93 :
錯乱の扉 1:
94 :
錯乱の扉 2:2005/06/29(水) 22:17:46 ID:IoWqUm93
95 :
錯乱の扉 3:2005/06/29(水) 22:24:04 ID:IoWqUm93
「錯乱の扉を開けたのはおまえか」と、
オゾノ・コブラノスキーは言った。
突然の展開に呆然と立ちつくす平沢の額に、4発の電撃が走る。
丸めた日経新聞で、一言毎に平沢の額を叩きながら
オゾノ・コブラノスキーは言った。
お
・
ま
・
え
・
か
ぁ
?
96 :
錯乱の扉 4:2005/06/29(水) 22:42:37 ID:IoWqUm93
「平沢」 は、はい・・・
「オゾノ」 確かにこのダンボール製の扉には
「画王 ビデオ付き」と書かれてはいるが、
れっきとしたわしの住まいへの入り口じゃぞよ。
「平沢」 何故 錯乱の扉と?
「オゾノ」 なんかこう、深淵な感じがするじゃろうが。
そういってコブラノスキーは平沢をダンボールの住まいへと招き入れた。
言問橋の橋げたを利用したコンクリート製の壁を除いた3方は、
電化製品の名前が入ったダンボールで囲まれている。
そのうちの一面、ツートップ社の通販に使用されるダンボール箱を
利用した壁には、マジックで幾つかのスイッチやボタンが書かれていた。
「オゾノ」 間もなくオマエが来るじゃろうと思って用意しておいた。
「平沢」 用意って、何の・・・
「オゾノ」 オマエは相変わらず自分の事が解っとらんようじゃ。
なら教えてやろう。オマエはマンドレイクの記憶を
呼び戻しに来たのじゃろうが。
そう言ってコブラのスキーは、マジックで書かれたボタンの一つを指さした。
「オゾノ」 押せ。
「平沢」 押せって、でもこれ・・・
平沢の額に再び日経新聞の電撃が走る
!
い
か
・
ん
・
さ
・
お
平沢は、「発端」と書かれたボタンを押した。
かい!
ん ・
お ・ さ ・
「平沢」 は、はい・・・
「オゾノ」 確かにこのダンボール製の扉には
「画王 ビデオ付き」と書かれてはいるが、
れっきとしたわしの住まいへの入り口じゃぞよ。
「平沢」 何故 錯乱の扉と?
「オゾノ」 なんかこう、深淵な感じがするじゃろうが。
そういってコブラノスキーは平沢をダンボールの住まいへと招き入れた。
言問橋の橋げたを利用したコンクリート製の壁を除いた3方は、
電化製品の名前が入ったダンボールで囲まれている。
そのうちの一面、ツートップ社の通販に使用されるダンボール箱を
利用した壁には、マジックで幾つかのスイッチやボタンが書かれていた。
「オゾノ」 間もなくオマエが来るじゃろうと思って用意しておいた。
「平沢」 用意って、何の・・・
「オゾノ」 オマエは相変わらず自分の事が解っとらんようじゃ。
なら教えてやろう。オマエはマンドレイクの記憶を
呼び戻しに来たのじゃろうが。
そう言ってコブラのスキーは、マジックで書かれたボタンの一つを指さした。
「オゾノ」 押せ。
「平沢」 押せって、でもこれ・・・
平沢の額に再び日経新聞の電撃が走る
!
い
か
・
ん
・
さ
・
お
平沢は、「発端」と書かれたボタンを押した。
98 :
錯乱の扉 5:2005/06/29(水) 22:57:48 ID:IoWqUm93
発
端
汚いスニーカーに乞食のようなコート。
よくもまあ上から下まで同じものを買い揃えたと思う程、
ジミーページ(原文ママ)にそっくりのいでたち。
勿論ヘアースタイルもそっくりそのままジミーページの少年が、
平沢の前に立ちはだかった。
モトクロス用のバイクに「水対策」を施す手を止め、
長い髪を後ろに束ねながら平沢は彼を見上げた
「中村さんに、゛平沢に会いに行け゛と言われて来たんだけど」
とジミーページは言った。゛中村さん゛とは、リンド・アンド・リンダーズ
の前身ともいうべき、゛THE DOCTORS゛のリーダーであり、
ギタリストである。アングロサクソン系の血統で、長身、色白。
モズライトの哲人、中村さんは「日本の音楽業界はゴミだ」とはき捨て、
あっさりと牛乳屋になってしまった。彼こそが14才の平沢に
「キンクス」や「アイアン・バタフライ」を教え、
「日本の音楽界はゴミだ」という心を植え付けた張本人だ。
(中村さん、ゴメンナサイ。この音楽界は今もゴミです)
ジミー・ページは 安部 フミヤス と名乗った。
「一緒にバンドやらない?」と安部は言った。
「悪いけど、もう音楽はやらないんだ」と答えたものの、
安部の本格的?ないでたちには興味をそそられた。
「で、どんなバンドがやりたいの?」という問いに安部は、
「錯乱した音楽」と答えたのだった。なんかこう、深遠な感じがした。
MANDRAKEが産声を上げた高校3年の春であった。
99 :
錯乱の扉 6:2005/06/29(水) 23:08:08 ID:IoWqUm93
実はこの後の約1年間、平沢と安部は、バンドらしきことはほとんどせず、
ただ新宿で遊びほうけるのみであった。
そして1年後のある日。
ロック喫茶「サブマリン」の帰り道、どちらから切り出すでもなく、
「そろそろまじめにバンドやろう」
という話題になる。ようやく、なる。
すでに腰まで伸びた髪をなびかせ、二人は゛新宿エルク楽器゛へ直行する。
「メンバー募集の張り紙をしよう」と、
一瞬にして話しはまとまったのだった。
メンバー募集、当方ブラックサバスのような
へヴィーロックを目指す2人組み。
担当楽器不問。仕事有り。
担当楽器不問?いい加減なもんだ。ちなみにこの時、安部も平沢も
ギタリストである。仕事有り?こいつがクセモノなのだ。
「平沢」 いてっ!!
