【赤木智弘の眼光紙背】親子関係が濃密すぎるのかも
児童虐待による摘発件数が、2002年度以降で最大となる384件に登っていたことが、警察庁のまとめで分かったという。(*1)
こういう数字を見るときの注意として、「増えた、減った」というふうに、相対的に語ることをできるだけ避けることが必要だ。
児童虐待による摘発が増えたとしても、それは警察が摘発に本腰を入れたり、周囲の人が虐待を気にして通報するようなことが増えた、
またかつてであれば「しつけ」や「愛のムチ」として社会に受け入れられていたことが、通用しなくなているということもあるだろう。
こうした数字が増える場合は「これまでも行われてきたことが明るみに出るようになった」と考えるべきであり、
この数字をもって「虐待が増えた!」「最近の親は、子供に対する愛情をなくした」などと主張することはできない。
また、性的被害が急増しているということだが、子供の性的被害は表沙汰にならない暗数が多い分野である。
家の中のことだから発覚しにくいのはもちろん、発覚することによって家族がバラバラになることを心配したり、
性的被害を受けたことが世間に知れることを恐れて、被害児童が自ら黙してしまうケースも多い。
これは児童の性的被害に限った話ではないが、性的被害はどうしても好奇の目で視られがちな犯罪である。
世間の側がそうした陰気な好奇心を批判し、被害を訴えやすい雰囲気を作ることが必要だ。
もちろん、そうなれば更に性的被害による摘発は増え、実父や実母による子供に対する性的虐待の実態が明らかになる。
日本で家族の安全安心が報じられるときに、必ずと言っていいほど「子供が見知らぬ誰かに狙われている」という文脈で報じられる。
そして父親や母親は子供を守りたいと思っているということが、ごく当然の認識として印象づけられる。
しかしそれは「サングラスをしている人は悪人」というレベルの思い込みに過ぎない。
現実は、子供と最も接し、子供に対して一方的な権力を持つ、実父や実母が子供を傷つけている。
つづき
http://blogos.com/article/32163/ 親子関係も人間関係の1つである以上、接する時間が長ければ長いほど、人間関係がこじれる可能性は高い。
ならば親子という濃密な関係性が、子供の虐待に至るのは、一種の必然なのかもしれない。
そこで私は考えるのだが、「虐待を防止する」よりも、虐待などがあったときに、親ではない無関係の人が、
子供との接点を持って相談に乗ったり、また親の側も子供と一時的に離れ、関係性を冷却することが必要なのかもしれない。
こうした児童虐待の増加という現象を見て「親子の絆が危機に」といったコメントがテレビにあふれ、
親子の人間関係をもっと濃密にするべきだという世論が盛り上がるのだろうが、そのことがむしろ子供を追い詰める可能性を考慮するべきではないだろうか。
*1:児童虐待が過去最悪=39人死亡、性的被害急増−警察庁(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012021600240