/16 22:26
何かの記録を樹立しようとしているのか?
南無阿弥陀仏
112 :
名無しさん@1周年:01/09/16 23:03
念仏大学 渡海難 名誉教授 様へ
こんにちは。阿弥陀幼稚園浄土組の園児です。またお手紙します。 かんのん先生に代わりに
書いてもらってます。
かたし先生は、真理が拡散すると考えるのですか? 真理は誰にでも受け入れられるということ
ですか? 真理が主体となって広がっていくと考えるのでしょうか?
真理自体に意思と行動力があるのでしょうか? 真理を得た人は真理を伝えざるをえないという
ように真理の客体としての性質でしょうか?
というより真理自体に意思と行動力があるとすると、どのような苦を救済できるのでしょうか?
法華組のひとが批判していました。
かたし先生の話は、話題を提供してくれるので、みんな楽しく読んでます。
荒らしにきをつけて、がんばってください。さようなら。
113 :
名無しさん@一周年:01/09/16 23:10
いま、疹乱会の活動家連中は、アメリカ逝ってるようだから、やはり、荒らしは
叛癌寺の坊主どもか?
114 :
名無しさん@一周年:01/09/16 23:13
115 :
名無しさん@1周年:01/09/16 23:29
>>186 荒らすのは、疹乱会か叛癌寺の坊主どもだという発想しかないのですね。
あなたもカルトでしょ!
少し議論を進めます。
往相の回向について大行あり。大信あり。親鸞はそう言う。
「往相の回向」とは教育・学習論の中の学習論の部と言っていいだろう。学習とは、知識経験が未熟な者が、真理を求めていく行為を言う。学習論について大行あり、大信あり。これはどういうことか?。
こういう問題は、阿弥陀仏のモデルとなった釈尊先生のあり方に戻って考えるのが親鸞仏教の原則である。
かつて釈尊先生は、王宮に生まれ、何不自由ない生活をすごされていた。やがてそうした幸せと王位とを捨てられると、苦しみの溢れた人々の中に分け入られる。
人民の苦しみの中で出家され、修行という形で人々に代わって苦しみを引き受けられ(代受苦)、人々に代わって十二因縁の法理を悟られた。
やがて祇園精舎を建設され、自らが認識された内容を人々が容易に認識できるよう、認識に至る手段を説かれた。認識できるような手段を行という。人々は、先生の修行論を通じて釈尊先生の不屈の心を知り(信)、修行の中から先生の認識内容を体得していく(証)。
釈尊先生の教育・学習論論は、そのまま、阿弥陀仏にシフトして考える。阿弥陀仏とは、人格的に捉えた真理そのものである。
人格で捉えた真理は、釈尊先生と同質の意思と行動を持ている。そう考えるのが親鸞仏教の原則である。
真理に向かうに当たり、釈尊先生はお弟子さん達に、方法論を説いた。そうであれば、人格で捉えた真理すなわち阿弥陀仏も、人々に真理に向かう方法論を説いているはずである。
その方法論は何か。阿弥陀仏が説いている修行論を親鸞は大行と名付ける。
釈尊先生のお弟子さん達は、先生から示された方法論を実践する中で、先生の心を感じていく。阿弥陀仏の方法論を実践すれば阿弥陀仏の心が感じられてくる。見えてくる。見えてくる阿弥陀仏の心を、親鸞は大信と名付ける。
117 :
名無しさん@1周年:01/09/16 23:40
少し議論を進めます。
120 :
名無しさん@1周年:01/09/16 23:54
それでは、少し議論を進めます。
121 :
名無しさん@1周年:01/09/17 08:35
極楽浄土もこの世と変わらないんだね。仏を目指す努力をしないと同じだよね。
あぼーん
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=saku&key=984405665&st=237&to=237&nofirst=true テロ犯人のカキコ
↓
237 名前:名無しさん :01/09/16 13:49 ID:rZ/2XUrk
レス削除をお願いします。
親鸞仏教を問う(V)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 2‐4,11‐13,15,18,21,23‐26,28‐35,39‐40,42,45‐60,65‐70,72‐73,75‐78
81,83‐87,91‐92,
4. 投稿目的による削除対象 レス・発言
議論を妨げる煽り
不必要に差別の意図をもった発言
第三者を不快にする暴言や排他的馴れ合い
同一の内容を複数行書いたもの
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿 レス・発言
スレッドの趣旨から外れすぎ、議論または会話が成立しないほどの状態になった場合
故意にスレッドの運営・成長を妨害していると判断した場合
6. 連続投稿・重複
■連続投稿・コピー&ペースト
連続投稿で利用者の会話を害しているもの
個々の内容に違いがあっても、荒らしを目的としていると判断したもの
コピー&ペーストやテンプレートの存在するもの
・全く変更されていない
・一部のみの変更で内容の変わらないもの
・スレッドの趣旨と違うもの
・不快感を与えるのが目的なもの
・荒らしの意図がある
■アスキーアート
必然性がない
# ガイドラインに掠る程度のレスも含めています。ご吟味の上、削除をお願いします。
>>112 >真理が拡散すると考えるのですか? 真理は誰にでも受け入れられるということですか? 真理が主体となって広がっていくと考えるのでしょうか?
真理が拡散すると考えてもいい。拡散しないと考えてもいい。真理は誰にでも受け入れられると考えてもいい。真理は誰にも受け入れられないと考えてもいい。真理が主体となって広がっていくと考えてもいい。真理が主体となっては広がっていかないと考えてもいい。
難しい事じゃないんですよ。ものごとを多面的に考えよう。これが要点です。複眼的にフレキシブルに考えてみようじゃないか。視点の置き所を増やしていこう。そういうことなんです。
視点の置き所を増やせば、見ている対象は同じでもいろいろと見え方が変わってくる。拡散するとも見えるし、拡散しないとも見える。誰にでも受け入れられるとも見えるし、誰にも受け入れられないとも見える。
視点視点の違いで見え方が違う。一つにこだわることは止めよう。ある視点での見え方に沿って活動してきて、困ったら視点を変えようじゃないか。別の方向から見たら形が違うんだから、そこから改めて考えよう。そう言うことです。
真理は拡散しないという議論の立場もあるでしょう。もともと真理などは無いという主張も可能でしょう。みんな視点が違うんですよ。その中で、真理は自ずから拡散していくと見えていくそういう立場を親鸞は、数ある中の視点の一つとして提案している。
親鸞の提案に賛成するか反対するか、それはそれぞれの人の自由です。従来の視点を廃止しなさいなどと言っているわけじゃない。ある一つの視点を持っている人には、視点の数を二つにしませんかと勧める。二つ持っている人には三つにしませんか、と勧める。そういうことです。
>真理自体に意思と行動力があるのでしょうか?
そうですね。「意思と行動力がある」そのようにだって観念できるでしょう。そういうことです。
意思なんか無い。行動なんかあるわけない。そういう考えはとても大事な考えです。「意思もある。行動力もある」。そういう考えより、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない。」という考えの方が本当は大事なんです。
人生の恐らく99.9%の場面では、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えでいかないと不便です。ところが、「意思もある。行動力もある」という考えで考えた方が便利な場合がある。
「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えだけでは行き詰まることがある。そういうことがある。だったら、0.01%の場面で通用する考え方も忘れずに持っておこう。親鸞はフレキシブルに提案しているんですよ。
「意思もある。行動力もある」という考えで、「意思なんか無い。行動なんかあるわけない」という考えを置き換え、「意思もある。行動力もある」という考えで一本化するなんてことは愚かなことです。
そう言う人は人生のあらゆるところでつまずくでしょう。狂信的カルト信者が人生を誤るのはそういう場合だと思います。
>真理を得た人は真理を伝えざるをえないというように真理の客体としての性質でしょうか?
真理を人格で捉え、救済の主体と考えれば、我々は真理の客体となるでしょう。
例えば親鸞は機の深心という概念を立ててきます。機は器(うつわ)という意味でしょうね。自分の器量を正確に知るということでしょう。器(うつわ)とは、法というボールが飛び込んでくるグローブのようなものでしょう。
真理を伝えざるをえなくなるかどうか、これはグローブの質によりますね。直球が飛び込んできて、それをソフトに受けられるグローブもあれば、突き指を招くようなグローブもある。突き指を招くようなグローブではすぐに投げ返せない。
急いで治療しなければなりませんから、投げ返すどころじゃない。真理を伝えざるをえなくなるかどうかは器の質が大きく影響します。
伝えざるをえなくなる衝動に駆られる人がいても、一概には言えない。屈折した心理でそういう衝動に駆られる人もいるかも知れない。
しかし、本質的に真理は、人をそういう衝動に駆りたてるものだろうと思います。本質はそうでも、本質はなかなか外見に現れにくい。外見で一概に判断することはできないでしょう。
>どのような苦を救済できるのでしょうか?
結論を急がないでください。これからじっくり進めていきます。化身土巻末が重要です。
>法華組のひとが批判していました。
なるほど(微笑)
>かたし先生の話は、話題を提供してくれるので、みんな楽しく読んでます。
<うれしいです。>
>荒らしにきをつけて、がんばってください。さようなら。
<微笑>
あぼーん
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
「(聞新日朝) 日八月五年八和昭)しよてつ逝海渡」
(場合會想假)板示掲トツネアタンヰるな「(都亰東)るぬんやち弐」 ,壱者疑難海渡
。りて建(場し話)ドツレスそくの有曾未今古に
,けヾつをみ込き書ぬらだくに板示掲上/\(ちにひま)日毎ずかつもに職定は海渡
。りて建分自にひつ、ずらたきあもふ買を(ふよしふよち)笑嘲の間人の圍週
ずれさらすみ込き書の笑嘲(くよきつけ)局結、足不駒はで海渡しかし
。りせま勵を分自で分自もくなけ情に前直のそ、がるるさ「き逝トツダ」
。るゐ用を法邪るば呼「げあ」にうやるるさらさに目の人とざわ時のこたま
,府内宮れらけ掛も(ぎうや)疑容の反違法持維安治、罪敬不はに海渡
。み込見るるさも及追のらか察警高特
。りせ話と「しべぬ死く潔は難もふ思くし悲を末始不の子息」は親母の海渡
:説社
は人をふらやかばなうや海渡の(ひかんこ)囘今
。りせにかばてつ云と「ンチリド」「厨夏」
。しなは値價くいてき生ばれ陥にとこなうやのこ
。ずらなもに較比のと人鮮朝・人州滿やはも
衛平十田山:者記
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
136 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:30
『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした希有の書である。それはその根底に深く抒情を湛えた芸術作品でさへある。
実に親鸞のどの著述に接してもわれわれを先ず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
しかしながら、親鸞の宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤である。宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。
親鸞の文章には到る処懺悔がある。同時にそこには到る処讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じてゐる。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。
しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。内面性とは何であるか。内面性とは空虚な主観性ではく、却って最も客観的な肉体的ともいひ得る充実である。
超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。
137 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:31
こちらの寺院に聞法歴ウン十年のおばあちゃんたちが、お参りに、お話を聞きにおいでます。
その時、口々におっしゃいますことは「(我が身を)しらせてもらう」「(仏の恩を)よろこばせてもらう」の二つに集約されるようです。
私は、「二種深信」とはこの二つの言葉に込められている事柄だと思っています。
138 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
ちなみに、私は基本的に「人はだれもがほとけさま」だと思っています。
特別の修行も経験もいらない。ならば、宗教になにか役割がありうるのかといえば、それは、それぞれの心に言葉を与えてくれることだと思います。
心の内を言葉を使って様々に話し合う。他者との違いを認め、己を再び見つめる。それを真宗では「談合」ともうしてまいりました。
今は、あまりいい意味で使われませんがね(笑) ですから宗教用語の使い方の間違いを指摘されることがよくありますが、それはホントは本末転倒だと思うことが、度々あります。
その方がなにを課題として発言していらっしゃるのかを、考えなくてはいけないんでしょうね。私も、人のことは全く言えませんがネ(笑)
139 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
私も、「二種深信(機の深信と法の深信)」がなんなのか、まだ見えていません。
三木清さんの「懺悔と讃歎」なのか。あるいは「絶望と歓喜」とおっしゃっている方もいらしゃいます。
ひよっとして不安定に分裂させられた自己なのか。
ただ、おばあちゃんたちには追いつきたいなあと、常々思っています。
親鸞には無常の思想がない。その限りにおいても彼の思想を厭世主義と考へることはできない。
140 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:34
親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている。
自己は単に無常であるのではない。煩悩の具はざることのない凡夫、あらゆる罪を作りつつある悪人である。
親鸞は自己を愚禿と号した。「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」といつてゐる。承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあつた。
親鸞もその一人として僧侶の資格を奪はれて越後の国府に流された。
かくして、すでに僧にあらず、しかしまた世の生業につかぬゆゑ俗にあらず、かくして禿の字をもつて姓とする親鸞である。
しかも彼はこれに愚の字を加えて自己の号としたのである。愚は愚痴である。すでに禿の字はもと破戒を意味してゐる。
かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであつて、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。
外には悟りすましたやうに見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。
すべては無常と感じつつも、これに執着して尽きることがない。
それが人間なのである。弥陀の本願はかかる罪深き人間の救済であることを聞信してゐる。
141 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
罪悪の意識は如何なる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。
機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。
自覚とは単に我れが我れを知るということではない。我れはいかにして我れを知ることができるか。
我が我れを知るという場合、知る我れと知られる我れとの分裂がなければならず、かやうに分裂した我れは、その知られる我れとして全体的でなく却って部分的でなければならぬ。
従ってその場合、自覚的な我れよりもむしろ主客未分の、従って無意識的な、無自覚的な我れが、従って知的な、人間的な我れよりも、実践的な、動物的な我れが却って全体的な我れでもあるとも云い得るであらう。
142 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとつてまことにふさはしい教えである。
時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。
143 :
名無しさん@一周年:01/09/17 20:36
それでは、少し議論を進めます。
144 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:38
ちょっと、待ってください。
ここで、いったんコマーシャル逝きます。
あぼーん
あぼーん
147 :
名無しさん@一周年:01/09/17 20:41
それでは、再開します。
148 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:42
人間性の自覚は親鸞において歴史の自覚と密接に結び附いている。
彼の歴史的自覚はいわゆる末法思想を基礎としている。
末法思想にはいうまでもなく仏教の歴史観である正像末三時の思想に属している。
この正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観にほかならない。
時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救いがたい悪世であることを意識させた。
しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史観である。
正像末三時の教説は歴史の現在の現実においてその真理性の証明を与えられている。
もとより親鸞は末法の教説において時代に対する単に客観的な批判を見出したのではない。
149 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:43
親鸞にとって正像末の教説は、単に時代に対する批判であるのみではなく、むしろなによりも自己自身に対する厳しい批判を意味した。
批判されているのは自己の外部、自己の周囲ではなく、却って自己自身である。
「浄土真宗に帰すれども、、真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と彼はかなしみなげくのである。
自己を「底下の凡愚」と自覚した彼は十六首からなる『愚禿悲歎述懐』を作ったが、我々はこれが『正像末和讃』の一部分であることに注意しなければならぬ。
すなわち彼は時代において自己を自覚し、自己において時代を自覚したのである。
いかにしても罪の離れがたいことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものではなく、何か超越的な根拠を有することを思はずにはいられない。
この超越的根拠を示すものが末法の思想である。
150 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:45
末代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、却って「無戒」である。
『末法燈明記』には次の如くいはれている。
「しかればすなわち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。
もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。
かるがゆえに大集にいはく、仏涅槃ののち無戒くににみたんと」
無戒者は無自覚者である。「非僧非俗」と称した親鸞は自己の身において無戒名字の比丘を見た。
そして非僧非俗の親鸞は自ら「愚禿」と名乗ったのである。彼は「愚が中の極愚、狂が中の極狂、尽禿の有情、底下の最澄」といった伝教大師の言葉に深い共鳴を感じた。
無戒はいかにして自覚的になるのであるか。無戒の根拠を自覚することによってである。
しかるにこの根拠は正像末の歴史観にほかならない。無戒という状態の成立の根拠は末法時であるといふことである。
しかるに末法の自覚は必然的に正法時の自覚を喚び起す。これによって正像末の歴史観が成立する。そして正法時の回想は自己が末法に属する悲しさをいよいよ深く自覚させるのである。
151 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:46
しかも正法時を回想するにしてもそしてかにもこれに合致しようとするにしても、自己が末法に属することはいかにもなし難い。
「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん」といふ和讃は、この意を詠じたものであるであろう。
無戒が破戒以下であることが自覚されねばならぬ。
聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞において末法の歴史的自覚に基づいて行われ、これによつてこの転換は徹底され純化されたのである。
『教行信証』化身土巻における三願転入の自督に続いて正像末の歴史観か叙述されているといふことは、この歴史観に基づく自覚が三願転入の根拠であることを示すものと考えなければならぬ。
三願転入といふ三願において、第十九願すなはち修諸功徳の願は自力の諸善万行によって往生せんとするものとして持戒の時である正法時に、
第二十願は念仏といふ他力で、しかし自力の念仏によって往生せんとするものとして正法と末法との中間にある像法時に、また第十八願は絶対他力として末法時に相応するといふことができるであらう。
152 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:47
親鸞は他力教の絶対性を先ず、それが釈尊の本懐教「出世の本懐」であることを示すことによって明らかにしようとした。
釈迦出世の本意と知れとは親鸞における内面の叫びであった。
釈迦一代の説法はその種類極めて多く、八万四千の法門があるといはれるが、これら多種多様の説法をもつひに大無量寿経を説くためであり、弥陀の本願の教えにとって他のすべては仮のもの、方便のものに過ぎないのである。
釈迦の「出世の大事」は限りない慈愛をもって衆生を救わんがために弥陀の慈悲の教えを説くためであったのである。
この教のみが真実の教である。「如来興世の正説」である。しかもこの絶対的真理の開示は我々において歴史的なものとして受け取られなければならぬ。
153 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:48
第二に、この教の絶対性はその永遠性によって知られる。
「信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。」
と親鸞はいっている。
すなわち自力の教はただ釈迦在世及び滅後五百年間の衆生の機根のすぐれた時代にのみ相応する教であって、像法、末法という機根の劣った時代には相応しない教であるのに反して、
他力の教は在世正法、像法末法及び法滅の時代にわたって煩悩に汚され悪業に繋がれる人々を一様に大慈悲をもって誘引し給う教である。
154 :
名無しさん@1周年:01/09/17 20:48
しかるに第三に、この教にかかる絶対性、すなはち歴史を離れるのではなく却って歴史の中において歴史を貫く絶対性は、その伝統性において認められる。
親鸞はこの伝統をインドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空の7人の祖師において見た。彼は「高僧和讃」を作ってこれら七祖を讃詠したのである。
釈迦の出世の本懐の教である弥陀の本願の教は処と時を隔てたこれらの高僧によって次第に開顕されてきたのである。この伝統はこの法の絶対性を示すものである。
正像末の歴史観は浄土教史観とまさに表裏をなしていることが知られる。
ではここで、いったんコマーシャル逝きます。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
159 :
名無しさん@一周年:01/09/17 20:58
それでは、再開します。
160 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:01
ここからは、私に書かせてください。
三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。
しかしながらその故をもって、これを純粋に法理的に解釈しようとすることは誤りである。
この文は率直に受け取る者にとっては疑ひもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白である。
弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。
この証しは、この真理が我々の生の現実に深く相応するといふこと、この現実を最もよく解き明かすといふことによって知られる。
法と機、真理と現実、永遠なものと歴史的なものとの一致、この不思議な一致こそ我々をして弥陀の本願をいよいよ仰信せしめるものである。
161 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:03
宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であったりしてはならぬ。
宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。
もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ。客観性はあらゆる真理の基本的な微表である。親鸞の宗教はしばしば体験の宗教と称せられている。
かく見ることは或る意味においては正しい。宗教的体験の本質は内面性であり、親鸞の宗教は仏教のうち恐らく最も内面的であることを特徴としている。
しかし体験はそれ自身としては主観的なもの、心理的なものを意味している。
したがって体験の宗教といふことは主観主義、心理主義に陥ることになり、宗教は真理であるといふ根本的な認識を失わせることになり易いのである。
真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。もとより宗教的真理の客観性は物理的客観性ではない。
その客観性は経において与えられている。経とは仏説の言葉である。信仰といふものは単に主観的なもの、心理的なものではなく、経の言葉といふ超越的なものに関係している。
162 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:03
「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」と親鸞はいっている。経は釈尊の説いた言葉であり、その真実性は釈尊の自証に基づくのである。
しかし釈尊は歴史的人物であるとすれば、その言葉はいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。仏教における聖道門は釈尊を理想とする。
それは釈尊によって自証された法を自己自身において自証しようと努力する。経の言葉はそれ自身として絶対性を有しない。かくしてそれは宗教であるよりも道徳乃哲学であることに傾くのである。
聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈尊を超越した教である。
親鸞は真実の教である「大無量寿経」について、「如来の本願をとくを経の宗致とす、すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」といっている。
弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いはば言葉の言葉である。
この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものであることを証し、その超越性を顕すのである。
本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗致とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくの如き経として「大無量寿経」は真実の教あるのである。
163 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:05
しかしこの超越的真理は単に超越的なものとして止まる限り真実の教ではあり得ない。
真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。
宗教的真理は、哲学者のいふが如き、あらゆる現実を超越してそれ自身のうちに安らふ普遍的妥当性の如きものであることができぬ。
それはそれ自身のうちに現実への関係を含まなければならぬ。
弥陀の本願はかくの如き現実への関係において普遍性を含んでいる。
それは、「十方衆生」の普遍性である。すなはち第十八,十九,二十の三つの重要な願はいづれも「十方衆生」という語を含んでいる。
十方衆生といふ現実の普遍性への関係は、本願において、後天的に附けくはつてくるのではなく、却ってもともと本願のうちに内在するのである。
したがって本願の普遍性は単に経験的普遍性ではなく、先天的な超越的な普遍性である。
普遍性は真理の基本的な微表であるが、単に経験的な普遍性は真の普遍性であることができぬ。
しかしまた単に超越的な普遍性は現実との関係を欠いて真の普遍性の意義を有しない。
本願の普遍性はかくの如き抽象的な普遍性ではなく、十方衆生の普遍性をそれ自身のうちに含んで、現実的普遍性への傾動をそれ自身のうちに含んでいる。
164 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:06
しかしながら、十方衆生の普遍性もなほ抽象的である。
宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題である。
理論の有限も論理の透徹も、その教法が自己を救うものであるか否かという切実な問いの前には、何らの権威も有しない。
自己は十方衆生のうちに含まれると考えられる。
しかし単にかく考えられる自己は類概念の一つの例としての自己に過ぎず、生きた真に現実的な自己ではない。
十方衆生はそれ自身としては類概念である。
宗教的真理は実存的真理、言い換えると、生ける、この現実の自己を救ふ真理でなければならぬ。
親鸞が求めた教法はまさにかくの如き実存的真理であったのである。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と「歎異抄」にいはれている。
彼は教えを単にその普遍性において見たのではないーそれは単に理論的な態度に過ぎないー彼はこれを絶えず自己の身にあてて考えたのである。
165 :
名無しさん@2周年:01/09/17 21:07
「教行信証」において種々の経論を引いて諄々として教法を説き去り説き来る親鸞は、諸所において突如として転換していはゆる自督の文を記している。
この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃の如く我々の心を打つ。
今や彼は自己のかへって客観的普遍的な教法を自己のみにあてて考えたのである。
自督とは自己の了解するところをいふ。教法の真理性は自己において身証されるのでなければならぬ。
教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。
普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。
今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみづから信じた自己は人を教えて信じさせる。
いはゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。
このとき十方衆生はもはや類概念の如き抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。
それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。
166 :
名無しさん@一周年:01/09/17 21:08
ではここで、いったんコマーシャル逝きます。
新手の荒らしだろうが、市販本からの勝手なコピーは著作権法に抵触するぞー。
あぼーん
あぼーん
>>167 渡海念仏宗のテロ・コマーシャルが入ってしまいました。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
177 :
名無しさん@1周年:01/09/17 21:28
今から、およそ800年ほど昔のことです。
幼くして出家された親鸞聖人は、比叡山で20年間、仏道修業をされました。
29歳の時、比叡山を出て、京都の六角堂に100日間籠もり、
95日目に、聖徳太子の化身である救世(くぜ)観音の夢のお告げを受けて、
法然上人の他力の念仏の教えに入れられました。
越後から常陸へとわたられた聖人は、
夢告のとおりに多くの人々に念仏による教えを広め、
浄土真宗の開祖として慕われました。
178 :
名無しさん@1周年:01/09/17 21:30
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
渡海さんへ。
なぜこのスレは荒らされるのでしょうか?
それは、あなたが嫌われているからです。
あなたは、過去にもいろいろなスレで自分独自の仏教説をカキコしていましたね。しかし、誰にも相手にされませんでしたね。
しかも、あなたは自分に対して反論する人間を勝手に「親鸞会」だの「お坊さん」だのと決めつけていましたね。さらに、人の揚げ足を取るような発言も繰り返していました。
つまり、あなた自身の行動によって2chの住民から嫌われているのです。
これは、「因果の道理」でも明らかなことです。
スレを荒らされているから相手にされている、すなわち自分は好かれていると決して勘違いしないで下さい。
はっきり言ってあなたは2chには向いていません。
あなたは2chに来る資格はありません。
というよりも、人とのコミュニケーション能力が著しく欠けています。
今のあなたの性格では、誰もついていけません。
ですから、もう一度自分を見つめなおして猛省してください。
そして、二度と2chには来ないでください。
さようなら渡海 難
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
193 :
名無しさん@1周年:01/09/17 21:59
167 名前:渡海 難( p6168-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 投稿日:01/09/17 21:10
新手の荒らしだろうが、市販本からの勝手なコピーは著作権法に抵触するぞー。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>193 荒らすな!
渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp)
あぼーん
あぼーん
渡海難さまへ
提案ですが、メールマガジンを作ってはいかがでしょうか?
持論を大多数に発信するのには掲示板よりもメールマガジンが有利だと思います。
荒らしもありません。
なにせ読みたい人だけが読むのですから・・・。
他スレにて宣伝するほど御自分の発言を読んで頂きたいのでしたら是非お勧めします。
このように荒らしが発生するのも理由があってのことです。
あなたの発言を見たくもない人がいるのは確かでしょう。
ですから浄土通信メールマガジンのほうがすべてにおいていいと思うのですが。
どうでしょうか?
351 名前:渡海 難さん、頑張れ 投稿日:01/09/15 10:43
先生の一層のご活躍と親鸞仏教の興隆を願い、カンパをしましょう。
カンパのお願い
みなさまへ
渡海 難
平成12年2月
(1) 浄土通信維持のため、経済的な支援をしてくださる方を捜しています。
(2) 最近、浄土通信宛に掲示板、電子メールなどで多くの質問、問い合わせが送られてきます。当方はそれらにできるだけ迅速にお応えしようとしています。
(3) 質問の内容は親鸞仏教の本質に関わる問題が多く、回答に時間をとられています。
(4) 親鸞仏教を将来に向けて正しく語り伝えて行くことは、多少なりともそれを聞きかじってきた者の喜びであり、また責任と考えています。
(5) こちらは自由業とは言え、家族を抱えた生活があります
352 名前:渡海 難さん、頑張れ 投稿日:01/09/15 10:46
(6) 浄土通信を今後も円滑に運営していくには、それなりの経済的
なバックボーンが必要になってきました。通信費だけでも相当の額にな
ります。
(7) 目安として、月一回、一口4000円を1口以上あるいは半口、
定期的あるいは不定期に、1ヶ月でも2ヶ月でもお送りくださる方がい
らしてくださるとまことに幸いです。
(8) もし、今後、ある程度のカンパをいただけるようになると、横
浜だけでなく、その他の地方でも浄土通信の「こんにちは会」が開ける
ようになります。
(9) カンパ金をお送りくださっても、何か特別に特典を差し上げる
ということはほとんど不可能です。それでも、渡海 難という人物は、
インターネットで多少なりとも親鸞仏教を正しく伝えている一人である
とご評価くださる方がいらっしゃると幸いです。渡海 難に今後も発言
させてみようとお思いくださって、お心ばかりでも応援くださると誠に
幸いです。
(10) 誠に恐縮ですが、浄土通信ライブラリーで平成九年以降の分は、
金額の多少に関わらず、カンパ金にご協力いただける旨のご連絡をくだ
さった方にのみパスワードをお知らせします。どなたにも広くお読みい
ただきたいのですが、経済問題はいかんともしがたく、御了解ください。
(11) 平成九年以前の浄土通信ライブラリー、及び親鸞の思想と教行
信証は、一応印刷不能になっております。カンパ金にご協力いただける
旨のご連絡をくださった方で御希望の方には、印刷可能のpdfファイ
ルをお送りします。
ご支援をくださった場合、必ず振り込み者名と電子メールアドレスをお
知らせください。
どちらかをご利用ください
送金先 さくら銀行 鶴見支店 普通預金口座
口座番号 572−6571166
名義 トウミ カタシ
送金先 郵便貯金
記号 10200 番号 86266201
名義 トウミ カタシ
渡海 難さん
先日カンパ振り込みました。
確認してくださいね。
>>200 メルマガ賛成。
このスレだってまともな議論ないもんね。
トウミも読みたい奴にだけ読んでもらえばいいんでないの?
トウミに質問。
1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。
2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。
あなたはどちらですか?
1ですか? 2ですか?
205 :
名無しさん@1周年:01/09/18 06:24
荒らしが消え去ってから、考えるべきことだろうね。
少なくとも2chはある。
それを利用するのも、メルマガを使うのも、併用するのもよし。
荒らしが荒らすから、メルマガを使うべきってのは、
道理が通らないよ。
渡海 難は自分のHPを持ってるんです。
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/ しかし、2chにハマり過ぎて、彼はHPの管理を怠ってるんです。
メルマガもいいけど、そこのHPをちゃんと管理する事が先じゃないのかな?
あと、なぜこのスレが荒らされるのか?
それは渡海 難の日頃の言動に問題があるからじゃないのかな?
要するに人の意見に聞く耳を持たず、無理矢理自分の主張を押し付けているだけなんだよね。
挙句の果てには自分を攻撃する人を坊さん呼ばわりしたり、人の揚げ足を取ったりするし。
だからみんなから嫌われるんだよ!