「オゾノ」 そこまでいっ!!
気がつくと平沢は、再びコブラノスキーと共に居た。
日経新聞の筒が折れ曲がっていた。
「オゾノ」 そこから先は、次のボタンを押さねばならん。
ボタンは押された。
ネタ職人乙
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/30(木) 00:54:40 ID:J50w+KBs
ほのぼのマンドレイク
ネタ職人ヒラサワ
スキャンのほうがうれしいんだが
そうか、じゃあもうやめるわ。
元ネタはなんだろう?
続けてちょ。
アンリリースド,マテリアル付録小冊子『錯綜の扉』だったかと。
107 :
105:2005/06/30(木) 13:08:18 ID:u6e4t1MB
2枚とも普通に店で買っちゃたから持ってないや(ノ_・。)
テキストだけなら以前アップしてるサイトがあったから(今はもう無くなってるぽ)
生の印刷物の中身も見てみたいんだよな…苑もたまに出てるヤフオクの画像も
たいがい画像は表紙だけだし。
!
い
か
・
ん
さ
っ
お
>>108 素っ気無いコピーを閉じたヤツって感じだよ。
112 :
錯乱の扉 ×:2005/07/01(金) 23:24:25 ID:v1nu7qi2
>112
説明も何も無しでいきなり前触れもなく始めるのは構わないが
ちょっと煽られただけで拗ねるのは厨房なのも甚だしい。
二度と(・∀・)クルナ!!
114 :
108:2005/07/02(土) 01:55:06 ID:18ekAfwK
じゃ一応補完しときます。なんだかなぁ。
でも最初に言っとくけど、前に書いたように俺の手元にもブツそのものは無い。
以下は
>>108で書いた無くなったサイトからのコピペなんでそこんとこヨロ。
いつかスキャンでうpしてくれる神が降臨するまでこれでつないでちょ。
以下「錯乱の扉・1」
>>99の続きから。
ちなみにすんごく長くなると思うから、ウザかったら一旦やめるんで言ってちょ。
プダ高
ロン島
ジス屋
ェパ
ク|
トテ
ィ
|
・
東小金井駅改札、に応募者は集合した。腰まで伸びた長髪にサングラス。
ギターケースを抱えた男は申し分なく恐そう。
そして、茶髪のきれいな直毛男はカール・パーマー風に決めながら、
何故かゲタばきでスティックを持っている。
張り紙を見て集まったのは以上2名。
サングラスは田中 靖美。茶髪は田井中 貞利であった。
かくして、MANDRAKE-高島屋デパート社員
ダンスパーティー・プロジェクトは始動した。
まあ、”仕事”には違い有るまい。
東京農工大の一室を占領したMANDRAKEは、
約一週間でブラックサバスを5曲カンコピした。
おっと、3人のギタリストはどう処理されたのかという疑問をお持ちか?
初日のギターバトルの結果、田中はベース、安部はボーカルへと無事、
配置変えとあいなったのであった。
かくして5曲のレパートリーを繰り返し演奏し、
MANDRAKEは初仕事を終えた。
あなたは、ブラックサバスで踊る高島屋の店員を見たことがあるか?
19
才
の
過
ち
初仕事を終えたMANDRAKEは、
5曲のブラックサバスを惜しげなく捨て、
オリジナルづくりに精を出した。
しかし、今のように出演出来るライブ・ハウスなどは無い。
更に当時は、どんな業種でも”長髪不可”である。
メンバー達は肉体労働業を転々としながら食いつないだ。
そんなある日、安部が突然バイオリン持参でリハーサルにやって来た。
この事件がMANDRAKEを”ブラックサバスのような”から
”プログレッシブ・ロックのような”グループへと
変貌させるきっかけとなった。
”バイオリンを使うバンド”は、なんかこう深淵な感じがした。
その後間もなく、演奏時間が19分を越える
「錯乱の扉」は完成した。
ちまたでは、バンドといえばハードロックの1973年。
平沢、19才の過ちであった。
待ちに待った学祭への出演依頼が来た。
忘れもしない屈辱の日がやって来た。
立教大学のコンサート実行委員は冷たく、
MANDRAKEを”お前たち”と呼び、PA装置の運搬まで要求した。
まあいい、これで演奏できるのだから。MANDRAKEは、
学内バンドの前座として第一番めにステージに立った。
持ち時間は20分。ちょうど「錯乱の扉」のサイズであった。
会場には数百人の聴衆がいた。メンバーの胸は踊った。
「やっと大勢の前で演奏できる」
「錯乱の扉」のイントロが儀式のように始まる。
だがしかし、いよいよこれから歌のパートというその時、
聴衆の一人が叫んだ。
「スモーク オン ザ ウォーター やれー!」
公園などによく置かれている鉄網制の大きなごみ箱が
ステージに投げ込まれ、田中に当たった。
学生さん達は酔っぱらっている。ごみ箱がもう一つ、またもう一つ
ステージに飛んだ。聴衆は「帰れ!」の大合唱をはじめる。
「危険だ、もういい」と、平沢は演奏なしで歌い続ける安部に
耳打ちし、ステージを降りた。その後、MANDRAKEの機材は
あっという間にステージから撤去され、会場は学内バンドの
「スモーク オン ザ ウォーター」で大盛り上がりとなったのだった。
中村さん、僕らは間違っていたのですか?
