台湾で中国への売国法案が可決、党首はスパイか

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日中戦争って色々ありすぎて経緯がややこしい、全部把握してる奴ってどれだけいるの
しかし、流れを見てると、実質的に、中国国民党(蒋介石)が駐留日本勢力を潰すために攻撃を仕掛けてきて、日本がそれに乗っちゃったって感じ
侵略といえば侵略なんだろうけど、いつまでもどうこう言われる筋合いのもんでもないんじゃないの、特に中共に
これも、負けた奴が悪いってだけの話じゃね
ただ、中国の一般人にはいい迷惑だったろうが、同胞の中国人が招いたことでもある
松井石根1878-1948(1/7)

陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、
ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。

陸軍幼年学校在学中、松井が感銘を受けた思想があった。
それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。
川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。
そのための軸となるのは、日本と中国の良好な提携であるという。
この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。

明治37年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった。
荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。
欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。

明治39年、陸大(18期首席)を卒業。松井は、前途を嘱望される逸材として、フランスへと派遣された。
明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。
日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。

明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。
松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。
陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。
その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。
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松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、
昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち、事態を打開させた。

松井の秘書田中正明によれば
「松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。
日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。
そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、
ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」

ところが、昭和3年(1928年)5月3日、国民党軍(国民革命軍)の一部による日本人襲撃事件、
および、蒋介石率いる国民党軍と日本軍との間に起きた武力衝突事件(済南事件)が起き、
陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。

同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。

松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。
松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した。
この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている。
しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。
松井構想は音をたてて崩れ落ちた(田中正明の言)。

蒋介石も日本への不信感を濃くした。
昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。
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蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、
松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。
会員には近衛文麿、広田弘毅など錚々たるメンバーであった。
「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする
松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。

一方、米勢力におもねり、反日、排日の色を濃くする蒋介石の国民党政府に対しては、不信感を拭うことができなかった。
加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。
国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても不満を募らせた。

昭和11年12月12日、張作霖の長男である張学良による、蒋介石監禁事件(西安事件)が勃発。
捕えられた蒋介石は国共合作による抗日へと方針を180度転換した。ここに及んで、蒋介石と連携するという松井構想は完全に破綻した。

昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件により始まった華北での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれる。
それが、7月25日の国民党軍による日本軍襲撃(郎坊事件)で停戦が破られ、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生。
中国側の規範意識の欠如と残酷な面が露わになった。

国民政府(南京・国民党)の虚偽放送による煽動ののち、29日には中国人部隊が日本人を襲撃(通州事件)。
民間人を含む230名が、強姦や略奪を伴って猟奇的に虐殺され、世論が沸騰。
武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後、華中において交戦が拡大することになった。
※ 通州事件

1986年に公表された冀東保安隊長・張慶餘の回想録や、中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、
張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触。「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されている。

7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、
飲食店の旭軒では40から17〜8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。
日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった。

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、
旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。

また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。
鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、
ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。
14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた。

日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況を生存者であった同盟通信記者安藤利男が「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号で発表し、日本で反中感情が強まった。
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8月13日、資源目的のドイツと合作して近代化した国民党軍3万が、日本軍4千が守る、上海の日本人居留地を襲撃。
日中の武力衝突(第二次上海事変)が勃発。
通州事件とともに、不拡大方針から『暴支膺懲』のスローガンが掲げられる一因となり、後に日本軍による重慶爆撃が行われる。

8月14日、予備役の松井に陸軍次官から呼び出しがかかった。
8月20日、上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港。
8月23日、上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。
11月12日、上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。一方、国民党軍は南京に退却。

松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。
トラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。
ドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時の駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼称される。

ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。
松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。

11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した。
蒋介石はこの日の内に南京を脱出する。
12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。
翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。
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このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。
翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。

松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を、念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。
後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
中国共産党では松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけている。


※「興亜観音を守る会」会報『興亜観音第15号』(2002年4月18日号)に田中正明が書いたところによれば、
1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、
蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。
私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が記されている。

この話は『興亜観音第10号』(1999年10月18日号)にも掲載されており、両方とも蒋介石は「申し訳ない事をした」と田中に語ったと記されているが、
何応欽の軍事報告や、松井大将が冤罪だったという部分は、10号では、田中が考える事実として、15号では蒋介石自身の発言と記されている点で異同がある。
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一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に近衛政権は和平条件を吊り上げ、蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。
しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。
それも、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。
松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。

昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、
今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。
滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、
静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

大亜細亜協会会頭として国外視察にも出かけ、上海〜南京〜台湾〜広東〜海南島〜仏印〜タイ〜ビルマ〜マレーシア、
スマトラ島〜ジャワ島〜セレベス島〜フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。

1945年8月15日、松井は終戦の玉音放送を熱海の自宅で聞いた。
1946年3月4日、松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら
「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。
かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語った(陸軍後輩、有末精三の言)。

翌5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。
また、重光葵によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。
戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。
松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
104番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2014/03/21(金) 22:19:43.49 ID:tB1Df+Ll0
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この判決について、ジョセフ・キーナン検事は、
『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と判決を批判している。
ここでいう部下には、皇族の朝香宮鳩彦王が含まれており、昭和天皇の免訴問題と絡み、松井が身代わりになったという指摘が、田原総一朗はじめ一部に存在する。
当の松井自身は、『どうもワシは長生きしすぎた』と述べたとされる。

昭和23年12月9日巣鴨拘置所において、戦犯教誨師花山信勝に次の言葉を残した。
「・・・南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ、
参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。
私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。
日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった」

「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。
ところが、そのことのあとで、みなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。
したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。
せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている」

昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。辞世の句は、
「天地(あめつち)も 人もうらみずひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く」
「いきにえに 尽くる命は惜かれど 国に捧げて 残りし身なれば」
「世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は 自他平等に 誠の心」
昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。