10 :
仕様書無しさん:02/01/29 21:26
(・∀・)cd
>9
クソスレ、重複スレを楽しく演出してくれる文章です。
12 :
仕様書無しさん:02/01/29 21:46
(-.-)kill
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、
嫌悪と云おうか−−−酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでい
ると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけ
なかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また脊を焼
くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前
私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくな
った。蓄音機を聴かせて貰いにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で
不意に立ち上ってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始
終私は街から街を浮浪し続けていた。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚
えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても余所余所しい
表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転
してあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨
や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と云ったような趣きのある街で、土塀
が崩れていたり家並が傾きかかっていたり−−−勢いのいいのは植物だけで、
時とすると吃驚させられるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
時どき私はそんな路を歩きながら、不図、其処が京都ではなくて京都から何
百里も離れた仙台とか長崎とか−−−そのような市へ今自分が着ているのだ−
−−という錯覚を起そうと努める。私は、出切ることなら京都から逃出して誰
一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅
館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。其処で一月程
何も思わず横になりたい。希わくは此処が何時の間にかその市になっているの
だったら。−−−錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の
絵具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重
写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
私はまたあの花火という奴が好きになった。花火そのものは第二段として、
あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束、中
山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪に
なっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打出してあるおはじきが好
きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めて見るのが私にとって
何ともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味程幽かな涼しい味があるも
のか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時
のあまい記憶が大きくなって落魄れた私に蘇ってくる故だろうか、全くあの味
には幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは云えそんなものを見て
少しでも心の動きかけた時の私自身を慰める為には贅沢ということが必要であ
った。二銭や三銭のもの−−−と云って贅沢なもの。美しいもの−−−と云っ
て無気力な私の触覚に寧ろ媚びて来るもの。−−−そう云ったものが自然私を
慰めるのだ。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であ
った。赤や黄のオーデコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ
趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私
はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛
筆を一本買う位の贅沢をするのだった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借
金取の亡霊のように私には見えるのだった。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
ある朝−−−その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転
々として暮していたのだが−−−友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気
のなかにぽつねんと一人取残された。私は其処から彷徨い出なければならなか
った。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に云ったような裏通りを
歩いたり、駄菓子屋の前で立留ったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、
とうとう私は二条の方へ寺町を下り、其処の果物屋で足を留めた。此処でちょ
っとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も
好きな店であった。其処は決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の
美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあっ
て、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やか
な美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したゴルゴンの鬼面−−−的
なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったとい
う風に果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆく程堆高く積まれている。
−−−実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴らしかった。それから水に漬け
てある豆だとか慈姑だとか。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
また其処の家の美しいのは夜だった。寺町通は一体に賑かな通りで−−−と
云って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが−−−飾窓の光がおびただ
しく街路へ流れ出ている。それがどうした訳かその店頭の周囲だけが妙に暗い
のだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いの
は当然であったが、その隣家が寺町通にある家にも拘らず暗かったのが瞭然し
ない。然しその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかっ
たと思う。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠った
帽子の廂のように−−−これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子
の廂をやけに下げているぞ」と思わせる程なので、廂の上はこれも真暗なのだ。
そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴せか
ける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、肆にも美しい眺めが照し出さ
れているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで来る往
来に立って、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店
の眺め程、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
その日私は何時になくその店で買物をした。というのはその店には珍しく檸
檬が出ていたのだ。檸檬など極くありふれている。がその店というのも見すぼ
らしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであ
まり見かけたことはなかった。一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵
具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の
詰った紡錘形の格好も。−−−結局私はそれを一つだけ買うことにした。それ
からの私は何処へどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の
心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみ
えて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんな
ものの一顆で紛らされる−−−或いは不審なことが、逆説的な本当であった。
それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くして
いていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかす為に手の
握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だ
ったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快
いものだった。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
私は何度も何度もその果物を鼻に持って行っては嗅いでみた。それの産地だ
というカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中
に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮んで来る。そしてふか
ぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなか
った私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来て何だか身体に元気が目覚
めて来たのだった。・・・・・・
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探し
ていたのだと云いたくなった程私にしっくりしたなんて私は不思議に思える−
−−それがあの頃のことなんだから。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
私はもう往来を軽やかに興奮に弾んで、一種誇りかな気持ちさえ感じながら、
美的装束をして街を闊歩した詩人のことなど思い浮べては歩いていた。汚れた
手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量った
り、またこんなことを思ったり、
−−−つまりはこの重さなんだな。−−−