錯乱の扉 インタビュー
中野・・・メカ野 松本・・・(マーキー編集長)
中野:ギター少年だった事とかは昔のインタビューで拝見したんですが、
そこからP-MODELまでの間の話ってあんまり聞いたことがないんで
そこら辺からお願いします。どういった経歴でマンドレイクに至ったかと。
平沢:ギター少年以降、いわゆるブリティッシュロック、アニマルズ、キンクス、
渋いところでサヴォイブラウンとかキッチンシャックとか。
当時キンクスってプログレッシヴロックって呼ばれてたんですよ。
大英帝国かな、ライナーにプログレッシヴロックって書いてありましたよ。
プログレって言葉が定着する前で、そうこうするうちにジミヘンとか
いわゆるアートロックなんて言葉が出て来て、そのあたりで
スプーキートゥースとかあめりかですけどアイアンバタフライ(注1)
とか変な物に流れて行くんですね。で、ぼちぼち新宿に出入りし始めて、
高校生の時だから16〜7で。70年前後・・・髪の毛これくらい
(腰のあたり)ありました。当時珍しいでしょ。高校生で長髪ってのは。
上の高校の誰それと、どこそこに誰と、数える位しかいなかった。
中野:学校で怒れれませんでした?
平沢:怒られましたよ。勿論。
京橋高校の長髪二人ってのが有名なのがいて、
ワタシは本所の長髪。
この3人で新宿ブラブラしはじめまして、
サブマリン(注2)に入り浸って、そのころは流れでブラックサバス。
サファリジャケット来て十字架下げて歩いてまして。
その頃ようやくバンド始めようってことになって。
ブラックサバスって構成があるじゃないですか。
そのうち、一人がヴァイオリンを弾き始めた。
そうすると形的にはプログレっぽくなってきますわなあ。
そうこうしているうちに形態で意識し始めてクリムゾンとかに至ると。
松本:感じとしてはヘヴィなものをやると。
平沢:プログレには自然になっていったという。
中野:雛形があってそれを目指した訳ではないと。
平沢:それでもサバスっぽかったですけども、その後、
ELPとかフィルム見たりして、刀突き刺すの見たり、
「こらあカッコイイなあ」と(注3)。「これは何ていうんだ」ってことになって
プログレちゃんと聞き始めたと。
中野:その時はもう田中さんとかいたんですか?
平沢:田中はベースでした。今回の4ではベーシストは田中ですよ。
キーボードなしで。後に入れましたけど。
中野:じゃあクリムゾンとかイエスってのは後から聞いたんですか
平沢:そうですね。特に早く聞いた訳ではないです。
松本:71年前後かなあ。
中野:イエスの危機が73年かなあ。
平沢:そんでまあ、そういった音楽形態の情報と共に
考え方とかも入ってきますよね。
中野:歌詞はいつ頃から書いていらっしゃったんですか
平沢:あのね、大分後なんですよ。ヴォーカリストがですね気紛れな奴で、
練習に来なくなった時に歌う人がいないから歌わにゃならんと、
それまでは英語だったんです。英語は恥ずかしい。(笑)書けない。
そもそも相当インチキな英語だったし。じゃ日本語ってことで書き直して。
中野:平沢さんの歌詞って独特のものがあると思うんですけど、
文学少年だったとかはないんですか。
平沢:全然ないんですよ。SFはそこそこ読んでましたけど、
高校生のとき読書しないんで兄貴に怒られた記憶があるんですよ。
殆どロクな本は読んでないですね。で、兄貴がバンドやってたんですよ。
そこでヴォーカリスト兼歌詞を作る人間がいて、相談したんですよ。
そしたら宮沢健治を読めと言われて、幾つかは読んだか。
中野:そこらへんからフルヘが出るんですか
平沢:宮沢健治からは出てこないと思うけど
中野:当時のバンドってメジャーからレコード出てても
せいぜいジャンジャン(注4)、全く食えない状況ですよね。
さらにプログレなんて聞く人少なかったでしょう。
平沢:ライヴやる場所ないですね。年代はさだかじゃないけど、
浦和ロックンロールセンター(注5)が銀座の奇跡といってヤマノ楽器の
隣かなんかで金曜日なんかに借り切ってライヴハウスやってたんですよ。
そこにあんぜんバンドとか出てて、そこに行って出演交渉したんですが、
なくなっちゃって。しょうがないから学祭、ジャンジャン、
そのうち吉祥寺にミラージュが出来て。(70年代初頭に存在した
プログレライヴハウス)すっごい狭いんですよ。
真ん中に掘りコタツみたいな円形の席があって、
バンドがお客を囲むように演奏するっていう(笑)
メロトロンなんて置けないっていう。当時の動員って、
コスモスファクトリー(注6)が20人いかないんですよ。
あそこではマンドレイクが動員の記録作った。
それが20人。もうパンパン。
中野:内装凝ってて、スモークマシンならぬドライアイスバケツ出してくれるの。
平沢:そのうち渋谷の屋根裏(注7)に出られるようになって、
一度千葉のプログレ集団みたいなのどっかの会社のエライさんが趣味で
プログレやってて、定期的にホールでライヴやるんでそこに
コスモスファクトリー呼んで前座やったり、
ブルースクリエイションの前座やったり。
それで吉祥寺にDAC801(注8)スタジオが出来て、知り合いがDJをやってて
月イチ位で演奏したと。その当時で50人ようやく。
新月は知り合いでDAC出るようになったんだけど、一緒には、ないと思う。
蕨に「にんじん」浦和ロックンロールセンターが週一でレストランを
ライヴハウスにしてそこにスペースサーカス(注9)とか一緒にやって。