207 :
名無しさん@1周年:01/09/18 12:03
age
あぼーん
あぼーん
あぼーん
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 ・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
大行あり、大信あり。
親鸞仏教の特徴というのは、行が信に先行しているということだろう。信があり、信を前提にして行があるという思想ではない。行があり、行を前提にして信がある。
行を前提にして信があるのか、信を前提にして行があるのか。歎異抄と教行信証とで考え方は正反対だ。歎異抄は、本願を信じ念仏を申す。信が先行して行がある。
信を先行させて行があると考える場合と、行は信に先行していると考える場合とでは、思想の構造が違う。親鸞のお弟子さんが書いたと言われている歎異抄と、親鸞自身が書いた教行信証は、思想の骨格構造が違う。両者で思想の構造が違うということをまず認識しないといけない。
教行信証が正しいか、歎異抄が正しいか。それは大きな問題ではない。特に我々のような在家の場合は、宗教として自分にとってはどちらの方が使い勝手がいいかということで考えればいい。宗教は使い勝手がいい方を選べばいい。
我々在家にとって、宗教とは、所詮、人生を快適に過ごしていくための道具に過ぎない。人生を快適にしない宗教は悪い宗教、人生を快適にしてくれる宗教がいい宗教なのだ。宗教の奴隷になることほど愚かなことはない。
世界選手権大会に向け、必死になって柔道の稽古に励む選手がいる。大会まで残りの期間はわずか。ひたすら稽古に励む。世界選手権に勝ち残れるかどうかは、大会が近づいてきたときの、その時点での練習あるのみ。そう信じて稽古に励む。
大会が近づいてきたときには、練習あるのみという信が、激しい練習を支える。
七十歳、八十歳になっても、喜々として竹刀を握る剣士がいる。竹刀を握って相手と対面することが楽しくてたまらない。竹刀を握ると必ず何かを発見する。七十,八十にもなり、何十年間も竹刀を握ってきていたのに、ああそうだったのかとやはり発見がある。
発見があると子供のように喜々とする。だからこそ、初心者にも深く頭を下げる。初心者以上に頭を下げる。こういう人は、行動から発見があり、発見から確信を貰う。
どっちが大事か。人生の中では信を固めて行動することも大事だ。でも、これは長続きしない。
期限を切った目標がハッキリしているときは、長続きしなくてもいい。期限まで続けばいい。そう言うときは信を固めて行動するのもいい。でも、喜々としながら竹刀を握る人にこそ、僕らは学ぶものが多そうだ。
信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし
予め疑い迷いの心があることは恐れるに足りない。確信が得られるかどうかは、やってみて発見があるかどうかに関わる。発見があるかどうかは、やってみないと分からない。でも、やってみれば必ず何かの発見があるだろう。発見はやってみないと分からない。
信心は仏さんからの貰い物。下さる仏さんの胸三寸。いまはちょっと分かんないままにしておいてやろうと向こうさんが思えば、信心は貰えない。行者の方でやきもきしても始まらない。疑心自力の行者であれば、疑心自力の心そのままで称えたらいい。
焦ることはない。称えていれば早晩信心などは届けられてくる。届けられてこなければ、それは向こうさんの都合と思えばいい。心配する必要はない。
渡海の例え話はわかりにくい。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
渡海 難さん
質問に答えて頂けませんでした。
もう一度質問です。
1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。
2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。
あなたはどちらですか?
1ですか?
2ですか?
メルマガ作ったって購読するやつなんていないよ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>224 >荒らしの量が、会話の成立を妨げるぐらいに達したとき
会話なんて、はじめから成立していない!
このスレには議論も会話もない。
渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) が、自説を書き連ねているだけだ。
渡海 難( p****-ip**hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) 以外の人に
このスレは、全く意味・意義はない。
みなさんご存知のように9月11日アメリカで同時多発テロ
が発生し、多くの人命が無残にも奪われてしまいました。
そこでクリックするだけで募金できるサイトが存在すること
を知り、ここに紹介させていただきます。この運動に賛同し、
善意の輪を広げたいと思う方はこの文章をコピーし、2chの
あらゆるスレに貼ってください。一人の力では限度がありま
すので。2chのスレがこのコピーで埋まれば2chの存在価値
も見直されることでしょう。
http://www.donate-for-free.com/index_ja.asp?
2,3日、カキコできないと思います。
どうも渡海信者がいるようでびっくりしました。
渡海の自作自演じゃないよね?
他にも渡海の奇行を発見したら報告してください。
>>231 >どうも渡海信者がいるようでびっくりしました。
渡海難を味方する人がちょっと増えましたね。
彼らは2ch宗教板の初心者で何も知らないようです。
渡海難にイライラしているのは坊さんと親鸞会さんだけではないですよ。
渡海難はこのスレ以外には書き込まないでもらいたいです。
早い話、「渡海難を相手にしちゃいけないよ」ってことでしょ?
渡海難は放置すればいいんだよ!
渡海難はまともなコミュニケーションができない人物なんだろうな
スレが荒れるのは渡海が元凶なんだよ。
それに気付よアホ渡海。
>>230 なぜこんな簡単な質問に答えていただけないのでしょうか?
1か2かそれだけではないですか。
それとも2、3日も考えなければならんようなことですか?
>>238=204さん、代わりにお答えしましょうか。
答えは「2.聞く人がどう思おうが、ただ自分の意見を言ってさえおればいい。」です。
今までの渡海のカキコを見てわかるとおり、渡海は自分にしか理解できないことばかり書いています。
意味不明な理論で、しかも例え話を交えて他人にも理解してもらえると思ってるようですがそれがなおさらわかりにくいんです。
従って「1.自分の意見を本当に聞いてくれる人に理解してほしい。」に該当するはずがありません。
>>230 渡海難の頭はもちろん逝かれているけど、パソコンも逝かれたんだろ。
241 :
名無しさん@1周年:01/09/22 12:32
>>214 渡海難 菩薩 さま
阿弥陀幼稚園の浄土組の園児です。かんのん先生に代わりに書いてもらっています。
心配する、しない、の話がありましたが、浄土に行けるか行けないかに
とらわれるな、という意味でしょうか?
浄土に行って、それから修行すればいいのだから、現世で修行できなくても
思いわずらうことはないのですよ、という意味でしょうか。
華厳組や法華組の人は、このあたりの浄土経の議論を聞いて、鼻で笑って
いるようです。
渡海難菩薩様の論法でひとあわ吹かせてやってください。
季節の変わり目ですが、頑張ってください。園児のみな応援しています。
さようなら。
宗教板を荒らす渡海難をシめてやるッ!
麻原彰晃が見守る中、制裁は行われた。
既に渡海難の口には高森顕徹のサオがねじ込まれている。
「大作、ポアしたれ」
麻原がいうと、池田大作はブリーフから一物を取り出した。
ゆうに一尺はあろうかという巨大な業物に、渡海はぶるっと震えた。
しかし、その恐怖とは裏腹に〜いや、渡海にとってはその恐怖こそが
色欲を沸き立たせるものだったのかもしれないが〜渡海の花らっきょうの
ような小振りの一物は痛い程にそそり立っていた。
その「花らっきょう」の皮を一の会の中根繁が唇でちゅるんと器用に剥く。
中根の口中にアンモニア臭が広がる。
そして、池田の一尺竿が渡海の菊門にねじり込まれていく・…
カルト教団の馬鹿教祖によるド迫力の4Pファック。
まだ、幕が開いたにすぎない。
悦楽は、ここから始まる。夜はまだ終わらない…。
>>241 >心配する、しない、の話がありましたが、浄土に行けるか行けないかにとらわれるな、という意味でしょうか?
>>214の末尾のことでしょうか?214の末尾はそういうつもりで書いたのではありません。
極楽浄土に行くには信心が大事だ。先人はそう説いている。ところが自分はなかなか信じられない。信心が持てない。これでは大変だ。大変だ。もしこんな風に心配する心があるなら、そんな心配はいらないよということです。
疑心自力の行者も大船に乗ったつもりで安心して念仏を称えていなさいよ。焦りなさんな。行を先行させれば、信心は仏さんの方で気が向いたときに後から下さる。心配はいらない。そういう意味です。
>浄土に行って、それから修行すればいいのだから、現世で修行できなくても思いわずらうことはないのですよ、という意味でしょうか。
こういう風な意味で説かれている考えも古典には確かにあります。「今生に本願を信じて(かの土に渡り)、かの土にしてさとりをば開くと習い候ぞ」。これは歎異抄の言葉です。
法というボールは、先方のグローブという器に合わせて投げられています。器を意識して語られているボールは、表面の形状より、内在する原理に着目して欲しい。器が違えば、表面の形状を議論してもほとんど意味がありません。
親鸞仏教の原理は、曇鸞仏教と善導仏教のいわば折衷案です。折衷案と言っても、善導仏教自体が、曇鸞仏教批判から出てきている向きがある。曇鸞仏教と善導仏教は、水と油の関係がある。水と油を切って貼りあわせれば何が出来るか。
常識で考えれば無茶苦茶な議論です。無茶苦茶な議論の背後で、親鸞は、曇鸞仏教でもない善導仏教でもない、前人未踏の独創的な思想を展開している。親鸞独自の原理に着目しないと話はちんぷんかんぷんになる。
>華厳組や法華組の人は、このあたりの浄土経の議論を聞いて、鼻で笑っているようです。
鼻で笑って貰えると光栄です。鼻も掛けられないよりは幸せです(笑)。
>ひとあわ吹かせてやってください。
これは無理でしょう(苦笑)。
僕は、事実上、華厳や法華を学ぶ機会がなかった。浄土論註は華厳の影響下にある。華厳や法華も、非常に尊敬すべき思想でしょう。そういう思想を学んでいる方を一泡ふかすなどと言うことは考えたこともない。関心を持っていただけると、それだけでこちらは光栄です。
僕は華厳や法華を知らないけど、親鸞仏教は間違いなく面白い。そう信じています(微笑)。
大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。
無碍光如来の名を称えること。親鸞はこれを大行とよぶ。歎異抄は言う。念仏は非行非善である、と。歎異抄と教行信証とは主張概念に相違があるのか。無いのか。これは一つの論点となる。
名を称するとはどういうことか。阿弥陀仏の名は阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏ではない。名を称するとは、「阿弥陀仏」と称することか、「南無阿弥陀仏」と称することか。
名を称することを親鸞は「行」という。そもそも行とは何なのか。名を称することが何故、「行」といえるのか。おそらくこの辺が問題になるだろう。
非行であると歎異抄が言う根拠を考えよう。
歎異抄は言う。わがはからいにて行ずるに非ざれば、非行という、と。つまり、計らって行う行為を「行」と言うなら、念仏行はそういう種類の行ではないと言うのだ。念仏は、自分が色々計らって行うそういう種類の行ではないということを歎異抄は言いたいのだろう。
計らいとは何か。広辞苑は言う。「はからうこと、処置」。はからうとは何か。広辞苑は言う。「相談する。協議する。見当をつける。見はからう。うかがい見る。適当に処置する。さばく。手加減する。あんばいする」、と。
自分勝手にあれこれ考えを巡らして行うような行為ではないと言うことだろう。何かを練習する。学習する。我々にはそういう場合がある。その場合、普通は予め目標や計画を立てる。あるいは期限を区切る。スケジュールに沿って行っていく。
一週間でこの参考書を読破し、三日でレポートを書こうなどというスケジュールを立てる。念仏行は、そういう種類の行ではないと言う意味だろう。
勉強の場合には、一日2時間やろうとか、日曜日には集中してやろうと決める。念仏はこういう行為概念のものではないと言う意味だ。
十回称えたからこれでいいと言うものではない。百回称えたから目的を達成したと言うものではない。一回称えたことがあるから極楽浄土往生の条件は満たされているなどと、計画立てできるものではない。
座禅は自力だから、座禅して称えれば自力念仏となっていかんなんて、そんなものでもない。座禅して称えると、念仏が座禅に影響されて座禅に染まるからいかんなどという言うもんじゃない。
念仏には他力と自力があるから、他力の念仏を称えないといかんとか、自力の念仏じゃだめだとか、そういう種類の行ではないということだ。
計画立てて行うものじゃないということは、「『計画立てしない』という内容の計画」を立てて行うものでもないということだろう。
「『計画立てしない』という内容の計画」を立てて行うものでもないということは、「計画立てて行ってもいい」ということだろう。ただ、計画と念仏とは直接結びつかない。
仮に計画を立てて行うのもいい。計画通り実行されたからどうこうとか、計画通り実行されなかったからどうこうというものではない。
一日12時間ぶっ通しで念仏を称える念仏キャンプを山中で行おうという計画を立てたとしよう。計画立てて行ってもいい。
50人参加の予定を立てたら、2人しか来なかった。主催者は48人分の赤字を負ってしまった。結局、計画は失敗だった。その場合、キャンプ計画が失敗だったのであって、念仏が失敗だったわけではない。
起業計画は赤字になれば失敗だが、念仏に失敗はない。計画と念仏は直結しない。念仏は非行なりとはそういう意味だろう。
普通、実行行為には失敗と成功がつきまとう。念仏に失敗はない。成功もない。失敗と成功がつきまとうような種類の行為でないということだろう。
親鸞は言う。念仏は大行である。この場合の大とは仏という意味で考えていいだろう。計画という意味にこだわれば、仏さんの側にこそ計画がある。大行とは、仏さんという指導者の計画に基づいて行う行為であると考えればいい。
念仏は、われわれにやらせてくる仏さんの側にこそ成功と失敗がある。仏さんに失敗はないから、念仏には成功しかない。そう考えていいだろう。
更に議論は続く。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
249 :
名無しさん@1周年:01/09/23 18:37
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阿弥陀仏の名は阿弥陀仏である。梵語のAmita Buddhaの音を漢字で書くと「阿弥陀仏」となる。Amitaは、Amitayus<永遠の命>とAmitabha<限りない光>とを表す(浄土教教理史 石田充之 著 平楽寺書店)。
釈尊先生は、祇園精舎でどのように呼ばれたか。釈尊先生は祇園精舎で「先生」と呼ばれていたはずだ。
祇園精舎での先生の役割は何だったのか。お弟子さん達はしばしば何度目かのやり直しを始める(再起<生>)。やり直しを始めても、未熟なお弟子さん達はやはりなかなかうまくいかない(疲弊<病>・衰退<老>)。このままでは、またやり直さないといけない(挫折<死>)。
暗澹たる中で絶望に耽る生徒に、先生はしばしば独自の提案を向けられただろう。生徒は、先生の提案<知恵>で光を灯され、意思と行動に元気<命>を吹き込まれて再び前進を始める。
息の長い計画を遂行して行くに当たり、生徒にとって先生は初期の目的を遂行して行く命の源泉であり、知恵(光)の源泉ではなかったか。
生徒が釈尊先生を先生と呼ぶその根拠は、永遠の命をくださる方、限りない光をくださる方、そういう意味があったに違いない。‘Amitayus’、‘Amitabha’とは、祇園精舎では先生という意味だったろう。
生徒は釈尊先生を「先生」と尊称した。しかし、先生に心の底から出会えた人々は先生をどう呼んだか。
先生の提案<知恵>で足下を明るく灯され、意思と行動に元気<命>を吹き込まれて再び前進を始めた生徒は、思わず感嘆詞を付け、心の底から「ああ先生」と呼んでいたに違いない。
釈尊先生は、王宮に生まれ、当時の王侯貴族の最高位の学問を身につけてから出家された。「自分は本当のことが何一つ分かっていなかった。何一つ分かっていなかったことが様々に迷い苦しむ根元であった。これは大変なことだ。
互いに教え合おう。学び合おう」先生は三五のときそう悟られた(十二因縁)。先生は自らの豊富な認識の壁を大きく突き破ると、地獄を含むあらゆる六道界に向けて自らの姿勢をかしずかれる方となられた。天界を含むあらゆる人々からかしずきを受けられる方となられた。
先生はあらゆる人々から悟った方と尊敬され、Buddhaと尊称された。
梵語のnamasの音を漢字で書くと南無になる。namasは、帰依・敬礼・帰命と訳される。原義は感嘆詞だろうというのが渡海 難の見解だ。
人々は感嘆詞を付け、釈尊先生をnamas Amita Buddha <ああ先生>と尊称したに違いない。親鸞は、釈尊先生に対するこの尊称を祇園精舎のお弟子さん達のように念じることを大行と名付けた。
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 ・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
↑
この「ああ先生」の謎が
>>253において判明!?
謎が判明という方に敬意を表して アゲ
>>255 糞スレあげるな、ボケ!カス!
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
/ /
/ モナーより /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
∧_∧ / /∧_∧
( ^∀^) / /(^∀^ )
( )つ ⊂( )
| | | | | |
(__)_) (_(__)
謎が判明してしまって悔しい思いをしている方に敬意を表し、アゲ
謎が判明してしまって悔しい思いをしている方がいらっしゃると思い込むシ度シ毎に弔意を表し、氏ネ。
259 :
名無しさん@1周年:01/09/24 18:48
>>257 荒らしは徹底放置するように。
荒らしに反応すれば、スレが荒れるの当然だよ。
ROMしてる人間のことも考えるように。
>>259 おまえ過去のいきさつもしらないで反都会を荒らしなんて思ってんの。
ためしにロムしてないで2,3回ほどレスつけてみなよ。
あるいは過去ログの検索してみな。被害者の会ができたっておかしくないぜ。
>>259 m(_ _)m 申し訳ない。以後、気を付けますル。
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ヽヽ
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| ノ ノ ..」 |
渡海の友人です。
私たちの村では神童などと呼ばれていたのですが街の高校に入ってから変わっていったと思います。
渡海は村の中では一番の成績を誇りました。そして街の高校に進学します。
ある日私の姉を介して渡海からの手紙が届きました。姉と渡海は当時付き合っていたようで文通の形で交際が続いていました。
私宛の手紙の中にはただ二行だけ書かれていました。
「街の連中は凄いぞ!俺なんかじゃ及びもつかない頭をしてやがる。村一番の俺でさえ下から数えたほうが早いぐらいだ。」
この文章からは競争相手が見つかって渡海は嬉しいのかと思っていました。
姉に送ってくる手紙には「コラァ」「オマエラモナー」「逝ってヨイ」。
意味の判らない文章が増えていきます。その中に「2ちゃんねる」の文字が何度も何度も躍っていました。
姉はただ一言、「もう送ってこなくていいから」とだけ書いてその交際を終えたと言います。
気になった私がいくら辞書で調べても「2ちゃんねる」だけが判りませんでした。
そのため休暇で遊びに来ている東京の人にノートパソコンで2ちゃんねるというものを調べてもらう事となりました。
その時です。「名無し」と書かれた投稿者の中でただ一人名前で書かれた物がありました。
「渡海 難」でした。色々な所で下宿の住所や高校を中退した事、渡海のしてきたスパマーと言われる行為。
挙句、インターネットオークションで詐欺まがいをしている事もそこには書かれていました。
「警察に通報しました」と書かれている文章に対し渡海は「お、お、オマエラモナー、逝ってヨイ!!」
とても痛々しい文章が並んでいる事にも気がつきました。私は心痛のあまり目頭が熱くなりました。
警察に追われるやも知れない中、相当な精神衰弱に陥っているのが脳裏に浮かびました。
多分、村の重圧に負けて帰って来れないのだろう、仕送りも果て親にも勘当されお金にも困っていると思います。
しかし悪い事をしたら報いを受けなければなりません。渡海にも相応の罰が与えられてしかるべきだと考えます。
しかし渡海を追い込む事だけはしないでやってください。死んでしまっては元も子もありませんから。
ご迷惑でしょうが今しばらく見守ってやってください。本当に申し訳ありませんでした。渡海に変わってお詫びいたします。
1,2日休みます。<筆が止まりました。時間が必要。思索の練り直しです(^。^;)>
267 :
名無しさん@1周年:01/09/26 10:42
ウイルスくらったのでは?
>妄想の練り直しです(^。^;)
270 :
名無しさん@1周年:01/09/26 14:49
渡海 難さんの理論は、ちょっと独善的です。
もう少し勉強されたほうがよいのでは・・・。
>>217 糞スレをあげないように!
以後、マジレスはやめてsageましょう!
AGEYO
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この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
南無阿弥陀仏と称える行為は、もろもろの善法を包含する。親鸞はそういう。南無阿弥陀仏と称える行為が包含するもろもろの善法とは何か。
仮説的には広狭あると思う。広義には、我々に悟りをもたらす原因となるものだろう。狭義には我々に極楽往生をもたらす原因となるものを指すと考えていいと思う。
親鸞は悲華経を引用する。「無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲わん。願わくはそれ捨命の後、必定して生を得しめん」。
善本の形式的根拠はここに見いだされてくる。ここからは、狭義が真意であることが見えてくる。
念仏が包含する善法はなにか。もろもろという限り、その具体的な中身があるはずだ。大乗の悟りを得るには、原則として、大きくは二つの修行が必要である。大乗の菩薩に至る修行と大乗の菩薩としての修行だ。包含されている善法とはこの二つを睨んだものだろう。
行の巻きで親鸞は、念仏を称える行為がこの二つを包含していることを立証していく。
もろもろの徳本を具す。親鸞はそうも言う。包含されている徳本とはなにか。親鸞にとって徳とは、仏の属性を指す言葉らしい。「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう」。親鸞このような言葉を教行信証に引用している。
「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん」。念仏は、人々に施される功徳の宝である。そうであれば、施される功徳の宝は何か。親鸞に言わせれば、念仏は、仏の属性の分与を受ける行為だろう。
かつて祇園精舎で釈尊先生のお弟子さん達は、先生から限りない命と限りない光を受けた。無量寿、無量光とは、釈尊先生の本質的属性ではなかったか。
生徒は先生を「ああ先生」と念じることで、先生の無量寿、無量光と出会い、先生の本質を気付かされそのような属性を受領した。
先生を「ああ先生」と念じる行為は、先生の本質的属性である無量寿と無量光とを包含する。親鸞の立場で考えれば、おそらくそのような仮説が成立可能だろう。私はそのように考えていいと思う。
>>270 >渡海 難さんの理論は、ちょっと独善的です。もう少し勉強されたほうがよいのでは・・・。
2チャンネルは多くの方が見てくださっています。
貴方がお勉強なさったような独善的でない理論をご紹介くださると社会にとって有益となるでしょう。
276 :
名無しさん@1周年:01/09/28 11:50
age
数日間、多忙です。
279 :
名無しさん@1周年:01/09/30 09:18
多忙といいつつ、浄土真宗スレッドにカキコんでいる人、だーれだ?
毎日、多妄です。
>>279-280
>多忙といいつつ、浄土真宗スレッドにカキコんでいる人、だーれだ? <苦笑>
> 毎日、多妄です。
(*o*)
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。
親鸞は称名念仏を大行と名づけている。一方で非行と言いながら大行と名づける。なぜ大行と名づけるのか。親鸞は、極速円満ということと、真如一実の功徳宝海ということを名称の根拠とする。「極速円満」とは何か。「真如一実の功徳宝海」とは何か。ここを考えていこう。
何が極速なのか。どのくらい極速なのか。早さの極みは瞬時だ。瞬時の極みとは同時ということだ。何が同時か。因果同時と言うことだろう。
水は上から下に流れる。上から下に流れるという性質を水が持つようになったのはいつからか。水は本質的に上から下に流れる。そうであれば、上から下に流れるという性質は、水は即有している。即有しているということは、縁に左右されないということだ。
縁に左右されないということは、水の本質に着眼している議論だ。本質に着眼するということが真実に触れると言うことだろう。真実を見抜けば現象は縁に左右されない。因あれば直ちに果が成就される。これが因果同時だ。
祇園精舎のお弟子さん達は、賢人になるということがいつ定まったか。祇園精舎のお弟子さん達は、祇園精舎のお弟子さんになったときに定まった。なぜなら、祇園精舎ではお釈迦様が教育指導に当たっておられたからだ。お釈迦様の教育指導は揺るぎないものだった。
理にかなった真実の正しい教育がなされていた。真実の教育がなされていたからこそ、祇園精舎のお弟子さんになったとき、人々は賢人になることが定まった。
祇園精舎のお弟子さんはいつ賢人になったか。祇園精舎のお弟子さんになったとき賢人になった。祇園精舎を学習の場として選ぶと言うことは、必ず賢人になると言うことだった。
祇園精舎を学習の場として選ぶと言うこと自体が、極めて賢明な選択だった。そうであれば、祇園精舎を学習の場として選んだという事自体が、既に賢人としての選択だったと言えるだろう。賢人の選択ができたということは、直前にお釈迦様のお誘いがあったはずだ。
お釈迦様のお誘いのとき、人々は祇園精舎を学習の場として選び、そのとき彼らは既に賢人の仲間となった。人々を真実の人に育てようというお釈迦様の導きは、瞬時に成就されていく。それは、お釈迦様の教育指導が理にかなった正しい教育指導だったからだと言っていいだろう。
瞬時とは因果同時ということであり、真実と言うことだと言っていいだろう。
お釈迦様の前には賢人も凡人もなかっただろう。あらゆる人が一様に賢人だったろう。釈尊先生の世界は、真理そのものが一様に満たされている世界だったと言っていいだろう。そういう世界に立って先生は、人々に自らの心を開き、真理に目覚めていく道筋を説かれた。
念仏とは、真理そのものが人格を具し、我らの釈尊先生となって人々に真理の心を開き、真理に目覚めていく道筋として提示してきたものだ。
だからこそ、念仏は因果同時の真実であり、真如一実の功徳宝海である。親鸞はそのようにして念仏を偉大なる行、すなわち大行と名づけた。
284 :
名無しさん@1周年:01/10/01 15:32
age
しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。
「しかるに」とはどういう意味か。しかるにとは逆説の接続詞だ。「しかあるに」の訛だろう。「そうであるのに」、ということだろう。僕は、この接続詞が非常に面白いと思ってきた。なぜ「しかるに」なんだろう。考えてみよう。
「しかるに」は、前後の議論が逆説関係にあるということを示している。「この行は大悲の願より出でたり」という議論は、「称名念仏は大行である」という議論と逆説関係にあるということだ。
願とは仏に属する。ここは疑いない。まずここを抑えよう。そう抑えると、「称名念仏は大行であるという議論は」、衆生に属する議論だという主張が見えてくる。
親鸞の主張をまとめよう。「称名念仏は、衆生に属する行であって、大行と名付けるべきものだ。しかし出所は仏にあるんだ」親鸞はそう言っている。
「念仏は非行非善なり」。歎異抄八章はそうは言う。歎異抄と教行信証とを整合性あるように解釈するなら、「非行」の意味は拡大解釈してはいけない。念仏は行である。人々が行うべき行である。但し、計画を立てて行うような種類の行ではない。「非行」とはそういう意味だ。
「自力の称名念仏であってはいけない」とか、「他力の称名念仏でないといけない」とか、「座禅して称えてはいけない」とか、「回数を気にしてはいけない」とか、そういう種類の行ではないというのが「非行」の意味だ。
非行の意味をこれ以上拡大してはいけない。念仏は、我々が行うべき我々の行である。これは親鸞も歎異抄も共に認めている。そう考えるべきだろう。
すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
「諸仏称揚の願」「諸仏称名の願」「諸仏咨嗟の願」は、浄影大師という人の文献に出てくる名称のようだ。「往相回向の願」は、憬興師という人の文献に出てくる名称のようだ。選択称名の願とは、親鸞の命名だ。
称名念仏という行が仏の願から出て来るというのはどういうことか。ここを考えてみよう。大無量寿経は阿弥陀仏に次のような決意を述べさせている。
「設(たと)い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずは、正覚を取らじ、と」。
小乗段階の学習を了えて基礎的なことは自分なりに理解でき、人の上に立って先生と呼ばれるようになっても、大乗仏教はそれで満足しない。
自分の認識を多くの人々と共感的に共有するところに至ったと言えるような正覚を求めよう。それには、社会の多くの指導者達、無量の諸仏達にも理解され、尊敬を受けられるような普遍性がなければならない。
大乗仏教は、自分一人が何かを知っただけでは満足しない。何か大事なことを知ったなら、それを多くの人と共感的に共有するような共通の財産にしようとする事を誓う。
多くの人と共感的に共有するということは、既に多くの人と自己の認識を共通の財産化している多くの指導者相互の称讃の世界に入ることと裏腹でもあるだろう。自己の認識を多くの人との共通の財産化している指導者達の世界は、常に互いに相手を尊敬し合う世界だ。
賢人哲人達は互いに互いを尊敬し合う。何かを自分が認識したとしても、賢人哲人達に受け入れられないものであれば、どこかに欠陥がある。認識内容に欠陥があるのか、認識共通化の努力に欠陥がある。
多くの人々に向けての認識の共通化は、多くの賢人哲人達に受け入れられることを通じてなされていく。認識内容に欠陥がなければ、着実な努力を重ねていけば必ずや多くの賢人哲人達にも必ずや受け入れられていくものであるに違いない。
釈尊先生は、そんな確信を持っていたようだ。
287 :
名無しさん@1周年:01/10/06 21:57
読んでるよ。
>>287 ありがとぅー。
釈尊先生の心は、人格化した真理そのものの心にシフトする。これが親鸞仏教の原則だ。
僕らは、真理の重要性、大切さはどこから学ぶのか。哲人や賢人を代表する学校の先生から最初は教わる。やがて、史上の多くの哲人や賢人達に出会いその言葉から教わっていく。
人格真理は、直ちに直接我々に声を掛けてくることはしない。多くの賢人哲人が口を合わせて称讃してくださり、賢人哲人の称讃を伴って我々の闇の無知の世界に光となって入ってきてくれる。
闇の無知の世界に入ってきてくれるには、それに先だって真理は賢人哲人の称讃を受けている。賢人哲人の称讃のないところで、闇の無知の世界に入ってきてくださることはない。
釈尊先生の心は、まさに真理そのものの心でもあったろう。そして、真理そのものの心は、釈尊先生の心でもある。親鸞はそんな仮説を立てる。
賢人哲人達の相互の称讃の中身はなにか。称讃は、相手に対する尊敬という形で表現されてくる。具体的には「先生」という言葉で表現されてくるものだろう。
尊敬もなくむしろ侮蔑と皮肉を込めた「先生」という言葉もあるだろうが、尊敬という心があるときは必ずや「先生」という言葉を伴うだろう。
「限りなき継続の命をもたらしてきてくださる先生」、「限りなき知恵の光をもたらしてきてくださる先生」。釈尊先生は当時の多くの賢人哲人達からもそう呼ばれたことだろう。
無量寿仏、無量光仏とは、人格化した真理そのものの称呼であり、賢人哲人達が相互に徳を称え、尊敬し合うときの称讃の言葉である。阿弥陀仏と呼び合うという行為は、賢人哲人達が、自らの認識を人々の共通の財産としよう目指すときの誓いに含まれている。
そうであれば、我々を真理そのものに目覚ましていこうとする真理の誓いに含まれている。親鸞はそのように考えているのだろう。僕はそのように考える。
大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく。また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
諸仏称揚の願・諸仏称名の願・諸仏咨嗟の願。この三つは経典の願文を読めばそのまま導ける。咨嗟(ししゃ)とは、褒め称えるという意味だ。大悲の願・往相回向の願・選択称名の願について考えてみよう。
大悲の願という言葉に対し、親鸞は「大悲の願船」という言葉を使っている。「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」などという表現がある。
大乗仏教は、自分だけが真理を認識するだけでは満足しない。真理の独占を許さない。真理は、より多くの人々との共通の財産として共感的に享受し合おう。そう提案する。大乗仏教の本質は教育学だと考えるべきだろう。
そうならば、大悲の願船とは、多くの人々を一気に真理の認識に到達させようとする働きだと考えていい。大悲の願とは、人々を正しく教え導こうという教師の教育指導的意思に他なるまい。
自分の考えを多くの賢人哲人達にも認めて貰おうという思いは、真実が分からないことが原因で苦しんでいる人々に向けて真実を公開していこうという思いの一つの表れである。親鸞はそんなことを考えているんだろう。
真実を公開していこうという思いの表れが、称揚・称名・咨嗟という決意の形で現れてくる。
真理(人格)はどのようにして真理(理法)を公開してくるのか?。
万有引力に宿る真理は、ニュートンにものごとを科学的合理的に観察して数学的に処理することを求めた。だからこそニュートンは、ライプニッツとは別に独立して微分積分学を創設し、数学的処理法で事物現象の説明を試みた。
真理(人格)は、ニュートンに、数学的処理法でアプローチすることで万有引力を発見させ、次いで王立学会での公表という舞台を与えてくる。
真理(人格)は、真理(理法)への向かい方を示して真理(理法)を獲得させ、真理(理法)を携えさせて大衆に公表させる。
真理へ向かわせる真理(人格)のあり方を親鸞は往相と言う。真理(理法)を携えさせて公表させる真理(人格)のあり方を親鸞は還相と言う。往相と還相と言う形で開いてくる真理(人格)の働きを親鸞は回向と呼ぶ。
真実(人格)は、真実(人格)を師(先生)と仰ぐ者に真理(理法)を開いてくる。先生を「先生」と称呼する行為は往相の回向である。親鸞はそのような仮説を提唱している。
真理を認識していくにあたりやるべき事は数々ある。数々あれば、その中で順番を決めるべきだ。何が最初か。真実(人格)を師(先生)と仰ぐこと(大行)が全ての原点である。
「先生」と称呼する行為(大行)を最も先にせよ。真理(人格)は他の行為に先がけて称名行為を選んで提示してくる。称名行為は真理が最初に選択した行為である。親鸞は、そのような仮説を立てていると言うべきだろう。
291 :
名無しさん@1周年:01/10/08 15:12
高森氏関係の本が大変売れているようですが、
渡海氏はいかが思いますか?