その重さこそ常づね私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さは総
ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあ
がった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えて見たり−−−何がさて私は幸福
だったのだ。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
うぜぇ。
何処をどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あ
んなに避けていた丸善がその時の私には易やすと入れるように思えた。
「今日は一つ入って見てやろう」そして私はずかずか入って行った。
然しどうしたことだろう、私の心を充していた幸福な感情は段々逃げて行っ
た。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て
罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前
へ行って見た。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と
思った。然し私は一冊ずつ抜き出しては見る、そして開けては見るのだが、克
明にはぐってゆく気持ちは更に湧いて来ない。然も呪われたことにはまた次の
一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやって
見なくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなって其処へ置いてしまう。
以前の位置へ戻すことさえ出来ない。私は幾度もそれを繰返した。とうとうお
しまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本まで尚一層の堪え難
さのために置いてしまった。−−−何という呪われたことだ。手の筋肉に疲労
が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の
群を眺めていた。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼
を晒し終って後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない
気持を、私は以前には好んで味っていたものであった。・・・・・・
「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチ
ャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。「そうだ」
私にまた先程の軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当り次第に積みあげ、ま
た慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取去
ったりした。奇怪な幻想的な城が、その度に赤くなったり青くなったりした。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
やっとそれは出来上った。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁
の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘
形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい
丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私
はしばらくそれを眺めていた。
梶井基次郎著「檸(れもん)檬」より
不意に第二のアイディアが起った。その奇妙なたくらみは寧ろ私をぎょっと
させた。
−−−それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。−−−
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」
そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く
恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術
の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
私はこの想像を熱心に追及した。「そうしたらあの気詰りな丸善も粉葉みじ
んだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行
った。
一九二四年十月 梶井基次郎著「檸(れもん)檬」完
もういいってば!
>32
きちがいなので反応すると喜んでまた貼りはじめます。
キチガイ粘着うぜぇ。
私は失禁してもいいですか?
36 :
仕様書無しさん:02/01/30 00:59
チョコの代わりにCD-R下さい
ちなみに、ホワイトデーにはエロゲを詰めて返します
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲く
なんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、こ
のニ三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には
屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選
りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のよう
に思い浮んで来るのか−−−お前はそれがわからないと云ったが−−−そして
俺にもやはりそれがわからないのだが−−−それもこれもやっぱり同じような
ことにちがいない。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
一体どんな樹の花でも、所謂真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気
のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完
全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの厳格を伴
うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲
たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺に
はその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安に
なり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
お前、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まってい
ると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得
行くだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らな
く臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪
な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚め
て、その液体を吸っている。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作っているのか、俺は毛根の吸い上
げる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあが
ってゆくのが見えるようだ。
−−−お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃない
か。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、
一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
ニ三日前、俺は、ここの渓へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶ
きのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディット
のように生れて来て、渓の空をめがけて舞い上ってゆくのが見えた。お前も知
っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。暫く歩いていると、俺
は変なものに出喰わした。それは渓の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残してい
る、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮
いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、
薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼等のかさな
りあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵
を終った彼等の墓場だったのだ。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜
む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光を
さ青に煙らせている気の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過
ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明
確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完
成するときにばかり、俺の心は和んで来る。
−−−お前は腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じこと
だ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思っ
てごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。
梶井基次郎著「桜の樹の下には」より
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまる
で桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、
花見の酒が呑めそうな気がする。
一九二七年十月 梶井基次郎著「桜の樹の下には」完
梶井って顔でかいよ。顔でかくて繊細なヤツって多いきがする。
梶井基次郎(1901〜1932)
大阪生れ。少年時代は三重、東京などに転居を繰り返す。’19年、エンジニア
を目指して三高理科に入学するが次第に文学に惹かれ、’24年、東京帝大英文
科に入学。同人誌「青空」で積極的に活動するが、少年時代からの肺結核が悪
化し卒業は叶わなかった。療養のため訪れた伊豆の湯ヶ島温泉で川端康成、広
津和郎に親近し創作を続けた。しかし病は次第に重くなり、初めての創作集
「檸檬」刊行の翌年、郷里大阪にて逝去。享年31。
だそうです。
50 :
仕様書無しさん:02/02/09 23:05
梶井さん、最近見ないけど、どっか逝かはった?
いや、いてるで。
ワイも貼りとぉーてウズウズしてんねんけど、鯖の負荷問題とかで
なんや貼りにくいフンイキになってるやんか。せやから控えてるねん。
当分はお好み醤油はんに任せますわ。他スレで「愛撫」も途中まで
書いてたんやけど、最後まで逝く前にじゅうぶん下がってもうたから
それも途中でやめてん。
52 :
仕様書無しさん:02/02/13 00:08
厨房あげ
53 :
よくわからんが:02/02/13 01:02
梶井は檸檬が固くてあまりにびっくりしたんだよ
それが後の我輩は猫であるにつながったわけ
20個くらい義理でもらえそう
次は団鬼六やってくれ。
age
58 :
仕様書無しさん:02/03/01 20:55
ちょっと、季節遅れなんじゃな〜い?