この時お客3人です。丁度プログレやらフュージョンやら
ゴチャ混ぜになって枝分かれしていく時期ですね。
錯乱の扉 注解釈
1 この話に出てくる70〜2年頃のロックバンドだが、かなり当時としてはマイナー
なものばかり。
この時期はフーも人気的にはB級だった。
2 新宿に今なお存在する超老舗ロック喫茶。ロックのかかる喫茶店なんて
当時数えるくらいしかやっていなかった。←ゆえに「新宿に通う」のである。
3 ヴィデオがなくTVでは勿論ロックなんて放送されなかったので、
動いてるロックミュージシャンを見るのためにフィルムコンサートというモノが
開催された。
プロモとかライヴとか、見るバンドすら選択の余地などない。
ハナシのELPはオルガンに日本刀を突き刺すアクションが度肝を抜いた。
が、去年(1996)再結成来日の時もやっていた。
4 当時のぴあにはジャズ、フォーク、カントリーまで合わせても、
ライヴハウスは15件しか存在していない。
5 日本のロック第一世代後期のあんぜんBUNDが在籍した企画団体。現在も行われている
田島ヶ原フリーコンサート等を主催している。そういえばあんぜんBUNDも初期は
ハードロックだったのに、後期は四人囃子のキーボード入れてプログレがかった曲を
やっていた。
6 四人囃子、ファーラウト(喜太郎在籍)、と並ぶ、レコードを残した。
数少ない75年以降の日本のプログレバンド。LP4枚をリリースしている。
今聞くとギミックは多いもののまっとうなロック。
7 渋谷センター街入ってすぐ右の雑居ビルの4Fにあった。2、3Fがキャバレーで、
いつも呼び込みのヤーさんにガンとばされながら入らなければならなかった。
8 DACとは「第一家庭電気」のことであり、吉祥寺にあった4階立ての電気屋で、
1〜3階はマジで蛍光灯とか冷蔵庫売り場。4階がオーディオ試聴ルーム兼
イヴェントスペースだった。椅子数約30。
9 プリズムと並ぶ初代日本のフュージョン。その後ピンクに至る岡野ハジメ大学
時代のバンド。
当時の岡野のベース早弾きは本当に凄かった。
121 :
108:2005/07/02(土) 02:06:49 ID:18ekAfwK
↑以上「錯乱の扉・1」。
↓以下から「錯乱の扉・2」。
諸
君
、 プログレには顕著な性質があったのをご存じかな?
10分もある曲でテンポを20回も変え、
静かになって終わったかな〜と思うと
再び盛り上がるのだ。
そして曲同志も互いに「なんたらパート2」
なんて繋がるのだ。
もう言わんとすることはおわかりかな?
マンドレイク・アンリリースド・マテリアル・パート2
秘話 それではスタート
フェッフォン
------------------------------------------------------------------
炭酸飲料でべとべとになった長髪から、さわやかライムの香りを漂わせ、
アベと平沢は築地から銀座へと向かっていた。勿論徒歩である。
「くっせーな」「ああ、くっせー」
他の話題など持ちあがるスキの無いほどに、我々は断固くっせーのであった。
ペプシの倉庫でのバイトの帰り道、アベは、厳しくクサさを漂わせた男なりに変であった。
入れ揚げていた女人に振られたことがその理由だとバレ、
プログレ男として変拍子のおとこぎがすたった、とでも釈明したげな仏頂面であった。
「おまえ、断然くっせーぞ」
平沢はもう一度この話題をアベに振ってみた。
しかし次の瞬間、アベは帰らぬ人となった。
「フェッフォン スレイドゥン ナーン ゲッ オーヴァー トレイン」
アベは突然わけのわからない言葉で歌いはじめた。道行く人たちを指さしながら、
ブルースシンガーのようなしわがれ声を張り上げて。
「やめろよ おまえ」と、平沢は制止を試みた。しかしアベは止めない。
厳しくクサさを漂わせた男なりに、止めない。みんながこっちを見ている。
「フェッフォン キャンチュー クライクライ ブルース」
もはや誰もアベを止められない。アベは、電車の中でも歌い続けた。
平沢はすこしづつアベとの距離を伸ばし、
まるで他人であるかのように振る舞おうと試みた。
しかし、車内に充満するライムの香りが、我々は仲間である、と告発していた。
私は今でもあのフェッフォンを忘れない。私はフェッフォンが憎い。
その後、アベは行方不明となった。
歌う平沢
---------------------------------------------------------------
二度とアベは現れなかった。
しかしバンドのメンバーは冷たい。
「これを機会に、より強力になろう!」などと
運動部のような気合であった。
しかし、MANDRAKEには芸と戦略とロンドンブーツがある。
これが運動部との違いだ。
早速「強力とはなにか会議」が開かれ、
メンバーは思い思いの「強力の条件」を口にした。
「キーボードが居る」わー強力。
「タムが8つ付いている」わー強力。
「アンプが紫色」わー強力。
などなど。早速結成以来の配置変えをやってしまうところ
が一番強力であった。めでたく田中がキーボーディストの地位を獲得するのを
羨望の目で見ながら、平沢はなにやら不吉なムードを察知していた。
田井中はすでに、タムタムを8個装備するといくらになるのか、
見積もりを出すふりをしている。
やめろ、たのむ、それだけは言わないでくれ。。。
「平沢が歌う!」
わー強力!!!