高森さんの本には、ほとんど興味がありません。
「白道燃ゆ」だけは、親鸞会の方と論争する必要があって流し読みしました。
高森さんの本だけじゃなく、僕は、明治以降の坊さんの書いた本には、ほとんど興味がありません。高森さんの著述で、貴方が興味深いと思ったことがあってその点だけでもお教え下さると嬉しいです。
age
また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要
親鸞は、「重誓偈」と呼ばれてきた部分から一部を引用してくる。抄要とは、重誓偈の一部を抜き出すという意味だ。
親鸞が引用した内容は大悲の願とほとんど同じだ。ほとんど同じ文をなぜ引用するのか。違いがあるからだろう。「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」。新たな引用はそういう部分を含めている。
「名声十方に超えん」というのは、それ自体が真の目的ではない。親鸞はこの背後にある真の目的をつ読んでいる。衆のために宝蔵を開くということ。功徳の宝を施すということ。大衆の中で説法師子吼するということ。これが最終の目的であるということだろう。
「衆のために宝蔵を開く」。人々に自分が知った認識を開放するということだ。「功徳の宝を施せん」正しい認識を得させるということだろう。
「常に大衆の中にして説法師子吼せん」とはどういうことか。百獣の王である獅子が声を挙げると、他の獣たちは息を潜める。大衆を継続的に指導し続けることで、間違った考えが発生してくることを防ぐということである。
釈尊先生は、自分を多くの賢人達に受け入れられるようにしようと努力された。その目的は、自分が名誉を得ることにあったのではない。自分が知り得た真実を人々に公開していこうと願っていたからに他ならない。
親鸞は、大無量寿経から釈尊先生の意思をそのように読み、その心を真理(人格)にシフトしていく。
295 :
名無しさん@1周年:01/10/13 16:01
age
296 :
渡海 難( p6069-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/15 18:31
願成就の文、『経』に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上
また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし、と。已上
親鸞は、大無量寿経の下巻を引用し、讃歎の客体と讃歎の主体を明示している。何を讃歎しているのか。威神功徳不可思議なるを讃歎している。誰が讃歎しているのか。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来が讃歎している。
威神の威とは「表面に現れた品格」という意味だ。神(じん)は心(しん)だろう。これは内面の品格だ。功徳とは、献身的な行動という意味だろう。不可思議とは、常人の想像を超えるという意味だろう。称讃の客体は、常人の想像を超える気高く献身的な行動そのものである。
十方世界とは、あらゆる世界という意味だろう。東・西・南・北・北東・北西・南西・南東・上・下で十方となる。これは地理的方向性を示していると解することも出来る。
しかし、地理的方向性なら、上・下とはどういうことか。山に住んでいる者、地中に住んでいる者という意味か?これではどうも話が見えない。
東・西・南・北とは、過去・未来・生産・休息という意味の象徴だろう。太陽は東から上って西に向かう。古代の人は太陽の運行と位置で時間を知った。
東の諸仏とは、過去を重視する賢人達という意味だろう。西の諸仏とは、未来を重視する賢人達という意味だろう。南の諸仏とは、生産を重視する賢人達という意味だろう。北の諸仏とは、休息を重視する賢人達という意味ではないだろうか?
北東の諸仏とは、過去のいきさつと休息を重んじる論者達だろう。北西の諸仏とは、未来への方向と休息を重んじる論者達だろう。南西・南東も同様に考えるべきだ。
そうすると、上方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者、下方の諸仏とは、社会的に自分より上位にある論者と考えればいい。
釈尊先生の気高く献身的な行動は、価値観の違うあらゆる立場の賢人・論者達から絶大な尊敬を受けた。だからこそ「先生」と仰がれた。親鸞はそんな釈尊観を真理(人格)にシフトする。
真理は、現に、あらゆる立場の賢人・論者から尊重される。さあ、真理を師と仰ぎ、師と呼ぼう。親鸞はそんな意味のことを述べている。
keep
298 :
渡海 難( p4087-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/17 00:05
あげ
299 :
渡海 難( p1093-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/18 22:22
また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致る、と。
経典の言葉は二つの面から読んでいく必要がある。一つは経典著者の本来の主張。もう一つは、親鸞の視点だ。教行信証に引用されている経典の言葉は、親鸞のフィルターを通して見ていく必要がある。親鸞はどのように読んでいるのか。
多くの人に本当のことを知って貰おう。自分が知りえたことを知って貰おう。釈尊先生のこの思いは、先生の名に徳として象徴され、先生の名に化体した。
釈尊先生から真理を求めることの素晴らしさを教わった僕らの先輩達は、真理を求めることの素晴らしさを釈尊先生の徳に凝集させ、「釈尊先生。ああ先生」という言葉で自分の中で反芻する。
人々は、「釈尊先生。ああ先生」という言葉によって、真理を学び合おうという先生の心と向き合う。真理を学び合おうという先生の心と共通の世界に入る。親鸞はそんな意味で読んでいるんだろう。
「不退転」。これが、経典上のここのキーワードだろう。不退転とはなにか。不退転にはいろいろな意味がある。不退転とは、本来は八地以上の菩薩を指すのだろう。
それが、親鸞の解釈では初地の菩薩すなわち歓喜地の菩薩を意味する言葉に変わり、念仏者を意味する言葉にまで下がってくる。ここでは親鸞の思索の順序を、経典の原意から追っていかないと理屈が分からなくなる。
300 :
渡海 難( p1093-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/18 22:23
釈尊先生という人は、教育活動に死に物狂いでぶつかっていった人なんだろう。僕はそう思うのだ。祇園精舎に入りたいと思っている若者がいると、先生は自分の方から出かけていって入学を誘ったようだ(十九願)。
祇園精舎に入りたいと思っていても、いろいろな状況が入学を許さない場合には、本人の環境に働きかけて入学できるようにしたようだ(二十願)。
入学してきた若者には、真剣に関わって指導を重ね、次の時代を十分に担える人に育て上げて卒業させた。だからこそ、先生の名声を聞いて祇園精舎に入りたいと思った若者は、多くが入学してきた。
祇園精舎に行きたいと思う若者がいれば、多少無理してでも送り出すという雰囲気が、かなり広い地域で早い時期に完成されていったのではないだろうか。
祇園精舎で学んだ若者達は、未来を切り開く素晴らしい可能性を確実にして世界中に散っていく。そこには、教育に賭けた先生の並はずれた情熱(本願)があったに違いない。経典の言葉の裏には、そんな実体があったのではないかと想像する。
301 :
名無しさん@1周年:01/10/19 08:12
>>301 渡海のアホに回答を求めないように!ろくなことがありませんので。
それからこのスレはクソスレなので上げない事!以上
303 :
名無しさん@1周年:01/10/19 13:16
>>302 渡海難に対し、難解な質問をふきかけるのも一興
>>301 >渡海教授の解答をお待ちしています。
僕は、教授なんかじゃない。
必要があれば、この種の質問はメールでください。メールでお答えします。
>>303 >難解な質問をふきかけるのも一興
難解な質問なんか僕に答えられるはずないだろう。僕は素人だ。2CHに専門家はたくさんいる。難解な質問は専門家に聞いて欲しい。僕には、自分が答えられる範囲しか分かんない。分かんないことは、分からんと言うだけだ。
難解な質問は坊さんに聞いてくれ。よろこんで検索エンジンになりかわり、翌日には有益なURLを教えてくれる。「こっちを見ろ」ってね。僕にそんな真似はできないよ。
KEEP
306 :
渡海 難( p3094-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/21 22:42
大無量寿経がインドで書かれたのは、西暦前後のことらしい。釈尊入滅後、数百年経ている。大無量寿経成立期と釈迦との間では、我々の感覚で徳川家康か豊臣秀吉ぐらいの年代的ズレがある。しかし、釈迦が撒いた教育運動は、飛躍的な成長期にあったようだ。
大無量寿経は、インドの大乗運動の中から誕生してくる。自分一人が何か分かればいいというものではない。人々に幅広く真実を教えよう。釈迦の後継者は、釈尊先生を理想として優れた教育者になることを目指せ。大乗の先人達は、次の時代の若者にそう説いたのだろう。
人々に身と心を尽くせ。人々に身と心を尽くして人々に認められ、認められて名を挙げ、名声によって更に多くの人々を導け。より多くの人々を更に有為な教育者に育てよ。大乗の先人達は、釈尊先生をモデルに阿弥陀仏という架空の教育者を創作し、若者に目標を示した。
教育にかける阿弥陀仏の使命感(本願)は常人のスケールを越えている。阿弥陀仏は極楽浄土という名の祇園精舎を建設し、その名声で多くの人々を惹きつけ、育てていく。
大乗の求道者よ、すべからく自分自身も阿弥陀仏を目指せ。阿弥陀仏の意思を自分の意思とし、阿弥陀仏の行動を我が行動とし、阿弥陀仏の化仏となれ。大無量寿経はそのような主張をしているのだろう。
教壇に立った大乗の求道者の教育者としての具体的な目標は、教育学を専攻する教え子を八地というレベルまで教え育てることだったようだ。小乗の基礎学習を終え、教員を目指す若者は大乗の教育学校で教育学を専攻する。
大乗教育学校の入学生は初地という段階で入学する。大乗段階は、小乗段階を終えてところから始まる。初地は歓喜地ともいう。大乗の教育学校では、校長は十地という段階にあったようだ。その他の教師は九地という段階にある。生徒は八地に至れば卒業する。
307 :
渡海 難( p3094-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/21 22:43
極楽浄土で観音菩薩、勢至菩薩などは九地の菩薩である。八地の菩薩は平等性を認識する。平等心こそ、人を指導するにあたってもっとも重要な精神だろう。
平等心の認識は空の認識が基本になる。頭の悪い子でも、無限の可能性がある。優秀な子であっても油断すれば遅れをとる。バカな子はかならずしもバカな子ではない。優れた子が必ずしも優れた子ではない。思いこみには何ら根拠がない。
何ら根拠がないと空が分かったとき、優れた子と劣った子との間で人は平等性を認識する。ものごとに執着しなくなる。迷わなくなる。これが教育者の条件だ。
空に迷う七地以下の菩薩はしばしば空に執らわれて空に沈む。七地を越えて八地に至れば、他人を指導できる。八地に至れば、教壇に立てる教育者なれる。
教育者なれる一群の人々(衆)、これを正定衆(=聚)という。大乗の菩薩は、教育課程の学生を正定聚にまで育てる。大乗の菩薩には、そういう要請があったものと私は考える。
308 :
渡海 難( p7160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/21 23:43
>>306 誤 生徒は八地に至れば卒業する。
正 生徒は八地をマスターして卒業する。卒業して九地に至る。
309 :
渡海 難( p0850-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/25 07:53
あげ
keeping
311 :
名無しさん@1周年:01/10/26 20:43
age
「教育者」って言葉、「生徒」って言葉、「卒業」って言葉
定義、っとゆーかもうすこし詳細に説明してほしいです。
313 :
渡海 難( p7002-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/27 13:56
>>312 >「教育者」って言葉、「生徒」って言葉、「卒業」って言葉定義、っとゆーかもうすこし詳細に説明してほしいです。
教育者とは、人を教え育てる人ということだ。僕はこれが仏教の原点だろうと思っている。例えば教行信証の末尾に親鸞は安楽集という書物を引用する。安楽集とは、唐の時代初期の高僧、道綽という人が書いた書物だ。
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。
親鸞は、この無窮の連続性の中にいた人であり、その親鸞に連続することで、僕らは仏教に参加する。僕はそう思っている。
釈尊先生の本質は何か。それは、前に生まれた者として後に生まれた者を導いた方だったんでしょう。
後に生まれたお弟子さん達は、前に生まれた釈尊先生を訪って釈尊先生の無窮の連続性に参加していった。その意味で、釈尊先生という人は、ソクラテス、プラトン、孔子などと並ぶ、人類最大級の教育者のお一人だと思う。
釈尊先生は三十五歳の時、十二因縁の法理を認識される。生死生死の輪廻の迷いの原因は無明にあると気付かれた。
鬼の心で鬼の行動を取る者を鬼という。ケダモノの心でケダモノの行為をする者をケダモノという。人はあるときは鬼となり、一瞬後は有頂天となり、次の瞬間は真人間となり地獄にも堕ちる。人間のお面を被っていても、お面の裏側は瞬間瞬間に変わっていく。
314 :
渡海 難( p7002-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/27 13:57
人は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の間をさまよう。これを輪廻という。変わるたびに、意思と行動が変わる。意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変われば別人となり、そのたびに古い命が死に新しい命が誕生する。生死生死をくり返す。
生死生死をくり返す原因は何だったのか。迷いの根元には自分の愚かさがあった。釈迦はこれを無明と名付けた。
「バカだった。バカだった」。人はしばしば後悔する。後悔しても、後悔しても、やはり同じ愚かさをくり返す。何故くり返すのか。根元的に愚かだからだろう。
根元的愚さが解決しない限り、人は過ちをくり返す。これは大変なことだ。互いに本当のことを教え合わなくてはいけない。学び合わなければいけない。釈尊先生はそう気付いた。だからこそ生涯を教育事業に捧げられた。校則を定め、全寮制の学校を建設する。それが祇園精舎だ。
祇園精舎での釈尊先生の信念は、十二因縁の法理の確信に裏付けられていたはずだ。そうであれば、祇園精舎では当然、十二因縁の法理を教えていただろう。しかし、それだけじゃないだろう。
釈尊先生は、当時最先端の、王侯の知識を積んでいた。全ての人が教育者になる必要はない。侍、商人、漁民、農民、それぞれそれぞれに、それぞれ必要な知識を教えただろう。
文字を教え、算術を教え、暦を教え、医学・農学も教えただろう。釈尊先生から必要なことを教わりきると、人々は祇園精舎を卒業し、農民は田畑へ、漁民は海や川へ、商人はシルクロードに戻っていく。
小乗仏教の国々では、好きなときに出家して寺に入り、思い思いのときに還俗する。自由な形態が、祇園精舎の大きな特徴だったろう。
釈尊先生が亡くなると教える人がいなくなる。釈尊先生の教え子の中からある意見が出てくる。教わることは大事だけど、教えることはもっと大事なんじゃないか、と。教え子の中から、釈尊先生の教育事業を継承しようと言う人々が出現する。これが大乗仏教だ。
315 :
渡海 難( p7002-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/27 13:58
大乗仏教は、基礎的な知識を身につけた人々が学ぶ。学ぶ知識は教育手法だろう。自分一人が認識して納得する限りは、一切有部でもいい。有でも無でもいい。
ところが、他人を教えるとなるとそうはいかない。空とか平等とかという概念は、人を教える教育学の中から誕生してくる。 唯識というのもそうだろう。心理学は、教育学にとって重要な学問だ。
大乗仏教には二度の入学と二度の卒業がある。基礎的な知識を学ぶ小乗段階に入学し、やがて卒業する。ある者は商人に戻り、ある者は漁民に戻る。ある者は政府の役人として仕官する。
教育者を志す者は、改めて大乗仏教に入門(初地)し、そこで教育学を学ぶ。教育手法を学び、人を教え導くことができる人々の仲間(正定聚)になると(八地)卒業する(九地)。そして教壇に立つ。
九地の菩薩としてある者は小乗学校の教壇に立つ。ある者は大乗学校の教壇に立つ。経験を積み、名声だけで人を導くようになると十地に達する。
これが大乗仏教の基本的な流れだろう。大無量寿経は、こうした原理に基づいて書かれている。大無量寿経は、こうした原理をまず認識しないと、読み間違う。僕はそう思う。
316 :
名無しさん@1周年:01/10/29 16:02
あげとくよ。
317 :
名無しさん@1周年:01/10/29 16:23
318 :
名無しさん@1周年:01/10/29 16:28
>釈尊先生は、当時最先端の、王侯の知識を積んでいた。全ての人が教育者になる必要はない。侍、商人、漁民、農民、それぞれそれぞれに、それぞれ必要な知識を教えただろう。
> 文字を教え、算術を教え、暦を教え、医学・農学も教えただろう。釈尊先生から必要なことを教わりきると、人々は祇園精舎を卒業し、農民は田畑へ、漁民は海や川へ、商人はシルクロードに戻っていく。
> 小乗仏教の国々では、好きなときに出家して寺に入り、思い思いのときに還俗する。自由な形態が、祇園精舎の大きな特徴だったろう。
出典をあげてね。
糞スレあげるな、渡海信者!
===============終了===============
320 :
渡海 難( p2059-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/29 19:15
>>316 >あげとくよ。 <謝々>
>>317 >妄想だYO。 <苦笑>
>>318 >出典をあげてね。
出典は挙げません。僕の予想的仮説と思ってください。
弾劾的な証拠をご呈示くだされば考えなおします。僕の予想的仮説ですから、面白いと思ってくださるのもいいし、無意味だと思う方がいらしてもいいわけです。僕は研究者ではありませんから、自由な大胆な仮説発言を提示します。
>>319 >糞スレあげるな、渡海信者!
信者ではないでしょ。せいぜいファンの方でしょう。ファンとはありがたいものです。
貴方も渡海 難から目が離せない渡海ファンのお一人なんでしょう。伝統を食い物にする本願寺信者か何かなんでしょうか? もしかして高名なお坊さまだったりしてね(笑)。
321 :
渡海 難( p2059-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/29 19:16
浄土教の概念は、経典・曇鸞・善導・親鸞で激変している。阿弥陀仏は、大乗の菩薩一人一人が自分の目標とすべき理想のモデルだったはずだ。浄土教を学ぶ人々は、阿弥陀仏の化仏として、阿弥陀仏の行動を阿弥陀仏の心で社会に実現することが期待された。
極楽浄土への往生とは、曇鸞仏教では小乗課程を経て大乗課程に入ることを意味したようだ。曇鸞は、近門、大会衆門、宅門、屋門、園林遊戯地門という言葉で大乗学習課程を説明している。往生の往くとは世界が変わること。生まれるとは人格が変わることを意味する。
小乗課程と大乗課程とはやるべきことが違う。やるべきことが違えば心が変わらないといけない。意思と行動が変われば人格が変わる。別人となる。これが生まれるという意味だ。
意思と行動は変わってないとなると世界が変わっている。世界が移動した。これを往くという。大乗課程に入ることを、曇鸞は往生という。
曇鸞では極楽浄土すなわち大乗学校の近門から正定聚に加わる。近門からであるということは、曇鸞は正定聚を初地で認識しているようだ。曇鸞では正定聚のカーソルが移動している。
大乗段階で浄土門に入れば必ず素晴らしい教育者になる。素晴らしい教育者になることに定まれば、それはもう素晴らしい教育者の仲間である。八地を待つ必要はない。曇鸞は、浄土教大乗教育学を専攻してきた学生をそのように称讃する。
322 :
渡海 難( p2059-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/10/29 19:18
善導は、大無量寿経を仏教入門者に読ませた。釈迦流の仏門の入り方とは別の入門方法を開くためだ。善導は、戒律をもって仏門に入る入り方とは別に、念仏で入る入り方を創設した。善導はこれを大無量寿経から発足させ、阿弥陀仏教として体系化する。
善導は念仏行を仏教入門の入り口とした。これにより、往生という概念に変動が起きる。極楽浄土は抽象化する。極楽浄土は仏道修行者の世界という意味となる。画家の集まりを画壇と言い、文士の集まりを文壇という。同じような扱いだろう。
往生とは念仏者の仲間、仏道修行者の仲間に入ることを意味するようになる。
往生について善導は違う。「為主即難。今時願往生者 並是一切投化衆生 <極楽浄土の主になることは難しい。現代においては極楽浄土の人民になるである>」。
初等教育の段階つまり小学校一年生に対して、将来は教育者になれとラッパを吹いても意味がない。善導は往生という概念を変えてくる。
親鸞は、本来は水と油の関係にある曇鸞と善導をつなげ、独創的な議論を展開する。念仏する者は仏道修行者の仲間に入る。このとき正定聚の一人となる。正定聚の一人となるからその果が生じたとき極楽浄土に往生し、仏になる。
親鸞の議論は注意深く聞いていかないと訳が分からなくなる。
323 :
名無しさん@1周年:01/10/31 08:03
あげ
324 :
渡海 難( p6060-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/01 23:04
親鸞の議論は、形式論理性と実質的論拠の両方を考えていかないといけない。親鸞の本来の主張は、無論、実質的論拠にある。しかし、実質的論拠は形式論理でカモフラージュしている。
親鸞の時代、親鸞の思想は御禁制の思想だったことを忘れてはいけない。露骨な主張は命にかかわった。
名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到る。名を聞きて往生せんと欲うというのは、阿弥陀仏の素晴らしさを知って南無阿弥陀仏を称えていくということだ。
南無阿弥陀仏を称えれば誰でも全て極楽浄土に往生する。ここには善導の主張が生きている。極楽浄土に往生すれば不退転に致るというのは、曇鸞の主張だ。しかし、善導の往生の概念と、曇鸞の往生の概念とはイコールではない。
善導の往生の概念は、仏教一年生になるということだ。曇鸞の往生とは、小乗の段階を終えて大乗の世界に入ることだ。異なる概念を、言葉の表面的同一性でリンクさせ、親鸞は意識的に混同させてくる。
南無阿弥陀仏を称える者は、仏教一年生でも、大乗の菩薩と同じだ。親鸞はこういう結論を導いてくる。
親鸞の真意はどこにあるのか。南無阿弥陀仏を称える者は尊い。末法の時代に南無阿弥陀仏を称える者は、筆舌尽くせないほどに尊い。親鸞はそう言っているのだ。
その尊さは、釈迦という偉大な指導者がいた時代、釈迦という人に導かれて小乗の段階を終え、大乗の段階に入り、釈迦を継承して多くの人々を指導し育てた大乗の菩薩達に匹敵する。それほど尊い。
さあ、末法の時代に生きる我らは、ひたすら南無阿弥陀仏を称えていこうじゃないか。親鸞はそういう主張をしているのだ。
南無阿弥陀仏は何故そんなに尊いのか。親鸞はそうした議論を進めていく。
102 :NB :01/11/02 21:41
えー、それから、渡海さん。
論争ですかーーーーー。いや、苦手なんだけどね(w
まあ、でも、いいですよ。
ただし、あなたのスレでそういう方面はやりませんか。「親鸞仏教を問う」ね。
そうじゃないなら、論争なんていやなこった。
つーことで、、、どうよ。
つーことで、、、どうよ。
まずは、座禅念仏の出拠を示していただきたい。
326 :
名無しさん@1周年:01/11/02 21:51
渡海のパワーはすごいな。
>論争なら受ける。「やめてほしい」などと他人から言われる筋はない。
>親鸞は教義を勘違いしているんだと貴方がいうなら、僕はいくらでも受けて立つよ(笑)。
以上、浄土真宗の人いる?のスレから。
だから、論争を申し込めばいいのなら、申し込むよ。
まずは、座禅念仏の出拠を示していただきたい。
328 :
渡海 難( p2175-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/02 22:02
>>325 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、
王いま座禅してただ当に念仏すべしと。
出拠だけ出しておきます。今日はこれでPCを止めます。
>>328 はい、どうも、ありがとうございます。
>「渡海さんご自身の味わいと…思うけどね」という言葉として受けておきます。
>問題が有るか無いかなどはとやかく言われる筋はない。
これに関してはおっしゃる通りですね。わたしが傲慢でした。
わたしも、ここでは何宗ともなき一念仏者のつもりですんで、
よろしく。
それから、最初にお断りをしておきますが、11月の上旬までは
すぐにレスがつけられないことがあるかもしれません。
そんでも、よろしく。わくわくしますね。って言っちゃダメ?
330 :
名無しさん@1周年:01/11/02 22:39
>NB
これを読め
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 ・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
このスレから撤退するなら今のうち。。。
331 :
渡海 難( p0129-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/03 15:22
>わたしも、ここでは何宗ともなき一念仏者のつもりですんで、よろしく。
「わたしも、ここでは〜のつもりですんで」なんですか?
「わたしは、ここ以外では普通は一念仏者などというそんなケチな半端もんじゃないんですよ。とても立派な人なんですよ」。「ここでは渡海 難みたいな半端もんのレベルに一応合わせ、一念仏者として振るまって見せましょう」ということでしょうか?。
「何宗ともなき一念仏者」という宣言が泣きそうですね。ま、お偉いお方なんでしょう。多分(笑)。
>11月の上旬まではすぐにレスがつけられないことがあるかもしれません。そんでも、よろしく。
上旬までは? 上旬中は??
ま、11月の上旬などといわず、お気の済むままになさってくださいませ。
>わくわくしますね。って言っちゃダメ?
「ダメ」とはどういうことですか?よく分かりませんが、楽しい会話ができればいいですね。外野にも観客の方が(
>>330)さっそく勇んでいらっしゃってくださってるようです
さて、まず、なんで「何宗ともなき一念仏者」を悪意にとるかなあ。
ぼくとしては、「何宗ともなき」にウェイトをおいたんだけど、
本願寺派の僧侶だからといって、それに寄りかかって問題の有無を
判定するようなまねはやめます。ってだけのことなのに、、、
まあ、いいです。いつものことですからね。
宗祖は行巻に『浄土五会念仏略法事儀讃』を引用されるなか、
こんな引文もあるよね。「王いま座禅してただ当に念仏すべし」の続きのとこだね。
如来の尊号ははなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。
の「ただ名を称するのみありて」
持戒・座禅を正法と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。乃至。禅・律いかんぞこれ正法ならん。
念仏三昧これ真宗なり。
つまり、座禅は外道に対しては正法だけど、時・機を考える上からは念仏のみが正法だ。ってこと。
それから、最後にこんなの。
西方は道に進むこと娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきによってなり。成仏に諸々の善業を労しくせず。
華台に端座して弥陀を念じ奉る。
「華台に端座して弥陀を念じ奉る」の「華台に端座して」はつまり、本願力に乗託して。ってこと。
と釈するべきだから、いわゆる座禅じゃないね。あなたの挙げた「座禅して」も、いわゆる「座禅」
じゃなくて、万善諸行を修行することをひとまずおいて、虚心に念仏に心を向けなさい。
って意味だろうね。
それから、話がややこしくなるから、真宗スレには書かないけど、「禅師」ってのは座禅の師匠じゃないね。
「三昧の師匠」だね。知ってて書いてるのかどうかしらないけど、ほんと紛らわしいね。あなた。
親鸞仏教って難しいね。屁理屈ばかりで。
335 :
渡海 難( p5031-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/04 13:03
>>332 :NB
>悪意にとるかなあ。
真意を伝えられなかったんでしょう。真意が伝わらなかったと思えば、自分を振り返るのが筋。表現方法は適切だったか?。気が付かない自分の潜在意識に錯誤はなかったか?。
この二点に不都合がなかったら、真意が伝わらなかった原因を相手に求めてもいい。掲示板は、十分推敲しないで書いてしまう。不適切な表現で安直に書いてしまうことがある。表現方法の自分の不十分さに思いを巡らさないで相手の悪意を推測するのはいかがなものか。
>まあ、いいです。いつものことですからね。
惰性的先入観の延長で物事を考えようとするような態度じゃ、発見はない。親鸞の書物を読もうなど、止めた方がいい。
いつものこと」の先入観は捨て、謙虚に相手に真剣に立ち向かおうとしないと何も生まれない。伝統宗派の呪縛に縛られているように、僕には貴方が見えている。
336 :
渡海 難( p5031-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/04 13:05
>本願寺派の僧侶だからといって、それに寄りかかって問題の有無を判定するようなまねはやめます。
気持ちは分かる。
こういう思いが出てくるところも、本願寺派の僧侶であるという建て前が外せないところなんでしょう。
「何宗ともなき一念仏者」には、本願寺派の僧侶であるという建て前が外せれば自然になれるだろう。いやいやそうじゃない。自然になれるなどと思うのは、無責任な他人の勝手な評価なんでしょう。「何宗ともなき一念仏者」になるというのは、大変なことだ。
何宗ともなき一念仏者にも、実は、本願寺派の僧侶という建て前を着たままでなろうとするほかはない。そういう大変さがあるんだということかも知れませんね。
何宗ともなき一念仏者でなければいけないんだと、まねでない判定を自分になさってるのかも知れません。
どれも悪い事じゃない。人にはそれぞれかけがえのない自分の道がある。貴方の道は貴方が選ぶ。
>ただ名を称するのみありて
「さ、ただ、この絵を見て味わってください」と言って、オーナーは額付き絵画を持ってくる。そのとき、額は不要だから外してくださいという人はいない。
すばらしい絵画は額を付けて見るのがエチケット。額付きの絵画を持ってきて、「額と絵画とを見てください」という人は少ないでしょう。
>持戒・座禅を正法と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。乃至。禅・律いかんぞこれ正法ならん。
額は資産である。しかし絵画こそが資産の核心である。絵画に比べれば、額がどうして資産と言えようか?
