五木寛之「HIROSHIMAは戦後最高の鎮魂曲」音楽学者「この作品は苦悩を極めた人からしか生まれない」

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wikipediaから経歴が削除されてるのでメモ

青森県下北郡大間町生まれ。幼少期は津軽海峡をはさんで函館山、
恵山岬を見て過ごす。家業はマグロの一本釣りであったという。
不安定な生活に嫌気のさした両親に連れられ、夜逃げのようにして
故郷を捨てる事となったことは、後の新垣の音楽性に大きく影響している。
上野に着き、浅草で露天商を営むが、業績のあまりに低いことから廃業して
親戚のつてを頼り葛西へ移住。成績は中の下であったというが、音楽だけは
常にトップの成績であったことから、将来は音楽によって恵まれない人々に
希望を与えていこうと決意したと伝えられる。千葉県立幕張西高等学校音楽科、
桐朋学園大学音楽学部作曲科卒業。作曲を三善晃、南聡、中川俊郎、ピアノを
森安耀子に師事。 転機は、1996年ごろ、佐村河内守と出会ったことであった。
当時新垣の妻千恵子は結核に冒され、新垣の薄給では薬餌代が賄えなかった。
そのため、本業の音楽活動の傍ら肉体労働に勤しむようになる。その現場で出会ったのが
佐村河内であった。その時の出会いから佐村河内守のゴーストライターを18年間務めた。
現在、桐朋学園大学非常勤講師。