キャロル野郎
-------------------------------------------------------------------------
「川こっちにもロックを」をスローガンに埼玉で活動する
ロックイベント制作集団「浦和ロックンロールセンター」がMANDRAKEの次の標的であった。
当時は今のようにロックコンサートを扱うプロの興行師はまれで、
ほとんどがアマチュアの集団によって開催されていた。
浦和ロックンロールセンターはアクティブな集団だった。
しかし「川こっちにもロックを」? では「川向こう」はどうだったのか。
「川向こう」は毎日毎日、中村さんに罵倒されていた。
埼玉県、田島ヶ原の河川敷では毎年、浦和ロックンロールセンターによる
フリーコンサート「田島ヶ原ロックフェスティバル」が開催されていた。
内田裕也、安全バンド、四人囃子、京都から伊達天竜などがノーギャラで出演していた。
MANDRAKEは田島ヶ原初のプログレバンドとして出演を目指した。
待てよ、ベーシストが居ないじゃないか。
平沢がベーシスト探しを引き受けた。当時平沢はデザイン学校に通っていた。
もしやクラスに楽器ができそうなヤツは居ないかと、めぼしい人間を当たった。
皮ジャンに長めの頭髪、こころなしかリーゼントを目指しているような、
いないような男がいた。
「音楽すき?」と話しかけてみた。
「ああ」
「で、どんな音楽聴くの?」。すると男は誇らしげに言った。
「キャロル」
こんなとこでめげる平沢ではない。いろいろ話しているうちに、ある確信が芽生えた。
こいつは”原始心母”でやっつけられる、と。
平沢は早速 キャロル野郎を原宿DJ STONEへと連れ出した。
DJ STONEは、大音響とともにけっこうなライトショーを見せる
プログレ専門のロック喫茶である。
キャロル野郎は”原始心母”で帰らぬ人となった。
不運にも彼はギターが弾けたために、その場でベーシストに就任した。
キャロル野郎は、関 弘美といった。
虹を呼ぶバンド
--------------------------------------------------------------------
平沢の歌、田中のキーボード、関のベースもどうにか形になり、そろそろMANDRAKEは
浦和ロックンロールセンターに攻め入る時期だと判断した。
「こんにちわあ」と窓枠に片足を掛けて平沢は、
浦和ロックンロールセンター事務所の中を覗き込んだ。次の瞬間には両足が枠に乗り、
今や窓フレームいっぱいの大の字となって平沢は立ちはだかっていた。
これが浦和ロックンロールセンターの正しい入室の仕方なのだ。
入り口のドアは荷物でふさがれ、誰もが窓から侵入した。
持参したMANDRAKEのテープを渡し、再び後ろ姿の大の字を残して
浦和ロックンロールセンターを後にした。確信はあった。必ず田島ヶ原には出られると。
後日、浦和ロックンロールセンターから田島ヶ原への出演依頼が来た。
しかし、なぜか予定していた喜びが沸いてこない。ロックの登竜門 田島ヶ原に
出られるというのに。MANDRAKEはもはや十分にひねくれていた。
我々の登竜を迎えてくれる門などこの国にあるのだろうか?と。
その日、田島ヶ原の河川敷は雨だった。しかしフェスティバルは決行された。
我々は、やっとの思いでそろえた機材が心配だった。紫色にスピーカーネットを張り
替えた
壁のようなアンプ、黄金の8連メロディータム、ハモンド、などなど。
MANDRAKEの出番直前に、雨はやんだ。眩しい日差しが紫のアンプと黄金のドラムという、
まるで宗教儀式のようなエグイ配色を引き立てた。
演奏は始まった。メンバーは顔を見合わせ安心感を確認し合う。何故か?
だれもMANDRAKEに「帰れ」といわないからだ。
それどころか我々を見て微笑む観客や、驚きの表情を見せる観客もいた。
MANDRAKEはズに乗った。しかし、どうも様子がおかしい。
我々を指差す観客がチラホラと現れはじめる。
なぜ彼らはあんなにもうれしそうなんだろう。
平沢は密かに「チャックが開いていたらどうしよう」と不安になった。
どの瞬間にそれを確認するか。しかし、すでにバレているなら大きな問題だ。
わざと開けているように見せるか?そんなことを考えていると、
田中が後ろに振り向け、と合図している。「ああ、やっぱり開いてるんだ」。
決死の覚悟で振り向けば、なんと鮮やかな虹が出現していた。
我々は虹を背負って演奏していたのだ。ウソのような本当の話しだった。
それ以来 浦和ロックンロールセンターあたりで
MANDRAKEは虹を呼ぶバンドと呼ばれるのであった。
秋山 立つ
-------------------------------------------------------------------
その後、浦和ロックンロールセンターの計らいで、
埼玉県蕨市のライブレストラン”にんじん”へ出演するようになった。
しかしそれは常にフュージョン・バンドとの共演であった。
この国では、プログレは円熟する前にフュージョンへと変貌してしまった。
しばしばプログレはフュージョンと同ジャンルだと誤解された。
プログレ最大の屈辱である。満杯の客の前での演奏も、完璧に無意味であった。
スモーク・オン・ザ・ウォーターの屈辱に加え、フュージョンの屈辱がMANDRAKEを
襲った。
我々は浦和ロックンロールセンターのボスに、ワンマンでやらせて欲しいと懇願した。
晴れてワンマンの叶うその日、MANDRAKEは期待に胸を膨らませていた。
田島ヶ原効果、そしてフュージョンとの共演の成果が客数にあらわれる日だ。
ステージに上がった瞬間、虚無感が襲った。
観客は、何度数えても3人であった。
演奏が終わると、一人の客が立ちあがって猛烈な拍手を送ってくれた。
そして、「すばらしい!」と叫んだ。
秋山 勝彦である。
しかし、もう”にんじん”には出られない。
やくざ として
---------------------------------------------------
そのころすでにデザイン学校を卒業し、