337 :
渡海 難( p5031-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/04 13:08
>念仏三昧これ真宗なり。
<真剣に念仏に集中しよう。(座禅して念仏すれば、念仏は収まりがいい。集中できる)。>
>つまり、座禅は外道に対しては正法だけど、時・機を考える上からは念仏のみが正法だ。ってこと。
額は、がらくたに対しては資産だけど、額だけじゃ意味がない。額は絵画を引き立てる。時・機を考える上からは絵画だけに真の価値がある。
>と釈するべきだから、いわゆる座禅じゃないね。
画家は、額を見て欲しいんじゃないと釈するべきだから、本心はいわゆる額じゃないね。絵画を見てくれと言っているんだろうね。
>万善諸行を修行することをひとまずおいて、虚心に念仏に心を向けなさい。
がらくたや額などを収集することはひとまずおいて、虚心に絵画に心を向けなさい。
虚心になれない人が、一歩でも二歩でも虚心になろうとすることは大事だ。本願寺僧侶という建て前はなかなか外せない。はずせない身を引きずってでも、何宗ともなき念仏者になろうとする努力は尊い。建て前が外せないと、努力は徒労になるかも知れない。でも思いは尊い。
真剣に絵画を鑑賞しようとするなら、額もあった方がいい。虚心に念仏に心を向けようとする心があるなら、座禅して念仏称えてみなさいよ。座禅は念仏に納まりがいい。
額が嫌いな人には額はいらない。座禅したくない人はしなければいい。自分は本願寺僧侶だから座禅抜きでも虚心に念仏できる能力があるというなら、それもいい。やってみるがいい。
338 :
渡海 難( p5031-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/04 13:09
>>333 :NB
>「三昧の師匠」だね。
【禅師】@ 禅定ゼンジヨウに通達した師僧。 A 中国・日本で、智徳の高い禅僧に朝廷から賜る称号。「一休―」 B 一般に、法師の称。伊勢物語「山科の―のみこおはします」<広辞苑>
善導禅師とか、道綽禅師と言うのは、@かAの意味でしょうね。
善導和尚は、是れ三昧発得のひとなり(選択集)。座禅して念仏し、三昧発得された方なんでしょう。三昧は禅定から得られる境地ですからね。
先日話題があった兼実公について、兼実公は、禅定博陸とも言う。法然門下の仏門に入った人だ。法然も兼実公も、座禅して念仏し、虚心に念仏に心を向けておられた方なんでしょう。
>ほんと紛らわしいね。あなた。 <どこか紛らわしかったでしょうか?>
>>334 :あー
>親鸞仏教って難しいね。屁理屈ばかりで。
親鸞仏教は難しいんですよ。決して簡単じゃない。親鸞の時代、彼の主張は御禁制だった。重要な仲間が何人も殺されている。親鸞が殺されなかったのは奇跡に近い。
親鸞は、本心をさまざまにカモフラージュしている。前人未踏の破天荒な主張をするのに、先人の伝統を厳格に守っているという表面をとりつくっている。そうしないと殺されたんだ。
親鸞の真意は、カモフラージュの背後から浮き上がってくる全体から読み取る。
難しいのは議論の途中経過。議論で親鸞は官憲に尻尾を捕まれないようにしている。でも、結論は極めて明快なんだよ。
あのさーせっかく出拠をだしたんだから、あなた。
ぼくに対する「お説教」はいいから。
おなじ行の巻で、しかもすぐ続くところで、あなたが座禅念仏の根拠とするところに
反論を加えたわけだから、その部分で議論ってゆうか、あなた曰く「論争」をしてほしいね。
<真剣に念仏に集中しよう。(座禅して念仏すれば、念仏は収まりがいい。集中できる)。>
↑はただ単にあなたの感想でしょ。あなた結局この感想に基づいて論を展開してるにすぎない。
結局『行の巻』なんてたいそうに持ち出したけど、全然意味ないじゃん。
あっ、ごめん。sageで名前入れてなかったね。
>>339はNBです。
341 :
渡海 難( p6159-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/05 08:24
>>339 >ぼくに対する「お説教」はいい
<ご不快になるような耳障りな失礼でも申し上げてしまいましたでしょうか?。>
>反論を加えたわけだから、その部分で議論ってゆうか、あなた曰く「論争」をしてほしいね。
はて?。どのような論争を期待のイメージ絵として、あなたは描いていらっしゃったのでしょうか?。「ただ名を称するのみありて」という部分だけを引用された反論なら、あの程度の逆反論で、私は言い尽くしたと思ってるんですよ。お気が済みませんでしたか?。
>ただ単にあなたの感想でしょ。
<「念仏三昧これ真宗なり」という文言に対する私なりの解釈を申し上げました。>
342 :
渡海 難( p6159-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/05 08:27
>結局『行の巻』なんてたいそうに持ち出したけど、全然意味ないじゃん。
あなたはどのようなたいそうな議論を期待していらっしゃったのでしょうか?。
貴方は布教師さんらしいけど、教行信証はお持ちでいらっしゃらないのでしょうか。僕は、昔から谷派の聖典を使っているんですよ。谷派と本派とは、内容が違うんでしょうか?。
「座禅してただ当に念仏すべし」という言葉は、本派がお使いの聖典の教行信証には載ってないんでしょうか?。岩波文庫の教行信証には載って居るんですけどね。
「座禅してただ当に念仏すべし」という言葉は、行の巻から引用しますよということで申し上げていただけですけどね。おかしいですか。
「行の巻を持ち出して座禅念仏を主張するのは紛らわしいからやめてほしい。」
こういう主張を貴方は今後も僕に向けますか?。こういう発言は、僕にとっては、自分の良心がねじ曲げられるような気がするんですよ。不可解な伝統教義、既成教団がねじ曲げている不可解な伝統教義が押しつけられてくるような不愉快さを感じるんですよ。
貴方は感じませんか?。
「ここは天下の2CHだ。法律に触れてるわけでもない。伝統教義に則って俺がどういう主張をお前に押しつけようが、要求しようが、これが浄土真宗の正しい伝統なんだから文句をいわれる筋合いはない。
そんなに浄土真宗の伝統教義が嫌なら爆音マフラーを取り締まれる町に引っ越せばいいじゃないか。」なんて言う布教師さんがいたら、やっぱなえるよね。こんなカキコがどこかにありましたよね。
>>342 >「座禅してただ当に念仏すべし」という言葉は、行の巻から引用しますよということで申し上げていただけですけどね。おかしいですか。
以下の2つは浄土真宗スレからのコピペ
93 :渡海 難( p3161-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) :01/11/02 19:00
一向宗から「念仏道場」という言葉が消え、一向寺と呼ばれ出したころ、一向宗は座禅して念仏する(行の巻)ことを捨て、親鸞伝来の教義を捨てた。
●3行目「親鸞伝来の教義」とは、座禅して念仏する(行の巻)をさしてるね。
98 :渡海 難( p0577-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) :01/11/02 21:01
行の巻を持ち出して座禅念仏を主張するのは紛らわしいというなら、世界中の教行信証の行の巻きから「座禅して念仏申すべし」という字句を抹消して欲しい。
親鸞は教義を勘違いしているんだと貴方がいうなら、僕はいくらでも受けて立つよ(笑)。
●「座禅して念仏申すべし」を親鸞聖人の教義として位置付けてるでしょ。
それで、『行の巻』の引文の中で、あなたが挙げた部分でも、「座禅して念仏申すべし」という文章が、親鸞聖人の称名念仏観を規定しうる部分であると、あなたはどうして言えるのか。お答えをいただきたい。
座禅念仏の主張が、単にあなたの念仏観を表現したものにすぎないのなら、『行の巻』を持ち出して、あたかも親鸞聖人の称名念仏が「座禅念仏」であったかのように書くのはまぎらわしいからやめろ。といってるの。
座禅念仏は親鸞聖人の思想であるのか、それとも、あなた個人の念仏の捉え方であるのか、お答えいただきたい。
以上2つの質問の答えををあなたに求めます。もちろん「論争」としてね。
受けて立ってみてちょうだい。
>>341 >「ただ名を称するのみありて」という部分だけを引用された反論なら、
>あの程度の逆反論で、私は言い尽くしたと思ってるんですよ
あなたが「座禅念仏」の出拠としてあげた『行の巻』の『浄土五会念仏略法事儀讃』
の引文のなかで、あなたの出拠に続く部分の3つの引用を
>>332で指摘しているけど。
もいっぺん見直してみてほしいね。
それとも、わざと見えないふりしてるのかな。「負ける」のが怖くて(w
345 :
いないなだ:01/11/06 12:23
東本願寺では死後往生をいいません。しかし、最近それで苦労しているようです。
346 :
いないなだ:01/11/06 12:41
えっと、お初でございます。
>>345-346 いないなださんは新参者ですね。
このスレはクソスレなので、放置してください。
また、渡海難はこんな奴なので、一切相手にしないほうがいいと思います。
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=1000165825 ・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」と言って決めつける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になったという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されている。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあったものではないが。
348 :
渡海 難( p7236-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/06 13:43
>>343 :NB
>「座禅して念仏申すべし」という文章が、親鸞聖人の称名念仏観を規定しうる部分であると、あなたはどうして言えるのか。お答えをいただきたい。
教行信証は、全体が親鸞の称名念仏観を現しているものです。法事儀讃も、親鸞自らが手を染めて書き込まれた記述でしょう。当然、親鸞聖人の称名念仏観の一部であると考えています。
それとも、法事儀讃は、親鸞が錯誤で書いたと思いますか?。他人が勝手に偽造して書き込んだものと思いますか?親鸞聖人の称名念仏観を規定していないという貴方の主張が僕には信じられません。
>座禅念仏の主張が、単にあなたの念仏観を表現したものにすぎない
このように思ってくださって一向にかまいません。基本的には僕の念仏観という範囲を超えません。
>『行の巻』を持ち出して、あたかも親鸞聖人の称名念仏が「座禅念仏」であったかのように書く
僕の念仏観は、教行信証の『行の巻』から教わたものです。原点は教行信証の『行の巻』にあります。これは紛れもない事実です。教行信証の『行の巻』がなければ、座禅して念仏するという考えは僕に生まれませんでした。
349 :
渡海 難( p7236-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/06 13:44
>まぎらわしいからやめろ。といってるの。
僕の念仏観は、教行信証の『行の巻』から教わって生まれたものです。間違いありません。それともあなたは、座禅して念仏するという僕の主張は、教行信証の『行の巻』以外から生まれていると思いますか?。
「やめろ」というのは命令的な表現です。あなたは大変お偉いお方のようですが、どういう権限で僕に命令するのですか。何宗ともなき一念仏者である命令的布教師ということですか?。
<何宗ともなき一念仏者を演じたがる単なるアホナンジャナイのか?>
>座禅念仏は親鸞聖人の思想であるのか、それとも、あなた個人の念仏の捉え方であるのか、お答えいただきたい。
「親鸞聖人の思想である」というのは、僕が提唱している僕の仮説です。親鸞聖人の思想でなければ、教行信証の行の巻に記載されることはなかっただろうと考えます。
親鸞聖人の思想でないものが教行信証の行の巻に記載されているという仮説を立てるのは、貴方の自由でしょう(笑)。
350 :
渡海 難( p7236-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/06 13:45
>>344 :NB
>あなたの出拠に続く部分の3つの引用を
>>332で指摘しているけど。もいっぺん見直してみてほしいね。それとも、わざと見えないふりしてるのかな。
貴方の主張の真意が僕に伝わってない可能性もあります。貴方の真意をもう少し詳しく伝えて欲しい。
>「負ける」のが怖くて(w
こんなことで勝ち負けがあると思っているんですか?。仮説を立てることは誰でも自由。自由に勝ち負けがあるとは不思議。
何宗ともなき一念仏者として振る舞うというのは、貴方にとっては誰かに勝とうということだったんですか?何宗ともなき一念仏者とは、口から出任せ嘘っぱちなんでしょう。
貴方は、勝ち負けにこだわり、勝利者になろうとして何宗ともなき一念仏者として振る舞うという。布教された人は敗北者で、悔し涙にくれるのでしょう。貴方に布教される人は気の毒だ(笑)。
<何宗ともなき一念仏者を演じたがる単なるアホナンジャナイの?>
351 :
渡海 難( p7236-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/06 13:47
>>345 名前:いないなだ
>東本願寺では死後往生をいいません。しかし、最近それで苦労しているようです。
こんにちは。はじめまして。
基本的に「往生」の概念が理解できないと、生前往生も死後往生も、話はチンプンカンプンになるでしょう。
>>348-350 とりあえず言っとくと、勝ち負けにこだわってるのはあなたのほうだと思ってたけどね。
って、ほんとはこだわってるでしょ(w
それから、単純な論理のすり替えがいっぱいあるんで、(あなたのレスにはね。念の為)
まあ、夜、あらためてレスつけるよ。
>>350 しかしまあ、読み返してみると、揚げ足だけで、よくこんだけ妄想をふくらませられるね。
まあ、そうやっていつも、議論をはぐらかしてきたんだよね。
論破されそうになるor論証できなくなくなるとね。
ぼくはてっきり、あなたが勝ち負けに異常にこだわってて、「負け」を認めたくないから
そんなふうにはぐらかす、あるいは議論を異常なまでの個人攻撃にすり替えていくんだと
思ってたよ。いや、今でもそう思ってるけどさ。
さて、「論争」のレスでも考えるか。。。。
NBさん、こんばんは。
寺族の不肖の息子、ペペ2号です。
私なんぞは真宗の寺院を継ぐことを拒否してリーマンになったいわば疑謗の輩なんだけど、親鸞さんは好きでして、なぜかここに出入りしているわけですが、渡海難という基地害には、あまり関わらん方がいいぜ。
こいつはロジックに詰まると、
「コピペオウム返し」
「馬の小便トーク」
でウザイくらい嫌がらせをして黙るまで嫌がらせをする。
そして挙句の果てには、一方的勝利宣言してスレを潰す。今まで奴に反論した人はたくさんいたよ。
でも、それに対していっぺんたりともまともな答えはなかった。
ちょうどキャッチボールをして奴にまともなタマを投げたとする、すると奴はそこから逃げて「どこ投げてんだ」とレスをする。
それからこちらの方向と正反対の所に球をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そうしているうちにこいつとは対話のキャッチボールができんと愛想を尽かすと「奴はオレのタマが取れない」と言いふらす、そんな野郎だ。
それを野郎の信者は「渡海こそ真の論者だ」と宣伝する。
355 :
渡海 難( p0015-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/06 22:50
>>355 何だ、お前生きていたのかよ(ワラ
「減らず愚痴」(あえてこの語を使う)だけは相変わらずだなヴォケ。馬の小便で飲尿療法でもやって、また頭がおかしくなったようだな。
自分が馬のションベン飲んでいるからって人にそれ使って洗顔するよう勧めるなよ。
ぺぺ2号さん。ありがとございます。なんか、出てきてくれるといつも顔がほころびます。
>>356のリンクは既にHTMLのままフォルダに保存してあるんですよ。じつわ。。
ちょっと、とことんやってみたくなったもんで、カキコしながら、今はあのコピペ文の
どの段階かな。なんて考えながらレスしてたりします。
浄土真宗のスレのほうにも顔だしてくださるとすごくうれしいです。いや、名無しでも
結構ですから、
359 :
名無しさん@1周年:01/11/06 23:50
ぺぺ2号さんのカキコっておもしろい。
ぺぺ2号さん もっと時々書込んでくれよぉ! 他のスレにも。
そろそろ難度海沈降さんも復活してくれないかな?あの人と渡海スレで渡海と遊んでやってた頃が懐かしい。
おい、NBは別にここの「論争」をやめてはいないし、決着など全然ついているとも
思ってない、とことんやるから、他のスレを荒らすなよ。
今日はあんまたくさん書きこめないけど一つだけ問おう。
って、思ったけど、あきれはてて、レスつける気力もたいへんだけど、
まあ、待ってほしいね。
ったく、かまってちゃんなんだから。あんたの勝利宣言なんてまだ先の
ことだぜ。すくなくとも、五劫と超載永劫ほどね。
ああ、超載永劫じゃなくて、兆載永劫だね。
まあ、あんま意味かわんないけど、、、鬱
来世の事など分からない。
365 :
渡海 難( p0935-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/08 18:25
教行信証 「行の巻」の議論を少し進めていきます。
諸仏称名の願は、手段なのか目的なのか。親鸞はこんな論点を立てているようだ。
親鸞は真理を人格として捉える。人格化した真理には、釈尊先生の人格をシフトする。
釈尊先生は、生前、既に多くの哲人・賢人達から称讃されていた。釈尊先生にとって、哲人・賢人達から称讃を受けることが目的だったのか。それとも手段だったのか。親鸞はその辺を問題にし、真理というものの人格像を明瞭化し、真理そのものの精神に触れていく。
諸仏称名の願は手段である。親鸞はそんな仮説を立てる。
釈迦は何を考え、真理は何を考えているのか。広く貧窮を済いてもろもろの苦を免れしむ。目的のひとつは、社会的経済的豊かさを実現することだ。さらに、世間を利益して安楽ならしむ。社会的な平安をもたらすことだ。
最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮において伏蔵とならん。そのために、個人的な能力を身につけたら、困っている多くの人の中に飛び込んでいって力になろう。その結果、善法を円満して等倫なけん。その中で揺るぎない道理を明らかにしていこう。
大衆の中にして師子吼せん。多くの人々に向かって提示していこう。釈尊先生はそんな決意を固めていた方だったようだ。
この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまう。無数の哲人賢人達がなぜ、釈尊先生を尊敬したのか。釈尊先生は、まさにそれを実現されておられた。
古代浄土教の先人達は、教育者を目指す若者に向かって、釈尊先生を理想とせよと教える。釈尊先生の道を、阿弥陀という架空の教育者物語に書き直して示し、それを究めよと教えた。
親鸞は、真理そのもののありかたを阿弥陀仏と呼んで人格として仰いでいく。
>諸仏称名の願は、手段なのか目的なのか。親鸞はこんな論点を立てているようだ。
立てていません。
367 :
渡海 難( p0740-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/10 08:24
>立てていません。
清沢満之なんて言うからビックリしたよ。あの人、死んでなかったのかなって。って言うのは嘘(微笑)。ま、ハンドルネームは自由だね。
親鸞はこんな論点を立ててない?
立ててないというのも一つの考え。立ててるというのも、一つの考えだ。こんな論点を立ててるというのは、僕の考え。こんな論点を立ててると考えると、親鸞の考えで、色々なところがつじつまが合う。だから、僕は僕の考えで議論を進める。
続きを書くのは、少し先になります。
以下は、例によって「浄土真宗の人いる??」より
204 :渡海 難( p0748-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) :01/11/10 08:34
>>203 >マターリする場が無くなってしまうのがイタイ。
なごやかな話がいいですね。
「行の巻を持ち出して座禅念仏を主張するのは紛らわしいからやめてほしい」などと、他人の考えを頭から否定するようなギスギスした主張は問題だけど、「でるお念仏をびっくりしながら聞いていく」なんてのは、ユーモラスでいい。
僕には真似ができないけどね(微笑)。
だから、さ、上旬まではすぐにレスつけられない。って言ってあるだろ。あんたも了解済みじゃなかったのか?
こっちもいろいろ忙しーんだよ。まったく。
369 :
渡海 難( p5126-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/11 17:46
『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』に言わく、第四に願ずらく、「それがし作仏せしめん時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。
諸天・人民・けん飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我が国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじ」と。
親鸞は過度人道経を引用する。大無量寿経の異訳本だ。梵文大無量寿経は十二回翻訳され、過度人道経はその内のひとつである。
過度人道経は、やや意味が取りにくい。「せしめる」という使役動詞の目的格は何か。人々を仏にさせようとするときという意味か。こんなひっかかりがある。漢文を見ると疑問は氷解する。
「第四に願ずらく、それがし作仏せしめん時」は、「第四願使某作仏時」という表現になっている。使という動詞は再帰動詞だ。某を目的格としている。自分を仏にさせようとするとき、つまり仏にならんとするときというのが本意だ。
漢文大無量寿経の「設我得仏」と同じ意味である。
「それがし作仏せしめん時」とは、「それがしが作仏せしめん時」ではなく、「それがしを作仏せしめん時」という意味ある。それがしとは、一人称である。
370 :
渡海 難( p5126-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/11 17:47
「我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん」とは、名声を世界中に轟かすという意味だ。名声が世界中に轟かないかぎり、最終目標であるところの大乗の仏になったという自覚を、自分は持たないと言う。
名声が世界中に轟くときとはどういうことか。世界中の無数の賢人哲人達(諸仏)あるいは努力家達(比丘僧)が、多くの人々(大衆)のなかで自分(阿弥陀仏)の事業の素晴らしさ、学校の素晴らしさをを紹介してくれるようになるということだ。
政治家あるいは支配者達(諸天)、庶民(人民)、能力を持ちながら苦労している人々(けん飛の類)、苦悩の多い人々(蠕動の類)、こういう人々が自分(阿弥陀仏)の名を聞いて心動かされることが無ければ、名声が轟いたことにならない。
自分の学校に喜び勇んでやって来ようとする者は、必ずや入学を許そう。こういう目標が完遂されたとき、自分は自らの認識を人々と共有した大乗の仏になる。これが完遂しない限り、大乗の仏になることは永遠にない。自分は、永遠にこのことを追究していく。
阿弥陀仏はそのように誓っている。
_ _ .' , .. ∧_∧
∧ _ - ― = ̄  ̄`:, .∴ ' ( )←渡海難
, -'' ̄ __――=', ・,‘ r⌒> _/ /
/ -―  ̄ ̄  ̄"'" . ’ | y'⌒ ⌒i
/ ノ | / ノ |
/ , イ ) 終了!! , ー' /´ヾ_ノ
/ _, \ / , ノ
| / \ `、 / / /
j / ヽ | / / ,'
/ ノ { | / /| |
/ / | (_ !、_/ / 〉
`、_〉 ー‐‐` |_/
さて、おまっとさん。
まずは、
>>350から引用。
>あなたの出拠に続く部分の3つの引用を
>>332で指摘しているけど。もいっぺん見直してみてほしいね。それとも、わざと見えないふりしてるのかな。
貴方の主張の真意が僕に伝わってない可能性もあります。貴方の真意をもう少し詳しく伝えて欲しい。
「可能性もあります。」ってネタかと思ったけど、ほんとにマジだったようだね。コワ
つまり、あなたの「座禅念仏」の主張からみて、
>>332で引用された3つの部分はどう解釈することができるでしょうか。
座禅して念仏する。って文章が『教行信証』にのせられてるから。ってだけで主張するのはダメね。
同じ場所の同じ文献からの引文で「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。」をはじめ座禅念仏なんて出てこないんだから。
それと、『教行信証』では、「座禅して念仏すべし」との引文は孫引きの形で出されているけど、原典にもあたってみたのかね。
あっ、それから、仮説ってあなたよく使うけど、仮説と思いつきを混同してない?
仮説と思いつきの2つについて、あなた自身の定義でいいから、考えを聞かせてほしいね。
真宗学とやらの学問が社会や経済に絡めてのアプローチがなく
時代遅れのルービックキューブよろしく、「ここをこういじれば
三面クリアー!」みたいなことになっているのはなんでやろ?
やれ中村某がどうゆうてる、三枝なんたらがこう、玉城どうじゃらが
どう、曽我せんせが、安田せんせが、大乗起信論と華厳経なんとか品に
こーだのあーだの。。。
お坊さん以外に誰か興味を持つ学問に真宗学は脱皮できるだろうか。
やっぱりお坊さんの権威を高めるためだけにあるのだろうか。
「あのご院さんの話、わかれへんけどよう勉強してはるみたい」。。。
>>373 真宗学も、アプローチによっては学際的な方向への試みもあるみたいだけど。。。
でも、基礎研究はやっぱ大切かと。。。。
江戸宗学はいろいろと叩かれたり反省されたりしてるけど、あれはあれで真摯な仏徳讃嘆の
営みではあるね。近代真宗学にはそのへんがちょっと欠けてるような気はするね。
つーか。近代理解の土台ができてないから、そのへんがだめなんだろね。
キリスト教神学の営みを見習いたいとこだね。いや、あんま知らないけど。
375 :
渡海 難( p0404-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/12 18:22
>>372 :NB
>さて、おまっとさん。
上旬中に返事を欲しいと、座禅念仏に関して本山に問い合わせたけど、返事はなかったということでしょうか。自分で考えろと言うような返事でも、本山は送ってきましたか(笑)。
>ほんとにマジだったようだね。コワ
<こんなことで怖がっているようじゃ、小心者だ(笑)>
>引用された3つの部分はどう解釈することができるでしょうか。
<「3つ」?? 一つじゃないですか?>
>座禅して念仏する。って文章が『教行信証』にのせられてるから。ってだけで主張するのはダメね。
教行信証は宗祖が生涯をかけて全編に心血を注いだもの。僕にはそれで十分なんですよ。教行信証などはつまらん本だと言うのは貴方の勝手だ(笑)。
>それと、『教行信証』では、「座禅して念仏すべし」との引文は孫引きの形で出されているけど、原典にもあたってみたのかね。
原典がどうこうというならば、学者先生にでもご相談くださいな。親鸞は原典参照などとは言いませんから、我々素人は十分なんですよ。貴方は専門家として原典にもあたってみたのかね。
376 :
渡海 難( p0404-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/12 18:23
>同じ場所の同じ文献からの引文で「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。」をはじめ座禅念仏なんて出てこないんだから。
<そうですか。そうですか。うんうん。それがどうかしましたか? ところで、座禅念仏じゃなく、本当は如来禅と言うんですよ。これが親鸞流の言葉。坊さんなら覚えておいても損じゃない。>
>それから、仮説ってあなたよく使うけど、仮説と思いつきを混同してない?仮説と思いつきの2つについて、あなた自身の定義でいいから、考えを聞かせてほしいね。
「考えを聞かせてほしいね」などと、貴方に口頭試問を受けなければならん理由はありませんねぇ(笑)。貴方はいつから他人を試問するようなお立場になりましたか。気位のお高いお方じゃ。試問するよなお坊様は、お偉い。お偉い(笑)。
仮説と思いつきをもし混同していれば、僕には誤りがあるということでしょう。ぼくも一つの社会的人格です。特に理由がなければ、誤りはないという推定を受ける。「仮説と思いつきとは混同してない」という推定を、社会から受ける存在と自認します。
「仮説と思いつきを混同しているようだ」という推定をあなたが僕に抱くことは、貴方の自由です。しかし、社会的前提となる推定を覆えすなら、根拠の提示責任は貴方が先に負うべきでしょう。それが近代社会を土俵とした議論でしょう。
旧弊封建社会の坊様シャーマンの世界は存じません。「仮説と思いつきを混同して」るんじゃないかなんて、勝手な邪推に僕はおつきあいできませんね。(笑)。
根拠もなく言うんならば小学生のへたくそな読書感想文と同じだ。子供の相手はできません(笑)。
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>引用された3つの部分はどう解釈することができるでしょうか。
<「3つ」?? 一つじゃないですか?>
いーや三つあるでしょ。よく見てほしいね。って逃げてるだけだろけどさ。
> <そうですか。そうですか。うんうん。それがどうかしましたか? ところで、座禅念仏じゃなく、本当は如来禅と言うんですよ。これが親鸞流の言葉。坊さんなら覚えておいても損じゃない。>
にょらいぜん?またあらたなたんごだね。いったいそれ何?
> 「考えを聞かせてほしいね」などと、貴方に口頭試問を受けなければならん理由はありませんねぇ(笑)。
ほんと、ばかだね。あおりあいにもちこみたいみたいだけど、ほんとばかだね。
> 上旬中に返事を欲しいと、座禅念仏に関して本山に問い合わせたけど、返事はなかったということでしょうか。自分で考えろと言うような返事でも、本山は送ってきましたか(笑)。
それからさ、また妄想であほなこと言ってるけど、上のような事実はないね。こんなとこまで、いちいち断らないと、自分の妄想に反論しなかった。
なんてあほなこと言いふらして、さも事実みたいにゆーからね。あんたって。
品性下劣だね。ほんと。
380 :
渡海 難( p0949-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/12 19:36
>>378 >逃げてるだけだろけどさ。 <バカバカし(笑)。>
>いったいそれ何? <僕はあんたの家庭教師じゃないよ(笑)。>
>ほんとばかだね。 −笑−
>>379 >上のような事実はないね。
そうですか。そうですか。うんうん。
ほんとにそういう事実は無いかも知れませんね。口は便利な道具だから、本当のところは分かりませんがね。(笑)
>さも事実みたいにゆーからね。あんたって。 <アホの言うことなんか、気にしなさんな。>
>品性下劣だね。ほんと。
<お気位のお高い方から品性下劣と言われりゃ、名誉モンかもしれませんね(笑)。>
ほら、だからさ、あなたみたいなやり方だと、全然議論にもなんにもなりゃしない。
いわゆる「馬のしょんべんトーク」ね。
ほんと、あなた、ぼくのことなんか何にも知らないくせに、妄想で人物像を作りあげて
盛んにそれを攻撃してくる。相手がそれを否定することにエネルギーを使ってるうちに
本題をすり替えるんだよね。
思った通りの展開になってきたな。このままだと煽り合いになるので、ここで、
NB氏の主張「〜」
渡海難氏の主張「……」
という感じでまとめてみる必要があるんじゃないかな。
オレはチョイと忙しいしアンチ渡海なのでどうしてもNB氏の肩を持つような書き方になってしまうと思う。
できれば中立の人がいいね渡海の信者は渡海の妄想を植え付けられてるから当てにはできんし。
まあ、このやり取りを見て思ったのはNB氏の質問を渡海は全部人格攻撃ですりかえているということだ。
YesかNoか、分かるか分からんか、「私はこれを根拠にこう解釈する」というレベルの問題なんだけど、どれ一つとして答えてはいないんだよね、あの教祖は。
>>NBさん
>>渡海さん
御本典の行巻に礼讃の釈を引用して
「問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せし
むるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細な
り、心は麁なり、識あがり、神飛びて、観成就しがたきに由ってなり。ここ
をもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ」
ってあるけど、これっていわば、廃観立称せられた善導さまの言葉だけど、この一文を完全に否定され、座禅念仏を提唱された親鸞さんの言葉ってあるかなあ。
もし、ないとしたら座禅念仏なる語はは論も釈もない渡海による立宗宣言になってしまうね。(ワラ
384 :
渡海 難( p6048-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/13 08:38
>>382-383 あれ〜!これは本物のぺぺ2号?
