押井守「"風立ちぬ"は老人の睦言。見ているこちらが恥ずかしい」

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 ※以下、初見の印象を大事にされる方は読まないことをお奨めします。

 宮さん、ついに色気づきました。
 おそらく日本のアニメ史上、もっともキスシーンの多い作品でしょう。
 新婚初夜のドキドキまで描かれています。
 カプロニもユンカースも、九試単戦も吹っ飛びます。
 零戦の映画だと思って見に行くと、古典的な恋愛映画でビックリ。
 いつものジブリ映画だと思って子供連れで出かけたお母さんたちは、子どもたちの目を塞ぐべきかどうかで、悩むことになるでしょう。
 まあ、そのかわりにタップリ泣けるかもしれませんが。
 いったい何があったのでしょう。

 ド近眼で、ヘヴィスモーカーで、仕事から離れられない堀越二郎青年はもちろん、宮崎駿その人です。
婚約者の自宅の庭から忍び込んだり、駆け落ち同然で上司の家へ逃げ込んで結婚したりの大活躍です。
斯くありたかったであろう青春の日々を臆面もなく描いていて、見ているこちらが赤面しそうです。
 だから「青年」はキケンなのです。
 いつもの「少年」というカムフラージュも「豚の仮面」もないのですから。
 もはや開き直ったとしか、考えられません。
 誤解のないように言っておきますが、これは大変に結構なことです。
「子供たちのために作る」などという大義名分・建前を離れ、自らの欲望の赴くまま、リピドーに導かれて描くことは映画の基本です。
 映画とはつまり、欲望の形式なのですから。
 ただ問題なのは、その欲望の行き着く先が何処なのか――それだけです。
 試写に同行した某VFXスーパーバイザーのS君(私の相棒)は、これはいつもの「老人の繰言」でなく
「老人の睦言」だと喝破しましたが、僕もその意見に全然同意いたします。
 青年の姿を借りて演じられた、これは老人のエロスの世界です。
 当然の如く「死の影」も見え隠れしています。


押井守の「世界の半分を怒らせる」。第20号より抜粋