家業を継ぐためにベーシストの関 弘美は新潟に帰っていた。
しかし彼はリハーサルや、ライヴのある日には新幹線で上京した。
ある日、大事なリハーサルに関は現れなかった。
病気にでもなったかと思い、自宅に電話すると、
しらないおじさんの声がこう言った。
「おまえは やくざ もんか!!!」
電話は切れた。それ以来関は二度と現れなかった。
DAC 801スタジオ
----------------------------------------------------------------
本物のプレシジョンにハイワットの2段積みという、
一流ブランドで装備した アクツ トオルを新しくベーシストに迎えたMANDRAKEに、
新たな活動場所を提供してくれたのは吉祥寺 第一家庭電気の
イベントスペースDAC 801スタジオであった。
立ち見でめいっぱい詰めても80人という小さなスペースで
MANDRAKEは月一のライブを行っていた。
その後、順調に客数は増え、渋谷”屋根裏”、”ジャンジャン”では
150人程度の動員力を持つまでに至った。
このころ 新月 と知り合い、新月もまたDAC 801スタジオを利用するようになった。
吉祥寺に栄えた、不気味な家電店の奇跡である。
新日鉄メロトロン課長
----------------------------------------------------------------
当時、MANDRAKEのようなバンドを扱う雑誌などなく、
ただひたすら、メンバーによるビラまきと、地道な活動によって
少しずつその知名度を上げていくしかなかった。
高価な機材を超廉価で入手する技を身に付け、
平沢 裕一率いる照明、ステージ効果のチーム”ディバイス・マンドラゴラ”を結成し、
見栄えのほうも、少しずつ向上した。
MANDRAKEは金持ちの集まり、という噂が立った。
我々は知恵を使っただけだ。メンバーは相変わらずバイトをしていた。
そんなある日、知らない団体から出演依頼があった。
しかもMANDRAKEにではなく、平沢にだった。
千葉県幕張で、大プログレイベントが開催されるという。
そこで、その日限りの強力なバンドを結成するので、
ギタリストとして参加してくれというのであった。
混声コーラスをまじえた強力なバンドだ、と彼は強調した。
平沢は二つ返事でOKした。
リハーサルの会場に入るや、強力な機材群に圧倒された。
「憧れのプログレ機材博物館」が作れると思った。
プロデューサーを名乗る男に、バンマスだという男を紹介された。平沢は上の空だった。
MANDRAKEが技を駆使し、それでもやっと購入したあのメロトロンが3台、それぞれの
上にきちんとセットされた3大のミニ・ムーグとともに、白亜のプログレ砦を形成していた。
全てはバンマスの所有物だという。平沢はチャンスをうかがい、プロデューサーにたずねた。
「あの人は何者ですか?」プロデューサーはそっけなく答えた。
「あ、課長さん。新日鉄の」
「じゃ、他のメンバーは?」
「あ、他の社員。新日鉄の」
その時、混声コーラス隊がやってきた。平沢はもう何も質問しなかった。
「今回は参加してくれて本当にありがとう」とプロデューサーは言った。
「今回のプロジェクトは、XXXX(バンド名、もう忘れた)の前座です」
とプロデューサーは続け、まずはXXXXのお披露目演奏が始まった。
完璧な ジェネシス であった。ジェネシスの、あの曲と、あの曲のパクリであった。
しかし、日本語で歌われる歌詞は、明らかにオニイサンとオネエサンの色恋沙汰であった。
新日鉄の課長さんが披露する、単なる色恋沙汰であった。
プログレは、円熟する前に様変わりしたのだ、と平沢は再び思った。
プログレは、フュージョンとニューミュージックの母なのだ、と思った。うんざりした。
「それで、前座は何を演奏すれば?」おうちへかえりたい気持ちを押さえ、
プロデューサーにたずねた。
「あ、エコーズ」
「え?」
「エコーズ」
「エコーズって、あの。。。」
「あ、そう、ピンクフロイド」
一ヶ月後、おうちへかえりたい気持ちを押さえ、イベントは終了した。
ゲストのコスモスファクトリーの、ヤクザのようないでたちのみが印象に残っている。
連中とは二度と関わらないだろう。そう思っていたある日、かのメロトロン課長から
電話がきた。
課長さんのバンドが某レコード会社からデビューするかも知れないという。
ついてはギタリストとしてメンバーになって欲しい、という内容だった。
平沢は、「目指すところがまったく違うので」とお断りした。
すると課長さん、突然大人びた口調で説得を始め、
ガンとしてゆずらない平沢にありがたい訓示をたれて電話を切った。いわく、
「キミもいつまでも自分の殻に閉じこもっていたら人を感動させる音楽
は作れないよ」
おととい来やがれ!!!
バッハ・レボリューション
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DAC 801のスタッフが平沢に、銀座YAMAHAの店頭でシンセサイザーのデモ演奏する人を
募集しているから応募してみろ、と言った。当時、平沢はシンセなど持っていなかった。
しかし、何度も読みたおしたMOOG本のおかげで、操作法は熟知していた。
教えられた番号に電話し、応募したいと伝えた。しかし、オーディションのために
デモテープが必要だという。困った。しかし平沢には一つの確信があった。
当時シンセを所有している人間はそんなに多くは居ない。
かつ、多重録音のノウハウも一般には浸透していない。絶対に応募者は少ないはずだ。
めちゃ深いエコー、いくつかのエフェクトを使いギターだけでインチキのデモテープを
作った。
いたくモヤモヤした曲で、実際シンセのように聞こえなくもない仕上がりであった。
平沢は、指定された場所にテープを持参した。
そこはバッハ・レボリューションのスタジオだった。
神尾 明朗がテープを受け取り、その場で視聴した。平沢は怒られるんじゃないかと
ハラハラした。
神尾:キミ、ホントにシンセ弾けるよねえ?