よそのスレでまたもや僕の偽物が出たせいか、我が目を疑いたくなる(笑)。
これまではてっきりアホタレぺぺ2号と思ってたよ。立派なことを言うこともある人なんだ。たいしたもんだ。今までのスレとの次元の違いで、アホタレぺぺ2号を僕は見直したよ(笑)。さすが、早島真宗学の研究者と豪語していただけある。
親鸞会に早島真宗学を移転したいと確か言ってと思うけど、なるほどたいしたもんだ。御本典の行巻を引用して立派な見解を出す。たいしたもんだねー。
NBさん。ぺぺ2号さんの見解をどう思う? 面白い議論になりそうだ。専門家であるNBさんのコメントに期待しよう。
>>383 おお、すばらしい。2ちゃんでうろうろしてて、ほんとによかった。と思えることの
一つは、ぺぺ2号さんのような書き込みに出会えることだね。
善導大師はもちろん法然聖人の『選択集』だってそうですよね。論釈はむろん、依経だって
「座禅念仏」にはあるんだか、、、。
それから、
>>384 > NBさん。ぺぺ2号さんの見解をどう思う? 面白い議論になりそうだ。
>専門家であるNBさんのコメントに期待しよう。
って、あなたいつも、「おもしろい議論になりそうだ」か「論争なら受けてたつ」いがいに
なんかゆーことないんかね。というのが、ぼくのコメントだね。
どうよ?座禅念仏。強力に反証されてるよ。
それとぼくの
>>372 >つまり、あなたの「座禅念仏」の主張からみて、
>>332で引用された3つの部分
>はどう解釈することができるでしょうか。
にも、答えてほしいね。
見事な妄想ごくろうさん。俺は正真正銘ペペ2号だよ。
>親鸞会に早島真宗学を移転したいと確か言ってと思うけど、なるほどたい
>したもんだ。御本典の行巻を引用して立派な見解を出す。たいしたもんだ
>ねー
こういうのを妄想っていうだよね。まあ、渡海のこね繰り出したネタということでサラリと流しておくか。
これ以上ネタには関わりあいたくないからね。このバカの妄想につきあっていたら、議論が台無しになるからね。
さて、ここまでの議論をまとめようっと。
★渡海氏の主張
浄土五会念仏略法事儀讃の
「王いま座禅してただ当に念仏すべし」
を根拠に、「座禅念仏」なる命題を提唱。
★NB氏
「如来の尊号ははなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」
の中の
「ただ名を称するのみありて」
「持戒・座禅を正法と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。乃至。禅・律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧これ真宗なり」
を根拠に、
「座禅は外道に対しては正法である。しかし、時・機を考える上からは念仏のみが正法である」
と反撃。
また、
「西方は道に進むこと娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきによってなり。成仏に諸々の善業を労しくせず。華台に端座して弥陀を念じ奉る」
を論拠に、
「座禅、及び諸善をさしおき、弥陀の本願(念仏)に心を向けよ」
と問いただしたわけだ。
以上で宜しいでしょうか。NBさん。
ついでにオレは、
「問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せし
むるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細な
り、心は麁なり、識あがり、神飛びて、観成就しがたきに由ってなり。ここ
をもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ」
で廃観立称を提示したわけだ。
それに対する渡海の答え。
>そうですか。そうですか。うんうん。それがどうかしましたか?
>ところで、座禅念仏じゃなく、本当は如来禅と言うんですよ。
と誤魔化しておる。
まとめると。NBさんが
「渡海さん、こういう根拠で座禅念仏というのは違っていますよ」
と問い質したのに、
「座禅念仏ではない如来禅なのだ」
との答え。
ちょっとおかしくないですか?渡海さん以外の意見キボンヌ。
☆あるべき回答
「御本典にこういう解釈があるでしょう、だから私は座禅念仏を主張したのだ」
これが本来のスジではないでしょうか。どうですかお客さん!(猪木風に)
ついでに蛇足だが、
>あれ〜!これは本物のぺぺ2号?(以下略)
の煽りもあったな。
全然こちらのカキコが読まれていないのが分かる。
>>387 ありがとうございます。ぼくとしては、それで結構です。
それと、ぼくの論点としては、「座禅念仏」なるものを
親鸞聖人の名のもとに主張する渡海氏の論理構造をまず、
ばしばし問いただしたいと考えてます。
NBさん。コメント有難うございます。
重要な所ですね。
「祖師の名のもとに」これを問い質さねばなりませんね。ご指摘有難うございました。
称名。称名。
age
393 :
名無しさん@1周年:01/11/15 13:04
あげとくよ。
阿弥陀仏は、渡海 難を許しません。
それだけは分かって下さい。先生。
お、渡海が負けとる。
397 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:50
>>383 >これっていわば、廃観立称せられた善導さまの言葉だけど、
廃観立称っていう言葉があるんですか?言いたいことは分かるような気がするけど、善導は五正行の中で専観察という行を挙げています。廃観立称せられた善導さまというのは、僕は引っかかる。これはどなたの説ですか?
「何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。」
これは極楽浄土へはどのようにすれば往生できるのかという問題提起に、善導は答えています。極楽浄土に往生するということ。すなわち、仏道修行者の世界には、念仏だけで入れるよということだと理解しています。
仏道修行者の世界に入ればそれで十分という考えは善導にはないでしょう。未就学者は学校に入るということが重要な目標になりますが、学校に入ればその後はしっかりと勉強しなければなりません。
善導は五つの行為を定めています。その中には観察行というものもあります。廃観という概念は善導にはありません。
>この一文を完全に否定され、座禅念仏を提唱された親鸞さんの言葉ってあるかなあ
親鸞は、善導の五正行を否定してきます。
「定善は観を示す縁なり、と。また云わく、散善は行を顕す縁なり、と。(化身土)」
親鸞は、五正行を否定します。時代遅れだという理由です。
善導には五正行と正定業とを対立的に捉える考えはありません。正定業で仏道修行者の仲間に入り、その上で五正行を修します。親鸞は五正行と正定業とを対立的に捉え、五正行を廃して正定業を立てます。
観察行を廃するという考えは親鸞で非常にはっきりしています。しかし、観察行を否定すると言うことと、座禅して念仏する「如来禅」を否定するということととは別だと考えます。
例えば、絵画が好きで彫刻に価値を感じないという人が、絵画に額をつかってはいけないと主張するでしょうか。そういう人もいるかも知れませんが、直接関係しないでしょう。
398 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:51
>>385 >善導大師はもちろん法然聖人の『選択集』だってそうですよね。論釈はむろん、依経だって「座禅念仏」にはあるんだか、、、。
「座禅してただ当に念仏すべし」というのは、『浄土五会念仏略法事儀讃』からの引用です。『浄土五会念仏略法事儀讃』を、親鸞は「云わく」という動詞で引用を開始しています。
著者名を表示しないという書き方は、「十住毘婆沙論」・「浄土論」・「論註」・「安楽集」などと同じ扱いです。
「云わく」という動詞で引用するのは「安楽集」と、「光明寺の和尚の云わく」という形で引用する善導の論文と同じです。
善導は、「光明寺の和尚」という、特別に親しみを込めた扱いしていますが、座禅を問題にしている浄土五会念仏略法事儀讃の記述部分は、比重が安楽集と同じ扱いです。
つまり、座禅を問題にしている浄土五会念仏略法事儀讃の記述は、親鸞の思想では釈という扱いです。
親鸞が座禅の著述で座禅を問題にするのは、親鸞が自分の思想を体系的に語っている教行信証と、「五会法事儀讃略抄」だけです。手紙類には無いようです。
座禅というのは、念仏の称え方つまり方法論に過ぎません。実質論ではありません。親鸞の時代、座禅して称えるなんてことは当たり前すぎて議論にならない部分だったんのでしょう。
>どうよ?座禅念仏。強力に反証されてるよ。 <反証しました(笑)。>
399 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:51
>>386 >見事な妄想ごくろうさん。俺は正真正銘ペペ2号だよ。
詫びているカキコがどこかにあったな。あのカキコはうるさかったね。もうしないんだろうな。−笑−
>こういうのを妄想っていうだよね。まあ、渡海のこね繰り出したネタということでサラリと流しておくか。 <笑>
>>387 >「如来の尊号ははなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」の中の「ただ名を称するのみありて」
<NBさんが括弧つきで指定したところは一つだよね。336で応えているよね。>
>>336 :渡海 難
>ただ名を称するのみありて
「さ、ただ、この絵を見て味わってください」と言って、オーナーは額付き絵画を持ってくる。そのとき、額は不要だから外してくださいという人はいない。
すばらしい絵画は額を付けて見るのがエチケット。額付きの絵画を持ってきて、「額と絵画とを見てください」という人は少ないでしょう。
400 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:52
>>388 >廃観立称を提示したわけだ。それに対する渡海の答え。 〜と誤魔化しておる。
僕は貴方の「廃観立称」に答えたつもりはなかったよ。NBさんの答えを待っていたからね。今日、始めて答えたのさ。
>まとめると。NBさんが
勝手にまとめないで欲しいな(笑)。
「同じ場所の同じ文献からの引文で『ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。』をはじめ座禅念仏なんて出てこないんだから」というNBさんのコメントについては、僕はもう言うことはないよということだったんですよ。
「座禅して念仏申すべしと」いう記述が文中にあるかのないのか、そんなことは僕の方で繰り返す必要はないからね。
話題を進めて、「座禅念仏」というのはNB語でしょうと申し上げました。僕は「座禅念仏」という言葉を使わない。例えば、額付き絵画を「額絵画」とは言わないでしょう。額だけを指すなら、「如来禅」と言うんでしょう。僕の考えを参考に申し上げたわけです。
401 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:53
>ちょっとおかしくないですか?渡海さん以外の意見キボンヌ。
これは議論の相手に対して失礼だよね(笑)。ま、ペペ2号だからいいか、という感じはするけどね。その内また謝って来るんだろう、と。
>全然こちらのカキコが読まれていないのが分かる。
読んだから、僕は自分が先に書くまえにNBさんのレスを見たくなったのさ。
>>384 自分のカキコに直ちに返答があるなんて思わないでね。あんた中心で動いているんじゃないんだから(笑)。
>>389 >「座禅念仏」なるものを親鸞聖人の名のもとに主張する渡海氏の論理構造をまず、ばしばし問いただしたいと考えてます。
問いただすんなら、行の巻きの「座禅して念仏申すべし」という記述部分は、貴方の御本典では先に墨を塗っておいてね(笑)。
>>390 >「祖師の名のもとに」これを問い質さねばなりませんね。ご指摘有難うございました。
それじゃ、貴方の御本典では、教行信証の著者名「愚禿釈親鸞集」という記述部分は墨を塗っておいてね。貴方の理屈では、御本典を書いたのは親鸞じゃないんでしょう(笑)
402 :
渡海 難( p0246-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/15 23:54
>>395 >阿弥陀仏は、渡海 難を許しません。それだけは分かって下さい。先生。
<395さん。貴方が渡海 難を許せないと思っているんでしょう(笑)。>
>>396 >お、渡海が負けとる。 −笑−
渡海のだろうが俺のだろうが誰のだろうが、
脳の作り出した親鸞は、実際の親鸞じゃないもの。阿弥陀仏も同じ。
>渡海信者登場(ワラ
恥ずかしくないの?
407 :
名無しさん@1周年:01/11/16 11:32
死ね死ね 死ね死ね死ね死ね
死んじまえ
ドキュソな渡海を やっつけろ
コピペでスレを 汚してしまえ
死ね死ね死ね死ね
渡海難は じゃまっけだ
厨房教祖 ぶっつぶせ
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
2ちゃんねるから 消しちまえ
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね 死ね死ね死ね死ね
死んじまえ
オッサン渡海を やっつけろ
夢も希望も 奪ってしまえ
死ね死ね死ね死ね
地球の外へ ほおりだせ
浄土通信 ぶっつぶせ
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
ネットの世界から 消しちまえ
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね…
http://dorawasabi.hoops.ne.jp/shine.swf
409 :
名無しさん@1周年:01/11/16 12:17
sage
411 :
名無しさん@1周年:01/11/16 16:00
揚げ徳
sage
413 :
名無しさん@1周年:01/11/16 19:17
sage
415 :
名無しさん@1周年:01/11/17 14:48
あげ!
sage
ところで、渡海さん。あなた、如来・浄土の存在論を回避したところで
「親鸞仏教」なるものを組み立てようとしてない?
念仏の真実性を、本願の存在論的実証性(なんつー単語だこりゃ(ワラ)にふれることなく
論理づけたいがために、「座禅念仏」なるもの(絵画と額縁をよくたとえに使うけどさ)
にこだわってるんじゃない?
>>417 NBさん、奴は見事に無視しています。奴にとって浄土の実在なんてものはどうでもいいことなのです。
奴の妄想に合うものが「親鸞仏教」なんです。
始めに奴の妄想があって、それからそいつにあう御本典の解釈があるのです。
だから語によって義に合わない解釈が出てくるのです。
>>418 おお、やっぱそう思われますか。
如来興世之正説。奇特最勝之妙典。
一乗究竟之極説。速疾円融之金言。
十方称讃之誠言。時機純熟之真教。
って、渡海氏には理解できないかも。
420 :
渡海 難( p0675-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/18 00:05
>>417 >如来・浄土の存在論を回避したところで「親鸞仏教」なるものを組み立てようとしてない?
<そんなことはありません。>
>念仏の真実性を、本願の存在論的実証性にふれることなく論理づけたいがために、「座禅念仏」なるものにこだわってるんじゃない?
<そんなことはありません。>
座禅して念仏するという念仏の方法論を巡る議論は、少なくとも私の方からの論述は尽きた感触があります。NBさんが提示する論点も、念仏の方法論(座禅)を離れたようです。
今後もNBさんやその他の方が新たな議論の素材を提示されることはあるかも知れません。しかし、私の方から積極的に証拠を提示したり、積極的に反論することは少なくなると思います。
渡海の提示すべき根拠は、おそらく一応尽きたと考えます。座禅に関する議論に関しては、渡海の側としては、これまで提示した根拠を以て、2CHをご覧下さっている方々おひとりお一人に自由な判断をして頂きたいと思います。
NBさんやその他の方が新たな議論の素材を提示されれば、念仏の方法論(座禅)を巡って必要があると思えば反論することもあると思いますが、本筋は、教行信証論の本来の筋に戻ります。経の部の議論の完結を目指します。
>NBさんが提示する論点も、念仏の方法論(座禅)を離れたようです。
んなこたーない。ぼくはあなたが座禅してお念仏を唱えようとも、非難はしない。
なぜそれを親鸞聖人の名のもとにまぎらわしく主張するのかを問うている。
「念仏の方法論」についての議論など、最初からしてはいないよ。
あなたはまた新たに「如来禅」なる言葉を使ってその正当性を主張しているけど、
いったい「如来禅」ってなに?それが親鸞聖人のお念仏とどうつながるの?
当たり前すぎて記述がないんだろうなんてなしね。そんなの「論」にもなんにも
なりゃしない。あなたの妄想だよ。
>>421 >なぜそれを親鸞聖人の名のもとにまぎらわしく主張するのかを問うている。
それだけではないんですよ。かつて、
「オレは座禅念仏しているから勤行なんかほとんどしない」
て、主張していたけど、この言葉、宗祖を明かりに往生を欣求している人が見たらどう思うか。
オイラのアンチ渡海はここから始まったのよね。
恐らく渡海は、この言葉を否定するだろうけど。これは渡海の荒らしで消えたある掲示板での言葉だからね。
423 :
渡海 難( p5075-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/18 08:51
424 :
渡海 難( p0038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/18 17:09
『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の仏国に聞かしめん。
諸仏、おのおの弟子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじ、と。
我作仏せん時、他方仏国の人民、前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。寿終えてみなまた三悪道に更らざらしめて、すなわち我が国に生まれんこと、心の所願にあらん。しからずは我作仏せじ、と。
親鸞は平等覚経を引用する。平等覚経も大無量寿経の異訳本だ。前段の議論は過度人道経とほとんど同じだ。ポイントは後半にあると考える。
釈迦は名声をもって人々を導こうと決意した。名声を得るというのは手段である。名声を得ることは、人々を導くという目的遂行のための最も効果的な選択肢の一つだったのだろう。
親鸞が平等覚経を引用してきた理由は、三悪道に戻さないという言葉があったからだろうと僕は思う。阿弥陀仏の四十八箇条の決意表明、四十八誓願の第一条,第二条も、三悪道を議論している。釈迦のポリシーは、三悪道との戦いにあったようだ。
三悪道と並べ、もうひとつ注目すべきキーワードがある。「前世」という言葉だ。この言葉は、昔は問題にならなかったろうが、現代では問題になる。本来の意味が不明確になっているからだ。
三悪道に戻さないとはどういうことか。地獄・餓鬼・畜生道に戻さないということだ。六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天とある。六道の中の地獄・餓鬼・畜生を特別に選んできている。この理由は何か。六道論に戻って考えてみたい。
425 :
渡海 難( p0038-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/18 17:10
衆生は六道を輪廻する。衆生とは何か。仏教は、衆生の本質を意思と行動という二つの要素で考えているようだ。例えば親鸞は「願力無窮にましませば」「法蔵願力のなせるなり」などと言う。願と力、願が意思、力が行動を表す言葉だと僕は思っている。
六道の内、地獄から天の色界までは欲界という。意思と行動は欲の原理で動いていく。そのうち、人間の心で人間の行動する者は人間である。ケダモノの心でケダモノの行動をする者はケダモノだ。
人は、ほどほどの意思とほどほどの行動力をもっている。ほどほどの意思で、ほどほどの行動力を制御し、ほどほどに自分の意思を実現する。成功もあれば失敗もある。
世の中には超人的な実行力を持つものがいる。
政治家は、自らの意思を圧倒的な力で実現する。権力という。天の才能を持った者は天才という。彼らは、意思の圧倒的な実現力がある。行動力がある。これを仏教は、仮に天と名付けるのだろう。こう考える。こう考えると、この延長上に六道が見えてくる。
____
./, - 、, - 、  ̄ ヽ
./-┤ 。|。 |――-、 ヽ
| ヽ`- ○- ´ / ヽ |
| - | ― | |
| ´ | `ヽ . | |ヽ
∩ 人`、 _ | _.- ´ | .| \
| ⌒ヽ / \  ̄ ̄ ̄ ノノ \
| |´ | ̄―--―― ´ヽ _ /⌒\
\_ _/-―――.| ( T ) `l Τ( )
 ̄ |  ̄ } | \_/
| 、--―  ̄| /
FUCK YOU ぶち殺すぞ・・渡海 難・・・・!
お前は、大きく見誤っている。 この世の実態が見えていない。
まるで3歳か4歳の幼児のように、この世を自分中心・・
求めれば、回りは右往左往して世話を焼いてくれる、そんなふうに、 まだ考えてやがるんだ・・。臆面もなく・・・・!
甘えを捨てろ。 お前の甘え・・その最もたるは、 毎日のように叫んでいる、その、「ああ先生」だ。
「ああ先生」と言えば阿弥陀仏が救ってくれるのが当たり前か・・・・? なぜそんなふうに考える・・・・? バカがっ・・・・!
とんでもない誤解だ。世間というものはとどのつまり、 誰も他人の助けになど応えたりはしない。
飢餓で苦しむアフリカの子供たち・・戦争で住む家を失った者たち・・
食べ物を持て余し、馬鹿げたことに金をつぎこむ日本人は、彼らの求めに応えてやったか? 応えちゃいないだろうが・・!
これは身近にないからだとか、そういうことじゃあない。目前にあってもそうなのだ。
何か得られるものでもない限り、他人を救ったりしない。それが基本だ。
その基本をはき違えているから、2ちゃんねるの浄土真宗スレが荒れる羽目になったんだ・・・・!!
無論中には、救われるものもいる。 しかしそれは自分にとって都合がいいからであって・・つまりは・・のせられてるってことだ。
なぜ・・それがわからない・・? なぜ・・それに気付かない・・・・?
427 :
NB@まだ終わってないぜ:01/11/19 01:00
お聖教のご文は一つ一つ、1行読むために何度も辞書を引きながら引きながら、
時には1行に1冊、2冊、3冊を必要とすることもざらだよね。
それでも祖師の命に近づくことはなかなか難しい。
1行ごとに、そこに脈々と息づく祖師がたの生命を感じ取りながら、謙虚にお聖教を
いただかれてほしいと、ほんとに、そう願います。
あなたがなんで、何度も叩かれながら、こんなスレを立てるのかと考えるに、
あなた、『教行信証』のパロディを体系的に作り上げんことには自分の思考基盤
の薄弱さを糊塗できないからなんだね。
砂上の楼閣は、どんなにそれを飾っても、どんなに太い柱をつらねても、むなしいもんだよ。
あなたがいくつでどんな状況の人かは知らんけど、今からでも決して遅くはないのに。
ことに、お念仏の一法の有難きご勝縁をいただいているのだから。道は常に開かれてあるのに。
まあ、とにかくマジレス。文体的には神経逆撫でだろうけどさ。
428 :
名無しさん@1周年:01/11/19 07:48
>>427 渡海氏のは、ああ先生であって、お念仏じゃないんです。
解釈が違うんじゃないんです。もともとの宗旨が違うんですよ。
429 :
渡海 難( p6089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/19 23:02
>>427 :NB@まだ終わってないぜ
>文体的には神経逆撫でだろうけどさ。
そんなこたぁー無い(笑)。
それよりも、PCの前に座るときは、素面(しらふ)のときにしたほうがいいよ。とんかつ屋で140円のビールを何本飲んだか知らないけどね。やけ酒だったのかな。
人にとって職場は戦場(いくさば)。戦場にほろ酔い加減でやってくる馬鹿はいない。檀家回り中の坊主が、前の家で酒席を勧められ、次の家に酔っぱらって行ったら、行った先の家で同情の歓待を受けたというカキコがあった。
檀家回りは坊さんにとっては戦場(いくさば)だろう。戦場で酔っぱらうと同情の歓待を受けるのは、坊さんくらいなものだろうと思った。タクシー運転手だったら即刻解雇される。
こんな事書くと、神経逆撫でだろうけどさ。
<教行信証論の続きは明日以降に書きます>
別によっぱらってないよ。
まあ、飲んでるときも多いけどね。
ところで渡海さん、あんた、ここ、職場?
つーか、あいかわらず、妄想盛んだね。
>とんかつ屋で140円のビールを何本飲んだか知らないけどね。やけ酒だったのかな。
なんてさ。それとも単に人の文章が読めないだけ?
ところで論争なら受けてたつんじゃなかったんかい。
あなたのいう「反論」・「反証」はどれ一つとして論になってない。
431 :
名無しさん@1周年:01/11/20 13:55
ヴァカだなあ〜渡海は。
432 :
名無しさん@1周年:01/11/20 14:43
あげとくよ。
433 :
渡海 難( p5020-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/20 20:58
>論争なら受けてたつんじゃなかったんかい。あなたのいう「反論」・「反証」はどれ一つとして論になってない。
僕の反論反証はもう尽きたんですよ(笑)。
貴方の方で言い残しがあったら、更に書き足しておいてください。
貴方も言い尽くせば、どちらが正しいか、2CHの愛好者が冷静な判断をしてくれるでしょう。
<425の続きはあした以降。>
そんな渡海さんも、私の事も、全部受け入れて下さるのが、
阿弥陀様だ
もうここには来ません
435 :
渡海 難( p5063-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/21 20:37
釈迦が名声の確立を求めたのは、一度真実に目覚めた人々を、二度と三悪道に戻さないことを目指したからだろう。
人は、ほどほどの理性を含んだ意思で、自分のほどほどの行動力を制御し、ほどほどに自分の理性的意思を実現する。そこには成功もあれば失敗もある。
固有の意思が無く、他人の意思を実現するために行動する人々がいる。組織人である。組織のトップは大きな権力を持っている。大きな権力の下には手足となる多くのスタッフがいる。彼らはトップの意思を実現する。代表は軍人だ。
名誉欲・権力欲も併せ持つトップの意思を実現するため、軍人はしばしば戦場で命を散らす。ある者は権力者の近くにあって人民の上に君臨し、ある者は人民以下の境遇に甘んじる。これを阿修羅と言う。
権力者の近くにある阿修羅は、平時は姿を現さない。太陽が休息する北方にあり、海の底で指令を待つ。ある者は平時でも辺境の地、国境線の近くにいる。勝手気ままな天の命令にあわてふためき、心おののかし、悲しむ(往生要集)。
自らの欲望の意思によって支配され、その実現に向けてのみ行動する者がいる。意思は欲望と一つであり、欲望の実現に向けてひたすら行動する。畜生という。畜生は、満腹の時まで行動し続ける。
意思は充足の無い欲望と一つであり、充足の無い欲望の実現に向けてひたすら休み無く行動する者がいる。これを餓鬼という。
意思は充足の無い欲望と一つであり、身動き一つできない者がいる。欲望は氷詰めされ、氷の中では紅蓮の炎を上げて燃えさかりながら、外は溶けることのない永遠の氷によって封印されている。これを地獄という。
釈尊先生が、生涯を教育事業に捧げようとされたのは、権力をもって自らの意思を実現できる天のためではない。ほどほどの理性的意思とをほどほどの実行力で実現できる人々のためでもない。天の意思を代行してその実現を図る阿修羅がいたからでもない。
今は天にある者も、明日は餓鬼・地獄界に転落する。
欲望のためのみに生きる畜生。充足の無い欲望のためのみに生きる餓鬼。決して充足することの無い欲望に振り回されながら、身動き一つできない地獄の住人達。こうした人々にいささかでも真実の知恵をもたらすことにあった。僕はそう考えていいと思う。
436 :
渡海 難( p5063-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/21 20:39
>>434 >そんな渡海さんも、
「そんな」ってどんな?
