はきだめの人形
それは、たった一つの動作しかできませんでした。
それは、はきだめに転がっていました。
泥だらけで、傷だらけになって。
僕は何も考えずに、ほとんど無意識にそれをひろって帰りました。
後で思うと、なんだったのか、じぶんでも理由がわかりません。
とにかく汚かったので、台所へもっていって洗ってやりました。
あれ、かわいいじゃないか。
泥を洗い流した後の、それが第一印象でした。
大きな目、長いまつげ。
上だけではありません。目の下のまつげもとても長いのです。
きりっとした口。
人間だったらすげえ美人だな。
日本人の女だったら、もうお高くてお高くて手も足もつけられねえところだ。
そんなことを考えたことを覚えています。
洗ったあと、三畳の部屋の壁によりかけてやりました。
にこっと微笑んだような気がしました。
初めてその動作をしたのは、このときでした。
「シアワセ」
そう言ったのです。
給料日前でした。
手持ちの2600円で、四日間暮らさなければなりません。
三畳の部屋で、食パンとバナナを食っていました。
あの頃は、給料日前はそれが当たり前で、自分じゃわびしいとも何とも
思いませんでした。それが当たり前だったのです。
「お前も食うか。」
僕はそういって、食パンをちぎって、人形に差し出しました。
人形の瞳がかがやいたような気がしました。
「シアワセ」
人形は、そう言いました。
給料日前でした。
手持ちの2600円で、四日間暮らさなければなりません。
三畳の部屋で、食パンとバナナを食っていました。
あの頃は、給料日前はそれが当たり前で、自分じゃわびしいとも何とも
思いませんでした。それが当たり前だったのです。
「お前も食うか。」
僕はそういって、食パンをちぎって、人形に差し出しました。
人形の瞳がかがやいたような気がしました。
「シアワセ」
人形は、そう言いました。
デートをする金もなく、彼女もいませんでした。
やぶれかぶれな気持ちで、子供相手の駄菓子屋で100円のイヤリングを買って、
部屋に帰ってきました。
人形につけてやりました。
気のせいか、うれしそうな顔に見えました。
「シアワセ」
人形は、そう言いました。
事件があって、父親から憎まれるようになりました。
実家には行けなくなりました。
俺は、表向き突っ張っていましたが、実の父親に憎まれるということは、
実は大変な重圧でした。
あろうことか親父はあることないこと言いふらして、おかげで兄や妹達にも
誤解をうけて、冷たい仕打ちを受けるようになりました。
寒空の下、冷たく光る星々を背に一人でトボトボとどこまでもどこまでも
歩き続けました。
足を棒のようにして、三畳の部屋にたどりつきました。
人形を抱きしめ、俺はおもわず泣いていました。
人形が言いました。
「シアワセ」
会社で上司に怒鳴りつけられました。
なにか誤解をしている。
それははっきりしていました。
しかし、日本の会社では上司は常に絶対に正しいのです。
下の人間が説明をするということは、見苦しい言い訳としかとられないのです。
僕はじっとこらえていました。
その日一日、ただじっとこらえていました。
三畳の部屋に入ると、おもわずじわっと涙があふれてきました。
「お前だけはわかっているよな。」
思わずそう語りかけていました。
心なしか、人形がうなずいたように見えました。
「シアワセ」
人形は、そう言いました。
僕はインターネットの事業を始めて、大成功しました。
年間売り上げ高、三億五千万ドル。
三十六階建てのビルの僕の部屋、つまりCEO室には、三人のグラマー美人が
います。僕の秘書達です。
ホームでは、美人のワイフが僕の帰りを待っています。
みんなプライドが高く、僕のようなリッチな男でないと鼻もひっかけません。
趣味がよくて、世界の超一流ブランド物でないとプレゼントしても喜びません。
超一流レストランでないと、連れて行っても嫌がります。
僕はもうすっかり忘れていました。
あの人形のことは。
人形は、はきだめに転がっていました。
泥だらけで、傷だらけになって。