平沢:あ、はい・・・・・
神尾:じゃ、キミに決めた。
平沢:あ、あの・・・・・
神尾:いいの いいの。だって応募者キミだけだから。
こんなんでいいのか?と平沢は思った。数日後、とりあえず銀座YAMAHA店頭での
デモ演奏は無事終了し、神尾 明朗の元へ報告に出向いた。
神尾:キミね、評判よかったよ。
それからね、週間プレイボーイがね、シンセの多重録音のコンテストやるよ。
平沢:は、はい。
神尾:応募しな。それからね、キミね、YAMAHAのシンセ教室の先生やりな。
だからね、来週、浜松のYAMAHA本社に行きな。
こんなんでいいのか?と平沢は思った。翌日、田中にシンセサイザーを借りに行き、
翌週浜松へとんだ。長かった肉体労働とさよならした。
さて、週間プレイボーイのコンテストでは、平沢の作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞し、
賞品のシンセサイザーをめでたく手にした。入賞作品はアルバム「驚異の頭脳集団」に
収められメジャーリリースされた。平沢は「いりよう蜂の誘惑」の作風を元に、
このころからポストMANDRAKEのスタイルを密かに模索し始めた。
記念の門
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そうこうしているうちに、田島ヶ原二度目の出演依頼が来る。
しかし、我々はすでにセックス・ピストルズの存在を知り、プログレ文法の終焉を
感じていた。
すでに新月はレコードデビューが決まっていたが、”いざ続け”という気分には
なれなかった。
その時MANDRAKEは「ルームランナー」「異邦人」など、
後にP-MODELへと引き継がれたニューウェーブ的な楽曲をも演奏する、
中途半端なバンドと化していた。
ニューウェーブによって、ロックは更新されたのだとメンバーは考えていた。
メンバーは、プログレなんかを聞きに来るような客にイライラし、
やたらと客にあたったものだった。すでに長髪も切り落としていた。
そんな訳で、二度目の田島ヶ原は欲求不満の固まりであった。
MANDRAKEは共演バンドの音楽にイライラし、客にイライラし、
自分たちのプログレ節にイライラした。
「もうやめるべきだ」
演奏中、平沢はそう考えていた。
しかし、さすがロックの登竜門、田島ヶ原。
後日、某レコード会社のディレクターから、「会いたいので来てくれ」との電話が入った。
我々の登竜を迎える門が開くというのか?遅すぎる。あまりにも遅すぎるよ。
ディレクターは、MANDRAKEのレコードを出したいと言った。
平沢は正直にディレクター氏に伝えた。「もうスタイルを変えようと考えています」
と。
ディレクター氏は言う「これからプログレバンドを集めていろいろやって行こうと
思ってるんだ」。
本気か?と思った。「でも、私にはもう次の構想があるんです」
ディレクター氏の次の言葉で、平沢はMANDRAKEを終わらせる決意を硬くした。
彼はこう言った。
「じゃあ、記念に」
そんなものは「流産の死体写真」だと思った。
MANDRAKEは日本の70年代に流産されたマンドラゴラだ、と平沢は心の中で
MANDRAKEの敗北を、ちとカッコよく装飾できたことに満足した。
錬金術はコマーシャリズムに敗北した、と更に続けて満足した。次は、輝く人工着色の
「Health Angel」として、コマーシャリズムに寄生するのだ、と決意した。
すがすがしく、実にすがすがしく平沢は某レコード会社を後にした。
終焉、最後のジャンジャン
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MANDRAKEは流産された自らの遺体を葬る準備にとりかかった。
しかし、解散宣言などしない。
約3時間、二部構成のステージで死と再生の儀式を決行した。
渋谷ジャンジャンには巨大な額縁が用意され、前半の2時間半、
プログレ形式の曲が額縁の中で演奏された後、
暗転、嵐の中を白衣の秋山勝彦が死んだ胎児を抱いて
額縁を超えると、赤、青、緑の電飾で胎児は輝いた。
「Health Angel」の誕生だ。額縁は解体され、
白衣の平沢 裕一がルームランナーの上で走りながらカウントをする。
わん つー すりー ふぉー
「Health Angel」「ルームランナー」「異邦人」「美術館であった人だろ」
「偉大なる頭脳」などが演奏され、MANDRAKEはすべての仕事を終了させた。
かくして、2人の帰らぬ犠牲者を生んだ「錯乱の扉」は静かに閉じられた。
中村さん、平沢はこれが正しい選択だと信じます。
叱るなら、叱ってください。
追記
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しかし、ベーシスト アクツのプログレに対する未練から、
我々は新しいプロジェクトをスタートさせるタイミングを失っていた。
長いミーティングの末、アクツは別の道を選び、バンドを去ることになった。
引き続きミーティングでは、もったいぶった威厳を放つ機材を、
ピンクと黄色に塗りかえる提案がなされた。
新たなバンド名は、大量生産ラインにのる新開発商品の型番のようなものに決定した。
偽工業製品P-MODELの誕生である。
1979年1月1日のことであった。
平沢進70年代を語る/マンドレイク活動時代
中野・・・メカ野 松本・・・(マーキー編集長)