自分は罪悪尽重だと名乗っているときは、他人を道連れにしなさんな。罪悪尽重はあんた一人で十分だ。
「オレは罪悪尽重ではない」などと言う気は僕には無いが、「オレは罪悪尽重だ」と名乗っている人からまで、「お前と同じだ」などと言われる筋合いはないと思っているんですよ(笑)。
ま、アンタは罪悪尽重の意味の分かっていない、そういう「罪悪尽重」の人なんじゃろう(笑)。
>私の事も、全部受け入れて下さるのが、 阿弥陀様だ
はて。罪悪尽重の意味も分からず、他人を指して「お前と同じだ」などという人まで受け入れてくださるものかのぅ。もしそうなら、ありがたい話じゃ。
紅蓮の炎のそびえ立つ地獄に永劫の間堕在させ、その後にようやく餓鬼、畜生界近くに希望をもって引き揚げてくださるという、そういうプログラムを立ててくださっておるかも知れん。あんたの人間界は今生限り。それがアンタの極楽かも知れんな。
仏様の御心は、誰にも測り知れませんからね(笑)。
>もうここには来ません
独死独生 独去独来。
どなたがいらしても、どなたが去られても、2CHではわかりませんね。
始めての方ではなく、たびたびカキコにいらしてた方なんでしょうか。
不問煩悩有無、不問浄不浄、不問信不信、不問疑惑有無
叩かずとも、既に開かれたる、救いの扉
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
438 :
渡海 難( p6201-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/24 15:53
教育活動を開始して人々から先生と呼ばれるようになるときは、自分の名声は全国あらゆる人々のところに届くようにしよう。様々なポリシーに基づいて独自の活動しているさまざまな価値観世界に送り届けよう。
多くの指導者達、賢人、哲人達が配下の後継者達に、素晴らしさを紹介しないではいられないような、そんな素晴らしい学校にしよう。
才能能力に恵まれた人々、通常の能力者のある者達、多くのハンディを負っている人々、どんな人々でも、自分の名声を聞きつけて喜んでくれる人は、きっとやってきてくれるようにしよう。もしそれができなければ、自分は真の理想の教育者になったとは思うまい。
439 :
渡海 難( p6201-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/24 15:53
仮に自分が教育者になっても、様々な価値観世界で生きる人々が、前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。
寿終えてみなまた三悪道に更(かえ)らざらしめて、すなわち我が国に生まれんこと、心の所願にあらん。しからずは我作仏せじ。
問題はここである。「前世に悪のために我が名字を聞きおよび正しく道のために我が国に来生せんと欲わん」とはどういう意味か。原文は次のようになっている。「為悪聞我名字及正為道欲来生我国」
宗祖は「為」を「タメニ」とカナを振っている。カナをそう振れば、邪悪な目的をもって自分(阿弥陀仏)の名声に触れたという意味になるだろう。
邪悪な目的をもって自分(阿弥陀仏)の名声に触れるとはどういう意味だろうか。
「為」は「する」という動詞だ。本来は、「悪をなし、我が名字を聞き」とは読めないか。もしそうなら、「悪いこともすることはあったが、自分(阿弥陀仏)の名声に触れるということもあり」という意味になる。
「及正為道欲来生我国」はどういう意味か。「正しく道をなすに及んで我が国に来生せんと欲する」。原義はそういう意味ではないのだろうか。
漢文は素人なので僕は確証は持てないが、宗祖が意識的に意味を変えていれば宗祖の真意を探ってみる必要がある。
悪のために我が名字を聞きというのは、「たとえ仮に邪悪なる目的意思をもって阿弥陀仏の名に触れても、阿弥陀仏の名に触れるということは触れる側の意思に左右されない。真実の行為である」、そういう意味を込めているのだろうと思うのである。
440 :
渡海 難( p6201-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/24 16:05
>>437 >叩かずとも、既に開かれたる、救いの扉
開いてても 通る人無き 閑古鳥 <南無阿弥陀仏>
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
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/ モナーより /
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( ^∀^) / /(^∀^ )
( )つ ⊂( )
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(__)_) (_(__)
442 :
名無しさん@1周年:01/11/24 23:04
あげ
443 :
渡海 難( p7011-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/11/27 17:57
前世に〜名字を聞き、〜寿終えてみなまた三悪道に更(かえ)らざらしめて、すなわち我が国に生まれんこと、心の所願にあらん。しからずは我作仏せじ、と。
「前世に〜名字を聞」くとはどういうことか。我々はこれを問題にする。逆に、どうしてこんなことが問題になるか、昔の人には想像もつかないだろう。現代ではこれが問題になるのだ。
前世とは、阿弥陀仏の極楽浄土に入学する前という意味だ。
ある学生がいた。下心をもって邪悪な心で阿弥陀先生の名声に触れた時期があり、そのとき先生を知って阿弥陀先生の極楽学校に是非入学したいと思って入学してきた。
学生がいた。正しい心で阿弥陀先生の名声に触れた時期があり、そのとき先生を知って阿弥陀先生の極楽学校に是非入学したいと思って入学してきた。ここはそういう学生達を話題にている。
寿(いのち)終えてとは卒業後という意味だろう。あるいは中退しという意味だろう。
経典は、「更らざらしめ」という使役法を使っている。不本意にも許容してしまいという意味だろう。
精神的には三悪道という恐ろしい境遇界に生徒が転落していくということを、教師側はなすすべもなく不本意にも許してしまう。
生徒の方は逆に、極楽学校に在籍していたことは本意ではなかったと、昔を後悔するようになる。もしそういう自体になる人がいたとすれば、そういう生徒が一人でもいるかぎりは、自分は自分が理想とする教育者ではない。阿弥陀仏はそう決意している。
「前世とは肉体誕生前」、「寿終えとは肉体死亡後」である。こんな意味の想像を逞しくする解釈が出てくる。そういうことは、経典編纂者は夢にも思っていないだろう。
意思と行動が変われば人は人格が変わる。人格が変われば古い自分が死に、新たな自分が誕生する。子供が小学校に入れば、一人の幼稚園児が死に、一人の児童が誕生する。一人の大学生が企業に入社すれば、一人の学生が死に、一人の企業人が誕生する。
人は生死生死をくり返す。生まれるとか死ぬとか仏教で言うのはそういう意味だ。
肉体的誕生は生ではないのか。肉体の死は死ではないのか。そう聞く人もいるだろう。肉体的生、肉体死は、いずれも多数の生死のうちの一例に過ぎない。無数の輪廻転生の一つの節目に過ぎない。これが経典編纂者の認識である。
444 :
名無しさん@1周年:01/11/29 06:16
あげとくよ。
さげとくよ
446 :
渡海 難( p5058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/01 20:17
阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じて言わまく、「我等後に、作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめん」と。
仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまわく、「この阿闍世王太子および五百の長者子、後無央数劫を却(さ)りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべし」と。
親鸞は平等覚経の引用を続ける。
この経典では、親鸞の自覚と経典著者の自覚との間に違いがあることは一応認識しておくべきだろう。
経典著者は何を考えているか。経典に沿って考えてみよう。
釈迦在世中、インドには大きな国が二つあった。その一つを摩迦陀国という。阿闍世王太子とは、摩迦陀国の皇太子である。 阿闍世王太子はやがてクーデターを起こして父を殺し、自らが王位に就く。その後慚愧し、再び釈迦に学ぶ。
経典著者は、クーデター以前に時期設定をしているのだろう。当時、釈迦は頻婆沙羅王の政治顧問をしていた。
平等覚経の著者は、阿弥陀物語説法の舞台に 阿闍世王太子を引っ張り出してくる。これは異訳本の平等覚経だけの事柄だろう。親鸞は敢えてその平等覚経をことさらに引用してくる。
阿弥陀物語説法の場で、阿闍世王太子とその他の多くの聴衆は、無量清浄仏つまり阿弥陀仏の決意表明を聞いて、大いに喜び、心に誓った。
「自分が仏になるというときには、無量清浄仏のように人々を教育指導する者となろう」、と。
阿闍世王太子を始めとする聴衆達は、人間にとって何が一番尊いかを学んだ。それは、阿弥陀仏のような教育指導者になることだ。平等覚経の著者はそう主張する。
平等覚経の著者は更に釈迦に次ぎのように言わせる。「阿闍世王太子とその他の聴衆は、後無央数劫を却りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべし」と。
「後無央数劫を却りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなる」とはどういうことか。平等覚経の著者の真意を考えてみたい。
447 :
名無しさん@1周年:01/12/03 14:44
あげ
448 :
渡海 難( p1137-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/05 08:26
「後無央数劫を却(さ)りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと」。
僕は釈迦のこの言葉に注目したい。無央数劫を却りてとは、「膨大な時間を過ぎた未来には」という意味だ。膨大な時間を過ぎた未来には無量清浄仏のようになるだろう。釈迦は聴衆にそう告げる。
膨大な時間を過ぎた未来には無量清浄仏のようになる。無量清浄仏のようには絶対になれないということを意味している。
当時、阿闍世王太子は皇太子である。五百の長者子とは、おそらく在家の人々だろう。武士、農民、工人、商人などがいただろう。彼らには彼らの生き方、生活があった。
教育者になるには、その道で専門的な勉強をしなければならない。王侯貴族や人民まで、そろって教育学を専門的な学ばなければならない理由はない。
教育学を学ばなければ教育者になることはできない。教育者になるには専門的な学問が必要だ。専門的な学問がなければ教育者には絶対になれない。無央数劫を却りてとは、そう言う意味だ。
無量清浄仏のごとくなるべしとは、素晴らしい可能性を秘めたという意味だろう。教育学の入り口を垣間見たということだ。素晴らしい世界の一端を覗いたという意味だ。
教育者にならなくても、教育学の基本を知っておくことは万民にとって大事なことである。これはあらゆる世界で何を学ぶにしても基礎になるだろう。その意味で教育学の基本を知ることは非常に有意義なことだ。
その場に集まった王侯貴族や人民は、そのすばらしい世界を目撃してくれた。これは素晴らしいことだ。王侯貴族や人民に、自分の教育学の一端を語った釈迦は、話を聞いてくれた聴衆をそう称讃している。
教育学は万民に必要である。教育者になるには専門的な学習が必要である。平等覚経の著者は、僕らにそう説いている。
チューリップ企画ってギャグの会社ですか!?
450 :
渡海 難( p0384-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/05 10:17
>>449 >チューリップ企画ってギャグの会社ですか!?
<そんなのしらんかい(笑)>
451 :
名無しさん@1周年:01/12/08 12:02
>>451 糞スレあげるな!
しかも「真宗ちゃんねる」を渡海で汚す気か?
歴史認識が滅茶苦茶。
あげ
455 :
名無しさん@1周年:01/12/10 09:10
>>452 何言ってるの? 浄土は渡海で汚れませんよ。
>>455 クソスレあげるな、ボケ!
お前は渡海信者だろ?毎月渡海に4000円払ってるだろ?
457 :
渡海 難( p2209-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/10 19:19
しばらく多忙です。
458 :
名無しさん@1周年:01/12/12 19:56
459 :
渡海難@移転プロジェクト:01/12/13 09:38
渡海さん、早めの移転お願いしますよ。
基幹運動馬鹿布教使よりよっぽどマシだよ、渡海さん。
461 :
名無しさん@1周年:01/12/14 13:05
<訃報>渡海難さん51歳=念仏宗渡海会教祖
親鸞仏教を核とした信仰グループ「念仏宗渡海会(ねんぶつしゅうとうみかい)」の教祖、渡海難(とうみ・かたし)さんが11日、横浜市保土ヶ谷区の病院で亡くなった。51歳だった。死因、告別式の日程などは遺族らの意向で明らかにされていない。
渡海さんは脱税容疑で書類送検されたが、不起訴処分になった。2000年、巨大掲示板「2ちゃんねる」に布教の拠点を移した。(毎日新聞)
[12月14日12時40分更新]
462 :
渡海 難( p6240-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/14 21:55
> 訃報
苦笑
生きてます。多忙です。カキコできません。
463 :
名無しさん@1周年:01/12/14 22:11
渡海がどうなろうと知ったこっちゃないが461はクソ野郎なのは
間違いないな。
×
∩_∩×
(゜∀゜)
⊂ ⊃
|||
○×月☆日 曇り/煽り
スレ立てたら煽られた
そのぐらい覚悟してたが
やっぱり腹が立つ!
だいたい『お前らが厨房』
なんだよボケが
自分がされたらイヤなことを
平気で人にするのは
アヒャだね、アヒャだよ
アヒャにアヒャってんだろ
アヒャヒャあれ?なんかアヒャ
だなアヒャヒャヒャ.....
(彼の日記はこの日で終了している)
渡海難が逝ってしまったのでこのスレッドにはなにも書き込まないでください
P.S
>>463オマエモナー
――――――――糸冬了―――――――――――――――――――
465 :
渡海 難( p0416-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/15 21:10
阿闍世王太子および五百の長者子は、無量清浄仏の二十四願(すなわち諸仏称揚の願)を聞き、みな大きに歓喜し踊躍して、(至心、信楽し)心中にともに願じて言わまく、
「我等後に、作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめん」と(欲生し、仏道修行者の仲間となり)。
仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまわく、「この阿闍世王太子および五百の長者子、後無央数劫を却りて、みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべし」と(仏なる身に正しく定まり、正定聚の一人なった。
《クーデター事件もこれを揺るがすことはできなかった》。阿弥陀仏の諸仏称揚の願は、阿闍世王太子などを代表とするような人々に誓われたものだ)。親鸞は、平等覚経をこのように読んでいるのだろう。
466 :
渡海 難( p0416-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/15 21:11
仏の言わく、「この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し已りて、今また来りて我を供養せり。
平等覚経の著者の理解と親鸞の理解の違いを追いながら読んでみよう。平等覚経の著者が、釈尊先生の自覚の内容を推測している心は興味深い。
釈尊先生の事業の成功は、決して先生一人だけで達成されるようなものではなかった。大乗仏教の先人達は、教育活動の基礎をそのように理解していたようだ。
釈尊先生は、絶えず過去の開拓的な先人達、同時代の優れた指導者達、将来の賢人哲人を目指す努力家達、こうした人々の心を絶えず念じながら独自の活動に励まれていたようだ。
先生の教育界での偉業は、先生を助けた多くの人々の長年の限りない支えの結果だった。古代の大乗の先人達はそのように教えられていたようだ。
多くの人々の協力や助けなくして先生の教育活動の成功はなかった。釈尊先生を助けた働きも、実はそれぞれそれぞれがそれぞれの世界で助けられ、助けられた働きが釈尊先生を助けてきた。将来の教育者を目指す大乗の学習者達は、これを忘れてはいけない。
釈尊先生を助けていた働きの回りには、更に多くの人々の助けがあった。阿闍世王太子や多くの仲間達が果たしてきた役割も、決して無視することはできない。教育者は見えるものだけに目を奪われてはいけない。
阿闍世王太子や多くの仲間達の目に見えない働きが、釈尊先生を助けてきた働きを助け、それが釈尊先生の働きを助けてきた。釈尊先生の働きが実現したからこそ、阿闍世王太子や多くの仲間達が話を聞けてきた。
教育活動とはこのようにして実現されてくるものだ。平等覚経の著者は、そのように説いているのだろう。
般 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
提 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
菩 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
提
薩
婆
468 :
名無しさん@1周年:01/12/16 09:49
>>468 五月蝿いぞ、渡海信者!
糞スレあげるな、ヴォケ!
>糞スレあげるな、ヴォケ!
あげよかな(w)
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473 :
渡海 難( p0372-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/17 22:19
「この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。」
平等覚経の著者はここで何を言おうとしているのだろうか。前世というのは、阿闍世王太子が小さかったときという意味だろう。人は、幼児期・少年期・青年期・壮年期と年を重ねる度に、考えを変え、行動を変える。人は、年相応に意思を持ち、年相応に行動する。
年を重ねるごとに人格を変える。その度にその度に生死生死をくり返す。前世とは、阿闍世王太子が小さかったときという意味で考えていいだろう。
釈尊先生のお弟子さんに迦葉尊者という人がいる。迦葉尊者は、拝火教の聖者だったらしい(化身土巻 引用 仏本行経)。迦葉尊者には多くの信者さんがいたようだ。迦葉聖者が拝火教を捨てて自分のもとに来た頃、少年阿闍世王太子や側近達は自分と親しくなった。
釈迦はそんなふうに懐古しているんだろう。阿闍世の父、頻婆沙羅王が釈迦と親しくなったのは、その頃ではないのか。
人が教育学を学ぶきっかけ得るということがあれば、それはそれこそ千載一遇の幸せというべきだろう。それだけ尊いことだ。釈迦は、頻婆沙羅王の政治顧問になる。頻婆沙羅王と釈迦の付き合いは長く深い。しかし、阿闍世と釈迦との間にはさまざまな波乱があったようだ。
二人の関係は、文字通り近くて遠い存在だったに違いない。そんな阿闍世に、平等覚経の翻訳者は釈迦の本を訪問する時を設定し、千載一隅の好機として阿闍世に向けて釈迦に浄土教教育学を語らせる。
平等覚経の著者は、釈迦を借り、大乗の指導的リーダーとして自らの教育学に対する見識を表白する。
474 :
大学の先生A:01/12/18 11:51
↑ 渡海難君、君は仏教の基本知識がまったくないね。「過去七仏」知らないの?
迦葉仏とはその中のひとり。従ってこの場合は、迦葉仏が在世していたはるか過去
の時にという意味だよ。阿闍世王太子が小さかったときという意味では全然ないの
ね。誤解、無知によって屋上屋を重ねても仏教理解にはほど遠い。もう少し議論が
できるだけの仏教の基本概念を勉強したまえ。
渡海に保険金詐欺疑惑が浮上!
なんと、身体障害者を装っている!
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1004329429/700 700 名前:渡海 難( p0416-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) :01/12/15 21:13
>>696 :NB
>良寛さまのお歌より。
座禅嫌いのNBさんも、借り物は好きなようだ(笑)。曹洞宗も悪くない。僕だって座禅では総本山総持寺に行った。手術して足が曲がらなくなったら、縁遠くなったけどね。
良寛さんなんかは、念仏しながら座禅していたんでしょうね。NBさん。座禅して念仏するもいい。念仏しながら座禅してもいい。やることは同じだ。
みなさん、こういう詐欺師の言う事を信じてはいけません。
渡海は金がほしくてこういう手口を使ったんです。
いつも叩かれているので同情してもらいたかったために、身体障害者を装っているのです。
だまされないように注意しましょう。
476 :
渡海 難( p0987-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/18 21:09
>>474 >渡海難君、君は
私は、見ず知らずの人からいきなり「〜君」よばわりされる必要は無いと思っているんですよ。
ま、お偉いお方のおつもりの非常識な先生様なんでしょう。ま、どこぞのアホ大学のお方なんでしょう。
>君は仏教の基本知識がまったくないね。 <なるほど。なるほど(笑)>
477 :
渡海 難( p0987-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/18 21:11
>過去七仏」知らないの?
ほほう。あなたは「過去七仏」を御存じのお方でしたか。最近の大学の先生はたいしたもんだ。過去七仏を御存知だそうだ。ご立派。ご立派。見上げたもんだ(笑)。
ひとつ教えていただけませんかね。迦葉仏とはいつごろのお方なんでしょか。ま、あなたは、架空と現実の区別のつかないお方なんでしょう。夢とうつつの違いが分からくても、アホ大学なら十分だ。貴方に教わっているアホ学生の顔を拝みたい。
仏説は象徴の世界です。象徴の裏に隠れた真意に意欲的に迫ろうとしないで、どんな真理が分かるんですか?。象徴の裏の真意に迫ろうとしなければ、寿命が二万年の時代の仏様(化身土)だなんて、お坊様相手でなければ、三歳の子からも馬鹿だと思われる。
ちなみに、弥勒は未来仏といわれるそうですね。56億7000万年後に登場するそうです。
56億7000万年後と言えば、地球はとっくに水を失って金星化し、銀河系はアンドロメダ星雲と衝突し、太陽は既に消滅しているそうです。どうやってお救いになるんでしょうね。
今から,56億7000万年前というと、丁度、太陽が生まれかかってきた頃になるそうです。地球に生物が発生したのは30億年前だそうです。大学の先生のご見識にお伺いします。寿命が二万年の時代の仏様とはどんな仏様だったんでしょうね。(爆)。
過去七仏、あるいは五十三仏というのは哲学的、象徴的概念と考えるべきでしょう。僕はそう提唱するんですよ。釈尊以前には六人プラス一人の思想的先人がいた。釈迦の認識行動界は、六道(迷い)を超えた七道に立った世界である。
478 :
渡海 難( p0987-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/18 21:12
釈迦は、菩薩道(七道)の頂点にある大乗の仏となった。六師外道プラス一人から過去七仏という象徴的概念を創作しているんでしょう。七番目の仏は外道から釈迦の本にやってきた迦葉に結びつけると考えても不思議はない。在野の僕の意欲的な仮説です。
現在の釈迦は、開拓的な過去七仏の基礎を継承しながら、それらを超過した指導者として出現する。仏教は巧みに独自の教育学物語を創作しています。
象徴化した創作者が誰だかは、僕は知りません。平等覚経の翻訳者と同じ人かも知れない。今では一つの一連の寓話として認識されてる物語も、時代が違う複数の作者が断片的不連続に関わってるのかもしれない。本当は、断片ごとに作者の主張の真意が違うのかも知れない。
地球が金星化して全ての生物が滅亡したころ、仏様が出現して人類を救うとか、太陽がやっと形作られたころ、迦葉仏様が説法なさっていたという妄想は、貴方のようなオツムの方の世界ではお友達同士楽しいお伽噺として喜ばれるんでしょう。
私どもには有り難すぎて、お偉い大学の先生のオツムにはついていけませんね(笑)。
479 :
渡海 難( p0987-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/18 21:13
>阿闍世王太子が小さかったときという意味では全然ないのね。
僕は、在野の念仏者です。意欲的に仮説を提唱します。千の仮説を提唱し、そのうち一つでも二つでも当たっていれば進歩がある。全て外れても、可能性を探ることは楽しいことだ。
大乗仏教の先人達が象徴的手法で表現しようとしている真意は何か。僕は、大胆に探って行きますよ。
僕の仮説は、千に一つ、万に一つも当たってないかも知れない。全て空振りかも知れない。賛成するのもいい。反対するのも御自由です。大胆な仮説に触発され、第二第三の方々が、更に大胆な仮説を提唱し、十万に一つ、百万にそれが一つ当たるようになれば楽しい限りです。
>誤解、無知によって屋上屋を重ねても仏教理解にはほど遠い。 <なるほど。なるほど>
>もう少し議論ができるだけの仏教の基本概念を勉強したまえ。
基本概念を勉強した結果が、あなたのような、アホ大学で命令的な口調を身につけるだけのお偉いさんにおなり遊ばすくらいなら、豆腐の角に頭でもぶつけてさっさと自爆したほうが幸せです(笑)。
貴方はどこの大学の何というお偉いお先生様なのか存じません。偉そうにしても、名前も所属も名乗れないんじゃ、お寒い限りだ。
大学の先生ですと言いながら、数百年昔の化石理論の教条主義に凝り固まっているんじゃ、意欲的柔軟な仮説的提言など全く理解できんでしょう。
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α___J _J このスレッドも (|● ● |
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言っとくが浄土真宗は宗教じゃないぞ。
482 :
大学の先生B:01/12/18 22:50
>>478 渡海難兄 迦葉仏は過去七仏伝承の中の6番目のブッダですよ。釈迦が
7番目。過去七仏伝承とは釈迦牟尼仏をも含んだ数なのですよ。あなたは釈迦
牟尼仏以前に七仏がいたと伝承を誤解していますよ(大笑)。やっぱりあなたは
基本知識がない。解釈は自由。でもその前に伝承されている文献を文法的に正し
く読むことから始めないないとね。知識のなさをつかれて、八つ当たりするのは
どうでしょうか。人間、特に念仏者なら謙虚にならなくては。そう思いませんか。
483 :
渡海 難( p6157-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/18 23:42
>>482 謝々m(_ _)m
あはは。(^^ゞ そうでしたね。 間違いは誰にでもあるもんですよ。
鬼の首でも取られてしまいましたか(苦笑)。弘法も筆の誤り。まして僕なら、言わずもがなだ。間違いは今後もあるでしょう。間違いがあればすぐに教えてもらえるのが2茶のいいところだ。間違いがあればまた教えてくださいな。
>特に念仏者なら謙虚にならなくては。そう思いませんか。
あれ? ぼくがいつか謙虚じゃありませんでしたか。
念仏者であってもなくても、そんなことに関係なく、貴方も僕も、お互い常に気を付けなければいけないことですね(微笑)。
484 :
渡海 難( p2220-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/19 18:37
重箱の隅に落とし物したら、持ち去られちゃいました。のんきに転がしておいたのがいけなかった。
落ちてた小首を持ち去るのが早いのはこそどろの類か。いやいやあれが本物の先生だ(苦笑)。鬼の小首は、取られりゃ修繕しておかないといけない。取られりゃまた作ればいいのさ。どうせみんな張りぼて、偽物なんだよ(^^ゞ(苦笑)。
>>477 「釈尊以前には六人〜世界である。」
>>478 「釈迦は、菩薩道(七道)の頂点にある〜教育学物語を創作しています。」
以上を次のように直します。
釈尊以前には六人の思想的先人がいた。釈迦の認識行動界は、六道(迷い)を超えた七道に立った世界である。
釈迦は、菩薩道(七道)の仏となった。六番目の仏は、外道から釈迦の本にやってきた迦葉に結びついていても不思議はない。在野の僕の意欲的な仮説です。
外道と言っても、開拓的な偉業には尊敬すべきものがある。釈迦は、開拓的な先人が築いた基礎を継承しながら、それらを超過した指導者として出現する。仏教は巧みに独自の教育学物語を創作しています。
大学の先生B兄。 これでよろしいかな?こう直せば、「基本知識がない」とは言われずに済みますかな(笑)。ま、冗談は別にして、ご指摘には感謝します。
大学の先生Aには八つ当たりしていませんよ。一当たりしただけです。一当たりしたら静かになっちゃいました。こんなはずじゃなかったよ(笑)。
折りがあれば貴兄のご高説でもご教授賜りに参りたいものですね。基本知識の盤石な方の獅子吼では、獅子のお鼻立ちもお高いことでしょう。人形箱に並んでる鬼の首の幾つかも、冥土のみやげに拝ませて頂きたいものです。
もっとも僕などは、冥土に行けば人形じゃなく、嫌でも毎日本物の鬼と対面しなければならなくなるのか。クワバラ、クワバラ(苦笑)。
485 :
名無しさん@1周年:01/12/20 23:56
あげ
渡海さんは一日中こんなことばっかり考えているんですか?
487 :
渡海 難( p0307-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/21 22:17
親鸞はここで何を読んでいるのか。親鸞の視点は因果の法則に向いている。
仏に出会えるということは、仏という名に出会うことだ。仏という名に出会うことは、善因に基づく善果である。この善果は更に次の善果を生んでくる。
我々は、鬼の心で鬼の行為に走る鬼となる。ケダモノの心でケダモノの行為に走るケダモノとなる。
あるときは有頂天になり、次の瞬間には地獄で塗炭の苦しみを負う。馬鹿だった。馬鹿だった。オレは馬鹿だった。真人間に戻って悔い。悔いても悔いても、次の瞬間には再びケダモノの奴隷となっていく。
本質的に愚かだからだろう。愚かだからこそ我々は鬼となり、愚かだからこそケダモノとなり、愚かだからこそ有頂天となり、愚かだからこそ真人間になり、愚かだからこそ地獄にも落ちる。だからこそ、悔いても悔いても同じ道をたどる。
私は、私の意思を離れ、私の行動を離れて存在しない。私の意思と行動こそ、私の魂の全てあり、私の実存そのものである。私の実存とは、まさに私の愚かさそのものである。六道で生死生死をくり返すその姿こそ、私の実存そのものである。
我々のこの愚かさはいつ始まったものか。我々一人の愚かさは、万人の愚かさに通じ、万人の愚かさはいまこの私の愚かさに通じている。私の愚かさは、過去多くの人々がくり返してきた愚かさであり、今後も多くの人が同じようにくり返していく愚かさだろう。
私の愚かさは、私の誕生で始まったものではなく、私の死で終わるものではない。無限の過去から無限の未来に通じる愚かさにおいて、私は私の生死生死をくり返す。無限の過去から無限の未来に永遠に連続する愚かさそのものから脱出する手だては、私の手中には存在しない。
488 :
渡海 難( p0307-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/21 22:18
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」。仏の誓いに喜ぶことができたなら、それは、我々の手柄ではない。
植物学者は、花を師と仰ぎ、花に生命の起源を学んでいる。人類学者は、猿を師と仰ぎ、猿に人間とは何かを教わっている。真理は花に宿る。真理は猿に宿る。実にあらゆるものが物事の真理を語っている。
ニュートンは万有引力の法則を発見した。しかし、万有引力の法則は、アリストテレスにも、プラトンにも、孔子様にもお釈迦様にも平等に働いていたはずだ。
かつての先人達も、ニュートンを動かした同じ真理に働かれ、得るものは異なっても、同じように真理を求め、真理に肉薄していった。
ニュートンもその同じ流れの中に立つ。人類は、ニュートンに至って万有引力の法則を認識する。しかし、真理は、ニュートンの遙か前から、人類に向かって、万物に向かって、無限の過去から現在に至るまで一貫して真理を明らかにし続けてきていた。
真理は、万有引力の法則も明らかにし続けてきていた。無限の過去から現在に至るまで一貫した真理の働きがあって、その中でニュートンは万有引力の法則を認識する。
もし、たまたま行信を得、仏の名に歓喜することができたなら、無限の過去からいまこの現在に及んでいるその働きに喜ぼうじゃないか。
親鸞は、無限の過去からいまこの現在に及んでいるその働きを、阿闍世王太子と五百人における仏との出会い中に目撃しているのだろう。
489 :
大学の先生B:01/12/22 00:55
>>487 > 善因に基づく善果である。
これも仏教の基本教義を全く分かっていないひとの言葉です。原因は倫理的に
善、悪ですがその結果は倫理的に善でもなく、悪でもありません。正しくは
「善因楽果、悪因苦果」と言います。仏教の入門書等で「善因善果・・・」な
んて書いてあれば、その本は信用しない方がいい。その著者は仏教の基本も
分かっていません。渡海難兄、また一つ勉強したでしょう。
490 :
名無しさん@1周年:01/12/22 01:07
>>489 ふむ、横レスでスマソですけど、そこまでおっしゃられるなら、パーリのソース
で解説してくださいな。それと、古代インド思想史上の位置づけと。
492 :
渡海 難( p2195-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/22 11:23
>>489 >「善因楽果、悪因苦果」と言います。仏教の入門書等で「善因善果・・・」なんて書いてあれば、その本は信用しない方がいい。
楽果とは何か。苦果とは何か。ま、この場合には、こういうことも論点となるんでしょう。「善因楽果、悪因苦果」を主張する人同士、楽果の定義次第で、全て同床異夢だったいうこともある。楽果の定義次第で、善因善果は異字同義だったということもある。
楽果とは何か。苦果とは何か。定義を明らかにしないで、「同じだ。違うんだ」と、教条主義的に言葉を振り回せば、仏教のイロハ、学問のイロハが分かってないと言われても仕方ない(笑)。
僕の焦点は親鸞仏教に向いています。仏教は、二千数百年の歴史があります。北インドで始まり、現代でも南はスリランカから北はモンゴルにまで達します。東は日本、西はチベットに及んでいます。現代では欧米でもファンが増えているそうです。
歴史的にも時代的にもこれだけの幅の広いものを、一筋縄の理論で縛ろうとするのは、仏教の基本教義を全く分かっていない人のことでしょう。
493 :
渡海 難( p2195-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/22 11:24
仏教とは何か。その回答を個人的に古代仏教に求めるのは自由です。善因楽果、悪因苦果は、古代仏教の古典的な考えを現代の概念で照らしたものでしょう。古代後の特定の天才の思想が、古代思想と同じとは限らない。違うとも限らない。
もし違っていれば、天才のその思想は間違いですか?。ニュートンに始まる近代物理学は、アインシュタインによって大きく変更され、天才ホーキンスが更に変更しています。ニュートン物理学とずれている現代物理学は、間違いですか?。
釈迦から親鸞の間には千五百年の開きがあります。北インドから日本まで、地理的にも大きな開きがあります。北インドからは何万キロも離れ、ヒマラヤを越え、日本海を渡った東方の地日本で、親鸞という人物は、何をどう思索したのか。
空前絶後、独創的な観点から独自の教育哲学を主張している天才親鸞の思想を明らかにしよう、これが僕のテーマです。
千年も昔に死に体となり、千年以上、血も涙も通わなくなった化石化した思想の分析学ではありません。化石の粉を天才の頭に降りかけて、お前は間違っていると言えば、笑止の限りでしょう。
大学の先生B 兄、2茶はいいところですね。あなたも今日、本物の仏教を、また一つ勉強しましたね。
494 :
大学の先生B:01/12/22 21:20
>>492,493
難しい講釈は何ももしていません。間違いを指摘されたら、自分のボロを隠す
ために無益な逆上をさらすのではなく、間違いを素直に認めればいいのです。
行為(業、カルマン)は倫理的に善、悪、中性(無記)の三種に分けられます
が、その結果は善でもなければ悪でもなく、楽か苦であると至極当たり前の
ことを指摘しているだけです。悪業をなして地獄に再生しても、地獄自体は
悪ではありません。苦であるだけです。これは、仏教の専売特許ではなく、古
代インドの宗教、思想に共通する概念です。ガウタマ・シッダールタ(梵語に
よる発音)は、輪廻転生からの解放を、他のインドの思想家たちのような神秘
体験によるのではなく、理性によって果たしたことになっていますが(種々の
仏伝によれば)、あなたには何を言っても馬に念仏、ばかばかしいので二度と
書き込みません。仏教などというから無知を突かれるのです。いい迷惑です。
渡海教だと言っておけば問題ありません。ではさようなら。
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496 :
渡海 難( p5151-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/23 18:40
>>494 :大学の先生B
>難しい講釈は何ももしていません。 <やさしい講釈でもなさっていましたか?>
>間違いを指摘されたら、自分のボロを隠すために無益な逆上をさらすのではなく、間違いを素直に認めればいいのです。
<なるほど。なるほど>
> その結果は善でもなければ悪でもなく、楽か苦であると至極当たり前のことを指摘しているだけです。
<それがどうかしましたか?>
>これは、仏教の専売特許ではなく、古代インドの宗教、思想に共通する概念です。
<ほほう。それがどうかしましたか?>
>(梵語による発音) <梵語の発音を御存じの利発なお方だと誉めて貰いたいですか?>
>理性によって果たしたことになっていますが(種々の仏伝によれば)、 <どのような仏伝で?>
>あなたには何を言っても馬に念仏、
競馬関係の方は、大事なことをお馬さんから教わるんですよ。体の健康から、より早く走れる走り方まで。お馬さんを真剣に先生と仰ぐことは大事なことですよね。
お馬さんに「先生」とあだ名を付け、「阿弥陀仏」とあだ名を付け、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念じることは、意味のあることですね。
通常では気が付かないことでも、深い禅定の中では発見することもあるでしょう。お馬さんを大事に大事に扱えば、お馬さんもきっと喜んでくれるでしょう。喜んでくれれば、期待に応えてくれることもあるでしょう。
497 :
渡海 難( p5151-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/23 18:41
>ばかばかしいので二度と書き込みません。
<間違いを指摘されたから、自分のボロを隠すために貴方は無益な逆上をさらしているんでしょう。>
>仏教などというから無知を突かれるのです。
他人から教わることができない方は、学問する資格がありませんね。貴方は大学の先生だそうだ。雰囲気から、真宗学ではないようだ。
どこぞのアホタレ大学で、アホタレ学生にアホタレ講義ごっこでもしている方でしょう。
仏の顔も三度。四度も五度も、一年間も四年間も仏の顔をしている学生は、仏様を通り越して白痴の類でしょう(笑)。
>いい迷惑です。 <なるほど。なるほど>
>渡海教だと言っておけば問題ありません。
<渡海教などとは言っていません。私は独自の仮説を提示する限りです。仮説の真否は、2茶のみなさんにご判断して貰おう。そう思っているばかりです。>
>ではさようなら。
ローマ字はAからZまであります。この次は「先生C」でご登場下さい。そのときはまた貴方は新たな学習ができるでしょう。先生Aで勉強し、先生Bで勉強ができたなら、先生Cでもまた勉強できるでしょう。
2茶はいいところだ。貴方は今日も貴方にとって、大事な勉強をしたんですよ。その意味が今の貴方に分かるとは思えませんけどね(笑)。
498 :
難度海 沈降:01/12/23 18:51
前にも言ったと思うけど、このスレッドを立てた人に議論するつもりはないので、彼を相手に何をどう論理立てて喋ってもむだです。
まあ、やらないとわからないからねえ。
大学の先生は相手が議論できると勘違いしたのでしょう。同僚も学生もそういう人ばかりなのが大学だから、仕方ないと思います。
自分の思うことをただ言うだけで、他人がそれに対して別の意見を表明するとなぜか攻撃するという、それが議論だと思ってる奴なんて日常にもそうそういないし。
ところで、ビンラディン氏が亡くなった可能性が高い、と、パキスタンの要人が北京で語ったそうです。
ではー。
499 :
名無しさん@1周年:01/12/23 21:28
真宗チャンネルでマイナーにやるべきです。
渡海難さんには、2Chは似合いません。
500 :
名無しさん@1周年:01/12/23 21:56
スゲー渡海
501 :
名無しさん@1周年:01/12/24 06:04
あほたれの大学先生にも劣等性の渡海難にも
仏の光明は平等に照らしておられるでよ。
仮説新説を打ち立て様が、旧説伝統的解釈に固執
しようが、所詮娑婆の事、わてらが真実にふれられる
のは念仏申している時だけじゃ、法然さんがゆうとるでよ。
親鸞さんも「よろずのこと、みなもつてそらごとたわごと、
もことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
とゆうてるでよ
503 :
名無しさん@1周年:01/12/24 07:08
互いに破門しあってるよな、そんな楽しい風景
504 :
渡海 難( p1129-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/24 19:19
>>501 >あほたれの大学先生にも劣等性の渡海難にも
<大学先生はあほたれ。渡海難は劣等性。それなら、501のあなたは何?(苦笑)。>
>仏の光明は平等に照らしておられるでよ。 <へー。 どこで?>
>仮説新説を打ち立て様が、旧説伝統的解釈に固執
仮説は立てているけど、新説を立てているつもりはありませんよ。「これでどうですか」と僕は聞いてるだけ。「これは新説だ」と他人様が評価くださることは一向に構いませんがね。「新説だ」と仰ってくだされば、正当性をお認めくださったんだと思うだけですね。
「旧説伝統的解釈に固執」。大学の先生は旧説でもない。伝統説でもないでしょう。
>わてらが真実にふれられる <え?。貴方も真実に触れてるの?>
>念仏申している時だけじゃ <念仏申してなけりゃ、真実には触れられん(笑)>
>法然さんがゆうとるでよ。 <ま、いろんなこと言うてるでしょ>
505 :
渡海 難( p1129-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/24 19:20
>>502 >親鸞さんも「よろずのこと、みなもつてそらごとたわごと、もことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とゆうてるでよ
子曰く、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し(論語)。
聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。 〜 四つの善事あり、悪果を獲得せん。 〜 四つには非想非非想処のためのゆえに繋念思惟せん(化身土)。
何かを考えるのでもない。考えないのでもない。いたずらに、ボーっと称えてるだけじゃ、悪果を獲得するでしょう。危ない。危ない(笑)。
>>503 >互いに破門しあってるよな、 <「互いに」の中には、冗談でも僕をいるないでくれよなー(笑)。>
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[二ノ´金`ヽ二]二二二二二二i仁ノ´劵`ヽニフ
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無茶苦茶やなぁ(笑)
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「アホたれの大学先生」も「劣等生の渡海難」も渡海難自身が
ゆうてることじゃ。わしは罪悪凡夫と名乗っとるじゃろ?
