大塚英志「角川とドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした」

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大塚英志緊急寄稿「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」
http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/otsuka-%20essay.html

長すぎるので後半部分の大事なところっぽい部分だけ抜粋、あとは自分で読め。

「KADOKAWA・DWANGO」は決してコンテンツの配信システムでもコンテンツ制作会社でもなく、
「ユーザーのコンテンツ制作を誘発し回収するシステム」なのだということを冷静に見るべきだ。

つまり、ニコ動とKADOKAWAの合併で成立したのは、「ユーザーの創造性を限定的な条件の中で発露させ、コンテンツを提供させるインフラである」、ということだ。

角川歴彦は、合併後の会見で、この後はKADOKAWAの編集者の隣りにドワンゴのエンジニアが座る時代がやってくる、と予言する。

作者が消滅すれば編集者も消滅するのである。要するに、まんがも、小説もアニメもニコ動用にカスタマイズがなされることになるだろう。

ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行為として創造性を「快適に」発露することになる。

恐らくそう記した時、誰でも快適に、しかも最終的に合理的に二次創作ができ、それに対する相応の対価も得られるシステムのどこが悪いのか、と思うだろう。
KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれない、すぐそこの未来は、そういう「快適」に想像力が管理された未来である。

この、「システムに創作させられていながら、しかしそれが少しも不快でない環境」は、きっと誰もが望んだ世界ではあるのだろう。
その制度に順応している限り、そこでは作者という特権的な存在は死に、誰もが「自由」に「平等」に創作ができる。
この、KADOKAWA・DWANGOがもたらしてくれるかもしれないユートピアは「企業によって管理されたポストモダン」の誕生だと言える。
吐き気もするはずだ。

それにしても、KADOKAWA・DWANGOがもたらそうとするものが、
物語を作者が寡占し得た近代の本当の終わりを意味するのだとしたら、ぼくはポストモダンをよりによって角川に見せられるということになる。

依頼
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1400250982/62