中野:それぞれ曲に関する話を伺いたいんですが。
平沢:よく覚えてない。(笑)
中野:構成がキッチリしてたって言うのはブラックサバスから流れたと。
あの頃特有のフリーなパートあるとエライみたいな部分ってマンドレイク
ないですよね。
平沢:田中がキライなんです。あいつはフレーズ必ず決まってるんですよ。
セッションみたいな事やりだすとすぐ飽きちゃう。
中野:プレイヤーというよりはコンポーザー
平沢:かもしれませんね。
中野:一曲に関して練習時間どのく位かかりました。
平沢:週一で東京農工大に集まって、必ず朝から夜までリハーサルしてて、一ヶ月
位はかかった。後半ライヴは月一のペースで。
中野:79年ですかP-MODELになったのって。やっぱりキッカケはパンクですか
平沢:パンクもそうですけど、プログレが訳わかんなくなったじゃないですか。
フュージョンも出てきて一方ではキャメルみたいな、、僕、叙情だけってのが
ダメなんですよ。レコードの帯とかに世界で一番美しいとか、クリムゾンの
叙情ってのはそういうもんじゃなかった。
それでもうつまんなくて。様式は大御所バンドが全部作っちゃったでしょ。
まあ、技量は充分ないといけないけれども、それだけじゃね。
中野:パンクって正直言ってそれまでのプログレとかから見たら敵でしたよね。
その後にはニューウェーブが出て、色々なスタイルが出来たけど、プログレ
やってた。パンクが出てきた。その時点では方法論なかったわけですよね。
平沢:これがね、うちらは技量的にそんなに優れてたわけじゃないんで、
集まって話したりして決めることが多かったのね。で、プログレってのは
もう手法でしかなくなっていて、手法はなんでもいいと。そう思える、
阿久津だけは思えなかったと。結構簡単に、正月かなんかに集まって、もう
やめようよってなって、そんじゃあどういうのにしようかと数時間のうちに
P-MODELになっちゃった。
中野:配線上のアリアが出来たと。(10
平沢:面白いのはね、新月(11もそうだったんですよ。P-MODELを新月が見に来て
くれて、花本くんが「いいモン見ちゃった」って。そのあと「サイエンス
フィクション」っていうテクノバンド作ったんですよ。彼。ドラムがその
ゼルダのアコちゃんだったり。結構良かったよ。花本くんその後、ぴあに
行って何かで電話して「がんばってるね。君ってまだ世の中あきらめて
ないんだね」って言われた(笑)
阿久津は新月にいたんじゃないかなあ。
中野:いまじゃゴッチャですけど、同時代としてはコスモスファクトリー、ファー
イースト、四人囃子ってのはもう一つ世代が上ですよね。
平沢:上ですね。
中野:秋山さんの阿鼻叫喚ってのはキーボードトリオのELPスタイルだったとか
平沢:ELPですね。なかなか良かったですよ。彼は結構ハマってたなあ。カッコ良
かったですよ。
中野:飢餓同盟(12とは交際なかった?
平沢:小西とはP-MODELになってから。ニューウェーブのライヴに出てましたよ
ダダはシンセ、ホニャ〜ンってやってましたよ。
中野:マンドレイクってレコード出すの出さないのって話はあったじゃないですか。
平沢:実際にスタジオには入ってない。話がまとまんないでもうP-MODELになっち
ゃった。P-MODEL持ってたら「こんなのいらない」って言われて、でもそこ、
その後あわててプラスチックス出しましたけどね。
中野:じゃあ今回の音源ってのは自分たちで録音しておいたものですか
平沢:TEACのデカイ4トラックレコーダーを買いまして、せっかく買ったんだから、
オーヴァーダブしようよって。
平沢:オリジナルメンバーの内、関って奴がいて、こいつは新潟に住んでいて、
新潟からリハーサルに通ってた。スージークアトロベース持って。
中野:その時平沢さんのギターは
平沢:グレコのレスポール、ペイントしまして、パールの下敷きを1/3の薄さにし
まして真ん中模様があって両面透明なんだけど、片側はずしてギブソンって
書いて埋め込んだってバカですね。(笑)
中野:でも当時ギブソンって20何万しましたよね。器材なんて売ってなかったでしょ。
平沢:メロトロンがね、当時70万円、ところがルートがあって、中古が10万からあった。
田中は状態のいいの買って25万かな。
中野:シンセって当時、メモリーなし、和音ひけない、プリゼットもなし、でしたよね。
ライヴ毎にセットするんですよね。
平沢:うん、メロトロンの大変なこと。
中野:金出てくばっかりですね。
平沢:もうずっとバイトですよ。
中野:田井中さんも長髪だったんですか
平沢:彼はもうカールパーマーみたいに直毛で、それはそれは、キレイなモンでしたよ。
田中も。本格的な見栄えでしたよ。
中野:ラメとか。
平沢:田中は着てましたね。阿久津はヒラヒラのとか。
あいつだけリッチでプレシジョンとハイワットの二段積みなんですよ。
中野:いま田井中さんは整体師でもって、、結婚されたという事ですが、、。
平沢:それマル秘です。(笑)
錯乱の扉 注解釈
10 DIW/SYUNから発売中のP-MODELβ版。ネタはクラシックながら、音は完全に
テクノポップ。
11 70年代後半のプログレバンド。ジェネシスに大変似ていた。同時期の美狂乱は
クリムゾンに大変似ていた。
12 小西健司がダダ以前に率いたハードロックバンド。小西はベース&ヴォーカル。
ちなみにギターはその後ノヴェラを結成する平山照継。