渡海難をよび、わてらをよび、「気付けよ、まかせよ、身の程知れよ」
と真実の世界からのまなざしがお念仏じゃて。そのおはたらきを光明とゆうのじゃ。
514 :
渡海 難( p0897-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/25 18:17
>>513 >「アホたれの大学先生」も「劣等生の渡海難」も渡海難自身がゆうてることじゃ。
ハテ?。「アホたれの大学先生」などと、渡海難自身が言うたかのぅ?。どこで?。心当たりがない。「劣等生の渡海難」などと、言うたかいのぅ?。身に覚えがない。(苦笑)。
「アホタレ大学で、アホタレ学生にアホタレ講義ごっこでもしている方でしょう」と、推測的に冗談半分に「でしょう」とは確かに書いた。
推測的に、「アホタレ大学」「アホタレ学生」「アホタレ講義ごっこ」とつっこんでも、あれは冗談じゃ。日本には、アホタレ大学などありゃせんじゃろう。<ま、僕は、日本中全ての大学を知ってるわけじゃないけどね(笑)>
冗談で推測的に「方でしょう」と書けば、「アホたれの大学先生」と言ったことになるのか。推測は断定なのか?。「アホタレ大学の先生」と「アホたれの大学先生」とも違うじゃろう。大違いじゃろ。
仮に、「アホタレ大学」でも、立派な先生はおるかも知れん。513さんは、大学と学生と講義と大学先生の違いも知らんのか?。大学の立派な先生かも知れない人に向かって、「アホたれの大学先生」などと、そんな礼儀知らずなことは、僕は言わないよ。
515 :
渡海 難( p0897-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/25 18:17
>わしは罪悪凡夫と名乗っとるじゃろ?
なるほど。なるほど。言うてもないことを、「お前はこうゆうた」などと言うことが、「罪悪凡夫」の意味だったのか。反撃防止、免罪符、鎧兜(よろいかぶと)の「罪悪凡夫」じゃったのか(笑)。
「劣等生の渡海難」とも僕は言ってはおらん。自分で自分のことを「罪悪凡夫」などと言う人から、お前も同じ「劣等生」じゃなどと、こんな侮辱的なことを言われなければならん理由はない。
自分は罪悪凡夫だと言うなら、貴方一人で十分だ。他人を道連れにしなさんな。あんたは本当に礼儀も、常識もないお方じゃのぅ。罪悪凡夫なんていうのは、貴方にとって、きれい事なんでしょう。(苦笑)。
「お前はこう言った」などと、ありもしないことを言っても、「罪悪凡夫」じゃと名乗れば、阿弥陀さんは許してくれるんじゃろぅ。「罪悪凡夫」にとって、阿弥陀さんとは自分を許す便利な操り人形か?(笑)。
>渡海難をよび、わてらをよび、 <声出し人形を操る人形師か(笑)?。>
>真実の世界からのまなざしがお念仏じゃて。
お念仏じゃとゆうても、光明じゃとゆうても、念仏がなければ、まなざしも光明もありゃせんじゃろう(笑)。それでも阿弥陀さんは許してくれるんか?。阿弥陀さんとは便利な人形じゃ(笑)。
「アホたれの大学先生」とゆうても、「劣等生の渡海難」とゆうても、念仏があれば、真実の世界からのまなざしはある。光明はある。ありがたいことじゃ。ありがたいことじゃ。
罪悪凡夫のあんたにも、念仏があれば、真実の世界からのまなざしはある。光明はある。ありがたいことじゃ。ありがたいことじゃ。しっかり念仏称えんさいよ。しっかり、しっかり称えんさいよ(笑)。
>渡海 難
専修学院一回行って来れば?
517 :
名無しさん@1周年:01/12/25 18:45
真宗チャンネルで、議論を続けてよ〜
518 :
名無しさん@1周年:01/12/25 21:10
sage
519 :
渡海 難( p0010-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/26 18:21
ひとやすみ。
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483で渡海難もゆうとるように誰でも間違いはあるもんじゃ
「アホたれの大学先生」と「アホたれ大学の先生」は
わしの読み間違えじゃったすまんのう、許してくだされ。
「劣等生の渡海難」とゆうのは、何処かで渡海難が「釈尊先生の
念仏学校では誰でも平等に学ぶ事が出来る劣等生の渡海難も差別されない」
とゆうようなことをゆうとらんかったかのう?随分前のことなんでわしの
記憶違いならすまんかった許してくだされ。
渡海難も487でゆうとるように、おのれの愚かさにはおのれ自身では気付かぬ。
真実なる阿弥陀さんからのはたらきかけ(光明、呼び声、名号)によってはじめて闇が破られる。
その阿弥陀さんを操り人形などとバカにせんでくれ。お願いじゃ、お願いじゃ。
仮説を立てて問うのもよかろう。ただし冗談でも阿弥陀さんをバカにしたような
言葉は使わんでくだされ。
>>494 しょーもないことでからんでしまってすいません。
渡海はあんな奴ですけど、、、まあ、あんなやつなんで、
ご立腹ではございましょうが、そこをこらえてばしばし
たたいてやってくださいまし。結構マゾなんだと思うんです。
確信犯なとこもありますね。ばかばかしいんですけど。
でも、伝えたいところは伝わってると、それはあるような気がするんです。
524 :
渡海 難( p5026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/27 18:05
>>522 >読み間違えじゃったすまんのう、許してくだされ。
なるほど。それじゃしかたない。お気になさいますな。
見ず知らずの他人に謝罪を述べるときくらいは、「さん」ぐらいつけてもバチは当たらないと、私は思いますけどね(苦笑)。
>とゆうようなことをゆうとらんかったかのう?
似たようなことは書いたかも知れませんね。時の勢い、議論の流れでいろいろなことを書いてきました。一つ一つは覚えていません。
「劣等生の渡海難」は、自信はないけど書いた記憶がない。忘れているのかも知れない。文章の前後の文脈を無視して切り出されてくれば、僕は意味が違うというでしょう。
仏道修行者の末席ということは書いた覚えはある。おまえはこう言ったと言う以上は、根拠を出してほしいものですね。
>おのれの愚かさにはおのれ自身では気付かぬ。 <なるほど。>
>阿弥陀さんからのはたらきかけ(光明、呼び声、名号)によってはじめて闇が破られる。
<破ってくださる方がいらっしゃれば、その方は阿弥陀さんの代理人だ。>
525 :
渡海 難( p5026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/27 18:07
>その阿弥陀さんを操り人形などとバカにせんでくれ。お願いじゃ、お願いじゃ。
相手の言葉を仮にでも故意に読み替え、自分は罪悪凡夫でお前は劣等生じゃと言う人がいれば、もしいれば、それはおかしいですよね。礼節は欠く。
礼節はいらん。阿弥陀さんは救ってくださる。こう言って故意に他人の意思を読み違え、自分の愚かさを棚に上げる人がいれば、救済行為を期待されている阿弥陀さんは阿弥陀さんじゃない。自分の操り人形だ。
阿弥陀さんは闇を破ってくださる方。真実を分かりにくくし、薄明かりの豆電球さえ消してしまうのは、阿弥陀さんじゃない。糸が見えちゃ困る操り人形だ。
闇を破ってくださる人も、薄明かりを闇夜にする人も、等しく阿弥陀さんだと言えばそれは間違い。
貴方に呼び掛け、私に呼び掛けているなどと都合よく言えば、それは阿弥陀さんの声じゃない。腹話術の声だ。
自分の腹話術も阿弥陀の声も、等しく阿弥陀さんの声ですよと言えば、それは間違い。阿弥陀さんの声をかき消して腹話術を演じれば、阿弥陀さんは声を潜めるでしょう。
闇夜の操り人形を「阿弥陀さん」だと言えば、阿弥陀さんをバカにしてることにもなる。気をつけたいものですね。
>冗談でも阿弥陀さんをバカにしたような言葉は使わんでくだされ。
<操り人形で喜ぶ奴はバカにされる。冗談でなく。>
526 :
渡海 難( p5026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/27 18:11
>>523 >NB :01/12/27 03:37 <おっ!!。お・ひ・さ。 どっかで生きてたんですね(笑)。>
>からんでしまってすいません。
<坊さんの行く末を悲観して廃業し、今度は謝罪代行業でも始めましたか?。(笑)>
>渡海はあんな奴ですけど、、、まあ、あんなやつなんで、 (苦笑)
>ご立腹ではございましょう
<自分の立腹か、他人の立腹か、立腹の主体が分からなくなれば、布教師も廃業ですな(笑)。>
>そこをこらえてばしばしたたいてやってくださいまし。
<立場のなさに自分が自分に立腹してるとき、相手を叩いても腹の虫は収まらん(笑)。>
>結構マゾなんだと思うんです。 確信犯なとこもありますね。
座禅して念仏する(親鸞)のはダメ。念仏して座禅する(良寛)のよい。妄想的確信犯でしたな(笑)。
>でも、伝えたいところは伝わってると、それはあるような気がするんです。
渡海 難がNBさんに伝えたいところは、NBさんに伝わってるような気がするという意味か?。もしそうなら、NBさんも将来には期待できそうだ。さすが浄土真宗本願寺派の御立派なお坊様だ。人の成長は将来が楽しみだ。
もっとも、ここからが長丁場の始まりかも知れんね。長丁場の始まりは、まだまだずっと先かも知れないが(笑)。
527 :
渡海 難( p5026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/27 18:13
教行信証論も少し進めます。
「かくのごときの人、仏の名を聞きて、快安穏にして、大利を得ん」
阿弥陀仏の名声を聞いた者は,心安らぎ喜びを得た。かつて釈尊先生もそういう人だったのだろう。釈尊先生は、釈尊というその名にご自身の徳を凝集され、世界中に発信された。多くの人々は、釈尊というその名を通じ、釈尊という方の徳に触れ、教育と学習の重要性を学んだ。
「我等が類、この徳を得ん」
我等とは何か。平等覚経の著者は、恐らく大乗仏教を学ぼうとしている人に向けてメッセージを送っているのだろう。この徳とは、阿弥陀仏の徳だろう。阿弥陀仏を理想の教師とし、阿弥陀仏の心を我が魂として優れた教育者への学習を進めよう。
「もろもろのこの刹に好きところを獲ん。」さあ、世界中に散ろう。世界各地で素晴らしい学校を創ろう。人々を育てよう。
「無量覚、この決を授けん。我、前世に本願あり」阿弥陀仏は次のような決意を明らかにしている。自分は、教育活動を始めるに当たり、決意したことがある。
「一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとく我が国に来生せん」どんな人であっても、話を聞いてくれれば、是非入学したくなるようなそんな学校を創ろう。そんな教師になろう。
「吾が願ずるところ、みな具足せん」。一度決めたことは必ず達成しよう。
528 :
渡海 難( p6011-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/28 22:14
経巻部も後少し。年内には終わらなかったけど、しばし休み。
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1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げる。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエーションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
531 :
渡海 難( p4147-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/29 20:59
「もろもろの国より来生せん者、みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん。速やかに疾く超えて、すなわち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。」
この部分の理解はどうも簡単ではない。簡単ではないというのは、原典の理解のことである。宗祖が読んでいた原典である。
宗祖の受け取り自体は難しくない。現存の平等覚経が符合している文意の理解もだいたい見当がつく。ところが,宗祖の引用がよく分からない。現存の平等覚経を紹介しよう。
従衆国来生者(様々な環境下にあってそこから私の学校に来ようとするものは) 皆悉来到此間(どんな条件にあっても皆、来ることができ、在籍中に) 一生(学生の段階で)得不退転(教育者として社会的に十分通用する能力を体得する)
若菩薩更興願(もし、教育者を目指して決意を固め) 欲使国如我刹(自分の学校を阿弥陀仏の学校のようにしたいと思うような場合)
亦念度一切人(あるいは、あらゆる人々に正しい道を伝え) 令各願達十方(それをあらゆる世界に及ぼそうと思えば) 速疾超便可到 安楽国之世界(直ちに阿弥陀仏の学校にやってくるとよい)
至無量光明土(阿弥陀仏の学校で、世界中の多くの素晴らしい学校の数々を見聞し) 供養於無数仏(世界中の学校で教えている無数の指導者達に触れる)。
532 :
渡海 難( p4147-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):01/12/29 21:00
親鸞の引用には、「若菩薩更興願 欲使国如我刹 亦念度一切人 令各願達十方」が無い。途中を抜く場合には「已上抄出」という言葉が入る。しかし,ここには無い。末尾は「已上」となっている。宗祖が見ていた経典では最初からこの部分が抜け落ちていたのだろう。
宗祖の読まれた原典でも落ちていれば、原典は次のようになるのか。
様々な国から来ようとする者は、全て私の学校に確実に到達し,在籍中に、学生の段階で、社会的に十分通用する能力を体得する。
直ちに阿弥陀仏の学校にくれば、阿弥陀仏の学校で、世界中の多くの素晴らしい学校の数々を教わり、世界中の学校で教えている無数の指導者達に触れるだろう。
「阿弥陀仏の学校で、世界中の多くの素晴らしい学校の数々を教わり、世界中の学校で教えている無数の指導者達に触れるだろう」
このような読解で正しいのかどうか、いささか不安がある。「到」と「至」の意味を読み切れない。
当時の大乗学校は,多くの情報を互いに共有し交換しあう、非常に開かれた存在だったようだ。
/⌒~~~⌒\
/ ( ゚>t≡ )y─┛~~
(_ ノγ U ∩_∩) 大変長らく御愛顧頂きました ┌───────┐
α___J _J このスレッドも (|● ● |
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ とうとう終了となりました。/.| ┌▽▽▽▽┐ |
/ ● ● ( ┤ | | |
|Y Y \誠にありがとうございました。\.└△△△△┘ \
| | | ▼ | | \あ\ |\ \
| \/ _人| ∧∧∩゛ ∧_∧ | \り\ | (_)
| _/)/)/( ゚Д゚)/ (´∀` ) __ n \が\. |
\ / 〔/\〕 U / ∩∩ ( )o/ \ ヽ \と\ |
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(__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ⊆_ ヽ_┘ └──┘(∩∩)
534 :
渡海 難( p2009-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/01 17:46
親鸞の読み方を追ってみよう。
釈尊先生から阿弥陀仏の素晴らしさ、その名声を聞き知ったものは心安らかになり、仏道修行者の仲間になった。仏になる身に定まった。
阿弥陀仏の素晴らしさを教わった者は、自分も大乗の仏果を求めようと決意し、横超の菩提心を得た。彼らは、自らの突き進む世界の中で極楽浄土の顕現を得ようと決意した。
阿弥陀仏は次のような意思を固め、その思いを世界中に発信している。阿弥陀仏は、法蔵菩薩の時、ある決意を固めた。
自分(阿弥陀仏)が人々に教えを説いていると聞けば、阿弥陀の世界に是非とも行きたいものだと、どんな人からも願われるようになろう。自分は必ず達成しよう。阿弥陀仏は、そう決意していた。
世界中、どこに住んでいる人でも、阿弥陀仏の世界に行きたいと思う者は、どんな人でも生きてる身のまま阿弥陀仏の世界に到来し、迷いの世界に後もどりすることがない。そういう状態を得る。
瞬時に阿弥陀仏の世界に到達する。そこは限りなき光の世界である。そこで多くの素晴らしい出会いを得るだろう。
「もろもろの国より来生せん者、みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん」。
「この間に来到」という言葉の意味が読みにくい。生きている間という意味だろう。「もろもろの国より来生せん者とは」、阿弥陀仏の国に行きたいと思う者はどこにいる者であっても、所在地は問わず」ということだ。
「この間」は、生きている間という意味である。そうであれば、「来到して」は、正定の聚(衆)の世界に加わるということだろう。不退転を得るとは、仏になる身に定まるということだ。正定の聚の一人になるということだ。
正定の聚とは、正しい仏道修行者の仲間ということである。正しい仏道修行者となれば、必ず大乗の仏になる。必ず大乗の仏になるから、大乗の仏になれないという状態に後戻りすることは無い。後戻りするようであれば、必ず大乗の仏になるということは言えない。
必ず大乗の仏になるのだから、不退転を得る。
このスレの内容は一個人の妄想の垂れ流しにつき、仏教関連の知識の浅い人は偏った先入観を植え付けられぬよう注意されたし。
536 :
渡海 難( p0207-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/02 10:52
537 :
渡海難さんへ:02/01/02 10:53
真宗チャンネルでやったほうが、荒氏が少なくていいと思います。
538 :
渡海 難( p0302-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/02 12:40
>>537 真宗チャンネルでもやってますよ。
2茶は貴重です。
2茶には、現代の真宗教団の縮図、実体が現れています。
真宗坊主の本音がガラス張りで見えます。2茶の景色が真宗教団の全部ではないでしょうが、紛れもない真実の一端は、見事に見せてくれています。一端かほとんどかは想像の世界ですけどね(笑)。
真宗教団、真宗坊主の世界などは、誠に醜い世界ですね。坊さんとの付き合いは、今はほとんどありません。腹蔵の無い真宗教団の実体を、僕は今、2茶で教わっています。その昔、曽我量深さんや金子大栄さんを放逐した教団の空気が、2茶からよく見えます。
曽我量深さんや金子大栄さんがいいとは僕は決して言いませんよ。いいとは決して言わないけど、この2茶にも優れた坊さんはほとんどいないようだ。優れた人は博物館のお蔵にでも入ってるんでしょう。自由を奪って世間の目に触れないようにしてる。多分。
ま、一人もいない可能性もある(笑)。
親鸞と蓮如を虫食いにするアホ坊主が盛んにのさばってる。昔は不思議だった謎、見過ごしてた謎が、2茶に来てはじめてたくさん解けました。
539 :
渡海 難( p7124-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/04 21:00
この功徳あるにあらざる人は、 この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつれる者、楽(この)んで世尊の教を聴聞せん。
現存の平等覚経の記述を紹介しよう。
其奉事億万仏(そのように、阿弥陀学校で多くの哲人・賢人の事柄を見聞きし) 飛変化遍諸国(哲人・賢人の世界観・人生観を学んでその認識界を自在に体験し) 恭敬已歓喜去(それぞれの偉大さに感動して尊敬の念を覚えて学習を終え)
便還於須摩提(学習が終わればすぐにでも平常に戻る<須摩提 〔意味未確認「平常」という意味か〕>。) 非有是功徳人(このような体験をしたことの無い人は) 不得聞是経名(この経典の名声の真の意味が聞こえてくることはできない)
唯有清浄戒者(ただ、正しく戒律を守る者は) 乃逮聞此正法(いつかはこの正しい教えを理解することができるようになる) 曽更見世尊雄(その上で更に大聖釈尊の素晴らしさを実感し) 則得信於是事(これによってただちに確信を得)
謙恭敬聞奉行(身を卑しくし、恭敬の念をもって真剣に聞き、真剣に実行すれば) 便踊躍大歓喜(直ちに大いに喜び、心は躍り上がるようになるだろう) 悪驕慢弊懈怠(ただし、悪心ある者、驕り高ぶる者、疲弊している者、怠惰な者は、)
難以信於此法(この阿弥陀仏のこの法の正しさを確信することはできないだろう) 宿世時見仏者(過去において、優れた教師に出会えた者は) 楽聴聞世尊教(よろこんで世尊のこの教えを聞こうとすることだろう) 。
宗祖が読んでいる経典は次の字句が欠落しているようだ。
「其奉事億万仏 飛変化遍諸国 恭敬已歓喜去 便還於須摩提」「曽更見世尊雄 則得信於是事 謙恭敬聞奉行 便踊躍大歓喜」
これらの文字が欠落していても、欠落した内容で読むことはできそうである。「この経の名を聞く」とは、「経の名声の真の意味が聞こえてくる」という解釈でいいだろう。
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/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
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/ モナーより /
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∧_∧ / /∧_∧
( ^∀^) / /(^∀^ )
( )つ ⊂( )
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(__)_) (_(__)
541 :
名無しさん@1周年:02/01/04 23:04
542 :
名無しさん@1周年:02/01/05 14:13
538だけは渡海難に同意するよ。
真宗教団は西も東もその他もろくなもんじゃないよ。
ま、真宗だけじゃなく伝統仏教、新興宗教、新新宗教みんな
組織化されてるところはダメだね。真理・真実を求める事より
自分の組織を守る事しか関心ないんだから。
だから本当に仏教の道を歩むんだったら、在家の私度僧だね。
自分の心の中で釈尊や最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などに
帰依するだけでいいと思う。自灯明・法灯明だしね。仏・法・僧の
三宝帰依は仏道の基本だけど僧が今現在の僧である必要はないもんね。
法然さんも過去の人・善導に帰依してるしね。
さげで書きこめ!
546 :
渡海 難( p3212-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/07 18:39
>>544 >本当に仏教の道を歩むんだったら、在家の私度僧
私度僧も悪くはない。でもそれは、鑑真和上来朝以前の話だ。仏典が定めている私度僧の要件は命がけだ。行基菩薩や弘法大師のような固い決意があるなら話は別だ。
私度僧の条件を満たして出家するほどの意欲があるなら、現代でも例えば天台宗や曹洞宗の門を叩いた方がいい。東大寺の得度授戒式はどうなっているんだろう。多分あるはずだ。そういうところの門は、少なくとも命の保証はあるだろう。
在家で仏道を歩もうとするなら、捨家棄欲を求めないでも、親鸞の浄土真宗で十分だ。浄土真宗なら酒も飲める(笑)。
>三宝帰依は仏道の基本だけど僧が今現在の僧である必要はないもんね。
ウーム。この考えは賛成できないな。気持ちは分かる感じだ。坊さんを尊敬するかしないか。最後は本人の選択。三宝帰依とは、今現在の僧に帰依しなさいということだ。現実の坊さんと対面して、自分にそれができるかどうかは別の問題。でも、三宝帰依は大事な教えだ。
僧に帰依しなさいということには、非常に深い意味がある。親鸞は伝教大師の言葉を引用して言う。伝教大師は大集経というお経を引用している。深い意味をゆっくり噛みしめたい。
大集の第九に云わく。たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。たとえば純金が世界中で一番高価である。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。無価とは、無限大という意味だ。鍮石とは真鍮だ。真鍮は金の偽物として発明された。
もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。偽の貴金属もなければ赤銅や白銅あるいは鉄が尊い。また、白鑞(はくろう)、鉛、錫が尊い。白鑞というのは半田合金だ。
547 :
渡海 難( p3212-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/07 18:40
仏法無価なり。世の中で仏法が最も尊い。仏宝がなければ、縁覚無上なり。縁覚とは耳学問の達人。物知りというところか。縁覚がいない場合には、小乗つまり基礎学問の修了者、つまり羅漢が尊い。羅漢もいなければ、その他の賢人、聖者が尊い。
賢人、聖者がいない場合、普通の人でも特に得定の人、禅定を修めている人が尊い。禅定を修めている人がいなければ、清く正しく仏道の戒律を保持する人が尊い。戒律を保持する人もいなければ、頭を剃り、袈裟を引っ掛けただけの形ばかりの僧が尊い。
仏道にある人であれば、仏道以外の道にある人に比べてはるかに尊い。この人は世の供を受くべし。社会から供養つまり積極的な経済的援助を受けるに値する。物のための初めの福田つまり、社会の幸せの原点である。
能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに。教行信証では「破能身衆生所怖畏故」とある。分かりにくい。人々の救いになる存在を傷つけることは恐ろしいことであるという意味か?。
最澄の原典では、「破」が「示」になっているようだ。「示」ならば、能く衆生に怖畏すべきことを示すが故なり」となる。
護持し養育してこの人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得んと。世の宝を正しく保護し、大切にすればやがて忍地を得る。忍とは認。認識。正しい悟りを得るという。
後の末世。釈迦の時代の価値観が通用しなくなり、戒律が戒律としての機能を失い、戒律を保持して修行を積み、悟りを得るというレールが無くなってしまった時代。
敢えて釈迦の教えに従ってひげと髪を剃り、身には釈迦の定めた法衣を、形だけ引っ掛けている形だけの僧、これも尊い。そういう人に経済的な協力をする人がいれば、それだけで限りない幸せを得るだろう。
548 :
渡海 難( p3212-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/07 18:41
戒律が崩れた時代には、現実には妻子を持つ僧も出現するだろう。僧とは言えない形だけの僧でも、四人以上の集まりがあれば、その人々を敬え。この人々を舎利弗、大目連等の代わりと思え。そして尊敬せよ。
破戒僧であるという理由で、殴打しあるいは罵っていけない。彼らが体に引っ掛けている法衣の意味を認識しなさい。体に掛けている法衣の意味を認識しないことは、無数の仏達から血を出させる罪と等しいほど悲しいことだ。
仏達から血を出させる罪とは、かつて堤婆達多という釈迦の従兄弟が犯した罪である。山から岩を転落させ、堤婆達多は釈尊先生の暗殺を謀った。釈尊先生は一命を保ったけど、怪我をされた。堤婆達多は、大地が裂けて生きたまま地獄に落ちていった。
出仏身血とは、地獄に落ちる五つ大罪の一つである。戒律が崩れた時代、形だけの僧を敬わない罪は五逆罪に等しいほど悲しいことだ。
戒律が崩れた時代であればこそ釈迦の法に一身を尽くそう。そう決意して頭とひげを剃り、法衣を着る者は、仮に戒律はなくても、全て、悟りに至る入り口に立つ。悟りに至ることが必ず約束される。それほど尊い存在である。
549 :
渡海 難( p3212-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/07 18:50
>>541 >フーンと軽くあしらう余裕が欲しいですね。
大丈夫ですよ。毒にも薬にもなりませんから(笑)。
550 :
渡海 難( p3212-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/07 18:52
>>545 >さげで書きこめ!
<普通に書いていいんですよ(微笑)。>
>546
渡海難は544をちゃんと読んでるのか?天台宗も曹洞宗も堕落しまくりで
もうダメなんだよ。まして東大寺で出家しても天皇の病気平癒や権力者の
無病息災を祈ったり文化財を保護してるだけで、釈尊が目指した世界など
微塵もないね。どんなに高い志をもってても朱に交われば赤くなるんだよ。
それに大集経や最澄のことを長々書いてるけど、大集経が書かれた時は今ほど
僧侶が堕落するとは想定できなかったのだと思うよ。そりゃ無戒名字の比丘でも
大切にしなさいと言いたい事はよくわかる。だけどそれはまがいなりにも一度は
出家して渡海難のいう>戒律が崩れた時代であればこそ釈迦の法に一身を尽くそう。
そう決意して頭とひげを剃り、法衣を着る者<こういう人間ならわかる。でも今は
そんな決意してる坊さんはいないし世襲制で意欲のない人ばかり。初めは高貴な意思
を持ってても組織教団に入るとそんなものではメシが食えないことをイヤというほど
思い知らされる。高僧・名僧と言われる人でも自分の身内には滅法甘いし弱いね。
僕は実体験から話している。『法滅尽経』という偽経があるんだけど、そこには末法
の時代も時間が経ってくると、悪魔・鬼神が仏弟子のふりをして法衣を身に付け、
仏教教団の中に入り込み、サンガの中から仏法を食い尽くし、ついには正法は滅び去る
という記述がある。確かに今の日本仏教の現状を見るとその通りだ。だから大集経が
成立した時よりもっともっと事態は悪くなってるんだと思う。そんなインチキ坊主に
帰依しなさいと釈尊がおっしゃるだろうか?人に依らず法に依れといわれている。
権威を振りかざし伝統という安全地帯で仏教とは関係ない先祖供養をなりわいとして
祟りや悪霊などのデマカセで人々を脅す。こんな物・者は百害あって一利なしだよ。
552 :
渡海 難( p6026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/08 18:38
>>551 >天台宗も曹洞宗も堕落しまくりでもうダメなんだよ。
既成教団に対する歯がゆさ、じれったさ、反発、憤り、僕には巧く表現できないけど、そんな思いのある人は多いんでしょうね。僕はあなたが既成教団とどの程度深いつながりがある方か知らない。既成教団について詳しい人はたくさんいると思う。
堕落。うん、堕落。堕落というのは、何を基準にした堕落?。もうダメというのは、昔はよかったということ?。現代は、昔を経過してきて今がある。今はもうだめなら、そんな今をもたらしてきた過去もダメだったんじゃないの。もうダメだというのもよく分からない。
>東大寺で出家しても天皇の病気平癒や権力者の無病息災を祈ったり
創立の契機を作ってくれた方々に感謝を忘れないということは大事なことだ。しかも、病気平癒や無病息災を祈っているというのは、一部の人向けじゃなく、全人類に対してだろう。代表者として天皇を例示することはあるだろうけど、狙いは普遍的なものだろう。
奈良仏教は、出家しても、出家した寺で死ぬまで飼い殺しというということなんだろうか。出ていく舞台がないということか。得度受戒すれば、自力で道を切り開くぐらいの気概は欲しい。
>文化財を保護してるだけ <文化財の保護は大事なことだ。それは当事者以外、誰も代われない。>
553 :
渡海 難( p6026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/08 18:39
>釈尊が目指した世界など微塵もないね。
釈尊の目指した世界は、全ての人の幸せだ。全ての人の幸せを願うことと、人々の病気平癒や無病息災を祈るということ、文化財を保護しようとすること、これらは決して矛盾しない。先人の足跡を壊滅することは、イスラム原理主義の野蛮な所行だ。
>どんなに高い志をもってても朱に交われば赤くなるんだよ。 <なるほど>
>大集経が書かれた時は今ほど僧侶が堕落するとは想定できなかったのだと思うよ。
どういう風に変化していくか、その変化の概要などはとても想定できてなかったと思う。予測不可能という想定ができていただろう。
時代、地域が変われば価値観は変わる。釈迦は、当時のインド社会の価値観に従って戒律を定め、その戒律を守ることを誓った人に入門を許した。価値観には寿命がある。基盤にした価値観の社会的妥当性の寿命が、千年も二千年も続くとは思っていなかったろう。
地域的にも限界がある。ヒマラヤ山脈の南側で妥当する価値観が、ヒマラヤ山脈の北側で妥当すると思っていたかどうか疑問だ。まして、海を隔てて東域でも妥当するとも思っていなかったろう。
堕落というのは、どこの価値観を基準にしているんだい?。
>無戒名字の比丘でも大切にしなさいと言いたい事はよくわかる。 <ウム。なるほど。>
>そう決意して頭とひげを剃り、法衣を着る者<こういう人間ならわかる。 <ウム。なるほど。>
554 :
渡海 難( p6026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/08 18:40
>今はそんな決意してる坊さんはいないし世襲制で意欲のない人ばかり。
腹立たしい具体的な人でもいるんでしょうか?。僕は坊さんとの付き合いは薄いけど、「世襲制で意欲のない人ばかり」という想像はつく。
ただ、人は外見じゃわからない。まして将来は分からない。今は意欲の無い人でも、将来はどう変わるか分からない。昔は意欲があっても、不幸があって一時的に挫折しているのかも知れない。
意欲が無いと思えても、他人とは違ったスケールでものを考えているのかも知れない。自分の価値観で他人を判断すると間違う。
「意欲的な人だな」と自分には思える人が、本当にいい人かどうか分からない。スケールを当てはめないでものを見ると言うことはあってもいいだろう。
スケールがないと、今まで見えていた物が見えなくなる。見えなかった物が見えてくる。そういうこともあるだろう。見えなかった物が見えてくることは大事だ。
>そんなものではメシが食えないことをイヤというほど思い知らされる。 <なるほど>
>高僧・名僧と言われる人でも自分の身内には滅法甘いし弱いね。 <なるほど>
>僕は実体験から話している。 <実感がある感じだ>
>ついには正法は滅び去るという記述がある。 <ウン>
555 :
渡海 難( p6026-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/08 18:41
>インチキ坊主に帰依しなさいと釈尊がおっしゃるだろうか?
<僕は仰ってると思うんだよ。坊主というか、本当は僧伽(さんが)なんだけどね。>
>人に依らず法に依れといわれている。
仏を尊び、法を尊び、僧伽を尊ぶんだ。僧伽を尊ぶことは人に依るということじゃない。法に依るということだ。人に依らないから、悪徳坊主がいても帰依できるんだ。
>仏教とは関係ない先祖供養をなりわいとして祟りや悪霊などのデマカセで人々を脅す。
人を騙す社会悪の教団は社会の力で壊滅させないといけない。社会悪教団は社会の力で壊滅させるということと、仏法を求める一人として僧伽を尊ぶこととは矛盾しない。
>こんな物・者は百害あって一利なし。
百害あって一利も無くても、千の害があって一利があればその一利は守るべきだ。一万の害がっあて一利があれば、その一利は守るべきだろう。それは、千の害を守ることではない。一万の害を守ることではない。一利を守ることだ。
百害あれば組織は早晩潰れる。潰さないといけない。千の害、万の害のある組織は、社会はいずれその存在を許さなくする。存在を許すことはむしろいけないことだ。社会に許されない存在は、いずれ寿命が尽きる。
しかし、僕らは、千の害、一万の害の中にまみれている一利は見失わないようにしたい。社会が千の害、万の害の存在を許さなくても、一利は死守したい。そこには釈尊先生の心が伝わっている。一利はやがて新たな真実を生む。釈尊先生の心を絶やしてはいけないんだ。
渡海難はやさしい人だね、こんな情けない伝統仏教教団にもまだ希望を
持っているみたいだし。僕がもうダメと言った理由は今の伝統仏教教団
は全ての人々の幸福を願っていないからなんだ。経済力のある者、教団
を守護してくれる者、社会的地位の高い者などにしか祈ってないんだよ。
仏弟子として生きていこうと決意した人は、文化財保護よりももっと大切
な事があるんだと思うけどね。
僕の言う現代仏教教団の堕落とは釈尊が決めた戒律が基準ではなく
(渡海難の言うように戒律は時代・地域によって変更されうる)
釈尊が願った全てのいのちあるものの幸福のために生きるという意志
が微塵も見られなくなったと言う事です。
確かに僕の見方に立てばという話しですがね。
具体的な話しをしましょう、僕は大阪に住んでるんだけど大阪には
沢山のホームレスがいる。これから冬の寒さが本格化してくると毎年
200カラ300人程の人が凍死する。その人達が死ななくてすむように
毛布やおにぎりを配る夜回りをしてるんだけど、伝統仏教教団は全く力を
貸してはくれないね。キリスト教団はまだその地域で活動している。お寺
の軒先で死にそうになってても見殺しです。どうしてこうなったんだろ?
釈尊や祖師方の教えはどこいったんだ?自分を犠牲にしても他者の幸福
に尽くすという崇高な仏教の理想はどこにいったんだ?行政や時代のせいか?
ま、ここで渡海難に愚痴ってても無意味だとはわかってるよ。自分でやる
しかないんだよね。でもそう言う仏教の理想に生きる集団をサンガというんだよ。
今の伝統仏教教団はサンガとはいえない。僕はそういうサンガを作りたいと思う。
557 :
渡海 難( p4024-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/09 08:34
>>556 >伝統仏教教団にもまだ希望を持っているみたいだし。
<抽象的な意味で僧の集まりは大事にすべきだと思っている。具体的な話じゃない。>
>社会的地位の高い者などにしか祈ってないんだよ。 <なるほど>
>文化財保護よりももっと大切な事があるんだと思うけどね。 <なるほど>
>幸福のために生きるという意志が微塵も見られなくなったと言う事です。 <なるほど>
>確かに僕の見方に立てばという話しですがね。 <なるほど>
>300人程の人が凍死する。 <こういう話を聞くと身震いするね。>
>伝統仏教教団は全く力を貸してはくれないね。 <そうかも知れないね>
>お寺の軒先で死にそうになってても見殺しです。
酒はあっても、寺は、血も涙もなくなったか。社会が寺に寄せる期待と、寺の現実の対応能力との間には、ギャップもあるだろう。
>他者の幸福に尽くすという崇高な仏教の理想はどこにいったんだ? <なるほど>
>自分でやるしかないんだよね。 <なるほど>
>仏教の理想に生きる集団をサンガというんだよ。 <見解は違うようだけど、気持ちは伝わってくる>
>僕はそういうサンガを作りたいと思う。 <尊敬する。可能なら注目したい>
『正法眼蔵』だったかな。(たしか『随聞記』のほうじゃなかったと思うんだけど)
におんなじような議論があるね。僧宝について。
ぼくがゆうのもなんだけど、仏法はだれのものでもないし、だれのせいでもないと思うよ。
まあ、渡海氏があんま酒でからむんでレスつけたくないけど(w
この件に関しては禿堂っす。というか、なかなかそこまで僧宝を見つめることってできないね。
僧宝に帰依する者の一人としては、法友と呼びたいね。仲良くはしないけどさ。へへ。
559 :
渡海 難( p0348-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/10 19:47
ヒトヤスミ。NBさんには明日以降。
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561 :
渡海 難( p1111-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/11 18:19
>たしか『随聞記』のほうじゃなかったと思う
随聞記は昔よんだな。出家礼賛で、少々嫌になった思い出がある。
正法眼蔵は、読む機会がなかった。今後も読まないだろう。禅にはある程度の手応えを感じた。専門家を目指すわけもないから、もう読むまでもないだろうと思ってる。
>あんま酒でからむんでレスつけたくないけど(w <苦笑>
>この件に関しては禿堂っす。 <ありがとう>
>法友と呼びたいね。仲良くはしないけどさ。へへ。
嫌われても法友と呼んで貰えたのは光栄だ。NBさんの好きな酒でも一緒に飲もうか。東京方面に来るときはあるんでしょ。一緒に飲めば、気分も変わるかも知れない(笑)。
562 :
渡海 難( p0049-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/11 19:01
人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。
人は頻繁に意思が変わる。意思が変われば行動が変わる。意思と行動が変われば、人格が変わる。有頂天になり、ケダモノになり、鬼となり、地獄にも堕ちる。ケダモノの心でケダモノの行動に突っ走っているときに、静かに自分を顧みて仏道に励むことができるだろうか。
有頂天になって心が舞い上がっているとき、静かに自分を顧みて仏道に励むことができるだろうか。人は自らの思いの多くを実現することはできないが、仏道に向かうことができるのは、人の心を持って人の行動をとれているときだけである。
有頂天になり、ケダモノになり、鬼となり、めまぐるしく生死生死を変動する我等が、たまたま真人間であることができる期間は、けっして長くない。
世の中に、優れた指導者、優れた教師がいても、そういう人に出会える機会は極めて少ない。自分で信じるものがあるとか、智慧があると言っても、自分の力でなんとかなるものでもない。
真人間でいられるとき、もしすぐれた指導者、優れた教師出会えれば、そのときこそ、意を決して学んで行きなさい。
563 :
渡海 難( p0049-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/11 19:02
平等覚経の著者は、これを誰に向けて呼び掛けているのか。現存の平等覚経で補充する。
譬従生盲冥者(仮に生まれつき目が不自由なれば) 欲得行開導人(手を引いてくれるひとを必要とする) 声聞悉或大乗(耳学問の達人である声聞は、皆、人から学んだり教えるということに意味を置く大乗の教えに戸惑う<或は惑と同義>)
何況於俗凡諸(耳学問の達人に及ばない通常の人であれば、なおさらである) 天中天相知意(天才の中の天才であればこそ、真実の意味を知る) 声聞不了仏行(耳学問の達人は、大乗の指導者の実行力を理解できない)
辟支仏亦如是(小乗の基礎学習をマスターしただけの人も同じである) 独正覚乃知此(大乗の自覚を得た者だけが次のとことを知る) 使一切悉作佛(あらゆる人々の認識を目覚まし) 其浄恵智本空(知恵は空を本質とすると知る)
復過此億万劫(今後、限りなく長い時間をかけ) 計仏智無能及(仏の知恵を推し量ろうとしても、及ぶところでもない) 講議説無数劫(限りなく長い時間をかけて講義を聴き) 尽寿命猶不知(一生をかけても知ることはできない)
仏之恵無辺幅(仏の知恵には限界がない) 如是行清浄致(そのように実行して清らかさの極限を極める) 奉我教乃信是(釈迦の教えを尊び、しっかり心に抱けば) 唯此人能解了(その人だけが正しく了解する) 仏所説皆能受(仏の説くところを全て正しく受けること)
是則為第一証(これが真の悟りである) 人之命希可得(人が真人間でいられる時は短い) 仏在世甚難値(真の指導者に逢うことは極めて困難である)
有信恵不可致(自分の知恵で及ぶ世界ではない) 若聞見精進求(他から聞きあるいは他で見たなら、大いに努力して学んでいきなさい)
>>561 いえいえ、こちらこそ。そんときゃよろしくお願いします。
東京方面といえば昔一瞬だけ池袋に下宿してましたねえ。なつかし。
ああ、それから、嫌ってなんかないですよ。むしろお慕い申し上げております。
むかつくことは多々ありますけど(w
もともとぼくがコテハンみたいになったのも渡海さんのおかげですしね。
仲良く馴れ合いはしない、ってだけの話で、だからあんまり、さんづけしませんけど。
まあ、権化の仁。(ってのも恐れ多いけど)念仏のみぞ真にておわしまさば、ね。
ああ、渡海さんの場合は親鸞のみぞ真でしたっけ。ぼくの知らない人(w
565 :
渡海 難( p4179-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/12 22:25
>>564 >そんときゃよろしくお願いします。
NBさんが東京に来るときがあればそのときはオフ会でもやろうか。
僕とNBさんが来ると言えば、2茶の人も来るかも知れない。僕とNBさんがオフ会(こんにちわ会)でもやるといえば、ぺぺ2号さんや難度海沈降さんなんかもくるかな。「渡海 難の勝利宣言!!」なんていう幟(のぼり)をたてて、ドンチャン騒ぎでも始めるか(笑)。
>東京方面といえば昔一瞬だけ池袋に下宿してましたねえ。なつかし。
一瞬の下宿って?。一瞬ってのは、一泊だけしたということ。西池袋はラブホテルの本場。ラブホテルにでも泊まった?
>むしろお慕い申し上げております。 <光栄ですね。>
>むかつくことは多々ありますけど
<むかつける相手があるということはいいことだ。若さの証拠だ(笑)。>
>仲良く馴れ合いはしない、ってだけの話で、だからあんまり、さんづけしませんけど。
<どうぞお構いなく(笑)。>
>まあ、権化の仁。(ってのも恐れ多いけど) (・_・??
>念仏のみぞ真にておわしまさば、ね。 (・_・??
>ぼくの知らない人(w (・_・??
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あーーったく、すぐこれやから、ほんと。こんにちわ会なんて知ったこっちゃないね。
やさしい言葉にこわれやすいお調子モンなのか、それとも単なる品性下劣なのか、
見極めのむずかしい所やね。
こんなかんじ?(ww
☑ฺお調子モン
☑ฺ品性下劣
568 :
渡海 難( p0928-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/13 00:07
>>567 アチャッ q(≧∇≦*)(*≧∇≦)p (笑)
569 :
渡海 難( p0483-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/13 11:27
この法を聞きて忘れず(聞是法而不忘)、すなわち見て敬い(便見敬)、得て大きに慶ばば(得大慶)、すなわち我が善き親厚なり(則我之善親厚)。これをもってのゆえに(以是故)道意を発せよ(發道意)。
たとい世界に満てらん火にも(設令満世界火)、この中を過ぎて法を聞くことを得ば(過此中得聞法)、かならず当に世尊と作りて(會當作世尊)、将に(將)一切生老死を度せんとすべし(度一切生老死)、と。
親鸞が引用したこの部分の表面的な意味は決して難しくないだろう。大事なのは、平等覚経の著者が、釈迦という登場人物の口を介して訴えようとしていること。それは何かということ。更に親鸞が言いたいこと。それは何かということだ。
両者の間には開きがある。両者の考えをきちんと区分することが必要だろう。
学校はどうあるべきか。平等覚経の著者は手本とすべき学校の姿を明らかにする。多くの哲人・賢人の事柄を見聞させ、哲人・賢人の世界観・人生観を明らかにすべきである。こうしたことの重要性は、指導者自身が自分で経験していないととてもできることではない。
教育者を目指す人は、正しく規律を守りながら、大聖釈尊の素晴らしさを実感して学んでいかないといけない。小乗の基礎段階を終えても、それで満足してはいけない。さらに釈尊先生の教えを学び続けていかないといけない。小乗の基礎段階を終えればそれで終わりではない。
むしろそこを真の出発点にして学んでいかなければ、理想の真の学校は建設できない。平等覚経の著者はそう言っている。
570 :
渡海 難( p0483-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/13 11:28
親鸞は阿弥陀の名声との出会いの意義を平等覚経に求めている。この功徳あるにあらざる人は、 この経の名を聞くことを得ず。
この功徳というのは、前世において多くの仏を供養したという功徳だろう。前世において多くの仏を供養したというのは、譬えであり、喜びの象徴と考えるべきだろう。
我々の愚かさは、我々の誕生で始まったものでなく、我々の死で終わるものでもない。無限の過去から無限の未来に向かって貫徹する愚かさの中にあって、我々は、生まれ、病み、老い、そして死す。死んで生まれ、死んで生まれ、愚かさをくり返す。
我々自身の本性の中には、仏の真実に出会える原因となるものは何一つ存在しない。迷い、迷い、迷っていく中で、真実なものは本質的に何ら存在しない。それにも関わらず、我々が奇しくも仏の名声に出会えたとすれば、その事実はどう考えたらいいのだろう。
我々は、仏の名声に出会えているのか。出会えていないのか。出会えていなければ、それは誠に自然なことである。我々には出会えるはずもないものだからだ。しかし、出会えているとしたら、それはどう考えるべきか。
自分自身の予想を超え、想像を超え、実に計り知れないおおきな働きに与っているとしか言いようがないだろう。前世において、思いがけなくも大きな働きに出会ってくださっていたものがあった。そのように喜ばざるを得ないではないか。
ただ清浄に戒を有てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつれる者、楽(この)んで世尊の教を聴聞せん。
仏の真実に出会える人は、本質的には清浄に戒を保てる人に限られる。清浄に戒を保てる人だけが正法を聞く。悪と慢と蔽と懈怠のものは、 この法を信ずることはできない。
571 :
渡海 難( p0483-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/13 11:29
前世おいて正しく仏に出会えた者だけが、心から喜んで世尊の教を聴聞できる。
戒もなく、悪と慢と蔽と懈怠の自分がどうして仏に出会えようか。今まで一度も仏に出会ったことの無い自分がどうして仏に出会えようか。それにも関わらず、今、自分はその仏の名声に出会えたではないか。
人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。
誠に奇跡に近い。人が仏に出会える機会などは、今の奇跡を逃せば二度とないだろう。世の中には仏という指導者がいても、それに我々が出会えるということなどは、まさに不可能である。今のこの出会いは自分の思慮を超える。
もし、奇しくもいまその名声に出会えたなら、この機を決して逃すことなく、こんどこそ力一杯求めて行こうじゃないか。
この法を聞きて忘れず、すなわち見て敬い、得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親厚なり。釈尊先生はいう。今出会えたこの阿弥陀仏の法を聞き、心に刻み、仏を敬い、心に仰ぐ者は、自分の善き友である。先生はそのように喜んでくださっている。
これをもってのゆえに道意を発せよ。ボールは投げられてきた。ボールはもったまま持ち逃げするのか、打ち返すのか。さあ、ボールは大きく打ち返そう。この機を逃さず、今出会えた仏を更に、今度は積極的に自分の方から求めていこう。
世界中が炎に包まれようが、その中でもひたすら仏の真実を聞いていく者は、やがては必ず自らも仏になるだろう。多くの人々の苦悩を救う人になるだろう。まさにそのようになっていこうじゃないか、と。
あげ
>>572あげるな、渡海信者!
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574 :
渡海 難( p4003-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/16 21:35
今日はアゲだけ。
糞スレあげんな!埋めるぞゴルァ!
ヽ \
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∧_∧/  ̄ 、
(;´Д`) i i
/ ヽ _ i i i--、
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/ \ヽ/| | ノ__ノ..
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/ / > ) \ ノノノ
/ / / / .\_ ザックザック
し' (_つ /:::::/::... /ヽ
; "ノ・ ./∴: / )i iヽ-、_へ ,ヘ
'',, : :―― / / i i i iヽ . ̄ ゛― ノ / ←渡海
n_ _/; i .ノ / /ノ-' ̄ ゛ ― 、__ノ
_ノ 二二二、_( 。Д。 )-ヽ_ノ-'
゛ー ''~ ∨ ̄∨
576 :
渡海 難( p3040-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/19 17:57
ちょっと多忙。アゲ
/ ̄ヽ
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/ヽ _+_/ヽ このスレはもうすでに終了致しております。
|_l | l_| ご利用の皆様には大変ご迷惑を
ヽ.|=ロ=|/ おかけしてどうもすみませんでした。
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(_|_) (株)2ちゃんねる建設
苦笑
577に催促されちゃったよ。忙しいのに。
579 :
渡海 難( p0015-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/19 20:49
親鸞は悲華経を引用する。悲華経は全六巻の経典らしい。転法輪品、阿羅尼品、大施品、諸菩薩本授記品、檀波羅蜜品、入定三昧品と、ある。引用文は大施品ではない。授記品にあるという。宗祖の記憶違いだろうと言われている。宗祖の間違いは外にもある。
人間が書いていればミスもある。教行信証などはかなり慎重に書いてある方だろう。宗祖にも人間的なミスもあると考えると、行の巻の平等覚経の引用も、本当は最後を「已上抄出」と書くべき所だったのかも知れない。
平等覚経引用の末尾は、単にミスで「已上」と書いてしまっただけかも知れない。宗祖の単純ミスなら話は通じる。
悲華経に戻る。悲華経は、大無量寿経の異訳ではない。中国では起原が異にする。しかし、内容は大無量寿経に近い。インドでは思想的に極めて近い流れの中にあった寺院学校で作成された経典だろう。
『悲華経』をなぜ引用しているのか。
名を称すれば、効果的に一切のあやまちの根元を打破し(名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し)、衆生の一切の願望を効果的に成就する(能く衆生の一切の志願を満てたまう)。
称名は卓越した実践行である(称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。)。実践行というのは念仏である(正業はすなわちこれ念仏なり。)。念仏というのは、南無阿弥陀仏である(念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり)。
南無阿弥陀仏というのは、精神の優れた実践行である(南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なり)。
親鸞が諸仏称揚の願で、くり返し主張することがある。仏にとって名が称えられるということは、名誉を得ることではない。これはより多くの人に真実を届ける行為なのだ。親鸞は、称名を求める仏の心を仏の側から明らかにしている。
580 :
渡海 難( p0015-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/19 20:50
釈尊先生は、絶大な名声を得た。絶大な名声を得るということは、釈尊先生にとっては当たり前のことだったのだろう。名声を得たことは、先生が素晴らしい名誉を勝ち取られたということでない。我々に真実が届けられたということなのだ。
親鸞は、仏が名声を得るということの意味をそのように教えてくれている。
無明を破す。衆生の一切の志願を満たす。これはどういう意味か。生を得しめんという。これは、極楽浄土に往生するということだ。念仏者になるということだ。仏道修行者の一人に加わるということである。仏道修行者の一人に加われるという真実を届けてくるということだ。
念仏を称えれば誰でも仏道修行者の一人に加わるのか。そうじゃない。五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かん。親鸞は、表向きの原則論を紹介するに止める。裏も表もない真意は大無量寿経でしめす。表向きと真意を巧みに使い分ける心憎い演出がある。
581 :
渡海 難( p0073-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/20 09:27
<誤> 表向きと真意を巧みに使い分ける心憎い演出がある。
<正> 表向きと真意を巧みに使い分ける心憎い演出がある。表向きの議論はまだ先がある。先のある議論では方便の経典を使う。方便の経典を使うことで、先のある議論であることを予感させている。
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/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
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/ モナーより /
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(・∀・ ) <渡海:ぼくのオナニーみてくれよ!
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/_( ,,)__/ / ┌─────────
|| ̄/ | ̄ ̄||/ <ふざけんな!ゴルァ!
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585 :
渡海 難( p3043-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/21 17:12
アゲ
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( )
| |←渡海
| | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・∀・ ) <ぼくのオナニーみてくれよ!
) ( \____________
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∧ ∧ / /|
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|| ̄/ | ̄ ̄||/ <ふざけんな!ゴルァ!
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┌───────────────────────
│兄さん、ここがどうやら例の渡海専用オナニースレみたいですよ。
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│覗いてみたらウザイだけだなあ
/⌒\ └──v───┬────────────────
( ) │座禅念仏するとご利益???フーン。
| | └─v───┬──────────────
| | │ああ先生だとよ
| | ∧_∧ ∧_∧ └────────y─────
( ・∀・) (´Д` ) ( ´_ゝ`) ξ
/" \ / \ / ./"つ ヽ, つ─┛ ∧∧ 〜♪
| | | | | | ∬ .| |. | / ∬ヽ ノ (゚ー゚* ∧∧
ヽヽ./\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄且 ̄ ̄ ̄ ̄且 ̄ ̄\ /´ /⌒(゚Д゚ )
∧_∧/※,,,, \ \/ / (~冫
,(・∀・ )⌒ 》※ / ̄ ̄ ̄∧ ∧ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ-l | | |ヽ
⊂二丶 ノ ノ))/ ※ /⌒(*゚∀゚)へ ※ ※ ※ ※ ※ ヽ\ヽ .ノ| _ノ
⊂二二二 ノ, /※ 《| ヽ/"つ l |》 ※ ※ ※ ※ ※ ヽ (_)l⌒Y⌒l
(:.:.) (:.:.):):):)〜〜《 ヽ _ /⊂ _.丿》〜〜〜〜〜〜〜〜ゝ ⌒Y⌒
(×××) /|" ((:.:.) (・∀・) ハヤクコウリンシロ!!ソシテカエレ!!
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| アーヒャヒャヒャヒャ!! トウミカタシハイッテヨシダナ!!オナガイダカラヨ!!
/| \________________________
./ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 早く渡海難が氏んでくれないと、宗教板は終わりだな〜!!
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588 :
渡海 難( p3043-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/29 19:20
アゲ
589 :
渡海 難( p1249-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/01/29 19:34
上げるのは勝手だが、僕の名前は使わんでくれ。
偽物は困る。
おいおい、のんきにあげてる場合か、渡海さん。別スレでこんなことになってるじゃないか。
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| |_∧| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| |`∀´) < おまえも逝くモナ
( 渡海) \__________
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(__)_)
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| (
| ⊂ `∧ ∧
| ヽ(*゚ー゚)
| ∪∪
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
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|_____| グチャ
| ,.:. '.;§, |;
., ,・倒_@δ,_|,.': ;
,: 。'∽(__)_)β 。,.・;
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
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| エ〜イ♪ ☆彡
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| ∧_∧ /
| (*゚ー゚)/)
| ⊂ く
| ノ つつ
592 :
名無しさん@1周年:
age